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究極のストレス・マネジメント術

久しぶりの本の紹介記事にします.

今回は飲茶 著『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』です.
西洋哲学を扱った『史上最強の哲学入門』もありますので,こちらもオススメです.
Amazonレビューの評価も高く,著者の分かりやすい説明に脱帽.
「ザックリ過ぎる」 「~~に関する重要な記述が抜けている」 という批評もありますが,そこは入門書なのだから許してやれよと思います.

私のこのブログでも,ザックリ過ぎたり大事な記述が抜けてたりする時事説明や統計手法解説のオンパレードですけど,それで助かる(楽しめる)人がいるんだからOKだと考えております.

これを機会に興味を持ってもらったら,あとは「各員一層奮励努力セヨ」ということでお願いします.


ところで,この本を読んで再確認させてもらったのですが,やっぱり究極のストレスマネジメント術は「東洋哲学」であり,「仏教」だということです.

ヤージュニャヴァルキヤ(紀元前600年頃:インド)が言うところの,
梵我一如(私と世界は同じもの)」

「私」とは認識するもののこと

そして,
釈迦ことゴータマ・シッダルタ(紀元前500年頃:ネパール)が言うところの,
諸行無常(不変なものは存在しない)」

諸法無我(私というものは存在しない)」

この境地になって(なれなくとも近づいて)生活できれば,幸せになります.


西洋哲学においては20世紀になってやっとサルトルが「認識するものを認識することはできない」という境地に到達しましたが,これって要はヤージュニャヴァルキヤと釈迦が言ったことと同じことなのです.
西洋哲学は,東洋哲学が達した境地に実に2500年もかかっています.

※その代わり,西洋哲学は「科学」という活動を活発にすることができました.西洋哲学は外的,東洋哲学は内的,と表現されることが多いようです.
思考の方向性が違うということは,とても大きいのですね.

詳細は氏の著書に譲るとして,「認識するものを認識することができない」というのを簡単に説明してみます.
17世紀にデカルトが「我思う故に我あり」という名文句を発して「私」の存在こそが唯一絶対のものだとしました.ヤージュニャヴァルキヤが言う「「私」とは認識するもののこと」と同じ(か,一歩手前)です.
ところが,「私」の存在を裏付けるのは何か?と聞かれれば,「それは神です」ということになっていたのが西洋哲学.

んなアホなぁ!と思いますが,当時の状況であればそれで納得したのだそうです.

「私」の存在を裏付けるモノは何か?と探し続けて200年,ヒュームやカントを経て「やっぱ,そんなモノないんじゃねぇの?」と言ったのがサルトル.

どういうことかというと,
「「私」とは認識するもののこと」というヤージュニャヴァルキヤと同じ境地に達したサルトルは,
かいつまんで言えば
「私の存在を裏付ける「モノ(認識)」があったとしても,その裏付けである認識を認識するのは結局「私」なのだから,どこまでいっても「認識」の「認識」の「認識」の・・・・,と続いてしまう.つまり「認識するものを認識することはできないのだ」
ということを言ったのです.

そういうわけで,結局「私(認識するモノ)」というのは,この世界に何の裏付けもなく,とにかく「在る」モノということになります.

で,これはつまり,ヤージュニャヴァルキヤと釈迦が説いていた,
「梵我一如(私と世界は同じもの)」
「諸法無我(私というものは存在しない」
の境地に落ち着いてしまうのです.

ヤージュニャヴァルキヤは「梵我一如」の境地を言いっぱなしにして,そのまま去って行きました.
釈迦はこの境地に至れば「涅槃寂静」,要するに「幸せになれる」ということに気がつき,その方法を教えて回りました.それが仏教です.

こうした仏教的な哲学をヒントにしたストレスマネジメント術については,以前の記事を参照してください.
パニクってる上司に仕事を頼まれたとき


ところが,この境地に至り,しかもそれを実践できるまでの道の険しいこと,険しいこと.
挫折する人も多いのです.

なので,「ええい!もっと効率良く「涅槃寂静」の境地になりたいのだ!」ということで始まったのが日本でもお馴染み「大乗仏教」です.
氏の著書はこの「大乗仏教」という考え方を非常に上手に説明しています.

法然や親鸞が始めた「念仏唱えりゃ誰でも極楽浄土にいける」という成仏のインフレ.
以前は私も「オイ!いくらなんでもそりゃマズいんじゃないの?」と思いましたが,法然や親鸞の思想っていうのは,
学もなく,日々忙しくしながら苦しんでいる人が目の前にいるんだ!そんな彼らにサルトルやカントが悩み苦しんだ哲学を,そんなに簡単に説明なんかできるわけない!池上彰やスティーブ・ジョブズでも無理だぜ
といったところなのでしょう.

日本の仏教については,昔の記事も参照のこと
日本の仏教:ダイジェスト

法然や親鸞が目指した仏教ってのは,
「とにかく本人が成仏できればOKってことにしよう」
という,ある意味仏教における究極の実用主義哲学(プラグマティズム)です.
プラグマティズムは1870年代にアメリカで始まった哲学とされていますが,東洋哲学のプラグマティズムは,既に1200年代の日本で発生していたようですね.

「念仏唱えただけで成仏って言われても...,本人が成仏できたかどうか分からないんじゃないの?」
という意見がありそうですが,それは諸法無我の境地を再確認すれば,その問い自体に意味がないことがわかります.
私の幸せは,私の「認識」でしかないのです.

そもそも仏教は「幸せになる」ことを目指しているのですから,原始仏教が目指す「絶対的な幸せ」は無理でも,庶民にとっては“昨日の私よりチョットしあわせ”的に「相対的な幸せ」が得られれば,それはそれで良いのではないかと.
なにせ,明日をも知れぬ当時の庶民・農民にとっては,高度で難解な仏教では “救い” がないのです.

釈迦の言葉は回りくどく,
思慮深く聡明で真面目な生活をしている者を伴侶とできないならば
国を捨てた王のように
また林のなかの象のように独り歩め
愚か者を道連れとするな

独り行くほうがよい
孤独に歩め 
悪をなさず
求めるところは少なくあれ
林の中の象のように
などと,こんな哲学的表現では当時の庶民や農民が耳を傾けてくれるとは思えません.

そこで法然や親鸞は,そんな庶民が少しでも幸せになれるよう改良して説いたのです.
現代風に書籍を出版すれば,
法然 著『今にも死にそうな庶民のためのストレス・マネジメント』
とか,
親鸞 著『「ナンマイダ~」魔法の呪文で幸せになれるゾウ』
といったところでしょうか.
これが大ベストセラーになったのが鎌倉時代なんですね.

別に根拠がないわけではないのですから.
さすが,東洋哲学や仏教をしっかり研究されている方々のやることは違います.

ただ,この念仏唱えるだけの成仏のインフレを促進する仏教,やっぱり経済におけるインフレと一緒でバブルが起きてしまいます.
その最たる例が一揆(一向一揆が有名).
何事もやり過ぎはいけません.