2015年7月29日水曜日

こんな大学の教員は危ない part 1

久しぶりにネタ記事をどうぞ.

これまでにも,「こんな◯◯な大学は危ない」というシリーズを書いておりまして,教員ネタとしては,
こんな挙動の教員がいる大学は危ない
とか,
危ない大学に奉職してしまったとき「厄介な教員対策」
なんかがあります.

今回は,大学教員そのものをネタにして楽しんでみようというものです.
「大学教員なのに,こんなんじゃマズいでしょ」
という人はたくさんの視点・観点から存在するわけですが,その中でも特にシュールなものをピックアップしてみようというものです.

教職員間であれば「あぁ〜,いるいる!」
ということで楽しんでもらえると思いますし,
学生であれば「やっぱ,あの先生やばいんだ」
ということで学生生活の参考になると思います.

ここで紹介する大学教員が「なぜ危ないのか」については,説明するのにちょっと時間がかかるので,本文末にご紹介した記事を読んでもらえればと思います.

では早速,
あなたの大学に,こんな教員はいませんか?

(1)バスの運転を楽しんでしまっている
このブログとしては鉄板になってきた「大学教員とバス」ですね.
危ない大学においては,大学教員がバスの運転を担当しています.詳細は,
危ない大学におけるバスの想ひ出
を御覧ください.

大学教員がバスの運転に生き甲斐を見出すことは,普通ありません.
大学教員がバスの運転をするのは,あくまで「危ない大学」において強いられているからです(理由は経費節減のためです).
ところが,そうした「バスの運転」を教員である自分がやっている,ということに価値を置き始める教員がいます.
「私がバスを運転しているから本学が成り立っているんだ」という気分を,本気の理論にまで昇華させているわけです.

こういう教員はバスの運転がどれだけ高度なものか自慢めいて語り始めます.
上記の記事でご紹介しているX氏のように,これはホントはバカげてる事だという認識ではなく,立派な大学教員の仕事の一つだと考えています.
学生のためであればバスの運転くらい,いや,バスの運転こそが私が生きる道なのだ.という価値観で取り組んでしまっているわけですが,当然のことながら大学教員はバスを運転するために存在しているわけではありません.

もちろん,教員にバスを運転させるような大学はこの上なく危ないわけですが,そんな仕事に生き甲斐を見出す教員も危ないのです.
大学教育というものを舐めているからです.
「じゃないと本学のようなところは,あっという間に潰れるんだよぉ」って当事者意識を振りかざすことと思いますが,そんなことまでして食いつなごうとする大学なんて潰れてくれたほうが世のためです.


(2)学内にカフェを作るってことで意気揚々としている
最近の大学では,学生が学内に入り浸ることができるスペースを用意するのが流行っています.ラーニング・コモンズなどと呼称されることが多いです.
気軽に学生同士が共同作業できて,手軽に図書資料やネット情報にアクセスできて,そこには学術的なアドバイスができるスタッフがいて,しかもカフェも付いてる,という空間のことで,これは要するに,以前は助手・院生室の隣にありそうな小汚いけど実は大学教育としての有機的な学びが実現できていた水場のある空間を,もっとおしゃれに人工的に作ろうとしたものです.

ラーニング・コモンズという場を作ることには賛同します.私も学生の時から「そういう場所があったらいいなぁ」と感じていました.
けど,こういうのってわざとらしく大々的に作らなくても,学生同士・院生同士の中で自然と出来上がある空間だとも思いますので.

さて,このラーニング・コモンズですが,危ない教員にとっては「大学らしい有機的な学びができる空間」という建前のもと,「カフェが設置されている」という点に注力してしまうところに危うさがあります.
勉強しながらカフェ
スタッフに相談しながらカフェ
ネットを見ながらカフェ
プレゼンの練習をしながらカフェ
たまに教員を交えてカフェ
彼らの頭のなかでは,スターバックスのようなオシャレな「カフェ空間」という学びの場を提供するという事,それ自体に興味関心が向いているのです.これが痛い.

まだ見ぬ我が家の設計図.気の早い奥様のファンタジー.「ここがキッチン,そこに冷蔵庫があって,ここがコンロ.そっちに行くと日当たりのいい庭がよく見えるダイニングがあって,そこで毎朝朝食をつくって寝坊助の子供たちが2階から降りてくるを待ってるのぉ」
それに類似した意気込みで,彼ら危ない教員はラーニング・コモンズを計画しているに違いありません.

勉強させる空間づくりも大事かもしれませんけど,それ以上に,勉強させる大学づくりの方を優先してもらいたい.そう願います.


(3)iPadだけで仕事をしようとしている
iPadだけでは仕事できません.iPadのおかげで仕事が捗るなんてこともありません.もちろん我々のような仕事においてではありますが.
かなり以前(iPadが出て間もない頃)にそういうブログ記事を書いたことあるんですが,いまだに「iPadがあれば仕事が捗る」「iPadを駆使できれば,他は不要になる」「今どき,iPadを使いこなせないとダメだ」などと言っている教員がいます.
こういう人は十中八九無能です.

我々の仕事がiPadでなんとかなるわけないんです.
iPadだけで仕事ができていたとしましょう.だとすれば,その教員の底が知れるというものです.
iPadを使って仕事をしている,という姿に憧れている.ただそれだけのことです.

ついでに言うと,(2)で取り上げた「カフェ」とも関連していて,こういう連中は “スターバックスでiPad” 的なものに知的オシャレ感を持っていて,大学をそういう場に仕立てたいという軽薄な願望があるのです.


(4)実践・現場こそが大事と言っている
だったら大学の教員という立場で教えなければいいのにね.


(5)自己啓発本からの受け売り
実践,現場と連呼するよりも大人しいのですが,むしろ害悪はこっちの方が大きいのではないかと思うくらいです.
何かって言うとA4・1枚にしようとしたり,マインドマップに凝ってみたり,何でも写メで撮ってそれをクラウドにすればいいと訴えます.
自分で勝手にやってりゃいいのに,それを学生にも求めるんです.

そうした自己啓発書のなかでも,「仕事術」的なこれらの実用性を,学生とともに研究するっていうんなら話は分かります.
いえ,むしろ大学の研究室ならそういうことをやった方がいいと思います.
例えば,電子資料と紙資料について,作業効率や記憶定着などについての実証研究をたまに見ることがありますよね.

だけど,こうした「◯◯で仕事が捗る!」みたいなことを,ドヤ顔でそのまま指導する教員がいるんです.
あなたには学者としての魂は無いのか,って言いたくなりますが,「学生のためになっている」「学生からも評判がいい」ということで聞く耳は持ちそうにありません.

何がしたくって大学教育に携わっているのか,それをマインドマップをやって確認してほしいものですが.
(マインドマップの性質上,そんな人がやっても逆効果かもしれませんけどね)


また思いついたらパート2を書こうと思います.


関連記事
危ない大学におけるバスの想ひ出
大学について
大学について2
反・大学改革論
反・大学改革論2(学生からの評価アンケート)
反・大学改革論3(学生はお客様じゃない)
反・大学改革論4(喜んでる教員)

2015年7月27日月曜日

英語教育の必要性

前回の記事では,英語教育に国をあげて取り組むことの危険性について,施光恒氏の著書『英語化は愚民化』を引きながら取り上げましたが,今回はその英語教育をどのように進めれば良いか? という話です.

「おいおい,英語教育の危険性を論じておいて,今度はその逆かよ」
と思われるかもしれませんが,私は別に英語教育に取り組むこと自体を悪いことだとは考えておりません.
むしろ,大学のような高等教育においては非常に重要なことだと思っています.
同じ物事であっても,日本語だけでなく英語やその他の言語を使って捉えることは大事です.

『英語化は愚民化』の著者である施氏にしても,英語教育自体が悪いと述べているわけではありません.
「英語で教育する」「英語で生活する」ことの危険性を訴えているのです.

勢い,ここらへんのことをゴッチャにして
「英語を勉強しても意味がない!」
「英語よりも日本語の方が優れている!」
果ては,
「英語を教えることは,悪いこと!」
という論調を見ることもあったりしますが,これはこれでバカバカしい話です.

だいたい,どの言語がどのように優れているか,なんていう議論は意味がありません.
むしろ,どの言語が優れているか?という発想こそが危険なのです.

日本語の方が優れているから英語教育に反対しているわけではありません.
この国のほぼ100%の国民が日本語を使える状態にあるのだから,その普及している言語で高度な教育ができる環境を整えることこそが我々の社会にとって有益だろう,という話をしているのです.

言語の優劣で評価するというのであれば,ではもし日本語よりも優れた言語があれば,そっちに乗り換えるのでしょうか? そういうわけではないでしょう.

愛国心まじりに「日本語は言語として優れているのだから・・・」などと言い出す人がいますが,恥ずかしいので黙っててほしいものです.
日本語の方が英語よりも優れているなどと評価すること自体が低能な発想です.
英語を母語とする人にとっては,英語の方が日本語よりも大事であるというだけのことなのですから.

では現在の日本にとって,特に大学においてはどのような英語教育が求められるのでしょうか.
それは,
多くの日本人が,日本語だけで日常を完結できる環境を作り上げるための英語教育
ではないかと考えられます.
なんだか矛盾しているのではないかと思われるかもしれませんが,これは意図的です.

つまり,日本語を基本とする高等教育を発展させることが大学としての最優先課題であり,英語等の外国語を交えた論議は,そのために取り扱われるべきだと思うのです.

例えば,新しい科学理論や哲学・思想が外国語によって生み出されたとします.
そうした時,我々学者や研究者がすべきこととは,まずはそれを外国語を介して理解し,咀嚼・反芻した上で,日本語という形にして学生や社会に普及させることです.

こうした活動の中で,ゆくゆくは日本語による科学理論や哲学・思想を生み出すことに繋げていく.それが日本の大学が取り組むべき学術活動ではないでしょうか.

まさにそれをやってきたのが,ここ150年ほど(いえ,それよりずっと以前から)の日本の高等教育ではないか.そう考えますと,そもそも「英語」教育というところに偏重する必要がありません.
外国語全般を等しく扱えばいいはずです.

そんなわけで,やっぱり「英語」教育は必要無いのではないか? という気分になりそうですが,そうではありません.
英語教育に偏重してはいけないとは言え,英語教育が必要であることには違いないのです.そして,英語教育だけである必要もありません.

日本語による高等教育を,より良く充実させていくための外国語教育という着想が求められるところです.



関連記事
英語教育は国をあげて取り組むことか?
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2015年7月24日金曜日

英語教育は国をあげて取り組むことか?

今日は以下の書籍をご紹介します.
施光恒 著『英語化は愚民化』
内容には隅々まで賛同します.

私も2年ほど前にこのブログで,
英語教育について
続・英語教育について
のような記事を書いておりましたので,興味深く読ませてもらいました.
私が上記の記事で直感混じりで雑に書き殴っていることを,施氏が丁寧に論じてくれているというものです.
ご一読をオススメします.

この際,私も一大学教員としてあらためて訴えたいのは,
日本人が母国語ではない言語で仕事や教育をしてしまうと,日本人や日本という国が持っている能力を最大限に発揮できなくなる.
ということです.
その理由は,施氏の著書や私の過去記事でも述べているように,日本語以外の言語教育(英語教育)に時間をとられてしまうと,他のすべき事に時間が割けなくなるからです.
そしてこれは,日本がそもそも英語を勉強しなくても日本語で仕事や勉強が完結できる環境にあるという,世界屈指のアドバンテージを捨てることを意味します.

他の国々が英語教育に時間を割いているのは,海外に職を求めなければならないほど国内が不安定であり,さらには自国の言語では教育コンテンツが乏しいからです.
特にその国の礎となる産業である,農業,工業といったものを発展させるための科学技術については,英語以外の言語でそれを学べる国というのは限られています.

日本はこれに対し明治初期において,「翻訳」という作業に勤しむことで日本語の語彙を増やし,高等教育に耐える言語にしました.
その後も,新しい言葉が輸入されれば新しい日本語を作って対応し,外国語を学ばなくとも高度な学術的活動を営めるようにしていったのです.

昨今の英語教育を推進する動きというのは,その先人たちの努力を踏みにじるものと言ってもよいでしょう.
残念ですが,おおよそ真っ当な人間の考えではありません.

私の後輩に,発展途上国に出張しながら研究をしている人がいるのですが,その人がこんなことを言っていました.
「そこでは学校や大学は全部英語なんです.日本人もあれくらいやらないと,そのうち負けてしまいます」
と.

海外の教育事情に触れてきた少なくない人が,この人と同じような感想を持つのかもしれません.
しかし,残念ながら発展途上国は英語で教育している限り発展途上国のままです.

「高い教育を受けるためには,英語が使えなければならない」
そして,
「英語による高い教育を受けていなければ,仕事の生産性を高めたり,社会的地位を高められない」
という状況は,その国の力を削ぎます.
英語が使える人と,そうでない人,という図式ができてしまい,国力が分散してしまうからです.

こうした話をすると,
「英語による教育を続けていれば,そのうちその国民全体が英語を操れるようになるわけだから,長期的には良いことではないか? 日本が目指している英語教育もそれではないか?」
という反論が出てきそうですが,これも残念ながら現実にはそうはなりません.

英語による教育を受けた人にしても,日常会話は自国の言語を使います.
関西人の家族が関東に移り住んでも,家庭内では関西弁になることと一緒です.
これは仕方がないことです.家族や友人との親密な会話や,仕事や政治に関わる重大な意思疎通では,使い慣れた言語を使うのが当然というものです.
そこでは英語はあくまで教育を受けるための媒体でしかないわけで,自国の言語を捨てるという選択をしない限り,その国全体の底上げには寄与しません.

現に,英語による教育しかできない国々では,富める者とそうでない者とに二分され,その溝は埋まりません.
富める者がそうでない者に手を差し伸べようとしても,そこには英語による知識というハードルが待ち構えています.これを突破するのは容易では無いのです.

逆に,自国の言語で高度な教育を受けることができれば,その教育された者を媒介した波及効果は大きくなるでしょう.かつての日本がそうであったように.

「英語で勉強しなければ,そのうち負けてしまいます・・・」という認識についても,それとは逆の状況があります.
海外滞在されている大学教員の方が言われていたのですが,フィリピンやシンガポール,マレーシアといった英語教育が盛んなところからの留学生と,日本人留学生とを比較すると,やっぱり日本人の方が優れているというのです(ちなみに学問分野としては複合領域です).

どういうことかと言うと,日本の学生は英語は不得手なのですが,知識や論理がしっかりしているから,とのこと.
そこはやはり基礎的な教育の質や,専門的知識についても予め日本語で勉強できているということが強く現れるようです.
どれだけ英語が使えても,中身が間違っていたら意味がありません.
逆に言えば,知識や論理がしっかりしていないと,「英語ができる」というアドバテージはそれほど働かないということです.

こうしたことを説明するにはちょっと極端な例かもしれませんが,
例えば,ある2人の学生に [ 2 × 3 + 1 = ?] という問題を出したとします.

これに対し一人は流暢な言葉で,
「2×3というのは2を3回分足し合わせるということを意味するので,2+2+2ということですから,それにさらに1が加わった場合の答えが何かを意味するのですから,そうですねぇ,この答えは8です」
と答えたとします

もう一人は片言で,
「7です」
とだけ答えたとします.

どちらが優秀で,どちらがイノベーティブで,どちらが社会貢献できる人材でしょうか.
極端な例ですが,つまりはそういうことなのです.
そして,これはかなり本質的なところで「超えられない壁」として前者である学生の前に立ちはだかってしまいます.

それ故,前者のような学生を,今後の日本でもたくさん輩出する可能性があるから「英語化は愚民化」だと施氏は断じるのです.

日本人の研究者が英語論文を読むのに苦労しないのも(ある程度苦労するでしょうけど),それは,英語論文にとりかかる以前に,日本語による専門的な勉強ができてしまえるので,専門的な単語であってもそれが何を意味するのか,この学問領域ではどういう捉え方をされているのか,といったことを勉強する下地がたくさんあるからです.

私も学生の頃には何気なくやっていたことですが,これはかなり大きなことだと思います.
そうでなければ,よほど英語に対する適正が高い人間でなければ,研究活動や学術的活動に取り組むことはできない,深い思索を巡らすことはできない,ということになります.

日本は今,国民全体が英語を使えなければ立ち行かない状態でしょうか?
現在の高い教育レベルをわざわざ下げてまで対応しなければいけないことでしょうか?

そのあたりを一瞥してみますと,「英語化は愚民化だ」という危惧は,もっと強く持たれてもおかしくないはずです.



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2015年7月19日日曜日

「面白い授業」に対する幻想と誤解

これからの教育では,授業を面白くすることが大事.
授業が魅力的になれば,生徒や学生の学ぶ姿勢が積極的になる.
授業にもエンターテイメントの要素が必要になってきた.

そんな言説を聞くことは多いものです.
特に我々のような教育関係の仕事をしていると,そういったプレッシャーをかけられることもしばしばです.
(私が今いる大学はそうでもないのですが,以前勤めていたところでは “それ” に邁進する姿勢がありました)

私も若い頃(まだ若いつもりですが,それは学生の頃とか)は,こうした,
「面白い授業」とか「魅力的な授業」とか「エンターテイメント性のある授業」というものにある種の幻想を抱いていた時もあります.
しかし,それはやはり幻想であり,多くの人が誤解しているところでもあるのです.

まあ,身も蓋もないこと言ってしまえば,その授業に興味(interest)があれば,それは面白い(interesting)な授業なのです.
面白さとは,出し手だけでなく,受け手にも左右されることです.
それだけに,「面白い授業」というものの質を問わねばなりません.

かなり以前の記事(■反・大学改革論)で指摘したことでもありますが,一般的な教育機関においては,
「エンターテイメント性の強い魅力的な面白い授業」
というのは目指すべきところではありません.
それを目指すことによって,人々が期待する教育というのは実現できなくなる.そういうものなのです.

もちろん,かく言う私も「エンターテイメント性の強い魅力的な面白い授業」を全く展開しないということではありません.
例えば,最近の大学(と教員)は,地域貢献だとか市民公開といった類のイベントで地域住民用の授業や講義を催すことがあります.こうした場面に立たされれば私も「エンターテイメント性の強い魅力的な面白い授業」をやりますよ.
というか,自分で言うのもなんですけど,こういうの結構得意なところもありまして,一般の方々が面白がってくれるであろう授業を特別に企画します.
最近では,我が恩師のように「関西チックな笑い」を混ぜることができるようになってきました.目指せ「◯◯先生」で頑張っております.

「学生は先生からこういう授業を受けているんですか? 皆が盛り上がって面白い授業なんですね」
とお褒め(?)の言葉をいただくことも有りますが,
「そんなわけねーだろ」
というところです.

学生に向けた授業では,「エンターテイメント性の強い魅力的な面白い授業」はやりません.むしろ,私の授業やゼミは「難しい,厳しい」という評価をよくもらいます.

実は,学生用の授業でも「エンターテイメント性の強い魅力的な面白い授業」の要素をまぶしてみようと思ってやった時期もあります.
たしかに楽しんでくれやすいです.やってるこっちとしても,なんと言いますか,ある種の「安心感」と「優越感」を足して2で割った感情が即時的に味わえますので.
でも,それだけなんです.
結局,こちらが伝えたいことが伝わっていない,考えてもらいたいことを考えられていない,憶えてもらわなければならないことを憶えさせられない.ということが多いのです.

この授業でどのような学術性を学ばせるのか? を最重要課題だと考えた場合(というか,それが最重要課題だろう),その課題を達成することに注力することが優先です.
その上で余裕があれば,エンターテイメント性や面白さを添加すればいいのですが,たいていの場合,これはトレードオフになることが多いです.

「それを両立させるのが教員としての努めだろう.でなければ教員の怠慢だ」
という声も聞こえてきそうですが,そういう人は学校や大学の存在意義や価値を見つめ直してもらいたいものです.
これは例えば,警察官や自衛隊員に向かって「きっちりと治安維持するだけでなく,市民にやさしく丁寧な対応をしてほしい」と言っているようなものです.
市民にやさしく丁寧な対応をすることも大事でしょう.それを否定はしません.しかし,彼らの存在意義や価値は治安維持にあります.まずはそれを優先してもらい,余裕があればやさしく丁寧な対応をすればいいだけのことです.
警察官や自衛隊員がやさしく丁寧な対応をしなかったからといって,社会が機能不全に陥ることはありません.
これは学校や大学,そこにいる教員とて同じことのはずです.

これについて,それこそ「面白い」パラドクスをお示ししましょう.
「エンターテイメント性の強い魅力的な面白い授業」を目指す大学ほど,危ない大学,ブラック大学になりやすいという傾向です.

つまり,そんな授業を推進するところは大学教育としての使命が果たせず,さらにはそうした大学であることをある種の教養を持った人種に嗅ぎつけられます.この人種とは真の意味での「大学教育」を欲する層です.そんな大学は,彼らからは見離されてしまいます.
それ故にこうした大学では大学教育としての価値を養った卒業生を輩出することはさらに困難となります.そうすることで,また危ない大学,ブラック大学としてのレッテルが貼られやすくなる.

で,そのレッテルを剥がそうとした大学は,さらに「エンターテイメント性の強い魅力的な面白い授業」を展開しようと躍起になって,一番最初に戻るわけです.
なんとも痛々しい状態ですね.

でも,この「いっそ高等教育を捨て去ろうサイクル」から抜け出せないのが,昨今の少なくない大学なのです.
多くの危なくない大学では,口では「本学は面白い授業,エンターテイメント性のある授業も展開するつもりです」などと言っていますが,その実,出来る限りそれに手を出したくないと考えているものです.それが普通です.
(極少数,本気で目指している人もいますが・・・)

このサイクルに入るきっかけとしては,例えば授業評価アンケートを重用してしまったり,学生募集に危機感を抱いてしまう,といったことです.
逆に言えば,このサイクルに入る誘惑に打ち勝った大学では,授業評価アンケートや学生募集もそんなに気にせずいられるということも意味します.

だいたい,妙な話ではありませんか.
入学競争率の高い大学,魅力的だと言われている大学ほど,そこでは授業の「面白さ」を重視していないわけですから.

どの大学に入ろうと,同じような高等教育を受けることができ,そこでの学位を保障することが本来目指されるべきはずです.
完全な平等・機会均等を達成しろとまでは言いません.しかし,目指すべきところはそこではないでしょうか.
ところが,現在の大学を取り巻く環境はそうなっていない.これこそが是正すべき状態であり,向かうべき大学改革のはずだと私は思います.

けど,相変わらず「競争主義」とそれによる「市場淘汰」を目指してること,それに対し有効な抵抗ができていないことが哀しいですね.


関連記事
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2015年7月16日木曜日

いじめ問題を解決する?

前回の記事が,
「問題解決能力」を高めることの危険性
というものでしたので,このブログでもたびたび取り上げている「いじめ問題」とからめてみたいと思います.
また最近いじめ問題がニュースになっていたということもありますので.

その前に,前回の記事を簡単にまとめますと,
「問題解決能力」がもてはやされるようになると,そこで起きている問題は解決できるはずだ,解決されなければならないと考える風潮が強くなる.
しかし,人間社会に存在する「問題」の多くは,すっきりとした解決を期待できるものではないし,そもそもそこで問題としていることは本当に「問題」なのかどうか怪しいものもある.安易に問題解決に飛びつく前に,そこで問題としていることの本質を深く掘り下げることが大事.
といったところです.
さらに言えば,解決策を講じたとしても,その解決策が原因となって新たな問題が発生したり,より困難な問題を生んだりすることもあるでしょう.

このことに注意しなければいけない事例のひとつが「いじめ問題」だと思います.

さまざまなニュースや,そこで議論されている「いじめ問題を解決する」という趣旨のものには,いくらなんでもそりゃ無茶だろうというものがあります.

それは大きく分ければ次の2つ,
「いじめの撲滅(防止)」と「いじめの加害者の厳罰(排除)」です.

前者は「いじめ防止対策推進法」という形で法律にまでなっちゃいましたし,後者はネットで口汚く議論されております.

これら2つに共通する考え方は「いじめ」という存在を学校からなくそうとしていることです.
でも,これは教育現場や不特定多数の人がいる会社・組織に勤めている人からすれば,「無理」であろうことは容易に察することができるはずです.

なぜなら「いじめ(大人社会だと「ハラスメント」と呼ばるだろう)」は無くせるようなものではないからです.
人間社会があれば,そこには必ず何かの軋轢があります.
今我々が知っているいじめやハラスメントは,その存在を無理にでも無くしたとしても,それまでとは違った形で「いじめ的なもの」「ハラスメント的なもの」が手を変え品を変えて存在し続けます.むしろ,それまでなんでもなかった事が「いじめ的なもの」「ハラスメント的なもの」として誇張されて息苦しさが増えるかもしれません.

ざっくり言うなら,「いじめ(ハラスメント)」というのは,その認識や評価が個々人によってグレー過ぎる行為や現象であり,且つ,誰もが「問題だ」と認識・評価するに至った時,既にそれは「いじめ(ハラスメント)」と呼称するものではなくなっている,というものなのです.

そうしたものを無くそうとしても,結果は見えています.
徒労感にさいなまれるのです.
その時我々は,何かの指標データを分析して眺め,「いじめが減った」,「ハラスメントが減った」という自己暗示に似た何かをかけているかもしれませんが,その代わりに別の形での「いじめ的なもの」や「ハラスメント的なもの」が学校や組織に誕生するだけです.

別に私はいじめやハラスメントを推進しているわけではありません.発生しても無視しろと言うわけでもありません.
無くせいないと言っているのです.
無くせないものを無くそうと解決策を講じても,それは解決策にならない,だけで済めばいいですが,もっと別のトラブルを引き起こす可能性があります.っていうか,既に危険信号が灯りだしているという風の便りがあります.

「だったらどうすればいいんだ!それじゃ今この時いじめられている人が可哀想だ!」
ということで,だから法律まで作ったのでしょうが,これこそが問題解決を優先してしまって実際に起きているその「問題」を掘り下げずに取り組んだ典型なのです.


じゃあどうすればいいんだ...
「いじめ問題」という枠を作って解決しようとしないこと.一言で言えばそれだと思うんですが.
詳細については以下の過去記事をどうぞ.
他には,

2015年7月11日土曜日

「問題解決能力」を高めることの危険性

微妙に.
ホントびみょ〜に時間がとれない日がひと月近く続きました.
メチャクチャ忙しかったわけではないのですが,なんとも微妙にブログ記事を書く気になれない状態でして.
そんなわけで久しぶりのブログです.ご無沙汰しております.


さて,以前にも,「最近ブームの問題解決型の学習には “問題” がある」という趣旨のものを何度か書いたことがあります.
面倒なので探しませんでしたが,きっとどっかにあると思います.

今日のテーマはその「問題解決型の学習に潜む危険性」です.
結論を先に言いますと,
昨今注目されている「問題解決能力」を過度に重要視したり,それを高めようとする「問題解決型学習」を礼賛する風潮がはびこると,本当の意味で問題解決できない人材が大量発生する可能性がある
ということです.

問題解決型の学習というのは,最近(実はかなり前から)注目を集めている授業方法の一つで,生徒・学生が自ら問題意識を持つことによって,その問題について能動的に解決しようと取り組むプロセスに学習効果を期待しようとするものです.

問題解決型〜〜と言われるくらいですから,問題解決能力を高めることが期待されており,まさにこの「問題解決能力」を要求することがブームになった社会(日本社会や企業)の要望とも合致するので,なおさらその効果が期待されているのが現状です.

それを解説したウェブサイトは,例えば,
問題解決学習(←Wikipedia)
http://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/pdf/pisa2012_result_ps.pdf(←文部科学省PDF)
などです.詳細はそちらをどうぞ.

問題解決型の学習によって得られる学習効果としては,
(1)問題を発見する力が身につく
(2)問題を解決するための力が身につく
(3)問題が解決できたかどうか評価する力が身につく
というものが挙げられます.
日常生活,もっと言うなら人生そのものが常に「問題」を解決しようとすることの連続だとも言えますから,ただ単に知識を詰め込むだけの学習よりも実践的で重要な学習だとされています.

すごい!最強の学習法じゃないか!と思われる方もいるかもしれませんが,もちろんデメリットも指摘されており,例えば,
(1)学習に要する時間が膨大
(2)適切な環境設定ができなければ質の低い学習になる
(3)系統的な知識,つまり正しい知識を学ぶ量が少なくなる
といったものです.
それ故,「問題解決型の学習だけで全ての学習効果を期待できるわけではないので,さまざまな学習方法を適切に組み合わせることで,その長所や特徴を活かしましょう」というステレオタイプな留意点をたくさん見ることになります.

それでも,昨今のブームである「問題解決能力」を高めることができるとされるこの学習方法は,「PBL」などと呼称されながら自己啓発セミナー的な何かや,大学におけるキャリア支援的な何かにおいても注目を浴びております.

もっと言うと,卒業論文や学位論文の指導というのは,まさにこの問題解決型学習です.
私自身,方法論はさまざまあれど問題解決型学習は支持しております.

しかしその一方で,問題解決型の学習に偏った教育思想が浸透することの危険性も懸念していまして.
というよりも,「問題解決能力を高めることが大事」という思想・発想の問題点です.

ではそれは何かということですが,問題解決能力の高い人を礼賛する風潮が強くなるということはつまり,問題を目の前にした時,それを解決する方向に導く人を賞賛する風潮がより強くなることを意味します.
当たり前のように思えますが,それが結構やっかいな問題だと思うんです.
なぜならそれは,端的に言うと,
問題は解決されなければならない
という着想に至りやすくなるからです.
そしてそれは,
私が「問題」と認識したものは解決されるべきなんだ
という発想へと向かいやすくなるでしょう.
「いやだから,なんでそれが問題なんだ?」というところかもしれませんが,考えてもみてください.世の中にある「問題」というのは,その全てが解決できるものでもありませんし,そもそもそこで「問題」としたものが本当に問題なのかどうか怪しいものだって多いのです.

ところが,問題解決型の学習というのは問題「解決」型ですから,我々が問題だと認識したものは解決しようとする方向に向かわせる力が働いています.

「いやいや,それは問題解決型学習を正しく運用しなかった場合のことだ」という反論もあるのでしょうが,ここで懸念しているのはこの学習法の方法論ではなく,
「問題を前にしたら,それを解決することが善だとする風潮を強くする」
ということです.

問題解決能力の高さに注目が向くようになると,「問題」それ自体を深く掘り下げようという思惟がなくなります.
問題解決能力が注目を浴びる昨今,その典型だったのが大阪都構想での二重行政問題です.

「二重行政」という問題を前にした時,まさにそれを「解決しなければいけない」と認識してしまう人がたくさんいました.
なぜ問題なのかと問われれば,「それが問題だと言われているから」とか「二重のものは解消したほうが良いから」とか,そんなのです.
ですが,「二重行政」というのは解決すべき問題ではありません.そもそも,どんな行政も二重三重になっているものなのですから,二重行政そのものに問題があるわけないのですし,解決したり悪化するような存在ではないのです.
皆が最も気にしていたのは「コストカット」の手段として二重行政をなくすことが適切かどうかという点でしたが,結局,「二重行政」をなくすことではコストカットできないことが判明しています.

つまり,二重行政そのものには「問題」が無いということが流布されるようになるわけですが,「二重行政という問題がある」という問題意識からスタートしている人々は,その問題を解決したという状態が提示されるまで不満は無くなりません.
「問題は解決されなければならない」という思考パターンに入ってしまっているからです.

それが証拠に,二重行政には問題がないという話が広まりはじめてしばらくすると,「だったら対案を出せ!」などと意味不明なことを言って噛み付き始めました.
まさにこれは「問題を解決するために行動する」ことが至上の選択だという認識からくるものでしょう.

もう既に問題が存在していないのに,むしろ,より悪質な問題を抱えた解決策に取り組もうとしているのに,とにかく「解決に向けた行動をとる」ことを良しとしてしまう.
それが問題解決能力を礼賛する風潮の恐ろしいところだと思います.

話がちょっと長くなりましたが,上述したように,私は問題解決型の学習を否定するつもりはありません.
OECDがやっている学習到達度調査:PISAの「問題解決能力」のテスト問題にあるような,即時的で個人の中で収まるような問題(例えば:最も効率的な公共交通機関の利用法を見つけ出す等)への対処といったものであれば,こうした能力を高める教育に憂慮する必要もありません.

しかし,この世で「問題」とされているものは,なにも効率的な公共交通機関の利用法や,説明書がないエアコンを適切に操作する手段を導き出す(←いずれもPISAのテスト例),といったものばかりではありません.
人生観や人間関係,会社での商品開発や行政機関の運営,政治経済といった複雑な「問題」もあるのです.

そこで「問題」とされているものは本当に問題たりうるものなのか?
特に児童や大学生においては,難しくともこの点を深く掘り下げる問題解決型の学習が強く求められます.
そうでなければ,本当の意味で問題を解決できる人間にはなれないように思うのです.


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