2016年3月28日月曜日

アホアホマンに見る「アホな政治」

前回の記事である,■突然ですが,メールにお応えしますで取り上げたなかに,
「保守・右翼の言動があまりに酷い件」
がありましたが,せっかくなので関連したものをもう少し続けてみます.

「せっかくなので・・」というその実,今回の話題は知り合いの先生と一月くらい前に話題にしていたことで,「これ,近々ブログに書いときますよ」と談笑していたものです.

皆さん,「アホアホマン」というのをご存知ですか?
古すぎて何年前だか覚えていませんが,テレビ番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』でやられていたコントです.
ご存知無いという方は,「参考」として以下のURLを御覧ください.
https://www.youtube.com/watch?v=NuJiQVqMu14

単純に面白いコントであるとは思うのですが,何が面白いのかっていうと,ここに出てくる「アホアホマン」で描こうとしているテーマです.
このコントを考えた人(ダウンタウン?松本人志?)は,アホアホマンを通して何を描こうとしているのか?
それは「究極のアホとは何か?」ではないかと思うのです.

このコント,現在のテレビではきっと放送できないんだろうなという内容です.アホアホマンは知的障害者に見えますしね.今なら「障害者を侮辱している」などと言われかねません.

このコントで示されているのは「アホが正義のヒーローになってしまうと,それはもう笑うしかない」という,ある種の悲しみを含んだものに映ります.
そう言えばダウンタウンの松本人志は,「笑いの裏に,悲しみがある」とも言っています.
http://www.nhk.or.jp/professional/2010/1016/(←NHKウェブサイト『仕事の流儀』より)

知的に劣る者が正義のヒーローになったらどうなるか? それはもう「悲しい」ことになるわけです.いっそ笑うしかない.
そして,
「アホが正義のヒーローになるという状況は,むしろ現代社会においてあり得るのではないか? 」
と,そうした問題意識がこのコントのベースにあるように思えてなりません.

「正義のヒーロー」というのは,明晰な頭脳と行動力が必要とされる代表的な存在です.
現実の社会において「正義のヒーロー」と同じ明晰な頭脳と行動力が求められるものと重ね合わせてみると,このコントの面白さがさらに増します.

もっと言えば,このアホアホマンで描かれている「アホが正義のヒーローになる状況」は,既に現在の日本(に限らず世界中)で実際に起きているのではないか.
つまり,アホアホマンとは,現実において「正義のヒーロー」と祭り上げられた者・組織が引き起こしている出来事をデフォルメしていることにならないか.
そんなふうに考えさせられるのです.

例えば,上記のURLにもあるアホアホマンのコントには,こんなのがあります.

(敵と対峙して戦っているシーンにて)
浜ちゃん「よぉ―っし,アホアホマン!『アホアホハンド』でやっつけろ!」
ナレーション:アホアホマンは,アホアホハンドを装着することによって,鋼鉄をも貫く100万パワーのパンチ力となるのですな.
(そして攻撃シーン)
アホアホマン「キーック!キーック!」
浜ちゃん「なんでやねん!なんで足やねん!パンチやろ!」

と,まさにアホですね.せっかく強力な武器を用意しても,それを使わない.そして使い方を間違えている.
アホが正義のヒーローをやってはいけないのです.
これはコントの中だけの話でしょうか?
いえ,私にはこのコントで描かれているものが,現代社会や政治経済においても同じことが起きているとしか思えないのです.
実際に起こっていることをアホアホマン風にしてみますと,

浜ちゃん「よぉ―っし,アホアホマン!『アホアホアロー』でやっつけろ!」
ナレーション:アホアホアローとは,3本同時に放たれた矢が相乗効果を生み,鋼鉄をも貫くことができる必殺の武器なのですな
アホアホマン「えい!」(2本の矢が飛んでいく)
浜ちゃん「なんでやねん!なんで2本しか撃たへんねん!全部撃たな意味ないやろ!」

と,そんな感じです.

他にも,それを見て爆笑と同時にゾッとしたのが以下のURL先のコントでして,これってまさに政治的に筋の通っていない,その場しのぎの “アホな” 「補助金」とか「優遇措置」を表現しているように見えるのです.
最近では「沖縄基地問題」とか「保育所問題」に通底する「アホさ」が読み取れます.
https://www.youtube.com/watch?v=WSvW181ho00
この一連のシーンは,全編を通して最も神がかっていると思いました.

(深さ30mの穴に,女の子が落ちてしまった危機的状況において)
浜ちゃん「ゆうこちゃんが穴に落ちちゃったんだよ.助けてよ!僕はゆうこちゃん無しじゃ生きていけないよ!」
アホアホマン「アホアホドール!」
ナレーション:これを,ゆうこちゃんだと思って生きていくのだ
浜ちゃん「やかましわボケ!アカンねんこんなフニャフニャでは.助けてくれよ!穴に落ちてるんだよ」
アホアホマン「うん!アホアホロープ!」
ナレーション:アホアホロープとは,超合金で作られた10万トンの重さにも耐えられるロープなのだ
(20cmくらいのヒモを取り出す)
浜ちゃん「短いやないか!短い!30mやで,もっと長いの長いの!」
アホアホマン「うん!アホアホロングロープ!」
ナレーション:アホアホロングロープとは,10万トンの重さにも耐えられるロープで,なんと,さっきの倍の長さがあるのだ
浜ちゃん「だから短い!まだ短い!もっと長いの!」
アホアホマン「アホアホチェーン!」
ナレーション:アホアホチェーンとは,ダイアモンドと同じ硬さで出来た金属の輪と輪を,非常に弱いプラスチックで結んだチェーンなのだ
浜ちゃん「アカンやないかこれ!切れるがなこれ」

「助ける」ことになっていない政策を揶揄しているとしか捉えられない笑いです.
ありますよね.どうしてこんなに複雑な手の抜き方をしてるんだろうか,という補助.
そこまで複雑にするなら,いっそ手を抜かなきゃいいのに,と思えるような政策.

なんにせよ,アホアホマンは全編をしっかり見ることをオススメします.
非常に示唆に富むシーンが目白押しです.

このコントの作者はそこまで意図して作っているわけではないのかもしれませんが,「アホな正義のヒーロー」をテーマに作り込む過程で,そこに「アホ」に関する普遍的な哲学が宿ることもあるでしょう.

突然ですが,メールにお応えします

この半年くらい,やや思想的に際どい話をする記事が多かったものですから,それについてメールをいただくことがありました.
あと,大学の在り方についてもお便りをいただきます.

もともと,このブログについていただくメールのほとんどが「統計学」に関するものでして,それらには出来うる限りのことをお答えしているのですが,上記のことについてはあまり返答をしていないのが実情です.

いっそ,ブログ内にコメント欄を用意して,そこで自由に記入するようにすればいいのではないかと考えたこともあります.が,それはやっていません.

これについて,何年か前の記事で「コメント欄」を用意していないことについて言及したこともありました(■お便りにお答えしたもの).
そこでは,
Q.コメント欄を用意してくれれば,双方向性のあるブログになるのではないでしょうか?
A.あまり双方向する気がないので.
とだけ回答をしているわけですけど,その理由を少しお話したいと思います.
別に仰々しい理由があるわけではありません.
コメント欄を用意しても,汚い書き込みが出るだけで,建設的なやり取りにならないだろうからです.

以前(15年くらい前),私が大学生の頃ですが,所属していたクラブのホームページ担当をやっておりました.
当時は,今ほどではないですがホームページを作るのも簡単になりつつある時期で,ネットやパソコンのことをほとんど知らない私のような学生でも,なんとかいじることができるようになっていました.無料でホームページ・スペースが提供されるサービスが始まった時期ですね.
「これからの時代はITだ」などと言う先輩やコーチの命令を受け,四苦八苦しながらホームページを立ち上げたのも今は懐かしい思い出です.

その時,クラブ活動のホームページに「コメント欄」を作ったのですが,普段はほとんど書き込みなんぞありません.
それでもたまに試合情報などを入れると,OBや同級生などから,
「がんばれ!」「応援してるぞ!」「試合観に行くね!」
といった書き込みが入るのですが,いかんともしがたい空虚な感触を拭えなかったのを覚えています.
だけならまだしも,いたずらや意味不明な書き込みも発生しますので,それにいちいち対処しなければならないことが面倒な事この上ない.

その後時は流れ,ミクシィやツイッターとかフェイスブックといったSNSと呼ばれるものが台頭してきました.
私もフェイスブックには手を出しましたが(■facebookはじめました),これがまた同じような使用感でして.
何かの記事を書いたら「いいね」とか,短いコメントが入ってくるんですけど,なんだかなぁ〜,と.
今では諸々の同窓会の連絡網としての利用のみです(逆に言えば,同窓会メンバーの検索や連絡には便利かも).

つまり,こうした「コメント欄」を用意しても,何か良いものが生まれるわけではない点が,極めて個人的ですが単純に「気に入らなかった」.だからこのブログを始めて間もなく「コメント欄」は外しました.

コメント欄を外したとしても,どうしても問い合わせたいことがある人やコメントしたい人はメールを打ってくれます.それでいいじゃないですか.

知り合いであれば,直接会った時なんかに話題として取り上げて議論になります.それでいいのです.

中には,このブログをきっかけに取材に来た新聞記者や,お酒を酌み交わすまでになった人もいます.■学校教育対談

ネットでは無責任で汚い言論(書き込み)が多く,この原因として匿名性が挙げられていますが,もっと言えば,書き込み作業が簡単だからです.
「刺激」となるものに対する「反応」が容易な構造になっている場所で,そうした無責任で汚い言論は多くなります.

フェイスブックを使ってみて痛感したのですけど,「いいね機能」がこうした一連の「無責任意思表示」の権化のようなものですね.
刺激-反応モデルだけで,何か無難な意思表示をした気にさせるものなのです.
たまに投稿記事を眺めては,それにポチッと「いいね」を押していく作業.ポチッ,ポチッと画面を見ながら押し続けていくのです.ふと我に返ってそんな自分に寒気がしました.これは呪いのシステムだと.

話は長くなりましたが,私がブログで双方向性を強調せず,コメント欄を用意していない理由は上記の通りです.

さて,話は戻りますが,一念発起して私に向けてメールを書いてくれた方々がおります.
仕事のメールじゃないもんですから,「返信不要」の意志が読み取れる場合などは大変失礼ながら放ったらかしてしまった人もおります.
記事を連続で出している途中などは「次の記事がそれへの回答」だという場合もあったりしますし.

とは言え,ちょっと罪悪感もあったりするので,それらへの返答としての記事をここに書かせていただきます.

昨年の後半では,やや政治的な話をさせていただきました.その際,
なぜ右翼・保守的言動をする人にバカが多いのか
に対するメールに以下のようなものがありました.

Q.ここで言う「右の人(右翼)」「左の人(左翼)」が具体的に認識できません
A.これはもっともなご意見で,続く記事でそれらについて私なりに解釈しようと試みているのですが,件のメール送信者にはお答えしないまま放置してしまいました.

私も政治思想を専門にしているわけではないので強くは出れないのですが,「右翼・保守派」と「左翼・革新派」といった左右の議論に,ある種の「混乱」が起きているという認識でいます.
だから「右の人」「左の人」というのが具体的に認識できない,というコメントが来るのは至極当然だと感じました.私もそこが「おかしい」と思っている点だからです.

何がおかしいかって,「保守派を気取っているのにどうして革新的な態度を取る人が多いんだろう」ということです.
つまり,「右」だと自称したり,一般的に見做されたりするのに,なぜか左みたいな言動をする,それはそれは奇妙な光景で,どうしてなんだろうかと考えると,それは彼らが「バカ」だからではないか,というのが私の言いたいことだったわけです.

メールを送っていただいた方は,
つまりは「極端な左右は同レベルに程度の低い信者にしか過ぎない」という点を指摘されていましたが,私としてはそれは当然のこととして,
「バカは左右の信者になるが,中でも右の方がバカさ加減が酷い」
という点を述べさせていただいたわけです.

これについて,片手間に書いているブログでは整理して詳細に説明できませんでしたが,その点をきっちり書いてくれている書籍がその後出版されたんです.
適菜収 著『ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒』
という本でして,面白いことにその第一章が「なぜ保守派はバカが多いのか」なんです.
この部分を読ませていただき,「そうそう,これが言いたかったんだ」という感じ.

このブログ記事だけでは御納得いただけない方は,ぜひとも適菜収 著『ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒』を御一読することをオススメします.私も自分の考え方を整理する上で勉強になりました.


もう一件は,大学の在り方についてで,「専門職大学」に関するご意見です.
つい先日いただきました.

Q.学術的な教育をしている大学は底辺私立には少なく,手の施しようがないところまで来ている現在,専門職大学になることは是ではないか
A.曰く,手の施しようがないところまで来ていて,且つ,「本当は専門学校にしたいが,現役教員や学生のメンツの為に「大学」と呼ぶ」ために専門職大学を設置するという手段はありではないか? ということです.
これについて教授会で回答を求められたら,私も「そうですね.そうかもしれません」とお答えするでしょう(笑).
実際,その場で仕事をしているとそういう気になりますので.

ですが,私がもし発言力を持った立場にいれば,なんとかして抵抗したいことなのです.
現時点ではブログを書くくらいしかやれることはありませんが,これはなんとかしたい.

なぜなら,専門職大学を設置したところで,この国の教育の在り方が望ましい方向には向かず,むしろ悪化するという懸念を持っているからです.その理由はいろいろな記事で述べてきた通り.

ではどうすればいいのかと言われれば,「大学」という教育機関に求められていることを粛々と行えるような整備をまずするべきです.
大学教育の質が低下している,などと言われることがあります.
質を低下させたのは大学ではありません.国民です.
当たり前でしょう.大学が自分たちの質を下げようなどと思うわけがない.

職業能力を高めようとすれば,大学教育の質は低下します.
職業能力の向上に大学教育は不要だからです.研究能力や哲学的な思考力がなくても就職はできます.
もっと言えば,職業能力が高まろうとそうでなかろうと,この世の若者は何かしらの職業には就く.それは中卒であろうと高卒であろうと,大学・大学院を出ていようといまいと関係ないのです.

だから大学としては教育の質を下げて対応しようとします.その方が大学としては楽だからです.
大学教育の質を保ったまま職業能力の向上などできるわけがない.できるかもしれないが,それには膨大なエネルギーがいる.だから手を抜く,楽をしたいから.だって大学教育の質を下げてもさほど不満は出ません,職業能力を高めるほうが喜ばれるのですから.

結局何が言いたいのかといえば,この国の指導者が「大学教育」というものをどのように捉えているのか? という点に尽きるわけです.
「大学全入時代」・・・,良いではないですか.何の問題がありましょう.
日本の多くの若者が,高度な研究能力や哲学的思考力を高められる教育を受けられるようになるわけです.大変喜ばしい.
きちんと大学教育を受けられれば,今よりは「保守派なのに革新的な言動をする」などということに疑問を持つ国民は増えるはずです.

ただし,そのためにはそれ相応の出費を覚悟しなければいけません.
職業能力さえ身につけばいい,学生の満足度を高めればいいという教育思想をもった大学経営を許してはいけないし,そうしなければ生き残れない環境に置いてはいけない.
安定した研究教育活動が行えるだけの予算が確保されなければなりません.
※ちなみに,日本の公的教育支出が非常に低いことはよく知られています.
参考資料:教育投資の水準 - 文部科学省(←PDFページ)

それに対し,
「それだとコストパフォーマンスが悪いのではないか」
などと言われたら,もう絶望するしかありませんが.

関連記事
なぜ右翼・保守的言動をする人にバカが多いのか
専門職大学に思うところ

推薦図書


2016年3月19日土曜日

保育のこれから2

前回の記事では,待機児童問題について現政府がやっているのは
「保育所の受け皿を増やしただけで,保育所を増やしたわけではない」
ということをお話しました.

もっと言えば,そもそも「保育所を増やす」なんてのは目先の課題で,ましてや受け皿を増やすなど論外.待機児童問題の本質は「保育に欠ける世帯を減らすこと」ということも論じたところです.
※こういう “目先の問題解決に勤しむメンタリティ” を育みやすい「問題解決型の教育」については■問題解決能力を高めることの危険性も合わせてお読み下さい.

しかし,「保育に欠ける世帯を減らすこと」が重要だと説いたところで,虚無感に襲われます.
「女性が輝く日本」
とか
「一億総活躍社会」
などというものを,あろうことか「保守」として取り組む現政府が世論の支持を受けて推進しているわけですから,なんとも悲しい気持ちになるのです.

そんなわけで,待機児童問題について現政権は「保育に欠ける世帯を減らす」のではなく,「保育所の受け皿を増やしましたよ」という国会答弁をしているわけですが,
7日の参院予算委では、福島瑞穂氏から「政策の失敗だ」と批判された首相が「政策の失敗というが、失敗ではなくて、福島委員が政権におられたときよりも(保育所の受け皿を)20万人、40万人増やしている」と色をなす場面もあった。[産経新聞2016.3.14]
それについては,以下の厚生労働省のPDFページにある,
保育所等関連状況取りまとめ(平成27年4月1日)(厚生労働省)
を見ながらお示ししたデータがこちら↓

一見して気になる点は,「保育所が減ってるじゃないか」というところでしょうか.
そうです.つまり,多くの世帯が「保育所」を求めてさまよっているにも関わらず,「保育所」を減らして「保育所っぽい施設」を増やすことにより,「ほらね,“保育所の受け皿” は増えたよ」ということなのです.
死ねばいいのに,とネットで叫びたくなる気持ちも分かります.

が,何度も言いますけど,それはこの問題の重要なところではありません.
保育所を求める家庭が増えてしまっている,ということが深刻な問題なのです.
むしろ,今回の保育所・待機児童に関するネット騒動って,問題の本質をそらすために撒かれた種ではないかと陰謀論を唱えたくなるほどです.
「待機児童問題を解決しろ」という中にあって,結局その解決方法は「とりあえずでいいから,保育サービスを拡充しろ」という議論にしか目が向かないからです.

何が言いたいのかと言うと,過去記事の■幼保一体化とか,子ども・子育て新システムとかでも書いたように,こうした突貫工事的な対策では,まともな保育所が減っていくでしょ.そしたら幼児虐待や事故が多発するようになって,保育環境が劣悪なものになるでしょ.それって日本のためにならないよね.ということなのです.

そして保育所の規制緩和の後,案の定 “そんな事件” が発生し,
これまた案の定,そのニュースに対する世間の反応が「あんな感じ」だったわけです.
※詳細は■ベビーシッター事件から考える保育をどうぞ.

さて,「保育のこれから」というタイトルにしているので,これからの話をしたいと思います.

はっきり言います.保育は確実に崩壊,劣悪化します.
これはもう止められません.止めるすべが無いのです.
「もはやこれまで」とはこの事です.

前回の記事でも書きましたが,日本の保育所が適切に機能するためには,「保育に欠ける世帯」が少なく,家庭で保育できる環境と風潮(社会)があることが前提条件となります.
保育士は,そうした保育に欠ける家庭に寄り添い,それを補完することを業務の一つとしているからです.
つまり,日本社会ならではの保育環境を保守するのが保育所の役割であり存在意義と言っても良いのです.

ですから,そうした「保育に欠ける世帯」が当たり前,多数派となる社会が訪れたら最後.その社会では “我々が知る保育所” なんてものは期待できません.
その時この社会は,保育所ではなく「幼児預かり所」を求めることになります.
幼児を抱えた家庭は,その子を預けて仕事をするのが普通でしょ.それが日本のスタンダードでしょ.
「保育」が存在しない中にあって,どうして保育所が必要でしょうか.

だから3年前の記事で私は「幼保一体化」の動きにある本質的な問題点は,「保育所解体」にあると書いていたのです.その箇所を引用しておきます.
ここで問題なのは,つまり現状の案ですと,
保育所解体ということになるのですよ.
いえ,保育所解体が悪いと言っているのではありません.
この子供・子育て支援新制度の問題点というのは,保育所解体だけではなく,保育の理念や心意気も解体しようとするところにあります.
そして3年が経過し,この国では見事に保育の理念や心意気を解体しようとする動きが進行しておりますね.坂の上から転がり始めた石が,何かのきっかけで元に戻るなんてことはないのです.
悲し過ぎて笑けてきます.

現首相(安倍)の言葉をもう一度,
「政策の失敗というが、失敗ではなくて、福島委員が政権におられたときよりも(保育所の受け皿を)20万人、40万人増やしている」と色をなす場面もあった。[産経新聞2016.3.14]
そんなに場所を増やして,その仕事は誰がするんだ?と言えば,
首相「外国人受け入れ拡大を」 労働市場改革へ諮問会議で指示
ということですから,これから増えるであろう「幼児預かり業」はそういう方針なのでしょう.

だって,これから増えていくであろう「保育に欠ける世帯」が多い経済・社会にあって,保育士の待遇を良くするなんてことは至難の業です.ぶっちゃけ無理でしょう.
お定まりの「民営化」と「移民」で切り抜けようとするに決まっています.

だからもう一度はっきり言います.
保育所はどんどん劣悪な環境になります.劣悪にすることが改善の道だと思っているからです.

ではどうすれば良い方向に向くのか?
もう無理だと思いますよ.


関連記事
保育のこれから
幼保一体化とか,子ども・子育て新システムとか
ベビーシッター事件から考える保育
問題解決能力を高めることの危険性

2016年3月14日月曜日

保育のこれから

同じ教育問題のことなので,これまで書いてきた「大学のこれから」と共に話していきたいと思います.
保育所のことです.

最近また「保育所」のことが賑やかになってきているようです.
保育所問題を取り上げたブログが話題とのこと.
「保育園落ちた日本死ね」というのを聞いたことがあるでしょうか?
私は読んだことないんですけど,なんにせよ,話題とのことです.

保育所問題については,私もこれまでのブログ記事で何度か取り上げたことがあります.
近いところだと2年前の,
ベビーシッター事件から考える保育
もっと以前だと,3年前の
幼保一体化とか,子ども・子育て新システムとか
です.
ちなみに,「幼保一体化とか・・・」の記事は,いまだに一定数の閲覧数を稼ぎ続けているページでして,待機児童問題とそれに対する幼保一元化(幼保一体化)の動きを把握する上ではオススメなので御一読下さい.

さて,昨今また盛り上がりを見せてきた待機児童問題ですが,これについての政府の取り組みが杜撰ではないかというのが議論になっているようです.

まず待機児童についてですが,きれいにまとまった情報源としては
朝日新聞:「待機児童問題」
があります.
その状況を要約すれば,
(1)子供の数(出生率)が少なくなっているのに待機児童が増えている主因は,共働き世帯の増加 
(2)待機児童の85%が0〜2歳であり,3歳以上でなければ預けられない幼稚園では対応不可であるため,保育所の充実が求められている
(3)「待機児童」の算出方法が自治体で異なるため,実態把握が困難
というものです.

これに対し現政府はと言うと,
安倍首相、待機児童問題「万全を期す」「仕事と子育てが両立できるよう、働く方々の気持ちを受け止めながら、待機児童ゼロに向けて万全を期していきたい」と述べた。[産経新聞2016.3.14]
とのことです.

ただ,対策をすると言ってもいろいろと課題が山積しており,それらをまとめたブログもあります.
それがこちら↓
「保育園落ちた日本死ね」と叫んだ人に伝えたい、保育園が増えない理由

保育士養成課程に関わっていたことがある私としても,そこに書かれていることは概ね首肯できるものです.
上記ブログを要約すれば,
(1)保育所が少ないから待機児童が減らないというよりも,保育士が不足しているから対応できない(保育士一人あたりの子供数に限りがあるし,保育所をつくるにあたっても一定数の保育士が必要)
(2)保育士を増やしたくても,待遇が悪いためなり手がいない
(3)保育所の設置には数々の規制があるため,おいそれとつくれない
(4)待機児童問題を解決するためには,行政に不満をぶつけるべき!
ということです.
とは言え,待機児童問題の只中にある対象者のほとんどが,「0〜2歳の子供を持つ親」に限られているため,喉元過ぎれば熱さ忘れるじゃないですけど,大きな政治課題とならないままに過ぎ去る可能性があります.

そんな状況下にあって,では現政府は待機児童問題についてどのような答弁をしているのかというと,上述した『安倍首相、待機児童問題「万全を期す」』の記事中にもあるように,
7日の参院予算委では、福島瑞穂氏から「政策の失敗だ」と批判された首相が「政策の失敗というが、失敗ではなくて、福島委員が政権におられたときよりも(保育所の受け皿を)20万人、40万人増やしている」と色をなす場面もあった。[産経新聞2016.3.14]
ということです.
詳しくは,厚生労働省のPDFページである,
保育所等関連状況取りまとめ(平成27年4月1日)(厚生労働省)
に公表データが有りますので参照ください.

しかし,この安倍首相の答弁とその発言の趣旨には大きな問題点があります.
そしてこれは,私が以前より本ブログにおいて教育に関する問題でずっと指摘してきたことでもあります.
それは,「その組織(集団・部署等)が存在するに至った意義や社会的機能を十分に考慮した上で手を付けなければ,後々取り返しのつかないことになる」ということです.

まず,政府・安倍首相は「保育所を増やした」と受け取れるような言葉を発していますが,上述の産経新聞の記事中にもあるように,これは「保育所を増やした」のではなく,「保育(所)の受け皿を増やした」だけのことです
厚生労働省のページを読めばそれが分かります.リンク先に行くのが面倒な人のために以下に図を示します.
厚生労働省『保育所等関連状況取りまとめ』より(2016)
このように,いわゆる「保育所」は減り,代わりに「保育所っぽい施設」を「保育所」として合算し,提示してきたわけです.
「日本死ね」って言いたくなる気持ちも分からなくはない.そう思います.

しかし問題の本質はそこではなく,過去記事の■幼保一体化とか,子ども・子育て新システムとかでも指摘していることですが,こうした「保育所っぽいところを増やして対応すること自体が深刻な問題である」という点は見過ごしてはいけません.
細かい話は過去記事に譲るとして,「保育所としての機能を充実させず,とりあえず待機児童問題に対応するための規定事実を用意しただけでしょ」ということです.
つまり,保育所が存在する意義や社会的機能を十分に考慮せず,多くの人が納得しそうな対処をしてみせただけではないか,ということなのです.

これについては,冒頭でも紹介した待機児童問題の主因が「共働き世帯増加」であることを詳細に論ずる必要があります.

そもそも,保育所は入所条件として「保育に欠ける」というものがあります.児童福祉法によれば,
保護者の労働又は疾病その他の事由により、その監護すべき乳児、幼児その他の児童について保育を必要とする場合において、次項に定めるところによるほか、当該児童を保育所(認定こども園法第三条第一項 の認定を受けたもの及び同条第九項 の規定による公示がされたものを除く。)において保育しなければならない。(第24条)児童福祉法(←該当ページにリンクしてます)
とあります.法律の文章だからと難しく読む必要はない,簡単な話です.
つまり,保育所の存在意義というのは,本来ならば家庭で保育できたらいいのだけど,両親が共働きだったり片親だったり,もしくはなんらかの理由で親が保育できない状況下において,その「親がすべき保育を代わってくれる所」を我が国では用意しておきましょう,それが「保育所」ですよ,という位置付けなのです.

そのようなわけですから,待機児童問題の結論を急ぐならば,政府がすべきことは至ってシンプル.
「保育に欠ける世帯を減らすこと」
です.

ところが,その点について政府・安倍首相の発言をもう一度聞いてみると,
安倍首相、待機児童問題「万全を期す」仕事と子育てが両立できるよう、働く方々の気持ちを受け止めながら、待機児童ゼロに向けて万全を期していきたい」と述べた。[産経新聞2016.3.14]
保育に欠ける世帯を減らすつもりはないようです.
いえ,そんなことは前から分かっていたことですね.だって安倍政権は,
「一億総活躍社会」
を目指しているのですから.
一億総活躍相 工程表に先立ち待機児童対策検討へ加藤一億総活躍担当大臣は、匿名のブログをきっかけに待機児童を巡る議論が活発化していることについて、「待機児童の問題は、これまでも真摯(しんし)に受け止め、40万人分の保育の受け皿確保を前倒しし、さらに10万人分をかさ上げした」と述べました。[NHKニュース(2016年3月14日]
で,この「かさ上げされた40〜50万人分の保育の受け皿」というのはどうするのでしょう.
低賃金である保育士の枠だけ増やして,それで担い手が増えるとでも?

あっ,そう言えば,安倍政権の方針は以下のようなものでしたね.
首相「外国人受け入れ拡大を」 労働市場改革へ諮問会議で指示政府の経済財政諮問会議(議長・安倍晋三首相)は11日、人手不足が深刻な労働市場について議論した。首相は「外国人材の活用をしっかりと進めてほしい」と表明し、女性の就労意欲を阻む要因と指摘される「130万円の壁」の解消に関しても追加策の検討を指示した。[2016/3/12 日本経済新聞]
そうか,そういうことか・・・.


関連記事
そして以下の記事で指摘したことが再発するのです.
その繰り返し.

2016年3月9日水曜日

大学のこれから(6)

「こういう大学組織・教員連中がはびこる大学に将来はない」というテーマで進めている第6回目.

今回のツボはこれ,
「これからの大学は」という話が好き

こんな大学の教員は危ない part 2
において紹介したものを,もう少し詳細にしたいと思います.

「まさにこれまでの一連の記事そのものじゃないか.そういうお前が「これからの大学の話が好きな教員だろ」と捉えられるかもしれませんが,これは明確に違います.

私は「大学のこれからは,こんな感じになってしまうでしょう・・」という厭世的な捉え方をしているのですが,一方の「これから大学は・・」という話が好きな人というのは,私が「こんな感じになってしまうでしょう」と批判していることを現在進行形で邁進している人達のことです.

「こんな大学の教員は危ない part 2」の抜粋を以下に示します.
(4)「これからの大学は」という話が好き
これからの大学はグローバル,これからの大学は企業の要望とのマッチング,これからの大学は新しい顧客を創造する,などとテーマを用意して好き放題に話したがります.
とてもじゃないですが,一個人が「これからの大学」について論じられるとは考えられません.が,それをやろうとする身の程知らずな教員がいます.
案の定,「これからの大学は・・」というその実,自分が定年を迎えるまでの限られた時間内において,自分にとって都合のいい状況を作り出そうという魂胆からの発言でしかなかったりします.
もしかすると企業や役所などでもそうなのかもしれませんが,こういう手合には意外と御高齢な方々が多いもので.
定年の見えてきた自分たちが,この組織に対し何かをやったという満足感を得るために発言したり取り組んでいるように思えてなりません.迷惑な話です.
「これからの大学はこうあるべき」そんなことを威風堂々と語れるほど,人間は優れた生き物ではありません.
彼らが言う「こうあるべき」という主張とは,所詮は語り手である己の都合なのですから.

前回の■大学のこれから(5)で取り上げた「大学のグローバル化」にしたってそうです.
これについては,■スーパーグローバル大学という舞台を斜め下から覗いてみると でも解説しておりますので,そちらからも引用しておきましょう.
結局は自分の首を絞めることになるのに,なぜ「これからの大学はグローバル化を推進しなければ」と思っている教員が存在するのか.以下が上記記事からの抜粋.
1)それを正しい大学改革の方向性だと信じたい研究肌教員の「頼みの瀬」
これまでの大学改革は「教育に力を入れる」という点を強調して各大学粉骨砕身しておりました.とは言え.何をもって教育に力が入れられているのかという判断は難しいものです.
勢い,授業評価アンケートや就職率とか,つまり学生の満足度などというものを優先する経営方針が実践されておりました.それは特に「研究肌教員」からすると我慢ならない,お子様ランチ的な大学運営だったのです.
大学はそんなところじゃない.研究が大事なんだ.大学はもっと研究者を優遇するべきなんだ.という不満が研究肌教員には募ります.
そこに現れたのが,「俺達は国際的に活躍しているんだ」と自負する彼らの自尊心をくすぐる「スーパーグローバル」です.
(中略)
2)教育研究に自信はないけどオーラル英語に自信のある教員の「最後のバッターボックス」
(中略)
教育をやらせればチャランポランで学生からの評判も悪く,おまけに研究もろくなことをしていない.そんな感じで無常にも時は経ち,箸にも棒にもかからない人物になってしまって学内では肩身が狭い思いをしている教員というのが一定数いるんです.
(中略)
難しい話ではありません.ようするに世間と大学が「スーパーグローバル」という舞台を用意してくれたおかげで,それまで彼らを「無能」と嘲笑していた研究肌教員に対しては,
「読む英語,書く英語ではグローバル人材は育てられないぞ.グローバルに活躍するためにはコミュニケーション能力が大事なんだ(ドヤァ」
と反論できるようになります. また,これまで彼らを「無能」と見下していた教育力ある教員に対しては,「英語力がこれからの時代は大事なんだ.それが新しい時代の教育力なんだ(ドヤァ」
と逆に見下せるようになった,ということなのです.
少なくない大学教員は,大学教員とは言え「大学とは何か」ということを考えずに“就職”してサラリーマンをしています.
そんな彼らを否定するつもりはありません.
政治家にしたって僧侶にしたって,誰もが「政治とは何か」とか「宗教とは何か」と考えているわけではないのと同様です.
もちろん己の仕事の存在意義を哲学することは重要なことですが,それを全ての者に期待することはできません.

ではどうすればいいのか?
どうもしないことです.
「大学とは何か」ということに思惟が及べば,大学の存在意義や使命を壊すようなことはできません.
大学とは何かに思惟が及ばないのであれば,そんなことに口出しするべきではありません.大学とは何かを考えもせず,「これからの大学はかくあるべき」などと言うのは害悪でしかない.
それは自分の都合で「大学」というところをかき回すことになるのですから.

だから,どうもしないことが肝要です.
強いて言うなら,どうもできないような仕組み作りや啓蒙が大事なのでしょう.

これからの政治家は,芸能人であるべきだ.元俳優,元歌手なら知名度があるから選挙に勝てる.実力なんて二の次.まずは選挙に勝つことが政治でしょ.選挙に勝てなきゃ政治ができないんだからね.

多くの方は,そんな政治はダメだと思うでしょう?
だけど,そうしたことを「たしかにそれも一理ある」なんていう世論が大勢を占めてくると政治の崩壊です.
むしろ,今そうなりつつあるからこれを例に出したのですけど,その仕事の存在意義や使命を壊すような「これからの◯◯」論は極めて危険なのです.何にしてもそう.

大学も一緒です.
「結局は自分の首を締めることになるのに・・・」と上では申しましたが,私はこの時の「自分」とは,「大学」のことを指したつもりです.
しかし,少なくない大学教員は,大学を「自分」だと考えていません.だから簡単に「自分(大学)の首を締めること」に賛同してしまいます.
どこまで行っても「大学を使って自分にとって都合の良い状態を作り出そう」とするのです.

大学の社会的役割,そこでの成績評価方法,教授方法,人事,そういった大学の根幹に関わるものに手をつけることは,極力避けなければなりません.
それに手をつけることを許すと,際限なく「誰か」の都合のために動くようになるからです.
それでもちょっとずつ変化していくでしょう.ですがそれは「変わってしまう」のであって「変える」のではありません.

なんのことはない.
既に,大学自体がこの国(政府)の都合のために動かされている状態にあるのですから.
それはもはや大学ではない.大学という名称のついた教育プログラム提供所です.

こんなこと言うと,
「以前の記事では,『大学はその国のために存在する』と言ってたじゃないか.大学はその国のために役立つべきだ.国の方針に従うべきなんだ」
とおっしゃられるかもしれませんが,これについては,
「バ〜カ!」
とだけ言っておきます.


「バ〜カ!」って言われて納得できない人は,以下の関連記事をどうぞ
大学について
大学について2
反・大学改革論
大学における国旗国歌
大阪市立大学の学長選挙について,下品だけど脊髄反射しておこう

2016年3月3日木曜日

このブログの閲覧者

「大学のこれから」を続けている途中なんですけど,
突然ですが,ここで本ブログの閲覧者についての話をはさみたいと思います.

このブログを開設して7年.
開設当初の閲覧者は,まわりにいる友人・同僚だけだったのですが,そのうち私も「より多くの方々に読んでもらう」という趣旨の内容に切り替えたところから閲覧者数が増加.
その反面,そういう閲覧者数が増えるであろう記事を書くようになると,それまで読んでくれていた友人・同僚の評判は低下してしまいました.

そりゃそうです.「エクセルでの統計解析方法」とか,「大学のこれから」なんて面白くもない話,読む気になれないでしょう.

たまには「スポーツ」の話とか,何気ない日常の話も入れていきたいと思いつつ,そっちは後回しになって今に至ります.
閲覧数が増える記事のほうが書き甲斐がありますからね.すみませんね.

更新頻度も大幅に低下してしまい,もはやDeus ex machinaな日々じゃなくて,Deus ex machinaな隔週になってしまっている.そんなところです.

さて,このブログの閲覧者ですが,
「Google Analytics」というものを使うことで,その特徴がいろいろと見えてきて面白いものです.
このブログの閲覧者がどんな人達なのか推察することができます.

まず,年間を通じての閲覧状況はどんな感じなのかお示しします.
以下は,2015年3月1日〜2016年2月29日までの1日当たりのページビュー数です.
だいたい1日当たり2000〜3000くらいです.

この図では分かりづらいのですけど,閲覧数は平日に多く,土日にガクンと減るというのの繰り返し.それによってこういう波状のグラフが描かれるのです.

さらに興味深いのは,2月〜5月にかけて少なく,10月〜1月にかけて増えるという傾向.
また,年末年始の閲覧数が極端に減ります.

こうした現象と,閲覧記事ランキングで上位にくるのが「エクセルでの統計解析法」とか「論文・レポートの(悪徳)作成法」だということを鑑みますと,このブログの閲覧者の多くが大学生である可能性が高いことが分かります.


そうした事について詳細に分析できるよう,このGoogle Analyticsには年齢層を解析する機能がついています.
※その閲覧者のネット検索傾向から,年齢層や性別を推定しているのだそうです.どこまで正確なのかは知りません.
そんな機能を利用して,このブログの閲覧者の年齢層を出してみたのがこちら.

ほら,やっぱり18歳〜24歳のところが一番多いんです.

さらにこの機能を使って,1月だけの閲覧者を解析すると,以下のようになります.

18歳〜24歳の割合がさらに増えました.

一方,閲覧数が減ってくる2月だけの閲覧者を解析するとこんな感じ.

このように,25歳〜34歳の割合が一番多くなるという特徴が現れます.

つまり,年末年始の学位論文締切間近になってくると,卒論・修論に追われる学生達がこのブログを参考に統計解析や論文作成をしていることが窺えます.


さて次は,このブログの閲覧者の性別の割合です.
※male=男性,female=女性です.

と,このように男性が多いのです.

しかし,これまた興味深いことに土日だけのデータを見ると・・,

少しだけですけど,女性が増えました.
でも理由は謎です.

が,それについてちょっと推測してみます.
表示がきれいじゃないのでグラフ(解析画面)としてお示ししませんが,Google Analyticsには閲覧するために使用している端末を推定する機能もついていて,それによると,
デスクトップPC:70%
モバイル機器(携帯とか):28%
タブレット端末(iPadとか):2%
となっています.

その他,以下の推察の基になるデータは面倒なのでお示ししませんが,多分ですけど,私のブログの閲覧者は「公的機関内部」に設置してあるPCが多くて,前述してきたことも含めれば,大学内PCを使ってブログに辿り着く人が多いのかなって思います.
※というのも,このGoogle Analyticsには閲覧者の使用ネットワークが何なのか分かる機能も付いてるんですけど,「◯◯University」といった名称のネットワークからの閲覧数が大量にあるので.

大学等の施設内のPCだと,その端末による検索傾向に男女差がつきにくいことが多いでしょうし,それらはどっちかっていうと「男性」と振り分けられやすい内容でしょうから.

土日には大学PCからのアクセスが減って,それにより男女差が小さくなるということは,実質,閲覧者の性別は男女50:50なんじゃないかと思われます.


そんな感じなのが私のブログの閲覧者です.
今後ともよろしくお願いします.