2014年12月28日日曜日

危ない大学におけるバスの想ひ出

過去記事でも何度か登場したことのある,(危ない)大学経営の切り札である「バス」.
危ない大学においては,この「バス」は重要なキーワードと考えられています.

今回はこの「バス」について,“その経験” がある大学教員のインタビューをお届けしたいと思います.

「大学(教員)とバス」について,過去記事をご覧になりたい方は以下のリンク先から振り返ることができます.
「教職員用」危ない大学とはこういうところだ
細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権
続・細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権

では,危ない大学の教員にとって「バス」がどのようなものなのか,その生々しい実態をどうぞ.

私:今回のインタビュアー
X:大学教員・X氏

私:今日はインタビューにお応え頂きありがとうございます.X先生は現在の勤務校では「バス」の業務をされていないということですが,前任校は「バス」の業務があったそうですね.早速ですが,そのときのお話しを聞かせてください.

X:バスに必要な免許にはいわゆる大型免許と中型免許というのがあります.大型免許はいわゆる路線バスサイズのものをさします.このサイズのバスを運転するには大型免許が必要なんです.中型免許は主にマイクロバス等(29人以下だったかな?)が運転可能な免許です.これは一昔前の普通免許で運転できるんですけどね.
大学によっては教員採用にあたって,もしくは任期更新のためにこの「大型免許の取得」が条件(脅迫めいたもの)になるんです.博士の学位よりも優先されます.

私:危ない大学における教員は,博士の学位よりも大型免許の方が重要ということですか?

X:そうです.今となっては興味深い “想ひ出” ですが,よくよく考えてみると背筋が凍る話ですね.ですが,経営難の大学としては大学教員らしい人材が採れれば,あとはバスの運転をさせてバス運用費用を浮かせる戦術に出ることが多いと思います.
ちなみに,免許を取るのは自費ですよ.

私:やっぱりバスの運用はお金がかかりますからね.教員にやらせれば一石二鳥ということですね.日本のテレビ局が不況になってから,女子アナをタレント扱いし始めたことと一緒ですかね.

X:まさにそういうことだと思いますよ.特に長距離運転なんかはツラい想ひ出がたくさんあります.

私:そうは言っても,バスの運用・運転を担当していて良かったことはありましたか?

X:普通車でも安全に気を使うようになる.というところでしょうか.
とにかくデカイので,こすったりしないように気をつけないと行けません.でも気をつける作業をコツコツとやっていくと,ある種の合理的な考え方というか感覚を身につけることができます.
普通車の運転では狭い道や離合では何となくの感覚で運転を行うことが多いと思いますが,バスの場合は,ここを無事に通過するにはこのくらいゆっくりとしたスピートで,まずこのハンドルさばきを行わなければならないという具合になります.
これは逆に言うと,ここの部分が通れば絶対にその後もうまく運転できるといいう感覚が養えるのです.空間的な取捨選択と,ゆっくりとした時間の確保ができるということですね.
ボディーがでかい分,視野が広くとれることもこの術を身につけることができる要因の1つでしょう.具体的には左折の場合だと左後輪が抜ければ大丈夫,とか,右折の場合だと左前と右後輪に気をつけるとか.ケースによって異なりますがそんな感じです.
ちなみに,この内輪差ですけど,バスは内輪差がでかいので,ロータリーのようなところを転回する時が典型なのですが,運転席からだと横にスライドしている感覚になります.これが何とも不思議な感覚でしたね.かなり個人的ですけど.

私:なるほど,かなり実際に役立つものですね.それ以外には?

X:普通車にはない「一手間」に優越感を感じるようになります.
大型バスは普通車と違って,まず自動扉を開けなければなりません.その開け方なのですが,たいていはバンパーの奥にレバーがついておりまして,そこを操作すると開くようになっています.
空気圧で作動しますので,何かの間違いで空気圧が低下しているとしっかりした開閉ができないことがあるので注意です.エンジンスタートも単純にキーを差し込んでひねるというわけではなく,その前に諸々のスイッチを入れないとスタートしないのです.
このような普通車よりも一手間かかる操作性は面倒な点もありますが,なぜか「オレは知っているぜ」という感覚にもなるのです.不思議ですね.
ちなみにマイクロバスで乗客用扉をあける場合,運転席の右上にあるバーを押さないと開閉できません.さらに言うと,マイクロバスの乗客扉の下のロックを外せば,運転席の右上のバーが無効となり,普通車の開け閉めと同じような状態になります.
これが原因で数年前に中国道だったか山陽道だったかで小学生が道路上に放り出されたという事故が起こりましたね.気をつけたいものです.

私:専門外のところも専門的に知っている,というところに優越感があるのですね.世間からすれば,まさか大学教員がバスのことを詳しく知ってはいないだろう,と思われているでしょうからね.だからこそ,そこをアピールしたくなってしまうのでしょう.例えば,最近の大学教員の中には経営スキルとか事務処理能力をシタリ顔でアピールする人がいますが,あのイタさ加減と似ているんですかね.

X:今となっては私もそう思います.大学の価値や意義とは全くベクトルが違いますよね.
それに,こういう無意味な専門性に優越感を持つようになると,それが大学ホームページとかパンフレットにも現れるようになります.
ズバリ,新車納入とか外装・カラー変更なんかを「最近のニュース」みたいなコーナーでアピールしちゃうようになるんですよ.
でも,あの気持ちは分からなくはないですね.本人たちは,至って身近で重要,且つ,自慢話であることに違いはないんです.

私:バスの運転業務をしていて悪かった点などはありますか?

X:悪い点ではないですが,マイクロと違って大型の場合は非常に疲れます.大型バスは普通車やマイクロとは運転後の疲労感がまるで違うんです.特に精神的な疲労ですかね.それくらいエンジンが動いている間は注意を張り巡らせているということなのでしょう.

私:他には?

X:世間の認識とは逆に,学生からは「運転できて当然」と思われる,というところです.
たいてい,強化クラブの教員(のみならず福祉系の先生も若干持っていましたが)は,皆バスを運転できるし,学生もそういう認識ですので学生というのは全く違和感を持っていません.当然そういうものだと思っています.
これは高校時代の監督さんも同様に運転していたというケースが多いからだと思われますが,こちらとしては何ともやるせない.
それに,こちらとしても「実はこれは異常なのだ」とも叫べないのです.
あと,それに付随して学生たちも前述の「一手間」を割と知っていたりします.少なくとも強化クラブに所属する下級生は,だいたい扉の開け方を知っています.

私:「先生」なんだから,なんでも知っているんでしょ.みたいな雰囲気が学生間に漂うんですよね.そしてまた大学(組織)としても,こういう絶妙な雰囲気を利用して,「教員は学生のために,なんでもできなきゃダメだ」みたいな空気が流れ出しますよね.そしてまたさらなる非常識業務が増えていく,その繰り返し.

X:そうなってきたら,その大学は先が見えてきたと言って良いでしょう.
大学教員のことを「学者」や「研究者」ではなく,「センセー」だと見做しているということです.もはや「先生」ですらない.そういうことです.

私:バスの運転をしていて,危険な事などは無かったですか?

X:強風の日は橋の上で風に煽られます.あれは物凄くビビリます.特に瀬戸大橋と鳴門大橋がヤバい.

私:やっぱり普通車よりも車体が大きいからですか?

X:はい.ですけど,台風の中を運転して学生を送り届けたこともあるんですが,その時は逆になんとも言えない高揚感がありました.達成感とも違うんですよ.
なんというか・・,そうですねぇ.さっき言ったように,バスって車体が大きいでしょ.その車体の大きさが,ある種の力強さの象徴,父性的な自信というか,そんな感情を生み出すんです.「強風を物ともしない,学生たちを護る鋼の城」,その主が自分だ,という感じでしょうか.

私:では最後に,バスの運転で気をつけていたことなどはありますか?もしこれからバスの運転業務をすることになる大学教員にアドバイスなどがありましたらお願いします.

X:バスの性能にもよりますが,上り坂に注意したほうがいいでしょう.
パワーのないバスは高速道路の上り坂は途中で失速してしまいます.そうすると50キロくらいでのろのろと登らないと行けない羽目になるので,かなり前方から加速して一気に駆け上がります.これができるとかなり楽な運転ができますね.
あと,「初台交差点」です.新宿付近に初台という交差点があります.免許取りたての時に,左車線から合流して300メートル位の間に右折車線へ入らなければならないというタスクを成功させました.5車線またぎくらいやってやりましたが泣きそうでした.

私:業務上のアドバイスなどはありますか?

X:基本的なことですけど,バスの運用業務において事故やトラブルを起こした際の責任がどこにいくか,という点は非常に重要です.
教員にバスの運転をさせるような危ない大学ですから,何かあったら,おそらくは教員に責任をなすりつけてくるはずです.
どうすれば責任を軽くすることができるか,その比率を小さくするには,といった対策を常日頃から想定しておく必要はあるでしょう.そうじゃないと,どこまでも蹂躙されます.

私:X先生,今日はありがとうございました.



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2014年12月25日木曜日

センター試験の廃止について述べておく

センター試験が廃止になるという件について,先日ニュースになっていたので取り上げておこうと思います.

Yahooニュースはこちら.

文科省のHPではこんな感じ.

どうしてこんなにツボを外した提言ができるのだろうかと不思議でなりません.
でも,大人になって心穏やかな私としましては,いろんな人のいろんな妥協の産物なんだろうなと微笑ましく見ております.

が,そんな悠長なことを言ってられない身でもありますので,私の真面目な “保身” のためにも声を上げておきたいと思います.

正直言って,頭がどうかしてんじゃないかと疑うような提言です.
「却下」ですよ,こんなの「却下」.

まぁ「センター試験を廃止する」っていうのは良しとしましょう.
んで,代わって実施しようという「学力評価のための新たなテスト(仮称)」における「高等学校基礎学力テスト(仮称)」っていうのと,「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」ですが,これが結構問題です.

文章だけだと説明が面倒なので,文科省のHPから当該資料の【別添資料2】の画像を引っ張ってきました.それが以下のもの.
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/__icsFiles/afieldfile/2014/12/22/1354191_1.pdf
この手のニュースでも触れられていますが,ようするにこれまでの,
「センター試験,一発勝負」
から,
「総合的な評価,テスト」
という方向に舵切りされたということです.

ちなみに,この考え方ですけど私としては比較的賛同するところでもあります.
これまでの「知識・技能」の評価に偏重しているところを反省し,「思考力」「判断力」「表現力」も評価するようにしよう,ってことです.
答申の文章をそのまま引けば,
大学入学者選抜においては、現行の大学入試センター試験を廃止し、大学で学ぶための力のうち、特に「思考力・判断力・表現力」を中心に評価する新テスト「大学入 学希望者学力評価テスト(仮称)」を導入し、各大学の活用を推進する。
ってことですね.
うんうん,なかなか良いじゃないか.

・・が,問題はその評価方法です.
これがまた見事に “日本教育界らしい” 「大衆ウケ」するようなものなのです.
さすが「スーパーグローバル」,さすが「スーパー・サイエンス・ハイスクール」,さすが「生きる力」.

つまりですね,これ以外にも「主体性・多様性・協働性」ってのを追加して評価するんですって.
この点について言及された文章,および別添資料を以下に示します.
具体的な評価方法としては、下記2に示す「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」 の成績に加え、小論文、面接、集団討論、プレゼンテーション、調査書15、活動報告書、 大学入学希望理由書や学修計画書、資格・検定試験などの成績、各種大会等での活動や顕彰の記録、その他受検者のこれまでの努力を証明する資料などを活用することが考えられる。「確かな学力」として求められる力を的確に把握するためには、こうした多元的な評価尺度が必要である。各大学はその教育方針に照らし、どのような評価方法を組み合わせて選抜を行うかを、応募条件として求める「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」 の成績の具体的提示等を含め、アドミッション・ポリシーにおいて明確に示すことが求 められる。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/__icsFiles/afieldfile/2014/12/22/1354191_1.pdf
「いやいや,それは各大学における個別選抜だから,そこは各大学が自由にできるのでは?」
なんて思うかもしれませんが,(センター試験が代表的ですが)足並み揃えることについては自信のある日本教育界です.そういう「各大学の自由」になる可能性は低く,全国一律で「主体性・多様性・協働性」をテストし始める危険性の方が高いのです.

理由・根拠ですか?それもこの答申の中に隠れています.その文章を以下に引きますね.
高等学校教育については、生徒が、国家と社会の形成者となるための教養と行動規範を身に付けるとともに、自分の夢や目標を持って主体的に学ぶことのできる環境を整備する。そのために、高大接続改革と歩調を合わせて学習指導要領を抜本的に見直し、育成すべき資質・能力の観点からその構造、目標や内容を見直すとともに、課題の発見と解決に向けた主体的・協働的な学習・指導方法であるアクティブ・ラーニングへの飛躍的充実を図る。
高校ではそういうふうに教育しているんだ.だから大学はそれを評価してくれ.ってことになるのが日本教育界です.
これまでのセンター試験や各大学入試もそうなのですよ(高校の授業内容以上のことは試験問題には出せないのです).

だから,高校での評価方法を踏襲したものが大学入試での評価方法として採用されることになります.
十中八九,現実的なものとして「小論文」と「集団討論」が採用されるんじゃないでしょうか.
つまり,各大学が “自由に” 他大学と同じ評価方法を採用するだろう,ってことです.

だから頭を抱えているんです私は.
また面倒な大学入試にしやがって.って.

そりゃもちろん,外部の人達からすれば「それくらいの労力を大学も負うべきだろ」って言い出すかもしれませんが.
ここで私が言いたいのは,そんなにテスト方法をいじくったところで,その労力に見合った人物を発掘できるのか?ってことです.

できません.

元来,ありとあらゆる「テスト」っていうのは,そういうものだからです.
どれだけ緻密に複雑にしたところで,的確な人物だけを(しかも大量に)掬い取ることは不可能です.それができるんなら人類はこんなに苦労していません.

それに加えて,そもそも「表現力」だとか「主体性」「多様性」なんて曖昧なものを客観性高く定量化できようがありません.
これを「高い←→低い」という一方向的な評価でもって大学入試にしようって事自体,キ◯ガイじみた話じゃないでしょうか?
教育を舐めてませんか?大学というところを何だと思ってるんでしょうか?

長くなってしまいました.とりあえずこの記事としての結論を述べておきます.
大学入試については,これまでのセンター試験のノウハウがあります.これは非常に客観性の高い優れた試験方法です.これを引き継がない手はありません.
それに,国際学力調査でも採用されている「PISA」なんかでは,思考力とか判断力をテストするものがあります.これも比較的客観性の高いテストと言えるでしょうから,どうしても「思考力」とか「判断力」を評価したいっていうんなら,それを参考に作成しても良いかもしれませんね.

こうした試験問題を,各大学独自に入試問題として採用するわけです.
つまり,あの全国一律一斉で機械的なセンター試験はやめちゃう,ってことで.
今の段階においては,それくらいの改革で良いのではないでしょうか?
(決してセンターの業務が面倒だから,ってことではありません!)
このままだと,骨折り損のくたびれ儲けな大学入試改革になる気がしてならないのです.

答申にあるようなシステムになるくらいなら,今のセンター試験のままで十分です.

2014年12月23日火曜日

続々・STAP細胞研究の件

例のSTAP細胞研究の調査が終わったようです.
これまでにも,
STAP細胞研究の件について
続・STAP細胞研究の件について
ということで感想を述べてきたところですので,改めてここに書いておくことにします.

ここにきて,ようやく研究チームを堂々と非難することができます.
※実際のところ,まだ完全な事態把握ができているわけではないですけど.

「やっぱり結局,あいつはウソをついていたんじゃないか!」
と言いたい人たちもいるでしょうが,こういうのは「科学的な批判」ではありません.
とっても情緒的で微笑ましい批判・反応です.「そうだね,君の予想,当たったねぇ(頭ポンポン)」てしてあげたいとこです.

信じる信じないとか,陰謀があるんじゃないかとか,不道徳だ,あいつムカつく,みたいな話で盛り上がっていた日々が懐かしいですね.
「やっぱり結局,多くの一般人ってウソに惑わされるんだなぁ」
というのが私の言いたいことです.これも科学的な批判じゃないですけどね.

世間が騒ごうがどうしようが,「STAP細胞研究」に関する論文というのは科学的に葬られているはずの研究と論文だったのです.
それをただバカ騒ぎしただけのことです.
で,こんなにも騒いだ理由は,研究リーダーのキャラクターとメディアに祭り上げられた状況によるものということでした.

他の研究(本件のような不正・捏造)では騒いでいないのですから,つまり「よく事情が分からない人たちにも明確に叩ける材料が揃っていて,しかもなんせ面白かった」というだけの話です.
ペナントレースの予想とか選手の評価みたいな居酒屋談義が,科学界を舞台に行われた,というだけの話ですね.
科学者のひとりとしては,特に興味深いことはありません.

しいて興味深かったこととを挙げるとすれば,過去記事でも繰り返しているように,なんぼ言うても “こんなにもいきり立って騒いだ世間の人々” の方です.
なんだか,発狂しながらコンクリの壁に頭を連打して血まみれになっている集団を見ているようで,ある意味 “興味深かった” です.ドン引きしたというのが素直な感想です.
こういうのって,学校のいじめ問題で騒いだ人たちと似ています.
参考記事■大津いじめ問題で大衆の愚かさに絶望しています

そう言えば,iPS細胞研究で有名な山中先生がこんな事を言っています.
STAP問題 山中教授「生データ保存の大切さ学んだ」(←Yahooニュース)

山中先生には悪いんですけど,これって別にノーベル賞研究者ならではの発言ってわけじゃなく,つまり特段に重要な提言じゃなくて,普通の研究者教育を受けてきた人なら(実験調査系の授業を受けた学生なら)誰しもが知っていることです.
(山中先生も高尚で特殊なことを言いたいつもりはないはずで,普通のことを普通に答えているのでしょうけど)

科学という活動もある種の「スポーツ」ですから(しかも,その競争を煽っているふしもありますし),こんな競争が激化すれば当然,どこかの誰かが不正やファール,ドーピングをやりだすでしょうね.
矩(ルール)を越えて成果を得ようとする人が現れる.そんなの当たり前です.
その参考記事としては■人間はスポーツする存在であるをどうぞ.
科学も,そういう目で見ておかなければなりません.

科学とスポーツは同様に,参加者の道徳性や倫理,互いの示し合わせで行われているものであって,その中において優れた成果を得ようとする活動です.決して不正やドーピングを容認しているわけではありません.
もし不正をしたことが明らかになれば,粛々と追放処分になるのです.

科学とスポーツが同じ倫理観や価値判断で組織・運営されていることが分かるかと思います.
(それだけに,最近の科学は近代スポーツ化してきていると考えられなくもありませんが)

だからこそ,やっぱり結論としては特に興味深い事件ではなかったんです.今回も科学の手順と判断がきちんと機能したからです.
金メダルを獲った選手が,あとになってドーピング検査に引っかかった.それと似たような話です.

私としては,スピード違反で捕まるドライバーを見るように「ああ,あいつイカれよったなぁ」という目で見てはおります.こういう目で見ている事自体,科学が近代スポーツ化してきているとも言えるでしょうけど.

あっ,でも一つ気になるのは本件における理化学研究所(りけん)の対応の仕方です.こういうのに慣れていなかったからかもしれませんが,あまりにも不手際が多過ぎやしませんか.
陰謀論めいた話(そこまで大げさじゃないけど)ですが,理研って,やっぱり何か隠していると思いますよ.もしくは,他にも怪しい奴がいるとか(実際いたし).

洗いざらい全部開示するわけないだろ,ってのが大人の見方かもしれませんけど,ちょっとね・・.今回のSTAP細胞研究について,他にも “関係者” がいるんじゃないかと・・・.
ま,これはよくあるトカゲのしっぽ切りを,“どこで切るか” っていう組織の話ですから,これ以上は触れません.

いやあ・・,でもねぇ.
こういったしょーもない話で狂ったように騒ぎ出す・・,しかも「正義」とか「道徳」「倫理」「権力」「威信」といった観点から猛烈に騒ぎ立てる人が多い社会の性分をなんとかできないものかと考えさせられます.

あぁ,でもそれが大学教育をやっている我々の使命なのかな・・,という感じです.

じゃあその「大学の使命」とは何か?っていう人は,こちらをどうぞ.
大学について2

2014年12月20日土曜日

井戸端スポーツ会議 part 12「なぜ障害者スポーツへの関心が低いのか」

なぜ障害者スポーツへの関心が低いのでしょうか?
この問いに対し,今回も「人間は『身体』を通して理解する」という観点から考えてみたいと思います.
過去記事は,■井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」です.

「日本人は障害者スポーツへの関心が低い」
などと自虐的に言われることもありますが,実のところ諸外国においてもこれは変わりありません.

以前,NHKの調査で以下のようなものがありました.太字のとこだけ読んでもらうだけでもOKかと思います.
『日本での障害者スポーツの関心の低さ明らかに』2014年11月25日 NHK
日本で障害者スポーツを観戦したことがある人は海外に比べて少なく、6年後の東京パラリンピックを観戦したいと考えている人もオリンピックの半分にとどまることが「日本財団」の調査で分かりました。
公益財団法人「日本財団」は、ことし9月から先月にかけて日本をはじめドイツやアメリカなど6か国で、障害者スポーツへの関心についてインターネットを通じてアンケート調査を行い、4200人余りから回答がありました。
このうち、6年後の東京パラリンピックを会場で観戦したいか日本で尋ねたところ、観戦したいと答えた人は15.4%で、30.2%が観戦したいと答えたオリンピックのおよそ半分にとどまりました。
また、これまでに障害者スポーツを観戦したことがあるか尋ねたところ、ドイツは18.9%、アメリカは17.9%、オーストラリアは13.9%、韓国は12.6%、フランスは10.8%と、海外の5か国ではいずれも10%を超えたのに対し、日本は4.7%と最も低く、関心の低さが浮き彫りになりました。
いやチョット待ってくれ,と言いたいところです.(調査方法の妥当性はさておき)まず,これで明らかになったのは「障害者スポーツへの関心の低さは世界共通である」ということでしょう.
「障害者スポーツ」という大枠でみても,諸外国の8〜9割の人が障害者スポーツを見ていないわけです.
障害者スポーツへの取り組みが活発な国々ですらこの状態です(ちなみに日本は極めて活発な国の側にあります).他の国での関心も図り知れるものですね.

障害者スポーツの “世界的な” 関心の低さを示すものとして典型なのが,障害者スポーツのオリンピックである「パラリンピック」への関心度です.
最近では,冬季パラリンピック・ソチ大会がありましたが,やはりオリンピックと比べて格段の差があります.現地を見てきた人の話では,そりゃもう閑散とした会場だったようです.

ところで,日本の障害者スポーツは非常に進んでおり,世界的にも恵まれた環境にあるのが現状です.
障害者スポーツを取り巻く予算元やシステムは複雑なので,各国の「障害者スポーツの優遇度」を国際比較することは難しいのですが,私もかつて障害者スポーツの場に身を置いていた者として,そして,現在その身を置いている方々から聞くところからすれば,日本は非常に恵まれているというのが実感です.
(それは国際大会やパラリンピックでの日本選手勢の活躍にも現れています.やっぱり支援金が物を言うのがスポーツの成績だったりしますんで・・)

それでもなお日の目を見ることの少ない障害者スポーツに対し,その普及と発展を目指す方々は「支援体制」ではなく,「周囲の関心」を今後の課題として扱いだしたのが実情ではないでしょうか.
私はこの点について,「なぜ障害者スポーツへの関心は低いのだろうか?」という疑問から先に考えてみようということです.
それを先に考えてみることで,障害者スポーツのより良い普及と発展が望めるのではないか,そう思うからです.

長々と綴るのもなんですから,先に結論からいきましょう.障害者スポーツへの関心が低い理由,それは,
健常者の多くが障害者スポーツに「身体性」を見出すことが困難だからです
人間は身体を通して理解する,というお話を以前の記事で,そしてロボットアニメ(ガンダム)を使って前回まで説明してきたところですが,それは障害者スポーツにも同じことが言えるのではないか?ということなのです.
つまり,SF作品のマシンですら人型で表現したくなるほどなんですから,身体を用いた表現・競技,すなわち「スポーツ」においては尚の事,多数派である「普通の身体」に魅力を感じ,関心は向くだろう.そういうことです.

健常者と障害者の比率から言えば,圧倒的に健常者の方が多いのは自明のことと思います.故に,「人間は身体を通して理解する」という観点からすれば,「多くの人が関心を持つ(持てる)モノ」というのは,いわゆる障害の無い「平均的な人体」ということになるわけです.

脚が無い,目が見えない,耳が聞こえない,そうした身体性を理解しようと務めることはできますが,やはり「(障害者を含め)そうでない人」にはそれをダイレクトにその身を通して理解することはできません.
健常者が障害者スポーツを見ても,せいぜいが「障害を持っているのに頑張っている」とか,「◯◯に障害があるのに,よくあんな動きができるなぁ」と関心(感心)の気持ちを抱くことくらいではないでしょうか.

私はここに,障害者スポーツがエンターテイメント性(強い魅力的な関心)を見出すことができない絶対的境界線があるのではないかと考えています.

つまり,
「障害者スポーツをエンターテイメント性の強い観戦スポーツとして発展させることは不可能だし,目指すべき方向ではない可能性が高い」
というのが私の結論めいたものになります.

こんなこと言うと,正義感がやや強めのトチ狂った人が,
「それは差別だ!障害者のスポーツも多くの国民から等しく関心を寄せられるべきなんだ!」
などと詰め寄ってくるかもしれません.
しかし,冷静に読んでくれた人なら分かってくれるかと思いますが,私はそういう健常者上位な差別的主張をしたいわけでも,障害者スポーツに未来が無いなどと言いたいわけでもありません.

私はエンターテイメント色が強い観戦・商業スポーツにやや否定的でもありますし・・・,
だからということでもないのですが,障害者スポーツは「周囲からの関心」とは別のところにエネルギーを向けるべきではないかと考えています.

それは,スポーツの本質に立ち戻ることです.健常者であろうと,障害者であろうと,スポーツすることの本質においては変わりません.過去記事にも書きましたが,■人間はスポーツする存在であるからです.
そう考えながら障害者スポーツの未来を展望してみれば,障害者スポーツが目指すべきところというのは,「障害者スポーツ」と呼ばれるものが無い時代を目指すことではないか,そして,「障害者」と呼ばれる者がいない時代を目指すことにあるのではないか,そう思うのです.

難しい話になっていくので,今回はここまで.

その他,この記事に関係する過去記事を並べてみました.

障害者スポーツの将来については以下の記事.
障害者スポーツを考える

スポーツをすることの本質については以下の記事.
井戸端スポーツ会議 part 6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」

なぜ健常者は障害者スポーツを理解できないのか?の基本的な部分は以下の記事.
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」

人体(人の形)を通さなければ人間は理解できない,という点は以下のマニアックな記事.
人間は身体を通して理解する「ファーストガンダム編」
人間は身体を通して理解する「Zガンダム編」
人間は身体を通して理解する「ガンダムW編」

2014年12月19日金曜日

人間は『身体』を通して理解する「ガンダムW編」

人間は身体を通して理解する,ということについて「ガンダムで言うと」シリーズの第3弾です.
以下の2編もよかったらどうぞ.
「ファーストガンダム編」
「Zガンダム編」
もともとの記事は,体育・スポーツの記事である.
人間は『身体』を通して理解する
ですので,そちらもどうぞ.

さて,第3弾では『新機動戦記ガンダムW』を取り上げてみようと思います.
この『ガンダムW』のストーリーは,「人間は身体を通して理解する」ということについて,SFロボット作品としてある意味忠実に「解説」した作品だと見ることができます.
つまり,非常に分かりやすく描かているんです.

その最たる例,象徴的な登場キャラクターがトレーズ・クシュリナーダです.
彼の発言や思想を追っていけば,おのずと「SFロボット作品とは,人間は身体を通して理解するということに依っている」に行き着くかと思います.

典型的なのが,彼の戦闘スタイルや美学,彼自身が決戦用として設計したモビルスーツ(ロボット兵器)の武装です.

彼の戦闘スタイルと美学とは,ひとえに「格闘戦」,可能であれば生身の身体での格闘戦,できれば1対1の格闘戦なのです.それが騎士道精神などでエレガントに装飾されて描かれています.
細かいところは作品を見てもらうとして,これはしつこいくらい強調されており.
「閣下,いくらなんでもそれはエレガント過ぎです」とツッコミを入れたくなるほどです.

彼の格闘戦の美学は,ロボット同士での戦いであるモビルスーツ戦にも持ち込まれます.
普通,マシン兵器を使った「格闘戦」というと,例えば現代の戦闘機でいうところのドッグファイトのようなものですよね.機関銃やミサイルの打ち合いです.

ところが,彼の格闘戦はロボット同士が剣を交える格闘戦,つまり生身の身体での格闘戦の延長なのです.
それは彼自身が設計したロボット兵器にも反映されていて,彼が決戦用として作った「ガンダムエピオン」は,なんと火砲兵器が一切取り付けられていません.武装と言えるものは巨大なビームで出来た剣と,発熱するムチのような兵器だけです.
これも「閣下,いくらなんでもそれは戦術上極めて不利です」と言うところですが,まぁそれくらいの描き方で表現したいほどにトレーズ・クシュリナーダという人物の思想・哲学が,この作品において重要な位置づけになっていると見ることができます.

すなわち,「戦争は人と人とが対峙して行うべきである」ということです.
彼のセリフである「礼節を忘れた戦争は殺戮しか産まない」とか,「人間に必要なのは絶対的な勝利ではなく,戦う姿,その姿勢」といったように,「姿・形」にこだわりがあるわけでして,そしてこの姿形を象徴するのが「ロボット同士であっても格闘戦」なのです.

なぜなら,ロボット同士での剣を交えた格闘戦であれば,パイロットが何かをしようとすれば,おのずとそのロボットの姿形から読み解くことができます.この時ロボットは,パイロットの「身体」の延長として機能しているのです.ロボットという「身体」の動きによって,パイロットの意志が見えるわけですね.
トレーズは,パイロットの意志が外から見える戦いこそが重要だと考えていると言えるでしょう.

これを彼はさらに発展させ,戦争そのものにも「身体性」を求めているようです.
つまり,姿形(身体性)が失われた戦いには,勝利も敗北もないということです.
彼いわく,その時「(勝者にも敗者にも)神は手を差し伸べてはくれない」のです.
「姿形へのこだわり」,それがガンダムWというSFロボット作品においてトレーズが(そして制作者が)「ロボット(モビルスーツ)」によって表現しているものではないか,と思えるんです.

それだけに,だからこそ彼は,味方陣営が開発した「無人ロボット兵器」である「モビルドール・システム」に頑なに反対します.
これについて誤解を恐れずに言えば,人の意志が通っていないロボットがSFロボット作品に登場してはいけない.ということではないでしょうか.
それをダイレクトに,かつエレガントに批判したのがトレーズです.
人の意志が通っていない「人型のモノ」を見ても,誰も感動しない.ましてや,そんなモノがSFアニメで「戦争」をすることがあってはならない.ということです.

『ガンダムW』というSFロボット作品において,トレーズ・クシュリナーダが言わんとするものとは,人型ロボットであるからには「人の意志」が入っているべきであり,人の姿・形をしたモノ,つまり身体によってこそ人間は理解できるということなのです.

ところで・・・,
彼はこう言います.「かつて,ボタンひとつで全ての戦いに決着がつく時代があった.その忌まわしい精神の根源がモビルドール(無人兵器)だ」と.
きっと「核兵器での睨み合い」とか「ハイテク兵器での一方的な戦争」といったものを指しているのだと捉えられます.

これをトレーズ・クシュリナーダの思想・哲学から読み解けば,
姿形,つまり身体性(人の形)を失った戦争をしてはいけないし,それには誰も感動しない.
もっと言うなら,人の形がない戦争とは,まさに「誰も見ることができない戦争」なのだ,ということではないでしょうか.
そこでは,勝者にも敗者にも神は手を差し伸べてくれない.
現代の戦争に照らしてみると,なんとも痛烈な皮肉ではないでしょうか.

参考記事
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」
人間は身体を通して理解する「ファーストガンダム編」
人間は身体を通して理解する「Zガンダム編」

2014年12月16日火曜日

人間は『身体』を通して理解する「Zガンダム編」

前回の,
人間は『身体』を通して理解する「ファーストガンダム編」
の続きです.
これについてより基本的なことについては,
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」
を御覧ください.

今回は前回記事である「ファーストガンダム編」の続きとして,ガンダムシリーズとしての続編でもある「Zガンダム」を引き合いにしてみましょう.

今回の話では,前々回の井戸端スポーツ会議の方で取り上げた,
人間は「思う」に先立って,まずは「見る」「聞く」「触る」「味わう」といった『身体の感覚』があり,それに対して人間は「思っている」
つまり,
「我思う.故に我あり」という,デカルトが提唱したあの有名な命題では不十分であり,「我がある.故に我思う」というのが,人間を理解するためにはより適切であろう
ということを思い出して貰う必要があります.

このことについて,今回も機動戦士ガンダムシリーズ,その二作目である「Zガンダム」のストーリーにおける最終話から解釈してみよう,ということです.

ネタバレにもなりますが,Zガンダムの最終話を思い出してみて(視聴してみて)ください.
主人公であるカミーユ・ビダンは,宿敵パプテマス・シロッコが駆るロボット兵器「ジ・オ」との決戦において,自身の駆る「人型ロボット」の「Zガンダム」ではなく,その変型形態である飛行機型での突進攻撃をしています.
それによってジ・オとシロッコを倒して決着が着くわけですが,ここにおいてSFロボット作品として違和感があるのは,
ロボット作品,それも人型ロボットのエンターテイメント作品なのに,なぜ最後のシーンが人型ロボットによる華々しい大立ち回りではなく,飛行機形態による突進なのか?
というところではないでしょうか.

SFロボット作品において人型のロボットが登場する理由の1つが,「人間は人型のものを通すことで作品の解釈がしやすくなる.作者の意図が伝わりやすくなる」ということだったと思いますが,これに照らしてみると『Zガンダム』のラストシーンはどう解釈できるのでしょうか?

実は,『Zガンダム』のラストシーンこそが「人間は身体を通して理解する」ということを,逆説的に示している例の1つであると私はみています.上記の『身体の感覚』というところにつなげて考えることができるのです.

前々回の繰り返しになりますが,その点についてもう一度おさらいしておきます.

「私」の存在は「身体」を抜きに「私」とはならず,どこまでも心と身体は分離不可能なものと考えられます.
自分の身体があるから自分として成り立っていられるわけで,この身体から離れてしまうと,もはやそこでは,今,私が私として認識している私(人間)はなくなってしまうということでした.

すなわち,「私」という存在は,私という身体固有の感覚として存在しているということを意味するわけでして.つまり,人間の心とはこのような「人の形」をしたものに宿っていると言えなくもない.さらに言うなら,この私の身体だからこそ私が存在してていると捉えることもできるということです.

その上で,機動戦士Zガンダムの話に戻りましょう.
カミーユとシロッコの決戦の最終局面でどのようなやり取りが成されていたか.それはこのようなものでした.
カミーユ「俺の体をみんなに貸すぞ!」
・・中略・・
シロッコ「Zが・・,どうしたんだ.私の知らない兵器が内蔵されているのか?」
カミーユ「分かるまい.戦争を遊びにしているシロッコには,この俺の体を通して出る力が」
シロッコ「体を通して出る力・・.そんなものがモビルスーツを倒せるものか!」
取り巻き「カミーユは,その力を表現してくれるマシーンに乗っている」「Zガンダムにね」
ということで飛行機形態で突進するわけですが.
カミーユが突進するにあたって,過去に戦死した人々が幽霊のように取り巻くシーンが象徴的に描かれます.その彼女ら/彼らの思念をまとめ,それをシロッコにぶつけようというものです.
だからこそ「俺の体をみんなに貸すぞ」なのでしょうが,つまりこの時,複数の人々の思念の「依代」としてZガンダムは機能し,そしてZガンダムはその思念の集合体として突進しているのです.

そもそも,特に機動戦士ガンダムのような作品においては,ロボット兵器・モビルスーツというのは,パイロットの意志や想いを表現する「依代」として描かれていると考えることができます.
この場合,パイロット一人の「意志」であれば.人型で表現するほうが適切です.モビルスーツの一挙手一投足というのは,パイロットである人物の意志を表現しているものだからです.

ところが,『Zガンダム』におけるラストシーンでは,Zガンダムは主人公カミーユだけの意志を表現する存在ではありません.過去に戦死した人々の思念が合成された状態が作り出されているわけです.
その時カミーユは,「分かるまい.戦争を遊びにしているシロッコには,この俺の体を通して出る力が」と言っていますが,その「力」というのはカミーユ一人のものではないのです.

とするならば,その時のカミーユは,カミーユであってカミーユではない存在なのです
つまり,それまでのカミーユを表現していた「人型のZガンダム」では表現しきれない存在に,その時のカミーユはなっている,と考えることができます.

カミーユであってカミーユではない者がパイロットとして搭乗している.だからあの時,Zガンダムは「カミーユを表現する人型のZガンダム」ではなく,思念の集合体である飛行機形態にならざるを得なかった(飛行機形態として表現せざるを得なかった),ということなのです.

様々な人の思念を合成した時,それはパーソナルな形,「人の形」ではなくなってしまう.ということを暗示するものとして『Zガンダム』のラストシーンは興味深いものなのです.

参考記事
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」

ガンダムWでも考えてみました
ガンダムW編

ファーストガンダムでも考えています
ファーストガンダム編

2014年12月15日月曜日

人間は『身体』を通して理解する「ファーストガンダム編」

前回の,井戸端スポーツ会議である
人間は『身体』を通して理解する
の続編です.

上記の記事では,「人間は身体を通して理解する」ということに対する現代文化・芸術の典型がSFロボットアニメだということを取り上げました.
SFロボット作品においては,人型ロボットが,作品のメッセージを増幅させるための「依代」として描かれているというものでした.
こうした作品では,人型ロボットが主役のように描かれていますが,そもそも彼らはなぜ「人型」として描かれるに至ったのか.

それは,人間が「人型」のモノを通すことで,そこで起こっていることを理解しやすくなるということであり,SFロボット作品であればつまり,人型ロボットを「依代」とすることで,そこに作者が作品で訴えたいことがより伝わりやすい,ということでした.

アニメ『機動戦士ガンダム』シリーズにもそれが現れているという話をしていましたが,今回はこれについて,もう少し具体的に解釈をしてみようというものです.

機動戦士ガンダム・シリーズの第一作目,ファーストガンダムと呼ばれる作品の最終話では,「人間は身体を通して理解する」ということについて非常に興味深い展開があります.

ネタバレも含めて解説すると,このファーストガンダムガンダムの最終話では,主人公のアムロ・レイと宿敵シャア・アズナブルは,SFロボット戦争作品であるのにロボット同士での決戦では決着がつかず,なんと最後はコクピットを降りて生身の格闘戦(フェンシング)を始めます.

そのフェンシングで決闘をするときの二人のセリフが意味深長です.
シャア「分かるか?ここに誘い込んだわけを」
アムロ「ニュータイプでも体を使うことは,普通の人と同じだと思ったからだ」
シャア「そう,体を使う技は,ニュータイプと言えど訓練をしなければな」
「ニュータイプ」というのは,ロボット兵器であるガンダム等のモビルスーツを操る技術が極めて高い能力者のことです.つまり,「ニュータイプ」というのはパイロットである「自分の意思」をロボットで的確に表現できる人と捉えることができます.
この「ニュータイプ」というのは,その他のガンダムシリーズにおいても重要な役回りをするキャラクターなのですが,その意味するところというのは「ロボットに命を吹き込むことができる者」であり,より具体的な解釈をすれば「ロボットを通して“も”自分の意志が表現できる者」ということでしょう.

そんなわけで,モビルスーツ・ガンダムと呼ばれるロボット兵器を操ることに主眼を置いて進んできたストーリーになっています.タイトルもずばり「機動戦士ガンダム」ですから.
ところが,このファーストガンダムではニュータイプであるライバル二人は,最後の決着をロボット兵器・モビルスーツのコクピットから降りて,生身の身体でつけようとします.
ここに機動戦士ガンダムの面白さが見えます.

まず,このライバル二人のフェンシング対決での会話は,多くのSFロボット作品において「人型ロボット」が人の意志を表現する依代であることを逆説的に示しているシーンと見ることができるでしょう.
すなわち,生身の身体の操作(表現)とロボットの操作(表現)は違うものだろう,という趣旨のもとに展開されているのです.少なくとも登場人物であるシャアはそう考えているようです.
しかし,そうではない事を暗示する結末を迎えます。

そもそも「ニュータイプ」とは,あたかもロボットを自分の身体のように操れる能力者でしたよね.
ですので,その決着がどうなったか?というところもまた意味深長なのです.
結局,ロボット同士の決戦と同様,決着はついていません.いえ,どっちかというと宿敵シャアのセリフにあるように,
「ヘルメットがなければ即死だった」
ということで,主人公アムロが優勢だったと見ることもできるでしょう.
(しかもご丁寧にも,先立ったロボット同士での決着と同様に,剣はアムロの体をかすめ,シャアは頭部に当たっています)
ちなみに,物語終盤においては,主人公であるアムロは宿敵シャアを凌駕するパイロットになっていました.それに焦ったシャアだからこそ,フェンシング対決に持ち込んだ,という流れです.

シャアにしてみれば,ロボット戦においても生身の格闘戦においても負け気味で終わっているんです.
つまり,人の「想い」や「意志」の表顕というのは,「ニュータイプ」をもってすれば生身の「身体」であっても,その身体の延長線とも見做せる「人型ロボット」であっても結末に違いは無い,ということを示しているのかもしれません.

これは体育学や身体論,神経生理学,ロボット工学という観点からも非常に興味深い考察ができそうなテーマでもあります.
その続編については,また機会があれば記事にしたいと思います.


Zガンダムでも考えてみました.
Zガンダム編

ガンダムWでも考えてみました.
ガンダムW編

参考記事

2014年12月10日水曜日

井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」

「大学に『体育』の授業があるのはなぜか?」
という話が出ることがあるんですけど・・,
大学に限らず,そもそも学校教育に『体育』がなぜ存在するのか?存在する価値はあるのか?という点を考えない教育者はけっこう多いものです.

そんな話を直接的に愚痴っても,ブログを読んでくださっている皆さんは面白くないと思いますので,別の観点から話をしてみます.

人間は身体を媒介して物事を認識する
という,ちょっと仰々しいお話です.

難しそうなことに思えますが,逆に言えば「人間は自分の身体を通したものしか認識できない」ということです.
でも実はこれ,デカルトが思惟の末に見つけ出した,あの「我思う.故に我あり」(心身二元論)に対する反論でもあり,けっこう重要な人間論でもあります.
と同時に,スポーツ科学や体育学を考える上でも重要なテーマでもあるのです.
ここらへんのことについては,アントニオ・ダマシオ 著『デカルトの誤り』が詳しいので,そちらをどうぞ.

一方の心身二元論の立場をSFタッチで考えてもらうには,士郎正宗 作『攻殻機動隊』とか,そのアニメ映画である押井守 監督『攻殻機動隊』を見てもらえればと思います.あと,ハリウッド映画の『マトリックス』も,そういうことを下敷き的なテーマとして描かれています.

「我思う.故に我あり」ではなく,「我がある.故に我思う」というところでしょうか.そしてその「我」の存在は「身体」を抜きに「我」とはならない.
どこまでも心と身体は分離不可能なものと考えられるのです.
ダマシオ氏が述べるところの,人間は「思う」に先立って,まずは「見る」「聞く」「触る」「味わう」といった『身体の感覚』があり,それに対して人間は「思っている」のです.

さらに言うと,この『身体の感覚』というのは,自分の身体ならではの感覚として認識されているのですから,『自分の身体ならではの感覚』として形成されていきます.
例えば,「私の足に何かが触れた」とすれば,それは私の「足」という空間的位置と形状のものに「何か」が触れたことを意味します.
つまり,私が「足に何かが触れた」と感じることというのは,私という身体固有の感覚として何かを感じている,ということを意味するわけです.
もっと言うと,人間の心とは,このような人間の形をしたものに宿っていると言えなくもない.そういうことです.

私たちは,このような(自分の)身体があるから自分として成り立っていられるわけで,この身体から離れてしまうと,もはやそこでは,今,私が私として認識している私(人間)はなくなってしまうということでしょうね.

このようにして考えていきますと,人間が物事を理解するプロセスについてもう一つのテーマが浮かんできます.
それはつまり,
人間は身体というモノを依代として物事を理解しようとする
ということです.

ハリウッド映画によくある,
「あれだけ銃弾をバラ撒いて,ドッカンドッカン爆破しまくっていたのに,結局最後は肉弾戦で決着がつく」
というアクション映画の鉄板的な流れは,人間が身体を通して物事を理解しようとするところを,エンターテイメントとして掬いあげているからではないかと考えられます.

つまり,「悪党をぶっ潰すカタルシス」を味わうためには,心理・精神的なものを描写するよりも,身体的な理解を促す描写を採る方が大衆娯楽作品としてはヒットしやすいわけです.

より典型的なのがSFロボットアニメなどでしょう.
むしろ,SF作品においては身体,もとい「人型」のモノが,作品のメッセージを増幅させるための「依代」として描かれています.
古くは『フランケンシュタイン』の「怪物」や「『われはロボット』の「ロボット」,日本では『鉄腕アトム』や『機動戦士ガンダム』のような作品です.
こうした作品では,人型のロボットが登場人(?)物や主役のように描かれていますが,そもそも彼らはなぜ「人型」として描かれるに至ったのか.というところが興味深いところなのです.

これにはさまざまな要因が複合的に折り重なっているのでしょうが,その一つに上述した
「人間は身体というモノを依代として物事を理解しようとする」
があるのではないでしょうか.

こういうことです.
「人間は身体を媒介して物事を認識している」とすれば,人間は「人型」のモノを通すことで,そこで起こっていることを理解しやすくなる.
これはつまり「人型」の登場人物や象徴をある種の「依代」とすることで,そこに作者が作品で訴えたいことがより伝わりやすいのです.これを逆に言えば,作者が訴えたいことを伝えるための手段として「人型」のモノを象徴としたくなる.ということです.

例えば機動戦士ガンダムなんかを,各シリーズの最後のシーンだけでもいいので視聴してみてください.
そのほとんどが,ロボット同士の戦いなのに肉弾戦で決着をつけようとしています.
作者のメッセージがどのようなものかは様々でしょうが,人型のモノによるぶつかり合いは作者の意図が表現しやすいという点はあるはずです.

難しそうなことを考えてきましたが,「体育」という教育が存在する価値の一つに,上述してきたようなことがエッセンスのように混ざっている可能性があります.
身体を通した教育」という,分かりそうで分からない,場合によってはスポ根・スパルタ教育じみた話に受け取られかねないものですが,「身体を通した教育」すなわち「体育」の意義とは,そこにこそあるような気がするのです.
人間とはなんだろうか?
それを問い学ぶ.分からせないにしても埋め込ませる機能が体育教育にあるのではないかと思います.

 

「人間は身体を通して理解する」について,ガンダムで考えてみました
人間は身体を通して理解する「ファーストガンダム編」
人間は身体を通して理解する「Zガンダム編」
人間は身体を通して理解する「ガンダムW編」

障害者スポーツについても考えてみました
井戸端スポーツ会議 part 12「なぜ障害者スポーツへの関心が低いのか」

2014年12月8日月曜日

井戸端スポーツ会議 part 10「スポーツをすると勉強ができるようになる」

もっとブログ更新頻度を高めようということで,パソコンの中に入っている資料・データから面白そうなネタを出していくことにしました.

今回は,「スポーツをすると頭が良くなる」という,たまに耳にする話がどれだけ科学的根拠があるのか,その研究報告をご紹介します.

図1 中学時代の運動部入部率と進学した高校入学偏差値
有名なのが,平成19年度の文部科学省学校基本調査で上がってきたデータです(図1).
中学校の運動部入部率(縦軸)と進学した高校入学偏差値(横軸)に正の相関があるというものです.

もちろん例外はあるものの,文部科学省のようなお固い(最近はチャラいけど)省庁が,このような事を言い出しました.

「でもこれって,その入部率の話でしょ.環境や個人の議論になってきたら違ってくるのでは?」
というのが真っ当な疑問だと思います.

運動やスポーツによって学習能力が高まるという点を研究したものは結構あります.
その中からいくつか引っぱってみました.

まず,「体力が高い子供は勉強ができるか?」という点です.
その調査結果が図2です.体力が高い・低い子供たちに同じ学習課題を課して,そのテスト結果を比較しています.
図2
やはり高体力群の方が成績が良いとのこと.興味深いのは,毎回の勉強においてテスト課題を課さずに行った場合に差が現れやすいという点です.
つまり,模擬テストのような勉強方式ではなく,普段の何気ない学習のようなところにおいて体力の有る無しによる影響が出てきやすいかもしれないわけです.

次は「スポーツや運動をしてから勉強をすると良い」という可能性を示すものです.
以下の図3は,20分間の歩行運動後15分ぐらいしてから勉強をさせた群と,運動せずに勉強をした群のテスト結果を比較したものです.
図3
20分間の歩行運動でも違いが出てきます.その違いは特に「読解力」に現れてくるようですね.
この研究では認知機能の調査も行われておりまして,そこでも運動の効果がみられています.
Modified Flanker Taskというテストを行った結果が,以下の図4.
※フランカータスクって何ですか?という場合はこちら→http://en.wikipedia.org/wiki/Eriksen_flanker_task
図4
学校とかでの休み時間にはスポーツをさせると良い,ということを支持する研究です.

そんな事を聞かされていたら,「子供じゃなくて私達大人も運動をすることで勉強できるようになるのでしょうか?」という期待をしたくなるものです.
その期待に沿う結果を示すのが,以下の図5です.
図5
テスト課題は語彙記憶です.記憶力を評価しています.
高強度運動(筋力トレーニング,ダッシュなど)をしてから勉強した方が,中等度運動(ジョギングなど)や安静にしてから勉強するよりも記憶力が高まるという結果となりました.

高強度運動の方が効果的な理由としては,その方がBDNF(脳由来神経栄養因子)が増加しやすいから,ということが考えられています.
以下は高強度運動によってBDNFが増加することを調査したものです.
図6
ただし,運動直後や運動しながら勉強すると学習効果が低下することも知られていますので,そこらへんは勘違いしないように気をつけてください.

具体的な記憶力アップの提案としては,全力運動がちょいちょい含まれるような各種スポーツ(フットサルやテニス,野球など)や,密度の濃ゆい筋力トレーニングを日々の生活に入れていくことが推奨されます.

また,一日のどこかで長めの階段を素早く駆け上がるような運動を入れるのも効果的かもしれませんね.
皆が見ている前だと恥ずかしいでしょうから,誰もいないところで密かに階段ダッシュをするのはオススメです.

私は授業やなんかで,「テスト期間前になったら,マサイ族のように連続リバウンドジャンプをしなさい.もう跳べない,というところまで続けたら,しばらく休憩してから勉強すると良いですよ」と学生たちにアドバイスしています.
そのうち,7月中旬および1月中旬頃になると,本学の至る所で学生が飛び跳ねている光景が風物詩になる日も近いかもしれません.
そうなったら面白いな,って思っています.

毎日キツい運動をやれというのは現実的ではありませんが,そうした運動習慣,スポーツライフをすることで,皆さんの認知機能や頭の回転も高まっていくことが期待されるわけです.

もう少し詳しく知りたい人は,以下の本がオススメです.


井戸端スポーツ会議