2015年11月26日木曜日

「ソーシャルワーク教育の失敗」とは何か

こんなニュースがありました.
やや遅いですが,全然手が付いていないブログ記事更新のために取り上げてみます.
「ソーシャルワーク教育は失敗」(←Yahoo!ニュース)
その記事の抜粋が以下のとおり,
日本社会福祉教育学校連盟(会長=二木立・日本福祉大学長)は10月30日、創設60周年を記念し、同志社大(京都市)で歴代会長による対談を行った。
(中略)
大学の教員ら約40人が参加した会長対談で、大橋謙策・東北福祉大大学院教授(2007~09年の会長)は「社会福祉士ができてから、(大学での教育は)福祉制度の解説にとどまっている。社会福祉士を作ったことが間違いだったかとすら思う」と話した。
(中略)
社会福祉士の藤田氏は「私は社会福祉学部、大学院を修了したが、面白くなかった。制度の解説、面接技術などミクロレベルの技術に傾倒していた。ソーシャルワーク教育は失敗したと言わざるを得ない」と話した。
また、学説などの論争が見られない福祉の業界体質にもメスを入れ「対等で緊張感のある激しい議論や批評がない業界に発展はない」と指摘。著名な学者にも遠慮せず論争を挑むべきだとした。
私も「福祉領域」に身をおいていたことがあるので,この記事に出てくる方々の言わんとするところは分からなくありません.
そのようなわけで,少し「福祉教育」に浸った私の意見を述べてみたいと思います.

抜粋した記事中にもある藤田氏の指摘.「対等で緊張感のある激しい議論や批評がない業界に発展はない」という点について,“言いたいこと” はよく伝わってきます.
福祉領域における研究や議論というのは,どうしても重箱の隅をつつく感が否めないのです.彼らの研究というのは「正解」というものが元々あって,その正解をどのようになぞることができるか? が重要視されているように思えるところが多く,そもそもその「正解」は本当に正解なのか? といった部分に切り込む研究者や学生が少ない印象です(ホントにこれはただの私の印象です).

「そもそもその正解は本当に正解なのか?」という姿勢は非常に野心的です.もともと学術研究というのはそういう色が強いものなのですが,福祉領域ではこうした「野心的な姿勢」というものが嫌われているという印象があります.

もっと言えば,「社会福祉」という「職場」の範疇を自分たちで決めてしまい,そこでの活動をより充実したものにするための研究をしている,というように見えるのです.
もちろん,一部の研究者がそういう姿勢であるというならいいのです.他分野にも類似した姿勢で臨んでいる研究者はいます.が,福祉領域の研究者はその比率が高い,という印象があります.

そもそもこの「ソーシャルワーク教育が失敗した」というテーマですが,もともと成功するものではなかった,としか言いようがないものです.
かなり以前に書いた記事に,
と,
がありますが,そこで述べていた「大学で職業訓練は不可能」という部分について,ものの見事に「不可能であること」を証明してくれたのが社会福祉士養成です.
※その後も,
という記事のシリーズを最近書いたので,こちらもどうぞ.

上記のYahoo!ニュースのところにある「コメント」にもありますが,
「現場が第一」
「現場を知らない者が教育をしている」
という趣旨の発言がありますね.

そしてこうした意見・コメントに従順に対応しようとする大学教育現場がそこにあるわけですけど.
厳しい言い方になりますが,これが福祉教育,ソーシャルワーク教育のレベルの低さを物語っているのです.

「現場が第一」「現場を知らない者が教育をしてる」仰りたい事はわかるし間違っていないのですが,それは大学という機関に求めるものではありません.
そもそも大学における教育や研究,そして学生は,現場のために存在しているわけではありません.ここを勘違いしている人があらゆる方面に多い.そこが問題です.

現場が大事だからって,大学が現場のための教育をしていたら「大学」じゃないですし,現場の人が大学で教えてたら碌な奴が育ちません.
過去記事でも何度が述べましたが,「私は現場を知っている」という自慢をする教員ほど悪質なものはないですからね.

もちろん現場を知っている人の講義を受けることを否定しているわけではありません.例えばゲスト講師のような形で,ワンポイントの授業を受けることは良い刺激になるでしょう.
そもそも「現場実習」を受ければ,現場の方々から現場で教えてもらえるわけですから,それで十分とも言えます.

現場のレベルを高めるのは大学ではありません.それは現場の人です.
現場のレベルが高まらないのを大学のせいにしてはいけません.それは現場の人のレベルが低いだけのことです.
大変失礼なことを私は言っていますが,これは心を鬼にして言っているのです.

他の業種で考えてみればわかるかと思います.医者にしても教師にしても弁護士にしても,大学教育のカリキュラムや方法によって現場のレベルが変わるわけではないでしょう.いえ,もっと単純に,一般企業に就職する人材にしてもそうではないですか.それと一緒ですよ.

福祉とは何か? 日本における福祉のあり方,その実態や哲学など,そうした部分を研究することが大学における活動であるし,そうしたことを学ぶことが学生のためになるという事を,あらためて問い直されている.
それが日本の福祉における教育研究ではないでしょうか.


2015年11月15日日曜日

井戸端スポーツ会議 part 26「もう少し敗戦国・日本をスポーツから見る」

フランスで大変なことが起きていますね.
だからというわけではないのですが,引き続き戦争・紛争にまつわる話をしてみたいと思います.

さて,前回の記事,
井戸端スポーツ会議 part 25「戦争に負けた国(日本)がとるべき態度」
で言いたかったことを一言にしてしまえば,
敗者が敗因をゴチャゴチャ言うな.ましてや「俺達は本当は凄かったんだ」なんて,みっともない.そんな事言っても誰も(世界は)同情なんかしてくれないよ.
ということであり,そしてそれは,戦争を一つの「スポーツ」として捉えると理解しやすくなるのではないか,というものでした.
なぜならそもそも戦争とは,人が利を求めて起こす集団的・組織的な暴力行動を「スポーツ(遊び)」にしたものだからです.
ゆえに戦争で求められる振る舞いは,スポーツでのそれと同じになると考えられます.

その上で今回は,少しくらいは愛国右翼的な人達が癒やされそうな話をしてみたいと思います.
第二次大戦における日本とは何だったのか?という点です.

私自身,ちょっとは第二次大戦のことを勉強したつもりではありますが,やっぱり専門的に,かつ,特定のイデオロギーのフィルタをかけて熱心に勉強したわけではない者でして.
この手の話はブログでも敬遠してきたところでもあります.

だからこそと言うか,比較的右翼でも左翼でもない考え方を持っているのかもしれないというところから「あの戦争における日本」について述べてみようというものです.

まず,教育現場にいる立場からの感想としては,こうした第二次世界大戦についての話題というのはとても配慮が必要である一方で(そしてここが重要なポイントになるかと思うのですが),多くの学生にとっては特に関心がある話題ではないということです.

今年の夏に話題になった某学生団体なんてのは極めて例外的な若者たちで,あのような活動を通じて「戦争」のことを積極的に論じようとする者は非常に少ないでしょう.
これは最近の学生に限った話ではなく,戦争のことについて深く考え込む人が多数だとは考えられない,というのが実感です.

まして第二次世界大戦のことなんて,はっきり言ってどうでもいい.戦争に負けたとか,その戦争の正義がどちらにあったかとか,あの戦争によって日本がどのような立場に立たされたのか,なんてことには関心がないわけです.

正直に言えば私もそうした若者の一人ですし,どうしてこんなにメディアや言論人が必死こいて,いきり立って,病的な振る舞いを見せつつ論戦を重ねているのか,どうしても理解しきれないところがある,というのが本音なのです.

だいたいおかしいではありませんか.今から半世紀以上前の戦争について,こんなにもクローズアップして取り上げようとするなんて.
いっそのこと同じような意気込みで,第一次世界大戦や日露戦争,関ヶ原の合戦や湊川の戦いも取り上げてもらいたいところです.
ようするにここで言いたいのは,もう第二次世界大戦は「歴史」として扱い始めても良いのではないか? ということです.

こんなこと言うと,
「いや,先の大戦の影響は今でも続いているんだ.敗戦国根性のままでいてはダメだから,誇りを取り戻すためにも先の大戦での日本の偉業に焦点を当てることも大事なんだ」
とか,その一方では,
「日本が二度と戦争をしないためにも,戦争がどれほど残虐非道なものか知る必要があるんだ.そのためにも,先の大戦での日本のネガティブな部分に焦点を当てることは大事なんだ」
などと言い出す人がいるかもしれません.

たしかにあの戦争について興味関心が高い人からすれば,そういった気持ちになるでしょう.
しかしこれは,どうしても「第二次世界大戦という話題が好きな人」だけに通じる気持ちというところを免れないんです.「関ヶ原の合戦という話題が好きな人」とか「ポエニ戦争という話題が好きな人」と同じものとして捉えられてしまいます.

考えてもみてください.関ヶ原の合戦において石田三成にどれだけ義があったか,西軍が本当は勝てるはずだった,なんてことを熱心に,そして感情的に語られても,「ハハハ,そうだねぇ(うわっ,えらい変わった人やなぁ〜)」ってなるでしょ.それと一緒です.

※だからこそ前回の記事は,直近の戦争における敗戦国である日本はどのような立ち居振る舞いをすれば良いのか,スポーツの観点から論じてみたわけです.

現実的に考えてみますと,やっぱり人って半世紀以上前のことをいつまでも引きずることはできませんよ.
ましてや現在の若者(大学生以下)は,第二次世界大戦を経験したことがある者がまったくゼロの家庭で育ってきています.あの戦争のことを意識しろってのが無茶な話です.

もちろん,先の大戦における敗戦国であることの影響は今でも続いているのでしょう.なので日本が国際的なニシアチブをとれるようにすることは望ましいことです.
もちろん,先の大戦と同じ過ちを日本が繰り返さないようにするべきでしょう.なので,できるだけ日本が戦争に巻き込まれることは避けたいですね.

でも,それはそれ.
先の大戦がどうだったのか,敗戦したとか,悲惨な思いをしたとか,犠牲がどれだけあったのか,なんてこととは無関係に「現在の安全保障」は考えなければいけないことなのです.

むしろ,もうそろそろ先の大戦の話題を,今現在の日本に直結させようとすることを諦めてはどうか? ということを言いたいのです.
こういう意見に対しては,「過去の戦争があって今の社会があるんだ.歴史を重んじない者に未来はない」なんてことを言い出す人もいるでしょう.
ですが,そんなこと言い出したら「先の大戦」だけが今の日本につながっているわけではありません.第一次世界大戦だって,西南戦争だって,関ヶ原の合戦だって,全部つながっているのです.

別に歴史や過去の戦争を無視しろと言いたいわけではないのです.第二次世界大戦を偏重して扱う必要はないでしょ,ってことです.
あれは日本の歴史の1ページ.
昔からこの極東の地で何度か繰り返されてきた,天下分け目の戦いの一つです.

だからあえて言いましょう.
例えば特攻隊.
なんも政治的・イデオロギー的なフィルタを通さずに,普通に聞いてみれば,こんな劇的で英雄的な話はありませんよ.
何を隠そう,私が初めて神風特攻の話を聞いた時(小学生くらい)は,「へぇ〜,そんな作り話みたいな作戦があったのかぁ」って感心しましたから.
その後ですよ.やれ「悲惨」だの「無謀」だのというイデオロギーが入ったのは.
だけど,一般的な子供が「自爆攻撃」って聞けば,ちょっとヒロイックな話だと思うもんでしょう.

だから,特に愛国右翼的な皆さんは安心してください.あと100年もしたら,日本の特攻隊は人類史上におけるレジェンドになるはずです.
きっと「スリーハンドレッド」みたいな歴史アクション映画の題材になったりするはずですから(その頃には「映画」が存在しないかもしれないけど).

関ヶ原の合戦での「島津の退き口」をご存知でしょうか.その際の捨てがまり戦法にしたって,「なんて男気溢れる決死の作戦なんだろう」などと悠長なことを言ってられないくらいの非人道的な作戦でしょ.
でも,時が経てばファンタジックな話になるのです.本当は嫌々戦っていた者もいたとか,捨てがまりの同調圧力から免れなかった,なんてことは語られなくなるものです.

もしかしたら,9.11ワールドトレードセンタービルに突っ込んだ連中も,あと200年くらいしたら英雄視されているかもしれません.
そんなもんだと思っています.

2015年11月9日月曜日

井戸端スポーツ会議 part 25「戦争に負けた国(日本)がとるべき態度」

「井戸端スポーツ会議」と題する記事のアクセス数が少ないんです.
当初からアクセス数が伸びる記事にはならないだろうと予想はしていたのですが,やっぱり伸びませんでした.

でも,私としてはコレが専門でもありますし,ちょっと寂しいところがあります.
なんとか「スポーツ」の観点から物事を捉え,考える記事のアクセス数を伸ばそうと,
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」
のような内容で哲学じみた話をしてみたり,
井戸端スポーツ会議 part 16「体育の授業で得てほしいこと(特に大学で)」
みたいな記事で教育を論じてみたり,
井戸端スポーツ会議 part 23『東京五輪エンブレム問題に見えるスポーツの危機』
といった当時炎上中のニュースを引き合いに出してみたり.
いろいろやってきましたが,どうやら「スポーツ」をタイトルにした話題って伸びないんですね.
じゃあ,スポーツに関するブログ記事でどんなのが伸びるのかって言うと,たぶん今注目されている選手・チームについての芸能ニュースっぽいやつなんだろうと思います.

とは言え,そんな私の記事の中でも例外的によく読まれているのが,
井戸端スポーツ会議 part6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」
なんです.
この記事が伸びている理由は不明ですけど,なんだろう? ドラゴンボール効果でしょうか?


「スポーツ」の観点から物事を捉え,考えるというコンセプトの本シリーズですが,ここ最近書いているイデオロギー系(右翼系叩き?)の記事とコラボしてみることにしました.そっちから攻めればアクセス数が増えるかもしれないと考えたからです.
というわけで,今回のテーマをこちらにしました.すなわち,
『敗戦国・日本がとるべき態度は「スポーツ」で説明がつく』
さらに言えば,昨今の右翼・保守系の言論には「スポーツ」の観点からすると “やってはいけない” 敗戦国民の態度がたくさん散りばめられていて,そのことが日本を「敗戦国」のままにし続け,且つ,諸外国からの信頼を失うことにつながる
というものです.

まず話の前提となる考え方からお示ししましょう.
「戦争」とは何か? という点です.
よく,「スポーツは暴力性を廃した戦争だ」とか,「国際スポーツ大会は,その国同士の戦争みたいないものだ」とか言われます.
つまり,「スポーツは戦争に類似したもの」という捉え方をされることが多いわけですが,実際のところは逆で,「戦争はスポーツに類似したもの」,もっと言えば,「戦争とは,命のやり取りをするスポーツ」であり,「国同士のスポーツが戦争」だと言えます.

なぜかと言うと,人類が誕生して後,きっと戦争と呼ばれる活動よりも先にスポーツが存在していたであろうことは想像に難くないですし,近代以前のスポーツは非常に強い暴力性を持ったものが多いのです(中世のサッカー祭りや騎士の決闘など).今でも「スペインの闘牛」や「だんじり祭り」といった生命に関わる部分を残した古典的スポーツが現存しています.
また,戦争において求められる決着のつき方や美徳,ルールといったものは,やはり人間の「スポーツする心」から発祥したものであることは容易に察することができるからです.

人間とは「遊ぶ」ことで文化を育んできたというヨハン・ホイジンガの考え方がありますが,その遊び方の一つにスポーツがあり,そのスポーツの一つに戦争があると捉えられるのではないかと思います.

相手の国や兵力を無慈悲に無力化することを最優先に行動することもできるのでしょうが,やはりそれは「良い勝ち方」ではないと評するのが人間であり,そうした美徳やこれに準ずるためのルール作りをしてしまうところをみれば,戦争はスポーツの形態の一つであると考えられるわけです.
その辺の細かいことは過去記事を読んでください.

それ故,「戦争はスポーツである」のだとすると,戦争で決着がついた時にとるべき態度やその後の行動も,スポーツで決着がついた時のそれと同じものではないか? ということが考えられます.

では,どのような態度や行動が求められるのか? というところですが,スポーツにおいては以下のような美徳が論じられています.

例えばドイツの詩人であり哲学者のカールダイムはこう述べています.
威張らず誇りをもって勝て
言い訳をせず品位をもって負けよ
勝利より大切なのはこの態度なのだ
汝を打ち破った者に最初の幸福を
汝が打ち負かした者には感動を与えよ
これは私達が関わっているスポーツ指導者研修会で紹介しているもので,そこで私の後輩になる講師の一人がジュニア選手対象のセミナーで引き合いに使っているものです.

さらに言うと,スポーツマンシップが端的に示されるのは「負けた時」だとされていて, それをグッド・ルーザーGood Loserと称します.
グッド・ルーザーとは,負けた時には素直に負けを認め,しかし頭を垂れず,相手を称え,意気消沈せずに次に向けて準備を行なう人のことを指します.それが真のスポーツマンだとされるのです.

話を戦争に戻せば,つまり上記のようなスポーツマンシップが戦争においても求められるのではないか? ということなのです.

もちろん,我々がよく知る「近代スポーツ」と「戦争」には表面上は大きく違いがあるように見えるでしょう.
しかし,戦争の本質がスポーツであるならば,近代スポーツにおいて求められている美徳・スポーツマンシップが,戦争においても試されていると考えることもできるはずです.

では,先の世界大戦における敗戦国はどのような態度や行動をその後とってきたでしょうか? 特に敗戦国・日本のそれが,その国民である我々にとっては重要な課題になってきます.

まず,負けた後の態度というところですが,最近これが結構問題ではないかと考えられるところです.
いわゆる右翼・保守的な人に多いのが「あの戦争で日本は悪者になっているが,実は日本にも言い分や正義があった」とか,さらには「日本のほうに正義があった」といったタイプの言論です.

これは戦争をスポーツの一つとして考えた場合,非常にマズい物言いだと考えられるでしょう.
なんせ,負けたくせに「自分たちは悪く無い」とか「自分たちのほうが優れていたんだ」と言っているんじゃないかと捉えられる,勘違いさせる物言いだからです.
少なくともそんなことを言う国はグッド・ルーザーではありません.

日本がもう一度戦争をして勝たない限りは「ルーザー」であり続けることになるのですから,理想的にはグッド・ルーザーであることが求められるわけです.

私だって「日本にも正義があった」という考え方を否定はしません.そういう見方もできましょう.
ですが,それを自分たちから訴えてはいけないのです.そんなことを表立って訴えた時点で,スポーツの観点からすればその国は「悪」です.
「負けた側にも正義があった」と表立って言えるのは,負けた側の国・国民ではなく,勝った側や外野の連中です.

「そんなの納得できない! 勝った側がそんなこと言うわけないじゃないか!」とおっしゃられるかもしれませんが,残念ながらそれが敗戦国が立たされる立場です.負けたんだから仕方ない.

考えてもみてください.例えば野球の試合後,負けた側のチームの選手や監督が,「実際のところ,勝つべきは我々だった」とか「パフォーマンスはこっちの方が上だった」「相手はルール違反が多かった」なんてことを言ってたらどう思われるでしょう.
敗戦国が「自分たちにも正義があった」と言い出すのは,それと同じことと言えます.

「勝つべきは我々だった」そりゃそうかもしれませんが,それは相手だって同じです.
戦争においては命を尽くして戦ったのです.そして勝った.
なのに負かした相手からそんな言葉が出てきたら「こいつら自分の立場が分かってねぇのか?」とカチンとくるに決まっています.

「我々にも戦う理由や正義があった」と言いたい気持ちは分かります.悔しいですからね.「相手はこっちよりもルール違反をしていたじゃないか」と嘆きたい気持ちも分かります.
ですがそれは,戦争というスポーツをして負けた側の口から出てはいけない言葉なのです.
敗戦国には敗戦国としてとるべき態度があるのです.

では敗戦国はどうすればいいか.それもスポーツの美徳から,グッド・ルーザーの美徳から読み取れるのではないでしょうか.
負けた時には素直に負けを認め,しかし頭を垂れず,相手を称え,意気消沈せずに次に向けて準備を行なう
それが敗戦国のとるべき態度です.
日本は表向き「素直に負けを認め」,屈折した形であったかもしれないが「相手を称え」ることはできたのではないかと思うんです.

ですが,「意気消沈せずに次に向けて準備を行なう」ことをしただろうか? 私はそこに少し疑問があります.
その準備とは単なる経済発展だったのではないか.意気消沈したことを隠すためにビジネスに傾倒し,軍事や安全保障の議論を避けたのではないか,と.

さしずめ,試合に負けた野球チームが「負けた理由」を探し出すためのミーティングを延々と繰り返し,「負けたお前らなんかクソ食らえ!」とか言って選手の給与を下げたり, “罰として練習禁止令” なんか出してみたり,仕舞いには,観客へのファンサービスが足りなかったんだと練習そっちのけで選手をファンサービスのために駆り出す,なんて感じだったのが敗戦国・日本の姿だったのではないか,と.

敗戦国は何もかも諦めて屈服しろというのではないのです.
素直に負けを認めて,勝者を称えてみせる.しかし,次の戦争に向けて虎視眈々と準備する姿勢をとることが正しい負け方なのです.
もちろん勝利国はそれを妨害するでしょう.簡単に次に向けた準備なんてできないのは当然のことです.ただそれでも,
絶対に諦めてはいけない.
結果ではなく,勝とうとする葛藤の中にこそ,
真の喜びが隠されている.
(堀江忠男:1936年ベルリンオリンピック・サッカー日本代表)
というのが真っ当な国家の在り方であり,その「真の喜び」というのが国としての誇りや存在価値ではないかと思うのです.

私はむしろ,いつまでも「敗戦国・日本」という論じ方をすること自体に倦んでいます.
もっと違った観点から論じるべきではないのだろうか? ということで,これについてもスポーツの観点が活かせるのです.

大事な試合に負けた選手やチームが,次に向けてどのような姿勢をとるべきなのでしょうか.
「この前の大事な試合に負けた我々はどうするべきか」とか「また試合に負けたらどうするのか」,果ては「この前の試合はスコアでは負けていたけど,内容では勝っていたんじゃないのか」なんて過去を引きずったままの姿勢で挑む選手・チームは先が見えています.

反省すべきところは反省するとしても,それは次の試合に活かすための分析材料とし,気持ちを切り替えて地道にトレーニングやスキルアップに勤しむことが大事であることは,まともなスポーツ指導者なら周知のことと思います.