2014年2月27日木曜日

人間はスポーツする存在である

前回,最近話題になった,
「オリンピックで負けたのにヘラヘラと「楽しかった」はあり得ない」のはなぜか?
と同時に,
そうした発言が批判されて然りなのはなぜか?
という矛盾した部分を記事にしました.
負けたのに『楽しかった』はダメでしょうけど,けどね.
結構長い記事になってしまったのですが,体育・スポーツというのは私自身の専門でもありますので,ちょっと熱くなってしまうところがあります.

今回は,前回の記事の最後にも取り上げた「人間の活動(存在)そのものがスポーツである」という点です.
今回も長くなることが予想されるので,読み切りやすい,なるべく短い記事になるよう頑張ってみます.

人間の存在そのものがスポーツである・・・
スポーツの魅力とは,スポーツが人間の本質を物語っているものに他ならないからである・・・
「おいおい,スポーツごときで大きく出たな」,「逆じゃね?人間の様々な活動が,スポーツにも反映されていると考えられないか?」と思われるかもしれませんし,見方によってはそうなのですが.
まぁ.ちょっと大袈裟に言ったほうが読み始めてもらいやすいかな,という部分もなくはないのですけど,そのまま最後まで読んでくれれば幸いです.

とは言え,これについて直感的に考えましても,政治・経済や農耕,建築,それに科学といった,現在(有史以来)の人間らしい活動が成立するに先立ち,人類は「スポーツ」をしていたのであろうことは,十分に想像できることでございます.
故に,スポーツから全ての人間らしい営みが始まったとも言えるのではないか,ということも,十分な説得力をもって迎えられることなのではないでしょうか.
詳細はこれから説明しますが,これはヨハン・ホイジンガという著名な歴史家にして哲学者が言っていることを,「スポーツ」というものを強調して私なりに拡大解釈したものです.

ホイジンガはその主著「ホモ・ルーデンス」において,人間が創り上げてきた文化は,すべて「遊び」ながら育まれていると言います.「遊び」には文化を創造してゆく機能があるというのです.

ところで,このホイジンガの主張を誤解している人もいるので念のため申し添えておくと,人間の文化は「遊び」が出発点,「遊び」が起源である,ということではありません(ホイジンガ自身が著書でそう述べている).人間は文化を遊びながら,遊びの中で創造・発展させてきたのだ,ということです.
(表現の仕方の問題かもしれませんが,これは結構重要な部分です)
文化を「川」に例えますと,「遊び」というのは地形の「傾斜」を指すのであって,「水」を指すのではない,ということと類似しています.
湧き出てくる「水」は文化(川)の「起源」ではありますが,それだけであれば,ただの「湧き水」です.
これが「川」,つまり「文化」と呼ぶにふさわしいものになるためには,そこに傾斜が必要になります.文化という川が,その川らしさを獲得するには,「傾斜(「遊び)」によって流れが生まれることで齎されるのであり,その傾斜具合によって流れ方に変化が生まれるということです.

「傾斜(遊び)がなければ川(文化)にならないのであるから,傾斜(遊び)が川(文化)の起源だともいえるのでは?」というところですが,やはり川の起源はあくまで湧き出る水です.水が湧き出なければ川はできませんが,一方の傾斜(遊び)はというと,湧き出る水(文化の起源)がなくても地球(人間)には「それ自体」として存在するものだからです.

「遊び」が文化へ及ぼす機能についておさえた上で.話を「人間の活動そのものがスポーツである」に戻しましょう.
まず,「スポーツ」というものをどの範疇まで広げるのか?そこがこの話のポイントになります.

多くの方々が「スポーツ」と言われて連想するであろう野球やサッカー,スキーやマラソンといったものは,「スポーツ」のなかでも「近代・競技スポーツ」という極めて限られたスポーツの種目を指して語っているに過ぎません.こうした種目だけを指して「スポーツ」と呼ぶことはできませんし,スポーツのことを語っていることにはなりません.
これら「近代・競技スポーツ」というのは,ヒトが「スポーツ」していくなかで生み出した種類の一つと言えます.

実際,「スポーツ」を定義するというのは学術上も非常に困難であり,かつ,幅広い意味を持っていることがわかります.ためしにWikipediaなんかを参照してみてください.F1レースはもちろんドライブもそうですし,登山も囲碁将棋もカードゲームも,スポーツとして見做してよい活動なのです.
「スポーツ」Wikipedia
長くなる恐れがあるのでかなり端折って結論づけますと,「遊び」の定義と「スポーツ」の定義は非常に似通います.
すなわち,生物本来が必要とする生活や生存とは関係ないもので,ホイジンガの言葉を借りれば,秩序,緊張,運動,厳粛,熱狂を伴う「おもしろい」活動が遊びなのであり,そして,これらのエッセンスを濃縮還元ジュースのようにしたものこそ,スポーツではないかと考えたくなるわけです.

では,どのようなものが濃縮還元されているかというと,
なにかしらのルールを作って,そのルールのなかでスコア(順位・得点)を獲得する
というものではないでしょうか.

このように考えますと,人間は遊ぶからこそ人間なのであり,文化は遊ばれることで発展してきたのでしょうが,人間の野心的な着想は,文化を遊ぶだけではなく,スポーツさせてきたと考えられなくもないのです.
つまり.
人間というのは,さまざまな文化をスポーツさせることで肥大,洗練させてきたのではないかと思われるのです.

例えば,政治や経済,国家運営も人間がスポーツすることで生み出される現象です.
そこでは絶えずスコアを稼ぐことに一喜一憂し,それ自体が面白くなるようなルールを作り,その変更が繰り返されます.
スコアを,「お金」「票」「領土」「人」,ルールを「法」「条例」「協定」などと置き換えてみてください.あらゆることが「スポーツ」として見えてくるでしょう.

そして,スポーツが好むのは「より公平に,より明確に」していくことです.
公平な状態からスタートすることを好み,その結果がより明確に示されるものを好みます.

当のスポーツでさえも「より公平に,より明確に」,つまりスポーツそれ自体がスポーツされることで,「近代・競技スポーツ」と呼ばれる領域を誕生させています.
野球やサッカーも,その起源であったものをルール変更して誕生したものですし,バスケットボールやインディアカなどの新しいスポーツ種目も,その起源になったスポーツが元々あって,そのルールを「より公平に,より明確に」なるように作ることで成立させているのです.

そして,このようなスポーツのルールや環境整備は,スポーツとして面白くされるべく変更が繰り返されます.
例えば陸上競技・短距離走では,勝者が明確になるよう高速カメラで判断したり,疾走タイムも厳密に計測されることが “当たり前” であり,その明確さが問われます.
野球の審判も「将来はコンピュータにやらせるのが理想的」とすら言われるほどです.

人間が様々な物事の「ルール」を変更したがる理由は,その活動を「スポーツしたい」からに他なりません.
ビジネスを,外交を,戦争を,裁判を,議会を,デートを,あらゆるものが「スポーツ」的であるほど理想的に映ります.
これらの活動は,可能な限り初期条件が公平で,結果が明確であるほど面白くなります.つまり,人間はあらゆる物事をスポーツにさせるべく「ルール変更」を企んでいる存在だとも言えるわけです.

そう考えると,人間が「スポーツ」と呼んでいる活動に,不思議なほど強い魅力を感じているのは,「物事をスポーツさせる」という人間の夢・本能が,純粋な形で具現化できる営みとして位置づけているからではないかとも考えられます

こうした「スポーツする」ことは,「遊び」と同様に,人間の様々な文化や社会制度に織り込まれていると言えるでしょう.
つまり,「人間とは“遊び”,そして “スポーツする” ことで文化を創造し,高度に発展させている存在だ」と捉えられなくもないのです.

ところが.スポーツすることは何も良いことばかりではないと私は考えております.
代表的なスポーツ活動である「近代・競技スポーツ」において,まさにそれが顕著でありますが,物事をスポーツさせること,すなわち上述してきたような,
「より公平な状況設定と,より明確な結果となって示されうるルールを作り,そのルールのなかでスコア(順位・得点)を獲得する」
という活動を進めた先にあるのは,「遊び」のない世界です.
スポーツする人間というのは本能的に,どの立場の者(集団)にも公平なルールで,どの立場の者(集団)にとっても明確な「スコア」で評価される世界を望むからです.

「スポーツする」とはつまり・・・.
人は皆,平等に扱われなければいけない.能力は等しく発揮されるべきなんだ.不公平を生むものは取っ払おう
皆が等しく納得できるようなスコアや採点基準を用意しよう.各々の価値観の違いによってスコアに影響が出ちゃうようなものは避けよう
公平な立場からスタートし,その結果としてスコアに差がついたとしても,それはその者の能力を明確に示しているのだ.
スコアが高い者が優秀で,低い者は劣等.なんて明確なんだろう.
今の状態が不公平だというならルール変更しよう.でもルール変更するのはスコアが高い者同士で協議すべきだ.なんてったって高いスコアを獲得した者が優秀なんだからね.スコアの高さはリスペクトされるべきなんだ.

とまぁ,ん?なんだか色んな意味でデジャヴな文章ですなぁ.

全てのモノが,普遍的な価値基準のもとで評価される世界.
そのルール変更は強者に委ねられている世界.
そこに人間らしい世界はあるのでしょうか?

スタートラインを一緒にして,あとは各自が切磋琢磨.
そう言えば最近,そんな世界を目指すべく国際協定が・・,えーとたしかティー・ピー..,
オォッと.これはまた別の話.

「遊べる」ことが魅力の一つだったスポーツですが,実はスポーツすることの先に待っているのは「遊びの消失」である可能性が高いのです.
ホイジンガも「近代・競技スポーツ」を指して(1938年当時ですら),「もはや遊ばれていない」と,その後のスポーツの行く末を喝破しております.
ホイジンガは「今のスポーツは真面目すぎる」と評価しましたが,私はこれを「スポーツ」という現象が有する本能のようなものだと解釈しています.

世界は絶えずスポーツすることを望み,スポーツされることを望んでいるように見えます.スポーツというものは一見,公平で明確なものを見せてくれるからです.
故に世界はあらゆるものがスポーツであることを望みます.遊ぶことを劣等なものだと考えてしまいます.
しかし,そうした世界にあって,つまりスポーツされていく世界にあって,実は大事にされるべきは「遊び」の要素なのではないでしょうか.
人間は遊ぶからこそ人間であり,「すべては遊びなり」だからです.


冒頭で「スポーツごとき・・」と書きました.そういう態度でスポーツを見る人は多いものですが,スポーツというのは人間を考える上で非常に重要なものでして,私自身,大学に入ってからそのことを知りました.
それに,「体育」と呼ばれる身体教育は重要なのです.一般に流布されている認識以上に.
例えば,独立して「体育(スポーツ)大学」という高等教育機関が存在し得るのは,多くの人が考えている以上に,体育・スポーツや身体論というものが人類や学術上とても重大なテーマだからなのです.

「スポーツ系だけど,ま,いっか,っていうことでココ(大学)に入りました」
という学生が本学にもいるのですが,
いやいやスポーツは奥が深いのですよ.

2014年2月24日月曜日

「負けたのに『楽しかった』」はダメでしょうけど.けどね.

せっかくだからということで,ソチ五輪シリーズ第三弾.
今日でオリンピックも最終日ですね.
私は行かないのですが,パラリンピック関係者が同僚にいるということもあり,まだまだソチ五輪は注目しているところです.

メダルラッシュに湧いた日本人選手,フィギュアの採点問題,森元首相の失言などなど,いろいろあったソチ五輪でしたが,今回の記事ではもうチョット広くオリンピックそのもの,だけでなく「スポーツ」全体に関わることを取り上げてます.

ちょうど良い題材が,これもソチ五輪中にあった,
「負けたのにヘラヘラと『楽しかった』はあり得ない」 竹田恒泰氏の五輪選手への「注文」が賛否両論
というやつです.
つまり,国費をかけて選手をオリンピックに送り込んでいるのだから,選手はそのことを自覚して行動・発言するべきである,という論旨ですね.

※今回のは長い記事ですので,後日,短めにしたものを書きました.
簡易版・「負けたのに『楽しかった』」はダメでしょうけど.けどね

後述しますが,今回の件で一般世論の反応が健全であることがうかがい知れたので良かったなぁと個人的に思うと同時に,実は竹田恒泰氏のような考え方というのはスポーツ関係者に多いことを(冷静な観点で)知っておいてほしいのです.
ネット上にソースが見当たら無いので名前は出しませんが,日本代表選手やその指導者の中には,こうしたことを公の場(学会とか講演会とか)で発言している人も結構いるんです(「ボールを網の中に蹴り入れる競技」なんかでは,この考えは徹底されています).
ですので,竹田氏のような考え方というのはスポーツ関係者の中では非常にポピュラーなものなのです.

ネットのニュースや取り上げ方をみる限りでは,竹田氏が押され気味のように映るのですが,こうした考え方というのは選手や監督サイドからすると普通に持っている感覚である,ということは頭の片隅においておいてほしいところです.

むしろ私がビックリしたのは,「負けたのにヘラヘラと『楽しかった』はあり得ない」という発言に対し,こんなにもたくさんの「批判」のツイートやコメントが出たこと.
これはかなり意外でした.
ソチ五輪シリーズ第一弾■いい人達なんだそうですでも出てきた選手達やその関係者が聞いたら,「おいおい,大衆ってこんなに移ろいやすいものなのか?」と驚くでしょう.

おそらくですけど,竹田氏もまさかこんなに批判されるとは思っていなかった,というのが正直なところではないでしょうか.
繰り返しますが,スポーツ関係者のなかでは非常に極当たり前な価値観だからです.

竹田恒泰氏の父である竹田恒和氏はJOCの会長をしているのですから,バリバリのスポーツ関係者です.そんなわけで,「代表選手は,負けたのにヘラヘラしていてはいけない(とか,メダルを噛むなとか)」という考え方といいますか,価値観は,竹田恒泰氏のなかでは極当たり前に流れるものだったのではないでしょうか.


そうした上で,あらためてこの話題の問題点を整理してみます.
まず,「負けたのにヘラヘラしてはいけない」「国費で行っている以上,それなりの態度や行動をとる」ということは,スポーツ選手として求められる,当たり前のことです.
選手本人は自身をしっかりと戒め,指導者はこれについて選手にしっかりと伝え,指導しなくてはいけません.
というか,実際にはそんなこと,国の代表レベルの指導現場だけではなく,極普通の多くの体育・スポーツ指導現場で極めて普通に行われている指導です.

なぜかというと,「国費」を使っているということもそりゃそうなのですが,それ以上に,自身が日本代表として出場するまでにお世話になった方々と,その関係者を敬う気持ちがあれば,そのオリンピックやワールドカップといった場において選手は,竹田恒泰氏が引き合いにしたような態度や行動をとることは許されないし(というのは言い過ぎだろうが),とても失礼なことだからです.

では,竹田恒泰氏の発言になんの問題があったのかというと,「なにを今更・・」とか「お前がなんで言う立場にあるんだ」と受け取られる状況であったこと,そして,“負けたのに『楽しかった』というのは・・” という引き合い例が,スポーツについてそれほど知らない人々を説得する上では不適切だった,という点にあります.

竹田恒泰氏としては,良かれと思って発言したのでしょうが,実はこの
「負けたのにヘラヘラと『楽しかった』などと言ってはいけない」
という価値観は,選手や指導者側が発言しても良いのですが(むしろ,そのように見える意思表示はするべき),スポーツという場で戦う選手や指導者に対し,一般の人,つまり「外野」が言うべきことではないのです.

すなわち,
「皆様のお陰で代表者に選ばれました.それに恥じぬよう,全力を尽くします」
という選手や指導者,サポートチームに対し,
「いやいや,そんなに気負わなくても.大丈夫,私たちは見守るだけなのですから,楽しんでやってきてください」
という構図が,いうなれば「健全な状態」として “現在の日本” では求められているのです.

スポーツ関係者じゃないと“見做された” 竹田恒泰氏が発言したことは,「そんなこと,スポーツに関わっていない貴方が言うな」という事態を招いたのでしょう.
同様の発言を,野球の長嶋茂雄氏やサッカー日本代表の長谷部選手もしていますが(それに,私も指導では言うよ),これは批判されないのです.

竹田恒泰氏がスポーツやその指導環境の整備・調整にどれほど関わっているのか,実際のところは分かりませんが(慶応の教員だし,全くの無関係者ではないでしょうから),そうではないと見做している上において,世論がそのような反応を示したことは,私自身まともな世論だったとは思います.

ただし,今後のことを考え,私が少し気になるのは以下の点です.
体育・スポーツ系の大学における1年生のレポートにも多い,
「もともと,スポーツ(sport)には “ふざける”,“気晴らし” という意味があり,楽しむものだ.だからオリンピックやワールドカップでも,選手は元来楽しんでやるべきなんだ」
とか,
「そもそも,国を上げてスポーツ選手を送り出しているという発想が前時代的だ.もっと選手がのびのびと活動できるスポーツ環境にするべきだ」
という着地点になる,もしくは流れができることです.

これは “つぶやき” とか独り言,居酒屋談義やデート中の知ったかネタとしては許されますが,本気でスポーツを論じる上では,いささか浅い考えです.間違ってるわけじゃないですが,スポーツはもう少し構造が複雑です.
というか,この情報化社会において,多くの人の(大変失礼ながら)浅い考えが生む「つぶやき」や練り上げられていないコメントから惹起された,「これがスポーツの正しい方向性」みたいなものが,大きなうねりとなってくると,それはそれで危ないものにもなります.

さて,私が何を言いたいのかといえば,
スポーツを捉える上で重要なのは,ある一つの「こういうスポーツの在り方が正しいのだ」という表現や,それに基づく評価はできないものである.
ということを知っておいてほしいことです.

スポーツに取り組んでいる当事者(選手)の考え方と,それを取り巻く指導者や支援者がもつ考え方が違うことはもちろんのことですが,「スポーツ」を外から見つめる一般人や国民がもつ考え方も,全くの別物として捉える必要があります.

思いつきで「スポーツってのはなぁ・・・」とか,「スポーツの本質は・・」などと語ることができるほど,これは単純ではありません.
まして,「つぶやく」だけでは伝わらないのです.
竹田恒泰氏も後に釈明も含め「字数ガー・・」って言ってるそうなのですが,そりゃそうです.

スポーツを見る目は無数にありはしますが,共通するのは,利益や損得感情から外れたものであるにも関わらず,多くの人の注目を集めるという点にあります.
これはとても不思議な現象でして,さまざまな見解がありますが,これにも共通しているものがあります.いわば,スポーツにまつわるモノの見方というは「儀式」や「祭祀」と同義であるというものです.スポーツの起源は聖なる行いや,祭祀だとも言われています.
多くのスポーツ競技の起源も儀式やお祭りですし,オリンピックの起源も神への捧げ物です.日本の「相撲」の起源も同じく神事です.

スポーツ選手がどのような結果になろうと,どんなことを言おうと,直接的には見ている観客にはなんの影響もない,にもかかわらず,その一挙手一投足に注目してしまう,という状況は,何かの儀式やお祭りでステージに立っている人の行いと同じなのです.
(というか,枝葉が違えど幹が同じなのだから当然だが)

・・・そろそろ卒業式の季節ですが,
例えば,卒業式で演奏会があったとしましょう.奏者は会場に集った卒業生の来歴と前途を祝して演奏します.
会場に集まった卒業生その他は,奏者が失敗しないことを求めています.つまり,なるべく質の高い演奏を求めます.これは理屈抜きに「そういうの」が儀式・祭祀というものだからです.
しかし,奏者も人ですから,失敗することもあるでしょう.
聴衆の中には「クソったれ.失敗しやがって」と考える人もいるでしょうが,多くは「まぁ,しょうがないよね」ということで残念な思いに包まれながらも流れていきます.そして大抵,奏者もこの日のために努力してきたのですから,悲しみに暮れます.こういうのも,まさに「スポーツ」です.

ところがその際,奏者がこう発言するとどうでしょうか「楽しく演奏(play)できました」と.
(ちなみに,競技も演奏もplayであることも,その起源が同じであることを類推できる)
別に「まぁ,本人が楽しかったんなら良いのでは」と捉えてもいいのでしょうが,そうじゃないでしょう.

卒業演奏会という場に呼んでくれた人,演奏の練習のために力を貸してくれた人,演奏会に出たくても競合して出れなかった奏者に対し,あんまりではないですか.卒業式という場を構成している人々をも侮辱するものです.
これは今回の竹田恒泰氏の発言の一件で話題になったこと,つまり,オリンピックやスポーツにまつわることとも同義なのです.

たしかに,その場の誰にも実質的な「損得」はありません.本当かどうかは知りえませんが,奏者は楽しみながらも頑張ったのでしょうし,結果が伴わなかったこととは別のことです.こんなもの,どのように発言しようと奏者の好きにすればいいと考えられなくもないですよね.

それよりなにより,演奏を楽しめない者が,最高のパフォーマンスを発揮することはできません.優れた奏者は,演奏を楽しむものです.これもスポーツと同じです(何度も言うが,根っこは一緒の営み).
ちょっと極端な例ですが,古代において巫女が神のお告げを聞くといった「儀式・祭祀(スポーツの起源)」にしても,神を本気で崇拝し,いうなれば神との交信に全てを投げ出し,“楽しむ” 状態にならなければ,お告げは聞けないのですし(ちなみに「演じる」もplayである),「祭祀」は成り立たないことと同じです(ここらへんの解釈は別に譲る).

つまり,スポーツやオリンピックでの選手の態度・行動について論じるとすると,以下のようになるのです.

選手は競技を楽しむものです.楽しまなければなりません
競技が楽しめていないことをもって,スポーツではないのです.
しかし,スポーツをしている場というのは「楽しむ」ところではないのです.至って真面目で本気で崇高なる場なのです.
(私としては,「楽しむ」という表現が不適切なのだと思います)
一種のトランス状態,フローとかゾーンとか言われることもありますが,聖なる何かを身体に憑依させたような気分にもっていくこと,それがスポーツです.
観客も選手が「楽しんで」競技する様を眺めます.選手が「楽しんでいる」こと,それにより優れたパフォーマンスを出すことを望んでいるのです.
その一方で,観客は選手が「楽しんで」出した結果について,表立ってあれこれ言及することは避けなければなりません.
同様に,選手も表立って競技中の自身の内面を晒してはいけません.そもそも自分が楽しめたかどうかなどということは,外部の人に話すべき事ではない,いわばタブーなのです.
両者とも,彼ら自身のことは秘密にされるべきものです.なぜなら,前述のとおり,スポーツをする場(競技場や大会)というのは,楽しむところではないからです.
矛盾しているようですが,これに理屈はありません.「スポーツ」という人類の営みを極限まで還元すると,そのようになります.それがスポーツ(儀式や祭祀も含む)の特徴でもあります.
(巫女に向かって「本当に神が降りてんの?」とか,巫女が「今回は予言が当たらなかったけど,いつも気分よくトランスしてるんですけどねぇ」だなんて言わないのと一緒)

さてさて,ということは,
試合結果が悪かったことや,自己ベストが出せなかったことというのは,実は選手が競技を「楽しめなかった(聖なるものの憑依がなかった)」ということを意味し,それでなお選手の口から「負けたけど『楽しかった』」という発言が出ることは,選手がウソをついている,ということを意味するとも捉えることができます.
つまり,巫女の予言が的中しなかったことは,本当は巫女に神が憑依してなかった(すなわち,楽しめていなかった)のではないか,ということを意味するわけですから.よって,予言が外れた巫女自身の口から「外れたけど,神は憑依していました(楽しめました)」という発言が出たとすると,これは巫女として,予言の儀式の当事者として,なんとも惨めな発言だということになります.

たとえ本当にトランス状態で予言したのだとしても(スポーツ選手であれば,最大の努力をしたのだとしても),巫女としてこんな発言はしてはいけません.儀式とは,そしてスポーツ競技会とは,そのような発言をしてよい場ではないのですから.
つまり,スポーツ選手が「負けたけど『楽しかった』」と発言することがタブー視されるのは,こうしたところから来るのかもしれないです.
・・・こんなこと言い出すと終わりが遠くなるので,今回はこれまで.

このように,上述したようなことを「スポーツというのは◯◯だ」と一言で簡単に表すことはできないものです.

それに,このように考えていくと,人間の立ち居振る舞いというのは,そもそも儀式的なものであるし,もっと野心的に考えれば,あらゆるものが「スポーツ」であると言えるのです.
これについては後々お話していきます.

とりあえず急ぎ上記の視点を勉強したいという人は,

とか,
もしくは,先に

を参照してもらえれば入りやすいかもしれません.

そういえば,為末大氏は,この竹田恒泰氏の発言によって物議になった際,それにコメントを出している人でもあります.
「噛むか噛まないかは選手の自由だ」 為末大が「メダルかじり」論争に参戦

とりあえず今回の記事ではここまで.
次回以降,もう少しこの点について論じてみたいと思います.

2014年2月22日土曜日

例の浅田選手への森元首相の発言

先日に続き,ソチ五輪シリーズ第二弾というところです.
今回は森元首相のフィギュアスケート・浅田真央選手への失言について.

ネットニュースを見ている限りでは,予想外に大問題になっているようですので,ボツネタにするつもりだったんですけど再度著すことにした記事です.
つまり,ちゃんと水を差しておこうと書いとくことにしました.

そのうちページが消えちゃうかもしれないですが,本件についてのニュースサイト,見れるうちは以下を参考にどうぞ.
森元首相 浅田選手は「大事なときに必ず転ぶ」
浅田を「見事にひっくり返った」と森元首相

「がんばってる選手に対してなんて言い草だ!さすが森元首相,失言の王様」
という浅はかな受け取り方をした人もいれば,
「発言の全部を見てみれば,ニュアンスが違ってくる.さすがマスゴミ,切り貼りの王様」
という受け取り方をした方々もたくさんいるようです.

アンケートサイトもできちゃうくらいです.
森元首相の発言,どう思った?

本件についてのブログ記事なんかもいろいろあるようです.見れるうちに以下を参照ください.
森元首相による浅田真央選手への「放言」「暴言」。NHK会長の発言と同じ”根っこ”が見え隠れする森元首相の発言問題からみる,メディアの闇
森元首相「真央は必ず転ぶ」失言批判、メディアの恣意的報道か~趣旨を無視し一部切り取り

私としましては,
キーワード: マスコミ,自民党,スポーツ報道
ということをもって,うんざりするような話題なので,どうせこうなるだろうと思っていたところ,やっぱりこうなったなという感想です.

マスコミが恣意的な切り貼り報道をすることは普通のことですし,むしろそれを商売にしている人達に対し,「そんなことしちゃいけない」などと優等生発言をしたところで仕方ないところです.酪農家に対して「動物を殺しちゃいけない」というようなもんです.
マスコミとしてはお金を稼ぐためにやっていることですから,彼らの生活のことも考えてあげなければいけません.
ある程度のアホらしさ,クズっぷりを許容してあげることが,マスコミの在り方を語る上では大事なのではないでしょうか.そうした “遊び” の部分も認めてあげた上で批判することが大切だと考えております.


私が気にしているのはそんなことではありません.森元首相が何を言ったのか?とか,マスコミの切り貼り記事以前の問題でして.
つまり「なんでこの程度のことがニュースになって,しかも大騒ぎになっちゃうのか?」ということなんです.
とは言え,騒いでいるのは極々一部の物好きだけかもしれませんけど.そうであってほしいし,そうなるはずですし.

冒頭に上げたように,結構な数のサイトやブログで取り扱われ,連日,続報がニュースサイトに流れるということは,それだけ価値あるニュースとして位置づけられているのでしょう.
本件,私もちょうど最近,
という記事を書いていたので,そこでの内容と符合するなぁと考えながら眺めています.よかったらこっちもどうぞ.

「酔っぱらいオヤジの発言だ」というネットのコメントも見かけましたが,私からすれば本件で騒いでいる皆様方が酔っ払いです.オリンピック期間という酔っ払い状態でしょ.正常な思考じゃありません.
あまりに頭に血が上った論考,斜め上ゆく深読みをしている方々も見受けられるので,笑いながら読んだサイトもあります.

皆様方の何にどういった刺激が入ったのでしょうか?なんのスイッチが入っちゃったんですかね.
こう言っちゃなんですけど,五輪組織委員会の偉いお爺さんが,選手や関係者に対して失礼なことを言った.それだけじゃないですか.
「あぁ,まーたこんなこと言ってるよ...,困るんだよなぁ,この爺さん」
とか,一般人ならこれに追加して,
「スポーツ関係者って大変だね―.こんな人がトップだなんて」
っていうくらいで終わる話じゃないでしょうか.

たくさんの人が森喜朗氏の発言にいきり立っていますが,彼らをそうさせるエネルギーはどこから来るんでしょうか?

特定の冬季五輪,しかも特定の競技種目,さらに特定の選手への発言だけのニュースをもって,東京五輪組織委員会の会長を盛大にバッシングするだけの価値ある理屈が,騒いでいる皆様方にあるのか?ということを問いたいのです.
少なくとも今現在,ネットの中では見つけられないです.たんなる下品なお祭り騒ぎだと私は思います.

冒頭に示したアンケートサイト森元首相の発言,どう思った?では,氏の発言に対し「納得できない」と回答した人が80%近くいるということですが,皆様が納得できようができまいが,そんな事どうだっていい話です.無意味な意思表明にもほどがあります.
先日,「大雪で説明会休む就活生は採用されない:大学准教授のツイートが物議」っていうのがありましたが,こうした現象と類似しています.

こういう発言をする会長か,そうじゃない会長かによって東京五輪に影響があるとは到底思えないですし.もし影響が出る要素があるとすれば,それは政治力の有無でしょうから.

念のため解説しておくと,こうした組織の長には,肝のすわった統率能力と政治力がなければいけません.どっかの会社の社長とかはもちろん,市長とか知事をやるのとはわけが違います.
スポーツは国民の関心が高いことから,それを背景とした強大な政治が動きます.スポーツって結構凄いんです(詳細は紙面を改めます).なんせ「スポーツ省をつくろう」なんて動きがあるくらいですから.
ゆえに,国民ウケをかなぐり捨てても,その分野で実績があり,且つ,政治的影響力が強い人が音頭をとらないと, “飲み込まれる” おそれがあります.「頭のいいバカ」ではダメなんです.そんなこと,かつての自民・社会党連立政権や民主党政権を経験している大人な日本人なら分かるはずなのですが.
・・・と,これを説明してると長くなってしまったので,あとはご自身で調査してください.

体育・スポーツの分野で長く音頭をとってきて,自民党という一大政党をまとめてきた森喜朗氏に,それができないとは思えませんので,私としては彼に五輪組織委員会の会長をやらせて良いのでは?と考えております(他に適任者がいるならいてほしいのだが).

森喜朗氏が体育・スポーツにどれほど貢献してこられたか,何から何までExcellent!だったとは申しませんが,無難に事を進めてこられた人であること,非常に強い影響力を持っている人であることは,スポーツ政策の報道担当者であれば知るところでしょう.
この程度の発言・失言で森喜朗氏が五輪組織委員会の会長を辞するわけはなく,責任をとるほどのことでもないことは,真っ当な大人であれば分かるはずです.

「なら,森喜朗氏の発言は問題無いというのか?」と聞かれるかもしれませんが,いやいや,ちゃんとした不適切発言ですよ.私も「自重してください」と言いたいです.
けど,こんなに大騒ぎするほどの事件じゃないと言いたいわけです.
だって,少なくとも今現在は組織委員会の統率がとれず,政治的にも迷走・暴走している状態ではないからです.
会長の役目は失言をしないことではないでしょう?失言しようがしまいが,会長職を全うできているならOKですよ.

「何を悠長なことを.公人のくせに失言する奴は不的確なんだ」というなら,もはやこの国の国民はどうしようもないな,と私は諦めます.そこまで程度の低い話はしたくありません.
森喜朗氏を過保護に養護しまくったとして,こうした失言めいたことを言う性格が,彼の政治家としての高いカリスマ性につながっているという見方もできるでしょう.子供じゃあるまいし,そういうことは「納得できる」でしょ?

断っておきますが,私は森喜朗氏を崇拝しているわけでも,支持しているわけでもありません.むしろ,面倒を撒き散らす政治家なので「勘弁して下さい」と考えているくらいですし,今回の発言も「失言」レベルだとは思います.

それに今後,森喜朗氏に五輪組織委員会の会長として不適切な行動があれば,私だって「こいつを降ろせ!不的確だ!コンチキショー!」と盛大にこき下ろします.なんせ私は体育スポーツ領域にいるわけでして,その影響を直に受ける立場ですから.

ですが,今回の件は炎上して騒動になるような内容のニュースかというとそうではなく,かなり不自然なほどに盛り上がっちゃってる話題だと私には映ります.
なんともお騒がせな割に,実りのないニュースで日本が湧いているということをご認識いただければと思う次第です.

2014年2月20日木曜日

いい人達なんだそうです

今日はソチ五輪について短く.
私も仕事柄(というか活動領域柄),知り合いの方々がいろいろな立場からソチ五輪に関わっておりまして,その内部事情といいますか,そういう話も聞かせてもらうことがあります.
そんな中でも,少し話せる範囲内で.


「怖い奴だと思われているんですが,実は私はいい人なんです」
という決めゼリフで知られる田母神俊雄氏が,東京都知事選挙で落選してしまい気を落としておりました私ですが,同時期より開催されたソチ五輪では日本人選手の快進撃に感嘆しております.
まさかここまで活躍してくれるとは予想しておりませんでした.
非常に頼もしい限りでございます.

さて,「いい人」の反対はというと,悪い人といいますか,つまり評判が悪い人がいるわけですが,冬季スポーツで「評判が悪い」というと「スノーボード選手」と言われることがあります.
ことの発端は前回大会であるバンクーバー五輪において,「例の選手」が身だしなみや態度(ハンセーしてま〜す)がことのほか批判対象になったことにあります.
その他のスノーボード選手も似たような身だしなみであったことと,「スノーボード競技」がおかれている状況として,オリンピックやワールドカップに本腰を入れない人が多い(X Gamesという大会の方が有名・格上なため)ことにより「本気度が感じられない」ということも災いして,「スノーボード選手は性格が悪い」ということで波及してしまった経緯があるようです.

大学院の後輩になる人が,この「スノーボード」の選手サポートに関わっておりまして,やはり“そういう”見方をされることを嘆いておりました.
御多分にもれず,やはり皆が皆「例の選手」のような人たちではないわけでして.
とは言え,その方も最初はスノーボードの担当になった時に「変な奴らが多いのではないか」と警戒していたようです.
が,その方いわく,「彼らの多くがいい人達なんです.北国の人らしいというか,素朴で素直で,こちらの指導したことをちゃんと取り込んでくれるし」とのこと.

チャラチャラしてる,とみなされることの多い彼らのファッションにしても,
「有名選手や周りのボーダーがああいうファッションをしているから,憧れや “皆そうだから” という理由で着ている」
とも言っておりました.

こういう誤解,というか,例って他にもあって,例えばバスケットボール選手なんかがそうでしょう.
バスケットボール選手の普段着,彼らいわく「正装」であるあのスウェットパンツ姿も,「だらしない」「パジャマか?」などと捉えられることがあります.

もっと言えば,我々のような体育大学生(私の頃は,だけど)なんかが,普段着がジャージになっていたこと,私服(つまり,本当の意味での普段着)を着るのはちょっと恥ずかしい,むしろ,私服を着て大学に行こうもんなら奇異の目でみられてしまう.ということと同じものなのでしょう.

ボード選手のファッション.我々世代でいうところの,不良,ヤンキーみたいな格好は,彼らにすれば「がんばってボード選手らしい格好にしてる」ということになっているようです.

ただですね,その方の先生(ということは私の先生でもあるが)からすれば,
「だからスポーツのトップ選手,有名選手というのは,後の者や子供たちにとって模範になるような人徳と態度,身だしなみを持っておくことが必要なんだ」
というところなわけでしょうが.

そんなスノーボード.今大会では優秀な成績を収めてくれています.
特に,その方が力を入れてサポートしていた「ハーフパイプ」では,男子が銀・銅を獲得するという快挙です.

おめでとうございます.
帰ってきたら,是非ともうちの学生たちにソチ五輪の裏側をお話してもらえればと考えております.

2014年2月14日金曜日

基礎演習をなんとかしよう

「どうせ普通のやつと大差ない」と思いつつ,憧れの一瓶を購入.

ブレンデッドウイスキー「響 12年」であります.
本日到着,早速開封,おそるおそる試飲.

「!!!!違う・・・」
全然違うのですよ,他のウイスキーとは.
ビックリするぐらい旨いのです.1割くらい値段補正がかかってるでしょうが,それでも噂に違わずとびきり旨い!いやこれマジで神がかり的な作品です.
さすが日本のウイスキー,全くクセがない.かと言って味が弱いわけではなく,華やで芳醇な味わいは下戸の私でもストレートでいけてしまう.
もったいないから水で半分に割ってみましょう.するとどうでしょう.なんとも伸びやかな香りと舌触り.「水で割った」という感じがなく,「それ」ですでに完成している,そう思わせる水割りです.
恐るべし最高峰のブレンデッドウイスキー.
よーし!この調子で17年ものも・・・,ウッ..,た,高い....,(もっと出世してからにしよう)

・・・ということを,まずはどうしてもお伝えしたく,思わず書いてしまった上で,以下の記事に入ります.


多くの大学で「初年次教育」と位置づけられて1年生を対象に行われている演習形式の授業があります.
たいてい「基礎演習」だとか「入門演習」などと呼ばれている科目です.
その目的とは,
大学での学びを有意義なものとするために,大学生として必要なスキルを修得すること(そしてたいてい,文章技術・レポートの書き方,議論の仕方,図書・資料の検索方法を学習する)
なんてことになっています.

この授業,やり方次第では有意義なものになる(はずな)のですが,どうしても悪い意味で「適当」な扱いになってしまうものとして,業界では結構有名です.
やってる我々としても(その全員ではないだろうが),演習としての意義を見出せずにいる.そんなところです.

本学の学生たちからもすこぶる評判が悪く,これは前任校でも似たようなものでした.
実際に聞いてみると,
「子供じゃないんだから,レポートの書き方とか,図書館の使い方(学内案内含む)とか,そんなことのために授業一つ使わなくても・・・」
「結局,あの授業ってなんだったんですか?」
といったようなところ.

そうなんですよねぇ,やってる私たち自身がそんな感想を持ってるわけですし.

だったらやめろよ,という声が聞こえそうですが,そういうわけにはいかない大人の事情があるのです.
こうした授業の発端というのは,
「最近の学生はレポートすらまともに書けない.議論の仕方を知らない.なに?だったらそれを教えろ,それが大学だろだって?そんなもの図書館に行って自習してから出直しなさい.えっ!図書館の使い方をしらないだと.あちゃ~」
とか,
「◯◯っていう学生いたでしょ.彼,大学をやめるそうです.馴染めなかったようですね.学内に友達がいればなんとかなったのかもしれないんですけどねぇ.友達作りを促進するようなこと,授業でできないですかねぇ」
というところからです.
つまり,学生側からの「文句言う前に,だったら教えろ」という要求もあったのでしょうけど,それ以上に,教員側からの「そういう基本的なことも教えておかないとダメでしょう.授業にならないんだから」という要求もあったためなのです.

文章の書き方を知らない,議論の仕方を知らない,図書館の使い方を知らない,友達の作り方を知らない,だからそれを教えれば良いのではないか.そういう流れです.
ところが,少なくない大学教員は気づいているのですが,上記のことを「それを目的とした授業」として教えることはできないのです.
なぜかというと,これらと大学生活を順風満帆に送ることとは擬似相関だからです.

つまり,「文章術,議論術,図書館の使い方,友人関係がしっかり出来る人は,大学生活を有意義に送れる」というわけではなく,大学生活を通して「文章術,議論術,図書館の使い方,友人関係を学んでいく」ものだからです.
別の例で言えば,足が速く持久力もある人だからサッカー選手になり,遠投力があり腕力も強い人だから野球選手になる,というわけではないことと一緒です.
いずれも,そのスポーツをやっているから足が速く,遠投力がつくわけで,もしくは,足を速くしようとトレーニングし,投球練習に精進するのです.大学の学びも同様です.

ちゃんと書けていないレポートや卒論は明確に減点したり,落とせば良いのです.アカハラだと言われ(脅され)ようが,ダメなものはダメだという授業を展開すると,学生の文章術はついてきます.
まともに走れなければレギュラーになれず,ちゃんと投げられなければ負ける,スポーツ選手がトレーニングするのと一緒です.

もちろん指導も必要でしょう.ですから,ここがダメだと赤ペンで指摘を入れれば良いのです.
私自身,ブログでこれまでにも書いていますが,ネット文書コピペのレポート肯定派です.なぜかというと,学生たちがインターネット上とは言え資料を集めてきたことに違いは無く,作業上のこととしてタイピングを簡略化した.それだけのことだからです.レポートに違いはありません.
ですから,レポートのコピペがダメなのではなく,その内容がダメであることを指摘して,改善するように指示をすればよいわけです.
ただ走るだけではダメで,ドリブルできなきゃいけない.変化球ばかりでは打たれるぞ,という指導と一緒ですよ.

それを面倒がる教員(履修者数が膨大という理由も含む)や,ネットや書籍にある文章を批判的に見れない教員はレポート課題を課さなけれよいのです.
私も履修者が多い授業ではレポートを課しません.見れないからです.
質問カードを書かせて対処しています.例は■質問させるを参照のこと.

議論にしてもそうです.議論できなければ単位を出さなければよいのです.議論させる授業をやりたいのでしょう?であれば,議論できなきゃ単位が出ない.当然の処置です.

そんなことをしていれば,いやでも学生は「なんとかしよう」とします.そうなると図書館を使うでしょう.係員に聞いたり,友人や先輩に聞いたりするでしょう.めでたく図書館の使い方が分かるようになります.
私なんかは,もともと学力レベルが半端無く低かったので(今でもだろうけど),ほぼ毎日図書館で勉強方法を調べながらの学生生活でした(あの大学のレベルなのに).そうしなければついて行けなかった,そいういう危機感がありましたから.
結果,図書館の使い方なんて嫌でも知りますし,裏ワザも覚えます.
※例えば,その大学では枚数制限のあるコピーカードが学生に配られるのですが,それを無限使用できる裏ワザです.コピーカードをカードリーダーに挿入し,まずは必要枚数コピーします.その後,素直に【取り出し】ボタンを押さず,背面の主電源をオフ&オン.すると,コピーカードの使用量がゼロで返ってくる.という誰にも言えない裏ワザがありました(2010年よりシステム変更に伴い実行不可能).【注意】私がやったとは言っていませんよ.

ネットの使い方にしてもそうです.「PubMedとかCiNiiを調べれば,論文らしい論文が引っ張ってこれる」それを正攻法だという姿勢で教えても,学生には伝わりません.
「そのサイトを使えば楽できる」そんな味をしめさせるような授業を行い,必要性を感じさせることです.そのためには,「これは論文として認めない」という冷酷な評価を下さなければ価値を見いだせないのです.

私自身,CiNiiを見つけた時の感動を今でも覚えています(PubMedの日本版がどこかにないか,ずっと探してた).よし,これでコピペが楽になる.という意味でね.でも,そうやって学生の学術的活動は広がっていくんではないでしょうか.
切羽詰まった学生は■【やってはいけない】卒論・ゼミ論を1日で書く方法のような記事を検索するでしょうし,逆に,私みたいな教員であれば,そうした記事に書かれていることの何がダメなのか予め知っているわけですから,ダメなものはダメだと言えばいいのです.

というわけで,大学生活における友人関係というものの位置づけも,学生各位によって明確になってきます.
友達100人できるかな,なんてノリではなくなります.


・・・というようなことを「言える」だけでなく,実際に「やれる」のも本年度からだったのですけどね.
ちょっとキツいかなぁ,かわいそうだなぁ,なんて思うこともありましたが,やらせれば学生はできるもので.
私にできたんだ,うちの学生ができないはずはない.ガッハッハッハ!

今なら笑ってられるんですけど・・・,
去年までは,手紙の書き方とか電話のかけ方,本の読み方(「まずは目次を読んでみましょう・・」など)とかも「基礎演習」で教えていました.
内心,【やべぇ~,この授業やべぇ~よ】と思いつつ,それを全クラス「足並みそろえてやる」というのがその大学の方針でしたので.従っておりました.
3年目だった去年,辞めるつもりだった去年は,それでも結構フリーダムに好き勝手やってる部分もありましたが.

授業は統一されたテキストにより・・・,
えーとですね,驚くことに,レポートの書き方から手紙を書き方,友達作りまでを網羅した大学1年生用のテキストが作成され,販売されているのです.Amazonとかで覗けます.興味のある人はどうぞ.

なぜ “足並みそろえる” のかというと,そうしないと教員によって教え方が違ってくるため不公平になるからです.
「◯◯先生は教えてくれなかった.◯◯先生は楽で面白かったと聞いた」というクレーム(?)予防ですよ.
そうすると,前回の記事■子供のコミュニケーション能力は社会の鏡とつながってきましたね.
そうです.諸悪の根源はこうした思想です.

最後に,基礎演習そのものを私は否定しているわけではないので,今年できなかったことを書いておこうと思います.
1年目の今年は守りに入っていましたので.でも,どうやら結構自由にできるんだな,ということが分かってきたので,2年目は・・・,

何か一つのテーマを徹底的に掘り下げるトレーニング

ということをしてみようと思います.
え?それすらやってなかったのか.って?
さておき,
アイスブレイクとか学内設備の紹介とか,はっきり言ってどうでもいいことだということが5年間の教員経験(プラス,自分の学生経験)から導き出されたことです.
あと,実は議論,ディスカッションというのもクセモノです.
下手の考え休むに似たり,とは言い過ぎですが,議論するための力(事前知識,ルール)がないままに実施しても,昼下がりのカフェでの談笑と同レベルになってしまいます.
「分からなくても,とりあえず発言することが大事」だなんて,バカバカしくて指導したくないですから.分からないなら黙ってろ,これが私流.よし,それでいこう.

調べてきた内容について,さらに調べる,それをさらに調べる,もっと調べる.
それを繰り返すこと.これなら,嫌でも図書館に行くでしょうし,調べ方を調べるでしょう.きっと友達とも議論するはず(あの先生ウゼー,っていうのも含め).それが真っ当な大学生の議論の一歩です.

これこそが大学生に必要な能力,いえ,「手順」ですから.

2014年2月7日金曜日

子供のコミュニケーション能力は社会の鏡

うちの大学でも入試が始まりました.
受験生の緊張した面持ちをよそに,私は,
「机の上に置けるものは,黒鉛筆,シャープペンシル,消しゴム・・・・」
と,用意されているセリフを読み上げ,
「解答はじめ」
あとは黙って,
【今年のスキーどうしよっかなぁ...,そろそろブーツ買い替えたほうがいいかなぁ...」
などと教卓を前に仁王立ちして,黙々と思案する時間に耐えるだけです.

あまりに暇なので,監督者の誰もがやるのが余った問題冊子の「読書」.
【うへぇ〜.これチョ~むずくネ?分かるのこんなの?】
と思いつつ,体ほぐしに巡回した際に,何人かの受験生の解答を見て【へぇ〜.それが答えなんだぁ.よく知ってるねぇ】と確認し続ける1日であります.


さて,前回は,ものづくりの現場における新入社員の基礎学力とコミュニケーション能力の低下を取り上げました.
子供の学力は社会の鏡
特に基礎学力について長々とお話しましたので,今回は「コミュニケーション能力」についても,基礎学力と同様の考察ができるのではないかという記事です.

「若者のコミュニケーション能力が低下している」というのは,太古より人類が嘆き続けている悩みです.
毎度毎度,実感できる水準で低下し続けているのであれば,かれこれ何千年も経っているのですから,人類における「若者」はそろそろ取り返しのつかないほどのキチ◯イになっていてもよさそうです.
そうなっていないとすると,この解釈は「世代間ギャップ」という,これまたポピュラーな言葉で説明できそうなのですが,いかがなもんでしょうか.

それでもここでは仮に,ある種の「若者のコミュニケーション能力」が低下しているとしましょう.そう思いたくなる時,私もありますし(自身,まだ若者のつもりでいるけど).
我々の頃からも言われていましたが,「元気がない」「能動的でない」「指示待ち族」「模範解答的」というのがステレオタイプでしょうかね.

ですが,そうしたコミュニケーション能力の低下というのは,上述した「学力低下」と同様に,日本社会や企業といった「大人」の側のコミュニケーション能力が低下してきていること.言い換えれば,日本社会全体が,若者をはじめとする人間に求めているコミュニケーション能力(方法)が,これまでとは別のものに変化(シフト)してきていることの帰結と考えられなくもないのです.

こうした点を炙り出したのが押井守監督の「スカイ・クロラ」なのではないかと考えているのですが,その詳細は,■「スカイ・クロラ」小説と映画を比較してみたを読んでください.

先に結論を言っておくと,
これまで,失敗しない方略を選ぶこと,誰も傷つかない関わり方が大事だということを殊更説いてきたにも関わらず,今更アントニオ猪木バリに「夢をもて.バカになれ.元気があれば何でもできる」と言われても参っちゃう
ということです.
これについては,ここ最近の流れとは考えていません.戦後,ずっとそうだったと私は思っておりまして,その結果がここにきて滲出していると考えております.

ちょうど就職活動が始まった大学3年生.ゼミの学生からも,
「実際のところ,コミュニケーション能力ってなんですかね?」
という質問が出ていました.良い質問です.
「相手に自分の言いたいことを伝える力ですか?」
「問題なく交流を進める力ですか?」
などと聞いてきてましたが,それはチョットしっくりこないですね.
やっぱり,失敗せずに,誰も傷つかずに,という視点が強いのだと感じました.
つまり,彼らのコミュニケーションにおけるデフォルト設定というのは「誰からもイチャモン,クレームがつかない話し方」というものである可能性が高いのです.

ですから,教育的指導ということで説明したのが,
「様々な人との交流(やりとり)を,問題を起こさず進めていく能力ではなく,問題が発生した時にそれを乗り切る能力のことだよ」
というものでした.
この考え方からすると,たしかにコミュニケーション能力は低下しているのだと思われます.“若者の” ではなく,社会全体が.
(よって,私が指導した「問題が発生した時にそれを乗り切る能力」をつけても,現代日本社会では評価されない可能性があるということです.H君すまんね)

コミュニケーション能力が低下していることを示す典型なのが,最近ニュースになっていたテレビドラマ「明日,ママがいない」とか村上春樹氏の小説への批判(中頓別町のタバコのポイ捨て)です.(靖国参拝とか従軍慰安婦もそうなんですが,ややこしくなるから割愛)
その特徴として,とにかくまずは「クレーム」がクローズアップされるのです.この件,調べてみるに,両者に何らかの問題があったことはたしかでしょう.軽率な企画や著述だったのかもしれません.

でも,こうしたことに対し,この日本社会は「クレームが出ている」という点を大々的に報じ,その「クレームが出ている」ということを論議してしまうのです.
つまり,「クレームが出ていること(それそのもの)が問題だ」ということで,このことについて賛否の論議が始まるわけです.
ドラマや小説といった「作品の出来」の話ではないのです.

いるでしょ.「クレームが出ている」ということを,やけに気にする上司や組織.
多くの場合,そいういうのって有能な人物や組織とは評価できないですよね.お下品な言葉で言えば,ケツの穴が小せえと評されます.
だって,クレームの有無と物事の正否は別ですから.

「傷ついた人がいるのだから,それを取り上げることは大事なのではないか?」
という声もあるでしょう.
でも,芸術や美術作品というものは往々にして特定の人に損害を与えるものです.賞賛と罵倒を浴びながら発展していくのがこの分野です.
でもここで問題にしたいのは,件のドラマや小説の良し悪しではなく,「傷ついた人がいるから・・・,」ということ “そのもの” を問題視して議論を始めていたら,突き詰めていったその先にあるテーマというのは,
では,誰も傷つかずに済む方略とはなんでしょうか
というものになることです.

つまりこういうことです.
人と人との交流,世に出す芸術作品,公的な発言・発信などなど,こうしたものには総じて “誰も傷つかない適切な加減”というものがあって,人は,それを正確に選択できるか否かが問われている.それがコミュニケーション能力だ.
ということを,日本社会が了解しつつあることを示唆しているのです.

これは,私からすれば「コミュニケーション」の放棄です.誰からもイチャモンがつかないことを目指すということは,そういうことだからです.
日本社会がコミュニケーションを放棄することを推奨・邁進している流れのただ中にあって,若者のコミュニケーション能力の不足を嘆くのは,これまた学力低下と同様にシュールな状況と言えるでしょう.

こんなことを言うと,しょうもない犯人探しが始まります.でも,ネットの影響とか,日教組の影響とか,メディアが悪いなどと,どこか特定の領域に責任や原因があるわけではありません.ただなんとなく,皆が「快」と感じる方向に進んできた,そして,失敗や誰かを傷つけることを極度に「不快」としてきた,その結果のように思います.

実は,冒頭の大学入試の話と無関係ではありません.
大学内部,つまり身内の入試ではそれほどでもないですが(最近は“それほど”になってきたと年配の先生方は言うけど・・),特にセンター試験などでは監督者への要求が非常に機械的なのです.笑っちゃうくらいに.

気分が悪そうな受験生がいても,「大丈夫?」などと声をかけてはいけません.特定の受験者へのエコひいきになるからです.この場合,倒れたり嘔吐といった誰もが「大変だ」と認識できる事態になってから対処するのが正解です.

これは,全国一律・一斉,完全なる公平さを謳うことによって発生した現象です.
(そうした厳格さを求める国民性が,さまざまな “日本発の独特な” テクノロジーを生むというのが,前回の記事の話だったけど)
つまり,多くの不特定多数の人が交わる場であり,且つ,様々な不測の事態が起こりうる場であるにも関わらず,そうした場においても絶対に失敗しないこと,そして,誰もが傷つかない(クレームがこない)ことの両輪を追求した総本山,それがセンター試験です.

たしかに,その若者の人生を左右するとも言われる大学入試やセンター試験でありますから,円滑に運営するために「完璧」を求めることは褒められることではありますが,それも程度によります.
もうここまで来ると,どういった場合にどう行動すればいいのか?どの対処が正解か?なんて把握しきれません.
よって,とりあえず出たとこ勝負の気持ちで挑み,結果,何もなければラッキー,不測の事態が起こったら「周知徹底しておりませんでした.申し訳ございません」と謝るしかないと考えるのみでございます.
※これまた適切なクレーム対応と謝罪方法というマニュアルにそって.

とまぁ,センター試験や大学入試なんかが典型ですが,それだけではなく,社会全体の流れとしてマニュアル絶対主義,公平さ(同一条件・環境)を提供することへの執着があるわけです.
そんなような社会に新規参入していく若者からすると,その社会で認められるためには,当然のことながらマニュアルにそった模範解答のようなコミュニケーション能力を理想とし,鍛えるでしょう.
だって,クレームに追われ,失言で揚げ足を取られ,それに適切な対応をしたかではなく,事前に予期できなかったのかが問われる「大人」を見ていたら,子供のコミュニケーション能力もそちらにシフトするというものです.
それが若者のコミュニケーション能力が低下していると評されることの正体ではないでしょうか.

私はなにも「相手や世の中のことを考えず,各々が言いたいことを勝手気ままに好き放題言い散らかせば良い」などと言っているのではありません.
人間というのは,存在している限り誰かに迷惑をかけているものです.

大事なのは,そのような中にあって,いざという時にその場でどのような振る舞いができるのか,ということが問われているのではないだろうか?ということ,そして,それこそがコミュニケーション能力と呼ばれるものではないかということなのです.

2014年2月5日水曜日

子供の学力は社会の鏡

9―3÷1/3+1=? 新入社員の正答率4割
「9―3÷1/3+1」(1/3は、3分の1)の答えは?
ある大手自動車部品メーカーが、高卒と大卒の技術者の新入社員をテストしたところ、正答率は4割にとどまった。中部経済連合会が3日に発表した、ものづくりの競争力についての提言に、能力低下の事例として盛り込まれた。
 この大手部品メーカーは毎年、同様の算数テストを行っており、1980年代の正答率は9割だった。
 基礎学力の低下のほかにも、中経連が会員企業に行った調査によると、企業が学生に求める能力と、実際の能力に差が広がっている。企業が採用の際に重視する能力は「コミュニケーション」がトップの87%。一方、学生に低下を感じるのもコミュニケーションが59%と最も多かった。
 こうしたギャップから、特に中小企業で、若手社員の離職につながるケースが増えている。中経連は今後、「ゆとり教育で希薄化した初等教育の充実を図る」「授業にディベートを採用し、コミュニケーション能力を養う」ことなどについて、国や教育機関に改善を求めていく。
(答えは「1」)
朝日新聞社2月4日

 前々回の記事,
計算方法が分かれば良い・・・,のかな,どうだろ
で取り上げていたこととよく似た事例がニュースになっていました.

やっぱり最近の20歳前後の人はこういう傾向にあるのでしょうか?
ただ,この事態が件の「ものづくり」の現場において問題になるのかどうか,それは別に分析しなければならないのでしょうけど.
「能力低下の事例として盛り込まれた・・・」と書いていますが,本当に能力が低下しているのかどうか,あと,記事の後半にあるコミュニケーション能力が “養われていない” のかどうか,それは彼らが30歳や50歳になってからでないと分かりませんからね.

ある種の学力,とりあえずここでは「基礎学力(計算力)」としておきますが,そうしたものは低下(変化,シフトと言ったほうが適切かもしれないが)している可能性はあります.
この点について今回は論じてみましょう.

ところで,「コミュニケーション能力の低下」というのは,毎年,毎回,毎時代取り沙汰されることです.
逆に,若者のコミュニケーション能力が上がっているという時代・民族・社会集団を聞いたことがありません.

つまり,これは人類の風物詩です.

「もうそろそろ,“世代間ギャップ”ってことで一件落着..,しないにしても,楽しむ程度で済ませませんか?」という気持ちになりますが,まぁ,これを商売にしている人もいるのでしょうから,ムキになって突っ込むのも野暮ってもんでしょうか.

さて,
PIAACとPISAの結果の考察
で紹介しましたが,日本の20歳前後の人の数学的思考力は国際基準でみても優秀です(ちなみに,全年代で優秀です)
が,PIAAC(国際成人力調査)で計測された点数というのも,技術力とかものづくりを反映するかといえば怪しいわけでして.
実際,日本と同様に敗戦後もその「ものづくり」によって復活したイタリアやドイツのPIAACの成績は振るいません.

だから,なんですけど,
基礎学力と,ものづくり技術力との関係調査が急務だと思われます.
どこか誰かやってくれないですかねぇ.

例えば,PIAACのようなテストと基礎学力(算数や理科の問題)テストを,国内で職種別に行なうわけです.
これで,ものづくりや技術力に基礎学力がどれだけ貢献するかわかります.
たしかに予算が大変ですけどね.

そんなこと言ってはいますが,私自身その必要性は無いとは考えております.
教育自体がそうなのでしょうが,こういう「ものづくり」だとかPIAACで測っている能力って,社会全体で育まれ,受け継がれていくものなのではないでしょうか.

先ほどから話している日本人の数学的思考力というのにしたって,社会全体で育まれ,受け継がれているものなのです.
典型例を示しましょう.「お釣り」です.

日本では出店や小さなお店であっても,お金のやり取りをしっかりやります.つまり,だいたいの金額ではなく,正確なお釣りが返ってくるのです.
レジや電卓などを使わないお店,しかも(地方観光地にありがちな)店員が高齢者であっても,正確で素早くお釣りが返ってきます.これに驚く外国人のエピソードは枚挙にいとまがありません.

さらに,実際に日本人の多くがやっていることに「お釣りの調整」があります.これは,購入する側が,お店側からもらう「お釣り」のお札や硬貨の量を最小限にしようと調整する行為です.
例えば,代金が650円であれば,手元に千円札と100円玉,それに50円があるなら,1150円を店員に渡しますよね.なぜなら,その金額を渡せば,お釣りが500円玉1枚になるからです.
こういう購入者側の行為も,外国の方々からすると奇異な行為に映るのだそうです.

これは,「相手の負担をなるべく軽減しよう」という,(今ブームの)「おもてなし」の精神でしょうし,そうした日本の社会が数学的思考力を育み,PIAACの成績もどの年代であっても高く維持されているのではないでしょうか.
こうして考えると,他にも示唆される志向と行為,そこから生まれるものづくりやテクノロジーというのはあります.

時間にルーズではない日本人だからこそ,高度な電車・新幹線のタイムスケジュールのシステムをどうしても求めてしまい,結果,作ってしまうこと.
なるべく目立たないように,奇抜に見えないようにしたがる日本人だからこそ,超小型のポータブル電化製品を作り,それが市場で売れること.
きれい好きな日本人だからこそ,ウォシュレットを開発し,それが「おいおい,これっていくらなんでもオーバースペックじゃね?(笑)」とならず,何の問題もなく受け入れられること.
などなどです.

調査や科学的根拠があるわけではないのですが,「ものづくり」にしても,会社や工場・研究所の内部で育まれ,受け継がれている技術・技能があるのでしょう.
基礎学力も大事なのかもしれませんが,こうした,「その集団」の中で求められる能力に合わせて人間は育っていき,いわゆる「基礎学力」とは異なる技術・技能を受け継いでいくのではないかと思うのです.
(繰り返しますが,基礎学力が不要と言っているのではありません)

ゆえに,冒頭のような記事や昨今の大学生については,そうすると以下のように考えることもできるのです.
若者の基礎学力が低下しているのは,大学や企業そして日本社会が,若者に高い基礎学力を求めていないから
大学については,当事者の私が言うんだから間違いありません.
大学は高い基礎学力を学生に求めていません.誤解してもらっては困りますが,高い基礎学力が無くても良いと考えているわけではないですよ.
少子化と大学数増加,これに「大学間での学生数確保」の競争という状況が加わることで,大学は受験者に学力を求めなくなりました.
至ってシンプルな理由です.これで大学生の学力が低下しないわけがありません.

詳細は■学力低下に書きましたが,これは「今まで不合格になっていた受験者が合格するようになった」ということで,「大学生の学力が低下」していることを示していますが,だからと言って「子供の学力が低下」していることを示しているわけではないのです.

これが企業,そして社会にも同じことが言えるのでしょう.
「大学生が勉強しなくなった」と言われ始めて久しいのですが,それがいつ頃から言われているのかは不明です.
それでも,なんとなくですが,ここ20〜30年くらいが顕著なのでしょうか?ちょうど私の年齢と一緒ですかね.バブル時代くらいからかな?

では,この間の企業や社会は,社員に何を求めたのか?そこが重要です.
すなわち,ちょうど私達が物心ついた時期,そして社会というものを見つめていた時期(1990〜2000年くらい)のビジネスマンは,基礎学力の高い人が重用され,高い基礎学力が求められる業務内容に見えたのか?ということです.

少なくともそれを見つめていた当事者の一人である「私」には,そうは映りませんでした.
私自身覚えていますし調べたら出てくるはずですが,
「学力の高さよりも,発信力が大事」
「難しく考えるよりも,分かりやすさ」
「良い製品を作ることよりも,販売戦略とプレゼンが重要」
という謳い文句やスローガンが飛び交っていたはずです.
(残念ながら今もそう)

このような方針に重点を置く企業,そしてそのような企業で構成されている(と子供の目には映る)日本社会に参加していく若者や大学生が,いわゆる「基礎学力」を磨こうとするのでしょうか.ちゃんと勉強しておかないと社会に出て困る,などと発想するでしょうか.
よほど勉強が好きな子供でも無い限り,基礎学力が大事だから頑張ろうなどとは思いませんよね.

むしろ,大学なんかでは「ちゃんと勉強してしまうと,就活の妨げになる」などと考える学生が増えるのは当然で,あろうことか教員も「授業よりもキャリア教育」などと言い出す始末です.
すなわち,社員や国民に高い基礎学力や学術能力を必要としないのが今の企業であり,日本社会なのです.意識的にせよ無意識的にせよ,子供の目からそのように捉えられていることの帰結,それが現在の「学力低下」と騒がれていることの構造ではないでしょうか.

で,結局何が言いたいのかというと,多くの当事者は “自覚” していないのでしょうけど,
若者や子供に高い基礎学力を求めていないくせに,「子供の学力が低下している」などと騒ぐのは片腹痛い
ということです.
さらに言えば,だから
誰かこの問題を解決しろ
というのはキビシいです.シュールです.
もう少し現状を落ち着いて眺めてみてはいかがでしょうか?と提言したいわけです.

教育問題というのは,その社会全体を俯瞰しないと見えてこないものです.
誰か特定の人たちが努力すれば改善したり,解決したりするものではありません.
もっと言うと,「いじめ問題」と同様に,“解決” するような問題ではないのです.

そんなわけですが,とりあえず私ができることは,ゼミ生が教員を目指そうと,食品会社に内定してようと,学術的な思考力を求める授業を展開するだけです.


PS
おまけですが,
冒頭のニュース記事にある計算の一部「 3 ÷ 1/3 」の答えは「9」になるのですけど,
では,「 1/3 × 3 」の答えはなんでしょうか?
答えは「1」です.

そんなの当たり前でしょうが,と言われるかもしれませんが,ここからが面白いところです.
これを電卓でやってみてください(エクセルではダメ).
【手順】
1÷3を計算する
答えは=0.3333333・・・・
そのまま,これに3をかける.すると,
答えは=0.9999999・・・・
ということで不正解が算出されるのです!
電卓では「 1/3 × 3 」が計算できない!
※電卓の性能によっては正解をはじき出すかもしれないけどね.
まぁ,それだけ.
ネタとしてご利用ください.