2009年7月19日日曜日

腐ったみかん


ゲリラ豪雨とでも言うのでしょうか?
今,外は大雨です.

自宅の金属製のドアに横殴りの雨が叩き付けてきて,バリバリと耳障りな音を立てています.

「明日の朝にかけて大雨」 との予報ですが,自転車通勤の私としては困った限りです.
せめて小雨,労せず通勤できる事を祈っています.


今日は今村克彦 著『くたばれ学校』というのを拝読.
現場で24年間 教師をやっていただけに一つ一つの言葉に重さがあります.


「いじめブーム」はもう終わりました!?
オレは子どもを信じたい—出席停止でいったい何が解決すると言うのか

こんな感じで第一章から現場の教師ならではの調子で始まります.
氏の考えはかなり私の教育観と類似しており, 「そうだそうだ」 と相づちを打ちながら一気に読み終えてしまいました.

詰め込み教育しかり,学級崩壊しかり,いじめ・自殺しかり,学校裏サイトしかり...
日本の将来を左右する子どもの教育問題のクセして,報道の仕方がまるで “ブーム” を取り上げるような扱い.その上,記者だかディレクターだか幹部だか知りませんが,報道する視点が彼らの主観性に満ち,問題を深く掘り下げないまま垂れ流す有様.
日本のマスメディアの腐敗が顕著に感じられる事象です.

“問題を起こす生徒はその他の生徒に害を及ぼす前に隔離”
学校としても責任を問われずに済む適切な方法ですが,これが『教育』と言えるかどうか.
いわゆる 「腐ったみかん理論 ,または 「割れ窓 broken window 理論」 というのでしょうが,これを無批判に教育現場へ入れるのはかなり危険だと思います.

大火事になる前にボヤの段階で消しておく.という意味なら教育マネジメント(?)や技術論として結構なことですが,問題はその “ボヤ(問題を起こしている生徒)” というのが学校にとってはボヤでも,当人にとっては大火事であるということ.
大火事になっている当人を切り離して消火活動をせずに延焼を防ぐ,という判断は教育活動としては倫理に欠けるということです.

以外と多いんですよ,「他の子どもがちゃんと勉強できる環境をつくるためには停学・退学これ当たり前では?」 というの.
私が通っていた高校の生徒でも,そんなふうに考える者は少なからずおりました.かくゆう私も今では客観視して話せますけど,当事者の時代はちょっとはその考えに揺らいでいた時期もあります.

勉強のためだけに行ってるんじゃないだろ学校は.
そりゃ学校が提供するコンテンツとして「学力」というのがあるのでしょうけど,それだけじゃないはず.
理解できない言動をする生徒と共に,学校という枠組みの中での生活を経験する.それこそが数学や国語,保健体育では身に付かない「学力」のひとつではないでしょうか.

「学力低下が著しい.しっかりと勉強できる環境を整えることが急務」と叫ぶ人(右巻き保守派に多い気がする)ほど「最近の子どもは人間性やモラルが低下している」 と矛盾したことを言い出すものです.
彼らの頭には “かくあるべき日本の子供” というのがあるのでしょうけど,あるべき日本の子ども像は各時代別にあるべきで,固定されたモラルや人間性が存在するわけではない気がします.

結局,相手を理解できなかったり,解決できずに葛藤があったとしても,次につながる可能性を信じて送り出す段階までもっていくことが教育の目標であると思うわけです.