2013年6月27日木曜日

いじめ問題は解決できるものではないけれど,それでも.

前回は,「いじめ問題」に関する書籍の紹介と,私なりの「いじめ問題論」をとりあげました.
いじめ問題は解決できるものではない
結論としては,いじめ問題というのは,誰かが管理して解決・予防できるようなものではなく,恒常的に発生し続けるなかにあって,その「いじめ」という状況をいかにコントロールするかが問われるのではないか,というものです.

いじめ問題を教師の責任にするな,というのが私の主張なんですが...
抽象論ばかりなのもなんなんで,今回は私自身のエピソードをお話しようと思います.

ただですね,こういうのって,ちょっと自慢話めいたものになるので記事にすることに気が引けていたのですが,何かの拍子に皆様にとってポジティブな影響があれば幸いですので,ご参考にしてもらえればと思います.

私自身,「いじめを受けた」,または「いじめていた」という認識もありませんので(ただし,「いじめていた」という認識については誤認・誤解があって難しいのですが,この記事では割愛させてもらいます),これは「外野」としてのエピソードです.
でも,これまでの記事でも書いているように,いじめ問題というのは,この「外野」こそが重要なアクターとして振る舞うわけですから,こういう視点も大事かと思います.



高校時代のことです.
いじめられやすい生徒「A君」というのがおりました.
いじめられやすいというのは,彼の性格というか,もっている雰囲気というか,とにかくA君は少し変わっているのです.
私自身,“変わってる人” が多い大学界に身をおくようになった今でも思うのですが,やっぱり彼は変わっておりました.
そして,「いじめやすい」雰囲気も持っていました.というか,A君のようなタイプの人は,確実にどんなところでもいじめられるでしょう.

フォーマット化された表現をすれば,まじめで,人当たりがよく,明るくて,人に嫌な思いをさせない生徒.そして,先程は「変わってる人」と言いましたが,こういう人はどこにでも一定数はいる「普通の人」と言えなくもないわけでして.

でも,率直に言って「(周りが)見下しやすいタイプ」であり,知的水準も低そうで,場の空気を読めないところがあり,からかったり小突いたりしても歯向かってくる雰囲気もないというところで「いじめられやすい」という感じなのです.
私にしたって,A君のことをいじめたりはせずとも,見下していなかったと言われればウソになります.

きっと皆さんも,なんとも言えないけど「いじめられやすい」という人の存在,分かってくれるのではないでしょうか.
前回紹介した諏訪氏からすれば,最近はこういう「いじめられやすい生徒」以外のいじめが発生しているということですが,まぁ,とにかくこういう生徒は確実にいじめられるわけでして.
ご多分に漏れず,このA君も1年生の頃からいじめの対象になっておりました.

ちなみに,卒業してから後,あるルートで聞いたのですが,A君は中学校の頃にそれはそれは凄惨ないじめに会っていたとのことで,いじめ慣れしているところもあったのかもしれないです.

さて,私とA君は野球部に入部しました.
当然,変わってるA君は同級生や先輩からの「からかい」の対象になりました.どんな「からかい」かというと,「おい,今度はグローブ忘れんなよ」「お前,野球やってる場合じゃねぇだろ」とか,帽子を跳ね飛ばしたり小突いたりといった,文章にすれば極々普通の高校生の冗談交じりの会話や行動なんでしょうけど(私もその標的になったこともあるわけで).
だけど,彼を標的にした場合には「からかい」とはベクトルの違う,若干の「いじめ」のエッセンスが混じっている.そんな感じです(わかります?).
春から夏にかけては「からかい」で済んでいたのですが,事が起こったのは野球部の夏合宿.

いつも通り合宿中もからかわれていたA君.そうこうするうち,同級生のB君の「からかい」が少しずつエスカレートしていくのが気になりました.
B君というのは,私やA君と同級生でして,少しヤンキーの気が入っているけど,いわゆる悪い奴ではありません.ただ,ちょっと調子に乗り過ぎる部分があるという「どこにでもいる人」.

監督が用事があって宿舎を離れ,生徒だけになった時です.“いつも通りに” B君がA君を小突いていたのですけど,それがそのうち「小突き」ではなく「パンチ」に,そして「暴力」と捉えられるようなものになっていきます.

顔色が変わるA君.でも抵抗しない.抵抗しないA君をいいことに,強度を高めるB君.
「これは一線越えている」と私は思い,「おい.B.やめろ.そこまでやったら面白くねぇよ」と,間に入って制止.なんとなくB君への配慮みたいなニュアンスも込めておきました.
A君を守りもするけど,単純に注意しただけだとB君の立場が居心地悪いものになる.そんな感じがしたのです.
正義面した言葉をかけるのも照れくさい,というのもありました.
そして,「からかい」と「いじめ」の標的が,巡り巡ってA君から私へと変わるのではないか?という不安もあったのかもしれません.
そういった諸々の事情からはじき出された言葉が,上記のものでした.

でも,同じような事が後日もう一度起きます.今度は部員も何人かいる前で.しかも,先輩Cさんもそれに加わっています.
「だからやめろって」と,今度はB君の目を覗きながら言いました.「へへっ」と笑いながら,照れ隠しするようなB君.私としてはCさんには言えないので,代わりにB君だけ対処(Cさん怖いし).周りの部員たちも気不味くなって.そこで事は終了.

B君としても,ちょっと真剣に注意する私を見て,「ありゃ?オレ悪者じゃん」ということに気づいたんではないでしょうか.周りの部員たちも気不味い雰囲気をつくってくれたし.
B君のようなことをA君にしていたのは,他にもいるわけで.でもその時,少なくとも野球部ではA君への「からかい」に限界ラインが引かれました.

1年生の夏合宿以降,少なくとも私が見ている前ではA君に対する「いじめ」はありませんでした.変わってる人の宿命である「からかい」は続きましたけどね.

でもまぁ,きっと影でいろいろといじめられてたんだろうな.とは思いますよ.
この高校は全寮制です.なので「逃げ場所」が少ないという側面もあるんです.
時々,何かしらの暴力を受けた痕が見える時もありましたし...

そんなA君を少しは守ろうという,私なりの若い正義心がありまして.
3年間,私と寮が同室だった同級生にK君というのがいるのですけど,彼と一緒にできるだけA君と遊ぶようにしていました.なんだかA君を(今風にカッコよく言えば)孤立させたくなかったのです.
休日なんかはずっとTVゲームばかりやってるというので,頻繁に校外にキャンプへ連れ出したりなんかもしました.
※このキャンプのエピソードは,それはそれで我ら「3バカトリオ」が青春してて面白いのですが,ここでは割愛させてもらいます.
とは言え,例えば,
・暴風でテントが飛ばされちゃったでござるの巻
・えらく綺麗な山だなと思っていたら頭上をゴルフボールが飛び交っていたでござるの巻
・これ幸いと野営したところが暴走族の集会所だったでござるの巻
なんていうエピソードです.また機会を改めて...

これ言うと自慢になっているので痒いんですけど,野球部で体格も悪いわけでなく,ヤンキー系の生徒ともしゃべってるんだけど “ワル” ではなく,寮長や寮会長(通称・夜の生徒会長)をやってるような生徒が,A君のバックにいる.今にして思えばこれは,A君のようなタイプの生徒に対し,いじめっ子が手を出しづらい結構なファクターかと思えたり.

もちろんそれだけじゃないですよ.A君が全寮制の高校生活においても追い込まれて自殺ではないにしても「崩壊」しなかったのは,A君と寮が同室の人の存在,A君を理解する友達や野球部のみんなが作り出す「輪」がA君を支えていたのではないかと思うのです.
特にA君と寮が同室の人なんかは,いわゆる「逃げ場所」としての部屋をつくってくれたのは大きいはずです.

A君は元気に卒業していきました.
「A君,将来の進路はどうすんの?」
「ん?介護で働く」
「え!?(笑)A君が介護された方がいいんじゃね?(笑)」
と私も「からかい」ながら.
今はどうしてるでしょうか,そろそろ再会してみたいですねぇ.

A君のように,あからさまに「いじめてください」のオーラをまとっている生徒は,教師や学校,カウンセラーができることは限られています.まして,寮制の学校ではさらに難しいわけですが.

だからこそ,周りの生徒の言動にかかってくるはずです.
冒頭では周りの生徒のことを「外野」として表現しましたが,むしろ外野こそが当事者なのです.
「いじめ問題を教師や学校の責任にするな,周りの生徒こそが当事者だろ」ということなのです.

義を見てせざるは勇無きなり,が素直にまかり通る土壌が私達の高校にはありました.
そんなに強い勇が無くとも,それを後押ししてくれるものがありました.

今回の私のエピソードのようなことは特殊な事例ではなく,全国の学校で意識的にしろ無意識的にしろ展開されていることではないでしょうか.
だからこそ,統計上は「いじめ」による自殺は少ないわけで.

むしろ,「いじめ」は格好の教育材料なのです.
こうした「いじめ」の場の只中にあって,生徒がどのように振る舞うべきか,それこそを問う学校現場であってほしいものです.

2013年6月16日日曜日

いじめ問題は解決できるものではない

世間を賑わせた「大津市中2いじめ自殺事件(wikipediaでの呼称)」.
この事件については私も
で取り上げ,その世間の傍若無人ぶりを論じ,まるで「左翼のクソどもが!」と言いたげです
※ただ,「傍若無人だったのは右翼のクソどもだった」と言いたいようですが,しかしこれは推測の域を出ません.

どうやら世間やメディアは「いじめ自殺事件」にだいぶ “飽きて” きたようでして.犠牲をはらってこの事件が残した教訓が忘れ去られる状況になることは,ほぼ間違いないようです.

それでも,せっかくこのブログを見てくれている方々には,この「いじめ問題」をきちんと論じる材料は持っていてほしいので,今回の大津いじめ事件に端を発する最近(2013年4月)出版された2冊をご紹介します.

「義憤」に託つけ,脊髄反射して感情に任せることの多い大衆世論に成り下がることを避けるためにも,以下の2冊は「いじめ問題」を考える上で重要です.
「大衆世論」に対するホセ・オルテガ・イ・ガセットの言葉を,その主著『大衆の反逆』から引用しておきます.
まえもって一つの意見を作りあげようという努力をしないで,その問題に関して意見をもつ権利があると考えるのは,私が《反逆する大衆》と呼んだ人間のばかげた生き方で,その人が生きていることを明らかに示している.(中略)愚か者は,自分を疑ってみない.自分が極めて分別があるように思う.ばかが自分の愚かさのなかであぐらをかくあの羨むべき平静さは,ここから生まれるのである.
自分自身にも言い聞かせ,日々精進です.

さて,
諏訪哲二 著『いじめ論の大罪』と,共同通信大阪社会部『大津中2いじめ自殺』です.
いじめ問題を論じる上で,非常に有益な示唆を含んでいます.
 

特に教育関係者ではない人は,『大津中2いじめ自殺』→『いじめ論の大罪』の順番で読むことをオススメします.

大津中2いじめ自殺』は,非常に客観的な文章が並びます.共同通信か.あれだけ世間を煽ったくせに,結構まともな新書を出しているんですね.そこは評価できます.
本書で「いじめ問題」について頭を冷やし,いよいよ『いじめ論の大罪』に入ってください.

著者の諏訪氏は,実際に高校教師として教育現場に携わっていた人です.いじめ問題を学校や教師が扱うことの難しさを,目を背けずにしっかり論じてくださっています.
前述した昨年のブログの記事で,私がかなり汚い言葉で乱暴に主張していることを,さすが上品な言葉で詳細かつ明晰に論じてくれています.

教育現場にいない人からすれば,『大津中2いじめ自殺』を読むと,「なぜ教師や学校はこんな対応をするんだ?」という歯がゆい疑問を持つでしょう.しかし,『大津中2いじめ自殺』ではそれについて,メディアとしては珍しく中立な文章を書きます.加害者や学校,教育委員会の罪をほじくり出すようなことはしません.
その上で,諏訪氏の『いじめ論の大罪』に耳を傾けてください.すんなり入ってくるはずです.

私としても,過去記事で繰り返していることを,ここにまとめて述べておきます.

いじめは無くならない. 無くせるものでもないし,無くしたから良い社会になるというものでもない.
どこからどこまでが「いじめ」で,「じゃれあい」や「遊び」,そして「暴力」や「犯罪」なのか?といった線引きや定義づけができるものでもない.

そもそも,学校や教師が「いじめ」を無くすことに本気になるとどうなるか,あまりにも短絡で安直な発言や主張が多すぎる.
現在の学校は「いじめの無い学校」を謳わなければならない圧力がかかっている.そういう圧力下では,いじめを “無かったこと” にする.めでたく「いじめの無い学校」が簡単に完成する.世間が「学校には “いじめが無い状態が普通” である」という脅迫めいた認識を課せば,当然そうなる.責任を逃れたい教師が「私はいじめには関知していない」と言い出す.当たり前の流れである.
「なにを言っている!それでも教師か!」と文句も出ようが,残念ながらそれが現実の教師である.こういう手合いは小説やドラマを見すぎている人なのだろうから,不満はあろうが受け入れてもらうしかない.

ならば,そうした脅迫じみた要求に従って「いじめの無い学校」を物理的に目指すとしよう.どうなるか?徹底した管理教育である.「いじめの無い学校」を本気で目指した学校では,教師が生徒の人間関係にも口出しをし始める.窃盗や暴力事件じみたことがあれば,「毅然とした対応」と言いながら警察を直に入れるようになる.その判断の閾値が低くなっていく.当然そうなる.どんどん教師が生徒とは向き合わなくなる.警察の力が入るということは,そういうことである.
それから逃れたい生徒は,なるべく人間関係を狭くしようとする.気の合う仲間以外とはコミュニケーションをとらない方略に舵を切る.生徒としては非常に合理的な選択である.

そして...,
それでもいじめは無くならない.これは間違いない.冒頭に述べたように,いじめは無くせないものだからである.以前にも述べたが,厳罰化すると物事は隠れる.学校の敷地外で,そして見えない所で見えないようにいじめが発生するようになる.
ならば学校はどうするか.そうした現実を前に,世間は学校教育をどう考えるか.
学習活動や勉強だけさせれば良い.教師は授業だけすればよいのではないか.それ以外のことについては,学校は関知しなくてもよいのでは?という流れになる.

教科だけ担当するようになった教師...,
授業が上手い人が担当すればよいではないか.むしろ,それが良い.授業が上手い人,今の教師には少ないね.教師の「教え方」を徹底的に強化しよう.教科や授業だけに力を入れるようになったのだから,そこに注力さえすれば良い.
それでも物足りないと言ってくる人がいる.えっ?公立と私立の差が大きくなっている?
しかたない,公立も一部の教科は外注しよう.それがいい.そのほうが学生や保護者も納得する.そうして教育の市場原理が加速する.

でもこれが日本の教育と言えるのか?
そうなることを見越した上で,皆,いじめ論を語っているのだろうか?

ついでに誤解を恐れずに言えば,いじめによって自殺する者(子供や生徒に限らず)を無くすこともできない.減らそうという活動は推進されるべきである.だが,無くなりはしない.
もっと言うと,自殺の原因がいじめにあると判断することは現実的ではない.そもそも,さまざまな自殺の原因を特定の「何か」に求めること自体が非常に短絡的で危険である.

大事なのは,そうした “いじめ” という問題を通して,人が人間らしく,そして日本人らしく生きていく共同体・社会を考え,保守し,模索していくことが大事なのではないか.

ということです.短くまとめるつもりが,やっぱり長くなりました.

教師が「管理」しなければならないのは,「いじめ」ではありません.
いじめが発生した時に,それを上手くコントロールする共同体や社会,「人」を作ることです.「いじめ」らしき状況を見つけた時,どのように動くことが人として大事なのかを教えることなのです.
大衆世論からのチャランポランな要求に右往左往しなければならない今の学校では,それはできません.

大津中2いじめ自殺』にも散見されますが,生徒が書いた「先生に知らせたのに何もしなかった」「先生が信用できない」というアンケート結果や感想文.
これに私は驚愕したのです.
なぜ君達自身の手で助けなかったのか?まるで先生が解決するものかのように平然と書いている.
そしてメディアはそれを取り上げず,むしろ “正に生徒の言う通りだ” と言わんかのような態度です.
こんな姿勢で「いじめを無くそう」とか片腹痛い.こういう状況こそが最も危険な状態なのではないでしょうか.

2013年6月13日木曜日

幼保一体化とか,子ども・子育て新システムとか

「私は専門ではないので」ということで言及しておりませんでしたが,福祉関係に片足をつっこんでいる身としては無関係ではありません.
今日は「保育」についてです.

昨年までは,まさに「私は専門ではないので」と言いつつ,ちゃっかり保育実習の巡回なんぞやっておりました.
学生からすれば「なんで◯◯(私)先生が来るんだ?」というところでしょうけど,実習先の保育所からすれば,誰であろうと実習生の大学の一教員なわけで.
てっきり私を保育の専門だと思って対応する実習先の方々もおります.
(実習に慣れている所では,たいてい専門外の先生も実習巡回に来ることを知ってはいますけどね)

過去の記事では,“学校教育” とか “大学教育” の改革について,市場原理主義や過激な民間参入,ビジネスライクな運営ではダメだ,という主張を繰り返し繰り返し,しつこいくらいに様々な視点で繰り返してきました.
実は,この問題は “保育” も同様なものがありまして.
なので,ここにも言及しておこうと思います.

実習巡回先で,園長先生や実習主任の方々とお話しする中で気づかされたこと.
そして,自身,一教育関係者として,きな臭さを感じていた「幼保一体化(幼保一元化)」に代表される保育・幼児教育問題です.

なお,ここで取り上げる「子ども・子育て支援新制度」に関する内閣府の説明資料がホームページにアップされています.
子ども・子育て支援新制度について
子ども・子育て新システムの流れの最新版です.気になる方は,こちらも参照ください.

さて,小難しい話はそれそこ専門の方のブログにお任せするとして,ここでは本件にまつわる「保育」に関する理念や心意気を取り上げたいと思います.

そうは言っても,まずは基本的なところをおさえておきましょう.

子ども・子育て新システム(子ども・子育て支援新制度)というのは,少子化対策と待機児童対策,それに伴う幼保一体化(幼保一元化)の検討と推進を目指しているものです.
都市部では待機児童の増加が問題になっていますが,その一方で幼稚園には定員割れがありまして.
そして地方はというと,少子化の影響もあって幼稚園だの保育所だのと言ってられず,軒並み廃園になるなかで “近い所に通わせる”,というのが現状.

そんなわけで,特に喫緊の課題である待機児童をなんとかするために,空きのある幼稚園の有効利用のため,幼稚園に保育所機能を付加してしまえ.という結構乱暴な話が持ち上がったわけです.
というのも,保育所は0歳から入所できますが,幼稚園は3歳からでないと入園できないからです.
※あと,結構重要なのが保育所は福祉施設なので,入所するためには“保育に欠ける(共働きしているとか,病気で保育できないとか)” という条件が必要です.
これに対処するため,幼稚園と保育所を一緒にする.これがいわゆる「総合こども園」というやつです.

ところが,幼稚園がこれに猛反発.
結局現在の案では,保育所に幼稚園機能を付加した「総合こども園」と,保育所機能がない「総合こども園」ができるということになっています.
後者ですが,これってつまり「幼稚園のままの総合こども園」ということでして.「総合こども園」にバージョンアップしたくない「幼稚園」に,選択の余地を与えているのです.
しかも,「幼稚園のままでいたい」という幼稚園は,そのままでもよいことになっています.意味無ぇ...
そんなわけで,4種類に大別して紹介されることが多いです.
これをまとめると,以下のようになります.
1)0歳〜5歳までの総合こども園(The 総合こども園)
2)3歳〜5歳までの総合こども園(ようは,幼稚園)
3)3歳〜5歳までの幼稚園(まんま幼稚園)
4)0歳〜2歳までの保育所(3歳未満のみの保育所)

でですね,ここで問題なのは,つまり現状の案ですと,
保育所解体
ということになるのですよ.

いえ,保育所解体が悪いと言っているのではありません.
この子供・子育て支援新制度の問題点というのは,保育所解体だけではなく,保育の理念や心意気も解体しようとするところにあります.
ある意味,保育関係者には幼稚園の頑固さを見習って欲しいくらいでもありまして,このままだと0歳〜5歳までの子供たちが,大人の都合と思惑の食い物にされてしまいます.

子ども・子育て支援新制度によって発生する最も危険なこと.
それが,保育と幼児教育を市場原理主義に曝そうとしている,という点です.

総合こども園として幼保一体にする.という考え方自体,私は否定しません.
しかし,そうであれば擁護と教育を目的とする保育所の,「福祉的機能」を最大限に維持,強化するものでなければなりません.

だいたい,幼保一体化というのは「保育所」を望む家庭が多いことによる「待機児童問題」への対処が本丸だったはずです(幼稚園は定員割れしてるんですから).

ということは,なすべきことは保育所の充実のただ一点にあるはずなのです.ところが,そのようにはなっていない.
だけならまだしも,この「保育所の充実」を目指すことに託つけて,
民間参入しやすい制度に変えよう(つまり規制緩和)
ということになっているのですからたちが悪いのです.

教育や福祉分野における市場原理が,どれだけたちが悪いのか,という点については,私の過去記事を読んでくれている人なら分かってくれるかと思います.

保育を市場原理でビジネスしたらどうなるか.考えただけでも恐ろしいではありませんか.
というか,既にその恐ろしい状況が,特に都市部(中でも東京)では発生しています.

親の満足度を高めるためのサービス
小さい敷地で大量に子供を預かる
それでいて少ない人数でカバーしようとする
しかも非正規雇用の保育士,未熟な保育士を雇ってコスト削減
駅前保育なるものが登場し,子供が悪環境下に曝されている
親のクレームや要求には教育的対処をせず,お客様として対応する

預ける親の側にとっては,安価で便利で気持ちいい,のでしょう.
保育所としても,そうした「お客様」を獲得するためのサービスを売りにしますし,そして当然,ビジネスですから利益も同時に追求します.
ライバルが現れたら,さらに,あの手この手で利益を出そうとします.

これ,最悪の保育ではありませんか.
そこに,子供の健全な発達を目指した保育がどこまで残っているか.

民間の保育所(総合こども園)でもう一つ怖いのは,事業主の都合で廃園になってしまう可能性が高いという点です.これはいろいろなところで言及されていますが,非常に不安定ということです.

また,利用者としても民間が増えてくれたところで面倒なところもありまして.
例えば役所に保育所やこども園を紹介してもらおうとした場合,役所は特定の民間業者を紹介するわけにはいかないので,連絡先の一覧を渡されるかホームページで公開するだけになります.
空き状況や入所の詳細について,役所は面倒をみてくれないというわけです.

ついでに言うと,そうやって市場原理に曝した保育所や総合こども園の経営を続けてしまうと,志ある保育士が減ってしまいます.とりあえずお金のための腰掛けアルバイトのような感覚で仕事をする人が増えてしまいます.
するとどうなるか.事故や事件,幼児虐待といったことが多発する可能性が高まるわけです.

まさにアメリカ式の保育です.
このままでは,アメリカのような悲惨な社会状況に追従することになってしまいます.

こうした一連のことは,前回の
英語教育について
でもそうですし,大学教育とその改革について述べた記事
反・大学改革論(学生はお客様じゃない)
こんな挙動の教員がいる大学は危ない
の内容と,ぴったり符合します.

教育・福祉については,日本は今,ほんとにヤバイ状態にあります.
私は保育の専門ではありませんけど...
まがいなりにも教育・福祉の専門家ではありますから,なんとかしないといけませんね.

※後日,懸念していた事が浮き彫りになった事件が発生しましたので,関連記事として書いております.
ベビーシッター事件から考える保育
慎重な待機児童対策を

子ども・子育て支援新制度や幼保一体化の問題点については,以下の書籍が参考になります.
保育関係の方や興味のある方は,ご一読をオススメします.

 

2013年6月7日金曜日

英語教育について

教育再生実行会議が,英語教育の重点化を提言してきました.
グローバルな人材を育成するためには,まずは英語教育が大事だということです.
小学校から英語を正式教科にし,大学の入試や卒業要件にTOEFLを課す,といった提言がされています.

以前にも記事にしましたが,大学にもグローバル化への要求がきております.
「授業を英語でやる」という流れもあり,それに向けて準備している大学もあります.
今回の教育再生実行会議の提言には,英語を母国語とする大学教員を2年以内に1500人増やす,というのもあったりで,かなり本腰を入れていることがうかがえます.

国際競争力を高めるためには,まずは英語教育だということなのだそうです.

はっきり言って,完全にイカれています.
亡国への歩みは,まだ止めていないようですね.

おや?この「教育再生実行会議」っていうのの中心メンバー.W大の総長です.だからこんなフザけたことを言ってきたのですね.そりゃダメだわ.

この教育再生実行会議というのは,他にも小・中・高の年数を6−3−3制から4−4−4制とか5−4−3制にするといった,サッカーのフォーメーション・チェンジのようなことを言っております.
何がしたいのでしょう.
私が会議のメンバーなら,「景気よくイケイケドンドンの GO-GO-GO にしましょう」と提言するのですが.

てっきり「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍内閣ですから,「英語教育を減らしてでも,国語教育の重点化」と言い出すのかと思いきや.
そっちー!?
という感じです.

義務的な英語教育の撤廃も辞さない,というのが持論の私としては,この提言は全く評価しません.

英語教育を強化したところで,国際競争力なんぞつくわけがないでしょ.
だいたい,国際競争力ってなんですか?
これを読んでくれている人にも聞きましょう.
もう一度,
「国際競争力ってなんですか?」

国際競争力というものを示してください.その力を手にしたら,国民は幸せになるのですか?
話はそこからです.

安倍総理がどのような気持ちで打ち出したのかは知りません.
でも,この提言の背景には2つのものが考えられます.
1つ目,「アメリカからの圧力」
普天間基地移設問題と安全保障問題を楯に,TPPと英語教育の強化を要求された,というもの.
TPPで社会をアメリカ化させ,英語教育によって思考をアメリカ化させることが相手の狙いでしょう.そうすれば,将来長きにわたって日本はアメリカにひれ伏してくれます.
でもこれは危ない取引ですよ安倍さん.社会システムと教育は取り返しがつかないものです.

2つ目,「本気でそう考えている(つまりキ◯ガイ)」
解説は不要でしょうが,単純に「国際競争力」を高めるために「グローバルな人材を育成」しなければならないから,「英語教育」を強化しよう.
などという,ちょっと考えれば分かる愚策に邁進してしまうほどご乱心なされているのではないか?というものです.

1つ目であってほしい.
というか,戦後レジームの脱却とは真逆の政策提言ですからね,これ.
「戦後レジームの完成」を目指してるでしょ,これ.

TPPを意気揚々と推進するあたり,かなり雲行きが怪しいのですけど.

一万歩譲って,英語教育を強化するとしましょう.
でもなぜにTOEFL?
なぜここまでアメリカに媚びりまくるのかが意味不明.ここまで堂々とやられると,「アメリカに媚びてますが,何か?」と訴えているかのようです.徹底しすぎて気味が悪い.
戦後レジームの脱却を掲げて政治をしているのが安倍総理ですから,これはにわかには信じ難いことでして.
う〜ん・・・,だからやっぱり「アメリカの圧力」とか何かの取引なのだろうと信じたいのですが.

ちなみに,英語教育がダメな理由ですが.
まず,英語を使うようになるということは,英語文化で思考するようになるということ.つまり,日本固有の文化としての思考が薄れるということです.
何か物事を考える,思考するというのは言語があって成り立つものです.母国語ではない英語では,十分な思考を紡ぎ出せません.
母国語の日本語ですら何かの思考を紡ぎ出すことが難しいのに,英語教育なんぞ強化したら「二兎追うものは一兎をも得ず」になってしまいます.
いわゆる「勉強はできるけど,頭の悪い子」が大量生産されるという,おぞましい状況になるのです.
つまり,グローバルでイノベーティブな人材が確実に減ります.グローバルでイノベーティブなところで “使われる人材” は増えるでしょうけどね.でもそれを目指しているわけじゃないですよね.
ようするに,この教育再生実行会議とやらが目標としてることの逆の結果になるでしょう,ということです.

次に,「国際競争力」とやらとは関係がない,という点もあります.
何度も言いますが,「国際競争力」というのが何か定義されていないのに,何を目指して頑張っているのか意味不明です.少なくとも,「言い訳」としては評価に値しません.
百歩譲って,「国際競争力が低下してきているから,それを取り戻すのだ」という意見を聞き入れたとしましょう.
でも,日本の国際競争力が高かった時代,日本の英語教育も優れていたのでしょうか?
お答えいただきたいものです.

最後に,大学教員でもある私から,大学の英語教育について.
はっきり言って,大学では日本語以外の言語の学習は各大学に任せれば良いと思われます.
現役生や大学卒業生なら分かってくれますが,大学における外国語教育なんて,全くといっていいほど機能していません.
外国語への興味も,外国への興味も高まるものではありませんし.
そんなことよりも,日本語でいいから(むしろ日本語でこそ)ガッツリと学術的な思考力を鍛えあげるのが大学の使命です.

これも以前に記事にしたことですが,母国語以外の言語は必要に迫られないと学べないし,学ぶ必要もないのです
大学教育では,たまたま必要に迫られて外国語を学ぶことが多い.それだけです.
十歩譲って,「大学生の語学力が低下してるから,なんとかしなければいけない」という意見を聞き入れたとしましょう.でもそれは,その大学・授業で語学力がそこまで必要とされていないからだと言えます.
学生におもねらず,語学力が必要とされる授業を展開すればよいのです.
英語さっぱりの私ですが,専門ゼミの先生にこってり絞られることで英語を使うようになりました.英語論文が読めないと話にならなかったからです.そんなものです.

だからと言って,「大学の授業を全て英語にする」というのは愚の骨頂です.バカも休み休み言え,というのはこの事です.
大学の使命は,あくまでも学術的な思考力を高めることにあります
それなのに,英語で授業や演習をやっちゃったら質の低い思考しか育まれない授業になるのは必然です.日本の大学ですよ.日本人の思考力を高めるために存在するのが義でしょう.
一部の大学(国際教養大学とか)の例を上げて騒いでいますが,それは一部だから被害が少なくて済んでいるのです.全国的にやられたら一億総白痴化も夢ではありません.
完全に英語文化への従属です.

ずっとこのブログでも訴え続けていますが,結局こうした大学への要求や提言というのは,大学を「金儲け研究所」にしようという下敷きがあるからこそ突きつけられるわけでして.それがあまりにも残念です.
「就職に強い」とか「世界を相手に稼ぐ」とか「イノベーション」とか.そんな謳い文句ばっかりです.嫌になります.

まとめると,こういうことです.
財界・企業・世論といったものの後押しを受けながら,一見「使える人材・優れた人材」が養成できそうな(“できる” ではない)安直で稚拙な大学改革を次々に打ち出し,よくよく考えたら真逆の効果が出ることばっかりやってきたのに,また懲りずに同じ愚行をやろうとしている.

こうした一連のことは,ちょうど,マラソン選手の指導者があまりにも素人すぎて,
「おまえ,なんでチンタラ走ってんだよ.いいか,スタートしたら全力ダッシュしろ.そしたら勝てるゾ」
と指示を出しているようにしか見えないのです.

果ては「大学ランキング100位内に10大学ランクインを目指す」とか,...大丈夫ですか?
このバカバカしさについては,また紙面を新たにして書きます.

安倍総理は今回の英語教育強化の提言に対し
「大学力は日本の力の源であり、日本の未来だ。われわれの進めている成長戦略の柱が大学力だ」
と語っています.
ホントでしょうね.

この記事の続きを
続・英語教育について
で書きました.

2013年6月4日火曜日

お便りにお答えしたもの

統計学の記事で,たまにお便り(もちろんEメールで)をいただくことがあります.知り合いの方からは直接お聞きすることもあります.
それにお答えるする形で書いた記事もありまして,先月の記事などはそういった側面もあって書いたものです.
例えば,■点数・得点を段階評価するためのエクセルシートの作成とか,■補足:エクセルの散布図にラベルを表示させる方法とか.

ところで,先月は「例の事件」もあったので以下の記事を検索して見る人が多かったようで.
喫煙ルーム(黄柳野高校のこと)
無事であればいいのですが...

今回は,上記の記事や,これを機会にその他の記事を読んでくれた人から頂いたお便りのやり取りをご紹介します.
以下に紹介するやり取りですが,そのまま転載したものではなく,いくらか加筆して修正しています.あと,口頭でのやり取りのものもあります.
統計の話ばかりではなく,教育や学校のことについて考えるために読んでいただいている人もたくさんいるようですね.

Q.喫煙ルームを用意するのは,学校としてはやっぱりダメではないでしょうか?今回のように火災が起きて死亡するケースも出てくるわけですから.
A.「喫煙ルーム」という名称とニュアンスを歪曲して流布したのはマスコミです.◯◯さんが言うニュアンスのものとは異なります.それに,もともとは火災を予防するための措置として用意したものです.あと,今回の火災がタバコの不始末によるものかどうかは不明です.
ちなみに,防災対策がどうのスプリンクラーがどうの,といったニュースもありましたが,どうかその勢いで全国の学生寮の現状に向かって問うてほしいものです.そんな対策をしている寮がどれほどあるか.きっと少ないですよ.
「とりあえず学校を批判する材料を並べておこう」という気持ちが滲み出ています.もしくは今回のニュースを書いた記者たちが押し並べて無能だったからなのかもしれませんが,これを機会に学生寮の防災対策を改善するための記事を書くのが,建設的なジャーナリズムではないでしょうか?(その実現不可能性も一緒に)
同校に限らず,学校における生徒指導ですが,違法であることは百も承知でやっている現実もあります.そして,違法かどうかに囚われた指導だけでは,教育はできないと思います.
教育はバランスが必要ですので,同校は批判されてしかりですが,私のような者が反撃する必要もあると考えています.それもバランスです.

Q.荒れた学校を立て直すにはどうすればいいとお考えですか?
A.わかりません.そういう事の専門でも経験もないですから.ケースバイケースではないでしょうか.
ちなみに,黄柳野高校は「荒れて」いません.よく勘違いされることが多いですが,少なくとも私が在学していたときは.しかも昔より今のほうが「大人しくなった」と聞いています.
「荒れた学校」の程度も人によって違うでしょうし.
同校より遥かに「荒れた」高校はたくさんありまして,ニュースになったか否かの違いだと思います.
私の出身大学の付属校は,同校とは比較にならないほど,それはそれは凄いところでした.
あと,特に(寮制ではない)普通の高校は学外の生活がかなり不透明なので,教師・学校が知り得ないことが多いという視点もあります.

Q.廃校になるかもしれませんね.ただ,そのようにして淘汰されることで,より良い学校が残っていくとは考えられないでしょうか.
A.考えられませんし,そんな学校・教育哲学の国にはなってほしくありません.
◯◯さんの言う「より良い学校」というのはどのような学校を指すのでしょうか?
学校や教育機関というのは「撤収」することはあっても「淘汰」されるものではなく,市場原理を持ち込んではいけないものだと思います.
ブログの記事にもしていますが,教育の市場原理による淘汰というのは,まさに「市場」というところが求める「日本人」を育てることになるのです.単純な理屈です.でもこれって恐ろしいことだとは思いませんか?
日本とか共同体とか誰かのためではなく,市場(金儲け)での振る舞いを重要視する日本人を育てることになります(大学教育は既になりかけているが).市場が求めている教育に舵を切るというのは,市場が好む思考を体現する教育に舵を切ることを意味するのですから.そんな教育からは,間違っても “いじめられている生徒を助けようとする生徒” は育ちません.“いじめられている生徒を助ける” なんていう利益のない行動は,市場原理的な行動ではないからです.
それを「マズい」と捉えるか,「当然だ」と捉えるかは価値観の問題ですが.少なくとも私は反対です.
市場原理というのは民主主義と同義ではありません.民主主義も正義と同義ではありません.そもそも多数派の行動や意見が正義だというならば,学校教育そのものがいりませんし,誤解を恐れずに言えば「人間」である必要がありません.
学校が「閉鎖的」で「浮世離れ」している理由と “必要性” というのは,ここにあります.
教育機関が大勢や世論になびいていたら存在意味がありません(特に大学が).
今は学校や大学を「ビジネスマン養成所」のように捉え過ぎています.「受験対策」しかり,「就職対策」しかり.
これも不況の影響ですかね.「衣食足りて礼節を知る」のでしょうか.
廃校についてわかりません.

Q.コメント欄を用意してくれれば,双方向性のあるブログになるのではないでしょうか?
A.あまり双方向する気がないので.

Q.過激な表現が多いのでは?
A.すみません.特に数年前の記事はヒドいですね.最近は読む人が増えているので,穏やかな表現にするよう気をつけています.


またご意見をちょうだいしましたら,掲載するかもしれません.
よろしくお願いします.