2012年8月19日日曜日

しかしもし,偶然というものが一切否定されたとしたらどうだろう

進まない.全く進まない.
学内用の紀要論文の原稿.
お盆休みをはさめば気分が変わって捗るかと思いきや,全く進まないのです.

ここまで苦労するなら,いっそ気合を入れて肉付けしなおし,外部雑誌に出してやろうかと思うようになりました.

約1週間前から着手.お盆前には書き終えておく予定だったのですが,いやこれがまた文献引用に手間どって難航しています.
まぁ,これまで専門としていたことと違う視点を組み込んでいるので,手間取るのは当然かな.そう反省している次第です.

内容はというと,スポーツのゲーム分析についての一考察.
本当に “一考察” なので,さっさと終わらせて本格的な研究を開始するべきかもしれないのですけど.

ちなみに,私の恩師は論文タイトルに散見される,この「一考察」という表現を嫌っていました.
「“一考察” ってのは研究論文につけるタイトルじゃない.一考察だけなら論文として出すな」
こんな視点もあるんですけどぉ~・・・,みたいな態度が気に入らないとのことでした.
うん,たしかにね.

で,今回わたしが書いている紀要論文はマジで “一考察” なので,「こんな視点もあるんですけどぉ~」な態度で出すつもりでして.
恩師が知ったら怒るだろうな.と思いつつ仕事として書いております.


授業をやってるんです,ゲーム分析の.だから.
今年から始まったので,この得体のしれない「ゲーム分析」に関する総論的な論文を学内紀要として書いとこうと.そんなわけです.

ちなみに,「ゲーム分析」っていうのは,スポーツの試合や練習,身体動作とかをビデオカメラや記録用紙なんかを使って記録し,それを分析しようというもの.
有名なのは元プロ野球監督の野村ID野球とか,ロンドンで銅メダルを獲得した日本女子バレーボ―ルの眞鍋監督によるIDバレーとか.

日本でゲーム分析にスポットライトがあたったのは,
(1) 2004年オリンピック・アテネ大会の野球・準決勝で,がっちりゲーム分析して日本対策を練ったオーストラリアに負けたこと.
(2) 2008年オリンピック・北京大会のソフトボールで日本代表のゲーム分析班がクローズアップされたこと.
というのが記憶に新しいでしょうか.

そんなことがあったもんだから,日本体育協会もスポーツ指導者資格の養成科目に「スポーツとIT」という科目を取り入れており,ITを駆使するスポーツ指導者を求めている,という状況なのです.

ということで,その養成科目のための授業を担当しています.

「こんなPCやカメラ使うと便利」 とか 「こんな分析の仕方がある」 とか 「ゲーム分析したらこんなに勝利に結びつきやすいのだ」 などという素人ウケする営業トークみたいなのは授業でやるとして.
「こんな視点もあるんですけどぉ~」ではあるんだけど,紀要とはいえアカデミックに行かないと.

あと,授業をやる上でも「ゲーム分析」を考えるベースになる哲学というか.
大学の授業ですからね.分かる学生にだけ解るような事であろうとも,スポーツのゲーム分析をする上でおさえておいてほしい考え方は刷り込みたいものです.
その哲学的な視点を論文にしているという次第です.

ちなみに,その “視点” なんですが,

ゲーム分析がスポーツを滅ぼす

というもの.どうですか?素敵でしょ.
最終的にはこのタイトルで本を出版してやろうかと企んでいます.ま,需要がないか.

あんまり詳しく書くわけにはいかないですから,ざざっとキーとなる事を挙げますね.

まず,スポーツというのは偶然を楽しむものです.
“分析しきれない活動” だからこそ,「スポーツ」として存在しえていると言えます.
言い換えると,参加者の能力だけではない偶然の力をも含んだ営みがスポーツなのです.
ここらへんの細かいところはヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』とか,ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』が古典なので,そちらをご覧ください.

偶然をコントロールして勝利しようと邁進するところにスポーツの楽しみがあり,例えその偶然によって敗北したとしても,それを受け入れる余地(遊び)を持つ活動がスポーツの本質なのかもしれません.

しかし,スポーツを過度に分析してしまい,偶然の余地がない活動にしてしまうとどうでしょうか.
こうすればほぼ確実に勝利できる.この動作ができれば勝利できる.といった法則性が科学的に解明できたとすると,それはすでにスポーツではありません.

誤解を恐れず簡単に表現すれば,勝利の方程式が完成した時,そのスポーツ種目はスポーツの場から退場しなければいけません.
ゲーム分析とかトレーニング科学(ドーピングも含めて)というのは,スポーツを破滅に導く科学と言えます.

今でこそスポーツという活動を分析しきれないので暢気にしていられますが,スポーツに科学のメスを入れるということは,さながら回復不可能な手術に手を出しているとも言えなくないのです.

先にも紹介したホイジンガは,著書『ホモ・ルーデンス』の中で,当時から “スポーツらしさ” の瓦解が始まっていることを喝破しています.今から70年前の文献です.

この記事のタイトルにもなっている,
しかしもし,偶然というものが一切否定されたとしたらどうだろう.どんな勝利やどんな失敗にも,偶然の働らく余地が一切なかったと考えられるとしたらどうだろう.そうしたら,あらゆる自由意志の逃げ場はなくなってしまう.偶然の存在しないところでは,意思は自分の体を支えて立っている支柱をなくしてしまう.三島由紀夫 『豊饒の海・春の雪』

原稿が進まないものだからと諦めて小説を読んでいたら,こんな文章に出会ってしまいました.
指している事象は異なりますが,スポーツにも同じことが言えます.

さらに原稿が進まないものだからと,昨日は『新桃太郎伝説』の話なんぞしていましたけども,そこで引用した記事のタイトル,
鏡は悟りの具ならず 迷いの具なり
というのもゲーム分析を語る上で有益な示唆を含んでいるのです.

そこの記事でも書いていますが,私はこの斎藤緑雨のアフォリズムを 「自らを客観視する,つまりビデオ分析などを多用することは良し悪しだよ」 と解釈しています.

ちなみに,この斎藤緑雨のアフォリズムには続きがありまして,

一たび見て悟らんも,二たび見,三たび見るに及びて,少しづつ,少しづつ,迷はされ行くなり

ということで,ゲーム分析に対する “特効薬” のような過剰な期待を戒める解釈ができる言葉も.
そして,極めつけは,

何人か鏡を把りて,魔ならざる者ある.魔を照すにあらず,造る也.即ち鏡は,瞥見す可きものなり,熟視す可きものにあらず

さながら 「ゲーム分析の作法」 を説いているかのようです.
これら上記のアフォリズムの解釈をゲーム分析風にすると,

ゲーム分析で解決しようとしてはいけない.むしろ混乱を生むことになる.
1回だけ見るだけではだめで,繰り返しフィードバックを続けなければ意味が無い.
でも気をつけた方がいい.ゲーム分析を盲信する選手が多い.
ゲーム分析とは解決策を出す物ではない,問題点を出す物なのだ.
つまり,ゲーム分析には少し手を出すだけにとどめて,どっぷり浸かってはいけないよ

てな感じですかね.

とまぁ,そんな風にしてゲーム分析に関する論文を書いております.
この手の論文を書くのは初めてなので,修行だと思いながらじっくり取り組みます.
   

2012年8月18日土曜日

新桃太郎伝説について

昔々あるところに『新桃太郎伝説』というロールプレイング・ゲームがあったそうな.

ということで,これまでの記事とは全く脈略のない,個人的に思い入れあるTVゲームの話をしようと思います.

この『新桃太郎伝説』というのは子供向けのTVゲームなのですが,その重厚かつドロドロに濃ゆい内容は今でも覚えています.
たまにゲームの場面を思い出すことがあるのですけど,年齢を重ねる度に,その解釈や受け止め方が変わってくるものです.
私が初めてプレーしたTVゲームということで,私にとって記念すべき作品でもありますが,どうやら世間でも名作として数えられる作品でもあるようで,コアなファンがいるようですね.

前任校の職員さんにも「新桃太郎伝説」をプレーしたことがある人がいまして,その人とも,
「奈落の底での酒呑童子には泣いた」
「希望の都の謎解きが難問で,親とか知り合いの大人に答えを聞いた」
「竜宮城は操作しづらい」
など,知ってる人なら誰もが頷くマニアックなトークをしていたものです.

遊んだのは小学校の時でしたが,この作品を通して「日本らしさ」とか「お伽話の奥深さ」とか「神道と仏教」に興味を持ったという点で,私の人生にとってはかなり教育的価値のある作品だと位置づけることができます.

「新桃太郎伝説」というタイトルですから,「桃太郎」というキャラクターが登場し,それは当然「桃太郎」という昔話に由来します.
それ以外にも「金太郎」とか「浦島太郎」とか「竹取物語」など,いろいろな昔話に由来する登場キャラや場面とイベントで構成されています.

なにかにつけ,この作品に登場したキャラクターや物事に由来するものを意識してみることが多いのです.「あ,これは新桃太郎伝説に出てきたアレだな」と.
それだけ影響力があります.

最近になってやっとその由来が判明したものが一つあります(と信じています).
長年の謎が解けた達成感.

それは「ダイダ王子」という主要キャラクターの由来です.

前から思い起こす度にGoogleとかYahoo!で探していたのですが,全く手がかりが掴めないでいました.
「ダイダ王子」の弟である「アジャセ王子」は,その名もそのまま「アジャセ王子」とか「阿闍世王」などと結構簡単に見つかるのですが,兄貴の方は全然わからなかったのです.

で,考えました.そのまま「ダイダ」ではないのではないか?と.
しかも,主要キャラクターですし,作中でもかなり凶暴で威圧感ある存在ですので,みみっちいものが由来なわけない.

ヒント,というか,ほぼこれで確信に至ったのは或る書籍によります.
それは『仏教聖典』.これは以前(3年前)の記事である
鏡は悟りの具ならず 迷いの具なり
でも取り上げていたのですけど,今更ながら変なところで役立ったんですね.
それこそ迷いが晴れました.しょーもない迷いですが.

この聖典の最後の方の記述に,
デーヴァダッタ(提婆達多)がアジャータシャトル(阿闍世)王をそそのかして,世尊に対して反逆を企てたが,後,王が世尊に帰依してデーヴァダッタを顧みないようになり・・・・(以下略)
というものがあります.

音が似ている.
それだけですけど,このデーヴァダッタ(提婆達多「ダイバダッタ」)がダイダ王子の由来である可能性は非常に高いと思います.

どうやら提婆達多は「提婆:ダイバ」と著すこともあるようですので,少し変えて「ダイダ」王子としたと考えられないでしょうか.
しかもデーヴァダッタ(提婆達多)は釈迦に背いたとされている,仏教では重要人物の一人.
ゲームの中でも重要な敵キャラだし,大いにありえます.

どうでもいいことかもしれませんが,胸のつっかえが取れたようで幸せです.

はい,今日はそれだけ.
もし私と同じように「ダイダ王子」の由来を探している人がおりましたら,ご参考になりましたでしょうか?


ところで,「新桃」の登場キャラとして「ダイダ王子」より忘れられないのは「酒呑童子」という鬼です.
中ボスとしての登場で「そんなに強くないボス」という印象だったくせに,後に桃太郎一行を助けてくれたりと,よくある「敵だけど実はいい奴」キャラかと思っていたのですが.
「奈落の底」という場面でのイベントは子供ながらに “やられました”.

この鬼の行動とセリフ,思春期の少年の記憶に強烈に刻み込まれています.
「敵だけど実はいい奴」だなんて軽いものじゃなかったのです.
ゲームしながら呆然としたのは後にも先にも,この酒呑童子のイベントだけです.

どういうゲームなのか,実際にプレイしろとは言いません.
YouTubeとかニコニコ動画にプレイ動画がありますので,気になる人は見てみてください.

2012年8月7日火曜日

大津いじめ問題で大衆の愚かさに絶望しています

滋賀・大津での中学生の自殺事件.

「まだ騒いでる」
というのが正直な感想.
ひと月,ふた月ほどすれば,そのうち我に返って(または飽きて)静かになるのかな,と高をくくっていたのですが,どうやら私の見込み以上に日本の大衆は感情に流されやすいようです.
端的に言えば「愚か」です.
もうそろそろお祭り騒ぎに終止符を打ったほうがいいのではないでしょうか?

西部邁やオルテガを引きながら大衆批判を上品に訴えたいところですが,そこまで閲覧数も多くないブログということもありますので少々乱暴にいきます.


本件について,私はテレビを見ていないので,この大津いじめ問題についての今現在のテレビでの取り上げ方は分かりません.
ですので,YahooニュースとかGoogleニュース,ニコニコ動画といったインターネットをみている限りではありますが,まだこの手の話題を担ぎ上げては声を張り上げる人達がいます.

事件発覚当時から加熱していた加害者の実名晒しや学校・教員の責任追及,警察捜査へのいちゃもんなんて,バカ過ぎて語りたくもありませんが,これがネットでは結構まかり通っている.それが怖ろしい.
さらに怖ろしいのは,こういった “流れ” について「それ,間違ってるよ」というネットの声があまりにも少ないことです.
むしろ合いの手を入れて,火に油を注いでいるようにも見えます.

楽しんでるんですよ彼ら.
オリンピックやワールドカップで盛り上がってるのと同じ感覚なんだと思います.
別に “事件解決” を望んでるわけじゃないのです.

私にすれば,自殺した少年を「つまみ」にして酔っぱらって楽しんでいるとしか思えません.
むしろ,彼らにしたら事件が解決したら面白くないのかもしれない,と邪推したくなるほど気持ち悪い現象です.

いじめは悪.
いじめた奴は悪.
隠そうとする学校は悪.
捜査がまどろっこしい警察も悪.
それを叩いてる私たちは善.
徹底して叩きまくる者ほど善なのだ.
なんかよく分からないけど,分からないからこそ真実を白日の下に!
という構図.

なんかよく分からないなら慎重にいけよ,というところですが.
その「真実」っていうのも,きっと単純明快なものを希望しているのでしょうが,そんなに世の中すっきりしないものですよ.と言いたい.

こんなことして誰も得しないし,事件解決には全然つながらないのに.

これは学校・教育現場で起こった少年達による事件なのですよ.
世間が騒げば騒ぐほどに,学校として,そして警察としては事件をうやむやにしなければいけなくなります.
騒ぎになったら関係者は口をつぐみだすし,虚偽やデマを流す親や生徒もいるかもしれません.
そんな状態になったら真実が見えなくなってしまい,強行な捜査は子供に悪影響が出る可能性もあります.

学校や警察の対応にまずい部分があったのは確かです.
でも,何から何まで叩いていいわけじゃない.
「隠蔽しているように見える」とか「口止めしてる」とか言ってますが,状況が状況だし,よくよく考えれば当たり前では?隠さないほうがバカだと思うんですが.

だったら聞きますけど,学校や警察がどんな対応をすれば,あなた方は喜んだのか.
どんな対応をしていても叩いたんじゃないのか?

騒ぎを大きくせず,粛々と事実関係を調査するために協力するのが “外野” である我々の務めですし,ジャーナリストはそれをしっかり監視することです.

なぜそれが分からないのか.
いや,分からないんでしょう.むしろ分かりたくもないんだ.
だって面白味がなくなるから.

単純な図式にあてはめ,
「正義は我にあり」
とすれば,批判されずに済むからです.
正義を振りかざして大見得きってる間は楽しいのです.

このブログの記念すべき2番の記事である
喫煙ルーム(黄柳野高校のこと)
でも教育現場での事件・問題の複雑さを訴えました.
そんな私なもんだから,今回もこの事件についての世間の騒ぎようが,まぁ簡単に表現すれば “ムカつきます”.

今回の件は「いじめと自殺」の問題でもあります.
これについてもう一つ関連記事を挙げておけば,
というのもあります.
子供の自殺で「いじめ」によるものは少ないよ,という記事でした.

ですが, “自殺の原因” を正確に,そしてピンポイントで特定することは困難です.
自殺の原因を作ったのはいじめの加害者かもしれません.
だけど,その自殺の全責任をいじめた生徒や学校・教員だけに負わせることはできないのです.

もっと言うと,私が頭にくるのはむしろ,「いじめ」を目撃していたという周りの生徒達をなぜ糾弾しないのか?というところです.
学校がアンケート調査を行なったところ,20人が「いじめ」を目撃してていたとのこと.そんなにたくさんの生徒が知っていたのなら,何故いじめてる奴らを止めなかったのか.

「先生に言ったけど,何もしてくれなかった」とか,君ら弱虫か.
ヒドいいじめだったんだろ? 異常だったんだろ? だったらツカツカと寄っていって,いじめてる奴らに蹴りの一発でも入れろよ,と思うのです.
そしたら,「暴力による解決はいけない」とか言うんだろうか.

「いじめ撲滅」とかお花畑なお話はどうでもいいのです.撲滅なんてできないんだから.
それより,いじめ問題を通して教えるべきは

義を見てせざるは勇なきなり

自殺した生徒の死を無駄にしないためにも,いじめが起きた時に,周りはどのような態度をとることが望ましいことなのか.それを教えることが大事なのではないでしょうか.


さて今後ですが,予想されるのが以下の3点.
(1) 新たないじめ事件探し(すでに飛び付いていると思われる)
(2) 自殺といじめの関連説明(どこからか精神医学者が出てくると思われる)
(3) 報道に影響されて自殺者が増加(ウェルテル効果と呼ぶのだそうな)

今回の騒ぎの代償はあまりにも大きいとしか思えないのですが.