2012年11月21日水曜日

大学について2

前回はカール・ヤスパースが説いた大学論を取り上げました.
大学について

今回は,ホセ・オルテガ・イ・ガセットによる大学論です.

オルテガ 著『大学の使命』

ヤスパースと同様,著者は『大衆の反逆』で有名な保守論者で,その件についてはまた別の機会にしたいと思います.

両者の大学論は比較されることも多いようですが(実際,『大学の使命』の付録として井上先生が論じている),今回は私なりに2人の大学論を解釈してみたいと思います.
なかでも,大学教育がどのように為されるべきか?といったことに焦点をあててみましょう.

オルテガとヤスパースの大学論で,よく比較されるのは以下のことです.

オルテガ = 教養教育,平均人の教育
ヤスパース = 研究教育,エリート教育

実際,本文中にこのような記述があります.
オルテガは,
与えることも,要求することもできないものを,与えるふりをし,要求するふりをするがごとき制度は,虚偽の道徳を乱す制度である.
それゆえに,
われわれは平均学生から出発しなければならない.
というのです.

一方のヤスパースは,
学生がおいそれとはついてこれないながら,しかしそこで向上しようとする労作を通じて追いかけてみようとする刺激を獲得するということは,教授学的に簡易化された万人に理解されやすいということよりも意味の有ることなのです.
真っ向から対立しているように見えますね.
2人が討論したら,喧嘩になるんじゃないかと思われますが,実際にヤスパースの大学観を受け継ぐドイツの大学人からは,オルテガの大学論について反論があったようです.

ただ,ヤスパースも 「平均的な学生は切り捨てるべし」 「ついてこれる学生だけ教育すべし」 という主張をしているわけではないのです.
ヤスパースは,上記の主張にこう続けます.
最優良の人々の標準が授業の進み具合を決定する時,平均人も,その力に従ってついてくるのです.全ての人が,誰も完全には充足させることのできない要求の下に活動することになるのです.精神的な地位に対する尊敬が,全ての人を向上させる推進力とならなくてはいけないのです.
大学教員をやっている者からすると,この考え方にはうなずけるんですけどね.
学生や一般の人からすれば,オルテガの主張の方が納得できるのかもしれませんが.

つまりこういうことです.
一部のエリート層(そう呼んでおく)を鍛える教育をすれば,残りの平均的な学生も,それに吊られて学習するようになる.それは,結果的に平均的な学生を育てる上でも有益なことなのだ.
ということです.

私はよくこれを,
「学部,学科,専攻・コース,ゼミなど,それぞれの集団・グループにおいてフラッグシップとなる学生を育てるべき」
というふうに論じています.

モデル,手本となる学生を育てるということです.
そうすれば,
「ヤバい.あいつ,いつの間にかめっちゃ賢くなってるやん.俺もウカウカしてられへん!」
という感じで,切磋琢磨していくようになるのです.

私の学生時代の経験でもあるのですが,やはり「天才的なやつ」とか「粉骨砕身するやつ」を身近にみると,ダラダラとした学生生活を送る気持ちは鈍りますよ.

それとは逆に,
反・大学改革論3(学生はお客様じゃない)
でも述べましたが,学生が求めるものを重視した大学教育に舵を切ると,実は社会のためにも,ひいては学生のためにもならないのです.

学生の学問へのモチベーションとでもいいましょうか.
そういったものが,「平均人の教育」にしてしまうと,最初は良くても,ズルズルと時間をかけて凋落してゆくのです.

むしろ私は,「なぜオルテガが「平均人の教育」にこだわるのか?」に着目します.
平均人を何よりもまず,教養ある人間にすること,すなわち,その時代の高さへと導くことが必要である.
オルテガはその主著『大衆の反逆』で,伝統の価値や教養を見失った者,自分自身への疑いを持たない者たちを「大衆」と呼び,
邪悪な人間はときどき邪悪でなくなるが,愚か者は死ぬまで治らない.
と手厳しく批判しています.
そして,こうした大衆が権力を持っていく現代を諦観するかのごとく眺めているのです.

日本においてもこの「大衆」は権力をふるっています.
それが顕著に現れた最近の出来事として,あの大津いじめ問題を語る日本の「大衆」が代表的です.
大津いじめ問題で大衆の愚かさに絶望しています

オルテガは説きます.
まえもって一つの意見を作りあげようという努力をしないで,その問題に関して意見をもつ権利があると考えるのは,私が《反逆する大衆》と呼んだ人間のばかげた生き方で,その人が生きていることを明らかに示している.(中略)愚か者は,自分を疑ってみない.自分が極めて分別があるように思う.ばかが自分の愚かさのなかであぐらをかくあの羨むべき平静さは,ここから生まれるのである.
こうした大衆を「どげんかせんといかん」と考え,オルテガは大学教育にその解決(緩和)を求めたのでしょう.
それゆえ,オルテガは大学教育を「平均学生から出発しなければならない」とし,教養教育に重きをおいたのではないでしょうか.

しかし,今日の日本の大学がおかれている立場からすれば,オルテガに何の文句もないとは言え,そうした「伝統の価値」や「教養」を学ばせるための大学教育では,まさに「大衆受け」しないという残念な状況が広がっているのです.

「大衆受け」しなければならない中で,そうは言っても大学らしさを取り戻さなければ,日本の大学に未来はない.
そういう思いで書いた記事が,
大学設置不認可について,大学教員として言いたいこと
です.

オルテガは「大衆」の切削を「大学の使命」とします.
しかし,大衆を切削させるための実際的な方法としては,ヤスパースが説く研究教育を重視する大学教育の方が,“まずは” 効果的なのではないでしょうか.
前回の記事でも紹介した,ヤスパースの言葉です.
最高の訓練とは,完結した知識を習得することではなく,むしろ学問的な思考へと諸器官を発展させることであり,また教育することなのです.そうすることによって,生涯を通して,更なる精神的・学問的訓練が可能となるのです.
このヤスパースが育てたい学生像とは,まさにオルテガが求めるそれとも一致します.

今の日本人,もっと具体的に言うと,今の高校生と保護者,そして文部科学省の顔色をうかがう大学改革では,大学としての機能を果たし得なくなる.
大学が持っている本来の機能を,大学人が,そして社会が再確認すべきなのです.

あれこれ改革論を振り回す前に,もう一度,大学の使命や理念を考えてみる必要があるのではないでしょうか?