2015年10月30日金曜日

コピペ右翼とカンニング左翼

さて,いよいよ
【やってはいけない】卒論・ゼミ論を1日で書く方法
が閲覧ランキング上位に登ってくる季節となりました.
もしかしたら,うちの学生も読んでるんじゃないかとワクワクするところでありますが,間違っても上記の記事を「1日で書く方法」を紹介しているものだとは受け取らないでください.あくまであれは「やってはいけない」ということを啓蒙する記事です.

この「コピペ」に関連することとして,前回の,
コピペ・レポートの行き着く先は
を,もう少し続けてみたいと思います.

まずタイトルについてですが,つまりは同じことを指しています.
ようするに,自分で考え抜いた上での意見を表明するのではなく,考えるに先立って自分が好む「立ち位置」を重視して意見を選び取る・・,他にも,自分が支持している人物やメディアの意見をそのまま繰り返すことを「コピペ右翼・左翼」とか「カンニング右翼・左翼」と私は呼んでいます.

例えばレポートをコピペするためには,コピペする文章(意見)を選ぶための事前知識が必要になります.つまりコピペ・レポートとは,その者の事前知識によって「正解だと思った結論」へと向かう文章(考え方)が選び取られているということになります.
その者自身が捻り出した考え方ではなく,考える前に回答が先行して決まっているのです.
それが政治経済の話題になったら,コピペ右翼・左翼として表出するに過ぎません.

こうしたコピペ右翼・左翼の問題点は「その意見の整合性や正統性を自分で確認していないのに胸を張って表明している」ということに収斂されます.
なんとなく「自分の気分を良くしてくれる意見だから」とか,「そういう意見って格好いいから」とか,もっと単純に「クールだから」とか,たぶんそんな感じで採択されているんだと思います.

レポートをコピペしようとした場合,例えば課題が「原発は日本に必要か?」とかだったら,まず「必要/不要」のどちらが正しそうか,カッコ良さそうか考えてみて,それに合った意見を引っ張ってくるでしょう.
もしくは,お気に入りの言論人や政治家が,原発必要/不要のどちらを表明しているかで自分の意見を決めたりするかもしれません.
あとはひたすら「必要/不要」のどちらか一方の意見をコピペして文章を強化するだけです.それが一番楽ですからね.なぜかって,反対の意見や中立的データなんかを持ってくると,それに対する理屈を自分で考えなくちゃいけなくなるので面倒が増えるからです(それを論じるのがレポートなんだけどね).

自分で考えていない意見ですから,誰かに矛盾点やボロを指摘されても,それについて「あっ,ホントだ」とか,「言われてみたらそうだなぁ」などと認識することはできません.
だって,指摘された点について自分自身が理解していないんですから当然です.
矛盾点やボロを指摘されたという認識がないのですから,その意見を疑ってみたり改定しようなんて思いもしません.

仕舞いには,お気に入りの言論人や政治家が,途中で方針転換したり発言内容を変えたりしても「きっと真意は別のところにあるのだ」とか,「足を引っ張る奴がいたり圧力がかかっているのでは?」とか言い出すでしょう.
なぜなら,自分自身の意見は,その言論人や政治家の意見と相関するものだと決めているからです.彼の意見が私の意見,なんてことにしているわけです.

このようことは,学生にコピペ・レポートを指摘した場合も全く同じことが起こります.
「なっ? この部分でこういう論を展開しているのに,なんでこういう結論になるんだよ」
って学生に指摘しても,
「いやぁ~,でも,そういう風に僕は考えたんすけど」
って.
酷い場合には,
「でも,調べたのにはそういう風に書いてたんで」
って言っちゃう学生もいたりして.
だから,ネット記事とか論文をそのまま写し書きしただけだからメチャクチャな論旨になるんでしょ,って言いたいわけですけど.

私が今いる大学の学生はそうでもないですが,以前勤めていたような大学の学生だと,もっと素直に,
「ネット記事や図書館を探せばどこかに,授業で課された課題の “回答” があるはず」
と考えて悪気なく行動する学生は多いものです.
かなり極端なことを言えば,「レポート課題とは,どこかにある “回答文章” を探し出してきてコピーすること」と本気で捉えている学生が多数存在します.
そうは言っても,これについて我々が愚痴っているわけにもいかず.地道に大学教員が学生をトレーニングするしかありません.そのために給料もらっているようなものですから.

前回記事でも述べましたが,教員がレポート課題に期待しているのは,より良い回答文章を返すのではなく,より良い考えを出そうとする手順を踏んでもらうことにあります.レポートの出来はその後の話です.

ですから,実のところ「オリジナルな意見」というのは存在しない,という考え方もできます.どちらかと言えば私はそう考えています.このブログで書いている私の意見にしたって,探せば同じようなものがたくさん出ているでしょう.
だからこそ,私はこのブログの「説明」のところに,
【学生へ】記事内で引用・参考している文章に気をつけてもらえれば,私の記事をコピペ・レポート用として利用してもらっても構いません.
と表明しています(PCの画面ならこの説明文が見れます).
ただ,そのあと続けて,
文章のスタイルの都合で丸写しにはできませんが,それだけに,一度は文章を咀嚼してくれるのだろうと期待しております.
ということも書いております.
このブログの文章はかなり砕けた表現ですし,「ですます調」です.さらに句読点としてカンマとピリオドを使っています.
一度は全文を読み上げないといけないようになっているのです(真面目にコピペしようと思えばね).

私は実際の授業でレポート課題やテストも課してはいますが,重視しているのは「質問能力」のほうです.
以前もそれを記事にしたことがあります.
質問させる
井戸端スポーツ会議 part 18「健康運動に関する授業の質問回答集」
上記記事のような感じでやっているのですけど,今年は履修者が尋常じゃないくらい増えてしまい,全員の質問に答えていたらマジで日が暮れるので選抜することにしました.
「選ばれなかった人は出席になっていないのですか?」ってウルウル目の困った顔で聞きにくる女子もいますが,そういうことにしています.出席を確認するのも無理なくらい人数が多いんで.

どうして「質問させる」ことを重視しているのかというと,
「問題解決能力」を高めることの危険性
でも書いたように,いわゆる問題解決型の学習を重視する風潮に危惧があるからです.

話がとっちらかってしまいました.
元に戻しますと,レポート課題にしても政治経済などのニュースに対しても,コピペ的な対処の仕方は非常に危険だということです.
言われてみれば当たり前だと思われるかもしれませんが,学生がコピペ・レポートをしたがるのと同様,多くの人々は世相を扱ったニュースに対してコピペによる意見表明をしたがります.

これについて今一度,論じようとする事に対してコピペではなく正面から向き合ってみてほしいものです.
そうすれば,自分の力で考えられる範囲がどれだけ狭く,それぞれの分野が幅広く複雑なのかが分かってきます.


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2015年10月25日日曜日

コピペ・レポートの行き着く先は

前回の記事では,ネット上でよく目にする愛国的で民族主義的な視点や観点,いわゆる「ネトウヨ」と称される意見や批評について取り上げました.
このように認知されている現象は,ネト “ウヨ” と称されることからも分かるように,右翼・保守的なものと見做されています.

これについて,「世間一般というのは放っときゃ右翼・保守的な反応や批評をするものであり,別に特殊な現象などではない」というのが前回の議論の出発点であり,むしろネトウヨ的な現象についての問題点とは,その意見やコメントが「右翼的・保守的」かどうかで判断されている,もっと言うなら,「右翼・保守的だとされる言論人や政治家の発言内容とどれだけ一致しているか」がその判断材料になっている傾向があるという点です.

つまり,何かの物事に対して,どれだけ適切な行動をとっているか? 適切な状況になっているか? ではなく,どれだけ右翼・保守的なのか? で判断していると言っていいでしょう.
ようするに,「右翼・保守的であることが適切である.適切な判断とは右翼・保守的なものである」という基準で物事を計っていることを意味します.

このような姿勢は右翼,左翼に関係なく「バカ」と評せると思うのですけど,どちらかと言えば右翼の方が「考える量」が少なくなる傾向があるだけ酷いのではないか? というのが前回の記事の趣旨でした.

今回は,その前回の記事で少し触れていた「レポートのコピペがなぜダメか?」を通して論じてみたいと思います.
コピペ・レポートについて論じていくと,実は上述した件との関連性が強いことに気づいてもらえるからです.

大学におけるレポート課題は,コピペ(コピー・アンド・ースト,つまり盗作・剽窃)との戦いだとも言われており,どうやってコピペに対処するか苦心されている先生方は多いものです.
その一方で,「なぜコピペが悪いんだ? コピペを見抜けない教員も悪いのだし,そういう課題しか出せない教授法に工夫が足りないのだ」という意見も根強くてですね.

教員側の言い分としては,わざわざレポート課題を出したい理由は「さまざまな議論・理論を調べてみて,それらを材料に自分の頭で議論を組み立てる」という手続きを学生に踏ませたいからです.

私を含めて少なくない教員は,学生に「優れたレポート」なんてものを求めてはいません.そりゃ優れたものを出してもらえるのは嬉しいことですが,「レポート課題」という指導で学生に得てほしいのは,より良い答えではなく,より良い答えを出そうとする手順を踏んでもらうこと,それ自体にあります.

というか,それをできるようにトレーニングしているのが大学教育そのものだとも言えます.
その最高峰が「卒論」です.

ですから,レポート課題に本気で真面目に取り組めば,非常に有益な学びが得られるはずなのですが,いかんせんこの教授法の問題点は,いかようにもサボれるということにあります.
その代表がコピペです.

コピペ・レポートの何が問題なのかといえば,ひとえに「議論そのものをコピペしてしまっている」という点にあります.
決して「楽をしていて卑怯」だとか「他人の文章を盗むのは悪質だから」などということではありません.まぁ,それも大変問題なのですが,本質的な問題ではないのです.

議論そのものをコピペしてしまっているということは,自分の頭では議論していない,つまり,さまざまな議論材料を吟味するという過程を経ていないということです.
さながら,組み立てキットのプラモデルではなく,完成品のプラモデルを買っているようなものです.
もっと言うなら,レポート課題への理想的な取り組み方というのは,ガンダムとミニ四駆のプラモを両方買ってきてパーツを組み合わせ,それで独自の「ガンダムMk-0アバンテ」なんてものを作るようなものです(余計に分からなくなった?).

まぁそこまで行かずとも,学生には独創性溢れる意見でなくてもいいから,自分の頭で考えてみる機会を持ってほしいというのが大学教員の願いなのです.
なので「何も考えずにコピペしやがって!」という文句を垂れたくなる教員は多いものですが,実際のところ何も考えずにコピペする奴はいません.学生も一応は考えます.

先生の授業を受けてみて,いつも寝てる奴ならその友達に聞いてみて,「この先生が高評価してくれそうな文章はなんじゃろな?」と考えてコピペすることになります.
いつも寝てる上に友達もいない奴なら,「この課題だとすると,どういう文章なら高評価してくれるだろうか」と考えるでしょう.
おわかりですね.この「考え」が非常にマズいのです.

「この問題については,こういう回答が適切なんでしょ?」
というのは,世の多くの大学教員なら烈火のごとく怒りたくなる「学生の意識」です.
そしてコピペは,「こういう回答が適切なんでしょ?」という学問に対する意識・態度を是正するどころか,それを助長します.

なぜなら,コピペをしてレポート作成するということは,学生が予め持っている価値判断や哲学・思想を基にして「文章が選択される」からです.
学生自身が「良い」と思う文章を選択するわけですから,そこには「学び」も「訓練」もありません.

レポート課題というのは,学生が予め持っている問題意識や論理的思考力を試すのと同時に,学生の議論材料の探し方を鍛えて,材料そのものを増やすことを期待して課しているという側面があります.

ところがコピペは,(コピペとは言え)学生が元々持っている価値基準によって議論を展開しているわけですし,その議論が正しいものだと判断して(コピペなんだけど)自説として採択していることになります.

これが私には,ネット上でのイデオロギー混じりの論争と酷似して映るのです.

つまり,論じたい何かがあったとしても,それはその何かに対するさまざまな議論材料を吟味した上での意見ではなく,予め論じたい「右翼・保守的(左翼・革新的)な意見」が先にあって,それに合わせた回答を出している可能性が見受けられるのです.

さらに言うと,その「回答」とは冒頭述べたような「右翼・保守的(左翼・革新的)だと認識されている言論人・政治家」の発言だったりするでしょうし,まさにそれをコピペして自説としているのかもしれません.彼らがそれをコピペ先として適切だと判断した理由とは,「右翼・保守的(左翼・革新的)だから」というものである可能性があるわけです.

こういった基準に照らして物事を判断していると,「この意見は左翼の◯◯氏が言っていたからボツ」とか,「この考え方はマルクスが唱えていたから危険」とか言い出すに決まっています.もちろんその左右逆もあるのでしょうけど,とてもじゃないですがまともに議論材料は集められないですし,それを吟味することもしなくなります.

私が言いたいのは,その時その状況における「適切な判断」というのは,右翼的なものもあれば左翼的なものもあるでしょ? ということです.そのバランスが問題になってくるわけですけど,ネット上では特に右翼系のバカさ加減が際立つ,というのが前回の記事です.
もっと言えば,ネット上で「右」とか「左」と呼ばれているもの,それ自体が「右」でも「左」でもない,と言いたくなるものもあります.逆に「右」とされているものが「左」にしか見えないものだってあります.

典型的なのが現政権ですが,右翼・保守的だと評されている割には,かなり左翼・革新的な政策や方針をとっています.ですが,この現政権を「左翼だ」とか「反保守的な政治だ」と評する声は非常に小さいものです.
(「もはや国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました」って,どこの左翼だよと)
これは,多くの人に「この政権は右翼・保守だ」という認識があるため,どんな事をしても「右翼・保守的だから良い(悪い)」という反応や評価になってしまっている疑いがあります.
つまり,政権の振る舞いを見て「右翼・保守的」と評しているのではなく,「右翼・保守的な政権だから」その振る舞いが右翼・保守的なんだ,ということです.んな無茶な,と思ってしまいますが,そんな調子で進んでいるようにしか見えません.

そんなわけで,もしかすると我々が苦心しているコピペ・レポート対策とは,我が国の健全な議論の場を作り出す基盤形成として非常に重要なものではないか,そう思ってみたりします.
ところが,大学で行われている「コピペ対策」の趣旨は,「盗作・剽窃は悪いことだから」とか「文章をきちんと自分の手で書かせるため」という理由で進むことが多いのが残念でなりません.


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2015年10月18日日曜日

なぜ右翼・保守的言動をする人にバカが多いのか

今月に入って,このタイトルにあるような記事を立て続けに書いています.
なので知人から,
「君,右だったはずだよね」
と心配されているのですが,別に私の利き手やスタンスが変わったわけではありません.
(ちなみに野球ではスイッチヒッターです)

どうも世の風潮がおかしいな,と思っているので声に出して(字にして)みている次第です.

代表的なものとして「ネトウヨ」と呼ばれることの多い「対象」と「現象」があるわけですが,そうした右翼・保守的な言動をしている人の声が煩くなってきて久しいと感じます.

このネトウヨと称される「対象」を定義することは難しいとされているのですが,そうした「現象」が捉えられていることは周知のことと思います.
ようするに,ネット上では愛国的で民族主義的な視点や観点から物事を論じられることが多く,そうした意見や批評といったものに一定の認知度があるわけです.

それが私にとっては「おかしいな」と感じさせる世の風潮の一つです.
何がおかしいのかというと,こうした「ネトウヨの声」とされるものからは,知性や身体性が感じられず,例えて言えば「「3手詰みの詰将棋」や「キーパーのいないPK戦」をやっているように映るのです.
(この比喩についての詳細は,また今度)

前々回の記事である,
なぜ教育者に右翼・保守が少ないのか
では,教育現場においては左翼よりも右翼の方が有害であることをお話しました.
もちろんキチ◯イ左翼教員も有害ですが,愛国・右翼教員はさらに輪をかけて有害であるというものでした.
他方で,教員現場に右翼・保守的な考え方の人材が “少ない” のは「右翼・保守的な言動をする人にバカが多いから」ということも取り上げていました.

なので今回は,そもそも,なぜ右翼・保守的な言動をする人に目も当てられないバカが多いのか? という点に絞ってお話してみよう思います.

まず,「右翼・左翼」「保守・革新」といった分け方は一般的ですし,その分け方で問題ないとは思うのですけど,一応この記事で言う「右」とか「左」というのは,政治経済,教育,社会,道徳といったものを論じる際の立場や思想のことを指します.
で,そのいずれにもバカ,つまり「ちゃんと物事を考えない人」というのがいます.

ここで重要なのは,右翼的なバカと左翼的なバカを比べた場合,どっちかと言うと「右」の方が酷いという点です.
なぜでしょうか?

その理由については,人間はもともと「右」のイデオロギーを持つことが普通なのだと捉え,これに基づいた経緯を考えていくと合点がいきます.

人間は,この世に生を受けて家族に囲まれ,地域社会に育まれて国家の有り難さを享受すれば,誰だって「右」になるものです
よくネトウヨは「日本には愛国心を育む教育が足りない.反日・自虐教育を廃せ」などと言いますが,まともな国なら教育しなくても愛国心は芽生えるものです.むしろ,愛国教育をしなければいけないような国の方が,残念な国だと私は思いますよ.

人間誰しも生まれ育った国に愛着を持つものですから,オリンピックやワールドカップがあれば「我が国」のチームを応援しますし,他国から自国民の偉業を讃えられたら誇りに思うでしょう.

しかし,そうした自国への誇りや愛着といった思想を強化することでは不都合が起きることがあります.
「戦争」や「差別」「迫害」といった形で現れるものがその典型例です.

だから人は「左」の思想に興味を覚えます.
「現在の日本人のほとんどがサヨク(左翼)だ」と言われることもありますが,そりゃそうだと思うのです.だって,日本の学校では左翼的な教育をしているのですから.私もそれについては否定はしません.

さて,ここからが問題です.
もともと人間(国民)というのは「右」になるものなのです.そこに学校教育やらなんやらで「左」が入ってきたりして,大人になるに従っていろいろな葛藤もありつつ各自のイデオロギーとして形作られるんだと思いますが・・.

その時,バランスがとれずに「右」または「左」のイデオロギーに「はまってしまう」人が出てきます.
具体的に言えば,
「国家や共同体なんて関係ない.性別や民族からも解き放たれることが大事なんだ」
という考えだったり,
「国家や民族が大事.これを守ることが国民としての努めだ」
という考えだったりするのでしょう.
そうした考え方 “だけ” に捕らわれてしまった人が,冒頭お話しした「バカ」です.

「バカ」という奴がバカだというのも聞きますから,もうちょっと抑えた言い方をすれば,
「いやぁ~,たしかに君の言うことも分からんじゃないんだけどねぇ.けど,そういう意見ってバカっぽいよ.だからさぁ,ねっ」
って言ってあげたい感じです.

おそらく,彼らは自分が述べている意見を自分で否定したことがありません.だからバカっぽいのです.
私も大学の授業や演習で学生に言うのですが,自分の考えや調査計画などをしっかり否定してみることが大事です.
とことん否定した結果,それでもそこに残ったものが,本当に大事なものです.

それが大学での重要な学びの一つだとも思っていますし,その社会のより多くの人間が身につけておくことが望ましい姿勢・態度だと考えています.

さて,おわかりでしょうか? 「左」の方が「右」よりまだマシだ,というのはこのためなのです.
繰り返しますが,もともと人間は「右」なんです.生きている限り,常に「右」であることへの誘惑があると言っても過言ではないでしょう.
しかし彼らは,「それでも左だ」という選択をしている場面が多いわけです.

つまり,ネトウヨと称される意見が「右」であるべくして「右」の意見を垂れ流しているのに対し,「左」は自分の意見を省みる機会が多いことになります.

一方で「右」はというと,人間誰しもが普通に生きていれば形作られる右翼・保守的なイデオロギーを,まるで自分の力で練り出したように扱います.
しかも,どうやら長い間この国は「左」のイデオロギーが支配的だったそうなので,「それに立ち向かう少数派」ということで気分を盛り上げてしまっています.ですが,繰り返しますが実のところ「右」は常に多数派なんです.

さらには,お気に入りの言論人や政治家の意見が「右」だからということで,それをそのままコピペして扱ったりします.コピペしたものなので,その意見の良し悪しや実生活との整合性なんて気にしない,という事態になるのは自明のことです.
(大学の論文指導における「コピペ禁止」というのと通底するが,今回は割愛する)
それが一部の言論人や政治家だけならマシだったのですが,最近はネットを媒介として,勘違いした「右」が猛威を振るい始めた,というところでしょうか.

長々と書いてきましたが,「右」であろうと「左」であろうと,自分が信じている考え方を,しっかりと自分自身の力で否定するという手順を追わずにいると,どうしてもバカっぽくなります.

それでも「右」が「左」よりも不気味で低脳に映るのは,そうした自分の考えを丁寧に否定する機会が比較的少ないからではないだろうか?
ネトウヨじみた右翼・保守系の人々が,あのように悲惨な醜態をさらしているのは,そういう経緯があるからではないかと思えてなりません.


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大津いじめ問題で大衆の愚かさに絶望しています
「じゃあ,代わりは誰かいるのか?」の愚

2015年10月13日火曜日

なぜ教育現場では「ネットの意見」が受け入れられないのか

現在,我々大学研究者としては大事な季節なので,どうしてもブログ更新に手が向かない今日この頃です(科研費申請です).
でも,やや短めの記事を書いておきたいと思います.

学校教育に関する不祥事等がニュースになると,「これだから学校は隠蔽体質なんだ」とか「教師は社会人になれなかった人材が就く仕事だ」などと批判にさらされることが多いものです.
特にネットでは,この手の “教育熱心な意見” が散見されます.

こうしたネットの意見について,私もこれまで何度かそれに反論する記事を書いてきたところですが,
大津いじめ問題で大衆の愚かさに絶望しています
とか,
「面白い授業」に対する幻想と誤解
今回は,そうした教育に対する「ネットの意見」が,実際の教育現場で(思い切って言ってしまえば)「通用しない」のはなぜか? という点を語ってみたいと思います.

前回の記事である,
なぜ教育者に右翼・保守が少ないのか
と関連するところも多いですので,未読の方はそちらもどうぞ.

もちろん,以下に述べていることが教育者全体の総意ではないですし,普遍的な価値をもつ考え方ではないことも申し添えておきたいと思います.が,これに類似した想いを持って教育にあたっている人が少なくないことはご理解いただければと思います.

(1)教育現場で「勧善懲悪」は非現実的
いじめ問題が典型的ですが,ネットの意見に多いのが,
「なぜ被害者が泣きを見て,加害者が守られるのか? こんなことだからいじめが無くならないんだ!」
といったものです.

要するに,「悪い行いをする子供よりも,その被害にあった子供を優遇しろ.そうすれば皆がハッピーになれるだろ」という趣旨の主張です.

でも残念ながら,教育現場でそういう「ハッピー」で「おめでたい」考えは通用しません.

何故かと言うと,教師にとっては「いじめ被害者」はもちろんのこと,「いじめ加害者」だって自分の生徒・学生であり,同じように教育する対象だからです.
一般人にすれば「加害者に痛い目にあってほしい」という欲求があるでしょうから,それが満たされないと不満に思うでしょう.

ですが,教師はなるべく多くの生徒・学生が善き国民・人間となるよう育てるために粉骨砕身しています.
いわゆる「悪い子」にしても,なんとか真っ当な人物になるよう教育しているのです.
子供の行いを査定して,ペナルティを与えることを仕事だと考えている教師は極めて少数だと思われます.

(2)教師というのは,子供に教育を受ける機会を与えたいと考えているもの
それに,私にも少ないながら経験があることですが,「悪い子」をきちんと指導すれば,「悪い子」ではなくなるということです.というか,そんな事例は現場では山のようにあります.
たしかに,全国ニュースになるほど重大な事件となってしまう結末を迎える指導ケースもあるでしょう.しかしその一方で,きちんとした教育がなされているのも確かです.

もっと言うと,悪い子を指導するのに「お前は悪いことをしたのだから,ペナルティを与える」という方針では現実の学校教育は成り立たないということが一般の方々に周知されていません.
人間,どうしても個性がありますし,子供は学校教育だけで育つわけではありませんので,善き人間になるよう指導しきれないところも残念ながらあります.
ですが,「悪いことをしたからペナルティ」という着想で教育すると,「ペナルティを受けなければ悪いことではない」という,見事なクズっぷりを抱く人間を育てることにもなります.

「たしかにそういう側面もあるだろう.だが,悪い子は学校ではなく,それに相応しい施設を用意して更正させればいいのでは? 良い子に悪影響が及ぶから」
という意見もあるかもしれません.
ですが,これには私は断固反対します.

何事も程度の問題ではあるのですが,余程の理由がない限り多種多様な人間がいる中で教育が行われたほうが良いと考えています.
それに,日本に限らず多くの社会においては,「通常の学校教育とは異なる履歴を持っている者」に対する風当たりは強く,偏見がどうしてもあります.
ですから,教師としてはなんとか「普通の教育履歴」として社会に送り出したい,という思いがあるのです.

(3)真っ当な人間を育てることで,真っ当な社会を育てる
さらに言うと,例えば高等学校では「退学処分」にすることができますから,勢い,「義務教育じゃないんだから,問題を起こす生徒は排除すればいい」という意見も聞かれます.
しかし,排除された生徒はその後どのような教育を受けるのでしょうか.
「そんなのは本人の自業自得だろう」と言う考えもあるでしょう.
ですが,少なくない教師はここでも「なんとかして真っ当な人間にしてやりたい」と考えるものです.それが教育の役割,存在意義だという気持ちがあります.

考えてもみてください.退学処分になった生徒や,悪い子の烙印を押された生徒が,その後どのような道を歩むか.
運良く良い方向に向く場合もありますが,たいていは荒んだ生活を送ることになります.
なるべく退学させずに,多少の無理をしてでも学校教育を受けさせてやりたい,そういう選択をする教師は多いものです.

もし日本の教育現場が,安易に「こいつは面倒を見きれないから,退学処分だ」という方針をとるようになったとしましょう.
容易に考えられる未来は,「学校で十分な教育を受けた者」と「学校で教育を受けていない者」の差が大きくなることです.
今にしても,この差は存在します.その差がさらに開くということです.

そんな社会ではどういうことになるのか,これまた容易に想像できます.
典型的なのが,アメリカや中国のような社会です.実力主義とか能力主義というスローガンで誤魔化さなければならない不安定な社会になるでしょう.
もう一つ考えられるのは,移民や外国人労働者を大量に受け入れている国のような状態になることです.「“我々”と“あいつら”」という感じで,国民同士の連帯感がなくなる社会がそこにはあります.

(4)不満を感じるかもしれないが,教育現場で働いている人に任せてほしい
教師の多くは,生徒・学生を育てることを通じて,この人間社会をより良いものにしてくことを願います.
昨今の社会情勢をみておりますと,「一部や個人の利益を最大化することによって,その恩恵が社会全体の利益として波及していく」という考え方が強くなっているように思います.
右翼・保守的な主張をする人達なんかは,福沢諭吉の「一身独立して一国独立する」を引用しながら説くことでしょう.

たしかにそういう側面もあるかもしれません.そういう考え方が教育現場に流れ始めているという実感もあります.
ですが,直感的にこの考え方・教育方針ではまともな社会にはならないのではないか,そういう危機感を持っている教育者は少なくないはずです.

なぜなら,自分の利益を最大化することを目指すような人間が,どうして所属する共同体の利益を考えるのでしょう.
自分の利益を最大化することを説く教師から学ぶ子供が,どうして自分の身の回りの人々のことを考える人間になるのでしょう.
こうした違和感を感じる教育者は,私以外にもたくさんいるはずです.

教育現場で展開されていることは,スッキリとした勧善懲悪や正義に基づく解決が難しい案件が多いものです.
それに対し,あーでもないこーでもないと悩みながら,生徒や,彼らが育った先の社会のことを案じながら指導しているのが教師という仕事です.

不満を感じることもあるかもしれません.ですが,教育現場で働いている人々の考えや主張にも,落ち着いて耳を傾けてもらいたいということを言いたい時期・レベルになってきたようにも感じます.

そして,それぞれの教師が全力を出せる職場を作ること,それがまずは大事なのだと思っていますし,それが難しくなってきている最近の教育現場を危惧するところです.


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2015年10月4日日曜日

なぜ教育者に右翼・保守が少ないのか

なぜ教育者に左翼が多いのか?
という疑問やテーマで論議されることは多いのですが,その逆,
なぜ教育者に右翼(保守)が少ないのか?
が問われることは意外と少ないものです.

私も高校生ぐらいの頃からずっと考えていたことではあるのですが,いまいち明確な答えが見つからないまま,いつしか自分が教育者になってしまったというところです.

では私は左か右かということが気になるのですけど.
ある人達は私のことを「保守だ」「右翼だ」と評しますし,たしかにそういう考え方をするところがあることは自覚もしています.
しかし,どうしても一般的に「保守派」とか「右翼」と呼ばれている有識者の意見を聞くと,それを飲み込もうとしても何か喉に引っかかって気持ち悪いという感覚が拭えませんでした.

これについての適切なアンケート調査や意識調査があるわけではないですが,私なりの皮膚感覚でこの件について書いてみようと思います.

なぜ教育者には右翼・保守系の考え方をする人がいないのか,まず最初に考えられることとしては,右翼・保守系の人にまともな教育観がある人が少ないということが挙げられます.
もっと突っ込んだ言い方をすれば,一般的に右翼・保守系だという立場を表明する人達の教育方針や主義主張の多くが,子供や青年の教育上害悪が多いということです.

害悪の多い教育方針を掲げる連中ですから,そんな人達を教育現場に立たせることは避けられやすくなります.
教育者に右翼・保守的な人が少ないのは,そんなような影響があるからではないかと考えられるのです.

どのような教育方針が嫌われやすいのかというと,例えば以下のようなものです.

1)やたらと愛国心教育を推進する
私だって別に愛国心が高まる教育を否定したいわけではありません.一部のキチ◯イじみた左翼教員を除いて,教育現場にいる圧倒的多くの教育者は愛国心を悪いものだと思っていないでしょうし,高めようという方針に反対するわけでもありません.

ところが,右翼・保守的な立場をとる人達は,愛国心を高めることが教育の重要な役割だと見做しています.はっきり言ってバカなのです.
具体的な典型例として,彼らは学校で国旗国歌を徹底しようとします.国旗国歌を徹底すれば,愛国心が高まって日本国への帰属意識が高まると言い出します.
どう考えてもそんなわけねぇーだろと思うのですが,なぜかそんな軽薄な持論を展開するのです.自分たちがどれほど非現実的なことを口走っているか恥ずかしく思わないほど思慮が浅いわけです.

考えてもみてください.ブラック企業に勤めていたとして,そこの社章・社訓・社歌の指導を徹底したからといって,その会社への忠誠心や帰属意識が高まることなどありません.
むしろ,そんなことで会社への忠誠心を高めようとすることは「悪」ではないでしょうか.それと同じことです.

愛国心を高めようとするのであれば,その国の国民として生きることに誇りを持ち,誇りを持ち続けられるほどの幸福感を享受できる国でなければなりません.
そうした国民を育てるためには「愛国心を高める指導」や「国旗国歌の指導」を否定的に扱うことも吝かではない,矛盾するように聞こえるでしょうが,そういう場面もありえます.

例えば,多くの人が持っている母校に対する愛着や帰属意識というのは,そこでどのような教科教育が展開されていたかとか,ましてや母校愛を高めるプログラムが展開されていたかではなく,教員や仲間と過ごした甘酸っぱくほろ苦い想い出が基になっているものです.昔は「こんな学校クソ食らえ」とか「授業なんてどうだっていいし」などと否定的,斜に構えていたとしても,いつしかそれこそが母校愛へとつながっていきます.
これは愛国心にしても同様でしょう.

国旗国歌は愛国心を高めるために教えるものではありません.教えなくたって愛国心は高まります.愛国心が芽生えれば勝手に国旗国歌への興味は湧いてくるものです.
因果関係を逆に捉えてはいけませんし,逆に捉えちゃってることが多い右翼・保守的な人は教育者としてふさわしくないのです.

2)連帯よりも競争を推進する
右翼・保守的な教育方針を掲げる人に典型なのが,「社会に出たら他者との競争になる」ということで「だから学校では競争させることを学ばなければいけない」などと言い出すことです.
まともな教育者なら背筋が凍りつくような発想・着想ですが,彼らはそれをおくびにも出さずに言い放ちます.当然,そんなバカが教育現場に立つことは避けられてしまいます.だから右翼・保守的な教育者が少ないのです.

いやもちろん,受験勉強やクラブ活動や文化行事等々で「競争」が発生することはたしかです.が,それは「競争になってしまう」のであって,「競争させる」のとはわけが違います.

より良い国民を育てるために多くの教育者が学校現場で粉骨砕身しているのは,お互いを尊重し合い,仲間同士連帯して事に取り組む態度を育てることです.そこで発生する競争は副次的なものであり,モチベーションの一つに過ぎません.
そりゃ完璧にできれば理想でしょうが,皆が皆うまくいくわけではありません.でも,そうなるように取り組んでいるのが学校現場なのです.

ところが,右翼・保守的な教育観を持っている人は,そうしたことは建前であって綺麗事だと考えている節があります.
「現実はそうではない.現実社会は競争社会だ.競争社会を勝ち抜くための力を学校では身に付けるのだ」と言って,それを煽る教育方法を推奨します.

そのくせ,場面が変われば「日本人は一致団結して事にあたることを得意とする」だとか「日本人は和をもって尊しとなす」などとドヤ顔をしたがります.
これはつまり,和を崩して一致団結を困難にする方針を進める一方で,都合よく和をもって一致団結しようと考えているのです.なんだかブラック企業みたいですね.もしかすると,右翼・保守的な教育観を持っている人はブラック企業の方針に親和するのかもしれません.
和をもって尊しとなす国民を育てたいのであれば,その教育方針が180度とは言わないにしても,90度以上は違うでしょう.
このことから分かるのは,彼らの知能は明らかに低いということです.そんな低能な人間が教育者として採用されることは少ないわけです.

3)大人のルールを学校や子供に適用させようとする
右翼・保守的な教育方針を推進する人の,最も典型なのがこれです.
もともと,近代における学校とは大人社会のルール,大人の論理から子供を守るために誕生したと言っても過言ではありません(詳しくは専門書を参照ください).
「大人のルール」とぼんやり表現しましたが,ようは市場原理的な考え方と言っていいでしょう.先ほどの「競争を重視する」というのと似ていますが.

当然のことながら,学校は大人社会に向かうためのステージの一つですし,そこでの振る舞いを学ぶことも重要です.が,それが最優先の目的になってはいけないのです.
考えてもみてください.学校の存在意義を「子供が大人社会に向かうための準備のため」だいうのであれば,学校なんて不要です.普通に大人社会に混じって大人社会のルールをその身に教え込めば済むはずです,っていうか,かつては大多数の人間がそうだった時代があったわけで.
それじゃダメだからってことで学校が存在するのです.

人間は地位や財を成すために生きているわけではない.地位や財を成すための駒として生きるわけでもない.それ以外にも人間らしい生き方というものがあるはずだ.という価値観を持つ人物を,一定数社会に輩出し続けることが学校の大事な存在意義の一つです.

ところが,彼らはそんな学校教育が誕生した経緯を考慮することもなく,「これまでの教育は大人になって役立つものが少なかった.より具体的に言うなら,これからの学校は社会に出て仕事をするための能力を重視するべきではないか」などと恥ずかしげもなく主張します.
さらには,「人間らしい生き方なんて理想論に過ぎない.そんなことよりも現実を見てみろ.職業能力を高めることがその人の幸せにつながるんだよ」といった荒んだ意見を隠さず言い放つ人もいます.

その煽りをモロに食らって致命傷気味なのが小学校であり,連鎖反応的にダメージを食らって困っているのが大学,特に文系大学です.文系大学ではそういう職業能力を高めにくいということから,統廃合を検討しろと言われています.
この流れの先にあるのは,この社会と民族のゆるやかな死です.

この国は今,いろんな分野の世界ランキング上位入賞を目指すために頑張るんだそうです.だからそのために,小学校の段階から国語よりも英語を重視するのだそうです.さっきまで愛国心を声高に唱えていたことは忘却の彼方です.
つまり彼らが言う愛国心ってのは,外国から褒めてもらえることであり,相手よりもお金を儲けることであり,高いステータスを獲得することを指すようです.
これって人間のクズですよね.誉められた人間ではありません.

そんなような教育方針が,時の政治・政策レベルで教育現場に押し込まれたとしても,このような考え方の人物を教育者として立たせることは避けられて当然でしょう.
だから右翼・保守的な人が教育者には少ないのです.


教育現場でよく問題視されるのが左翼系の教育者ですが,実はそれ以上に厄介な存在となり得るのが右翼・保守系とされる教育者なのです.
左翼系の教育者も有害な教育方針を薦めてきますが,右翼・保守系の教員の薦める教育方針は,それに輪をかけて有害です.
あまりに有害過ぎて優先的に避けられるから,そして,本人も結構バカだったりするので,それゆえ教育現場に採用・出没しにくいだけなのです.

もっとも,上述した「右翼・保守的な教育者にありがちな主張」として紹介したものにしても,本当の意味で右翼・保守的な主張なのかどうか明確に定義できるわけではありませんが.

他にもいろいろ思いつくところはありますが,長くなるのでとりあえず今回はこのへんで.


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