2014年11月30日日曜日

井戸端スポーツ会議 part 9「スポーツ分析のような選挙分析」

今回の記事は,
井戸端スポーツ会議 part 8「スポーツ観戦のような政治観戦」
とか,
人間はスポーツする存在である
を合わせて読んでもらえると良いかと思います.

今回もスポーツの視点で政治現象を解釈してみたいと思います.

先般,衆議院が解散し,街で選挙カーが走り回る日々が始まりました.
こうなるとニュースやブログ等でも取り上げられるようになるのが,
「◯◯党は議席をどれだけとれるのか?」
という話です.

“より厳密なルール下でスコア獲得を競う”
それだけでも近代スポーツらしさ満載の話ではありますが,ここで取り上げたいのは,そんなスコア獲得競争 “そのもの” を外から興味深く眺める(言うなれば,楽しむ)ことが,あたかも価値の高い興味のように扱われていることです.

端的に言えば,「票を読む」ということですけど.
これって,ふと我に返ってみますと,こう言ってはなんですけど非常に卑しく醜い思考です.
「票を読む」,・・これを選挙に出る人達が言うならまだわかります.
票を読めなければ選挙に出ることによるコストパフォーマンス(これも卑しく醜いけど)が分からないということになりますから,現実的なところでは仕方がないということもあるのでしょう.

ですが,投票する側・報道する側が「票を読めた」「票を読んだ」として何があるのでしょうか?
票を読むことによって投票対象が変わったり,報道姿勢が変わったりするのでしょうか?

こういうのは,まさしく選挙という政治をスポーツ観戦と同じものとして捉えているとしか思えません.
近代政治は近代スポーツの影響を受けているというのが私の持論ですから,これこそ政治のスポーツ化が如実に現れている典型だと思われます.

スポーツという活動の本質的姿の一つに,真善美を徹底的に追求する姿勢があります
※これについての詳細は■井戸端スポーツ会議 part6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」を御覧ください.
人々がスポーツや優れたスポーツ選手に向けている眼差しとは,こうした「何か(真善美)」を損得勘定なしに徹底的に追求するという姿勢ではないかと思うのです.

近代スポーツでもこの姿勢が残ってはいるのですが,これに加えてスポーツはより大衆化,エンターテイメント化してきていると考えられます.
近現代においてスポーツがダメになってきているとは言いません.ですが,こうした大衆化とエンターテイメント化の弊害が至る所で出てきており,政治もまた同じ道をなぞっているとも言えるのではないかと思うのです.

「票を読む」というのは,まさに政治をスポーツ的なエンターテイメントとして楽しんでいることの象徴です.
もちろん,票を読んでいる本人は至ってマジメな活動だと認識自覚しているのでしょうが,それはスポーツ的な目線で見れば,プロ野球のリーグ中,
「今年のペナントレースの順位はどうなりますかねぇ?」
なんていう質問に
「ハイ!私の予想はコレ(・ω<)」
などとワイドショーで語っている引退選手や野球好きタレントと変わらないものです.

えーっと,ちょっと何が言いたいのか難しかったかと思いますが,刺激の強い言い方をすればつまり「お前がそこでペナントレース結果を予想したところで,これから繰り広げられる各チームの戦果には影響しないだろ」というところです.
ついでに言えば,「それを一般の皆様が受け取ったとして,それで何がどうなるというのでしょうか?」という感じ.
もっと言えば,「へぇー,それで1つの情報コンテンツとして成り立つんだぁ〜」ってことです.

どのような野球をすれば得点力が上がるのか?どういうピッチングをすれば防御力が高まるのか?という話ならまだしも,順位予想や優勝予想をするだけなら「だから何?」感が止まらない,ってことです.

スポーツの楽しみ方は人それぞれですし,その認識は違っていて当然なのでしょうが,スポーツに人々が魅了される理由というのは,各選手,各チームが繰り広げる強く美しいプレーによる勝負だという点は一致しているところでしょう.

一方で,スポーツを「観戦する」という楽しみ方がここまで発展してきたのは,近代スポーツの特徴の一つです.
勝った負けたも大事ではありますが,そこで繰り広げられている流れの中でのアナログなプレーに,強さや美しさを観るのがスポーツの醍醐味と魅力です.
球速を1km/hでも上げる,ジャンプ力を1cmでも高める,重量を1kgでも多く持ち上げる,狙った所に1mmでも近づける.そうしたプレーをどのように鍛錬するか?実現するか?というところに,スポーツ本来の魅力があるはずなのです.

ところが近現代スポーツでは,結果を生み出すはずの「プレー」をすっ飛ばした予想や統計学的な予測によって「戦績(競争結果)」を分析しようとしたがります
強く美しいプレーとは何か?それこそがペナントレース結果予想よりも重要なはずなのですが,近現代スポーツにおいてはそうではなくなってきているのが現実です.

選挙や政治にしてもそうで,問題になるのは各政党や政治家が「この国をどうしようとしているのか?」という点であるはずなのです.
ところが,どこが・誰がどれだけ票を獲得できるのか?という話で盛り上がり,「票を読む」ことや「政局」が政策議論と同等,場合によってはそれ以上に重要なテーマだと認識されるこの社会は,政治のスポーツ化が色濃く反映されていると見做せるのではないでしょうか.

つまり,スポーツにおいて「プレー」ではなく「戦績」を重要視するようになってきた現代人は,選挙においても「プレー」ではなく「戦績」に興味を移し始めているのではないかと解釈できるわけです.


井戸端スポーツ会議

2014年11月19日水曜日

井戸端スポーツ会議 part 8「スポーツ観戦のような政治観戦」

これまでにも,
「スポーツの在り方を分析してみたら,その時の社会が分析できる」
という視点を取り上げてきましたが,
人間はスポーツする存在である
井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」
今回はこの点について,もう少し具体的に井戸端会議をしてみたいと思います.

政治を見る(観戦する)目は,スポーツのそれと親和性が高いのではないか?という点です.

「そもそも,“政治を観戦する” という評し方に違和感がある」
というところかもしれません.
なぜこんな表現をするかというと,今回の問題提起が,
近現代のスポーツが「観戦」されるものとして高度に発達してきたことと,現代の政治の捉えられ方が無縁ではないのではないか?
というお話しだからです.

かつてのスポーツ(前近代スポーツ)の多くは,自分達自身がその競技や活動に取り組むものであり,参加しないにしてもその結果は自身の有り様とシンクロするものでした.
ここら辺の細かいことは■人間はスポーツする存在であるを読んでもらうとして,現代においてスポーツと呼ばれるものの多くが,かつては「祭り」とか「儀式」の要素を多分に含むものだったことと無関係ではないと考えられます.
「祭り」や「儀式」としてのスポーツは,貴族であれ庶民であれ,自分自身にとって重要な価値を持っていたわけです.

そのようなスポーツは,現代においては「観戦」という形で消費される存在になっているのです.当たり前のことですけど,こうしたスポーツを観戦と言う形で消費するのは限られた人々ではなく,多くの一般大衆です.
「スポーツの在り方を分析してみたら,その時の社会が分析できる」
という立場からしますと,スポーツを観戦という形で消費する人々の有り様が,政治を見つめる一般大衆の有り様と非常にシンクロしたものに見えるのです.

例えば,どこかのスポーツチーム(野球でもサッカーでもいい)が,リーグなどで無様な結果を残したとします.
そのチームのファンはどのような態度をとるでしょうか.
きっと,
「監督を変えろ!選手の年俸も下げてしまえ!そもそもオーナーの方針が気に入らない!」
などと言い出します.

感情剥き出しで,おおよそ上品とは言えない物言いですが,彼らファンの気持ちも分からないではないですし.いや,むしろファンの気持ちは大事にされて然りではないか,などと(マスコミをはじめとして)周囲も囃し立てるのかもしれませんね.

ですが,考えてみればこれは道理が通らないことです.

もしファンが本当にその「チームのことを考えている」のであれば,安易に「監督を変えろ」とか「選手の年俸を下げろ」とか「オーナーの方針が気に入らない」などとは言えないはずだからです.
まぁ「監督を変えろ」はまだしも,選手の年俸を下げたら優秀な選手は残らない(獲得もできない)ですし,オーナーが出資してくれているからこそのチームなんですから,頭ごなしに批判するのもおかしな話です.
彼らファンの主張は,応援しているはずのチームを明らかに弱くする方向に導いていることになります.

もしオーナーがファンの意見を聞き入れてしまったらどうでしょう.
そんなチームがチャンピオンフラッグを手にすることはできませんよね.

これと同じことが現代の政治にも見えます.
例えば政治家や公務員,官僚を叩く姿がその典型ではないでしょうか.
無様な政治を見せてしまったり,不況が続いたりすると,多くの一般大衆はこう言い出します.
「議員数を減らせ!公務員の給料を下げてしまえ!そもそもこの国の方針が気に入らない!」

たしかに感情的には分からないではないですし,程度の問題というところもあるでしょう.
ですが,こうした政治の有り様は,私には現代のスポーツを消費する一般大衆とダブって仕方ないのです.
※見方によっては,「社会の有り様がスポーツにも現れている」とも捉えられるでしょうが,私は “逆”,少なくとも相互関係にあると考えております.詳しくは■人間はスポーツする存在であるをどうぞ.
これはつまり,その国の政治の有り様は,国民がスポーツをどのように見ているのか?(マスコミがどう報じるか?)ということと相関するのではないかということなのです.

政治家や公務員を削減したり給料をカットすると,自分達の意見が吸い上げられなくなったり,優秀な人材が採用されなくなったりするわけですから,国家の運営をしていく上ではマイナスになることは自明のことです.
(繰り返しますが,“程度の問題” はあれど・・)政治家や官僚,公務員が何かしらの評価によって次々と異動・交代するような状態になったら,とてもじゃないですけど彼らからしたら「自身の生活」を優先するようになってしまうでしょうから,皮肉にも「国民の生活」は優先されなくなります.
自分自身の身に置き換えて考えれば分かることです.

ところが,国民の感情がそれよりも優先されてしまう,つまり「罰を与えたい」という気分が持ち上げられてしまう上に,それがあたかも正論かのように捉えられてしまう,そう報じられてしまう,というのが現代スポーツとそっくりなわけです.

本当のファンであれば,チームのためになることを考えます.なぜなら,贔屓のチームの成績は,そのファンにとっては単なる「消費物」や「レジャー」ではないからです.
優秀な選手が獲得できないのであれば,有志を募って獲得金の募金活動なんか始めちゃうかもしれませんよね.でもそれが熱心なファンというものです.

ですが,少なくとも現代スポーツにおいてそれは見られません.もちろん現代人の一人である私も,スポーツをそのように捉える態度や思想が根付いておりませんし.
現代の政治に見られる上記のような現象は,人々がスポーツを「自身とシンクロするもの」ではなく「観戦して消費する」ようになったことと無縁ではないのかもしれない,と考えてみることも面白いものです.


井戸端スポーツ会議
■ 井戸端スポーツ会議 part 1「プロ野球16球団構想から」
■ 井戸端スポーツ会議 part 2「スポーツ庁の必要性」
■ 井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」
■ 井戸端スポーツ会議 part 4「自転車は車道を走らないほうが安全だろう」
井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」
井戸端スポーツ会議 part 6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」
井戸端スポーツ会議 part 7「ジュニア世代の育成」

過去のスポーツ記事
人間はスポーツする存在である
「負けたのに『楽しかった』」はダメでしょうけど.けどね.
簡易版・負けたのに楽しかったはダメでしょうけど.けどね
浅田選手への森元首相の発言
いい人達なんだそうです
スポーツによって災害に強靭な町をつくれる
スポーツで土建国家を復活できる
スポーツは健康になるためのツールではない
しかしもし,偶然というものが一切否定されたとしたらどうだろう
エクササイズからスポーツへ
コンクリートからスポーツへ

2014年11月8日土曜日

続・女性の成功

ブログ更新頻度が下がっております.時間がとれないんです.
なので,以前書いたことがある記事に付け足すものはないかと思案してみました.

ということで,今回は「女性の社会進出」に関する記事を掘り起こしてみることにします.

4年前(2010年)に,
女性の成功
という記事で書いていた「女性の社会進出」というテーマについて,先般,評論家の佐藤健志氏が『女性閣僚と風俗嬢の間』と題して考察していました.これが非常に面白いんです.
有料コンテンツですが,よかったらこちら↓をどうぞ.
■ちょくマガ(角川):http://chokumaga.com/magazine/free/152/8/
佐藤氏の評論に注目している一人ですので,私は有料であっても読んでみました(安いし).

私が書いた上記の2010年の記事というのは,晩酌しながら酔っ払って書いていた覚えがあり,次の日になったら「ありゃちょっと言い過ぎだったかな」と反省した記憶もあります.
2010年と言えば大学で教鞭をとり始めた時期でもあり,「じゃあお前,社会進出を目指して学費を払っている女子大生にそんなこと言えるのか」って感じでもありますしね.

ここ最近はクオータ制やらなんやらで女性の社会進出がにわかに話題となってきたところでもあり,私としても「なんだかなぁ」と感じていたところへ佐藤氏の評論はストンとハマった思いがします.

女性の社会進出を推し進めようとするところに垣間見える不自然さと無理矢理感を論じたのが以前の私のブログ記事です.
どういう事かまとめて言いますと,
昨今喧しい「女性の成功・社会進出」とはつまり,女性もこれからは男社会,男の論理,すなわち経済的成功,社会的権力や威信を獲得することによって評価されることを求めることに他ならないということを意味しており・・,いやでもチョット待ってくれ,あれだけ「男社会」や「男の論理」を批判していたのに,その男性中心主義の上に乗っかった成功を喜ぶんですか?それって女性の価値を高めていることになっているのですか?
 ってことなのです.

佐藤氏はこれについて,そうした不自然で無理矢理な「女性が輝く未来」を求めた先には,とうてい「女性が輝いている」とは言いがたい状況を作り出す未来があるのではないかと論じます(もう既にそうなっている).
男性中心主義での勝者・権威者の要件とも言える,
(1)経済活動への参加度
(2)金稼ぎの効率性
を求めて(求めさせて)いくと,女性はとある効率性の高い経済活動へと参加する心理的ボーダーラインが下がっていくのではないかというのです.
それが水商売であり,特に風俗業だということを中村淳彦 著『日本の風俗嬢』を紹介しながら話を展開しています.

自分らしい生き方,夢,自己実現などという “まとも” な言葉で飾られてはいるものの,その「成功」の本質とは「効率よくお金を稼ぐ」ことと「周りから羨ましがられるポストに就く」ことに収斂される.それが「輝く女性」「女性の成功」なんだということになります.
ところが世の中そんなに甘くはないわけです.「男性のように輝きたい女性」が羨む男性だって,そんなに簡単にこの2つが手に入るわけではありません.
であるならば,その2つを求めるために「女性」を売ることだって,「輝いている女性」とは言えないだろうか.水商売や風俗嬢こそ,効率よくお金を稼ぐという成功モデルの要素を持った手段じゃないか.
そんなふうに,あたかも自己弁護のように割りきって,もう一つの輝くための要素である「羨ましがられるポストに就く」ための助走,準備,修行だということにして風俗嬢へと身を投じる女性が増えているというわけです.その最たる例が女子大生です.

佐藤氏は,最近の女子大生には,大学生活を継続するために風俗嬢になる人がいることも紹介しています.別に贅沢品や遊ぶ金欲しさのためではなく,まじめに勉強するために風俗嬢をやる人が増えているのです(特に下宿をしている地方出身者に多いとのこと).

はい.これはどうやら本当のようです.本学の学生たちからも聞きました.
ついでに,「先生,絶対に風俗とかに行っちゃダメですよ.学生がいるから」というアドバイスも頂きました.

遊ぶ金欲しさにやっている人もいなくはないでしょうが,たしかに今どきの女子大生には少ないでしょうね.贅沢に遊んでられるほど余裕が無いのが今どきの大学生なんです.
逆に,もう少し余裕を持てないものかと可哀想になったりもします(まぁ,私達の時くらいから言われていることですけど).

ということで,「よーっし,これからは女性を真に輝かせる教員になってやるぞ」と意気込んでみましたところ,来年の私のゼミを履修希望する学生は全員男子になるようです.