2014年7月29日火曜日

井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」

前回の記事では,「スーパーグローバル大学」という顔から火が出るほど恥ずかしい名称の企画を,実は文部科学省というお堅い役所が本気出して要求してきたんですよ,なんていう話にも触れました.

今回はその「グローバル」についてのお話です.

先日,大学院の後輩にあたる人とお会いした時,「スーパーグローバル大学」をネタに笑っていたら,その人が「最近はスーパーグローバルハイスクールっていうのがあるようですよ」って教えてくれました.

そうなんです.もはや「高等学校」などと言わないんですね.ハイスクールです.
「嘘だ」「そんなのネタに決まっている」という人は,以下の文部科学省の資料をどうぞ.
http://www.mext.go.jp/a_menu/kokusai/sgh/

でも,こうした「イタい」名称をつける癖が文部科学省には元々あるらしく,
そう言えば,「スーパーサイエンスハイスクール」なる企画もやっていました.
「んあアホな」「全力で笑いを取りにいってるだろ」という人は,以下の文部科学省の資料をどうぞ.
http://www.mext.go.jp/a_menu/jinzai/gakkou/1309941.htm

そんなわけで,“スーパー” じゃなくても “グローバル” がもてはやされる昨今,「グローバル化は不可避の潮流だ」と言わんばかりにグローバリズムがブームになっております.

無駄な前置きが長くなりましたが,今回の井戸端スポーツ会議のテーマである「グローバリズム」の話に入ります.

「スポーツにおけるグローバリズム」とか,「グローバリズムがスポーツに及ぼす影響」という論調の解説やニュースは多いものです(多くはないか・・).
概ね以下のような論調だと思います.
「スポーツの領域にもグローバリズムの波が押し寄せている.例えば,国境を越えて選手が活躍し,ネットワークの発達に伴いスポーツコンテンツや市場が地球規模で展開されている」
というやつです.あとは,
「スポーツがグローバル化することで,ルールに明記されることがない不文律のところで摩擦が起きている(我が国では柔道,剣道といった伝統文化にまつわる議論)」
だいたいこういう話です.

このように,スポーツとグローバリズムに関する話は,その多くがスポーツで起きている事象をグローバリズムの観点から説明しているものです.
でも,考えようによっては以下の様な論点もあるのです.

「グローバリズムとは,スポーツである」

以前,
人間はスポーツする存在である
でも取り上げたので,詳細はそちらを読んで頂ければと思いますが.
おさらいを兼ねて解説しておくと,要するにスポーツの本質というのは,
なにかしらのルールを作って,そのルールのなかでスコア(順位・得点)を獲得する
というものではないか,と考えられるわけでして.

さらにもう一つ,「スポーツ」と呼ばれうる活動としての重要な要素に「おもしろい」というものがあります.

この点は「スポーツ」が「遊び」と呼ばれる営みとの共通性として認識されているもので,「おもしろい」ことをやりたがることが,人間が人間であることの本質の一つであると考えられます.
人間の本質を「遊び」に見た第一人者であるヨハン・ホイジンガも,「遊び」が「遊び」であるためには,とにかく「おもしろい」ことが重要な要素であるとしています.

ところで,「なにかしらのルールを作って,そのルールのなかでスコア(順位・得点)を獲得する」ことを「おもしろい」と感じるためには条件があります.
それは,よりスポーツらしく言えば「ルールの統一」.普遍性の高い言い方にすれば「比較基準の統一」でしょうか.
人間というのは,ルールを統一して競争,もしくは比較しないと「おもしろい」状況だとはみなさないのです.
ですから,人間は相手と交渉をし,スコアを競うための統一ルールを作ろうとします.
スコアの獲得基準も厳密にしたがります.より精巧なタイマーや計測器を使いたがりますし,判定方法の客観性も可能な限り高めようとするのです.

そこまでする原動力はと言うと,ひとえに「お互いにルールを統一してスコアを競うことがおもしろい」からです.
なんてったって「スポーツ」は「おもしろい」ものなのです.「おもしろい」ことは皆に広がっていきます.
隣の人とのスポーツが,そのうち隣の集団,隣の地域,隣の国・・・,と広がっていきます.

これを延々と続けていくとどうなるか.
「統一されたルールによる平等な競争を地球規模でやろう」
という終着点に至るのは当然のことでしょう.

そしてこれって,まんま「グローバル・ビジネス」であり,具体的には「TPP」であり,そうした人間の本性に任せて自由に競争すればバランスがとれていくだろう,という「自由主義的な経済思想」なのであり,その延長線上に現れる考え方,すなわち「グローバリズム」であると考えられます.

ところで,「統一されたルールによる平等な競争」というのは,皆さんがよく知る「近代スポーツ」の特徴です.
(※なお,スポーツと近代スポーツの違いは重要なので,過去記事でおさらいしておいてください)
それを「地球規模でやろう」というのが,近代スポーツの祭典である「近代オリンピック」なのですから,経済に先駆けてグローバリズムを具現化しているのが近代スポーツであると言えるでしょう.

これについて,「(近代以前の)スポーツが,近代オリンピックによってグローバル化した」と説明されることが多いのですけど,そもそもグローバリズムの正体がスポーツであるという視点に立てば,近代スポーツがグローバル化しやすいのは当然なのです.
近代スポーツはスポーツの直系のようなものですから,オリンピックという舞台と装置が与えられたことにより,「スポーツらしさ」がいかんなく発揮されたと言えるのです.

このように,グローバリズムの性格をよくよく見てみると,スポーツそのものであることが窺えます.
つまり,グローバリズムというのは「おもしろい」という要素を原動力とした「スコア稼ぎ」として還元することができるのです.

そう言えば,グローバル・ビジネスを推進している現政府の産業競争力会議にメンバーである竹中平蔵氏は,著書や講演なんかで「私の原動力はワクワク感」だと述べているのだそうです.
実際,そんなことを言っている記事もありました.
http://toyokeizai.net/articles/-/27358
竹中氏の言っていることは,まさに経済をスポーツとして捉えているものです.
というか,これまで述べてきたように人間はその存在の本質的な部分でスポーツを求めているのであり,言い換えればグローバリズムを本来的に求めている可能性があり,そうすると竹中氏の言うことは至極当たり前であるわけですよ.

ですから,こうした人間の本質が現れるスポーツだからこそ,現代のスポーツの有り様を眺めてみれば,現代の人間の有り様が窺えるとも言えます.

ちなみに,スポーツ,とりわけ近代スポーツが抱えている問題点を上げてみると,見事にグローバリズムの問題点と一致します.
・過度な国際競争
・ドーピング(勝利至上主義,成果第一主義)
・スポーツに参加できる者とそうでない者との二極化(強者と弱者の格差)
・一部の大企業による一極支配
・伝統文化・慣習との摩擦
などなど.

さらに付け加えるとすれば,こうしたグローバリズムの問題点を改善するためのキーワードもまた「スポーツ」であり,「遊び」であることが考えられます.

遊びを廃することでスポーツは魅力的になっていきますが,遊びを完全に失ったスポーツはスポーツとしての魅力も失われている,という一見矛盾した言葉遊びにも似たことが言えるのです.
言い換えるならば,人間はことさら遊びを廃することで魅力的になろうとするのですが,遊びを完全に失った人間は人間としての魅力も失われているということです.

改めて文章にしてみれば,なんだ当たり前のことじゃないかと思うのですけど,このバランスを保つことが非常に難しく,ともすれば「スポーツ」であることを求めたがる人間や社会の性分を,いかに「遊び」をもってコントロールしていくのかが大事なのでしょう.

これについての詳細は別の機会があれば.


井戸端スポーツ会議
■ 井戸端スポーツ会議 part 1「プロ野球16球団構想から」
■ 井戸端スポーツ会議 part 2「スポーツ庁の必要性」
井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」
井戸端スポーツ会議 part 4「自転車は車道を走らないほうが安全だろう」

過去のスポーツ記事
人間はスポーツする存在である
「負けたのに『楽しかった』」はダメでしょうけど.けどね.
簡易版・負けたのに楽しかったはダメでしょうけど.けどね
浅田選手への森元首相の発言
いい人達なんだそうです
スポーツによって災害に強靭な町をつくれる
スポーツで土建国家を復活できる
スポーツは健康になるためのツールではない
しかしもし,偶然というものが一切否定されたとしたらどうだろう
エクササイズからスポーツへ
コンクリートからスポーツへ

2014年7月27日日曜日

自主的に学ばせるには?…っておかしいでしょ

先日,ニコニコ動画で興味深い論考を耳にしました.
佐藤健志氏による「言葉の使われ方」に関するものです.
YouTubeでは,
https://www.youtube.com/watch?v=_MSpYNDibxQ
で見ることができます.
30分25秒ぐらいのところから,氏の論考を聞くことができます.

どういう話かというと,「現政府の言葉の使われ方が,デタラメになってきている」というもの.
例えば集団的自衛権行使容認については,「これは,憲法解釈の一部変更であるが,解釈改憲ではない」
とか,
成長戦略については,「もはやデフレ状況ではなく,デフレ脱却に向けて着実に前進」
とか,
「私の第三の矢は,日本経済の悪魔を倒す」
とか.

言いたいことは分からないではないが,真っ当な日本語になっていないわけで.
そうした真っ当ではない言葉の使われ方を目の当たりにしても,それがまかり通ってしまうような日本社会というのは,これもまた真っ当なものではないのだろう.という話なのです.

それでですね,
これを聞いた時に「我々もそうなんだよなぁ」と思わされたのが,この国の学術活動を司っている大学も同じであるということなんです.

大学こそ「言葉の使われ方」にひときわ敏感でなければいけない集団なのに,その大学自らが使う言葉に「なんじゃこりゃ?」と思わされるような話がたくさんあるのです.

この前,他大学の先生と雑談していた時に出てきたのが,昨今の大学のFD(ファカルティ・ディベロップメント)があまりに酷い,ということ.
※FDというのは,教員の教育能力向上に向けた取り組みのことです.

最近,(多くの大学で)注目されているのが,
「学生たちが自主的な学びに向かうにはどうすればいいか?」
というテーマでして.

えぇ,もうね・・.既にこの時点で終わってるんですけど.

ピンとこない人のために笑いどころを解説しておくと,
「自主的に学ばせようとしてる時点で,それって自主的じゃないやん」
っていうツッコミなわけです.外野としてはそれが聞いてて面白いんですけどね.

FDに全くと言っていいほど取り組まない大学に移ってきた私なので,ちょっと懐かしい香ばしさに出会えて嬉しい気分になったと同時に,悲しみと哀れみの情が生まれたというか,シュールというか.

関連することとして,学生たちの主体的な学びとやらを促進させるために,大学がよく分かんないイベントとか行事を仕掛けて,積極的に斡旋する(もとい,誘導する)ことも含まれます.
それについては,大学側の裏事情を含め,
危ない大学に奉職してしまったとき「イベント企画対策」
で書いているので参考までに.

話を元に戻すと,
たいていのFDでは,大きな教室や会議室に教員が一堂に会し,自主的に学ばせるための方略をあーでもないこーでもないと,グループワークとかディベートする時間が設けられているのだそうです.

何がつらいって,それに大学教員が大挙して “本気で” 取り組んでいることなのです.
今の私としてはそんなシュールな場面を想像して楽しめるんですが,当事者としてはたまったもんじゃないのでしょう.

あと何が悲しいって,「これって変だよね?」っていうことに,少なくない教員が気づいているはずなんですけど,そうした声が拾われることもないですし,言えない状況になってしまっていることです.
もっと言うと,気づいている教員のクセに,気づいている教員こそが,そんなFDを推進・企画する側にいるという哀れさもあったりで.

それでも・・,誰か言わなかったんですかね.
「このテーマなんですけどぉ.これって日本語になってませんよねぇ」って.

分からんでもないのですよ.
きっと,「学生たちが自主的に学んでくれないと,そもそも大学教育というのは成し得ないし,価値がない」という問題意識があっての話なのでしょう.
であれば,堂々とそういう議論をすればいいじゃないですか.

けど,できないわけです.
そんなこと言うと,「その前に教える技術を高める努力をしてくれ」「教育力があれば,自主的に学ぶようになる」って言われるからでしょう.

でも,大学で学びというのは,100%とは言いませんが99%は学生の学ぶ姿勢によって決定しているものです.

たまに,「大学で学ぶことは何もなかった」「大学で学んだことには意味がない」と言う人がいます.
これは単にその人に「大学で学ぶための力がなかった」だけのことです.学べずに卒業しただけのことです.

少なくとも日本の大学では,大学で学ばなければならないことを学ばなくても卒業ができることになっています.
これは,一つには「大学で学ばなければならないこと」についての厳密な共通見解がないことと,二つ目として「そんな基準で卒業させてたら,ほとんどの学生が卒業できなくなる」ということに起因します.
※じゃあ,大学で学ばなければならないことって何ですか?という点については,
大学について
をご参照ください.

私が今とは別の大学にいた頃には,
「各学科ごとに,学生が4年間の学びで何を得られるのか検討しましょう」
っていうのをFDでやっていました.
「各大学における学びの特色を明確にせよ」っていうどこからかの指令を受けての事だったと思います.
その時は当事者だった私ですから,文字通り頭を抱えて,
「ダメだこいつら.早く何とかしないと」
と憂鬱な気分に苛まれていたことを思い出します.懐かしいですね.

ちなみに,ここでも笑いどころを解説しておくと,
「いまさら検討するもなにも,学ばせたいことがあるから学科を作ったんでしょ」
っていうことです.

大学とか学科の存在意義を,KJ法とかやって,大きな模造紙に手書きで表みたいにしてまとめて,皆の前で発表するみたいな・・,今思うと顔から火が出るようなグループワーク(笑)をやってました.

その時,私はひたすら「パンフレットの学科紹介のところに書いてあることを羅列しましょう(そして余った時間はのんびりしましょう)」って提案してたんですけど,どうしてもワーキングをしたかったようで.
各教員が学生に学ばせたい事やその想いを語る会になっていました.
そんなの居酒屋でやってくれよって,まぁ,そんなところです.

今なら笑い話なんですけど,現在進行形で摩訶不思議なテーマを与えられてFDをやっている先生方からすれば笑えない話ですからね.

そう言えば,教育を司っているとされる文部科学省も問題です.
その象徴が,
「スーパーグローバル大学」
やめましょうよ.これ.
同僚である外国人教員も,「ナニコレ?」って言ってましたよ.

もしかすると初めて目にした人もいましょうが,別にこれはアニメやなんかの架空の大学名ではありません.
れっきとした文部科学省の企画なんです.「ふざけている」「嘘だ」と思う人は以下の資料を.
スーパーグローバル大学等事業

レベルアップしてハイパーグローバル大学になるんじゃないか?とか,スーパーとは異なる方向性を持つグローバル大学があるんでしょうか?なんて話もありますが,
私としては,そもそも普通の「グローバル大学」というものが見てみたい,って思います.そうじゃないと「スーパー」にはなれないですよね.

「スーパーグローバル大学」については,もちろん「(゚Д゚)ハァ? ばっかじゃねーの」と思っている教員はたくさんいます.
でも,そんなことを露骨に表明すると内外から袋叩きに合うし,予算がとれなくなるので仕方なくやっているという事なんです.

まぁそんなわけで,言葉の使われ方を司っているはずの大学こそが,最も言葉の使い方がぶっ壊れているのではないか,ということなんです.

2014年7月15日火曜日

井戸端スポーツ会議 part 4「自転車は車道を走らない方が安全だろう」

最近のニュースで,
「東京五輪までに倍増」 舛添知事が自転車専用レーン視察
というのがありました.
自転車通勤をしている私としても,こうしたことは自転車の利便性が高まる動きですので喜ばしいことだと思っています.

自転車専用レーンを増加させようという動きは,なにもオリンピックが決定したからではないことは,知る人ぞ知るところです.
昔から自転車専用レーンを望む動きはありまして,特にここ最近,「自転車と歩行者の事故」がクローズアップされたこともあって,それに拍車がかかっているように思えます.

自転車と歩行者の事故が増加している!」というニュースや記事をみることがあります.
例えば,この大阪市のホームページでも「急増している」ということになっているのですが.
さて,大阪市のHPを見る前に,ここで問題.
このように「急増している」と報じられる自転車と歩行者の事故件数,全国で一体どれくらいだと思いますか?

って,うちの学生にも聞いてみたんです.そういうニュースを良く聞くでしょってことで.
「1万件」とか「10万件」だとか答えていましたが.
正解は2605件(2013年)です.
んでさらに,死亡事故にまで至る事故はどれくらいか?って聞くと,
「200件」とか「1000件」だとか答えていましたが.
正解は3件(2013年)です.

これの重大性をどのように思うかですが,それはとりあえず置いといて.
次に,自転車事故全体を眺めてみますと,
自動車・バイクとの事故:約11万件(うち死亡:500件)
自転車同士の事故:約3000件(うち死亡:3件)
自爆(単独事故):約2500件(うち死亡:87件)
その他:約3800件(うち死亡:4件)
ということになっております.
※詳細は⇒警察庁の交通事故統計を御覧ください

ちなみに,この割合は年を追ってもそんなに大きな変化はなく,幸いなことに全体的には自転車事故は減少傾向にあります.
※自転車と歩行者の事故が増加したのは10年前までのことで,最近は減少傾向にあるわけです.

今回の記事で井戸端会議したいのは,
「自転車は車道を通る」を徹底させたり,
自動車道の直ぐ脇に自転車専用レーンを作っても,
死亡事故(重体に至る事故)を減らすことにはならない可能性がある
という点です.

「自転車専用レーンを作らない方がいい」などと言っているわけではありません.
自転車の利便性のためにも自転車専用レーンを増加させてほしいのは,私の願望でもあるわけで.
ただ,自転車専用レーンを「事故を減らすために作る」ということには,若干の考慮が必要ではないかと思うんです.

ここ数年,海外出張(という名の観光)をすることが多い私ですが(オーストラリア,イギリス,オランダ,中国といったところ).
体育系に身をおき,ヘビーサイクリストである私としては,各国の自転車事情を眺めてみることは多いものです.

そんな中でも自転車専用レーンが敷かれており,歩道との区分けが明確な国のひとつがオランダです.
自転車専用レーンを歩いていようものなら,20mくらい手前からベルを激しく鳴らされたり怒鳴りつけられ,歩行者の脇を結構なスピードで走り抜けていきます.
「おぉコワぁ」と思いながらビクビクしながら歩いていたことを思い出します.
こんな感じだと,自転車専用レーンがあっても事故は多いんじゃないかとネットを調べてみましたら,やっぱりそうでした.
それが分かるサイト⇒図録・自転車乗車中の死者(各国比較)

上記のサイトでは,「日本は自転車保有台数の割には事故死が多い」という考察ををしているものの,なんだかんだでオランダは日本よりも死亡事故は多いわけです.
しかも,日本よりも遥かに自転車用の管理やインフラ整備(専用道,専用信号,取り締まり等)がされているにもかかわらず,です.

さらに参考になるのが以下の内閣府のPDFサイトです.
交通安全対策:http://www8.cao.go.jp/koutu/chou-ken/h22/pdf/ref/1-1.pdf

上記の報告では,オランダにおける,
1)事故死のほとんどが「自動車・バイクとの接触」
2)事故死のほとんどが「高齢者」
3)事故死は1980年と2008年を比較すると6割減(!)
4)だが,全体的な自転車事故件数は減少していない(むしろ増加)
5)事故のパターンは日本と類似
ということです.

一方で,前述した自転車事故の国際比較をしたページ(図録・自転車乗車中の死者(各国比較))で,自転車事故が件数でも割合でも非常に低いのがイギリスです.
「イギリスではどんな感じだったかなぁ」と思い出してみましても,特に危険な目に合った覚えはないんですよね.
完全に私が見た限りの話でしかないんですが,イギリスは自転車専用レーンもあるにはあるものの,
歩道が広い
路肩に余裕がある
という特徴があるのかもしれません(客観的データは持ってない).
つまり,自動車と自転車の接触機会が低い可能性があるわけです.

というのも,イギリスって広い路肩や自転車専用レーンがあっても,そこに自動車が縦列駐車されているという現実がありまして.
なもんだから,結局,イギリスでも「歩道を自転車が走る」っていうのが常態化しているわけで.

それに,どれだけ自転車専用レーンを用意したところで,警察庁の交通事故統計にもあるように,事故は「出合い頭」と「右左折時」に自動車・バイクと衝突することが圧倒的に多いのです.
専用レーンを用意したところで,自転車がスピードを出すようになってしまって,結局,出合い頭や右左折時の事故が増えてしまう.なんてことになりはしないでしょうか.
ここんとこ,調査が必要かと思います.

今までの話をまとめますと,
1)自動車・バイクとの接触で死亡することが圧倒的に多い(全体の85%)
2)歩行者と自転車の事故は,云うても少ない(全自転車事故の2%)
3)死亡事故の多くは高齢者が起こしている(全体の65%)
ということでして,その改善策として当面は,
「歩道の拡充」
自転車通行量が多い箇所については専用レーンが必要なんでしょうけど,
予算が許すなら「自転車専用レーンは車道脇よりも,歩道寄りに併設」
冒頭のニュース記事の写真にあるような,車道と切り離されたものが理想
ということが効果的である可能性があります.

不用意に車道を通ることを徹底させたり,安易に簡易な専用レーンを用意するということは,むしろ死亡事故を増やすことになりはしないかと不安です.
そこには運転が不安な高齢者も入ってくるわけですから.

日本の自動車ドライバーは,なんだかんだで自転車に対して危険な運転をします.
自転車のすぐ脇をすり抜けたり,「危ない乗り方をする自転車側が悪い」という意識は強いものです.
ドライバーの仰りたい事も分かりますし,そりゃそうなんでしょうけど,ただ,事故った時に自動車側が重症を負ったりや死亡するようなことは100%無いわけですから,その意識の重大性を比較してみると,これは結構なことではないかと思ってしまうんです.
でも,こうしたドライバーの意識がおいそれと改善するなんてことは期待できません.
別に皮肉りたいわけでも絶望しているわけでもありません.私もドライバーのうちの一人ですから,気持ちは分かります.

なので,自動車から自転車を遠ざける方向でのインフラ整備をすることの方が,この日本では現実的なのではないかと思うんです.

井戸端スポーツ会議
■ 井戸端スポーツ会議 part 1「プロ野球16球団構想から」
■ 井戸端スポーツ会議 part 2「スポーツ庁の必要性」
井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」

過去のスポーツ記事
人間はスポーツする存在である
「負けたのに『楽しかった』」はダメでしょうけど.けどね.
簡易版・負けたのに楽しかったはダメでしょうけど.けどね
浅田選手への森元首相の発言
いい人達なんだそうです
スポーツによって災害に強靭な町をつくれる
スポーツで土建国家を復活できる
スポーツは健康になるためのツールではない
しかしもし,偶然というものが一切否定されたとしたらどうだろう
エクササイズからスポーツへ
コンクリートからスポーツへ