2015年5月30日土曜日

こんなパンフレットの大学は・・,おっと危ない

このブログにおける「こんな◯◯な大学シリーズ」を楽しんでいる人に送る記事です.

そんなニュースがありました↓ ので,ちゃんと反応しておきたいと思います.
これが「大学案内」とは まるでファッション誌「近畿大学案内」(Yahoo!ニュース:産経新聞)

以下,記事より引用.
まるでファッション誌-。近畿大学(大阪府東大阪市)が大学案内を一新させ、話題を集めている。これまで多くを占めていた各学部のカリキュラムや研究内容はほとんど掲載されておらず、学生たちのファッションや部屋をスナップ写真で紹介し、“おしゃれなキャンパスライフ”を前面に押し出す内容になっている。
とのこと.やはりこうなって来るのですね.
※ちなみに,昨今の大学パンフレットを憂いた過去記事はこちら↓
こんなパンフレットの大学は危ない 
なんですけど,それを凌駕する大学パンフレットが新聞記事になっているというわけです.

記事中には,
これまでの形式を打ち破った方法に、受け入れてもらえるかなどの不安もあったという。しかし、大学に寄せられている声は、「見やすい」「おしゃれ」など、好意的なものが多く、担当者はほっと胸をなで下ろしている。
ということが書かれていますが,こういうパンフレットって溺死しそうな大学では以前から作成されていましたので,こういう知名度のある大学でも始まったのだ.と,そういう見方をした方がいいと思います.

それに,「見やすい」とか「おしゃれ」という声を好意的だと思っているようですが,でもこれって大学のパンフレットへの反応としてどうよ,って.そういう感じです.

あっ,すみません.パンフレットの担当者を叩くのは私の本意ではありません.
彼らなりに一生懸命仕事をしたのです.私も担当者だったら同じ事をしたでしょうし,同じ反応をしているはずですから.
ただ,その様子は欲望に耐え切れずドーピング注射をその腕に打ち込んでいるスポーツ選手にだぶるものがあります.
哀しいですね.

記事の最後には,
いかに大学の魅力をPRしていくか、少子化にともない、大学は学生集めに躍起だ。
グラフィティのプロデュサー、黒田佳史さんは「今後は、このような大学案内がスタンダードになっていくだろう」と予想した。
とありますが,その予想は当たると思います.
こうした流れは今に始まったことではないわけですし,あとはどこまで担当者が「吹っ切れるか」または「楽しむか」次第なんです.

さっきも言ったように,内部の人達にはこの手のパンフレットを作成するアイデアは遥か以前よりありました.
学生のキャンパスライフに焦点を当てて,授業内容や研究業績を排除するほうが読み手のウケは良い.
そんなの,通常の商売気があれば分かるはずです.

例えば他に思いつくもの,つまり今後の大学パンフレットにおけるコンテンツ候補としては,「キャンパス周辺の楽しみ方」とか「教職員と学生のプライベートシーン」とか「恋愛話」とか「作家やメディアとのコラボ」とか.
・・いいえ,もうすでに上記に似たようなコンテンツを載せているパンフレットはあるので,あとはどれほど紙面を割くようになるか? そこが問題です.
(今回話題になっているファッション誌風なコンテンツも,昔のパンフレットの一部にありましたよね)

ちょっと前の記事である,
教育現場,結局,ドラッカーはどうなった?
でも取り上げましたが,ファッショナブルで華やかな事をしてみたいという願望を持った大学の教職員は昔からいました.

でも,あえてそれに手を付けなかっただけです.

なぜ手を付けなかったかと言うと,
1)パンフレットとは言え,その内容は大学の品格を示すから
2)大学パンフレットに華やかさや広告効果を求めていないから
です.
なぜかというと,「大学とはそういう場所ではないから」という伝統と常識がそれを守っていたからです.

葬式でマツケンサンバを踊ることはありませんし,ラーメン屋のチラシにヘアヌード写真を載せることもありません.それと一緒です.

ただ,葬式でのマツケンサンバを楽しんで,ヘアヌードのチラシでラーメン屋の売上が伸びるなら,それがまた普通になっていくわけですが.

これ以上の難しい話はしたくないんですけど,じゃあどうすればいいのかっていう話があるわけでもないんです.
「それってどうなの?」という感覚に頼ることになります.

細かい話は以下の関連記事をどうぞ↓

関連記事
危ない大学におけるバスの想ひ出
大学について
大学について2
反・大学改革論
反・大学改革論2(学生からの評価アンケート)
反・大学改革論3(学生はお客様じゃない)
反・大学改革論4(喜んでる教員)

2015年5月29日金曜日

こういうのも大事じゃない,大学教員が言うこんな指導

これまでの記事はこちら↓
(1)新聞を読め
(2)とりあえず自分の意見を出してみよう

3つ目はこちら.
(3)付加価値をつける
この言葉の前には,「学生に」とか「大学に」とか「授業に」とか,そんなの.
通常の人間の感覚からすればキチガ◯だと思われかねませんので,普通はおくびにも出さないはずの言葉です.
ところが,何食わぬ顔で言ってる教員がいます.

これは大事,大事じゃないという次元の話ではないのかもしれませんが,こんなことを言っている教員が考える「付加価値」とは何か,そこが問題になります.

学生自身が言うんだったらまだマシです.
「僕に/私に,付加価値をつける」
って,そうですね.ただのバカですよね.これならバカなだけで済みます.

もちろん,私としては友達にはなりたくない人種です.
こういう手合は,付き合いを続けているうちに必ず面倒を起こします.
もしくは,こちらの精神衛生上よろしくない言動を繰り返すはずです.
だから最初から付き合いません.

当然,目の前にそんなこと言う学生がいたら怒鳴りつけます.

こんなことを口走っているのが大学教員である場合,私の経験から言っても碌な奴はいません.
彼らには驚くほどの共通パターンがあります.たいてい,自分を「デキる教員」だと勘違いしていて,且つ,一定数の初見さんからはそう思われている場合が多いのですが,学内外で変なトラブルを頻発させます.なぜか皆これです.不思議です.

あと,彼らはこのセリフを無意識的な「カッコつけ」のために言っている場合も多い.
無意識的,しかもカッコつけ,だからこそ問題です.
つまり,こういうことを言っている教員は,大学において学生が享受するべき「価値」が何なのか,さほど気にしていないということを暗示しています.
気にしていないから,考えたこともないから「付加価値」などという言葉を安易に使えるのです.

「これってただの比喩だろ.気にしすぎ」と仰るかもしれませんが,ここで問題にしたいのは品格とか質のことです.おおよそ真っ当な人間の表現ではありませんから.大学教員だって言っていいことと悪いことがあります.
これはちょうど,普通のサラリーマンが会社にフンドシ一丁で頭にパンストかぶって出勤しているようなものです.
それを見つけた人のほとんどが110番通報するはずですが,これを「犯罪じゃないだろ.気にしすぎ」とは言わないですよね.

「付加価値をつける」とのたまう教員が言う「価値」とは何か.どんな価値を学生に付加させようとしているのか.
それはたいていビジネススキルのことであり,どこかで聞いたことがある資格であり,今まで聞いたことがない資格のことです.「履歴書に書ける」というのが合言葉になっていて,総じて価値の無いものを指します.頭にパンストをかぶる行為とさして変わりありません.

そして,そんな教員が言う「授業に付加価値をつける」というのは,99%,社会で役に立つ知識を授業に盛り込むことを意味します.多くの場合,居酒屋で上司が部下にくだを巻いている内容が盛り込まれることを指します.
社会で役に立つ知識を身につけたいなら,社会に出ればいいのに.と言うか,逆に社会で役に立たない知識があるなら言ってみてもらいたいものです.
賢明な学生なら分かってくれることでしょう.けど,最近はそうじゃない学生が異様に増えてきました.残念でなりません.

あと,「大学に付加価値をつける」と言っている場合は,今にも潰れそうな経営危機を乗り越えたいということを意味します.注意しましょう.
大学に付加価値をつけるって,なんともおぞましい話ではないですか.そんな大学は元から価値が無いことをゲロっています.

前途有望な学生の皆さんとしましては,「付加価値をつける」などと口走っている教員の近くには寄らないほうがいいです.適当に相手をしてあげてください.
なお,「先生のお話しを聞いていると,とても勉強になります」って言ってあげると,こちらがビックリするくらい喜んでくれますよ.


関連記事
かなり以前の記事.暇だったらこちらもどうぞ↓
反・大学改革論3(学生はお客様じゃない)

2015年5月25日月曜日

これも大事じゃない,大学教員が言うこんな指導

前回の続きです.
ちなみに前回はこちら↓
(1)新聞を読め

今回はこれ.
(2)とりあえず自分の意見を出してみよう
大学での学びは教員と学生が対話をすることにより効果的なものとなります.議論をしなければ大学での学びは無意味と言っても過言ではないかもしれません.
ところが,学生の側からの活発な議論が展開されることは少ないものですから,思わずそれを促そうと教員が口にしてしまうのがこれです.

さらには「本学の学生は積極性が低いから」と比較対象が不明瞭な分析をしてみたり,「日本人は自己主張が苦手だからねぇ」などと,よくよく考えてみたら知性や学術性とは無関係なことで煽ってみたり,しまいには「分からなくてもいいから言ってみよう」と根性論に似た何かを指導しようとする人もいます.

きちんと考えた上での意見なら議論や問答の価値はあるのですが,「とりあえず口に出してみよう.まずは自分の意見を表に出すことが大事」という場合,学生は “きちんと考える” という手順を踏んでいないことが多いかと思います.
きちんと考えないままに意見を出したところで,学術性の高い議論を展開することはできません.

でも,この「とにかく意見を表明することが大事」という指導をする教員が多いこともたしかです.かく言う私もついつい言ってしまうことがあるのですが,ホントは良くないことです.多用は避けたいですね.

ですが,
「よく分からなかったけれど,とりあえず意見を言ってみたら話が盛り上がった.とりあえず出した意見が元で,話が進んでいった」
なんてことも聞きます.
だからやっぱり「とりあえず意見を出す」というのは良いのでは? ということも聞きます.

それを狙ったのがブレイン・ストーミングという手法だったりするのですが,私の経験上,こういう手法や状況で展開される議論は低レベルなものに終わることが多いです.
既知のもの,つまり常識的な認識の組み合わせにしかならないからでしょう.

一方で,大学での学びにおいて求められているのは,知識を組み合わせる力ではなく,思考を練り上げる力です.
もちろん両方大事なのですが,より高度なトレーニングが必要なのは後者のほうです.

いろいろな学問分野がありますが,大学という場において共通してトレーニングするべきは,考える力です.
ある一つの学問分野で「考える力」を培えば,それはその他の分野でも応用がききますし,より質の高い知識の組み合わせができるようになります.

「私の経験上・・,」と申しましたが,例えばこんな状況になったことがあります.
あるセミナーにおいて「◯◯についてブレイン・ストーミングしましょう」という企画があって,いろいろと意見を出してみるのですが,ある事柄に関して,明らかにその場の皆様の認識が間違っていたのです.
ブレイン・ストーミングですから,「それ間違っています」と批判するのも躊躇して放ったらかしたのですが,出来上がったのは「そりゃそうだろ」という浅薄な内容で,且つ,「しかも,根幹的な部分が間違っているんですけどね」というものでした.

つまり,その場にいる多数派が「良い」と思うもの,少なくとも「納得」できるものは作り出せるのでしょうけど,「正しい」ものや「質の高い」なものが作られるわけではないのです.

大学で学んでもらっているのは,学生が「良い」と感じるものや「納得できる」ものではありませんよね.
では何でしょうか.
それは「正しい」ものであり,「質の高い」ものであるはずです.否,「正しいものは何か?」を紡ぎだし,「質の高いものは何か?」と考え続ける姿勢や力です.

とりあえず意見を出してみる・・・,という姿勢で臨んでしまうと,大学で身につけるべき大事な「考える力」を鍛えられないままに卒業してしまいかねません.

学生の皆様におかれましては,先生から「とりあえず意見を出してみろ」と言われても,本当に「とりあえず」という気分で意見を出してはいけません.自分の思考力の限界を発揮するべきです.

一昔前であれば,先生に「とりあえずでいいから・・」と言われたからってんで,とりあえず意見を出してみたら,「お前はバカか」と罵られました.
これに「“とりあえず” って言ったじゃないか」と不平を言うのは本当にバカです.

今はむしろ,「とりあえず」でもいいから意見を出すことが大事だという風潮が強いですから各自一層注意しなければいけません.

2015年5月22日金曜日

そんなに大事じゃない,大学教員が言うこんな指導

「大学でこういうことを学ぼう」ということで,
これが身につけば大学卒業
こういうのも大学教員に教えてもらった方がいい
みたいなものをご紹介しました.

逆に,こういうことはそんなに大事じゃない,けど,うっかり大学教員が口走ってしまいそうになるものを挙げてみます.
どこの誰に向けた記事なのか分かりませんが,とりあえず学生向けのつもりで書いていきます.

今日思いついたのは以下のものです.

(1)新聞を読め
どれだけ新聞を読んだところで大学で身に付けること,すなわち学術性とは結びつかないことは,当の大学教員がよく知っているはずなのですが,一般社会で通用している事を利用した方が説得力が出てくるので思わず言ってしまいがちです.
実際,そういうことを学生や教職員を前にスピーチしている人もいます.「最近の学生は新聞を読まない.君たち学生は新聞を読んで社会の出来事に関心を持ちなさい」と.

しかし,新聞の記事イコール社会の出来事ではないことは当然のことです.
新聞社の記者やデスクが興味を持っていること,これがすなわち社会的に重要な事だということでもありません.

「新聞を読め」という指導をする大学教員は少なくありませんが,その一方で,新聞をほとんど読まない人種が多いのもまた大学教員です.
「どうせ新聞なんか大衆迎合商売の権化だろ.僕には関係ない」というスタンスです.
しかもそれで困ることはありません.

社会人の多くが「新聞を読まなければ」と思っているのは,その記事を知っていることが仕事で有用だからです(と私の友人が言っていました).
相手と話を合わせられるとか,話のネタになるとか.つまり,社会人は新聞の記事から学んでいるつもりはないようです.
そりゃそうですよね.必要なものしか読まないということは,その必要性を理解しているという時点で訓練にも啓発にもなっていないのですから.

その一方で,大学での勉強というのは,(新聞に限らず)得られた情報の価値を見出す能力を身につけることです.
毎日熱心に新聞を読んでいるのに「ナントカ都構想」に賛成する人もいれば,まったく新聞を読まなくても「ナントカ都構想」の危険性を察知できる人もます.

ようするに,新聞を読んで社会に関心を寄せておくことが大事なのではなくて,目の前にした課題の中身をどのように吟味し,いかに振る舞えるかが大事なのです.
毎日新聞を読もうが,一生に一度新聞を読もうが,その意味するところは変わりません.
大学生には,ぜひこの違いを分かっておいてほしいんです.そんなに難しい話ではありませんが,実際にそのように振る舞うのは難しいものです.

ところで,「テレビをしっかり見なさい」と指導をする人は少ないですね.本質的には同じもののはずなのですが.

もちろん,新聞やテレビが悪いと言いたいわけではないのです.いずれにせよデータや情報をどのように処理するか,そこが大事なのであり,大学ではその力を鍛えているのですから.

この記事を書いた理由はなんだろう? なぜこの視点で論じるんだろう? そういう読み方ができないまま毎日新聞を読んでも,馬鹿の考え休むに似たりです.


続きはまた次回.

2015年5月17日日曜日

大阪都構想:住民投票の結果

本日,大阪市で行われた住民投票の結果が出たようです.
とりあえず,結果はこれで良かったと思います.

前回の記事ではないですが,多くの大阪市民が科学的に物事を捉える態度を示せたということですので.
まずはこのジュリアナ東京的な騒ぎが静まることに一安心です.
良かったです.と同時に,さすが浪花節,やっぱり大阪人は東京人よりは賢いと思いました(でも,“マシ” という意味で).

ただ,逆に言えば大阪でも少なくない人々が
「今のままならどうせジリ貧なんだから,このシステムを大きく変えてみよう.今よりは良くなるはず」
などという,冷静になって考えれば失笑モノの発想で投票に向かったことを推察できる結果でもあるわけです.

だいたい,他の政令指定都市,市町村で問題になっていないことが,なんで大阪市では問題になるのか.おかしいでしょ.
それに対していきなり「都構想」とか・・,もうね,論理的,科学的に考えたらイミフーなことですよ.賛成派だった人々も,これを機会にもう一度「現実に目を向け,今出来る事をやり切ってみる」という姿勢で大阪市のことを考えてもらえればと思います.

もう一度言いますが,他で出来ているんです,大阪市で出来ないということはないのです.
(逆に言えば,それでも大阪市で出来ないと言うのであれば,それは大阪市の皆様がアホやということを示すことになるのですから)

まあ,確かに大阪市の問題点がいろいろと表に出てきた機会ではあったと思います.
もちろん,「それが本当に問題なことなのか?」は問題にするべきだとは思いますが.

過去記事でも繰り返していますけど,
「私にとって不都合な状態が展開されるのは,きっとその裏で都合よく生きている人がいるからだ」
と考えて,
「だったらそういうシステムを変えてしまえば上手くいく」
とか,仕舞いには,
「都合よく生きている奴を叩けば上手くいく」
いう発想になるのは,まともな人間ではありません.

いろいろなところに配慮しながら進めるのがまともな政治です.
気がついた時に「あ,昔と比べて変わってきたなぁ」と感じるくらいが調度よい変革なのだと思います.
その身で体感するほどの変革は,どこかに歪みや闇を作っているはずです.

関連記事
『Deus ex machinaな日々』とは何か
東京人と中国人はよく似ている

2015年5月15日金曜日

これが身につけば大学卒業

今日,こういう記事を見つけました.
著者は京都大学の藤井聡先生です.
大阪都構想は、マジで洒落にならん話(2)~「対案がないぞ!」というデマ編~
できればリンク先の記事を読んでほしいのですが,一言で要約すれば,
「得体の知れない事に手を出す時は,まずは冷静になって手を出すべきか否かをしっかりと考えることが大事」
ということです.

上記の記事では「対案を出せ」という言論とその態度に対する反論がありますが,これについては私も以前,
「ウンコを食べようとしている奴を止めるのに,対案を出す必要はないだろ」
というのを書いたことがありますので,よかったら以下の記事もどうぞ.
「じゃあ,代わりは誰かいるのか?」の愚

さて,「得体の知れないものを前にしたら,まずはしっかり考える」
めちゃくちゃ普通のことのようですが,実はこうした方略をとる人は意外と少ないものです.私的なことであれ,公的なことであれ,熱狂したまま,浮足立ったままに物事を判断してしまいがちなのが人間というものです.

適切な判断ができる人間になりたいと願う一方で,サイコロを投じるように運に任せて物事を決めることを「粋な判断だ」と礼賛したりするものです.
しかし,「賽は投げられた」と言ってルビコン川を渡ったユリウス・カエサルにしても,最初から出たとこ勝負の運に頼ったわけではなくて,ギリギリまで思考を繰り返した挙句の決断だったはずなのです.

これはいわゆる「人事を尽くして天命を待つ」ということですが,結果を「運」に任せるまでに,やるべきことをやるのが我々人間のすべきことであり,その人事の尽くし方を学ぶのが,大学における学びの一つです.

これについて,前回の記事に引き続き,私の恩師に登場してもらいましょう.
先生が授業で紹介していたもので,今でも記憶に残っているのが「何のために大学で勉強するのか?」ということについての,『男はつらいよ』の1シーンの引用です.

満男 「おじさん,質問しても良いか」
寅次郎「あんまり難しいことは聞くなよ」
満男 「大学に行くのは何のためかな」
寅次郎 「決まっているでしょう.それは勉強するためです」
満男 「じゃ,何のために勉強するのかな」
寅次郎 「ん,そういう難しいことを聞くなと言ったろ.つまり,あれだよ.ほら,人間長い間生きていればいろんなことにぶつかるだろう,な.そんな時に,俺みたいに勉強していないやつは、この振ったサイコロで出た目で決めるとか、その時の気分で決めるより、しょうがない、な.ところが,勉強したやつは,自分の頭で,きちーんと筋道を立てて,はて,こういう時はどうしたら良いかなと考えることができるんだ。だからみんな大学いくんじゃないか.だろう? 久しぶりにきちんとした事を考えたら,頭が痛くなっちゃったよ」

では・・,
寅さんが言うように,サイコロの出た目で決めたり,その時の気分で物事を判断しない人間になるためには,大学でどんな勉強をすればいいのでしょうか. つまり,大学では何を学ぶべきなのでしょうか.

その主要なものの一つとして挙げられるのは,物事を科学的に考えられる力であり,科学的に物事を捉える態度だと思うのです.科学的に物事を判断できる人間になることを目指すのが大学での学びです.

ではこの「科学的に物事を判断できる」ということはどういうことを指すのでしょうか.
「科学的」と聞くと,多くの方々は「次々と新しい事に取り組んでいくこと」と思いがちですが,そうではありません.

科学的に物事を判断する態度,それは,
「物事を論理的に系統立てて考え,その知見の正しさを立証しようとすることであり,その論理が少しでも怪しく,確実性が保障されないのであれば棄却する
という態度のことです.特に後半の太字の部分が重要です.
ようは,科学的に物事を考えるというのは,“得られた結果がどれだけ正しくないか” という視点で挑むことを意味します.科学的な手続きである「統計学」の多くも,この視点から分析しています.
これが科学的に物事を判断する態度であり,これによって科学は存在価値を認められているのです.

つまり大学で勉強することというのは,
「新しいものは批判的に捉え,その批判に耐える知見を拾い出す態度を身につける」
ということなのです.
「あ,これ良いかも」というものを前にしたら,「じゃあ,これのダメなところはどこだろうか」という姿勢で考えられる人間になること,と言い換えても良いでしょう.
そのための適切なモノの考え方が身につけば,大学卒業と言えます.

大阪都構想や現在の日本政府の舵取りに反応する日本社会に目を向けると,あらためて大学での学びの価値が試されている.そんな時代に入っているのだと思う今日このごろです.

2015年5月13日水曜日

こういうのも大学教員に教えてもらった方がいい

先日,ゼミの学生と一緒にゼミ飲み会を開きました.
今年は男子学生ばかりなので,比較的気楽に飲んでいられます.酔って騒ぐ面倒な奴もいないし.

そこで彼らにも言ったのが,
「旨い物,旨い酒がなんたるかを知っとけ.それが学士の資格の一つだ」
というものです.

私もそうでしたけど,学生というのは「安い・多い・不味い」ものしか食べていないものです.
今どきの学生なら尚の事です.

だからこそ,学生は教員を伴う飲み会の席では遠慮なく「良い物」を食べるべきなのです.
「いいかお前ら,普段食えないものを,ここぞとばかりに食うんだよ」
と・・・,まぁ,私が独身貴族をやってる身だから言える事かもしれないんですけどね.
ですが,私も学生時代はゼミの先生に旨いものとは何か? を教えてもらったわけですので,次は私が振る舞う番だと思ってやっています.

今でも思い出します.恩師の言葉,
「君らは本当に旨いものを知らないからそんなこと言うんだ.それは教養がないということだ」

そんなに旨いものを知らないと言い切るなら,旨いものを食わせてくれよと思っていたら,本当に旨いものを飲み食いさせてもらいまして.
実際,それで「あぁ~,ホントに旨いものってこういうんだぁ」とね.
んで,それはやっぱり「教養」だと,今となっては実感します.

いろいろあるんですが,やっぱりワインとそのツマミについては勉強になりました.そこら辺で売ってるチーズじゃダメなんですね,みたいな.あと飲み方のウンチクとか.
以来,適当なものを飲み食いしちゃいけない・・,というか,それなりのものじゃないと満足できなくなりました.

だからと言って私もワインに入れ込んでいるわけじゃなくて,そこは師とは別の道を歩むのも良いかなと思い,ここ3〜4年,私はずっとウイスキーです.
あれってあれですね.ウイスキーって残念ながら味と価格が比例しますよね.
だけど,一度上質なものを口に入れてしまうと,残念なことに元に戻れないんですよ.
ドリップコーヒーをはじめたら,インスタントに戻れないのと一緒です.
店なんかに行って,適当に頼んじゃうと苦労します.

こういうことは大学卒業生という(一応の)「エリート」には伝えておかねば.
彼らを上質なものを選択する人間にするのが,我々の使命でもある,そう思います.
これって実はアカデミックな思考と関係がある「嗜好」ではないかと.

今勤めてる大学は関東地域ということもありますので,私のゼミの最終課題は「ホッピーは不味い」と感じたら合格というものにしようと思います.

さて,その日の飲み会も後半に入り,
「次っ,日本酒!」
って言ったら,
「(えぇー・・)
って反応でした.日本酒はキツいものだという認識なのでしょう.彼らと同じ歳の頃は私もそうだったしね.
だから純米大吟醸を飲ましてやりました.
そしたら,
「やばい!めちゃめちゃうまいッス!」
ってね.
「だろぉー?」
と,こちらもいい気分.

そしたら彼ら,調子にのってガブガブ飲み始めたので,悪酔いする前にストップ.
これで次は友達や彼女の前でドヤ顔できるはずです.

今度は「響12年」とその他のウイスキーとの違いを比較検討する演習にします.

2015年5月11日月曜日

井戸端スポーツ会議 part 21「スポーツ・運動をすると,本当に気分が良くなるんですよ」

記事を「短くしよう,短くしよう」と思っているのですが(目標は1000字程度),ついつい長めになってしまいます.
なので今日は本当に短めにしたいと思います.

スポーツや運動をするとストレス解消になる.気分が良くなる.

という話を聞いたことがあるかと思いますが,これは本当です.

「なんだか気分が優れない」「ストレスが溜まっている」という人は,ぜひとも “少しくらい無理をしてでも” スポーツや運動に取り組むことをオススメします.

この話,科学的にちゃんと実証されているものでして,例えば,運動習慣のある人とそうでない人の「気分(POMS尺度での調査)」を比較した研究では,

上図のように,気分を構成する各種因子のうち「活気」が高値を示すことが分かっています.
こうした運動習慣のある人がPOMS尺度で「活気」が高値を示し,逆にその他が低値を示すことを「氷山型」と表現します.

また,運動を実施することで気分(Beckの抑うつ尺度での調査)に影響を与えることを実証した研究としては,
上図のように,ランニングや筋トレをすることで「抑うつ」の程度が低下することが分かっています.
この実験ではランニングや筋トレを実施し始めて1ヶ月くらいから抑うつの程度が下がり,その効果は運動を休止しても残ることが示されています.

ちなみに,「運動でストレス解消」ということがよく言われますが,この点については科学的な研究ではまだ解明されていないようです.

ただ,スポーツや運動の実施が,少なくとも気分を良くして,抑うつや不安感を低下させるという実証研究は多数あるわけです.

なお,どんな運動やスポーツがいいのか? どれくらいの運動強度がいいのか? というところですが,そこまで気にする必要はなく,以下を参考にしてもらえればと思います.
1)レクリエーションレベルのスポーツ(種目は問わない)
2)体操やストレッチング,柔軟体操でもOK(実施時間の目安は20〜30分程度)
3)ウォーキング,ジョギング(実施時間の目安は10〜30分程度)
4)筋力トレーニング(30分程度)

いずれも,実施していて気分が良く,その後に疲労感が残らない程度の強度と時間.
別に運動能力が高まらなくても大丈夫(トレーニングだからといって気張らない).
定期的に継続して実施できる程度の運動強度で,楽しく行えるものを選択する.
というところでしょうか.
逆に,張り切って高強度長時間やってしまうとネガティブな影響が出てしまう可能性があります.

騙すつもりはありませんから,騙されたと思ってやってみてください.

2015年5月9日土曜日

井戸端スポーツ会議 part 20「プロレスはスポーツである」

さっきまで大学時代の後輩とその仲間たちと共にフットサルに興じていました.
スポーツはいいものです.

で,帰りに家の近くのラーメン屋に立ち寄りますと,隣の客2人が「プロレスとは〜」と熱く語っておりました.
その2人が話していた論点でもあるのですけど・・・,

プロレスはスポーツだろうか?

この点について今日はお話してみたいと思います.

結論から申しますと,プロレスはスポーツです.
よく,
「プロレスは両者がリングで息を合わせて立ち回り,どのように戦うのか,その勝敗さえも予め決っている.つまり真剣勝負になっていないからスポーツではない」
ということで,
「プロレスはショーである.見世物である,興行である」
という意見が出ます.

しかし私は,だからこそプロレスはスポーツである.むしろ,スポーツの本質がプロレスにこそある,と言いたいのです.

スポーツとは何か? その詳細については,過去の私の記事を再読してもらえればと思います.
本文末にリンクを置いていますので,そちらもどうぞ.

まず,プロレスはスポーツではないと考える人が多いのはなぜか? という点が問題になります.

八百長まがいの事前打ち合わせをしない競技,真剣勝負の競技を「スポーツらしい」と感じるのは,野球やサッカー,マラソンといった人類の歴史上,極めて歴史の浅い「近代スポーツ」のことを多くの方々が「それこそがスポーツだ」と認識しているからに過ぎません.

しかし,打ち合わせなしの真剣勝負をすることがスポーツだ,というのは人類がごく最近になって作り上げた考え方です.

いや,そう言い切ってしまうのも良くありません.スポーツは真剣勝負をするものです.真剣勝負をすることがスポーツの魅力でもあるのですから.
ですが,真剣勝負だけではスポーツにはなりません.どのような真剣勝負なのか? そこが重要になります.

多くの人がスポーツらしい真剣勝負と言った場合,勝敗にこだわることと同義として捉えます.
ところが,多くの人が「真剣勝負をしている,いかにもスポーツだ」と考えている種目においても,勝敗だけにこだわっているわけではないことはご承知のことと思います.
例えば,サッカーではケガで倒れた選手がいればボールを外に出したり,野球でむやみに敬遠球を投げるのは憚られるのです.

つまり,スポーツにおいて勝敗というのは絶対的な価値を持つものではないはずなのです.
ではスポーツにおける価値とは何か?
それは,持っている能力を全て出し切るという意味での真剣勝負をする姿勢,そして飽くなきパフォーマンスの向上です.
スポーツというゲームの場は,その能力を出し切るための場であり,その結果として勝者と敗者が生まれるだけなのです.

さて,プロレスは事前打ち合わせはしていたとしても,真剣勝負をしていないのでしょうか?
いえ,真剣勝負をしているように見えるから観客は盛り上がっているんですよね.
たしかに,「これはショーだ.打ち合わせをしているんだ」ということを折込済みで見ている観客もいるでしょう.

しかし,プロレスラーは真剣勝負に見えるようにリング上で振る舞い,迫力あるアクションを見せるためのトレーニングを積みます.
つまり,パフォーマンスを高めるための厳しいトレーニングを積まなければならず,手を抜けばそれはプロレスではなくなります.

実は私にはプロレスラーの友人がおります(残念ながら,花開かず引退したけど).
曰く,プロレスラーとしての最高のプレーとは,自分だけでなく相手の能力を出し切った上で勝敗に持ち込むこと,とのことです.
彼らにとって勝敗というのは興行上の都合であり,目指すべき格闘技としての最高のパフォーマンスを発揮することは別にあるわけです.

観客が納得するような格闘技としてのパフォーマンスを見せること,それがプロレスにおけるプロレスラーの真剣勝負と言えるでしょう.
それはスポーツとしての価値から外れるわけではないこともご理解いただけるかと思います.

ならば,プロレスにおける勝敗は何を意味するのでしょうか? 興行上の都合だけでしょうか.
勝敗が予め決まっていること.実は,これこそがプロレスがスポーツらしい営みである可能性があります.

過去記事でも触れましたが,スポーツの起源は祭祀や儀式にあると言われています.
そのような角度から見ますと,プロレスラーがリング上で見せる振る舞いというのは,さながら巫女がトランス状態になって神託を受ける様にも見えます

巫女に向かって「本当に神が憑依しているの?」「その神託の言葉,予め考えてるんじゃないの?」なんて聞くことはないでしょう.例えそう思ったとしても,それは聞くもんじゃありません.

それはプロレスにおいても同様で,そういうもんだと思って見るのがプロレスの正しい見方です.
もっと言えば,それがスポーツの正しい見方かもしれません.

プロレスにおいて勝敗の行方は戦っている彼らの間では分かっていることかもしれない.
しかし,それを見ている周りの者(観客)には分からないのです.
勝敗の行方は,トランス状態に入った巫女の神託の如く,戦いの結果を待つしかないのです.
そう考えると,スポーツの魅力の一つでもある「勝敗の行方が分かっていない」ということが,実はプロレスでも保障されているとも言えます.

リングの上でのプロレスラーの戦いに熱狂する観客というのは,もしかすると神殿で神託をする巫女の言葉に耳を傾ける人々と同じ性質を持っているのかもしれません.

では彼らはリングの上で何を神託しているのでしょうか?
それは,スポーツマンとしての戦う姿勢と,勝者・敗者の物語ではないか,それに人々はスポーツの価値を見出しているのではないか,そう思うのです.


かなり端折った内容だったかと思いますので,以下の過去記事で補完してください.

関連記事
人間はスポーツする存在である
「負けたのに『楽しかった』」はダメでしょうけど.けどね
簡易版・負けたのに楽しかったはダメでしょうけど.けどね
井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」
井戸端スポーツ会議 part 6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」
井戸端スポーツ会議 part 16「体育の授業で得てほしいこと(特に大学で)」

2015年5月6日水曜日

大学のグローバル化について同窓生と話してみた

ここ最近の記事が立て続けに「大学のグローバル化」に関することだったことも影響しているのか,昨日,一緒に酒を酌み交わす機会があった高校の同級生とこれについて話をしてみました.

いずれも大企業ではないものの,グローバルに展開している企業に勤めている者達で,彼ら自身,海外出張を何度も経験しております.
飲み会の会場になったお店も,そのなかの一人が先日まで滞在していたベトナムの料理を出す店でした.お店選びもベトナムに行っていたというその彼が設定したのですが,本場とどれだけ違うか興味があったからとのこと.
ちなみに,そんなに味は違わないとのことでした.

で,そのグローバル人材についてですけど,彼ら曰く,
「英語が喋れるかどうかよりも,行けと言われりゃ行かなきゃならないのだから,そこに余裕をもって対応できる胆力があるかどうかだと思う」
とのことです.

対応できる「能力」ではないところがミソです.「胆力」なのです.別の言い方をすれば,根性とか,達観できるかとか.そんな感じだそうです.

現地の取引先とか社員との細かいやり取りについては,現地通訳とか英語が得意な人材を連れて行ってなんとかするので,あとは何かと発生する行き違いとかトラブルとか,そういったものにどのように対処するのかが問われるんだそうですよ.

これが彼ら「社会人」がいうところの「コミュニケーション能力」なんでしょうね.
かなり以前に書いた記事に,
子供のコミュニケーション能力は社会の鏡
というのがありますが,そこで取り上げたことと類似しておりました.

つまり,コミュニケーション能力というのは,「そつなくこなす能力」とか,「失敗しない方略がとれる能力」といったことよりも,「問題が発生した時にそれを乗り切る能力」のことを指すのではないか?
それを別の表現にすれば「胆力」とか「根性」などといった体育会系なものになるのではないか?
ということです.

もちろん彼らにしたって,「さまざまな国や地域,会社を相手に一人で対応できる人材は欲しいし,自分もそうなりたい」ということだそうですが,そこまでの能力は実際のところ求めてはいないらしいです.
要求はすれど,必要ではない.そんなところでしょうか.

中には高い語学力がなければ就けない企業もあるのでしょうけど,それは極一部のことですし.
じゃあ,高い語学力を持った人材が,人が羨むポジションにいるのかと言えばそうではないわけで.むしろ,こういう人材ってワンポイントでしか必要とされないので,そこ(語学力や国際経験)で勝負できるところって案外少ないんだそうですよ.

それ以外の業務や人間関係といったところの能力が,少なくともこの日本の多くの会社では求められるわけでして.

これに「だから日本は世界から立ち遅れているんだ・・」などと嫌味を言ったり愚痴ったところで,そういう人は「日本というグローバルな場所」に対処できていないわけで,つまり,そういう人はグローバルなコミュニケーション能力が不足した人材だということに気づくべきなのです.

考えてみれば,日本の社会・企業も,グローバルの一部ではないですか.
そこに適応できない者,拒絶反応を示す者というのは,実はグローバル人材ではない,そういうことになります.

グローバル人材を目指すのであれば,まずは日本の社会に適応し,その企業に貢献できることが必要な前提条件ではないか.そういう認識にもなるわけです.

「うちの学生にアドバイスをちょうだい」聞いてみたら,彼らが強調していたのが,
「そこの会社に入って何がしたいのか? だと思う.でも,これって仕事してみないと分からないんだろうけど」
という,就活エピソードにおける猛烈なステレオタイプが返ってきました.
でも,それが社会人からしたら重要なアドバイスなのでしょう.

2015年5月4日月曜日

最近の大学のシラバスは

大学に通ったことのある人は,「シラバス」というのを御存知かと思います.
シラバスというのは,履修する授業がどのような内容なのか,その授業計画について担当する教員がまとめて冊子にしたもののことです.

最近では大学だけでなく学校でも取り入れるところもあるそうです.

このシラバス,以前はその授業で学習することをざっくりと書いていたのですが,いつの頃からか授業計画を可能な限り詳細に書くようお達しが来るようになりました.
さらには,できるだけシラバスに書いた通りの授業を展開するよう注意が来るようになり,さらには毎回の授業の内容も具体的に書けと指示が出るようになりました.

だから「シラバスってどんなもの?」と言われても,年代によってちょっと認識が違うんです.
なので,微妙に歳がバレたくない女性は回答に少し気をつけましょう.

さらに言うなら,ここ最近は冊子という紙媒体で学生に配布する大学も減ってきて,ウェブ閲覧のみとか,データCDとして渡すところもあるそうです.
で,その弊害(?)として,学生がシラバスを全く見ず・読まずに授業をとるようになってきている状態にあります.

キャンパスライフを送った者にとっては懐かしいそんなシラバスですが,近年,それを英語化しようという動きもあります.
もう既に英語化している大学もいくつかあります.

このシラバスの英語化,はっきり言って紙の無駄遣いだけでなく,労力の無駄遣いにもなりますので,検討している大学は是非とも中止することをオススメします.

なぜか?
まず,このシラバスの英語化というものですが,一体何のためにやろうとしているのか? という点を抑えたいところですよね.
その理由ですが,表向きは,
「海外の学生が,受けようとする授業科目を把握・選択しやすくするため」
というものです.
初めてお聞きになった方としては恐らく御自分の耳を疑って信じてくれないであろう,あまりにトンチンカン過ぎる理由であることは私も重々承知しております.
少なくない内部の教職員もそう思っていますから.

「その理由」の理由としては,いわゆる「グローバル化」を進めたいので,その進展が目に見える形にしたいというものです.

でも,きっと留学生は日本語のシラバスを自分の国の言葉に訳して読むはずです.
だいたい,その留学生は日本の大学に留学してる時点で,日本語の勉強もしたいはずなんです.
シラバスを英語にしたって誰も喜びません.
そりゃ,留学生にとってはちょっとくらい便利になるかもしれませんが,だからってそれで留学生が増加するわけないことはバ・・,えぇ〜っと,それほど頭が良くない人でも分かることでしょう.

逆に考えてみても当然です.例えば私がドイツの大学に留学したとします.日本語のシラバスがあっても嬉しくないですし,英語のシラバスがあったとしても,ドイツ語の表記を読みたいでしょ?
ドイツ語ではどんな表記になってるのかな?って考えることにドイツに留学している価値もあるのですから.

次に,英語の文章や表現についてかなりモメる.という点があります.というか,もう既にそうなってるらしいです.
基本,シラバスはその授業を担当する教員が書くわけですが,英文校正などをしたところで,きっと「◯◯先生のその文章の表現は気に入らない」などと言い出すおせっかいな教員が現れ,これに「いや,その表現じゃないとダメなんだ」などと突っぱねる教員もいたりすると,用いられる表現や単語について学科内・関連領域の教員間で延々と調整したりと,翻訳作業級の労力が発生する可能性が高いのです.

かなりモメた挙句に,「まぁまぁ,先生方.これはシラバスですし・・」などと言ってどこかで妥協するわけですが,だったら最初からやらなきゃいいじゃないかという話なのです.

教育機関としてのまっとうなマネジメントの頭があれば,話が逆であることが分かるかと思います.
まずは「日本の大学」または「その大学」だからこそ学べる学術性を創りだし,そこに魅力を見出す留学生を増やすこと.
そうして留学生が増えてきて,留学生に履修科目を説明するための教務的なサポートが煩雑になってきたら,いよいよ「せめて英語併記するくらいした方がいいんじゃね?」っていう順序が普通ですよね.

先にシラバスを英語化(さらには,授業の英語化)させたところで,目的は達成できないことくらい分かりそうなものでしょう.
まぁ,分かっていない人が「上」に多いから残念な流れになっているのでしょうけど.

シラバスを「学生との契約内容を書いたものだ」と仰々しく捉える人もいますが,少なくとも日本の大学においてそれは馴染みません.
シラバス通りに授業が進められるんなら,大学に学生は必要ないでしょう.

その科目を担当する教員の想いを綴るくらいで良いのではないかと思います.

それよりも,学生がシラバスを読んで授業を選べる仕組みをハード,ソフトの両面から検討することが先ではないかと考えています.

2015年5月2日土曜日

子供は親が躾ける―政治家も一緒

売国としか考えられないような政策を進める政治家がいます.

ところが,そうした政治家に対し,
「彼は裏ではこんなふうに考えているんだ」
とか,
「今は世間を欺くためにやっているのであって,長期的には良い方向に進むんだ」
もしくは,
「まずはこの国にかかる圧力を避けるために行動しているのであって,そのうち反撃するんだ」
といった養護を唱える支持者がいるんです.

しかし,これは大変危険な支持の方法です.

仮に,その政治家が本当に裏で別に考えていることがあって,それが長期的には良い方向に進むように画策しているのだとしても,支持者はそれを表立って,
「彼は裏ではこう考えている」
などと養護してはいけません.

それはちょうど,不良少年の親が,
「この子は本当は悪い子じゃないんです! 今はこんなことをしていますが,将来きっと良い子になります!」
と世間の前で大声を張り上げ,訴えているようなものです.

さらには,返す刀で,
「じゃあ完璧な子供なんているんですか! あなたの子供さんは立派なことしてるんですか!」
と逆ギレしちゃってるかもしれません.

いや,もちろん私はこの親を信じてあげたいですし,その子供にもきっとそういう側面があるのだろうとは思います.完璧な人間なんていません.

ですがこれは,人に迷惑をかけたり不道徳な振る舞いをし,恨みをかうような行動をとっている子供に対し,その親がとるべき態度ではありませんよね.それと一緒です.

その政治家を信じて支持している,つまりその政治家という子供を生み出した親がすべきことは,世間様から出ている文句を真摯に聞いた上で,あらためて子供を信じて躾けることでしょう.
別にその子供と縁を切れ,とか,ケーサツにツーホーしてブタ箱にぶち込んでしてしまえ,などと言いたいわけではないのです.
(程度によってはそれも必要だろうけど)

政治家を「きっと裏ではこう考えている」などと養護することは,不良少年を「あなたは悪いことをしていないのよ.大丈夫,信じてるから」と甘やかす親と同じになります.

政治家とて万能ではありませんし,票がなければ生きていけないわけですから,目先の評価や水面下の事情を知らずに決める政策だってあるでしょう.

それについては国民がしっかりと対応しなければいけません.地道に進むことしかできないと思います.
この国にとって悪い事をすれば叱り,犠牲が出たら怒り,不道徳なことをすれば張り倒す.
そうした中において,健全な民主主義による政治が行われるはずなのです.

今は,そう・・.
躾をしない親に育てられた不良少年に,この国の舵取りを任せているように見えるのです.

親(大人)は子供を信じて自由にさせる,それがいいんだ.
子供は,叱らず怒らず殴らず,褒めて育てることができるんだ.
そういう方法を完全否定するつもりはありませんが,それも程度というものがあるはずでして.その程度が少し甘すぎやしないか?
ということが,現代の日本の政治にも言えるのではないかと思うのです.

そして,これが我々にとって身近な「戦後レジーム」なのかもしれません.

2015年5月1日金曜日

スーパーグローバル大学という舞台を斜め下から覗いてみると

スーパーグローバル大学に選ばれると大変な目に遭う.ということを前回お話しました.
それでもなんだかんだと「スーパーグローバルを目指そう」という流れが根強く大学内部にあるわけです.
これは一体どういうことか? 今日はその点について,内部にいる者の一人として感じていることをお話しましょう.

心の底から「これからの時代は大学もグローバリズムに対応しなきゃいけないんだぁ」と考えている真性のアレな教員は放っとくにしても,そういう真性でない教員でスーパーグローバルにしぶしぶながら手を挙げる人はどういう背景を持っているのでしょうか.

大きく分けると3タイプ.
それを以下にお示しします

1)それを正しい大学改革の方向性だと信じたい研究肌教員の「頼みの瀬」
これまでの大学改革は「教育に力を入れる」という点を強調して各大学粉骨砕身しておりました.とは言え.何をもって教育に力が入れられているのかという判断は難しいものです.
勢い,授業評価アンケートや就職率とか,つまり学生の満足度などというものを優先する経営方針が実践されておりました.それは特に「研究肌教員」からすると我慢ならない,お子様ランチ的な大学運営だったのです.

大学はそんなところじゃない.研究が大事なんだ.大学はもっと研究者を優遇するべきなんだ.という不満が研究肌教員には募ります.
そこに現れたのが,「俺達は国際的に活躍しているんだ」と自負する彼らの自尊心をくすぐる「スーパーグローバル」です.

スーパーグローバル大学という考え方に問題点はたくさんあるけど,とりあえず目下,俺達の立場を認めてくれる思想であるに違いない.これが稼働すれば,少なくとも自分はその流れの主流に乗れて優越感には浸れるはず.
というわけで,スーパーグローバルに反対する気持ちが弱いという人がいるのです.


2)教育研究に自信はないけどオーラル英語に自信のある教員の「最後のバッターボックス」
若い頃に海外滞在経験があったり,海外旅行が好きだということで英語でのコミュニケーションが得意な人が教員にもおります
ところがそういう教員の中には,教育をやらせればチャランポランで学生からの評判も悪く,おまけに研究もろくなことをしていない.そんな感じで無常にも時は経ち,箸にも棒にもかからない人物になってしまって学内では肩身が狭い思いをしている教員というのが一定数いるんです.

とは言え.別にそういう教員は叱責を受けるわけでも本当に無能なわけでもなく,たんに本人が「肩身が狭い」だけなのですが.実はこれが「スーパーグローバル」にすがりつく要因なのです.

難しい話ではありません.ようするに世間と大学が「スーパーグローバル」という舞台を用意してくれたおかげで,それまで彼らを「無能」と嘲笑していた研究肌教員に対しては,
「読む英語,書く英語ではグローバル人材は育てられないぞ.グローバルに活躍するためにはコミュニケーション能力が大事なんだ(ドヤァ」
と反論できるようになります.

また,これまで彼らを「無能」と見下していた教育力ある教員に対しては,
「英語力がこれからの時代は大事なんだ.それが新しい時代の教育力なんだ(ドヤァ」
と逆に見下せるようになった,ということなのです.

そんな彼らにとって,「スーパーグローバル」は逆転サヨナラホームランを打てる打席に見えるでしょう.


3)「大学の教育力」のアイデアが出尽くして困っている教員の「拠り所」
就職率や授業評価といった学生の満足度を高めることで「大学改革」,そして大学の存在意義を高めようとしていた教員がおります.
彼らは大学経営を担う立場にあり,至って真面目に本気でそれに取り組んでいたのです.

ところが,それに頑張って取り組めば取り組むほどに「なんだかなぁ~」という虚無感と焦燥感は募ります.

さらには,そこに粉骨砕身しても期待したほどの成果は上がらず,それをちょっと愚痴ってみたら「一般企業ならそんな経営努力は当たり前だ.ぬるま湯に浸かっていた大学教員が何を言うか!もっと苦しめ!」と反論される.

そんな時,憔悴しきっている彼らの前にグローバリズムの思想が現れます.

なんだかんだで大学教員をやっている彼らにしてみれば,グローバリズムなどというアホっぽい思想の軽薄さには勘づくものです.
しかし残念ながらというか,世間はそうではなく,猫も杓子もグローバリズムと騒ぎ立てているではありませんか.

なんてバカバカしいんだ.これを世間に啓蒙せねば・・.
などという使命感より前に,彼らの頭に浮かんだのは「これで助かった・・」というものでしょう.

スーパーグローバル事業が典型ですが,この手の大学改革は教育現場に求められている事が非常に明確でして.
具体的には例えば,海外滞在経験を持った教員を増やせ,外国籍教員を増やせ,英語のみで授業するクラスを増やせ,TOEICを何点以上取れるようにしろ,留学生を増やせ・・・等々.

その一方で,皆で育てようとしている,そして皆が欲しがっているとされる「グローバル人材」というものが,一体どういう存在なのか,詳しく知っている人はいません.
一般企業・社会に求められる人材ならまだしも,グローバルに活躍する人材について大学に正面切って文句を言える世間の人も少ないわけです.

つまり,グローバル人材がなんなのか分かっていないにも関わらず,なぜかグローバル人材を育てる大学とはこういうものだ,という改革目標,すなわち「目標となる状態」が明確なんです.

これは,大学改革に疲弊した教員からすれば,責任を外部に分散できるなんとも嬉しい要求なのですよ.

まとめますと,大学がこれまで必死になって取り組んでいた「学生の満足度の向上」は,徹頭徹尾「大学側の努力」と見做されていたのですが,スーパーグローバルはと言うと,大学がその教育システムと環境を用意すれば,あとはそのシステムと環境の中で力をつけられなかった学生と,その卒業生を活かせない社会が悪いんだ,ということで責任をなすりつけることができるという寸法です.

どうせグローバル教育なんて成功するわけないし,そもそもそんなことする価値なんて無い,ってことは重々承知の上で,それでも世間から求められる大学改革をなんとか楽して切り抜けたいという気持ちの現れなのです.

こんなことを言っておりますと,
「じゃあ,スーパーグローバルがダメなら,どんな大学教育がやりたいんだ?」
と言われるかもしれません.

実は過去記事でそれについて取り上げたことがあります.
大学について
大学について2
よかったらご一読ください.

例えばドイツの哲学者であるカール・ヤスパースは,その著書『大学の理念』でこう述べています.
最高の訓練とは,完結した知識を習得することではなく,むしろ学問的な思考へと諸器官を発展させることであり,また教育することなのです.そうすることによって,生涯を通して,更なる精神的・学問的訓練が可能となるのです.
すなわち,卒業した段階で社会の役に立つとか,仕事がバリバリできるといった人材を輩出するわけではなく,一生をかけて学術的思考を磨くことができる人物を輩出することが大学の存在意義だということなのです.

また,スペインのホセ・オルテガ・イ・ガセットは,「バカのくせに自分を疑わず,自分が分別ある人間だと思い込み,いろいろな問題に意見できると豪語して恥じない『大衆』」をなんとかしなければいけないと考え,それが大学の使命と考えていたのだと思います.
オルテガの著書『大学の使命』で,彼は大学教育について以下のように述べています.
われわれは平均学生から出発しなければならない.
平均人を何よりもまず,教養ある人間にすること,すなわち,その時代の高さへと導くことが必要である.
別にグローバル化や国際化がダメだと言っているわけではないのです.
学術的な探求を進めていけば,グローバルな思考や国際的な観点が必要になってくるでしょう.

しかし,大学というところで学ぶべき事というのは,そんな低次な話ではなく,物事を正しく捉える能力,モノの考え方を身に付けることが最優先されるべきではないかと言っているだけなのです.

こうした事はたしかに学生ウケはしないでしょうし,心ない大衆人からは「そんなものを学ばせてもメシは食えない」といった閉口してしまうような文句も出るでしょう.

それをいかにシカトできるか.
そこが現在の日本の大学に強く求められていることなのです.


関連記事
大学について
大学について2
大学教育の質が低下している?
井戸端スポーツ会議 part 16「体育の授業で得てほしいこと(特に大学で)」
大学をグローバルにするってどうするの?

大学改革がなぜダメなのかを論じたのがこちら↓
反・大学改革論
反・大学改革論2(学生からの評価アンケート)
反・大学改革論3(学生はお客様じゃない)
反・大学改革論4(喜んでる教員)