2009年7月6日月曜日

事故後

その後はというと,自宅近くの二輪ショップに自転車を修理に出して見積もりをしてもらったところ,
「結構な時間とお金がかかる」
と言われ,
「どうせ自分のお金じゃないんだから」
とOKしたのはいいんだけど,しばらくして携帯電話に着信,
「リム(ホイール),フォーク(車輪受け)の交換となると,注文待ちになって結構な期間と新品同様の修理費になりそう」
と言われたもんで,結局
「捻って叩いて元に戻す」
という技術と経験と力に頼った修理方法を採用し,
「1万円で」
「OK」
ということになり,修理の出来栄えよりも再び使用できるまでの期間を優先し,今日の朝さっそく受け取って
「なんか左方向に引っ張られてる気がする・・・」
という違和感に少々の不満を抱きつつも,
「でも自転車が使えないよかマシか」
と自分を納得させ,多少の操作性の低下には目をつむるとしましょう.


昨日は自転車が使えない上にちょうど食べる物もなく...,
おかけで普段は――というか,特にここ4~5年,目を向けることがなかった自宅周辺を歩き回るはめになり,
自転車の速度では気がつかなかった路地裏の様子,一軒一軒のシルエット,生活臭,人の会話を改めて感じさせられました.

二輪ショップを行き来する途中に葬儀屋があるんですが,あわただしく従業員が働いておりまして,
「そう言えば一昨日,町内放送で1歳の子が亡くなったっていってたな」

私も一歩間違っていたら,この人たちのお世話になっていたやもしれんのですね.
一ついえることは,瞬発系トレーニングは重要だということです.

人が死ぬことによって,こんなにも活気良く笑顔で仕事ができる人がいる.
人間とは他人の不幸によって幸福を得ているものなのでしょうか.

いえ,人の死というは不幸なのではなく,あらかじめ生の一部としてプログラムされた必然的な帰結でしかないわけですから,幸・不幸の概念で捉えること自体が矛盾しているのです.


サドルから降りて ぶらぶらと歩くのも,たまにはいいもんですね.