2015年8月23日日曜日

こんな大学の教員は危ない part 2

part 1に続き,part 2です.

タイトルですが,「こういう大学に所属している教員は・・」という意味ではありません.
「大学教員」そのものを指しています.
なので,『こんな大学教員は危ない』というのにしとけば良かったと思っています.
が,今さら変えるのも何なんで,そのままにしておきます.

では早速.

(1)タコ焼きやクレープを焼くのが好き
家で焼くだけなら料理好きな教員ということで済まされるのですが,危ない教員は自分の研究室や大学の調理室を借りてゼミ中によく焼きます.
まぁ,ようするにゼミ活動の少なくない時間が,タコ焼きやクレープを食べる「懇親会」になっているのです.
「そんなバカな.ゼミでタコ焼きとかクレープを焼くなんて・・」と思われる人もいるかもしれませんが,これは結構な確率でお目にすることができる大学名物です.

もちろん,年に1,2回なら在り得ない話ではありません.節目節目にゼミでパーティーを催すのはよく耳にします.
もしくは,ゼミの活動以外で.例えば,調査活動や実験が一段落したからってんで「今日はパーッとやるか!」ってことで企画されることもあるでしょう.

ですが,危ない教員はなんの脈略もなく通常営業中にタコ焼きやクレープを焼こうとします.

理由は,学生の機嫌をとりたいからです.
学生の機嫌を損ねたくないだけなら「自信の無い教員」で済まされるのですが,危ない教員は「学生から好かれることが大事」と思っているから危ないのです.

厄介なのは,そういうゼミでは少なくない学生が「◯◯先生のゼミはパーティーが多くて楽しかった」という感想を持って卒業していくことがままあることです.

でも誤解してほしくないのは,ゼミ・パーティーがたくさんあったとしても,ちゃんと学術活動をやっている教員はいます.ですがこれは,ゼミ活動そのものをタコ焼きクレープに充てていたのではなくて,あくまで息抜きとしてのタコ焼きクレープです.
むしろ,息抜きをたくさんしたくなるほどハードな活動であったり,院生や研究生とのつながりが濃ゆいゼミだったりします.

ここで問題視しているのはあくまで,通常営業中のことです.


(2)「納得できる授業」をやろうとする
ちょっと話が難しいかもしれませんが,「納得できる授業」を受けるのは危ないです.
詳細は本文末の関連記事を御覧ください.

大学の授業は納得するためのものではありません.物事を正しく捉えるための考え方を身につけるためにあります.納得できたかどうかと,物事の正否は別です.

その授業を受けて「その事」について納得してしまうということは,それによって「その事」について考えることをやめることを意味します.
なのに学生から好かれたいという一心で「納得できる授業」という不思議なものを目指す教員がいます.そんな教員はダークサイドに堕ちた危ない教員と言えます.

彼らはパワーポイントや配布資料の「デザイン」に凝っていたりします.
解像度の高いインパクトある写真や,奇抜なコピーライトを好んで使用しますので,比較的容易に見つけ出すことができます.


(3)コストパフォーマンスを重視する
そんな概念を持ちだしてきて教育をやられたらたまったものではありません.


(4)「これからの大学は」という話が好き
これからの大学はグローバル,これからの大学は企業の要望とのマッチング,これからの大学は新しい顧客を創造する,などとテーマを用意して好き放題に話したがります.

とてもじゃないですが,一個人が「これからの大学」について論じられるとは考えられません.が,それをやろうとする身の程知らずな教員がいます.
案の定,「これからの大学は・・」というその実,自分が定年を迎えるまでの限られた時間内において,自分にとって都合のいい状況を作り出そうという魂胆からの発言でしかなかったりします.

もしかすると企業や役所などでもそうなのかもしれませんが,こういう手合には意外と御高齢な方々が多いもので.
定年の見えてきた自分たちが,この組織に対し何かをやったという満足感を得るために発言したり取り組んでいるように思えてなりません.迷惑な話です.


関連記事
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大学について
大学について2
反・大学改革論
反・大学改革論2(学生からの評価アンケート)
反・大学改革論3(学生はお客様じゃない)
反・大学改革論4(喜んでる教員)
こんな挙動の教員がいる大学は危ない
危ない大学に奉職してしまったとき「厄介な教員対策」

2015年8月15日土曜日

中立的な政治教育について

18歳からの選挙投票が始まること受けて,教育現場における「政治」が話題となっています.
特に学校現場における政治的中立や教員や生徒による政治的活動の制限についての意見が目立っているでしょうか.

たしかに,正しいとされるものを「教える場」であることを要求される学校においては,生徒をできるだけ政治的中立な環境に置くことが望まれ,その彼ら自身も政治的活動に勤しむことは控えるべきでしょう.
とは言え,どのような発言や観点であれ,なにかしらの政治的イデオロギーから影響を受けたものですので,一概に「中立」とか「これは政治的だ」と判別することは困難です.

ところで私たちが勤めている大学ではどうかといえば,はっきり言って政治的なものを中立に見たり扱ったり,その政治的活動を制限するということは事実上不可能に近いです.

なぜなら,学術的に物事を考えていくと,必ず物事を抽象化するようになるからです.どのような領域であれ,「世界はこのような法則性で成り立っている」という視座を使って考えることになりますから,それをどこからどこまでの領域に当てはめるのかを決めることは極めて難しい話です.

一見政治とは無関係な学問領域の分かりやすい例として,スポーツにおけるコーチング学を考えてみましょう.
そこでは,選手の能力をより多く引き出すためにはどうすれば良いか? より効率よく強化するためにはどうすれば良いか? といった着眼点から議論されますが,突き詰めていけばそれは「人はどのように扱われたら能力を発揮するか」とか,「どのようなアプローチが効率よく人の能力を高めるか」といった抽象的な話にまで及ぶことになります.
つまり,「人(選手)や集団(チーム)はどのように扱われるべきか」という議論になっていくのですから,こうした論議は政治的な話にも容易に読み替えられることが分かるかと思います.
「いやいや,スポーツの研究はスポーツだけに言えることであって,政治には適用されないよ」と思われるかもしれませんが,スポーツと政治の線引というのは曖昧なものです.
もっと言えば,政治とは形を変えたスポーツ活動であるとも捉えられるわけで,これについては過去記事でまとめたこともありますので興味のある方はこちらをどうぞ.
人間はスポーツする存在である

そのようなわけで,これはスポーツ科学に限らず,社会学や経済学はもちろんのこと,生物学や工学,医学,文学といった領域での学問であっても,それを深めていけば必ず,政治的な論議(正しくは「いかなる領域の論議」)も可能なテーマが発生します
これは学術活動をやっていれば仕方がないことですし,それが学術活動の価値でもあります.

例えば生物学や生命科学の世界では「いつの日か生物は機械のように人の手で作成し,操ることができるようになる」という考え方を持って研究を進めている人がいます.
同様に,「いつの日か人間は・・・」とか,「いつの日かスポーツ選手は・・・」という考え方で研究に取り組む人は多ですし,逆に「いつの日か機械は生物のようになる」と考えながら取り組んでいる分野の人もいるでしょう.
こうした考え方,つまり「自然界のものはいつの日か我々人の手で操作できるようになるはずだ」という思想・哲学によって,少なくない分野の研究は進んでいるのです.

さて,「いつの日か人の手で操作できるはずだ」と考える思想・哲学を社会学や経済学に当てはめたのが,今となっては評判の悪いマルクス経済学です.当時は画期的な業績だということで持て囃されたのですが,現在は悪魔の書のような扱いを受けています.
なぜ評判が悪いのかと言えば,それは「結局,社会や経済は人の手で操作することなどできない.操作できると思い上がって取り組んだ結果,地獄を見たじゃないか」という反省があるからです.

ちょっと脱線が過ぎるので話を元に戻しますと,上記のような理由があるので大学などの高等教育機関では中立的な政治の話をすることはできません.
え? 結局何が言いたいのか分からなかった? たしかにそうかもしれません.

つまり,どのような学問領域であっても中立な政治の見方をすることはできないのです.
一見,政治とは無関係に思う学問領域であっても,その取り組み方には多分に政治的な色や匂いが染み付いています.
そこには各教員や研究者の思想・哲学が入っているのですから,政治的な話題についてもその思想・哲学で向き合うことになってしまいます.

もともと中立的な見方はできないのですから・・,ということでどこまでも偏ればいいのかと言われればそうではありません.
私たち大学教員が学生に身につけてほしいことは,「モノの考え方」です.
それは,目の前にしたモノを正しく捉え,適切に判断する力です.

そこには絶対的に正しい考え方や答えがあるわけではありません.
逆に言えば,いろいろな捉え方や判断があっていいのですが,その捉え方や判断に一定の質が求められます.それだけのことです.
このように口にするのは簡単ですが,このことを本当の意味で理解するのは案外難しいものでして.
例えば大学の授業でも,ちょっと高度なレポートでこの「質」を求めてしまうとかなり厳しい点数になることが多いですね.学生としては,一般的によく言われていることや図書館で調べてきたことをそのまま書いたのに,なぜ点数が低いんだ? と首を捻る場合がこれです.

テレビや新聞で常識的に語られていることであっても,学術的に捉えると大間違いというものは山ほどあります.
だけでなく,その捉え方も研究者によってマチマチというものもあったりしますし.
こういうことを言うと,「それは象牙の塔だけで通じる常識で,実社会では通用しない机上の論理だったりするんだろ」などと皮肉られるかもしれませんが,そのようなものは実際のところ多くありません.
単に,一般の人々の予備知識と思考方法ではついてこれない議論だからテレビや新聞では取り上げないというものです.逆に言えば,予備知識と思考方法が身につけば誰でも議論できることではあるのですが.

そこで重要になってくるのは,「なぜそう考えるに至ったか」という「手順」です.
この手順に信頼性や論理性があるか,その質を評価することになります.
そして,その手順の質が認められる水準にあるのであれば,たとえ自分の思想・哲学と合わないとしても,その考え方をまずは承諾する態度を涵養しているのが大学という教育機関だと私は考えています.

もちろん,その考え方を承諾したからといって即採用を意味するわけではありません.
どうしても納得できないなければ,その考え方を批判するための考え方を再度練ればいいのです.ただし,その批判も質の高い手順に沿う必要はありますが.
そうやって大学の研究も進んでいるのですし.

ダラダラ書いてきましたが,今日の記事で言いたかったのは以下のことです.
「政治的に中立な教育をするべき」ということを良く耳にしますが,私にはこれが胡散臭くて仕方ありません.
政治的に中立的な・・,と言うその実,自分自身の政治に対する考え方にとって都合の良いものを普及させ,都合が悪いものを排除しようという静的な教育観があるのではないか,そう疑っています.

日◯組と呼ばれる組織や,保◯派と呼ばれる人々が教育を語るときが典型です.
そこには,
その考え方に至った手順の質が一定水準にあるのであれば,たとえ自分の思想・哲学と合わないとしても,その考え方を承諾しようとする態度
が不足している,そう思うのです.

さらに言うなら,最近の教育議論に見られるのは,そうした態度を涵養する教育ではなく,何か前もって「正しい」とされているコンテンツを生徒や学生に受け入れさせようとする姿勢が強すぎやしないか,という点です.
もちろん学校教育においては,それも大事な観点だという認識は私にもあります.
しかし,より良い社会を築く国民を育てようとするのであれば,上述したような態度を養う方向性を持った教育が施される必要があるのではないでしょうか.

※その細かい話は以下の関連記事を読んでください.

関連記事
これが身につけば大学卒業
「問題解決能力」を高めることの危険性
学校教育対談

2015年8月9日日曜日

集団的自衛権を巡る議論において賛成派に不足している認識

前回に続き,政治の話題です.
今回は「集団的自衛権」について.

このブログでは大学教育において学んでほしいこととして
これが身につけば大学卒業
「問題解決能力」を高めることの危険性
という記事を書いたこともあります.
そういうところからすると,昨今話題となっている集団的自衛権に関する議論の成され方についても疑問を呈しておかなければなりません.

その疑問とは,
「新しいものは批判的に捉え,その批判に耐える知見を拾い出す態度」
そして,
「問題それ自体を深く掘り下げようという態度」
が不足しているのではないか,ということです.

上記の過去記事では「大阪都構想」を巡る議論を例に挙げて話してみましたが,それは今回の集団的自衛権の議論でも同じように見えます.
今回の集団的自衛権論議というのは,国の安全保障に関わることですので,さらに慎重,且つ,十分な考慮が必要となります.しかし,今回もかなり杜撰なものではないかと思わざるを得ません.

先に立場を明確にするため申し述べておきますと,私は今回の法律の中に集団的自衛権の行使容認を盛り込むことに限っては反対です.

なにも今回の安保関連法案の全てが悪い,反対だと言っているわけではありません.
提出された法案はさまざまな安全保障上の改正や新設がされており,たしかに日本の安全保障に貢献するものも入っているのですが,「集団的自衛権の行使容認」については別です.

違憲の可能性が強く,その必要性が弱い集団的自衛権の行使容認を盛り込まなくても,日本の安全保障の強化はできると考えております.

ところでその法案とはどういうものかというと,
平和安全法制等の整備について(内閣府)
にありますので,詳しくはそちらをどうぞ.

いろいろと書き出してみたらキリがなかったので,焦点を絞って今回の議論における問題点を挙げてみます.

それを端的に言えば,上述したように「現在の日本では集団的自衛権を行使する必要性が弱い」ということです.
もっと言うなら,現在の日本において集団的自衛権を行使できる状態にすることは,むしろ国益を損なうのではないかという懸念があります.

集団的自衛権が必要であるとされる事態として,内閣府が挙げているのは「存立危機事態」というものです.
この存立危機事態はどんな事態なのかというと,
我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
というものですが.

そんな状況,どこにあるのでしょうか.冷静にじっくりと考えてください.
実はありそうで無いのです.

これについてよく目にする事例は,既に何かしらの「存立危機事態」に突入しており,その上で集団的自衛権を行使するための事例だったりします.安部首相が記者会見で説明していた奴がこれです.

可能性のある具体例として挙がるのが,アメリカに対する武力攻撃ですが,これでは日本が集団的自衛権を行使するという事態になり得ません.
なぜなら,我が国の存立が脅かされるほどのアメリカに向けた武力攻撃があったとしたら,それは自動的に日本国内を防衛するための行動をとらなければいけない状態にあるからです.
なぜって,アメリカ軍が駐屯する基地が日本国内にたくさんあるからです.そんな状況において日本は「日本国内のアメリカ基地に向けた攻撃があることに対処する」ため,必然として個別的自衛権を行使する状況になるのであり,アメリカとの共同戦線を張っているはずだからです.
つまり,アメリカと安保を結んでおり,且つ,アメリカ軍の基地が国内にあることをもって,日本が集団的自衛権を行使する状況は存在しないことになります.

次によく聞くのが「(ホルムズ海峡や台湾海峡等の)シーレーンの確保のために必要だ」というものですが,これも集団的自衛権を云々することとは無関係です.
日本のシーレーンが確保できなくなったのであれば,それはすなわち日本の個別的自衛権を発動する事態です.集団的自衛権ではありません.

例えば日本のシーレーンが脅かされたとして,そんな時アメリカがそこに介入して機雷敷設を含む武力攻撃を受けてしまったため,それについてアメリカがSOSを出してきたので日本の集団的自衛権を行使しようかという事態になったとしましょう.

さて,そんな事態で日本は自衛隊を派遣なんかするでしょうか?
日本の世論感覚であれば,「ふざけるな.アメリカが勝手に火に油を注いで炎上しただけだろ.もっと穏便に事を進めれたはずだから今回は自衛隊は派遣しない.アメリカの尻拭いなんかしない!」という反応になると予想されます.
そうは言っても次に来るのがアメリカからのこんな要求です.「とは言え,事態が次のステージに移ったのだから仕方ない.お前のところのシーレーンでもあるのだから,一緒に対処しようゼ!」って.

これについてどんな返答をするかで日本の肝っ玉がわかると思いますが,いずれにしてもこの状況では日本は集団的自衛権を行使しません.あくまで「日本のシーレーンを確保するために」個別的自衛権を行使することになります.
「いやいや,そういう状況では各国とも助け合って対処するのだから,集団的自衛権が・・」という突っ込みもありそうですが,個別的自衛権を掲げて事態対処をしている時点で,集団的自衛権もクソもないのです.

おそらくこの手の話題というのは,共同戦線におけるルールや集団安全保障の議論と混同しているのではないかと思います.これについてはよく目にする勘違いですので,wikiとかググってもらえれば詳しい記事やサイトがあります.

そもそも内閣府が出してきた定義は矛盾以外の何物でもないのです.我が国の存立が脅かされる事態になっているのですから,それは集団的自衛権ではなく個別的自衛権を行使してしまえばいいわけですから.
アメリカ本土だけ集中的に攻撃されるけど,日本国内は安全だという状況を想定することは非常に困難ではないですか?

これについては,やや左翼的な邪推になってしまいますが,「集団的自衛権」それ自体を法律として盛り込みたいという願望が強過ぎて,個別的自衛権の行使の範疇にあるものを集団的自衛権として行使できるものとしてしまった.だからこんな矛盾した定義になってしまったのではないかと.
もしそうであれば,「集団的自衛権を実際に行使することが前提で法律を作ったんだろ」と言われても仕方ありません.

「おい,そりゃそうだろ.集団的自衛権を行使したいから今回の法律を作ったに決まってるじゃないか! 集団的自衛権は持って然るべき権利だ!」と言われるかもしれませんが.
となるとやはりここで,先ほど確認した大きな疑問点が浮き彫りになるのです.
日本は集団的自衛権が行使できる状態ではないのに,なぜそれを行使できる法律を作っているのか? ということです.

そこから導かれるのは以下のような想定「だけ」と言わざるを得ません.
それは,「集団的自衛権の名のもとに,自衛隊が武力行使する状況を作りたいから」です.
それ以外の状況は在り得ないでしょう.

繰り返しますが,日本は自らの意志で,
「カクカクシカジカの理由により,我が国は集団的自衛権を行使する」
という主体的判断をする状況はそもそも存在しないのですから,可能性としてあるのは,
「カクカクシカジカの理由により,我が国は集団的自衛権ということにして武力行使する」
という場合だけなのです.

だとすれば,我が国が集団的自衛権という権利を「使えるんだぞぉ」と振りかざしたところで,何の意味もないどころか害悪を生む可能性があるとしか思えません.
もっと言うなら,害悪を生む可能性しか付加されないのです.

抽象的な結論を先に述べれば,
現在の日本は集団的自衛権を行使したりしなかったりといった主体的判断ができる国ではない
のです.だから私は反対の立場をとっています.

そんな国が集団的自衛権を行使容認するような憲法解釈をし,法律を作ったらどうなるか.
「我が国と密接な関係にある他国」に振り回される “しかない” のは当然の帰結でしょう.
だってその逆はないのですから.

もちろん建前上は主体的判断をすることになるのでしょうが,その判断や決断は,
現在:集団的自衛権を行使できない or 個別的自衛権を行使する
というものから,
今後:集団的自衛権を行使する or 個別的自衛権を行使する
というものに変わることを意味します.

これは逆立ちしたって現在の方が自衛隊を日本の都合に合わせて運用できることが分かるはずです.

勘違いしてほしくないのは,冒頭でも述べましたように,安全保障の強化は進めていくべきと考えています.むしろ今回の安保関連法案にしたって,自衛隊の行動にもっと自由と権限を与えたほうが良いと思います.

私にも何名か自衛隊の友人がおりますので尚更そう思うのですが,彼らが働きやすい場,納得して働ける場を用意しなければいけない.それが国民に求められる安全保障を議論するための姿勢ではないでしょうか.
逆に現在のそれは,まるで自衛隊員を将棋やチェスの駒のように見做し,国際関係における取引材料のように語っているようで不愉快とも言えます.

ついでに言うと,現政権とそのトップにいる人物の言動はとにかく信用できません.
口では「戦後レジームの脱却」などとのたまわっていますが,やることなすこと「戦後レジームの完成」を目指しているとしか思えないからです.
だいぶ昔の記事■英語教育についてとかでも触れていますが,いよいよ直視できないほど痛々しくなってきました.この人達,実は「我が国と密接な関係にある他国」の工作員ではないかと.

ところで,日本は永遠に集団的自衛権を行使してはならないと言いたいわけでもありません.
例えば遠い将来,「我が国と密接な関係にある他国」の軍事的優位性が低下して,日本が主体的な国防を演じなければいけなくなった時には,それまでのことが無かったかのように「集団的自衛権を行使するか否かは我々が決めるのであって・・・」とドヤ顔で語れてればいいのです.

そのために今できることは,様々な事態に個別的自衛権として対処できるよう自衛隊を増強しておくことでしょう.
場合によっては核武装も考えておくべきでは,ということで意外とタカ派な私ですので,どっかのシー◯ズなどとは一緒にはしないでください.

集団的自衛権の行使容認に賛成している人にも勇ましい意見を言う方々が多いとは思いますので,自衛隊の更なる強化について共に訴えていこうではありませんか.
・・・と思っているのですが,
安倍首相は、集団的自衛権の限定的行使などに向け、「現時点では、自衛隊
の態勢や防衛費の見直しを行う必要はない。現行の防衛大綱や中期防衛力整備
計画を見直すことは考えていない」と述べ、即座に自衛隊の態勢を強化する考
えはないことを明らかにした。(読売新聞2014.7.15)
そんなわけで,やることなすこと「戦後レジームの完成」のために徹底しているのです.

2015年8月6日木曜日

大学における国旗国歌

この季節,「国家」とか「人間」だとか「世界」といったキーワードで政治的な話が展開されることが多いものです.
なので私のブログでも,こうしたことを意識的に何本か取り上げてみようと思います.

今回は「文部科学大臣が国立大学の式典で国旗国歌を取り入れる要請」の件です.

「国立大学は国立の大学なんだから,その式典では国旗掲揚,国歌斉唱くらいしましょうよ」
今年の4月にそんな話が持ち上がって,その後,6月16日に全国の国立大学の学長が集まる会議(国立大学法人学長・大学共同利用機関法人機構長等会議)で,実際に大臣の口からそのような要請があったそうです.

だいぶ昔の話題なのですが,大学とは何を目指した教育機関なのか,国旗国歌に関する教育といった事について私なりの見解を述べようと思います.

事の発端とされているのはコレ↓
首相「新教育基本法にのっとり実施されるべきではないか」国立大の国旗掲揚や国歌斉唱(産経新聞webニュース)
改正教育基本法では「国を愛する態度」を養うことなどが教育目標に掲げられている。次世代の党の松沢成文幹事長に対する答弁。
ということですが,教育基本法のどこをどう読めば「大学では国旗掲揚,国歌斉唱がされるべき」と読めるのか,ちょっと私には分かりません.
ちなみに教育基本法はこちら→教育基本法(平成18年改正)
この問題のことを考えてみたい人はそれを御一読ください.

さて,先ほどのニュース記事に戻りますと,
松沢氏は「国歌斉唱に至ってはほとんどの国立大学が実施していない。税金で賄われている以上、国旗掲揚や国歌斉唱は当たり前だ」と迫った。
ということだそうです.
この次世代の党の松沢氏に限らず,「税金で賄われているから国旗掲揚,国歌斉唱が当たり前」という理屈をこねる人は多いものです.
中には,「日本の大学であれば国旗掲揚,国歌斉唱は当たり前.国立大学に限らず,私立大学も取り組むべき.私立大学も税金が入ってるだろ」
という主張をされる人もいます.

これについては,「大学の自主性,自律性が守られるべきだ」という反論が多いですね.こうした政府からの要請というのは,大学に対する「圧力」になるのではないかという懸念があるからです.

「国旗国歌の要請が圧力なんかになるわけないだろ!」という突っ込みもあるのですけど,これについては文部科学大臣の記者会見での答弁が参考になると私は思っています.
以下は,文部科学省HP内にある記者会見録からの引用です.
記者)16日は大臣から口頭で、そういう御要請をされたのですか。
大臣)そうですね。それだけを申し上げるわけではないですけれども、今国立大学に関係する大学改革は、いろいろなスピード感で進んでおります。もちろん各国立大学もそれぞれの時代の変化の対応に危機意識を持って、いろいろな大学改革、学部改革を進めていることもたくさんありますが、そういう意味で、是非大学の先生方にも改めて、これからの時代がどうなるかということを共通認識を持つ中で、各大学がそれぞれ生き残りのために、どんな創意工夫が必要なのかということを、トータル的に文部科学省として考えていることについて、私の方からも説明をしていきます。それを実際に取捨選択なり、取り入れるかどうかは、それぞれの大学の判断でありますが、今の置かれている状況、それから文部科学省の考えている政策等について、説明をしていく予定であります。
いろいろ言っていますが,これってつまりは「圧力」ですよね.
「どこが?」って言われましても,そんなことダイレクトに発言するものじゃないのでそこは行間を読んでもらいたいのですが,特に濃度が高いのは以下の辺りです.
「これからの時代がどうなるかということを共通認識を持つ中で、各大学がそれぞれ生き残りのために、どんな創意工夫が必要なのかということを、トータル的に文部科学省として考えていることについて、私の方からも説明をしていきます」

上記を私なりに解釈すれば,
「生き残りをかけた競争をしてもらう時代になるので,生き残りたい大学は我々文部科学省の寵愛を受けられるようにしとけよ」
ということです.

スーパーグローバル大学にしてもそうなのですが,とにかく「私たちが思いついた教育方針を全国一律でやってもらえないのであれば,君らのところにはお金は出さないよ」という態度で大学教育を進めたい,そんな思惑が透けて見えるのです.

つまり,表向きは大学の自主自律を謳いながら,結局は世論が望む「大学」へと改革させることで,世論・大衆の支持を得たいということなのです.

大学は世論や大衆の支持を得て教育をしてはいけません.

逆に,大衆を一人の自律した教養人へと教育することが大学の使命だからです.
大衆からの支持を得る大学など,それはもはや大学ではない,そう言ってもいいでしょう.
それ故,大学には教育研究の「自主性」「自律性」が守られているのです.
決して,「自主的,自律的にやったほうが研究成果を上げやすい」とか「ユニークな卒業生を育てるには自主的,自律的な教育のほうがいい」などいう,損得勘定を元にした軽薄な理由ではないのです.

そういう大学教育の根幹に関わることが分かっている政治家であれば,どれだけ大衆から「もっと大学を改革してくれ!」という要望があろうと,それが票になろうと,倫理の観点から手を付けないはずです.
ところが,冒頭のニュース記事にあるように,いとも簡単にホイホイ取り組んでしまう.自分たちが何を言っているのか分からないか,それが正しいと信じているか.いずれにせよ世も末です.

実のところ教育基本法にのっとっていないのは,あなた達の方ではないか?
っていうか,教育基本法を読んだことあるのか? と,そういうことなのです.

こういう意見に納得してもらったとしても,今回の件については以下のような反論もあるでしょう.
「だからって,それは大学への国旗国歌の要請がダメだということとは別だ」「日本の大学なのだから,国旗国歌は当たり前ではないか」というものです.

私個人としては国旗掲揚,国歌斉唱に取り組むことに抵抗はありません.どちらかと言えば私は保守主義者的な側面があるようですので.
しかし,こと大学においては「日本の大学だから」「税金を使っているのだから」という理由をつけて大学に国旗国歌を要請することには抵抗します.
それこそ各大学の判断に任せればいいのです.

もっとも,これについては文部科学大臣も「そのつもり」というコメントが出ていますが,だったら最初から国旗国歌の要請などしなければいいのです.

「日本の大学なのだから,日本の国旗国歌を」という想いも分からんではありません.
私も過去記事では「日本の大学は,日本独自の学術性を紡ぐことを目指すべきだ」という事を何度も書いています.
ですが,日本の大学であることと,日本の国旗を掲揚し,国歌を斉唱させることとは別です.一緒である理由がありません.

学校において児童生徒に国旗掲揚,国歌斉唱をさせるための理屈は通ります.
日本人としての基礎知識,一般的行事としての振る舞い方,そして国際社会において「国旗国歌」がどのように扱われているのかを教えるためです.
ですが,大学はそういう場所ではありませんし,そういう場所になってはいけないとも思います.

ちょっと極端な話をしてみましょう.誤解無きよう,以下を冷静に読んでください.
一般的な大学における教育研究というのは,あらかじめ教えるべき内容が用意されていて,それを忠実に学習するといった場所ではありません.
さまざまな事柄について,その捉え方や考え方がまるで正反対である教員や研究者が集い,そこで学術的なモノの考え方と議論の方法を学習し,最終的には自律して学び続ける教養人になってもらうことを目指しています.

それ故,国旗国歌に関しても,教員や研究者によってその捉え方や考え方はいろいろあるわけです.
端的に言えば,現在の国旗国歌に異を唱えていたり,国旗掲揚や国歌斉唱をすることが日本にとって正しい行いとは考えていない教員や研究者が存在することが前提になっているのです.

こういうことを言うと,「そんなことだから国旗国歌を蔑む奴が多くなるんだ」とか「大学教員には左翼が多いんだろ」とか,果ては「国旗国歌は理屈抜きに大事なんだ」と熱り立ってしまう人もいるでしょう.
ですが,大学は「理屈」を考えるところです.その国の一般常識や方針を学ばせるところではありません.
さまざまなテーマについて学術的なルールや手順で議論させ,より良い理屈を探し続ける場所です.

そのようなわけで,国旗国歌の在り方にネガティブな考えを持つ教員や研究者もいて,そういう教育研究も許されてはいるのですが(その存在自体が気に入らないという人もいるでしょうけど).
しかし今のところは国旗国歌にポジティブな考えを持っている教員や研究者の意見の方が理屈として強いので,その結果,“現在の日本国民の国旗国歌に対する考え方” が形成されているというところでしょう.

さらに極端な話をすれば,今の日本や世界においては「国旗国歌」はこのような扱いを受けていますが,あと100年200年後には,現在はマイノリティである研究者の意見を参考にするような時代が来るかもしれないのです.
その時には日本独自の「国旗国歌」に関する学術的理論として注目されるのかもしれません.

最後に・・・,
これも誤解無きよう読んでほしいのですが,そもそも,教育現場で国旗国歌に触れる機会を増やす理由の一つが「愛国心を育てる」という事に疑問があります.

国旗国歌に理解があることと,愛国心があることとは別ですよね.
これって余りに当たり前な理屈だと思うのですが,それこそ「理屈」抜きに国旗国歌が大事だと訴える人の耳には入ってくれないようです.
それでもこの「国旗国歌への理解を深めれば,愛国心が育つ」という奇妙奇天烈な主張は一定の支持を得ているようです.不思議ですね.

例えば私の場合,君が代を歌うことなどほとんどありませんし,日の丸を掲げることなど皆無ですが,日本には強い愛着があります.私の今の仕事にしても,日本のためになるよう配慮したいと思っています.
むしろ,街中を日の丸を掲げて練り歩いている人や,なんでもない時に君が代を大声で歌っている人を見ると寒気がします.あれは本当に「愛国心」なのか? と疑問に思うものです.

日本人なのですから,自分の国の国旗国歌を知っておくことは大事です.
ですがこれは,何かにつけて「歌え」「掲げろ」と指示を出すようなものではないと思うのです.

そんなわけで,今回の「大学における国旗国歌」に対する私の違和感というのは,
1)国を思うことと国旗国歌には関連性が無いにも関わらず実施させようとしている
2)国旗国歌の是非や在り方そのものを議論する場に成り得る大学に注文をつけた
ということにあります.
特に2つ目については,一般の人なら勢い余ってやりかねない過ちですが,いくらなんでも首相や文科大臣がやっちゃだめでしょ,というものです.

別に国旗国歌を認めないなんて言ってるわけではありません.やってることが稚拙だと言っているのです.

あと,私基準の典型的な日本人としては,「国を愛する」なんて恥ずかしい言葉は嫌うのではないでしょうか.気味が悪いし.
日本人は,「I love you」は「月が綺麗ですね」と訳すものです.

2015年8月1日土曜日

学校教育対談(2回目)

今年も,このブログでは何度かご紹介している和田慎市先生と教育対談をしてきました.今回は都内で高校教諭をやっている私の後輩も交えて,新宿でお酒を交わしながらの会でした.

現在,和田先生は定年退職されていますが,これまでずっと高校教師として教鞭をとられていた方です.
現場の教師の立場から,地に足をつけた学校教育の論議を展開したいという思いで書籍を上梓されています.
※和田先生のご著書は本文末でご紹介していますので,ご関心のある方はお読みください.

和田先生の主張を一言で言えば,「教師も生身の人間.出来ることと出来ないことがある.現実性のない理想論だけで教育現場の事を語られても,むしろ害悪の方が多い」ということでしょうか.
その上で,学校で繰り広げられる様々な問題にどのように対処するのか? という事を論じられる方です.

現役教員をサポートしたいということで,以下のようなウェブサイトも立ち上げております.
先生が元気になる部屋

そんなわけで,ということでもないのですが,現役高校教員を交えた今回の対談.
教育困難校で働く私の後輩の質問に,和田先生が真摯にそして熱心に答えていたのが印象的です.
数々の修羅場をくぐり抜けてきた和田先生のアドバイスに,私の後輩も非常に満足しておりました.

例えば,若手教員がベテラン教員の指導スタイルに口を挟まなければいけない時,どうすれば円滑で最適な状況作り出せるのか? といった話題があったのですが,こういうのって頭では分かっていても実際に行動にするとなったら難しいことです.

教師も人間ですし,それぞれに様々な性格や信念を持って,それぞれの生活をするために仕事をしている集団ですから,そこらへんを上手く考慮した方略が求められるところです.
学校の先生というのは,ほとんどのことに一人で対処しなければなりませんから,若手教員がこういったアドバイスをもらえる機会は貴重なものとなります.

今回の対談で共有できた話題の一つに,多くのメディアと世論が形作る「教育問題」の語られ方が劇的に改善するということはないだろう,というものです.
ボチボチやっていきましょう・・,とそんな話で盛り上がりました.

むしろ危険なのは,今の学校や教員が抱えている “悲壮な実態” にメディアや世論が感化されて,今度は逆に「学校の先生って大変なんだ」「先生たちがかわいそう」「学校や先生を守らなければいけない!」なんていう感想やコメントが頻発する状態にになることの方です.
これはこれで問題だと考えています.

なぜかというと,今,私や和田先生が学校教育問題について,
「教育現場をないがしろにした議論をしてはいけない.学校(大学)や教員がおかれている立場は大変なんだ」
という主張をしているのは,あまりに現実離れした理想論が過ぎる教育論議の現状を憂いてのことです.このまま放置していると,真っ当な教育ができなくなってしまう,という危機感からなのです.
決して,学校や教員を「守ること」が大事だというつもりはありません.

和田先生が目指しているのは,一人の立派な国民,真っ当な社会人を育てる学校教育と,それを可能とする「職場」です.生徒と全力で向き合える職場があれば,きちんとした教育は自ずと達成されるというわけです.
決して「学校教育はこうあらねばならない」という理論を展開したいわけではないのです.

人は人をみて育ちます.
制度やルールによって育つわけではありません.
であるならば,そこで働いている人が生き生きとできるような環境を準備することが大切なはずです.



和田先生の書籍はこちら↓
(Amazonではよく在庫切れになるので,タイミングをみて購入してください)
 

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