2010年7月28日水曜日

いよいよ夏休み


全ての授業と(義務的な)イベントが終わり、一息つける日々が始まります。
この2カ月ほどで、本来やりたいはずの仕事をやっておかなければなりません。
これまでは、よくわかんない仕事をふられてきたので私としても困っています。

さて、今日はジョン・ダートン著 『ネアンデルタール』を紹介しておきます。
最近、ネアンデルタール人みたいな人と久々に出会えたので、ことさら親近感がわきました。
内容はいたって予測可能な展開で、小説としてはそれほど面白くはありません。
物語の流れがジュラシックパークと酷似しており、言い換えればサルシックパークです。

【以降ネタバレ箇所】
現代にもネアンデルタール人が実は生き残っていて、山奥深いところに住みついている。
コミュニケーション手段はテレパシーで、平和主義派と暴力派の2グループに分かれて暮らしている。
調査に向かった古人類学者の訳あり男女は、てんやわんやの末、なんとか生き延びてロマンスで終わる。
【以上ネタバレ終了】

この小説の面白いところは、物語ではなくネアンデルタール人に関する最近の研究を説明してくれるところ。そこに価値があります。
だから、ネアンデルタール人に関する説明をしてくれる前半部分は楽しく読めて期待感が高まっていたのですが、後半は「やっぱり・・・」という展開に落ち着くことに。
しょうがないんですけどね。こういったテーマを扱うのは難しいのでしょう。

ここ十数年前までは、ネアンデルタール人はいかにも原始人らしいサルのような容姿で描かれることが多かったのですが、最近はヒト(ホモ・サピエンス)とほぼ同じような容姿であったと考えられています。
体躯は小柄ですがガッシリしており、脳もヒトより大きかったことがわかっています。
生存性からすると、ヒトよりもネアンデルタール人の方が生き残りそうなものですが。

そんなネアンデルタール人がなぜ絶滅したのか?
理由はまだわかっていませんが、我々人類(ホモ・サピエンス)との種族間戦争で駆逐された、とか、我々人類との混血が進み、取り込まれてしまった、などの説があります。

この進化については、以前にも記事で取り扱ったことがあります。
現在の進化論は、日本人の遺伝学者である木村資生が唱えた「中立進化論」が有力です。

この進化論は、
「最も優良な種が生き残り、それ以外が淘汰される」
というダーウィン的な進化論ではなく、
「置かれた環境や競争に,最もどうでもいい突然変異を起こしたものが生き残る」
というものです.
つまり、その環境に有利でも不利でもない種が生き残るということです。

我々ヒトが、最も優良な種ではなかったからこそ生き延びることができた、となれば、中立進化論の通りの道を歩んでいるのかもしれません。
そして、もしネアンデルタール人の方が生き延びていたとしたら、現代はどのような科学技術を誇っている社会になっていたのでしょうか?

しかし、それも意味の無い想像かもしれません。
というのも、人類の科学技術力は優良ではない自らが生き残るために必死で養ってきた適応方法であったかもしれないからです。
優良であるネアンデルタール人は、原始そのままの生活をずっと2010年現代まで続けている可能性だってあるのです。

2010年7月21日水曜日

海に行って帰ってきて

今週で長かった半期も終わり.
いよいよ夏休みが始まります.

夏休みと言っても,我々大学教員にとっては大事な研究期間.
学生の相手をしなくて済む日々が始まると思うと腕が鳴ります.

と,その前に問題児達を捌いておかなければなりません.
授業態度の良くない学生を掲示板で呼び出し,反省文を兼ねた追加レポートを出させます.
こういうこと,本当はやりたくないんですけど状況というものがありまして.
他の先生方とも授業方針を合わせてやっていかなければなりません.


この週末は海洋実習ということで海に行っておりました.
このクソ忙しい時期に計画するとは,何考えてんのかわかりません.
あと一週間くらいズラせないもんでしょうか?
学生としても,テスト期間中にこのイベントが入るんですから迷惑この上ない話です.
来年から日程をズラすように提案してみます.

とは言え,いろいろと感動のあったイベントではあります.
学生達の良い思い出になったでしょう.

が,その舞台裏はというと大変なことになっていましたけど,それはまた別の話.オフレコの場面で話せたら話したいと思います.

私なんか,実習の手伝いをしてくれていた学生スタッフから「先生・・,可哀想・・・」と思われていたようで,帰ってきてから労りの言葉をかけてくれました.
大丈夫.先生は君たちのその言葉で元気になれますよ.

実習では日焼けを徹底ガード.
紫外線が弱点の私は,ラッシュガードをしっかり着て日焼け止めを塗りまくって難を凌いできました.
が,若干の体調不良は避けられず,心身ともに疲れ果てて今に至ります.

明日・明後日で授業終了.
これまた週末には重要な学内イベントがありまして,これを過ぎればついにゴールです.

2010年7月12日月曜日

決着がついて


オランダ対スペイン.
スペインがワールドカップ初優勝ということで幕を閉じました.

「無敵艦隊」の異名があるにも関わらず,意外にもワールドカップでの優勝経験がないスペイン.
「やっと優勝できた」というところでしょうか.

別にワールドカップで優勝したからというわけではありませんが,私もスペイン・サッカーについては以前から興味を持っており,村松尚登 著『テクニックはあるが、サッカーが下手な日本人 日本はどうして世界で勝てないのか?』という本も買ってスペイン・サッカーも買っていました.
著者はスペインのサッカー界での指導経験を基に,日本のサッカーがなぜ世界の壁を越えられないかを論じます.とても説得力がある内容で,サッカー以外の種目の指導においても参考になる示唆を含んでいます.
なんだか後出しみたいで卑怯臭いですが,ホントですよ.

著者は「戦術的ピリオダイゼーション理論」なるものを紹介しています.
スポーツ・トレーニングのピリオダイゼーションを研究する者としても興味深い内容です.
キーワードは “カオス” と “フラクタル”.
どちらもサッカーにおける戦術的ピリオダイゼーションだけに言えることだけでなく,スポーツのピリオダイゼーション全般に共通していることです.

ピリオダイゼーションについては,複雑なことなので詳しい内容は省きます.また機会を改めて取り上げようと思います.


日本でも決着がついたことがあります.
参議院選挙です.

私の希望通り,このタイミングで民主党が大敗しました.
私も一時は焦りましたが,日本は私の目論み通りに動いています.なんだか日本社会の黒幕になったような気分で楽しいですね.

国民もバカばっかりではありません.民主党のことをしっかりと判断できているようです.

自民に票が戻ったことは安心できる結果です.
自民ではなく社民や共産,公明党に流れるようであれば日本も終わりだと思いましたが,どうやらそのようにはならなかったようです.
みんなの党に票が集まった部分もありますけど,そこらへんは許容範囲です.

これで緊張感のある政治が始まります.
ここからが本当の戦いです.
国民も政治の動きに注目しやすい状況になったのではないでしょうか.

なんせ,メディアが自民を叩くことができない状況が1年も続き,世論誘導できない期間ができたことが大きいです.
今更 民主党を擁護することもできず,かと言って社民や共産をたてる雰囲気もなく,本当に今の日本に必要な政治理念とは何かを嫌々ながらも報道しなければならない状況ができたのです.
これは本当に画期的です.

ネットでは,テレビ東京の選挙特番における池上彰氏の発言が物議を醸しています.
氏は,公明党の支持母体を「創価学会」だと言い切り,公明党が「民主党と連立を組まない」と宣言したのは創価学会が民主党と仲が悪いから,という趣旨の質問を山口代表にしています.

また,民主党には「今回の敗戦の責任は誰ですか」とバッサリ切り込んでいます.これは前回の参議院選挙で安倍総理に対し全てのメディアが切り込んだ質問ですが,今回は全然そのような趣旨の質問はありません.
民主擁護というメディアの姿勢を捨てた池上氏の質問は逆に新鮮でフェアです.

また,民主党の支持団体に日教組を取り上げていることも前代未聞.今までだったら有り得ないことですよね.

蓮舫議員には「“1番でなければいけないんですか?2番ではダメなんですか?” とおっしゃっていましたが,今回は1番になれませんでしたね」と皮肉.

これが政治を扱うジャーナリストの本当の姿勢でしょう.
今回の件で池上氏を見直しました.
「子どもニュース」や「分かりやすいニュース解説」だけじゃないんですね.
肝っ玉も座っています.

とにかくメディアや報道が政治に対してフェアな姿勢にならなければ根本的解決には向かいません.
今回の池上氏の発言の数々は,そうしたメディアのタブーに挑戦する一撃のように思えます.

これを機に,日本の政治報道に変革が起こればいいのですが.

2010年7月9日金曜日

ステレオタイプな日々


「ステレオタイプなスポーツ指導者」って言われたらどんな指導者をイメージするでしょうか?

先日,大学のスポーツ指導者を養成する学科の授業にゲストとして迎えられたのですが,そこで「ダメな指導者の例」としてこのような表現をする教員に出会いました.

「○○先生(私),このような指導者はどんな人ですか?」
とフラれたのですが,ステレオタイプな指導者ってどんな人なのかと考えてもいろいろあるな,と迷ってしまいます.
でも,きっとダメ指導者としてステレオタイプな指導者を挙げればいいんだろうと思い,
「熱意がある代わりに,子どもの体や気持ちのことを考えずに我武者らに指導するような人ですよね」
と返したら,
「そうです!ガミガミうるさい指導者ですね」
と,その教員.
なので,私はついでに,
「自分の考えだけに固執し,選手の全てを自分で管理しようとするのもよくあるパターンです.ダメなステレオタイプ指導者ですかね」
と言ったら,
「いやいや,それはステレオタイプってほどではないでしょう」
とおっしゃる教員.
何がひっかかったんだろう・・・,
と不思議に思っておりますと,その教員,学生達に向かって,
「大声張り上げるだけの指導者はダメだ!」
って言った後,
「分かるか?ステレオみたいに声がでかいからステレオタイプ指導者っていうんや!」

?!

チョwwwwwwwww!
そりゃステレオタイプな指導者じゃねー!
猛烈な勘違い.
ステレオデッキみたいな指導者だと思ってるらしい.
きっとこの指導者は右と左から違う音がでるんです.重厚感溢れる低音とクリアーな高音が楽しめます.最近はiPodにも対応してるんですかね?
とか皮肉を言ってやろうかと思いましたが....

学生達はウンウンうなずいてメモまでとってる!
この大学では「ステレオタイプな指導者」とは「ステレオみたいな指導者」ということになりました.

誰かこの間違いに気づいてる奴はおらんか?
しかし,完全にスルーしてしまっています.クスクス笑う学生もおらず,みんな真顔.
ダメだこいつら.早くなんとかしないと.

大見得切って解説してるんで,この間違いを正そうにも状況がそうさせてくれません.
結局,黙っときました.
“間違いを犯すことよりも,間違いを正さないことが悪である”
ということで私は悪人です.

この教員,以前から私に妙な質問をぶつけてくるんです.
スキャモンの発育発達曲線について(以前記事にしたことがある)や,ゼミの課題である漢字ドリルの読み方・書き方,および同じくゼミ課題の時事(派遣社員問題とかオバマ大統領のプラハ演説)の解説,そしてこれまたゼミのレポート課題である「選挙権18歳引き下げ」について.
「リンパがなんで200%になるんや!?」
「これなんて読むんや!?」
「派遣労働の何が問題なんや!?」
「なんで選挙権を18歳にせなあかんのや!?」

大学の先生なんだから少しは勉強してくださいよ.

困ったことに,この教員,授業としては学生から人気があったりするんです.勢いでなんとかしようとするタイプの教育者です.側近には嫌がられてますけど.
まさしくご自身が「ステレオタイプ(ステレオみたいな)指導者」です.

間違ってるとか正しいとか関係なく,勢いでやろうとするから困るんです.
「結果オーライ」とか言ってますけど,ぜんぜんAll rightじゃないから大変です.
いろいろ問題を残してる割に放ったらかし.
大学教育じゃありません.

てか,こういうのが大学の先生なのかもしれません.
ステレオタイプな大学教員ですね.

こんな教員が大学生を育てているんだから,そりゃ若者も政治離れします.
ダイエットに納豆が効く,バナナが効くと聞けばスーパーから品が無くなり,沖縄に軍事基地なんかいらない,と狂ったこと言い出します.
現在の日本国民の幼稚性は,大学教育の幼稚さが原因なのではないかと考えさせられました.

2010年7月8日木曜日

就職するということ


現在,1年生のゼミでは「選挙権を18歳まで引き下げることについてどう思うか」ということをやっています.
んで,その資料を読んでレポートを書くのです.
漢字ドリルの次はレポートを書く練習というわけです.

これはまだ現実的且つ実際的で建設的な課題なので,こちらとしても気合いを入れて指導できるのですが,いかんせん期間が短い上に(3週間)指導方法にいろいろ縛りがあって四苦八苦しております.
それに,レポート提出課題が出ている今のような時期になって始めるのもどうかと思います.
早めにやってあげた方がいいんですけどね.

ただ,「当事者」になってからでないと,その重要性がわからないというのも確かで.
例えば就職活動を啓発するような授業もあるのですが,ポカーンと聞いている学生(3年生)も多いというのが現状.
実際に私もそうだったので何とも言えませんが,とにかく「これはこの先 重要なことだぞ」と言い続けるしかありません.

「選挙権18歳引き下げ」の問題にしてもそうで,若い世代に政治離れがあるというなら,政治に触れる機会を近くすることが効果的かと思います.それ以外にどのようにしろといのでしょう.
政治に興味が無いなりに若い世代から政治に関わるようにすることで,少しでも政治のことを考える人を増やしていくのが地道な作戦.
もしくは大恐慌や戦争とか汚職まみれになって国民がバタバタ死ねば,若者の政治離れも解消するのでしょうけど.
政治離れが顕著な時代というのは平和な時代であるとも言います.

しかし,茹でガエルじゃないですけど,少しずつジリジリ崩壊していけば,気がついた時には取り返しのつかないところまできていた,という結末になりかねません.


自分たちに降り掛かる話題でないと意識レベルが高まらないことは当たり前のことで,受験にしても就職にしても,当事者にならなければその勉強もしないのですから.
私だって福祉関連の勉強は今さらやってるわけですしね.学生にはぶっちゃけられないけど.


さて,現在の大学はいかに学生を就職させることができるか,が重要な懸案です.
そこで就職に関する資料やニュースにも目を通すようになっているのですけど,そもそも就職するとということとは?それも若者の就職にセンセーショナルに訴えられるものはないか?と探していました.

そこで出会ったのが喜多川泰 著『手紙屋』
アッと言う間に読み切りました.テンポ良く展開されているし,内容が濃厚です.

「明暗を分けた両者が言う理由は決まっている.失敗した人の理由は “才能がなかった”,成功した人の理由は “情熱を持ち続けた”」
「どこに就職して何をするかではない.人生で何をしたいのか,が大切」
「その道の専門家になるためには,その道以外の専門家にもなるべき」

こういったことが小説調で進んでいきます.
読み応えのある本です.オススメです.

ここに出ていた内容のいくつかは話のネタにしようと思いました.
就職予備校のような学生指導はしたくないですからね.
密度のある学生生活を送ってほしいものです.
      

2010年7月5日月曜日

半年が過ぎて

今年は長く感じます.
まだ7月です.

いろいろ盛りだくさんの2010年.
やり残している(仕事として)事があるんじゃないかと不安な時もありますが,そこらへんは適当に気分を落ち着けて日々を過ごすしかありません.

すでに後期,そして来年度の授業について想いを巡らし始めています.
もう前半の授業は今からどうこうできることではないし.
学生の反応を楽しみにできるようになっただけ慣れてきたのでしょう.


さて,先日話に出した体育の授業についてですが,自分なりの想いを(理想論が強いですが)述べたいと思います.
教員を目指している学生,特に児童・ジュニア教育に携わる学生には伝わってほしいところなのです.

とある学科・クラスの学生にはレポートも出しました.
レポート課題にしたのは以下の書籍.
荒神天我 著 『反体育論』と,
広瀬一郎 著 『スポーツマンシップを考える』
この2著の「はじめに」の部分を読んでもらってレポートを書いてもらうというもの.

中には「この続きが気になる」という学生もいました.
図書館に入れておいたので読んでもらえれば幸いです.

とりあえず両著の主張をまとめておくと,『反体育論』では「体育の授業は運動嫌いを生む温床.体育によって運動不足が解消されるとか,健全な精神が育まれるというのはウソ」というもの.
ウーーン.間違いありません.体育では運動不足は解消できないし,健全な精神は育ちませんよね.みんな分かってて誰も口にしないこと.
そもそも運動不足を解消するために体育をやっているわけじゃないし,よくある体育で健全な精神が育まれるなら,同じ教科の一つである数学や国語でも育まれるはず.
わざわざ体育を授業でやる意味ってなんでしょうね.

これについてヒントを与えてくれるのが『スポーツマンシップを考える』.「スポーツマンシップとはつまり “尊重の精神”.ルール,対戦相手,そして審判への尊重を忘れたスポーツは,もはやスポーツではない.きれいごとではなく,“本当に強くなるため” に必要なことはスポーツマンシップを知ること」というもの.

体育では教材としてスポーツを扱うことが多いので,当然スポーツをすることが多いことになります.

体育というと,どうしても集団行動や規律正しく動けるようになるための練習という印象が強く,スポーツ種目にしても技術や競技力を高めることに主眼が向かいがちです.

これに対し,「技術や競技力よりも,体育は楽しむことが重要」という意見もあったり,この意見にはさらに「まず技術や競技力めなければ面白くないのだ」という反論もあったりで.

でも,これらの意見は体育やスポーツの一面しか論じてないと思うのです.
スポーツはなぜ楽しいか?なぜ技術や競技力を高めたいと思うのか?というところです.
ここにスポーツの教育的価値があるのです.

自分と比較対象となる対戦相手がいる,互いをフェアにするためのルールがある,そして競う.
ヒトは争うことに興奮を覚えます.これがスポーツが楽しい簡単な理由です.

良く出来たルールとシステムで構成されたスポーツ種目(いわゆるメジャーな種目)は,その取り組みにも真剣になれます.
だから,より良いプレーをしたいと思うようになるから競技力を高めたくなります.

真剣に,本気で試合をするということは,「自分はこれだけ頑張っているのだから,これだけ練習してきたのだから」ということで対戦相手に勝ちたいという想いが強くなるわけです.
すると,勝ちたいという純粋なエゴが前面に出てきはじめます.
スポーツではこれをコントロールするするところに,その存在意義があるのです.

どんな状況であろうとフェアプレーの精神を守る.相手が偶発的に不利な状況になれば,そのギャップを埋めるような姿勢をみせる.
ルールを守り,その象徴である審判に判断をゆだねる.
無礼な態度はとらず,やるからにはフザけたマネはしない.
これらは映画などで目にするキザったらしい騎士道や武士道に通じる精神です.

でもこのキザったらしい精神を世界中の人類が共通で “善き精神” として認めているわけで,そしてスポーツ,つまり体育をすることはその精神を気づかせる絶好の機会なのです.

最近は,“真剣にやらないことがカッコいい” ,あげく “出来ないことがカッコいい” などと考える子どもが増えているとか(諏訪哲二 著 『オレ様化する子どもたち』).
そんなことだから,いい歳して“不良がカッコいい” みたく,ダラダラ出席目的だけに講義を受け,最後列でふてぶてしく座っているんです.

この “善き精神” を育てるには,各スポーツ種目の正規のルールや用具でやる必要なんてないと思います.
とりあえず真剣に試合ができるフェアなルールとシステムにしてしまえばOK.
長々と技術練習なんてやらなくてよいのです.体育の授業でプロスポーツを目指せますか?技術や蘊蓄なんて必要に応じて覚えていけばいいのです.

重要なのは,その授業一つ一つで騎士道・武士道精神を学生や子どもに落とし込めるかどうか.

試合はつまり “決闘” の代理です.神聖な行いです.
だから,いつもの友達付き合いの延長で試合中におしゃべりしたりフザけ半分にやっていたら周りの人たちにも失礼なのです.

「授業中は真剣に」などと怒られている学生がいますが,私からすればスポーツをする上でのマナーです.

こういったことは別にスポーツだけに通じる精神ではないと思います.
日頃の生活や社会生活においても重要な精神性です.
こうした姿勢を育てること,それが体育の授業をやる意義だと考えています.