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12月, 2014の投稿を表示しています

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危ない大学におけるバスの想ひ出

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過去記事でも何度か登場したことのある,(危ない)大学経営の切り札である「バス」. 危ない大学においては,この「バス」は重要なキーワードと考えられています. 今回はこの「バス」について,“その経験” がある大学教員のインタビューをお届けしたいと思います. 「大学(教員)とバス」について,過去記事をご覧になりたい方は以下のリンク先から振り返ることができます. ■ 「教職員用」危ない大学とはこういうところだ ■ 細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権 ■ 続・細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権 では,危ない大学の教員にとって「バス」がどのようなものなのか,その生々しい実態をどうぞ.     私:今回のインタビュアー X:大学教員・X氏 私: 今日はインタビューにお応え頂きありがとうございます.X先生は現在の勤務校では「バス」の業務をされていないということですが,前任校は「バス」の業務があったそうですね.早速ですが,そのときのお話しを聞かせてください. X: バスに必要な免許にはいわゆる大型免許と中型免許というのがあります.大型免許はいわゆる路線バスサイズのものをさします.このサイズのバスを運転するには大型免許が必要なんです.中型免許は主にマイクロバス等(29人以下だったかな?)が運転可能な免許です.これは一昔前の普通免許で運転できるんですけどね. 大学によっては教員採用にあたって,もしくは任期更新のためにこの「大型免許の取得」が条件(脅迫めいたもの)になるんです.博士の学位よりも優先されます. 私: 危ない大学における教員は,博士の学位よりも大型免許の方が重要ということですか? X: そうです.今となっては興味深い “想ひ出” ですが,よくよく考えてみると背筋が凍る話ですね.ですが,経営難の大学としては大学教員らしい人材が採れれば,あとはバスの運転をさせてバス運用費用を浮かせる戦術に出ることが多いと思います. ちなみに,免許を取るのは自費ですよ. 私: やっぱりバスの運用はお金がかかりますからね.教員にやらせれば一石二鳥ということですね.日本のテレビ局が不況になってから,女子アナをタレント扱いし始めたことと一緒ですかね. X: まさにそういうことだ

センター試験の廃止について述べておく

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センター試験が廃止になるという件について,先日ニュースになっていたので取り上げておこうと思います. Yahooニュースはこちら. ■ http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141204-00010001-benesseks-life ■ http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141222-00000046-mai-life 文科省のHPではこんな感じ. http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1354191.htm どうしてこんなにツボを外した提言ができるのだろうかと不思議でなりません. でも,大人になって心穏やかな私としましては,いろんな人のいろんな妥協の産物なんだろうなと微笑ましく見ております. が,そんな悠長なことを言ってられない身でもありますので,私の真面目な “保身” のためにも声を上げておきたいと思います. 正直言って,頭がどうかしてんじゃないかと疑うような提言です. 「却下」ですよ,こんなの「却下」. まぁ「センター試験を廃止する」っていうのは良しとしましょう. んで,代わって実施しようという「 学力評価のための新たなテスト(仮称) 」における「高等学校基礎学力テスト(仮称)」っていうのと,「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」ですが,これが結構問題です. 文章だけだと説明が面倒なので,文科省のHPから当該資料の【別添資料2】の画像を引っ張ってきました.それが以下のもの. http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/__icsFiles/afieldfile/2014/12/22/1354191_1.pdf この手のニュースでも触れられていますが,ようするにこれまでの, 「センター試験,一発勝負」 から, 「総合的な評価,テスト」 という方向に舵切りされたということです. ちなみに,この考え方ですけど私としては比較的賛同するところでもあります. これまでの「知識・技能」の評価に偏重しているところを反省し,「思考力」

続々・STAP細胞研究の件

例のSTAP細胞研究の調査が終わったようです. これまでにも, ■ STAP細胞研究の件について ■ 続・STAP細胞研究の件について ということで感想を述べてきたところですので,改めてここに書いておくことにします. ここにきて,ようやく研究チームを堂々と非難することができます. ※実際のところ,まだ完全な事態把握ができているわけではないですけど. 「やっぱり結局,あいつはウソをついていたんじゃないか!」 と言いたい人たちもいるでしょうが,こういうのは「科学的な批判」ではありません. とっても情緒的で微笑ましい批判・反応です.「そうだね,君の予想,当たったねぇ(頭ポンポン)」てしてあげたいとこです. 信じる信じないとか,陰謀があるんじゃないかとか,不道徳だ,あいつムカつく,みたいな話で盛り上がっていた日々が懐かしいですね. 「やっぱり結局,多くの一般人ってウソに惑わされるんだなぁ」 というのが私の言いたいことです.これも科学的な批判じゃないですけどね. 世間が騒ごうがどうしようが,「STAP細胞研究」に関する論文というのは科学的に葬られているはずの研究と論文だったのです. それをただバカ騒ぎしただけのことです. で,こんなにも騒いだ理由は,研究リーダーのキャラクターとメディアに祭り上げられた状況によるものということでした. 他の研究(本件のような不正・捏造)では騒いでいないのですから,つまり「よく事情が分からない人たちにも明確に叩ける材料が揃っていて,しかもなんせ面白かった」というだけの話です. ペナントレースの予想とか選手の評価みたいな居酒屋談義が,科学界を舞台に行われた,というだけの話ですね. 科学者のひとりとしては,特に興味深いことはありません. しいて興味深かったこととを挙げるとすれば,過去記事でも繰り返しているように,なんぼ言うても “こんなにもいきり立って騒いだ世間の人々” の方です. なんだか,発狂しながらコンクリの壁に頭を連打して血まみれになっている集団を見ているようで,ある意味 “興味深かった” です.ドン引きしたというのが素直な感想です. こういうのって,学校のいじめ問題で騒いだ人たちと似ています. 参考記事■ 大津いじめ問題で大衆の愚かさに絶望しています そう言えば,iPS細胞研究で有

井戸端スポーツ会議 part 12「なぜ障害者スポーツへの関心が低いのか」

パラリンピックや障害者スポーツへの関心が低い理由 なぜ障害者スポーツへの関心が低いのでしょうか? この問いに対し,今回も「 人間は『身体』を通して理解する 」という観点から考えてみたいと思います. 過去記事は,■ 井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」 です. 「日本人は障害者スポーツへの関心が低い」 などと自虐的に言われることもありますが,実のところ諸外国においてもこれは変わりありません. 以前,NHKの調査で以下のようなものがありました. 太字 のとこだけ読んでもらうだけでもOKかと思います. 『日本での障害者スポーツの関心の低さ明らかに』 2014年11月25日 NHK 日本で障害者スポーツを観戦したことがある人は海外に比べて少なく、6年後の東京パラリンピックを観戦したいと考えている人もオリンピックの半分にとどまることが「日本財団」の調査で分かりました。 公益財団法人「日本財団」は、ことし9月から先月にかけて日本をはじめドイツやアメリカなど6か国で、障害者スポーツへの関心についてインターネットを通じてアンケート調査を行い、4200人余りから回答がありました。 このうち、6年後の東京パラリンピックを会場で観戦したいか日本で尋ねたところ、観戦したいと答えた人は15.4%で、30.2%が観戦したいと答えたオリンピックのおよそ半分にとどまりました。 また、これまでに障害者スポーツを観戦したことがあるか尋ねたところ、ドイツは18.9%、アメリカは17.9%、オーストラリアは13.9%、韓国は12.6%、フランスは10.8%と、海外の5か国ではいずれも10%を超えたのに対し、日本は4.7%と最も低く、 関心の低さが浮き彫りになりました。 いやチョット待ってくれ,と言いたいところです. (調査方法の妥当性はさておき)まず,これで明らかになったのは 「障害者スポーツへの関心の低さは世界共通である」 ということでしょう. 「障害者スポーツ」という大枠でみても,諸外国の8〜9割の人が障害者スポーツを見ていないわけです. 障害者スポーツへの取り組みが活発な国々ですらこの状態です( ちなみに日本は極めて活発な国の側にあります ). 他の国での関心も図り知れるものですね. 障害者スポーツの

人間は『身体』を通して理解する「ガンダムW編」

人間は身体を通して理解する,ということについて「ガンダムで言うと」シリーズの第3弾です. 以下の2編もよかったらどうぞ. ■ 「ファーストガンダム編」 ■ 「Zガンダム編」 もともとの記事は,体育・スポーツの記事である. ■ 人間は『身体』を通して理解する ですので,そちらもどうぞ. さて,第3弾では『新機動戦記ガンダムW』を取り上げてみようと思います. この『ガンダムW』のストーリーは,「 人間は身体を通して理解する 」ということについて,SFロボット作品としてある意味忠実に「解説」した作品だと見ることができます. つまり,非常に分かりやすく描かているんです. その最たる例,象徴的な登場キャラクターがトレーズ・クシュリナーダです. 彼の発言や思想を追っていけば,おのずと「SFロボット作品とは,人間は身体を通して理解するということに依っている」に行き着くかと思います. 典型的なのが,彼の戦闘スタイルや美学,彼自身が決戦用として設計したモビルスーツ(ロボット兵器)の武装です. 彼の戦闘スタイルと美学とは,ひとえに「格闘戦」,可能であれば生身の身体での格闘戦,できれば1対1の格闘戦なのです.それが騎士道精神などでエレガントに装飾されて描かれています. 細かいところは作品を見てもらうとして,これはしつこいくらい強調されており. 「閣下,いくらなんでもそれはエレガント過ぎです」とツッコミを入れたくなるほどです. 彼の格闘戦の美学は,ロボット同士での戦いであるモビルスーツ戦にも持ち込まれます. 普通,マシン兵器を使った「格闘戦」というと,例えば現代の戦闘機でいうところのドッグファイトのようなものですよね.機関銃やミサイルの打ち合いです. ところが,彼の格闘戦はロボット同士が剣を交える格闘戦,つまり生身の身体での格闘戦の延長なのです. それは彼自身が設計したロボット兵器にも反映されていて,彼が決戦用として作った「ガンダムエピオン」は,なんと火砲兵器が一切取り付けられていません.武装と言えるものは巨大なビームで出来た剣と,発熱するムチのような兵器だけです. これも「閣下,いくらなんでもそれは戦術上極めて不利です」と言うところですが,まぁそれくらいの描き方で表現したいほどにトレーズ・クシュリナーダという人物の思想・哲学が,この作品

人間は『身体』を通して理解する「Zガンダム編」

前回の, ■ 人間は『身体』を通して理解する「ファーストガンダム編」 の続きです. これについてより基本的なことについては, ■ 井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」 を御覧ください. 今回は前回記事である「ファーストガンダム編」の続きとして,ガンダムシリーズとしての続編でもある「Zガンダム」を引き合いにしてみましょう. 今回の話では,前々回の井戸端スポーツ会議の方で取り上げた, 人間は「思う」に先立って,まずは「見る」「聞く」「触る」「味わう」といった『 身体の感覚 』があり,それに対して人間は「思っている」 つまり, 「我思う.故に我あり」 という,デカルトが提唱したあの有名な命題では不十分であり, 「我がある.故に我思う」 というのが,人間を理解するためにはより適切であろう ということを思い出して貰う必要があります. このことについて,今回も機動戦士ガンダムシリーズ,その二作目である「Zガンダム」のストーリーにおける最終話から解釈してみよう,ということです. ネタバレにもなりますが,Zガンダムの最終話を思い出してみて(視聴してみて)ください. 主人公であるカミーユ・ビダンは,宿敵パプテマス・シロッコが駆るロボット兵器「ジ・オ」との決戦において,自身の駆る「人型ロボット」の「Zガンダム」ではなく,その変型形態である飛行機型での突進攻撃をしています. それによってジ・オとシロッコを倒して決着が着くわけですが,ここにおいてSFロボット作品として違和感があるのは, ロボット作品,それも人型ロボットのエンターテイメント作品なのに,なぜ最後のシーンが人型ロボットによる華々しい大立ち回りではなく,飛行機形態による突進なのか? というところではないでしょうか. SFロボット作品において人型のロボットが登場する理由の1つが,「 人間は人型のものを通すことで作品の解釈がしやすくなる.作者の意図が伝わりやすくなる 」ということだったと思いますが,これに照らしてみると『Zガンダム』のラストシーンはどう解釈できるのでしょうか? 実は,『Zガンダム』のラストシーンこそが「人間は身体を通して理解する」ということを,逆説的に示している例の1つであると私はみています.上記の『身体の感覚』というところにつなげて

人間は『身体』を通して理解する「ファーストガンダム編」

前回の,井戸端スポーツ会議である ■ 人間は『身体』を通して理解する の続編です. 上記の記事では,「人間は身体を通して理解する」ということに対する現代文化・芸術の典型がSFロボットアニメだということを取り上げました. SFロボット作品においては,人型ロボットが,作品のメッセージを増幅させるための「依代」として描かれているというものでした. こうした作品では,人型ロボットが主役のように描かれていますが,そもそも彼らはなぜ「人型」として描かれるに至ったのか. それは,人間が「人型」のモノを通すことで,そこで起こっていることを理解しやすくなるということであり,SFロボット作品であればつまり,人型ロボットを「依代」とすることで,そこに作者が作品で訴えたいことがより伝わりやすい,ということでした. アニメ 『機動戦士ガンダム』 シリーズにもそれが現れているという話をしていましたが,今回はこれについて,もう少し具体的に解釈をしてみようというものです. 機動戦士ガンダム・シリーズの第一作目,ファーストガンダムと呼ばれる作品の最終話では,「人間は身体を通して理解する」ということについて非常に興味深い展開があります. ネタバレも含めて解説すると,このファーストガンダムガンダムの最終話では,主人公のアムロ・レイと宿敵シャア・アズナブルは, SFロボット戦争作品であるのにロボット同士での決戦では決着がつかず ,なんと最後はコクピットを降りて生身の格闘戦(フェンシング)を始めます. そのフェンシングで決闘をするときの二人のセリフが意味深長です. シャア「分かるか?ここに誘い込んだわけを」 アムロ「ニュータイプでも体を使うことは,普通の人と同じだと思ったからだ」 シャア「そう,体を使う技は,ニュータイプと言えど訓練をしなければな」 「ニュータイプ」というのは,ロボット兵器であるガンダム等のモビルスーツを操る技術が極めて高い能力者のことです.つまり,「ニュータイプ」というのはパイロットである「自分の意思」をロボットで的確に表現できる人と捉えることができます. この「ニュータイプ」というのは,その他のガンダムシリーズにおいても重要な役回りをするキャラクターなのですが,その意味するところというのは「ロボットに命を吹き込むことができる者」

井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」

「大学に『体育』の授業があるのはなぜか?」 という話が出ることがあるんですけど・・, 大学に限らず,そもそも学校教育に『体育』がなぜ存在するのか?存在する価値はあるのか?という点を 考えない 教育者はけっこう多いものです. そんな話を直接的に愚痴っても,ブログを読んでくださっている皆さんは面白くないと思いますので,別の観点から話をしてみます. 人間は身体を媒介して物事を認識する という,ちょっと仰々しいお話です. 難しそうなことに思えますが,逆に言えば「人間は自分の身体を通したものしか認識できない」ということです. でも実はこれ,デカルトが思惟の末に見つけ出した,あの「我思う.故に我あり」(心身二元論)に対する反論でもあり,けっこう重要な人間論でもあります. と同時に,スポーツ科学や体育学を考える上でも重要なテーマでもあるのです. ここらへんのことについては, アントニオ・ダマシオ 著『デカルトの誤り』 が詳しいので,そちらをどうぞ. 一方の心身二元論の立場をSFタッチで考えてもらうには, 士郎正宗 作『攻殻機動隊』 とか,そのアニメ映画である 押井守 監督『攻殻機動隊』 を見てもらえればと思います.あと,ハリウッド映画の『 マトリックス 』も,そういうことを下敷き的なテーマとして描かれています. 「我思う.故に我あり」ではなく,「我がある.故に我思う」 というところでしょうか.そしてその「我」の存在は「身体」を抜きに「我」とはならない. どこまでも心と身体は分離不可能なものと考えられるのです. ダマシオ氏が述べるところの,人間は「思う」に先立って,まずは「見る」「聞く」「触る」「味わう」といった『 身体の感覚 』があり,それに対して人間は「思っている」のです. さらに言うと,この『身体の感覚』というのは,自分の身体ならではの感覚として認識されているのですから,『自分の身体ならではの感覚』として形成されていきます. 例えば, 「私の足に何かが触れた」とすれば,それは私の「足」という空間的位置と形状のものに「何か」が触れたことを意味します. つまり,私が「足に何かが触れた」と感じることというのは,私という身体固有の感覚として何かを感じている,ということを意味するわけです. もっと言うと,人間の心とは,このような人間の形をし

井戸端スポーツ会議 part 10「スポーツをすると勉強ができるようになる」

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もっとブログ更新頻度を高めようということで,パソコンの中に入っている資料・データから面白そうなネタを出していくことにしました. 今回は,「スポーツをすると頭が良くなる」という,たまに耳にする話がどれだけ科学的根拠があるのか,その研究報告をご紹介します. 図1 中学時代の運動部入部率と進学した高校入学偏差値 有名なのが,平成19年度の文部科学省学校基本調査で上がってきたデータです(図1). 中学校の運動部入部率(縦軸)と進学した高校入学偏差値(横軸)に正の相関があるというものです. もちろん例外はあるものの,文部科学省のようなお固い(最近はチャラいけど)省庁が,このような事を言い出しました. 「でもこれって,その入部率の話でしょ.環境や個人の議論になってきたら違ってくるのでは?」 というのが真っ当な疑問だと思います. 運動やスポーツによって学習能力が高まるという点を研究したものは結構あります. その中からいくつか引っぱってみました. まず, 「体力が高い子供は勉強ができるか?」 という点です. その調査結果が図2です.体力が高い・低い子供たちに同じ学習課題を課して,そのテスト結果を比較しています. 図2 やはり高体力群の方が成績が良いとのこと.興味深いのは,毎回の勉強においてテスト課題を課さずに行った場合に差が現れやすいという点です. つまり,模擬テストのような勉強方式ではなく, 普段の何気ない学習のようなところにおいて体力の有る無しによる影響が出てきやすいかもしれない わけです. 次は「 スポーツや運動をしてから勉強をすると良い 」という可能性を示すものです. 以下の図3は,20分間の歩行運動後15分ぐらいしてから勉強をさせた群と,運動せずに勉強をした群のテスト結果を比較したものです. 図3 20分間の歩行運動でも違いが出てきます.その違いは特に「読解力」に現れてくるようですね. この研究では認知機能の調査も行われておりまして,そこでも運動の効果がみられています. Modified Flanker Taskというテストを行った結果が,以下の図4. ※フランカータスクって何ですか?という場合はこちら→ http://en.wikipedia.org/wiki/Eriksen_flanker_ta