2014年5月23日金曜日

井戸端スポーツ会議 part 1「プロ野球16球団構想から」

自身が体育スポーツの専門なので,そんな記事をpart-XXと称しながらボチボチとシリーズで書いてみることにしました.
part1と称して2や3がない記事も過去にはありますが,別にボツになったわけじゃないので,それはそのうち書こうと思います.

という話があがっているようです.

これについて賛成・反対という話ではありません.これをネタに井戸端会議をしようというものです.
井戸端ですから,「結論ありき」の記事ではありません.「それ」を期待している人はページを閉じたほうがよいかと思います.

さて.
政府・自民党の成長戦略第二次提言案ということで持ち上がってきた話ですが,なぜに16球団構想が成長戦略になるのか?ということが疑問ではあります.
プロ野球の球団を16にするのが悪いというわけではありません.
スポーツを専門にしている者,スポーツ界で活躍することを目指す学生を預かっている者としましては,歓迎されるべき話ではあります.

こういう話が出ると,すぐに火がつく論点が,
「球団を増やしても採算がとれずに経営破綻をするのでは?」
とか,
「球団運営は赤字になるから,企業にメリットがない」
というものです.

頭の中が「金」「金」「金」になっている人は多いものです.
私はそんな人々を蔑みの目で見る気にはなれません.たしかにお金は大事ですので.
だから憐れみの目で見るようにしています.

そもそも,
球団運営というのは,企業にメリットがあるから手を付けるというものではありません.
メリット「も」あるから手を付けるのです.
意識的にせよ無意識的にせよ,「球団運営すれば,その企業の広告になる」だから「球団を持つ」,という発想だけでスポーツにお金を出すわけではないはずなのです.

こんなこと言うと,「でも採算がとれずに経営破綻したらお仕舞いじゃないか」と食って掛かってくる人もいますが,別に経営破綻を気にせずにお金を出せという話をしているわけでもありません.
あまり頭のよろしくない人からすると発狂してしまうような話かもしれませんが,これは重要な事です.
でもたしかに,ここらへんの微妙な「金儲け」と「スポーツ哲学」の部分が難しいわけでして.
だから「スポーツ経済」とか「スポーツマネジメント」といった学問領域があるのです.

これらを専攻している人にも勘違いしている人がいますが,こうした学問領域で研究されているのは「スポーツでお金儲けをする方法」ではありません.
“お金儲け”の色が強い経営,経済という思想と,“人はお金儲けだけでは動かないんだ” の代表格であるスポーツという思想の融合を試みている分野と私は解釈しています.

ここが理解されにくいわけでして.勘違いしている人もたくさんいます.

ですから,球団経営を「お金儲けのため」に乗り出す企業にはやらせないようにしなければいけません.
そんなタイムリーな話が私が大学生の頃にありました.
プロ野球再編問題というやつです.懐かしいですね.

私が所属していたゼミでも何度か話題になっておりましたが,そこで出た話が,
「選手の年俸が高過ぎる」でも「高いから憧れる世界なのでは」
「ナ◯ツネ早く氏ね」でも「彼のおかげで日本のスポーツが発展してきた」
「巨人が諸悪の根源」でも「地方と東京をつないだのは巨人」
「やっぱり採算がとれる経営にしないと」でも「採算だけが大事なわけじゃない」
というものでした.
体育系の大学でしたから,あの頃の学生同士の話題はこれ一色でしたね.

私はというと,新球団設立について,どうしてもあの「ホリ◯モン」と呼ばれる男が無性に気に入らなくてですね.生理的に受け付けない,っていうのはこのことでしょうか.
まあ,ともかく,
その後,彼が逮捕されたというニュースがありましたが「ざまぁwww」と不埒にも思っておりました.

ところで,このホリ◯モンですが,彼に対し当時の阪神タイガース・オーナーである久万氏がこう述べています.
「(球団経営は)大金持ちになるためにやるのではない.大金持ちが自分の金を使ってやること
当時からこの言葉は,球団経営陣の姿勢を論じる上でいろいろな解釈をされておりますが(球団経営は金持ちの道楽か!という批判とか),私としては(天邪鬼的ですが)かなり好意的に解釈しても良いのではないかと思う部分もあります.

というのも,スポーツをお金儲けのツールとして見做している者にとっては,それがお金儲けのツールとしての価値がなくなった際には,容易に自分のもとから切り離すであろうことが想像できるからです.
しかし,スポーツというものは採算がとれる/とれないに関わらず,人類や社会が育んできた文化という側面が非常に強いわけですから,これを守り育てていく気概がなければなりません.

まして,「野球」という近代日本スポーツ文化の象徴とも言える活動の「球団経営」に関わることになる企業やオーナーには,自社の経営状態がどのようなものになろうと,チームがどれほど低迷しようと,そのチームが存続し続けるよう耐えるだけの心意気が求められるのです.

スポーツチームの身売りニュースがあると,「経営陣の身勝手」などと騒がれたりするでしょ.
人にはたしかに「お金」では割り切れないことがあるのです.
こういうニュースには必ず,「でもスポーツは採算がとれないんだから,企業の側の言い分もわかる」というコメントが出ます.いや,私もこれは分かりますよ.

私は「スポーツは企業経営のために存在するのではない」というスタンスではありますが,「経営状態が芳しくないからスポーツチームを廃する,切り離す」という経営者の判断を,批判もするけど許しもします.

ただ,そんな企業さんには「人類の尊い文化である『スポーツ』から手を引いてしまった」という負い目を持っていただきたいわけです.
こちらは別に,そんな企業を徹底してこき下ろすつもりなど毛頭ありません.
ここらへんのニュアンスは,
「負けたのに『楽しかった』」はダメでしょうけど.けどね.
とかで書いたものと似ています.

と言いますか,そういった「心意気」という部分を社会に埋め込むためにスポーツは機能しているのではないかと思うわけでして.
それが,上でリンクさせた記事の簡易版である
簡易版・負けたのに楽しかったはダメでしょうけど.けどね
で論じた,「社会に英雄を生み出すためのシステムとしてのスポーツ」です.

スポーツを利用して企業経営をするな,というわけじゃないのです.
企業経営のためにスポーツを利用するな,ということです.
つまり,
スポーツは企業経営のためになる,のであって,
スポーツは企業経営のためになる,というものではない.
この解釈,なるべく多くの方々にご検討いただきたいところなのです.

ですから私としましては,
政府自民党が出してきた成長戦略の一環としてのプロ野球16球団構想というのは,なんとも如何わしいオーラをまとっていると見えるわけです.

繰り返しますが,プロ野球を16球団にすることが悪いと言っているのではありません.
そこに税金がどれくらい使われるとか,選手やチームのレベルが下がるだとか,そんなことは瑣末なことです.

なんのために16球団にするのか?という点が大事だと私は考えているのです.
もしそれが,経済を成長させるための起爆剤と見做す面が大きいのであれば(というか日本経済再生本部からの提言だから・・),野球をはじめとする「スポーツ」が持っている本質的な性格を崩すことになりはしないか,そのような危惧があるのです.

しつこく但し書きをすれば,スポーツが経済を成長させるための起爆剤になった,というのであれば良いのです.結果論であれば.
でも,スポーツを経済成長の起爆剤にする,ということですと,ここには何やら禍々しい空気が立ち込めてきそう,というわけですね.

スポーツが経済に与える影響というのは,あくまで相乗効果や相互関係というところで留めておくほうが良いのではないでしょうか.
阪神タイガース,元オーナーの久万氏の言葉にならえば,今,政府自民党がするべきことというのは,
まずは日本の経済を立て直して,プロ野球の球団経営が安定してできるような企業をつくること.
その上で,より体力がある企業にプロ野球の球団経営を任せられるようにすること.
そして,
できれば,プロ野球を16球団運営できるほど景気が回復し,地域間格差がなくなればいいな.

ということです.

2014年5月8日木曜日

危ない大学に奉職してしまったとき「高校訪問対策」

まじめな記事を書いていると気分が落ち込んでいくので,やっぱり楽しい記事を書こうと思います.

最近は危ない大学でなくても「高校訪問」という名の営業活動は行われています.
高校に直接出向いて,そこの進路指導を担当している先生なんかと話して,こまけぇことを省けば「本学に誰か生徒を寄こして」ってお願いする営業活動のことです.

高校訪問て何?っていう転任先生や新人先生にとって,「本学は先生方にも高校訪問に行ってもらいますので」って言われた時に参考になるであろう内容を取り上げてみたいということです.

ほとんどの大学では既に入試課とか広報課といった部署で,どのような高校訪問をすれば良いか分析・検討がされています.
本当に危ない大学であれば,不慣れな教職員用にアポの取り方とか面談時の対応方法なんかが台本として用意されています.

ところで,
友人である高校の先生なんかに聞きましても,やっぱりと言いましょうか,
「高校訪問に来るような大学には生徒は行かせない」
というのが実情のようです.
でも,今にも死にそうな大学にとっては高校訪問が有効であることは確かなんです.
【以下,差別・侮蔑と受け取られかねない話になりますが,よく内容を咀嚼し,誤解無きようお願いします】

それは,高校側・教師側の都合です.
高校訪問に来るような大学,つまり,終わってる大学でもいいから,うちの下位生徒を「大学」とか「短大」,「専門学校」と名のつく所に進学させたという実績がほしい場合です.

そんな都合ですから,入試倍率が0.99倍を“越える”ような大学では勝負になりません.どんな生徒でも受け入れてくれるような大学(短大・専門学校)でなければ勝負にならないんです.
よって,高校訪問では“どんな生徒であろうと”文句を言わずに受け入れる大学を示すキーワード,すなわち,「面倒見が良い」「学生目線の教育」「高校との信頼関係」のアピールが強力な武器になります.

高校側とすれば「言ったからには受け入れろよ」という保証,ないし約束が欲しいわけで,それが高校訪問なのです.

つまり,第1希望は当然のことながら,滑り止めの第3・第4希望にもなっちゃうような「希望のある」大学に「高校訪問」の効果なんぞありません.

前置きが長くなってしまいました.でも,そういう事情が「高校訪問」にはあります.

本当に危ない大学の高校訪問の場合
そんなわけですから,「高校とその先生との信頼関係づくり」が本気の高校訪問ということになります.
御校の生徒を手厚く面倒を見ます,どんな生徒でも文句言いません,とりあえず無事に卒業させます.という次元の話をすることです.
でも,正直に「どうしようもない生徒さんこそ送ってください」なんて言ったらダメです.それは分かってもらえるかと思います.その手の話を遠回しに訴えることになります.

高校の先生も「先生」ですから,手の焼ける生徒が少しでも真っ当な人間に育ってほしい.可能であればより良い就職をしてほしいと願います.そこに響く訴えをすることになります.
手の焼ける生徒を普通の大学に通わせてもダメなことは,高校の先生が一番良く知っています.
そこはやはり面倒見の良さ,つまり「教員と学生の垣根の低さ」なんかを訴えると良いでしょう.「教室外の学び」なんてのもアピールポイントです.どうせそんな生徒に「教室内での学び」は期待できないんだから.

※後日,ガチで高校訪問しなきゃいけない大学用に記事を書きました.
危ない大学に奉職してしまったとき「本気の高校訪問対策」

さて,こちらで悩んでいる先生の方が多いでしょう,
あんまり危なくない大学の高校訪問の場合
最後にして今日の目玉なんですが.
結論から言うと,いかにしてサボるか?に尽きます.
大学運営のコンサルタントなんかが,高校訪問の指南をしてくれることもあるのですけど,はっきり言って無駄です(ごめんなさい).
大学運営は,企業や学校とは違います.高校訪問が有効なのは,高校訪問しないと来年には潰れるような大学だけです.そうじゃない大学ではマジメに研究教育に取り組んだほうがいいんです.

サボりましょう.
少なくとも,楽しめる工夫をしましょう.


もちろん,気づかれないようにします.
いかにして頑張ったふりをするか,そこを考えます.
たいてい,教員の場合は2人組でまわったりします.そんな時は可能な限り「高校訪問なんて意味ねー」ってボヤいている教職員と組めるよう画策してください.きっと楽できます.
逆に,高校訪問に意気揚々と取り組む人と組んだら,この上ない憂鬱な時間になります.気をつけてください.

高校に行っても,パンフレットとか「本学のセールスポイント」みたいな資料を置いてくるだけでいいんです.進路指導の先生なんかと面談をする必要はありません.どうせ向こうだって「えぇー,また大学から来たのぉ.今度はどこよ」などと面倒くさがってんだから.

ちゃっちゃと終わらせるのが,お互いのためです.むしろ好感を持たれるかもしれません.迫ってくる人より,逃げる人を追いたくなるのが人情です.

そんなに厳しくないなら,実際に高校に出向かなくても「行った」ってことにしときます.
証拠を求められても,相手がちょうど名刺を切らしていた,とか,名刺を持っていなかった,担当の先生が不在だった,所要があって対応できないようだった,忙しそうだったなどと言い訳すればOKです.

ここで重要なのは,面談していないのに「面談した」と報告してはいけません.なぜなら,次にその高校をまわった教職員が,「前回はうちの◯◯(あなた)がお伺いしたかと思いますが・・」なんて話になった時,運が悪いと面倒なことになる可能性があるからです.
やるにしても考えて動きましょう.

各校の進学傾向なんかを聞き取る任務が課されている場合もありましょう.
そんな時は,なんとでも言いくるめられる言葉があります.
地元志向,節約志向,資格志向,就職希望者が多い,資格取得希望者が多い,実学系,看護系,教育系,公務員系,これらを適当に組み合わせて「そんな傾向でした」って言っときます.
高校訪問にまわるような大学としては,上記のような高校しかまわらないんです.それに,そうじゃない高校だったとしても,上記のようなことを報告しておけば言いくるめられます.

あとは,高校訪問を担当したエリアの名物を楽しみましょう.
食事はなるべく豪勢にいきます.せっかくなんですから楽しまないと.
高校訪問に本気出す人と一緒に回ると,コンビニ食とかファストフード店で済まそうとします.
可能な限り名物を食べましょう.少し遠くても,その分の高校訪問を減らせばいいのです.それこそ,行かなくても「行った」ということにしときます.

お土産を何にするか検討してから高校訪問するのも大切です.高校を回るルートを決める上でも重要ですからね.

当たり前ですが,本当に危ない大学なのにサボったらダメですよ.マジで終わるんで(まぁ,人類のためにはそれも良いかもしれないが).
※本気の高校訪問対策はこちら↓
危ない大学に奉職してしまったとき「本気の高校訪問対策」

その他の危ない大学対策は,
危ない大学に奉職してしまったとき「スパイ対策法」
危ない大学に奉職してしまったとき「イベント企画対策」
危ない大学に奉職してしまったとき「教員評価制度対策」
危ない大学に奉職してしまったとき「新学部・学科名の候補を出せと言われたとき対策」
危ない大学に奉職してしまったとき「授業評価アンケート対策」


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2014年5月5日月曜日

STAP細胞研究の件について

STAP細胞にまつわる論文と理化学研究所の騒動について.

「まだ論ずるべき材料が揃っていないから」ということで避けていた話題です.
未だに論ずるべき材料は揃っていないんですが,せっかくですから現時点での「感想」を述べておこうと思います.

それは何かというと,
何も論じられない話なのに皆して大騒ぎした,“それ” が本件で最も興味深いということです.

今回の感想をまとめておきます.以下のようなものです.
門外漢の人は,本件を見る上での参考の一つにしてください.

STAP細胞があるか否か?について
これが最も重要な点です.でも,これこそまだ何も分かりません.な~んにも.
何も分からないのだからSTAP細胞が出来るか否かの結論が出るまで待てばいいものを,何をトチ狂ったのか,この点をメディアや世論(ネットコメント)はつつき回しました.
研究リーダーの記者会見までやりました.ネットでライブ中継までしてましたよね.
そしてその場で「STAP細胞は存在するか?」なんて無意味な質問をしてました.きっと物事を論理的に考えられない人です.それは確認できました.

もっと言えば理化学研究所もそうです.
何も分かっていないのに当該論文を「不正」とか「捏造」と決めて取り下げようとしました.
ですから私を始めとして多くの「研究者」としては,「“確実に” 理研が何か隠している」とみるわけです.
もしくは,単に彼らも想像を絶するバカだった.そんなところです.でも,理化学研究のプロ集団ですから,そんなことは無いはず・・.
ただ,こういうマスコミ対応,世間との対応が苦手でピヨって慌てた可能性も無きにしもあらず.かもしれないです.そう信じたい.

本件の肝でもあるのですが,この「STAP細胞が存在するか?」と「論文に不正があったか?」は別の話です
「論文に不正があるからSTAP細胞も存在しない」ということにはなりません.落ち着いて考えたら小学生でも分かる話です.
でもなんだかそんな論調で騒いでいたように感じます.今もそうかもしれません.

あの研究リーダーの記者会見ですけど.
そんな記者会見を見て,「彼女を信じようと思った」なんて言い出すトンチンカンも現れましたが,それ以上に末期症状だと思い知らされたのが,
「結局,説得力のある証拠は示されなかった」
などと言う人です.
何を出せば「説得力のある証拠」なのか?と自分で考えたことはあるのでしょうか.
記者会見なんかで証拠が示せるわけないのに.

私としては事あるごとに書いていますが,「理解できないんなら口出すな」ということです.
おそらく,記者会見の場に居合わせた人のほとんどが「STAP細胞があるか否かを,彼女から聞き出そう」という態度だったことかと思います.
そんなわけで,彼女とすれば「あります」としか答えられないのですから,あのような問答になります(無いのに「ある」って言ったのならウソつきだけど).
私としては彼女が言いたいことは理解できたつもりですが,あとは事実確認が終るのを待つだけです.

論文に不正があったか?捏造だったのか?
これが本件で争点となっていることです.
「不正」なのか「捏造」なのか「ミス」なのか.それが争われています.
大事な争点なのですから,最近,渦中の研究リーダーは「不正」「捏造」「改竄」といった言葉の解釈を明確にするよう質問状を出しているようです.そりゃそうですよね.

もちろん,これはSTAP細胞があるか否かで意味が大きく変わってきます.
そんなこと言うと,「やっぱり論文の不正とSTAP細胞の存在は同じものだ」と言い出す人もいるでしょうけど,別問題です.
ここの解釈が一般の人には難しいのでしょうか.

例えば・・・,
東京都立大学を卒業して三菱商事に就職している人がいるとします.
その人が「履歴書」の学歴に東京大学卒業,職歴に三菱商事と書いていたとします.
これを見て「東京大学卒業じゃないじゃないか.きっと三菱商事も捏造に違いない」っていう指摘に対し,
「すみません,書き間違いです.まさかそこを略しちゃいけないとは知らなかったんです.でも,最終的に三菱商事にいることは事実なんです」
と言っているという状況です.
そんなとこ略したら大問題になることを知らなかったことは社会人として恥ずべきことであるし,これは立派な「捏造」と言えなくもない.
けど,だからと言って三菱商事に就職していることも捏造だということではないわけで.
だからその「捏造」とか「改竄」といった言葉の解釈を質問状にしているのでしょうね.

私としては,
1)STAP細胞が無いのに「ある」という論文を書いていたら「捏造」です.
2)STAP細胞はあるが,その結果を意図的に改竄して書いていたら,強い「不正」です.
3)STAP細胞があって,その結果をカッコよく見せようと操作しても,科学論文としては「不正」です.
4)単純に間違えて写真や文章を採用していたのなら「ミス」です.

あと,5つ目の可能性として「何か別の現象で発生したものを,STAP現象だと勘違いしていた」というもの.可能性は低いけど.

彼女の話を聞いていると,3番目の「カッコよく見せようとした事が,結果的に不正だった」という可能性が読み取れます.
が,それもこれも今後の調査次第です.現時点では全く何も分からない話ですから.

だからやっぱり全ては「STAP細胞があるか否か?」になるわけです.
勘違いしてほしくないのですが,STAP細胞があったとしても彼女がやらかした事の調査は進めてもらわなければいけません.
どうやらこの分野では本件のような切り貼りコラージュを論文に掲載することは「不正」のようですので(私は当該分野じゃないから詳細は知らない).

あと,この件について,いろいろな「科学者」の方々がコメントを出されました.
皆,至極当然な事をおっしゃられています.
何を言っているのかというと,
「論文の書き方に不正がある疑義が極めて濃厚で,研究の仕方が杜撰」
ということです.
今後,彼女はこの点を気をつけなければいけませんよ.っていう話なのですが,これがどえらいニュースになっているのです.

ネットのコメントなんぞを見ておりますと,「科学論文はミスですら許されることはない」と言う人もいますが.
こういう人って,ちゃんと科学論文を書いたことが無い人だと思われます.もしくは “言い過ぎ”.
いえ,ミスしてもOKだなんて言ってるわけじゃないのです.ミスはダメですよミスは.
もちろん不正も捏造も.
“意気込み” としては「ミスは許されない」のですが.
けどね,例えば今回の件であればSTAP現象が起きることが分かって(真実だったとして),それをNatureに投稿して掲載されたんなら,もうそれでいいじゃないかとも思うんです.査読も通ってるんだし.

んで,その後ミスだか不正だか知りませんが,それが今回見つかった.
だから筆頭著者以下,関係者が信用をなくしてしまった.
写真を切り貼りしちゃいけないの知らなかったの?ダメだよそれは!
って,それだけの話なのでは?科学界を揺るがすような事件ではありません.
何をそんなにしつこく大騒ぎしているのか意味不明なんです.ちょっと騒ぎ過ぎですよ.
(しつこく但書ですが,私は彼女やこの研究チームを養護してるわけじゃない!)

いやいや,他の理研や早稲田大の関係者も同じく「不正」が横行していたらしい.
という話も出てきたのですけど・・・.
さて,
ここから先は,本件で科学研究をやっている人たちの多くがおそらく感じたであろう「あくまでファンタジー」としてお読みください.
決して私自身が研究を杜撰にやっているわけではないです!

まず,この分野では論文用の写真は切り貼りすることが “影では” 主流になっているのではないか?ということ.
えぇ,そのままです.その可能性が考えられます.あくまでファンタジーですよ.
私は論文中にこの手の写真を使う分野ではないので,何がどう「不正」になるのか,そのルールを明確には知りませんから,当事者の感想にはならないのですが.
この手の写真を扱う分野にいる友人から聞いたところ,「論文や発表用のベストショットが撮れるまで頑張る」んだそうです.

ベストショットが撮れるまで頑張るのがシンドい実験データの場合ですと,
「どうせ結果は変わらないのだから・・,えぇい,綺麗に見えるようにやってしまえ」
という人がいても不思議ではないということです.
だから,次から次へと切り貼りコラージュが指摘される研究者がいたのではないでしょうか.

私は切り貼りしても良い.と言ってるんじゃありません.ダメだとは思います.
でも,ことさら取り上げて吊るし上げる必要もないのではないかと言ってるんです.

あと,研究ノート(実験ノート)が5冊(?だったか)は「少ない」のか?という話題.
これこそ分野によるのでしょうけど.研究してるからって,研究者は研究ノートをたくさん持っていると思ってもらっても困ります.
研究ノートというのは,その研究で必要なことを具体的に書き残していくものです.
何が必要なことで,どこまで具体的に書くのか,それは研究者によります.
場合によっては法的効力を持つこともあるので,なるべく細かく書いたほうが良いとされています.
が,それは現実的ではありません.

最近はパソコン上で作業をして,それをプリントアウトする人がたくさんいます.
キャンパスノートみたいなのに全部丁寧に書いてる人の方が少ないというのが実感です.
研究分野によってはノートなんてつけてられない,という場合もあります(多量のデジタルデータを扱うとか.そういう人が私の同僚にいる).

あと,5冊よりも10冊,100冊よりも200冊のノートを持っている人が良い研究をしているというわけではありません.
そもそも,研究ノートを一切つけていない研究者だって大量におります.

今回の一件で,「研究ノートをちゃんとつけるよう,研究者に義務化させよう.全国一律の書式をつくろう」
なんて話になろうものなら,余計な手間を増やすだけの愚策になることは確実です.
そんなこと提案するの,絶対やめてくださいね.