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こんな大学の教員は危ない part 2

part 1に続き,part 2です. ■ こんな大学の教員は危ない part 1 タイトルですが,「こういう大学に所属している教員は・・」という意味ではありません. 「大学教員」そのものを指しています. なので,『こんな大学教員は危ない』というのにしとけば良かったと思っています. が,今さら変えるのも何なんで,そのままにしておきます. では早速. (1)タコ焼きやクレープを焼くのが好き 家で焼くだけなら料理好きな教員ということで済まされるのですが,危ない教員は自分の研究室や大学の調理室を借りてゼミ中によく焼きます. まぁ,ようするにゼミ活動の少なくない時間が,タコ焼きやクレープを食べる「懇親会」になっているのです. 「そんなバカな.ゼミでタコ焼きとかクレープを焼くなんて・・」と思われる人もいるかもしれませんが,これは結構な確率でお目にすることができる大学名物です. もちろん,年に1,2回なら在り得ない話ではありません.節目節目にゼミでパーティーを催すのはよく耳にします. もしくは,ゼミの活動以外で.例えば,調査活動や実験が一段落したからってんで「今日はパーッとやるか!」ってことで企画されることもあるでしょう. ですが,危ない教員はなんの脈略もなく通常営業中にタコ焼きやクレープを焼こうとします. 理由は,学生の機嫌をとりたいからです. 学生の機嫌を損ねたくないだけなら「自信の無い教員」で済まされるのですが, 危ない教員は「学生から好かれることが大事」と思っている から危ないのです. 厄介なのは,そういうゼミでは少なくない学生が「◯◯先生のゼミはパーティーが多くて楽しかった」という感想を持って卒業していくことがままあることです. でも誤解してほしくないのは,ゼミ・パーティーがたくさんあったとしても,ちゃんと学術活動をやっている教員はいます.ですがこれは,ゼミ活動そのものをタコ焼きクレープに充てていたのではなくて,あくまで息抜きとしてのタコ焼きクレープです. むしろ,息抜きをたくさんしたくなるほどハードな活動であったり,院生や研究生とのつながりが濃ゆいゼミだったりします. ここで問題視しているのはあくまで,通常営業中のことです. (2)「納得できる授業」をやろうとする ちょっと話が

中立的な政治教育について

18歳からの選挙投票が始まること受けて,教育現場における「政治」が話題となっています. 特に学校現場における政治的中立や教員や生徒による政治的活動の制限についての意見が目立っているでしょうか. たしかに,正しいとされるものを「教える場」であることを要求される学校においては,生徒をできるだけ政治的中立な環境に置くことが望まれ,その彼ら自身も政治的活動に勤しむことは控えるべきでしょう. とは言え,どのような発言や観点であれ,なにかしらの政治的イデオロギーから影響を受けたものですので,一概に「中立」とか「これは政治的だ」と判別することは困難です. ところで私たちが勤めている大学ではどうかといえば,はっきり言って政治的なものを中立に見たり扱ったり,その政治的活動を制限するということは事実上不可能に近いです. なぜなら,学術的に物事を考えていくと,必ず物事を抽象化するようになるからです.どのような領域であれ,「世界はこのような法則性で成り立っている」という視座を使って考えることになりますから,それをどこからどこまでの領域に当てはめるのかを決めることは極めて難しい話です. 一見政治とは無関係な学問領域の分かりやすい例として,スポーツにおけるコーチング学を考えてみましょう. そこでは,選手の能力をより多く引き出すためにはどうすれば良いか? より効率よく強化するためにはどうすれば良いか? といった着眼点から議論されますが,突き詰めていけばそれは「人はどのように扱われたら能力を発揮するか」とか,「どのようなアプローチが効率よく人の能力を高めるか」といった抽象的な話にまで及ぶことになります. つまり,「人(選手)や集団(チーム)はどのように扱われるべきか」という議論になっていくのですから,こうした論議は政治的な話にも容易に読み替えられることが分かるかと思います. 「いやいや,スポーツの研究はスポーツだけに言えることであって,政治には適用されないよ」と思われるかもしれませんが,スポーツと政治の線引というのは曖昧なものです. もっと言えば,政治とは形を変えたスポーツ活動であるとも捉えられるわけで,これについては過去記事でまとめたこともありますので興味のある方はこちらをどうぞ. ■ 人間はスポーツする存在である そのようなわけで,これはスポーツ科学に限らず,

集団的自衛権を巡る議論において賛成派に不足している認識

前回に続き,政治の話題です. 今回は「集団的自衛権」について. このブログでは大学教育において学んでほしいこととして ■ これが身につけば大学卒業 ■ 「問題解決能力」を高めることの危険性 という記事を書いたこともあります. そういうところからすると,昨今話題となっている集団的自衛権に関する議論の成され方についても疑問を呈しておかなければなりません. その疑問とは, 「新しいものは批判的に捉え,その批判に耐える知見を拾い出す態度」 そして, 「問題それ自体を深く掘り下げようという態度」 が不足しているのではないか,ということです. 上記の過去記事では「大阪都構想」を巡る議論を例に挙げて話してみましたが,それは今回の集団的自衛権の議論でも同じように見えます. 今回の集団的自衛権論議というのは,国の安全保障に関わることですので,さらに慎重,且つ,十分な考慮が必要となります.しかし,今回もかなり杜撰なものではないかと思わざるを得ません. 先に立場を明確にするため申し述べておきますと,私は今回の法律の中に集団的自衛権の行使容認を盛り込むことに限っては反対です. なにも今回の安保関連法案の全てが悪い,反対だと言っているわけではありません. 提出された法案はさまざまな安全保障上の改正や新設がされており,たしかに日本の安全保障に貢献するものも入っているのですが,「集団的自衛権の行使容認」については別です. 違憲の可能性が強く,その必要性が弱い集団的自衛権の行使容認を盛り込まなくても,日本の安全保障の強化はできると考えております. ところでその法案とはどういうものかというと, ■ 平和安全法制等の整備について (内閣府) にありますので,詳しくはそちらをどうぞ. いろいろと書き出してみたらキリがなかったので,焦点を絞って今回の議論における問題点を挙げてみます. それを端的に言えば,上述したように「現在の日本では集団的自衛権を行使する必要性が弱い」ということです. もっと言うなら, 現在の日本において集団的自衛権を行使できる状態にすることは,むしろ国益を損なうのではないか という懸念があります. 集団的自衛権が必要であるとされる事態として,内閣府が挙げているのは「存立危機事態」というものです. この存立危機事態

大学における国旗国歌

この季節,「国家」とか「人間」だとか「世界」といったキーワードで政治的な話が展開されることが多いものです. なので私のブログでも,こうしたことを意識的に何本か取り上げてみようと思います. 今回は「文部科学大臣が国立大学の式典で国旗国歌を取り入れる要請」の件です. 「国立大学は国立の大学なんだから,その式典では国旗掲揚,国歌斉唱くらいしましょうよ」 今年の4月にそんな話が持ち上がって,その後,6月16日に全国の国立大学の学長が集まる会議(国立大学法人学長・大学共同利用機関法人機構長等会議)で,実際に大臣の口からそのような要請があったそうです. だいぶ昔の話題なのですが,大学とは何を目指した教育機関なのか,国旗国歌に関する教育といった事について私なりの見解を述べようと思います. 事の発端とされているのはコレ↓ 首相「新教育基本法にのっとり実施されるべきではないか」国立大の国旗掲揚や国歌斉唱 (産経新聞webニュース) 改正教育基本法では「国を愛する態度」を養うことなどが教育目標に掲げられている。次世代の党の松沢成文幹事長に対する答弁。 ということですが,教育基本法のどこをどう読めば「大学では国旗掲揚,国歌斉唱がされるべき」と読めるのか,ちょっと私には分かりません. ちなみに教育基本法はこちら→ 教育基本法 (平成18年改正) この問題のことを考えてみたい人はそれを御一読ください. さて,先ほどのニュース記事に戻りますと, 松沢氏は「国歌斉唱に至ってはほとんどの国立大学が実施していない。税金で賄われている以上、国旗掲揚や国歌斉唱は当たり前だ」と迫った。 ということだそうです. この次世代の党の松沢氏に限らず, 「税金で賄われているから国旗掲揚,国歌斉唱が当たり前」 という理屈をこねる人は多いものです. 中には, 「日本の大学であれば国旗掲揚,国歌斉唱は当たり前.国立大学に限らず,私立大学も取り組むべき.私立大学も税金が入ってるだろ」 という主張をされる人もいます. これについては, 「大学の自主性,自律性が守られるべきだ」 という反論が多いですね. こうした政府からの要請というのは,大学に対する「圧力」になるのではないかという懸念があるからです. 「国旗国歌の要請が圧力なんかになるわけ

学校教育対談(2回目)

今年も,このブログでは何度かご紹介している和田慎市先生と教育対談をしてきました.今回は都内で高校教諭をやっている私の後輩も交えて,新宿でお酒を交わしながらの会でした. 現在,和田先生は定年退職されていますが,これまでずっと高校教師として教鞭をとられていた方です. 現場の教師の立場から,地に足をつけた学校教育の論議を展開したいという思いで書籍を上梓されています. ※和田先生のご著書は本文末でご紹介していますので,ご関心のある方はお読みください. 和田先生の主張を一言で言えば,「教師も生身の人間.出来ることと出来ないことがある.現実性のない理想論だけで教育現場の事を語られても,むしろ害悪の方が多い」ということでしょうか. その上で,学校で繰り広げられる様々な問題にどのように対処するのか? という事を論じられる方です. 現役教員をサポートしたいということで,以下のようなウェブサイトも立ち上げております. ■ 先生が元気になる部屋 そんなわけで,ということでもないのですが,現役高校教員を交えた今回の対談. 教育困難校で働く私の後輩の質問に,和田先生が真摯にそして熱心に答えていたのが印象的です. 数々の修羅場をくぐり抜けてきた和田先生のアドバイスに,私の後輩も非常に満足しておりました. 例えば,若手教員がベテラン教員の指導スタイルに口を挟まなければいけない時,どうすれば円滑で最適な状況作り出せるのか? といった話題があったのですが,こういうのって頭では分かっていても実際に行動にするとなったら難しいことです. 教師も人間ですし,それぞれに様々な性格や信念を持って,それぞれの生活をするために仕事をしている集団ですから,そこらへんを上手く考慮した方略が求められるところです. 学校の先生というのは,ほとんどのことに一人で対処しなければなりませんから,若手教員がこういったアドバイスをもらえる機会は貴重なものとなります. 今回の対談で共有できた話題の一つに,多くのメディアと世論が形作る「教育問題」の語られ方が劇的に改善するということはないだろう,というものです. ボチボチやっていきましょう・・,とそんな話で盛り上がりました. むしろ危険なのは,今の学校や教員が抱えている “悲壮な実態” にメディアや世論が感化されて,今度は逆に「学校の先生