2010年2月28日日曜日

明日は卒業論文発表会

てっきりブログの更新を忘れていました.
ここ数日間,いろいろありましたよ.

今日は昨日のチリ大地震の影響を受け,地元高知に津波が押し寄せました.
1.20mを記録しています.結構大きいですね.
当初は3m級の津波が来る可能性があると警報が出ていましたが,どうやら落ち着いたようです.

先日まで,ずっと長野県・菅平でスキーをしておりまして.
来年度から赴任することになっている大学のスキー実習に今年度から参加.
どんな雰囲気の大学なのか勉強になりました.
特に,学生の雰囲気をつかむことは重要なので行ってよかったです.

ただ,右足の親指をスキー・ブーツで潰してしまい爪が真っ黒に.感覚も薄れています.
これだからウインタースポーツは嫌いです.
そんな私は冬季五輪はあまり見ません.
話を合わせるために情報を入れるくらいでしょうか.

実習に参加した恩恵その二.
スキーがそれなりにうまくなったこと.
学生を前に恥ずかしい滑りはできませんから,緊張感のある立ち居振る舞いをしていたら雪上にも慣れてきました.

ここ8年ほどスキーをすることもありませんでした.
8年前に一度滑ったことがあるくらいでしたが,以外と体は覚えているものですね.


明日はいよいよ卒業論文発表会.
例年と同様,学生は前日まで根詰めてがんばっています.
一人のゼミ生はギリギリまでドタバタしましたが,なんとか明日の発表までこぎつけました.
あとは発表するだけ.
うまくできればいいのですが...

2010年2月18日木曜日

応用科学とHacks


「ハッキング Hacking」 という言葉があります.
日本では “コンピューターのセキュリティを破って不正に侵入する行為” を意味することが多いようです.
しかし,ハッキングの本来の意味は,“コンピューターを必要に応じてプログラミングする行為” というものであり,ハードとソフトを熟知した者が行なうことを指します.
「ハッカー Hackers」というのは優れたエンジニアへの敬称です.

いつのまにやら日本ではハッキングやハッカーというのが悪意を持った意味へと変化しました.
日本で言うハッキング,つまり “悪意を持ったハッキング行為” を意味する言葉は,「クラッキング Cracking」と言い,クラッキング行為をする者を「クラッカー Crackers」と呼ぶのが正しい使い方です.英語圏では「ブラック・ハット・ハッカー Black hat hackers」とも呼ばれています.

名称はどうであれ,高度な技術と知識を利用してコンピューターを自在に利用するということには変わりありません.
こうした高度な技術と知識を利用した行為を紹介する上で,この 「ハック Hacks」 というコンピューター,エンジニア用語を使った比喩も多いようです.

さまざまな出版社を通して出ているハックシリーズもその一つで,手元にあるものには夏目大 訳『Mind Hacks』,同 訳『Mind パフォーマンス Hacks』,鴨澤眞夫 監訳『Statistics Hacks』などです.

Mind Hacksシリーズでは頭の使い方に主眼を置いており,どうすれば学習能力が高まるか?忘れ物を少なくするためにはどうすればいいか?といった日常のニーズに応える形で,これに関連する実験研究を基にした内容を紹介しています.

Statistics Hacksは,統計学上の裏技や解釈の仕方を紹介したものです.これまでにもいくつか紹介してきた「数字上ではこう言われているが,現実的にはどうなのか?」といった観点のもの.

特にMind Hacksシリーズは結構おもしろくて,この中に紹介されているものを私自身が実践していたり, 卒業論文のアイデアとしてゼミ生に実験させていたりしています.
載っている内容は全て参考文献がついており,原著にあたることができます.
その参考文献にはNewtonやScienceといった一流雑誌も多く,内容は奇抜なものが多いですが,適当なこと書いているトンデモ科学本とは一線を画しています.

一級の雑誌に掲載される研究でも,こんなにシンプルでユーモラスなものがあるのかと関心させられますし,同時に科学研究はアイデア勝負なのだな,とも考えさせられました.

スポーツ指導や運動指導にも言えることだと思うんです.
ようはスポーツや身体運動をハッキングすることを目指しているわけですから.
スポーツ科学は応用科学の領域です.どちらかというと“工学(エンジニアリング Engineering)” と同じような観点のはずなのです.

練習やトレーニングというのは人に対するプログラミング作業に相当します.
どのようなプログラムを入力すれば効率よく競技力が上がるか?体質改善できるか?というところに最終目標があります.
よくよく考えてみれば,練習プログラムとかトレーニングプログラムなんて表現もしますよね.

結局最終的にはどうなったのか?何を目指すのか?が大事なわけでして.
これについては,先日紹介した竹内薫 著『99.9%は仮説』にも大切な提言があります.
“飛行機が飛ぶ仕組みは科学では説明できない”
これは本当なのだそうで,まだ物理学の研究誌などで現在進行形で議論されている内容なのだとか.
でも,飛行機は実際に空を飛んでいるし,それによって大きな経済活動を起こしていることは疑いようのない人類の事実です.

これは物理学的にどーだこーだという話を抜きにして,「飛ぶんだからしょうがない」と片付けて飛行機開発と航空機会社を営むほかありません.

スポーツ科学も同じことです.
細かいメカニズム研究や現象を説明するための調査も必要かもしれませんが,そんなことよりなにより実際に競技力が高まる,身体に変化をもたらすという “「現象」を生み出す研究” が一線に必要なのだと思うのです.

「XXをすれば,YYをした場合よりもZZである」
というような研究報告がたくさん出るべきです.

そう考えれば考えるほど,スポーツを科学するということは,一つの生命体を構成する要素をあらゆる角度で考察できる視野の広さが必要なのだと痛感します.
工学を専門にしている者が身内(兄弟)にいるのですが,やはり彼らも広い視野を持っていなければ一つのマシンを設計することはできませんから.

質的研究


過日の修士論文発表会で,「質的研究」に挑戦した学生がいました.
質的研究というのは一般的に行われている数値データに基づく分析を行う「量的研究」の手法ではなく,文章や記号を分析する研究手法です.

これをいい機会にと,1年くらい前に買ったっきり全く目を通していなかった戈木クレイグヒル滋子 著『質的研究方法ゼミナール』のページを開きました.
まぁ.実際にやってみないとわかりませんね,こりゃ.未知の領域です.

数的データでは扱えないような対象(少数のインタビュー,アンケート調査)などを分析したい場合には役に立つ分析手段だとは思います.

例えば,トップアスリートが取り組んでいる練習方法と,その練習で気をつけている留意点や意識している点に関する分析.また,希少な体験をしている人の分析といったものは数値に置き換えることができないし,置き換えたとしても平均値化,代表値化,グラフへのプロットができないという欠点があります.

これらについて,質的研究ではグラウンデッドセオリーアプローチといった分析方法を使って,質的データを分析していきます.
上に挙げた戈木氏の著書ではこのグラウンデッドセオリーアプローチを紹介しています.
グラウンデッドセオリーアプローチというのは,質的研究ではポピュラーの分析方法のようで,得られたデータのかたちをできるだけ変えないように解釈を進める方法だそうです.

川喜田二郎 著『発想法』で世間に紹介された “KJ法” による分析が多用されています.
KJ法というのは,新しいアイデアを生むためのミーティングなどで利用される「ブレインストーミング」での意見の整理方法のことです.
出た意見をメモしてまとめ,それぞれをカテゴライズしてラベリングするという手順を踏みます.
グラウンデッドセオリーアプローチでは,このKJ法と同様の整理・分析手段が用いられているようです.

上記の用語で意味不明な部分がありましたら,ググってください.

分析方法が完成されている量的データの研究とは違い,質的研究の分析はまだまだ発展途上の印象.
分析する人が違えば結果も変わりやすいという特徴(欠点)もありますし,難しい研究方法であることには違いありません.

ただ,看護や介護,福祉といった分野では非常に注目されている研究方法のようで,より人間の実感に近い考察ができるというメリットもあるようです.
数的データによる研究は実感とズレるという特徴がありますからね.
これはスポーツや体育といった分野にも同じことが言えるのではないでしょうか.

今後はその分野に足をつっこむことになりますから,私としても注目の研究方法です.
     

2010年2月16日火曜日

ひっそりと登場


日本の自衛隊の次期主力戦車(TK-X)が,先日マスコミの前に公表されました.
左の写真がその姿です.
だいぶ前から私としても注目していたのですが,いよいよその全貌が明らかになってきました.

2010年4月から配備予定なのだそうです.
ということは,10式戦車という名称になる予定でしょうか.

すでにWikipediaのEnglish版では「Type-10」として記載されていますね.


ところでこの新型戦車,開発目標が非常に明確な戦車として注目を集めていました.
以前,戦艦大和の開発・建造に関する記事を書きましたし,それ以外にも「目的を明確に」という趣旨のブログを書いていましたので,それと関連が強いですね.

で,その開発目標ですが,一番はなんと言っても「軽量であること」
現在の主力戦車である90式戦車は,世界トップレベルの火器管制システムと防御力を持っていましたが,いかんせん車体重量が50tと,重いことがネックでした.
でも,別に他国の主力戦車と比べて特別重いわけではないのです(米国のM-1戦車は63t,仏のルクレールは57t,イスラエルのメルカバは65t).むしろ軽い方に入ります.

ようは,日本の土地柄に合わなかったわけです.
もともと90式戦車は今の総理の地元である北海道を中心とする北方防衛を目的に開発していることもあり,山有り谷有りの日本の地形にはフィットしないのです.
日本の道路は戦車を通すために造られているわけではないので,50tの特殊車両が通ろうもんなら,崩れてしまう場所や橋があるのだそうで.
北海道以外の場所を防衛するには取り回しが利かない戦車なのです.

そこで防衛省は,次期主力戦車は,
「軽量で機動性が高く,それでいて高火力で防御力が高い.ついでに現代戦(対テロ,市街地戦)に対応できる柔軟性を有し,戦術データリンクを搭載して部隊統率に長ける」
という目標を掲げ,しかも自国開発するというプロジェクトを発足したのでした.

かなり野心的,というかめちゃくちゃハードルを上げてることがうかがえます.
これができたら間違いなく世界最強の戦車部隊が出来てしまいます.

で,出来ちゃったわけです.
開発チームの方々は大変だったでしょう.お疲れさま.

注目の重量は44t.現代戦車としてはべらぼうに軽いものです.
主砲は日本製の新型120mm滑腔砲を使用しており,管制システムを含めると世界最強です.
なんといっても日本の戦車の特徴である,“走りながら主砲が撃てる” という,世界が頭を抱える摩訶不思議な技術.これも90式戦車から引き継いでいます.

ちなみに,最近の流行を取り入れ,火器管制システムはタッチパネルになったようです.
これで戦術データリンクを使ってiPhoneみたいにゲームもできますね.

真面目な話をすると,軽量化の恩恵は防御力にもあります.
軽くなったので機動性が高まり,アジリティ能力が高いやつになりました.
それに,車体を低くコンパクトにしたことで,被弾の確率を小さくできます.
写真でも見てわかるように,ステルス化,対IR(赤外線探知)化が施されています.

どうやら,かなりゴキゲンな戦車が完成したようです.
しめてお値段10億円.90式戦車の発売当初のお値段(11億円)よりも安くなっています.
安くあげることもプロジェクトの一環だったようですし,うまいこといったようです.

2010年2月15日月曜日

デッサン


この一週間,ずっとデッサンしています.

仕事もそんなに忙しくない時期なので,「ま,いっか」とばかりに暇を見つけてはメモ用紙を相手に人物画を描いております.

実は半年前くらいに,視覚デザイン研究所 編『デッサン7日間』と,J・シェパード 著『やさしい美術解剖図』という本も買っていまして,これを機会にペラペラとめくってみました.

先日,自宅に来て酒飲んでいった人も,「なんでこんな本があんの?」と不思議がっていました.
ん〜,なんででしょう.
でもまぁ,今現在役にたっているのですからいいじゃないですか.

これらデザインや美術系の本,いざって時に以外と役に立ちますよ.
職場にはもっとバラエティ豊かなものがあります.
こうした本は何かと手近に置いておきたいですね.アイデアをいろいろと拾える本です.


せっかく買ったんですから,デッサン技術を高めるエッセンスを獲得しなければいけません.

ただ,この一週間デッサンをやってみて思ったのは,上手くなるためには「ひたすら書くべし」というところでしょうか.
実際にエンピツを握り,紙に線を走らせる経験をしてみなければ,これらの本を読んでもチンプンカンプンです.

ここらへんはスポーツと一緒です.
指導書を読んでも絶対にうまくなりません.実際にやってみないと.


ではここで,私流のデッサンのコツをいくつか挙げましょう.
まずは,線の走らせ方.
スーッと一気に書いてはいけません.細かく細かく “半返し縫い” のごとく描くのが基本です.
ま,ここらへんは基本中の基本です.

次に,ぼかし塗り.
エンピツの先や淵などの使い分けと筆圧を自在に操れるようになったら作業時間が早くなります.うまく操れないうちは,書いては消すの繰り返しが多くなってしまいます.
慣れない間は,“ぼかす” と言うとエンピツを斜めに倒して芯の淵ばかりを使ってしまいますが,ここは一つ,尖った先を使うのもいいものですよ.以外な質感や立体感を生む技です.

あと,消しゴム.
「消しゴムは修正のために使うものではない」ということが分かれば一気に道が開けます.
“消しゴムを使って描く” という感覚が身に付けば,対象の質感を出す上で強い武器になるでしょう.
私の中では,むしろ,エンピツで下書きして消しゴムで描く,という感覚です.
何種類かの消しゴムを使い分けて書いています.

私の場合,本格的に道具を揃えてデッサンをしようというのではなく,余ったメモ用紙やコピー紙と,そこらへんに転がっているエンピツと消しゴムでなんとかする,というものですので,デッサンとしての基本テクニックとはちょっと違うかもしれません.
画用紙や美術用具を使ったらまた変わってくるんでしょうね.


もうそろそろデッサンにも飽きてきた頃ですので,一段落したらまた仕事に戻りたいと思います.

2010年2月13日土曜日

戦争の目的


何事も“目的意識”を持つことが重要であること.
これをここ数回(兵器開発,組織,教育)に渡ってメッセージの主題としてきました.
もう一つこれについて取り上げておきましょう.

“戦争の目的” について明快な説明をしたのが,クラウゼヴィッツ 著『戦争論』です.
最近では,小林よしのり 著『戦争論』というのが有名だったりしますけど,古典として有名なのがこっちでして,戦争の本質に迫った価値ある一冊です.

ややもすると戦争というのは,「権力者の道楽」とか「虐殺好きのカタルシスを満足させる行為」とか「なんかわかんないけどヒドい行為」などと単細胞的に片付けられてしまいます.

まじめに論理的に戦争の目的を考えないと,国際政治のやり取りが全く見えてきません.
では,クラウゼヴィッツは戦争の目的をどのように捉えているのかというと,
“我が意を強要させること” が戦争の目的だとしています.

つまり,こちらの交渉条件をどうしても呑んでほしい場合に執られる,一種の交渉手段であると述べています.
これが戦争論で述べられたクラウゼヴィッツの有名な一節である,
“戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない.政治的意図が常に目的であり,戦争はその手段に過ぎないからである.そして手段が目的なしにはとうてい考えられ得ない”
というものです.

また,クラウゼヴィッツはこうも言います.
“人道主義者達は「できることなら流血を伴わない戦争が良い戦争である」と考えるが,これは謬見である.戦争の粗野な要素を嫌悪することは,戦争の本性を無視しようとする無益で間違った考えである”

どういうことかというと,戦争の本性が「ヒドいことをする」ということに価値があるからです.
「戦争になったらヒドいことになる,だから条件を呑んでやろう」と考えさせたり,「ヒドいことになるけど,それだけの懸案なのだと思わせてやろう」と考えさせることこそが戦争の持つパワーなのです.
ヒドいことにならない戦争は戦争じゃありません.
虚しく,悲惨で,掛替えの無い命のやり取りがあるからこそ価値のあるものなのです.

右翼的な人たちは戦争を美化する傾向にありますが,私はこれも違うんじゃないかと考えています.
戦争の本性からすれば,正しい戦争,勇ましく正義のある戦争などないのです.
戦争が起きれば,どちらにも正義があり,どちらにも正しい価値観があります.

無情な惨事を起こすことで,これを早く解消させたいがために交渉が進展する.これが戦争の利用方法.
論議以外に手段がなければ,いつまで経っても議論が平行線になるでしょう.これは当たり前ですよね,お互い自分にとって好条件で手を打ちたいのですから.

できれば実際には戦争せずに外交できるのが理想ですが,交渉の過程で戦争をチラつかせることが,交渉をスムーズにさせるエッセンスです.
戦争をしてまで主張を通そうとするのは結構な覚悟がいりますから,どっかで落としどころが見つかるもんです.
その落としどころというのは,軍事力が強い側にとって有利になるようになっています.
“武力の無い外交など無力だ” と言われるのはこのためです.

クラウゼヴィッツの『戦争論』では戦略や兵の起用方法についても触れられていますが,そこらへんはあまり面白くありません.
序盤の「戦争とは何か」という命題について取り上げている部分がコアだと思います.

2010年2月11日木曜日

学力低下


神永正博 著『学力低下は錯覚である』 という,学力低下論についての明快で納得できる本に出会いました.

ちょうど1年前,このブログでも,
「大学生の学力が低下するのは当たり前ではないか?」
という趣旨の記事を書いたことがあります.

神永氏もこの著書の中で述べているように,少子化,または大学の定員数が増えれば,大学生の学力が下がったように感じるのは当然のことだということです.
意見を同じくする人がいたことに勇気が湧いてきました.

この「学力低下錯覚説」の内約はというと,そもそも日本の学力は下がっているわけではないというところから始まります.
実際,OECD(経済協力開発機構)56カ国による学力調査(PISA)においても,日本はおおむね上位に位置しており,まだ特に気にするほどの差があるとも感じません.
“日本は前回のPISAの結果よりも順位や得点が低下している” との指摘もありますが,出題方法の変更や調査参加国数の増加など,縦断的な比較ができない代物ですので意味のない議論です.

学力低下が「錯覚」というのは,日本で高校や大学に進学する人の数が昔に比べ圧倒的に増えたことが原因です.
以前は高校,大学に進学する人というのは勉強を頑張った一部の人であり,定員数も今よりずっと少なかったので,大学生の学力が高かったのは当たり前なのです.
「大学生の・・・」というところがミソで,多くの学力低下論争では大学生や高校生の学力が低下していることが争点になります.

一部のエリートや頑張り屋さんだけが進学するわけではなくなった現在,おまけに少子化,ましてや大学の数や定員数も昔よりずっと増えているという “大学全入時代” になったのです.
こうした流れは,「大学生=エリート」ではなく,「大学生=日本の平均」になったといっても過言ではないのかもしれません.

だから,「大学生の学力が低下している」というのは嘘ではありませんが,そこから「日本の子どもの学力が低下している」という結論は導けません.
そもそも,何一つとして学力が低下していることを証明するデータはないのですから,適当な印象操作は避けてまじめに議論するべきだと思います.

ならどうすればいいかって?
そんなの簡単です.社会人に学力調査を行えばいいのですよ.
各年代ごとに2,000人くらいを用意して,20代〜60代の計5群,総計10,000人規模の学力調査を行うのです.
そうすれば,どの年代が学力が最も高いかわかります.

え?歳とった方が不利だって?
そんな頭の固いバカな考えはやめてください.
そもそも学校教育において獲得しようとしている学力というのは,優秀な国民,幸福な国民をつくることに意義があるのですから.
人生や社会人生活においても活かされている程度の学力でなければ意味がありません.
どの程度の学力が日本に必要なのかを知る上で,非常に有益な調査になるでしょう.

フザケた話はここまでにしても,こういった考え方は重要だと思うのです.
つまり,どういった社会人を目指すのか?という目的を明確にした教育でなければロスが多くなってしまいます.
幼少期にやっておかなければならない学習,大学から勉強すればいい学習など,時期に応じた学習を計画するべきです.

最近の脳・学習研究においても,幼少期では単純暗記力(脈略なしに記憶する力)が優れているのに対し,高校生くらいからは単純暗記力が低下する代わりに関連記憶力(物事を論理立てて記憶する力)が向上することが知られています.この関連記憶力は歳をとっても衰えることは少なく,30代でピークを迎えるとされています(歳をとったら記憶力が低下するというのは迷信なんだそうです).

教育は国家戦略のひとつでもありますから,どういう国づくりをするのか,という視点で教育する必要もあります.
コンピューターやインターネット,次世代技術の開発など,時代が変わっているのだし,変えてゆかねばならないのですから,これに対応するためのリテラシーを身につけることは重要です.

例えば,大学に来てからパソコンを勉強しているようでは遅い気がします.
世間には自動車を設計する能力がなくとも運転できる人がたくさんいるのと一緒で,基礎よりもまずは技能を身につけることが先決なものは多いはずです.
体育・スポーツはその良い例,スポーツ科学は,体を動かすことやスポーツに興味を持ってから後で勉強すればいいのですから.

理想的な教育としてフィンランドの例がよく出ますが,フィンランドの小学校はまさしく「ゆとり教育」なのです.
しかし一方,大学に進むためには “進学可能水準” までの点数をとることが条件であり,日本のように競争による相対評価ではありません.ですから,日本のように定員に応じて倍率が変わったり場合によっては絶対入れたりするようなものではないのです.

神永氏は,フィンランドを見習って少人数クラス制度や教員を増やして手厚い対処をすることは得策ではないと述べます.
もし,今のまま教員を増やすと,大学生の学力が低下したことと同様の現象が教員にも起こることになるのです.
すなわち,教員採用枠を増やすことで質の低い教員まで合格することになります.教員は増えたが質が低下したということになりかねません.

それに,田舎の学校では過疎による影響で自然に少人数クラス制になってしまっています.これによって田舎の学力が向上したということは聞きませんし.


関連記事もどうぞ
勉強と卒業
PIAAC:国際成人力調査
    

2010年2月8日月曜日

組織運営

「組織運営について良い本はないか」,と「男気」のある部屋から訪ねてきた学生がおりました.
関わっているスポーツチームで利用したいのだそうです.

職場の本棚には無かったので,自宅に帰ってきて記憶をたどりながら探してみました.
いくつか見つけたので,それぞれのレビューをしたいと思います.


まずはスポーツ現場に関連のあるものとして,清宮克幸 著『最強のコーチング』
著者はあの早稲田大学ラグビー部の元監督で,常勝軍団を作り上げた名コーチとして知られています.
何気なく手に取り適当に読もうと思っていたのですが,以外と面白かったことを覚えています.
本当に著者自身が書いたのかという疑念はさておき,学生(男子)選手を率いるためのノウハウがいろいろと詰まっていて有益です.
この本から受けた強いメッセージは「目的を明確にするための方法を考える」ということ.
前回の記事ともつながりますが,勝ち方を描かなければ現場は混乱するということでしょう.

次は石田淳 著『短期間で組織が変わる』.行動科学を基にしたマネジメント技術を紹介しています.
アマゾンのレビューが高かったから買ったことを覚えています.が,それほど印象に残っていないのが正直なところです.
というのも,たしかにきれいにまとまっていますが,内容はいたって普通.その他の組織運営論の本に書かれていることを噛み砕いたようなものです.
逆に言えば,初めて組織運営論の本を読むならこれから読んだほうが楽なのかもしれません.
他の本を数冊読むくらいなら,これを1冊読めばよい,というようなものでしょう.

スポーツから離れますが,ヤン・カールソン 著『真実の瞬間』
スカンジナビア航空(SAS)を立て直した名CEOとして,その道では結構有名な方です.
従業員(スタッフ)が心がけなければならないのは何か.トラブルや要望にスムーズに対応するためのノウハウを,どのように従業員に浸透させたのかを記したドキュメンタリーです.
ここでもやっぱり「目標設定」が重要なキーワードになっています.

似たようなものに,トム・コネラン 著『ディズニー7つの法則』
これは知る人ぞ知る名著です.
組織運営論,および顧客主義に関する知見をまとめた非常に有名な本で,客商売・対人商売をする人はぜひ読んでみてください.
アミューズメントパークという赤字を出しやすい経営において,ディズニーランドがなぜトップを走り続けることができるのか? 従業員がやるべき仕事とは何か?そのノウハウが明らかにされています.
私もこれを読んで自分の中の “何か” が変わったような気がしています.

他にも,組織運営とは直接関係ないけどスポーツチームの組織運営に有益な示唆を含むものがいくつかあります.

三宅久幸 著『政権力』
金に汚く性格も悪いが,それでも日本を世界レベルの国に押し上げた政治家は田中角栄だと言い切ります.本当に必要な指導者像とは何か? 指導者がやらねばならないことは何か? 歯に衣着せぬご意見が聞けます.

広瀬一郎 著『スポーツマンシップを考える』
相手と審判への尊重を忘れたスポーツは,もはやスポーツではない.理想論などではなく,“本当に強くなるため” に必要なことはスポーツの本質を知ることなのだそうです.

中谷彰宏 著『気がきく人になる心理テスト』,同著『超管理職』
どちらも同じような調子の内容です.難しく考えずにサラサラと読めるところが良いですが,中身は結構濃厚です.これも対人商売に必要なスキルが確認できます.


いろいろと挙げましたが,結局最後は自分自身が考えをまとめてアウトプットすることになるわけで,画一的な内容が当てはまるようなものではありません.
「組織運営にとって良い考え方はないか」,という視点でいろいろな意見や記述に耳と目を傾けることが大切なのでしょう.
そうした中で,さまざまなエッセンスをすくい取ることができるのかもしれません.

2010年2月6日土曜日

男気と大和とスポーツ戦略


「男気」
という文字をA4コピー紙にデカデカと印字して研究室のドアに掲げているアホな大学院生達がおります.
「ぜひ,このことをテーマにブログを・・」と言っていました.
ということで,イヤイヤながら記事にしたいと思います.

「男気」の意味は,
“弱い者が苦しんでいるのを見逃せない気性(Yahoo辞書より)”
“自分の損得を顧みず弱い者のために力を貸す気性(goo辞書)“
なのだそうです.
その他にも意味がありそうですが,いずれにしても,
“困っている人を見ると放っておけない人”
のことをいうのでしょう.

ということで男気についてはこれで終わり.
というわけにもいかないので,これに関連して話を膨らませていこうと思います.

辺見じゅん 原作『男たちの大和/YAMATO』という映画がありました(「男」というつながりだけです).
個人的には面白くない作品でしたけど.
日本の戦争映画は,まだ作り手の遠慮や世論配慮が見え過ぎてスッキリしないですね.

「戦艦大和に関わる男達の生き様を描いた」とありますが,結局印象に残らなかったというのが本音.
原作を読んでいないので,どういう作品なのかは簡単に判断できませんけど.
公開当初は,帝国海軍・戦争美化の映画というレッテルを貼られ上映反対の運動も受けていますが,内容はいたってそういうわけでもなく,上映反対派が映画自体を見もせずパブロフの犬のように反応しただけのようです.

むしろ私としては,素直に大和を取り巻く背景と乗組員の生き様を描けばいいものを,無理矢理に反戦の意図を含めるもんだから気色悪い作品になったという印象です.


で,この戦艦大和ですが,有名なんだけど実際のところどんな船だったのか知らない人が多いのではないでしょうか.

「戦艦大和」
大和型戦艦の1番艦(2番艦に「武蔵」がある).人類史上最大の戦艦であり,弾薬満載時の排水量は71,000tを超えます
※この排水量という表現をよく聞くと思いますが,これは船の大きさを表す数値のことで,船を水に浮かべた際に船体によって押しのけられる水の量のことです.つまり,ギリギリまでお湯を張ったお風呂へ入った時に,ザブーンと流れ出るお湯は入った人の排水量(体格)です.ちなみに,タイタニック号は52,000t,現存の軍艦として最大である空母ニミッツは80,000tです.

1940年8月に進水(船を海に初めて浮かすこと)し,翌1941年12月に就役(軍務に就かせること)します.
そう,日本が真珠湾攻撃を行なった時に就役している戦艦です.

大和の建造は極秘裏に進められ,当時は就役後もその存在を知らない人が多数いたそうです.
ちなみに大戦時に国民から人気があった戦艦は大和ではなく「長門」という艦.大和の存在が知られたのは終戦してからなのです.

大和の特徴はその圧倒的な攻撃力と防御力.
主砲(その艦の最大の砲)として46cm砲(大砲の直径が46cmという意)が搭載されており,これまた人類史上最大の艦載砲です.

その最大射程距離は42,000m.
・・・,そうです,42kmです.冗談ではありません.

私もビックリしたのですが,艦載砲の射程距離というのは以外と長く,当時の主力戦艦の射程距離は30km前後です.
まぁ,大和の射程距離はそれに輪をかけて長大だったのですが,逆にこのことが大和の能力をフルに活かせなかった要因の一つでもあるようでして.

というのも,着弾すれば,いかなる船であろうと一撃で撃沈させる火力を誇る46cm砲.おまけにこちらの最大射程よりも長大な艦を前に正面から海戦を挑もうとする戦艦などあるわけもなく,皆,大和を避けて作戦行動をとることになります.
結局,大和の46cm砲が活躍する場面はないまま最後を迎えるのです.

防御力も半端じゃなかったことでも有名です.
大和と同型艦である武蔵には,爆弾17発,魚雷20本,至近弾20発以上の損害を受けながら,それでもなお浮いていた記録があります.
一般的にこの時代の戦艦は魚雷や爆弾を5〜6発浴びたら致命傷.沈没することは免れなかったことを考慮すると,とてつもないダメージコントロールを誇っていたようです.

さて,この空前絶後のモンスター戦艦ですが,やはり欠点があります.
それが対空戦闘の脆弱さです.
たしかに航空爆撃や雷撃(航空機による魚雷攻撃)に対するダメージコントロールは優れていましたが,どんなに強い装甲もやられっぱなしではいつか壊れるもの.
反撃しなければいけないところでしょうが,これが大和は弱かったのです.
大戦末期には,おびただしい数の対空砲を所狭しと配置したようですが,付け焼き刃な対処では根本的な解決にはならなかったようで.
あとは誰もが知っている末路をたどります.

これをスポーツ・ゲーム分析的に考えると,いくら優れた兵器を作っても,敵方の対処が簡単なものであれば味方には足手まといでしかなくなるということです.

強力な火力と長大な艦砲を搭載したところで,それへの対処は結構簡単.レーダーや偵察機で確認して大和との戦闘を避ければいいのです.
現在のように何百㎞も届くミサイルを搭載しているわけではないのですから,こうなると大洋に浮かぶ鉄の塊でしかありません.

それでもなお,大艦巨砲主義(海戦は,大砲の性能と防御力の高さで決まると考える戦闘主義)に固執した旧日本帝国軍の情弱ぶりがよく指摘されます.
それについては各方面から飽き飽きするほど取り上げられていますが,では具体的にどのようなことをすればよかったのかというところが抜けていて不満です.


スポーツのトレーニングや作戦でも同じことが言えるのですけど,どのような勝ち方を想定しているかが重要です.これを「大きな戦略」と呼ぶことにしましょう.
日本における対米戦争であれば,アメリカ本土を制圧することなど不可能なのですから,「どこらへんで和平条約に落とし込むか」 が戦略上重要であることに相当します.

そして,この大きな戦略を基に,どのような練習をするか?どのようなトレーニング計画を立てるか?といった「小さな戦略」があります.
対米戦争であれば,和平条約に持ち込むまでの戦闘を有利に進めるための作戦を考案し,それに適合する兵器開発や予算編成をするべきなのですが,当時の日本は「いかに優れた兵士,兵器をつくるか」という各論(小さな戦略)に邁進してしまいました.

いろいろな人の意見や書籍にあたった私個人の見解ですが,日本のスポーツ界はまだこの「小さな戦略」の枠組みで話しをしている傾向にあると思います.

つまり,体力トレーニングやメンタルスキル,ゲーム分析といった各分野において「戦略」という言葉が使われてはいますが,それは “その分野における理想的な戦略” を説明しているに過ぎません.
「どのような選手・チームなるか→ どのように勝つのか?」
という視点であり,
「どのように勝ちたいのか?→どのような選手・チームになるか」
という観点になっていません.

とりあえず強くなるための練習やトレーニングのために “最適の環境と設備,人員を用意する”.そして,「強くなってから勝とう」という考えです.
え?そうじゃないの?と考えている方.
これは旧日本帝国軍が歩んだ過ちと同じです.あなたも戦艦大和を建造しようとしています.注意してください.

「“強くなる” って何だ?」「相手に勝つためにはどうするか」という議論が一番最初になされないスポーツ戦略は方向を見失うはずです.
とはいいつつも,これを今の日本スポーツ界で実践するのはなかなか難しいもので.

しかし,この考えを普及させることが不可能ではない立場に立てるかもしれない今日この頃.
もう一息がんばってみようと思います.

2010年2月1日月曜日

床屋と笑点と研究生活


昨日,床屋で髪を切りました.
その床屋では営業中にTVを流しているのですけど(よくある鏡越しに見れるTV),私の番が来た頃にちょうど笑点が始まりました.
別に普通じゃん,と思うことなかれ.
これはとんでもないことなのですよ!

笑点を見ながら理髪される身にもなってください.
笑いたくても笑えない.
なるべく耳をTVから離そうと意識しても,“そう意識している時点で” 意識しているわけでして.
前座の若手芸人は難なくスルーできたのですが,大喜利は難敵.

カミソリをあてられている時なんか死に物狂いで笑いをこらえています.
てか,私が笑いをこらえても,店の人が笑ってしまったら鮮血が飛び散ることになるわけで.
気が気でない数十分.
木久扇(旧・木久蔵)師匠のボケネタは反則的です.
文字通り死にそうになります.


さて,
修士論文発表会が終わりました.本学の大学院生も,あとは論文を書き上げれば修了ということになります.
多くが2年間の研究生活も終了することになるのですが,この後も研究生活を続ける人もいるのでしょう.
私もそういったうちの一人だったわけですし.気がつけばこの生活が今後も続きそうです.

私の代の大学院生でも,今も研究生活を続けている人が幾人かおります.
で,面白い,というか皮肉な話なのですが,その誰もが入学時点ではさほど優秀でなかった人達なんですよね.
私もその人達も,夏の一次入試では不合格でしたし,学内の研究奨学生制度にも該当しなかったのですよ.
私の先輩である方も,優秀な研究者ですが,同様の経路をたどっております.

この大学から「研究者の劣等生」と烙印を押された人のほうが研究者になれるのかもしれません.


研究生活をテーマに,久しぶりに読書を取り上げます.
竹内薫 著『なぜ「科学」はウソをつくのか』 では,日本の「科学」の取り扱われ方に警鐘を鳴らします.
同時に,日本で科学者や研究者が育たない・根付かないことにも触れ,日本での研究生活の困難さを紹介しています.
竹内氏は以前にも 『99.9%は仮説』 といった科学哲学に関する興味深い著作もあり,とても面白い視点をもった方です.
ご一読をお勧めします.

研究生活ということについては,坪田一男 著『理系のための研究生活ガイド』 が面白い. これを手に取ったのは私が大学院1年生の頃でした.
当時は,「たしかに書いていることの意味はなんとなくイメージできるけど,本当かいな?」と懐疑的でもあったのですけど,今なら「その通り!」と太鼓判を押します.研究生活を本気でやりたい人,続けたい人は読んで損はないですよ.

なんにしても,“研究生活” っていうのは “勉強をすること” じゃない気がします.気になることについて執念深く裏取りをすることに他なりません.いま話題になっている 「民主党・小沢一郎献金問題」 について,東京地検が罪状をあげるために捜査していることと変わりないのだと思っています.捜査している対象が世間ウケしないだけ.その捜査のモチベーションは自分の 「好奇心」 だけです.期日までにそれなりの結果をださなければならないという制限があったりするところも一緒です.
そして,これは前回のブログにも通じるのですけど,“期日までに手に入れた証拠で自説を展開し,納得させる” というところも同じだと思います.
冤罪や勘違いもあるのかもしれませんが,それでも 「怪しい」 と感じたからには追求する,それが研究生活の正体なのではないでしょうか.