2013年3月31日日曜日

学生とのやり取り その2

前回の記事の学生から,先日メールがありました.
良いブログのテーマになるかと思い,以下にその学生への返信文を掲載します.

——————
◯◯さん
メールありがとうございます.
本当にご自身で考えられたメール内容ですか?
失礼ながら,私の想像以上にしっかりした学生のようです.
それだけに,ちゃんと返信しないとと思いました.

私の考えを返すわけですから,メールだと長くなるし,テーマをその他大勢の人と共有したい意味でももったいないので,ブログの記事にさせてもらいました.


> ボランティアって英語だけど海外(とくにアメリカなど)ではあまり推進されたイメージがありません.

◆おそらく日本人と海外(欧米)とで,「ボランティア」に対する捉え方が違うからでしょう.
多くの日本人にとっての「ボランティア」とは,その訳である「義勇兵」や「慈善活動家」ではありません.
誤解を恐れずに言えば「無償の作業員」という捉え方が強いのです.

本来の「ボランティア volunteer」の訳である「義勇」や「慈善」の意味を考える必要があります.
そこに,ボランティアを取り巻く欧米と日本の文化の差が表れています.
ヒントとしては,「キリスト教文化と神道文化」です.「日本の福祉」を勉強する上では重要だと思いますので,勉強してみてください.

◯◯さんの言うように,欧米ではボランティアは「推進」されるものではありません.
「義」があり,「善」なものを「推進」する必要は無いわけで,まさに本来の「ボランティア」として行なうべきものだからです.
ところが日本では,「ボランティア」を,ただなんとなく「義」があり,「善」なものとして捉え,そこから「推進」されて然るべき活動だという認識になっているように思います.

簡単に学校教育に「教材」や「実習活動」として取り入れられる動機もこれです.「義」があり,「善」だという共通認識があるものを,拒否する理由は小さいからです.

しかし,「ボランティア」という名称をつけた「使命と理念なき無償の作業」が横行してしまうと,本来「ボランティア」が持っているはずの「義」と「善」の意味が力を失ってしまわないだろうか?私にはそういう危惧があります.
ボランティア活動をするのであれば,まず最初に活動の「理念」と「使命」が明確になっている必要があり,この点に注意して実施されなければならないと考えています.

日本のボランティア活動が,社会的な渦を作り出せないのも,そういった活動理念がない「ボランティア」が氾濫しているからだと思います.
つまり,何が「義」で「善」なのか?といったことを深く考えずに取り組まれていることが,日本におけるボランティアの活動限界だと思われます.


> 日本もアメリカも資本主義ですが日本はみんなで協力するイメージが強く社会主義のイメージもあります.
> あと年功序列?(年齢によって階級を決めるやつ)が日本ではあるけど海外ではイメージがありません.
> そのせいで中国などは貧富の差が問題になるなどもありますが,個人的には海外の考え方に賛成です.
> 大物政治家や会社の何代目社長などは実力がなくても地位を確立しています.
> 責任を負うというプレッシャーも大きいですが,なにかボロが出ない限り実力がなくても権力を握っているからです.

◆資本主義と社会主義のバランスがとれた世界最高レベルの社会,私はそれが「日本」だという認識です.
『資本論』で有名なマルクスが目指した理想郷「共産主義社会」とは,実は日本のことではないかと言う人もいるくらいです.

実力社会や,努力した者の価値に見合った報酬が推奨される社会は,ある意味で歓迎されるべきものですが,その代償も大きいのです.
人間の欲望とは果てしないもので,自分の実力を伸ばすため,そして報酬を得るための「努力」は,その果てに「公共の福祉」を脅かしかねません.
人間というのは「身分をわきまえる」とか,「分相応」ということも大事です.
聖徳太子が日本社会の根幹を見事に表現した「和をもって貴しとなす」には,もちろん弊害もありますが,「いろいろあるけど,なんか幸せだよね」と言える社会が日本で生まれ育った者にとって最適なのではないでしょうか.

政治家や社長が世襲的であることも,そんなに悪い面ばかりではありませんよ.
純粋な資本主義や民主主義の社会では,政治家や社長も自分の実力をアピールしなければならない社会になります.
そうなると,政治家は「当選」するために世間ウケの良い言葉を振りまき,社長も「業績」のために金儲けに走ります.それが純粋な資本主義と民主主義なのですから.

つまり,政治にとって,商売にとって,本当に重要なことや道徳・倫理が損なわれるのです.
世襲的であれば,そういった「世間ウケ」や「金儲け」に走る必要も少なくなります.
年功序列も同様で,本人の「実力」とは別の,こうした余裕のある安定した地位が,正義や道徳を貫くための下地になる面もあります.


> 天皇など血縁で特別扱いされている人が嫌いなのも事実です.
> ただ天皇は国の神?としてのプレッシャーは計り知れないとは思いますけど笑

◆天皇のことについて改めて勉強してみましょう.
学校でちゃんと教えることはないですからね.
私には単純に「凄い」存在だとしか表せないものです.

世襲については前述した通りですが,それ以外にも,天皇には「日本国の象徴」としての意味があります.
好きになれとは言いませんが,日本がこの天皇制から受けている恩恵は計り知れないものがあると思っています.


> グローバル化が進んでいるとよくきくけど,世界が一体化しても根本的な社会の仕組みが変化しないならあまり変わらない気もします.

◆良い洞察です.その通り.グローバル化しても何も変わりません.変える必要もありません.
むしろ,社会の仕組みを変化させようという者と,維持しようという者との間で争いが起きます.
グローバル化するということは,ある一定のルールで交渉しようという動きです.
しかし,誰もが納得するルールや交渉などありはせず,価値観や宗教観,文化の違いを無視したものになりがちです.
しかも出来上がるルールは「強者」の側にとって有利なルールになるのは当然です.
そして,強者に有利なルールのもとでは,弱者が搾取される構図になるのは必然です.
つまり,グローバル化によって「貧富の差」ができてしまうのです.
しがたって,それに抵抗しようとする者が出てきて「争い」になるわけです.

というか,現代の戦争や紛争の多くはグローバル化のせいです.
もっと言うなら「戦争」とは,グローバル化する動きによって発生する「争い」と言っても良いと思われます.
誤解を恐れずに言うなら,戦争をしたがる勢力がグローバル化を推進しているとも言えるのではないでしょうか?
さて,グローバル化を推進している勢力(国)を挙げてみてください.
「グローバル,グローバル」と言ってる勢力の周りには,常に戦争と貧富の差があるはずですよ.

ちなみに,グローバル化を推進している企業も,社員の扱いに問題があるのではないですか?
つまり,社員に「競争」をけしかけ,社員間にも「貧富の差」が大きいということです.
どことは言いませんから,ニュース等を検索してみてください.

少なくとも私は,過度なグローバル化によって各国の国民が幸せになるとは思いません.
過度なグローバル化は,人々を争わせ,格差を作り出すものなのです.
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以上が,メールへのコメントです.
私の考えは私のモノですから,◯◯さんなりの考えを見出していってください.
実際,私も明日には上記の考えとは違うものになっている可能性もあります.

2013年3月24日日曜日

迷わず行けよ 行けばわかるさ

卒業式が終わり,引っ越しも最終段階です.
家財と研究室の荷物は送りましたので,あとは自分自身が行くだけです.
今は,なんにもない部屋で,スーツケースを机にしてブログを書いています.

学内に広く報告せずに大学を辞めることになったので,ここ最近になって私が大学を辞めることを知る人もままおりまして.
昨日も学生の1人から,その旨のメールがきました.

今日は,この学生とのメールのやり取りをご紹介します.
1年生なのですが,「大学教育とは」という事に,かなり勘付いている学生でして,その学生に向けた記事として読んでもらえればと思います.

この学生のメールに,私は心底感動してしまいました.
「おーっ! 分かってくれている学生もいるんだ!」
という感じ.
教師冥利に尽きるとはことのことなのですね.

細かく記述すると恥ずかしいので,端折りまくると,こういうこと.
(1) 1年間,ありがとうございました(お礼)
(2) 「常識」「テキストの内容」も大事だけど,「先生オリジナルの考え」を学びたい

この学生は,「基礎学力」とか「リテラシー」といったものより重要な,“大学で学ぶとは,どういうことか” という「姿勢」を持っています.

若さ故の表現なのかもしれませんが,この学生が言うには,
「常識 = 正しい」を伝える教員は好きになれない.
でも先生(私)は,
「常識 + 先生の考え」を教えてくれたので視野が広がった.
とのこと.
(どういたしまして)

入学当初から「なんか違うな」と感じていた学生のうちの一人でしたので,このようにメールとかで文章化して考えを示してくれると,よく分かります.

大学で勉強する上で重要な「姿勢」というのは,「教員の考え」を汲み取ろうとする姿勢です.
私自身,この学生に「教えた」つもりは毛頭ないのですが,そのように「汲み取った」ということでしょう.
危ない大学に入学してしまったとき
でも紹介した,「学問とは,問うて学ぶこと」に通じます.

この「姿勢」,つまり「問うて学ぶ」を身につけさえすれば,あとは,おのずと大学らしい学びを得る事ができます.
さすずめ,
迷わず行けよ,行けば分かるさ.
といったところです.

こういう学生,実は少ないのです.その多くは「テキスト」を効率よく教えてもらおうという傾向が強いわけでして.
テキスト至上主義とも言える,テキストに書いていることだけ教えてもらえればOK,みたいな大学教育は虚しいですよ.
やる方は楽だけどね.

いろいろな記事でも繰り返していますが,大学というのは「王様は裸だ」と叫ぶところです.
皆が「うん,うん.そうだ,そうだ」と決め込んでいることに,一撃を加える機関です.
(これが行き過ぎて,突飛で極端なウケ狙いなことを言い出すところもあるので,バランスが大事だけど)

そんなわけで,大学教員による教育は,研究に裏打ちされたものでなければならないのです.
これについては,カール・ヤスパースの大学論を引き合いにした,
大学について
を参照してください.
常識を疑う・吟味する,もしくは,新たな「常識」を作り出す.
すなわち,テキストを疑う・吟味する,新たなテキストを作り出すのが,大学と大学教員の務めです.
つまり,飽くなき前言撤回の繰り返しの場(研究現場)なのです.
そうした「研究現場」という現在進行形の中において,学生は揉まれ,大学らしい教育が享受されるのです.

さて,くだりの学生が言う,
“「常識 = 正しい」を伝える教員は好きになれない”
についてですが,一応そういった先生方の擁護・弁護もさせてください.

過去にも,
こんな挙動の教員がいる大学は危ない
とか,
こんなホームページの大学は危ない
で紹介したように,大学や教員側の本意とは裏腹に,やらねばならぬ状況というものがありまして.
その流れに逆らえない立場というのもあります.

「常識 = 正しい」という教育を嫌う学生,これは希少な存在ですので,是非とも大事にしてほしいのですが.
その一方で,「常識をしっかりと教えろ」というプレッシャーを感じているのが大学と教員でもあります.
この「プレッシャー」,どこから来ているのかというと,それは学生(高校生)であり保護者,そして企業だったりするのです.
最近は文科省という強敵も現れました.

反・大学改革論シリーズ
でも書きましたが,大学は世間からのプレッシャーに弱いところがあり,小規模・経営難大学ほど,その傾向が強いのです.
それゆえ,
で示したような大学教育を,胸を張ってできない状況の大学があります.

胸を張って硬派な大学教育をやってしまうと,
「難しいこと教えるんだな」
というわりには,
「でも就職には関係ないことなんでしょ」
ということになって,
「なら,取り敢えず卒業させてもらえて,就職に有利な大学がいい」
と言い出してくるならまだマシですが,
「ついでにキャンパスライフが楽しそうなとこがいいよネ!」
なんてことになる上に,実は世間様の本音としては,
「就職(金儲け)の方略を教えるのが大学の使命だろぉ?」
などという禍々しい邪気が漂い始めた昨今,
「ビジネスに役立つ一般常識と,グローバルな人材育成を重視(ドヤ顔)」
という定型台詞を平気で吐くようになってしまい,
「この大学,アピールしてることは硬派なんだけど,面白くなさそう」
てな感じで全然学生が集まらない.そしてさらなる経営難.
という図式になるのが怖いわけです.

そんなわけで大学は,いわゆる「世間でブームになっていること」「マスコミで話題になっていること」,つまりは「学生と保護者が求めること」を,そのまま提供するようになるのです.
だって,そうしないと潰れるから(と思い込んでいるから).

私も,やりたいことの半分も出せずに3年を終えた感じですしね(そんなものかもしれないけど).

そんな先生方や職員さんを察してくれると幸いです.
学生諸君におきましては,
をしっかり読んで対処をお願いします.

ただし,最近は “本気で” 金儲けと学生募集にひた走る大学や教員が増えていることも事実でして.
なんだかなぁ,と.

そんなこと言ってても埒があかないので,
例の学生に伝えたい言葉でしたが,自分にも言い聞かせ,次の大学でも頑張ります.
迷わず行けよ 行けばわかるさ
ちなみに,これはアントニオ猪木の言葉ではありません.一休宗純の言葉です.

この言葉は,『般若心経』の最後のパートである,
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ギャテイ,ギャテイ,ハラソウギャテイ,ボジソワカ)
*(行く者よ,迷える世界から悟りの彼岸へと行く者よ,行けよ,行けばわかるさ,幸あれ!)
に通じる言葉だと捉えています.

「迷わず行け」ったって,どうやって行くんだ?,と思われた人.
これについては,お釈迦様の最後の教えである,
自灯明法灯明
*(自らを灯火とし,自らを依処とせよ.法を灯火とし,法を依処とせよ)
に従います.

まとめると,
世の中を成り立たせているモノ(法)と,自分自身を信じて行きなさい.
それに従えば,迷わない.そして,行けばわかる.
但書:でも,行った先でわかることは,行かなきゃわからない.つまり「わかったこと」ってのは,自分自身でしか認識しようがないので,悪しからず.では,健闘を祈っております!
というのが,私なりの「仏教」の解釈です.

大学教育にも同じ事が言えるのではないでしょうか.
大学も飽くなき真理の探求です.
自らの力を信じるしかないし,依処はと言えば,確からしいとされる学術的な方法だけです.

「大学で学ぶ」とはどういうことか?
金銭やステータスを得るために通ってるわけじゃないでしょうし,経営のために大学をやってるわけじゃない.
そういったことを考えながら勉強してほしいですし,こちらも精進せねばなりません.

※ちなみに,仏教と大学の関係も深く,「世界最古の大学」は,以下の写真にも示した,現在のパキスタンにある「タキシラ」と呼ばれるインド哲学と仏教を伝えていたところなんだそうです.
写真:wikipedia
※似たような記事に,
があります.ご参照ください.
 

2013年3月17日日曜日

そうだ、また京都、行こう。

TPP交渉参加の発表に戦々恐々としている今日此の頃ですが,「なるようになるさ」と思い込みたい気持ちを胸に,昨日は「裏ゼミ活動」に出かけてきました.

卒業生と秘かに開催している「裏ゼミ活動」も,これで5回目くらいになります.

秘かに行なっていますが,だからといって悪いことしてるわけではありません.なんとなく,秘かにしといたほうがいいかなと.他意はありませんよ.

このゼミは「関西の魅力をとらえる」ということで,渋い観光地を訪問し,写真を撮りまくることを目的としています.
これまでの活動歴は,
(1)淡路・香川
(2)京都(金閣・銀閣 他)
(3)但馬
(4)奈良
といったところ.
今回は第二回目の京都行です.「嵐山」と「清水寺」に行って来ました.

先日,私もついにデジタル一眼カメラを購入.
「そのうちデジ一買うよ」と言ってましたが,これまではずっと普通のデジカメ『CASIO EX FH-100』でして.
普通のデジカメでも十分だと思っていましたが,やっぱり良いですよ,デジタル一眼は.
卒業生が使っている一眼レフ(Canon EOS)の魅力に負けて,この度めでたく購入ということになりました.

ということで,私の『Nikon1 V1』のデビュー戦は京都です.
相手に不足はありません.

なにかと京都に遊びに出かけることが多いここ数年.
私にとって関西最後が京都とは,
うん,いいんじゃないでしょうか.

では,撮ってきた写真を以下に示します.

嵐山:渡月橋

嵐山:竹林

天龍寺

 天龍寺の庭園

清水寺:仁王門 

 清水寺:舞台

少しずつですが,カメラの扱いにも慣れてきました.
今後も腕を磨いていきたいと思います.

今回の“ゼミ活動”は,卒業生が運転する車で移動.気楽でした.
これまでは私の車で動き回っていたのですけど,その車も昨年のうちに売っぱらいましたので.

関西で思い残す場所は,「熊野」です.
那智の滝,那智大社,古道.
でも,あの地域に行くのには,やたらと時間がかかります.
試しにグーグルマップの機能で計算してみてください.びっくりしますよ.

さて,どうしたものやら.
今後の研究テーマです.

2013年3月9日土曜日

フットサルとラーメンと特設ベッド

本日は,母校でシンポジウムが開催されるということもあってフラッと顔を出してみたのですが,思いがけず様々なイベントを経験できました.
結局,自宅に帰ることも面倒になり,泊まることにして今に至ります.

今日は「関西」の締めくくりという意気込みで(来月から関西を離れる),母校のメンバーと共に,フットサルにラーメンにと,懐かしい恒例のコースを満喫しました.

で,これがフットサルコートの写真.
このコートからも暫くサヨナラすることになります.
少し(ほんとに少し,どうせ直ぐ仕事で戻ってくるから)寂しいですね.

ゲームでは,お世話になっていた先輩にも偶然お会いでき,直接あいさつできましたし.有意義な時間でした.

あと,スポーツって,やっぱりいいなと改めて実感しています.


そしてラーメン.
大学院時代には,ひたすら通い続けていたラーメン屋の一杯(そして替え玉3杯).
フットサルに疲れた体に懐かしいスープが染み渡ります.
至極のひとときです.
ビールも飲んでやろうかと思いましたが,さすがにやめときました.けっこう疲れたので,悪酔いするかもしれなかったので.

んで,お会計なんですけど,先輩ヅラして格好良く全員分の支払いをしてやろうかと思っていたら,財布の中身は紙幣が一枚.
「俺とりあえずコレ出しとくから,あとは割って」
と微妙なことに.まいっか.


そして今日は大学の研究室で一泊.
大学事務員の後輩にご足労をおかけし,カギを秘密裏に入手.
今夜のお部屋はここです.

というのも,大学の周りにある(唯一の)ホテルに電話をしたのですが,ぜんぜん受付と連絡がとれず(サービスが悪いことで有名),しかたなしに(でも少しワクワク)大学に泊まることにしたのです.

とは言え,大学研究室の宿泊能力を甘く見てはいけません.
ハンガーなくてもスーツはイスにかければいいし,パソコンもあるから,こんなふうにブログの更新もできちゃう.
空調も完備されており,非常に快適な一晩が過ごせます.

え?ベッドはどうするのかって?
こうするのです.
イスを3つ互い違いに並べて,そこに寝る.これ,最強.
たとえ写真のような,キャスター付&回転式オフィスチェアであっても,安定した睡眠が約束されます.

ただし,このベッド設営にはコツがあって,以下のように,
3つを互い違いに並べず,すべて同じ向きにしてしまうと安定感が得られません.
 必ず互い違いに並べましょう.
これが大学院時代に学んだ奥義です.

ん?
部外者が勝手に大学に侵入しているっていう状況じゃないかって?

でもまぁ,
おやすみなさい.

2013年3月7日木曜日

彼女に言ってやりたかったのは

彼女に言ってやりたかったのは,止まることを恐れる若さと,結局は止まることなどない人間の性についてだ.常に前進したいと彼女は言った.その前進とは,何を基準にしているのか.どこから観測したとき,前進していると見なせるのか.逆に,どんな位置に立てば,人は停止していることになるのだろうか.さらに,もう一つ.
自分が前進する者だと認識することで,その瞬間に,前進は止まるだろう.
森博嗣 著『少し変わった子あります』の一節です.
妙に印象に残っているので,これを冒頭引き合いにして今日の記事を書こうと思います.


大学に行く意味はあるのか」と題してレポートを出してきた学生がいます.

私の大学では(そして辞める大学では),1年生を対象とした『初年度教育』と多くの大学で一般的に呼ばれている授業がご多分に漏れず存在しております.
その授業の年度の最終課題として「テーマを自由に設定して2000字程度の論文を書く」というのがありまして,そこで出てきたレポートです.

ちょうど「大学とは...」というテーマでブログの記事を書き殴っていた時期とも重なるので,少し思い入れがあるレポート指導でもありました.

で,そのレポートの内容はというと,ありきたりで非常に面白くないのですが(なら面白くなるように指導しろって?たしかに...),「やっぱ学生はそう考えてるんだね」というものでしたので,そういう意味で興味深く拝読,そして採点させてもらいました.

過去の記事では,私が考える大学という機関の社会的機能や「使命」とか「理念」,大学教員視点としての文句を垂らしておりました.
でも,その中でも言及しておりますけど,大学という存在は「学舎」と「教職員」だけで成り立っているのではなく,「学生」の存在も非常に重要な構成要素なわけです.
例えば「授業」を評価(良くも悪くも)することについても,教室という環境と教員の教え方といったものだけが問われるわけではなく,学生の学ぶ姿勢も重要になっていきます.

今回の記事では,過去の記事で放っといてしまっていた「学生側の大学への眼差し」を取り上げましょう.
そして,大学が向かおうとしている方向性(要するに大学改革)との相互関係を分析し,その学生に向けた言葉として書いてみようというものです.

そのレポートに見られたキーワードを上げましょう.
今の学生が,大学に求めるものは何か?,そして大学に行く理由は?というと(周りの友人25名に質問調査したのだそうな),
1)就職
2)資格
3)仕事に役立つ専門知識
4)モラトリアム(将来について考える時間)
5)みんなが行くから
6)幅広い教養
7)学歴
に収斂されるそうです.
よくまとめましたね.1年生にしては良くできています.褒めてつかわす.と言いたいところです.
たしかに,これが現代(というか一般的な)の大学生の代表的な意見なのでしょう.

6番目にあるように,「幅広い教養」という回答が学生にあることは嬉しいのですが,概ねその他の意見が大勢を占めているようです.
で,これに対応するため,大学側は高い就職率や資格取得率をアピールし,そのサポート体制に力を注いでおるのが現状でありまして.

大学の授業にも「社会に出て役立つ知識」とやらを求められます.というか,【ここ重要!】その “要求” とか “テーマ” が学内のどこから出ているのか分からないんですけどね.よく教職員間での話として出てきますが,私はその源流を辿ろうとは思いません,暇じゃないしアホらしいので(暇ができたら辿ってみます).

私も学生のときにはそうだったのですが,大学に行く理由は一言で言えば 「自分への投資」 です.
自分の将来に役立つ知識や技能を得ることが目的なのです.それに尽きます.
よって,学生からすればなんとか「自分のため」になるモノを貪るために大学で過ごすのです.

これについて,学生(受益者)側はそれでいいのですが,教員(大学)側も同じ感覚でいちゃマズい,ということを過去記事ではたくさん書いて来ました.
つまり,「学生のための大学ではダメだ」という趣旨の記事でしたね.これについてきちんと説明しないといけないと思いましたので,その理由を詳細にお話ししましょう.

簡単に言うと,「学生のための大学」とはつまり,「学生が求めるモノしか出せない大学」になってしまいやすいからです(「しまいやすい」というのは慎重な表現です).

では,「学生が求めるモノ」とは何かというと,よほどの博愛(or愛国)者,利他主義者でない限り,それは「自分のためのモノ」であるわけでして.

そして,この「学生が求めるモノ」というのは,残念ながらそんなに高尚なものではないわけで,もっと言うなら,その学生が飛び込んでいく「社会」とか「企業」が求めているモノも,学生が求めているモノとさして変わりないのです.

例えば大学が企業などから求められているのは,「もっと仕事に役立つ知識を教えておいてほしい」とか「経営・運営能力の高さ」とか「コミュニケーション能力の高い人材」とか「グローバルな視点を持つ人材」とかです.
※ネットで検索したら,いろいろな調査結果が閲覧できますし,文部科学省のHPには,そうしたことを踏まえた大学改革実行プランなるものが見れます.

つまり,こう言っちゃ悪いんですけど,「程度の低い要求」ですし,ちゃんと言うなら,「大学で教えることではないし,教えられないこと」なわけです.

誤解を恐れずに言うなら,「学生や社会が求めるモノしか出せない大学」,そしてそういった大学へと向かう改革,舵切りというのは,そんな程度の低い要求に従う大学を目指すということなわけで,もっと端的に言うなら,「学生や企業の商売(つまり金儲け)を助けるコンテンツを提供する大学」ということであります.
すなわち,人類や社会に価値をもたらすような大学ではないわけです.

そんなことを言うと,思わず「そんな大学があってもいいじゃないか!商売だって重要な人類の営みだ!」と開き直る大学人もいるのですけど,これについては人間を考える上での「思想」の問題になってくるので,テーブルを別にして話さなきゃいけないことですね.
少なくとも,そんな大学や教育の在り方は,私は嫌です.

過去の記事で,「教育レベルを下げないと,(経営力が低い大学は)淘汰される」ということを書きました.
※その詳細は長くなるので,ぜひ ■反・大学改革論 のシリーズを合わせて読んでください.

学生の「研究能力」を磨くのが大学教育の一つでありますが,それがなくても就職はできます.むしろ,させない方がいいのです.
なぜかというと,就職活動と学術活動は別物で,しかも邪魔になってしまうことが多いからです.
実際,勉学をやるより,就活対策をやったほうが出口(就職)の打率は上がりますからね.

極端な話,就職対策や試験対策というのは,求人や合格予定者数といった,つまり「パイ」を取り合う活動に他なりません.
これは就職先の求人や景気,ブームといった,状況次第でどうにでも変化するイベントということになります.
すなわち,極めて個人的な,市場原理的な,そして利己的なものなのです.

これに頑張って取り組むことを否定するつもりはありません.私だってそのような活動をして今に至っているわけですから(前回の記事なんか,その例でしょ).
でも,大学という場において 「皇国の興廃この一戦にあり」 という姿勢で行われる活動ではないのです.

真理の探求,学術的研究といった,普遍的な価値を見出そうとする営みとはベクトルが違うわけでして,私がみるに現在の大学とは,いかに世間の要求を無視できるか?が問われていると言っても過言ではないのです.

しかし不幸なことに,大学の就職率を上げるために,学生の卒論や研究活動を適当に済まそうという考えが,実は教員側に芽吹いしまう場合もあります.
学生の就職や企業の商売,そういったことに(一見)役立つ教育をすることを前提・目的とした大学には,絶対に未来はありませんと断言しておきます.

「役に立たない研究をする方が悪い」とか「象牙の塔で,浮世離れした活動こそ,淘汰されて然りではないか」などという意見もありましょう.
ですが,これは過去に何度かブログ中に書いていることですが,大学とは「王様は裸だ」と叫ぶところです.
非常識なイカれた大学教員がいることは確かですけど,そうした教員を一応のさばらせておくのも大学という機関の大事な務めだとも考えられます(うーん,説得力に欠けるか,例えが悪過ぎたか).

ある一定の基準(学術的とか,科学的とか)をもとに,最先端のテクノロジーや思想・哲学を紡いでゆき,その雫を学生に振り掛けることで,「大衆」を「市民・国民」にする教育機関,それが大学の機能だと私は定義しています.
※詳しくは,■大学について2 で書いた.


そんなことを(ダイレクトには言わないけど)1年生の大学生に話しても,まだ難しいでしょう.
なので,くだりのレポートを出してきた学生には,もっと時間が経ってから話そうと思って黙っときました.
大学で過ごす日々は,きっとその学生を何かしら成長させているはずで,準備ができてからの方がいいのかな?と.

でも,私が彼女に言ってやりたかったのは,自分が求めているものの価値が今はまだ分からない若さと,結局は分からないままで終わることが多い人間の性についてです.
大学で自分にとって必要なものを得たいと彼女は言いました.でも,本当に必要なものというのは,えてしてその時には分からないものですし,求めるものが満たされるということもないわけで.逆に,大学で得られるものの中で必要無いものというのは何なのでしょうか.
さらにもう一つ.
自分にとって必要なものが何か本当に認識できるのであれば,大学という場所で学ぶ必要もないでしょう.