2014年6月26日木曜日

井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」

このブログを見てくれている人の多くが,スポーツとは無縁だったり関心がない人だったりすることが窺えることがあります.
ですので,そういう人でもなんとなく分かった気になれる「サッカー日本代表論」を井戸端会議してみようというものです.
あんまり外野がゴチャゴチャ言うことではないのかもしれませんが,そこは「井戸端会議」ということで(以下略

今回のサッカー日本代表について,その総評ですが.
率直に言えば「よくやった」というところです.
それに付け加えて「メディアが煽るだけで,日本の実力はこんなもの」といった話をしようという気はありません.
その手の話は飽きました.今回はもっと建設的な話をしたいのです.

私が子供の頃(Jリーグ発足当時)の日本代表と比べると,雲泥の差があります.明らかに上手になっています.それは過去のプレー映像を見れば一目瞭然です.
だからこそ,やっぱり日本代表の実力というのも見えてくるわけでして.
他の代表チームの試合を見れば,それこそ一目瞭然です.

では何が違うのか? というところが気になるかと思いますが.
私見としては,「判断力」というところに違いあると感じます.
技術と体力は十分世界で通用するレベルです.

判断力(勝負勘とも言える)の強化は,これからの日本代表(というか日本人選手)の課題だと思います.でも,一朝一夕で身につけられることではありませんから,ジュニア期の選手をあずかるサッカー指導者の健闘を期待したいところであります.

それでは以下,それほど目新しくもないサッカー日本代表論ですが,興味があればどうぞ.
※それに,これはスポーツ指導論としては基本的な話だったりするので.「体育系大学を卒業した人はこう考える」ということで読んでください.

よく日本代表は「体力(フィジカル)が弱い」などと言われますが,実のところ体力レベルは他の代表チームの選手と違いがあるわけではありません.
もちろん,体力要素の中でも「背の高さ」というのは越えられない壁かもしれませんが,それを言い出したら強豪国でも背の低い選手はたくさんいます.

日本代表の体力的な強みは,敏捷性(スピード)の高さと豊富な運動量(持久力)だとされています(もちろん,それは平均的な特徴のこと.選手個々人で差があります).
いずれもサッカーという競技種目にとって,必要性が高い体力要素です.
それが十分に備わっているわけですから,あとはその活かし方にかかってきます.

日本代表のプレースタイルは,相手を翻弄するパスワークだとされています.それを目指しているという代表関係者のコメントは多いので,ほぼ間違いないことです.
パス回しによって相手を崩していこうとすれば,優れた敏捷性と運動量は最適な体力的特徴ということになります.
というか,そういう体力的な特徴と優位性があるから,パス回し主体のプレースタイルを選択しているという側面もあります.
そして実は,この日本代表のパスワークは世界的にも非常にレベルが高いと言われています.

つまり,技術と体力,そしてそれを活かそうという戦略・戦術も合致しているということですから,「じゃあ他に何が問題なんだ? 」ということになって,思わず「根性がない」「ハングリー精神が足りない」「勝利への意欲が感じられない」などと言い出す人が多いわけです.

冒頭に「今の日本代表(日本人選手)に足りないもの」として提言した「判断力」というのは,実は体力,技術,戦術といった領域と非常に密接な関係にあります.
ですから,これが足りていないと,体力も技術も戦術も,何もかもが足りていないように見えるわけでして,結果,全てにおいて劣っているように見えちゃうというところがあります.

皆さんも日本代表(Jリーグ)の試合映像(ダイジェスト映像でよい)と,他の代表チームや海外有名リーグの映像を見比べてみてください.
見れば見るほど違いがないように見えてしまうかと思います.もしくは,何かが違うようだけど,それを言葉に出来ないというところかもしれません.
ですが,以下の説明を読んだ上でプレー映像を見比べてみてください.きっと何かが感じられるようになるでしょう.
その他のフィールド型やネット型のスポーツを観戦する上でも有益です.

一言で言えば,日本代表は他チームと比べると「最も得点(勝利)できる行動がイメージできていない」ということです.
選択すべき行動(プレー)がイメージできていないので,その瞬間の行動を選択するために時間がかかったり,誤った行動を選択してしまうわけです.
正しい選択であっても時間がかかれば失敗しますし,技術・体力が優っていても失敗する可能性が高くなってきます.

これを,かつての日本代表監督を務めていたオシム氏は,2007年監督時の日本代表のプレー(守備)を指して「各駅停車の電車だ」と評しました.
ボールをとってからの前線への送り出しが遅いことを指した発言なのですが,つまり,どういう流れ(ボール運び)によってゴールマウスへと入れるのか?というイメージや青写真がないままにプレーしている.すなわち,どの経路が最もゴールへの確率が高いのか判断ができずにグズグズとパス回しをしているレベルにあることを指していたのではないかと推察されます.

ようは,パス回しの技術と戦術は優れているかもしれませんが,ゴールマウス,つまりは得点へと持っていくための判断力が弱い,ということです.
これは2014年現在の日本人選手にも同じことが言えるのではないでしょうか.
(こういうのは相対的な評価です.おそらく,2007年当時の選手よりも,今の選手は判断力は高くなっているでしょう.でも,他チームの選手はそれより高いということです)

この判断力の弱さは,ゴール前のプレーにも現れます.
ダイジェスト映像なんかを見ておりましても,強豪国のスピーディーでダイナミックなゴールシーンを目の当たりにすると,「あぁ,やっぱりフィジカルやスピード,パワーで負けてるなぁ」と思わされるかもしれません.
ですが,先にも言いましたように,運動能力は日本代表選手も決して劣っているわけではありません.

強豪国の選手が見せるあの動きは,日本人的に言えば「迷いがない」動きです.
迷いがない者の動きは,スピーディーでダイナミックなものになるのは当然です.
切り込むべきか,パスすべきか,どこにパスしようか,誰がどこにいるか,といったことを一々考えながら動いていたら,あんな動きはできません.
こういうのを体育学では「運動の先取り」って言ったりします.
逆に言えば,守備側とすれば相手の判断材料,選択肢を増やすことが存在意義です.それにより,「思い切ったプレー」ができなくなります.
(もちろん,その守備側の動きにしても判断力が必要になるわけですけど)

重要なのは,数ある選択肢のうち,最も成功の可能性が高い行動を選択できる判断力があるか?ということになります.
よく,「攻撃側に選択肢が増えれば,守備が難しくなる」という趣旨の話を聞くことがあるかと思いますが,それは「時間」の要素を考慮しない科学・実験的な論考です.
スポーツでは制限時間内に最適解を選択することが求められます.選択肢が増えてしまうことはマイナスにはなれど,プラスにはならないのです.

考えてもみてください.ゴールに誰もいなければ,そのまま蹴り込めば得点です.迷う必要も,選択に時間をかける必要もないわけです.
でも,その前にキーパーや守備の選手がいるとどうでしょう.どこに向かって動けばいいだろうか,どのタイミングでパスを出そうか,そのままシュートしようか,と選択肢ができることで迷うことになります.
その時,「この行動であれば間違いない」という判断が瞬時にできて,それを迷いなく行動に移せる選手であればどうでしょうか.
最大出力が出せて,精度が高く,タイミングも良いプレーができることは十分に予想されることです.
これを「ゴール前での余裕」と表現したり,評することもできるでしょう.
(繰り返しになりますが,これはスポーツ指導論としては基本的なものです.決して精神論ではありません)

こういった判断力も含めて「技術」とか「テクニック」とか「戦術(システム)の完成度」,あとは「経験」と言われることがあります.
そういう意味では,日本代表は技術やテクニックが低く,戦術運営能力も劣っているし,経験がない,と評されても良いのかもしれません.
そういう部分をカバーできるほどの「体力」が無いとも言えるわけです.

ですが,そういうこと(パス回しや機敏な動き)を単体で取り出してやらせた場合,それは上手くできるのです.試合において出来る可能性を持っていると言っていいでしょう.
ですが,それが実際の試合においては発揮されないということで困っている,と私は見ています.

華麗なるパス回しによって相手を翻弄しているつもりでも,判断力無きパス回しは自分たちを翻弄し,疲れさせます.
「パス回しをしていても得点できなきゃ意味が無い」という評論家もいますが,はい,その通りです.
問題になるのは,効果的なパス回しになっているのかどうか,という点なんですよね.
つまり,相手を翻弄させたり疲れさせるため,もっと言えば,得点できるためのパスのコース,タイミング,動き,といったものが随所で選択できているかどうか,という点です.

遠い遠い,遥か昔から言われていることではありますが,逆に言えば,ここが日本のサッカーでは徹底できていないことを示しているとも言えるでしょう.
いわゆる,
勝つためのプレーをしていない
というものです.
この記事で述べてきた言い方に戻せば,ピッチに立つ選手の判断基準が意識的にせよ無意識的にせよ,「点を取って勝つ」ことではなく「戦術を全うする」ことになっているのです.

では,どうすればその判断基準を「点を取って勝つ」というものにすることができるのか?
それは難しい話です.
おそらく,現役の代表選手や代表候補選手にアレコレ言ったり練習させても難しいと思われます.

冒頭にも述べましたが,この判断力というのは「勝負勘」と読み替えてもいいものだからです.
数値化できたり,言って教えられるものではないんです.それが一流選手たる所以でもありますし.
このサッカーにおける判断力を鍛えるためには,ジュニア期の練習で体に染み込ませるしかないように思います.

そうなりますと,日本代表が世界レベルで戦えるようになるためには,最低でもあと15年くらいは必要ということになります.
私としては結構短いと思っているのですが,気の早い人は耐えられない時間でしょうか.

個人競技であるテニスでも似たエピソードがあります.
私の恩師から聞いた話です.
男子テニス界の王者として君臨していたロジャー・フェデラーが,ジュニア選手だった頃のエピソードです.
ジュニア時代,彼はたしかに強い選手ではありましたが,目立った戦績は残せないでいました.
大きな大会にエントリーすれば一回戦負けが当たり前だった頃,とある人(故人・日本テニス界の大御所)が,そんなフェデラーの試合を見て「彼は将来,きっと大物になる」と評します.

その後の大化けっぷりは言わずもがなですが,その人がフェデラー少年の何に注目していたかというと,彼がやろうとしていたプレースタイルです.
ショットの正確性やフットワークの悪さは発育発達途上のジュニア選手であれば仕方がないことですが,やろうとしていたプレースタイルは抜群に優れたものだったと言うのです.

おそらくは彼のコーチが優れていたのでしょう.
例えジュニア時代に負けが重なったとしても,シニア選手になった際に必要となってくる判断力や戦術を,ジュニア期のその身に叩き込んでおくことを優先したのだと推察できます.
技術や体力というものは,練習を重ね,成長してくれば自ずと高まってきます.ですが,その場面でどのようなショットを打つべきか,どう動けば良いか,という判断力や戦術というのは,一朝一夕に身につくものではないのかもしれません.
となると,その時に満足な技術や体力がなかったとしても「やろうとする」というトレーニングが必要であることが考えられます.

つまり,上で述べてきた「最適解を選択する判断力」を鍛えるトレーニングというのは,決して「安全策を選択する判断力」と同義ではないのです.
ジュニア期の練習では尚のこと注意が必要で,将来,体力や技術が高まることを見越し,その時に必要とされる行動を教える必要があることを窺わせます.
それが例え,目の前の試合には勝てる可能性が低くなるものであったとしても,です.
日本のジュニア選手は世界大会でよく活躍しますが,シニアでの活躍が振るわないのは,こうしたことが背景にあるのかもしれません.

だとすれば,ジュニア選手が「やろうとする」トレーニングのためには,先人たちの努力する姿や,超一流のプレーを観る機会ということが,ほぼ必須の条件ということになるでしょう.
「やろうとする」ためのモデルや経験談がなければ,それは不可能だからです.

現在のサッカー少年が,先人たちの遺産を受け継ぎ,あと15年後,20年後のサッカー日本代表として世界トップレベルのプレーを見せてくれていることを期待しております.

井戸端スポーツ会議
■ 井戸端スポーツ会議 part 1「プロ野球16球団構想から」
■ 井戸端スポーツ会議 part 2「スポーツ庁の必要性」

過去のスポーツ記事
人間はスポーツする存在である
「負けたのに『楽しかった』」はダメでしょうけど.けどね.
簡易版・負けたのに楽しかったはダメでしょうけど.けどね
浅田選手への森元首相の発言
いい人達なんだそうです
スポーツによって災害に強靭な町をつくれる
スポーツで土建国家を復活できる
スポーツは健康になるためのツールではない
しかしもし,偶然というものが一切否定されたとしたらどうだろう
エクササイズからスポーツへ
コンクリートからスポーツへ

2014年6月21日土曜日

子供の自殺原因「いじめ」は2%,という記事への反応への反応

短い記事になるかと思いますが,一応このブログでは反応しておこうと思いました.

子供自殺原因、いじめ2%=初の実態調査公表-文科省
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201406/2014061900923&g=soc

で,その記事に対するネットのコメントの例を画像として左図に示してみました.

これは2014年6月20日現在のヤフーニュースの画像です.
撮ってきて良いものかどうか迷いましたが,想像以上に低次元のコメントが並んでいるので,ご参考までにと思い掲載させてもらっております.

えーと・・,
これについて私から言えることは,もうこの国の大勢,少なくともネット閲覧者の多くが,想像を絶するほどに◯◯だということです.
※上記の◯◯には,考えられる最も侮蔑的表現を想像で入れてもらって結構です.


本当に諦めました.やっぱりこの国はダメかもしれません.
やばいです.
「日本代表がグループリーグ突破できるかも」なんて騒いでる人達が可愛らしいくらいです.
※もちろん私もグループリーグ突破を夢見ている者の一人ではありますけど.あくまで夢だよね.

どういうことかと言うと,『子供の自殺原因において「いじめ」は2%である』という調査結果のことを「信じられない」「もっと多いはずだ」「隠蔽している結果だ」というもので埋め尽くされているのです.

皆さんの訴えたいことは分からんでもないのですが,クレームらしきコメントがあまりに酷いので思わずブログの記事にしてしまいました.
少なくとも,もうちょっと根拠に基づいたクレーム,建設的な批判をしてほしいものです.これではただの◯◯です.

どうやら,世論の皆様がお気に召す結果ではなかったようです.
ということは,もっと多めに数字を出しておけば良かったのでしょうか.
どれくらいだったら世論は納得するんでしょうね.
20%くらいでしょうか?
それはちょっと多すぎるかな.
10%くらい?

ここまで大問題になる前から,事あるごとに私は「子供の自殺は,いじめよりも進路や家庭の問題を取り上げる方が重要」ということを説いてきていました.
統計データを見る限り,そういうアプローチが重要であることが示されているからです.
今にして思えば不謹慎かと思うようなネタを記事にしてきたこともあります.

ただし,自殺の問題というのは非常に複雑ですので,簡単に答えが見つかるものではありません.
真面目に話す場においては,慎重な物言いが求められるところです.

ですが・・・,
もう完全にぶっ飛んじゃってるとしか思えない大衆世論に向かって,敢えて私から一応言っておきたいことがあります.

自殺の原因を,ある一つの特定の事に絞ろうと思うな

ということです.

「いじめ」とか「進路」とか「家庭」の問題 “だけ” で,その子供が自殺に追い込まれるとご想像ですか?

どれだけいじめられたとしても,温かく迎え入れてくれる,理解ある家族,友人,教師がいれば,自殺するほど追い詰められる可能性は低くなるはずです.
これは,少なくない人が実感したことがあるのではないでしょうか?
※「無い」という人は幸せな人です.

同様に・・,
どれだけ進路に悩んでも,温かく迎え入れてくれる,理解ある家族,友人,教師がいれば,自殺するほど追い詰められる可能性は低くなるはずです.
また,どれだけ家庭に問題を抱えていても,温かく迎え入れてくれる,理解ある友人,教師,親戚がいれば,自殺するほど追い詰められる可能性は低くなるはずです.

「そもそも,いじめがなくなれば自殺も減る」
なんて言い出す人もいます.
そうかもしれません.
別に私はいじめを減らそうという活動自体に反対しているわけでも,いじめを推進しているわけでもありません.

ですが,やっぱり言っておきたいことは
いじめは無くせるものではないし,解決できるものではない.
ということです.

いじめというものは,起きるものです.
その発生自体をコントロールすることは不可能だと私は考えています.
問題となるのは,発生してしまったいじめを,いかにコントロールするかという点です.

「いじめ」が原因で自殺をはかる子供が2%,という数字.
これは以下のように解釈できるのではないでしょうか.

いじめを受けてはいるが,それを守ってくれる親友がいなくなった.もしくは,親友に裏切られてしまった.
こうした場合,その子にとっては「いじめ」を受けていること自体よりも,親友だと思っていた者の裏切りが強力な自殺への動機になりうるでしょう.
それが家族であったなら,自殺への動機が「家庭問題」になるうるのです.

そうした場合,その子供の自殺の背景に「いじめ」はあったのかもしれませんが,自殺へと導く最後のひと押しとはならないかもしれません.
それが2%という数字に(つまり,低く)なっている可能性があります(こういうのは推察でしかないですけどね).

これに「進路」とか「病気」とか「恋愛」といったことが複雑にからむのかもしれません.
実際,子供の自殺の原因に病気(健康問題)とか恋愛(男女問題)は強力に作用しているんです.
文部科学省からわざわざ出さなくても,毎年警察庁が統計を出していますので,そちらを確認することを推奨します.以下は2013年度版です.
https://www.npa.go.jp/safetylife/seianki/jisatsu/H25/H25_jisatunojoukyou_02.pdf

ネットのコメントの中に「子供の自殺の全体の割合はどうなんだ」なんてのがありましたので.そういう意味でも確認することを推奨します.
「学校関係」のことが自殺の原因として多いことはたしかなんですが,その割合は全体からすれば決して大勢ではないことが分かります.
その多くが,家庭や健康,男女問題といった学校外のことなのです.

とは言え,何度も繰り返しますが,自殺の原因をなにか特定の一つの事に求めることは危険だと思います.
特に,「いじめによる自殺」というものをきちんと考えるのであれば尚の事,「いじめ」そのものを無くそうとすることよりも,まずは,いじめを見つけた者がどのような行動をとるべきなのか,それをこそ問うべきです.

いじめは「学校関係」のことだから,学校や教師に任せておけばいい.責任はそこにある.それは文科や教育委員会の所管だ.
そういう態度こそが,「いじめ」を助長する態度であると私は思うのです.
なぜなら,子供はそうした世論を敏感に感じ取ります.それが「大人への道」だと受け取ります.
いじめが起きたら,それは私達(生徒)の事ではなく,当該事案を所管する大人がやることだ.と受け取ります.

学校現場における「いじめ」を助長しているのは,まさにこうした世論と態度なのだと苦言を呈しておきたいのです.


関連記事
いじめ問題は解決できるものでもない
大津いじめ問題で大衆の愚かさに絶望しています

2014年6月18日水曜日

危ない大学に奉職してしまったとき「教員評価制度対策」

最近の大学には教員用の通信簿みたいなやつ,いわゆる「教員評価制度」というのがあるんです.
教育活動が何点,研究活動が何点,運営業務が何点,あなたはトータル何点でしたぁ,みたいな通信簿です.

これまでの大学教員は,何をやっても何をしなくても野放し状態でした.
さすがにそれじゃマズいだろう,教員自身も評価される時代になったんだ,ってことで教員個人を評価するため導入されたのが「大学教員評価制度」というものです.

さまざまな問題点を抱えながらも,お上や世間の圧力に抵抗する理由が見つからないからという理由で続けている活動です.
その議論はとりあえず横に置いといて,
今回の記事では,「危ない大学での教員評価」ということでお話します.

大学界全体のことですと,以下の様な,
http://www.niad.ac.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/01/05/no9_16_shimada_no10_04.pdf
という資料も合わせて読んでもらうといいかと思います.

これを見ましても,教員評価制度がどれだけ無駄な努力なのかが分かります.
(上記の論文ではそのような論旨にはなっていませんが,データ自体をみる限り悲惨です)

一言で言うと,
苦労して取り組んでみたけど,・・で?っていう.
そんな感じなわけですね.

危ない大学では,これに輪をかけて大変になるのですが.

ここで注意しなければいけないのは,教員評価の評価基準や項目,結果の利用方法,意味付けといったものが,各大学によって非常にバラつきがあるということです.
危ない大学においても教員評価の位置づけはバラバラでして.

大きく分けると,以下の2つのパターンになると思うんです.

(1)教員評価制度で首が飛ぶ大学の場合
一にも二にも,まずは転職を考えておきましょう.
そういう大学に勤める先生方のお話しを聞いてみましても,大学に奉公する,学生のことを考える,なんてことをするだけ無駄であることが推察されます.
そもそも大学教員の評価や処遇を,定量化システムでやってしまおうとする組織が,まともな高等教育機関としての理念を持っているわけがありません(この詳細は過去記事をどうぞ).
ここは心を鬼にして,転職するためにJREC-IN(ジェイレックインって呼んでます)へ登録しましょう.
そして,■大学教員になる方法「強化版」なんかを読んでもらっても良いかもしれません.

当面の対策としては,経営陣からの不必要な圧力を受けないための「仕事やってますよアピール材料」を用意しておくことです.
この場合の「仕事」とは,学生募集につながるアプローチのことです.教育や研究ではありません.
あと,こういう大学では,学生からの評価なんて気にする必要はありません.だってどうせ貴方は近いうちに辞めるんだから.
学生からの評価なんて気にしていたら,次の大学には移れません.ただでさえ時間がないのです,無視に限ります.
授業や指導は二の次三の次.とりあえずは,ひたすら経営陣や上司の顔色を伺うことに徹します.
「そうは言っても学生のことが・・」という教員魂に火がつくこともありましょうが,残念ながらそういう大学では「貴方の代えはいくらでもいる」っていう前提とシステムで動いているので,その努力は永遠に報われません.
考えてもみてください.その「ねばらなない」とせかされてる学生への指導内容,大学でなくてもいいことじゃないですか?貴方がすることですか?今一度考えてください.
大学でしか出来ないことを伝えることが,我々の使命ではないでしょうか.


んで,きっと多くの大学が以下に当てはまるのではないでしょうか.
(2)教員評価制度=ダメ教員検索システムという大学の場合
某大学の元学長が,私にこの教員評価制度について語っていたことです.
「あれ,別にやりたいわけじゃないんだけどね.使えない先生に圧力をかけたいだけだから」
つまり,一つ上で紹介した「首が飛ぶ」ってほどではないんですけど,あまりに使えない教員に「ほれ,これを見ろ.お前はこんなにダメなんだ」って言いたいための材料として教員評価制度を用いている大学の場合です.

そういう大学では,得点が低い教員にしか目が行っていません.
というか,そもそも点数化して何か一喜一憂しようという気がないのです.
「だったら最初からダメ教員だけ呼び出して指導すりゃいいじゃないか」なんて言い出す人もいましょうが,はい,その通りなんです.でもまぁ,大学ってところには,いろいろあるんですよ.公平・平等,手続きを重んじるといいますか.
これについて,ちょっと詳細に説明しておきましょう.

その手の大学の教員評価制度の特徴としましては,例えば研究業績とか教育業績が著しく高い評判がある教員であっても,それが教員評価へとダイレクトに反映されることを嫌います.
つまり,皆がなんとなく平均的な点数になる,もっと言えば,皆が高得点になるような評価基準設定になっています.
皆だいたい同じ能力なんだネ,っていう雰囲気にしたいんです.
それでもスコアが低い教員は出てくるわけですが,それがつまりは「糾弾対象の教員」ということです.

ですから,そういう大学において採点作業(たいてい,自己申告採点.そして猛烈に煩雑)をする場合,適当にやってしまえばいいのです.
私が実際にやらかしていた例で言えば,「授業改善」のところは空欄,「研究活動」は筆頭の主要論文を1件書くだけ.っていう感じです.

ただし「危ない大学」においては,ギャグなんじゃないかと思わされる展開もあります.
というのも,そもそも「危ない大学」には総じて真っ当な「大学教育者」っていうのが少ないわけでして.
論文を書いたことがないとか,まともに専門の授業ができないとか,講義じゃなくて実践だとか言って,アイスブレイクとロールプレイの成れの果てのような活動しかしていない人々がいるんです.

そんな大学では,一堂に会した教授会などで大学経営陣とか学長あたりが,
「(教員評価制度があるので)論文を年に1本は書きましょう.運営業務に積極的に手を挙げましょう.授業評価アンケートで指摘された項目を改善しましょう.学生を2人は獲得してきましょう」なんてことを言い出します.
もはや大学教員という仕事が,教員評価制度のスコアアップを目的とした活動になるんです.
つまり,各評価項目において及第点をそろえておけばOK,みたいな話が公然とまかり通るようになるのですね.
これも過去記事で書いた■人間はスポーツする存在であるなのかなぁ,と興味深いです.

中には,香ばしいほどの業績・業務や大学への貢献を網羅する教員もおりますが,それはそれとして憐れみの目で見てあげてください.
例えば,「定期的に相談相手になってあげている学生がいる」なんて特記事項を書く教員もいます.微笑ましいですね.

ですから,貴方がよほどのダメ教員でない限り,いい加減に申告して問題ありません.
あまりに酷いことになっていたら,向こうからなんか言ってきますから.

冒頭に紹介した論文にもありますが,この「教員評価制度」の結果を昇進とか待遇といったものに利用しようという大学は少ないんです.
教員としても,高得点を獲得したからって良いことなんて無いんですよ.
じゃあ何のためにやってんだよ!ってことになるのでしょうが,それは誰かから「やれ」って言われたからです.

まともな大学教育者なら分かってくれるかと思いますが,教育者を計量評価して,それによって待遇に差をつけたり昇進させたりすることは暴挙以外の何物でもありません.
そんなこと,危ない大学と言えど,やってるところは少ないと思いますよ.

例えば,私がかつて勤めていたことのある大学には,准教授や教授になるための条件が事細かく計量評価できるところがありました.
その基準でいくと,私は30代半ばにして教授になれてしまう,というものでした.
ろくな経験もない30代半ばの若造が,教授として大学に奉職できます?頼まれたってしませんよ.
もちろん,そんな大学とは言え,点数だけで昇進が決まるわけでもないんです.仮に私が申告したって,あれこれ理由がついて教授にはなれません.
そこはやっぱり教授に見合うだけの「格」ってものが,なんとなく要求されるわけで.

「いや,点数が高い人が昇進したり待遇が良くなることは望まれることじゃないのか?」
と言い出す人もいるかもしれませんが,教育現場ってそういうものじゃないんです.
出世したり昇進することが好きな人は気にするのかもしれませんけどね.
計量評価できるもの以外のところに,大学という組織を円滑に運営するための肝があったりするんです.

ですから・・・,
つまりは,そもそも「教員評価制度」っていうものが本来的に大学という場において機能しないし “機能してはいけない” ものであることが承知のはずなのに,取り組まなければいけないような事態が悲しい.
という話になってしまいました.

無理やりタイトルの話に戻ってまとめますと,
首とか糾弾対象にならない程度に手を抜いてアピりましょう.ハイスコアを出しても無駄なんだから.
ということになります.


その他の危ない大学対策は,
危ない大学に奉職してしまったとき「スパイ対策法」
危ない大学に奉職してしまったとき「イベント企画対策」
危ない大学に奉職してしまったとき「高校訪問対策」
危ない大学に奉職してしまったとき「新学部・学科名の候補を出せと言われたとき対策」
危ない大学に奉職してしまったとき「授業評価アンケート対策」
危ない大学に奉職してしまったとき「本気の高校訪問対策」

関連記事

2014年6月3日火曜日

井戸端スポーツ会議 part 2「スポーツ庁の必要性」

今回の記事のネタ元は,以下の,
スポーツ庁,選手強化へ予算一元化・・・五輪にらみ
というものです.

そのニュースを以下に要約しておきます.

【スポーツ庁計画の概略】
文部科学省の外局を検討.2015年度からの発足を目指す.
スポーツ振興に関する予算を一元的に管理.各種競技団体などに配分することで、戦略的な選手強化策につなげることが目玉.
団体に対する監督・指導を強め、相次ぐ不祥事の再発防止につなげる狙いもある.

【担当する業務】
〈1〉トップ選手の強化策
〈2〉学校体育・運動部活動の支援
〈3〉地域スポーツの振興
〈4〉障害者スポーツ推進
〈5〉国際大会招致やスポーツを通じた国際交流


以前からスポーツ庁やスポーツ省を作りたいという話はあってですね.
「省」が本当は理想的なんですけど,これは大掛かりだから,せめて「庁」でいいから作ってほしいというスポーツ関係者の要望は昔からあったんです.

こういう話が出ると,一般の人からよく聞かれるのが,
「スポーツごときで省庁を作るのは・・・,なんかぁ」
というものです.

スポーツ庁の必要性について,ネットで検索すると,
毎日新聞の社説
http://mainichi.jp/opinion/news/20131104k0000m070104000c.html
が出てきます.

逆に言うと,それくらいしか出てこないということでして.
なのでこのブログでも取り上げておこうと思いました.
ちなみに,話す内容は上記の毎日の社説とそんなに違いませんのであしからずご容赦ください.

「今のままじゃダメなの?」「天下り先をつくるだけじゃないか?」
というところですが,たしかに,今のままでもダメじゃないし,天下り先になるとは思います.
でも,そんな瑣末な大衆ルサンチマンにまみれた戯言を気にするよりも,スポーツの省庁を作るメリットのほうが圧倒的に大きいのです.

(1)スポーツに興味がある人の就職先ができた
のっけから挑発するようですけれども,でも重要だと思います.
スポーツの価値を国民がより良い形で享受できるよう,国の政策に活かしていきたいと考えている人達のポストができるという部分では,非常に歓迎されるところです.
そう簡単にはいかないことは承知の上で,その可能性を探れる機会ができたことは良いことだと思います.

日本国民のスポーツを見る目は熱いですが,スポーツを診る目というのは結構冷たいものがありまして.
あれだけワールドカップだとか箱根駅伝だとかクラブ活動だとかで盛り上がって楽しんで,日常の中にも「実はそれ『スポーツ的なモノ』だよ」っていうのがてんこ盛りな生活を送っておきながら,スポーツと聞くと「下流なもの」のように見做す人って多いものです.
後述しますが,そうしたスポーツの価値を専門的に取り扱う部署ができたことは,日本国民のスポーツを見る目をより良いものにしていくチャンスを得たということですから,私としては素直に喜んでおります.
私も将来は関連部署でいいから天下りたいという夢も見ております.

(2)健常者スポーツと障害者スポーツの統合
これは私も大学教員という立場でスポーツに向きあうようになって痛感しました.
過去の記事でもどっかに書いているかもしれませんが,健常者スポーツと障害者スポーツの管轄が異なるというのは非常に厄介な問題を持っております.
健常者スポーツは文部科学省,障害者スポーツは厚生労働省だったのです.

これについては,
http://sankei.jp.msn.com/sports/news/140401/oth14040108350000-n1.htm
のニュースにもあるように,先々月から文部科学省に新しい組織を作って一体化してサポートするようになりました.

これまでに起こっていた具体的な問題点としては,
例えば東京・赤羽に国立スポーツ科学センター(通称,JISS)に併設されている,ナショナルトレーニングセンター(通称,NTC)という非常に優れたトレーニング施設についてです.
ここはオリンピック選手や日本代表選手が優先的に使用できるようになっていますが,パラリンピックや障害者の日本代表選手は使用にかなりの制限がありました.
これは,NTCの管轄が文部科学省のため,厚生労働省管轄の障害者アスリートの使用が認められないからです.

内部の人に聞いたところ,これは各種競団体によって使用のノウハウが違うようでして.
どことは言えませんが,障害者競技に力を入れている某競技団体は,障害者アスリートにNTCを利用させています.これは競技団体のマネジメント次第というところがあるんです.
しかし,そういう抜け道を知らない,もしくは煩雑な手続きをとりたくない競技団体は,障害者アスリートにNTCを利用させることを躊躇してしまうわけです.

4月から始まったこの新しい組織によって,2014年度については,そうした部分が改善されるところが期待されます.
ただ,これもあくまで「パラリンピック」の支援であって,障害者スポーツ全体のことを管轄できるわけではありません.
この点,スポーツ庁には期待したいところなのです.

というのも,障害者スポーツというのは思想や哲学の面でかなりやっかいな問題を抱えておりまして,
例えばパラリンピックであれば,オリンピックと同様に「メダルを取りに行く」「より高みを目指す」という目標でまとまることができますので,今回のように競技選手の支援を謳う新組織で,とりあえず対応ということになったのでしょう.
ですが,障害者のスポーツを取り巻く問題がやっかいなのは,障害者のスポーツには「メダルを取りに行く」とか「より高みを目指す」とは別のベクトルを向いたものを重要視したい人達が結構いるということです.

メダルだけが全てじゃない.可能性への挑戦なんだ.といったところを大事にしたい人々からすれば,現在の競技志向のパラリンピックの流れに嫌悪感を持つわけです.
でも,そんな事言い出したら健常者スポーツだって同じですよね.

ですから,これについては障害者も健常者も同じようにスポーツすることに変わりはないというスタンスから論じる必要性があるわけです.
でも,現状としてはそうではない,ということなんですね.

私見を言わせてもらえれば,競技スポーツへの適切な支援というのは重要です.
過去記事にも書きましたが,トップアスリートが見せるプレーは人々に憧れと誇りをもたらします.
これには非常に大きな価値があります.
トップアスリートが人々から憧れられ,誇りを与えてくれるような活躍をしてもらうよう支援すること.それは,その競技で「メダルを取って誇らしい」という程度の狭い話ではないのです.

極端な話,別にメダルを1個もとれなくてもいいのです.
採算度外視で,とにかくひたすらに「勝つ」「強くなる」ということを目指した活動をしている人を,国として我々の手で抱えておく.そのことに意義があると考えています.
※なお,これについては国民的漫画・アニメ『ドラゴンボール』の孫悟空というキャラクターの関係としても論じられると思いますので,機会があったらまた.
※ということで後日それを書きました.
スポーツとニーチェとドラゴンボール

そうした「スポーツ」という活動の中から,健康啓発や文学,ビジネスの芽,政策の提言といった,誰にも馴染みあるものが惹起されてくるのだと思います.
(ここらへんの詳しい話は■人間はスポーツする存在であるとかを)

「競技スポーツの支援だけでなく,レクリエーショナルスポーツへの支援も重要」などという人もいますが,私はそれを否定してるわけではありません.
両面の支援が必要でしょうが,私としましては,やや競技スポーツへの(適切な)支援が優先かとは思います.
ただ,これはバランスの問題ですので,競技スポーツへの支援が強すぎる時代が来れば,私は「レクリエーショナルスポーツも大事だ」と言うに違いありません.それだけの話しです.

(3)スポーツの価値をちゃんと議論できる
スポーツ庁(省)を設置したほうが良い理由として,最も大きいのは「スポーツのことをちゃんと考える組織・場の確保」というものです.
日本のスポーツは「◯◯のためにやるもの」という視点からスタートしているところがありまして・・.つまり,ツールとしてのスポーツとして捉えているのです.

健康のためのスポーツだから厚生省,教育のためのスポーツだから文科省,土建のためのスポーツだから国交省,ビジネスのためのスポーツだから経産省.
全部,◯◯のためのスポーツという面でしか捉えられていません.
各省庁が管轄する領域の思惑で,スポーツがバラバラに検討されているのです.

そんなわけですから,我が国にとってスポーツは一体どのような価値を持っているのか?という最も重要な観点を論じることが少ないまま今日に至った,という状態になっているわけです.

なので,きっとこの国の多くの方々は,スポーツのことを体育と同一視したり,健康ビジネスのコンテンツであったり,トップアスリートを通じて国際的アピールをする広告なんだ,という考え方を “本気で信じている” 可能性が極めて高いのです.

そして,これは完全に私の推察でしかないのですが,
二元論的な価値で物事を評価することが多いなかにあって,精神と身体という2つを比べた場合に,「身体よりも精神の方が上」という価値観を持っている人は多いのではないでしょうか.
身体は精神の器に過ぎない,とか,我思う故に我あり,という観点からしても,精神を身体の上にもってくる考え方というのは強いと思います.

それゆえ,身体活動の代表とも言える「スポーツ」のことを,その他の精神的活動と比較して,下流のものだと見做す風潮があるのではないか.そんな気がするのです.

ですが,精神を作り出しているのは身体である脳とも言えますし,身体の調子次第で精神の在り方も変わってくるということは身に覚えがあることだと思います.
とすれば,身体によって精神はいかようにも成り得る,とまで言わないにしても,相互依存の関係にあることは納得してもらえる解釈だと思われます.

これについて,少なくないスポーツ科学者が,「実はスポーツというのは頭を使う活動なんだ」といった発言をして,「精神活動」との張り合いをすることがあります.
お気持ちは分からないでもないのですが,これ,私も学生時代から聞いていて「みっともないなぁ」と感じていたものの一つです.
「スポーツも頭を使う活動なのだ」ということをもって,その発言者は「頭を使う活動は高尚なのだ」という価値観を持っていらっしゃるわけですから.

そんな精神身体論とは話を別にして,スポーツや身体表現という活動それ自体に人間を読み解く鍵があるのではないか.
そうした部分を掘り下げていくことに意義があるのではないか?それがスポーツの価値を考えることだと思います.

今回のスポーツ庁の設置ニュースでは,障害者スポーツや他省庁との連携が取り沙汰される面が大きいのですが.いえ,これは急務であることはたしかなのです.
ですから,理想的にはスポーツ省.欲張らずにまずはスポーツ庁.というところなわけです.

でも,スポーツが持っている人類への普遍的価値を,国として享受するための議論ができるよう,スポーツ庁の今後の発展に期待したいところです.


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