2016年8月28日日曜日

波多国のお土産

前回に続き,オススメ商品のご紹介をします.
今回は私の実家である高知県・幡多地域のお土産について.

高知県のお土産として有名なモノはいろいろありますが,実はその多くがここ幡多地域のものだったりします.
日本屈指の,悠久の歴史を紡ぐこの土地は伊達ではありません.

まず一つ目.
筏羊羹(いかだようかん)」です.
筏羊羹本舗 右城松風堂(HP)
今もやっているかどうか知りませんけど,以前はCMもやっていました.
筏羊羹のCM(youtube)
懐かしいですね.

私はこの筏羊羹が子供の頃から好きで,当時は食べる機会がほとんどなかったので,誰かのお土産として頂いた時には大切に味わっていました.
めちゃくちゃ地味なので知らない人も多いのですが,私としては思い出補正もかかって傑作羊羹だと思っております.
水羊羹のような瑞々しさと,クセのないあっさりした味わいが特徴の羊羹です.

「高知」の人気お土産ランキングTOP15
というサイトにも第7位でランクインしています.
わざわざ四万十市(旧中村市)まで行かなくても,高知空港で手に入れられますよ.

羊羹ですから,ちょっと高いので学生の頃は簡単に買えなかったのですが,今らな気兼ねなく空港で購入するお土産です.
帰省の時は,毎度 “自分用” として大量購入する一品です.


続いて二つ目.次も羊羹.
よしだや羊羹」です.
ネットだとここで購入できるようです↓
よしだや羊羹(四万十市場)

これも私が子供の頃から大好きだった羊羹.この「よしだや」は私の実家の近くにあるので比較的口にできることが多いものの,なんだかんだ “羊羹” ですから高価なので,子供ながら遠慮がちにパクついていたのが懐かしい思い出です.

「よしだや羊羹」と一口に言っても,私は上記サイトで紹介されている,
「おちょぼ」
という商品がオススメ.
一口サイズに切られたドライな羊羹です.
筏羊羹とは逆の方向性をもっています.

これは空港では購入できません(たぶん).
目にすることができたら購入をオススメします.


三つ目.
水車亭の芋けんぴ
お店のサイトはこちら↓
水車亭(みずぐるまや)
上述した,
「高知」の人気お土産ランキングTOP15
でも9位にランクインしています.

「よしだや羊羹」の近くにあるのが「水車亭」.四万十町(旧窪川町)のお土産です.
「けんぴ」というのは地元民としてはポピュラーで地味なお菓子だったはずなのですが,今では空港でも扱いの大きいお土産となっています.
「けんぴ」も出世したものです.
「芋けんぴ」の思い出はそんなに良いものではありません.なんせ,普通にそこらへんに転がっているお菓子なのですから.「けんぴしかないのかぁ..」とガッカリする対象だったのですが,今となっては古里の味になってしまいました.


四つ目.
「青のり」
Amazonでも売っています↓

これ以外は「海苔の佃煮」として認めない.
以上.


五つ目.
ダバダ火振
焼酎です.
以前もご紹介しましたが,入手困難になる場合もある不安定な焼酎とされていました.
栗を使った栗焼酎ということで,珍しさもあります.
無手無冠(酒蔵のHP)
四万十町のなかでも内陸(旧大正町)にある酒蔵で,ここは母方の実家の近くになります.

ちなみに,Amazonでも購入できます↓

幸運なことに,私の自宅近くの酒屋が関東のくせに「ダバダ火振」を置いてくれています.
ロックやストレートはもちろん,湯割りでも水割りでもOKなのですが,私は濃い目の湯割りがオススメです.
不思議なもので,これを飲んだ時に想起したのが「実家の山々」です.
やっぱり地酒にはそういう力があるのでしょうか.

たしかに美味しい.だからこそ,売れすぎて品質が落ちないよう切に願います.


六つ目.
最後は「カツオ」です.
鰹節がイメージされやすいですが,別に珍しいものでもないし,あれって今では静岡のものになったし,私も鰹節を使った料理もしないので,空港では生節を買って帰っています.これならダバダ火振を飲む時の肴になります.

でも,カツオといえばやっぱり「カツオのたたき」ですね.
カツオは私の実家である「黒潮町(旧佐賀町)」が聖地ですよ.
有名なのは明神水産の「藁焼き鰹たたき」です.
藁焼き鰹たたき(会社のHP)
通販サイトで購入できます.
鰹のたたき(明神水産)

とは言え,なんだかんだカツオのたたきは調理後すぐに食べたほうが美味しい.お土産としてはオススメできません(本記事の趣旨に反しますが).
県外でカツオのたたきを食べた時のガッカリ感が半端じゃ無いということもあり,以来,地元以外でカツオのたたきを食べることは極力避けることにしました.どうせマズいことがわかってるから.
上で紹介している明神水産の関連店舗で食べることをオススメします.

県内で食べるところとしては,高知市内の「ひろめ市場」に出店している「藁焼きたたき明神丸」が有名です.
最近(といっても2014年だけど),実家の近くにオープンした道の駅「なぶら土佐佐賀」でも,カツオのたたきを食せます.地元民の私たちも納得の味でした.

ちなみに,県内外を問わず少なくない人が,
「塩タタキ」(タレではなく,塩だけでカツオのたたきを食べるスタイル)
を喜ぶのですが,私にはあれがさっぱり分かりません.

塩だけで食べて美味しいわけないでしょ.
なんのために昔の人がタレを開発したのか,そのことをしっかり考えてもらいたい.
なんだか「東京人」っぽい禍々しい匂い漂うメニューなので,私は極力これを避けています.
「タレにするもんがなんっちゃないにぃ.どういたもんでのぉ.ばったりいたよ」
という事態に陥った場合には仕方なく「塩」という選択肢もあるでしょうけど,それ以外の場合,わけても美味しいタレが用意できる状況下においては素直にタレを選択して下さい.


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皿鉢料理のある生活
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2016年8月27日土曜日

満席航空機と孤独なワンルームとノイズキャンセリングヘッドホン(イヤホン)

以前,
満員電車とノイズキャンセリングヘッドホン(イヤホン)
という記事を書いたことがあります.

そこで「ノイズキャンセリングイヤホン」であるBose社製のイヤホンをご紹介しました.
これです↓


これの使い心地がすこぶる良く,これがないと私の首都圏生活はままらないことをお話したところです.
別にBose社に友人がいるとか,お金をもらって宣伝しているとかではありません.そんな効力がこのブログにあるとは思えませんので.

ちょっとお値段が高いんですけどね.それに見合った効果は得られます.
とにかく「うるさい音」が嫌いな人にとっては必須です.
うるさい音に耐えられる人には不要かも.

ここ最近,仕事や帰省などで飛行機に乗ることが多いのですが,このイヤホンは飛行機でも猛威をふるいます.
むしろ,電車よりも飛行機でその真価が発揮されるといえるようです.

「ノイズキャンセリング」ということで,「ノイズを完全にシャットアウトしてくれるんじゃないか」と期待する人もいるようですが,さすがにそういうファンタジックな技術商品ではありません.
ですが,不快な音を軽減してくれるので快適になります.

イヤホンですから,音楽を聞くことができます.
エンジン音がでかい飛行機内では音量もめちゃくちゃでかくしとかないと音楽や音声が聞こえませんよね.でも,このイヤホンなら音量を小さくしても十分に聞こえます.
このイヤホンはイヤホン本体にあるスイッチを入れることでノイズキャンセリング機能が使えるようになるんですけど,静かなところでスイッチを入れても何も変化がありません.
ですが,うるさい環境でスイッチを入れるとそれまで流れていた音楽の音量が上がったように感じます.それだけ周りの音によって音楽の音がかき消されていたのだと実感するのです.

私の場合,飛行機や電車では本を読んでいることが多いのですが,そういう時は音楽をかけていません.音楽をかけていると読書に集中できないものですから.
購入当初は音楽をかけて楽しんでいたのですが,今では耳栓代わりになっています.
もしくは,極僅かな音量の音楽をかけて喫茶店のBGMのような感じにしています.

ところで,音質の良さを謳い文句にしているイヤホンは多いものですが,あれってどれほどその音質を享受しているのか怪しいものですよね.
静かな場所で聞くならまだしも,そんな場所,今の御時世ほとんどありませんから.何かしらのノイズが入ってくるわけで.であればノイズキャンセリング機能のついたものを採用するほうが「良い音質」を享受できるのではないかと思ったりするわけです.

実際,私は自宅アパート内でもノイズキャンセリング機能をつけて聞いています.
窓から入ってくる電車や自動車の騒音,室内のエアコンや換気扇などの音がピタリと消えるので没入感が全然違いますよ.

満員電車や満席航空機よりも,孤独なワンルームでこそノイズが気になるというのが,これまた寂しさを助長するようでもあるのですが.


 

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満員電車と宣教:苦行の日々なのか?
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2016年8月23日火曜日

井戸端スポーツ会議 part 38「シンクロ井村雅代コーチのこと」

オリンピックが閉会しましたね.次はパラリンピックです.

ところで,シンクロナイズドスイミングの日本代表がペア,チームともに銅メダルを獲得したということで,ふたたび井村雅代コーチの手腕が注目されているようです.
シンクロ日本涙の銅メダル!井村式スパルタで復活

この井村氏ですが,2004年アテネ大会後は日本代表監督を退き,次の2008年北京大会の中国代表コーチに就任します.
当時,なんとこれが国内からバッシングを受けるのです.
他国のコーチをしたら,日本にとって不利になるから,というのがその理由です.

当時私は学生でしたが,なぜ井村氏がバッシングを受けるのか全く意味不明でした.国内の優れた指導者が,その腕を見込まれて世界に出て活躍するということに,同じスポーツ業界の者として偉大な功績になると思っていたからです.
実際,当時は新興無名であった中国のシンクロを北京五輪で銅メダル,ロンドン五輪で銀メダルに導いています.

実は井村氏には,北京五輪のすぐあとに,私も運営委員として所属しているスポーツ団体の講演会に登壇していただいたことがあります.
非常にホットな時期にお呼びしたのにもかかわらず,小規模な我々のような団体の呼びかけに快諾してくれたのは,さすが大阪の “お姉さま” です.

そこで中国代表のオファーを受けた理由をしゃべってくれました.
一般市民にもオープンにした講演会でしたし,講演記録にも残っているのでご紹介して良いかと思います.

一つ目は,中国の本気度が凄かったから.
「我々は絶対に無様な姿を見せられない.どんなことをしてもいいから選手を活躍させてほしい」
と,物凄い勢いで説得してきたとのこと.
「そんなことを言ってくる相手を断ることは私にはできない」ということで,関西のお嬢様らしい男気がその理由.

もう一つは,中国人選手のポテンシャルの高さは以前から気になっていたそうです.
こういう選手を指導してみたいな,という指導者としての欲望ですね.
それに,いざ例の井村式スパルタ指導が始まっても,選手たちは死に物狂いでついてきたとのこと.指導し甲斐のある選手たちだったそうですよ.

最後に,これが非常に重要なこと.
ロシア対策です.
曰く,2004年頃からロシアが世界中にコーチを派遣するようになったそうです.
井村氏はこれを危険視していました.

なぜかと言うと,シンクロのような採点型スポーツは,その時代に流行している技や表現の「見せ方」が得点を大きく左右します.
しかもシンクロは音楽に合わせた振り付けが得点に強く絡んできます.
これはフィギアスケートなんかも同様でしょう.

もしロシアのシンクロ指導者が世界中に散らばり,これを放置し,そこで指導される振付や音楽との合わせ方が「ロシア流」に染まってしまうと,ロシア人の感覚,ロシア人のセンスがシンクロの「いろは」を決めることになってしまうのです.
そうなってしまえば最後,日本人の感覚やセンスで作り上げた振付や技が,採点者から評価されなくなってしまうわけです.

ロシアとしては,どうしてもふるい落とせない「シンクロ日本代表」を戦略的に攻略するため,「シンクロ界のロシア化」を図ったのではないかというのです.
これは日本代表だけでなく,他の国々も同様にロシアに太刀打ちできなくなる状況が構造的にできあがることを意味します.
結構えげつないことするんですね.さすがロシア.

これに対応するために,私は何ができるだろうか? と考えた時,自分がどこか外国の代表チームのコーチをして,そこで結果を残しておくことが大事ではないか.それが巡り巡って日本代表(に限らず多くの国々)のためになるはずだ.そう思ったのだそうです.
それに,もう日本代表は自分がいなくても結果は残せるだろうという算段もあったとのこと(残念ながらその予想はハズレましたが).

そこに現れたのが北京五輪の準備をする中国代表からのオファーだった,ということだそうですよ.
渡りに舟とはこのことかもしれません.

そんな井村氏の想いを露とも知らず,「売国奴」と罵った人たちがたくさんいました.
いや,そうした経緯を知らなくても,そんな経緯がなくとも批判するような話ではないでしょうに.
もうちょっとスポーツのこと,素直に見てくれませんかね.


2016年8月20日土曜日

いじめ防止対策推進法のこと

いじめ防止対策推進法について取り上げておきたいと思います.
最近,こんなニュースが頻発しています.
いじめ防止対策推進法に懸念 教育現場「対応機械的に」(朝日新聞)
被害女性との父親が明かす「いじめ防止法」の無力な実態(東京スポーツ)

継続して読んでいただいている方はご存知かと思いますが,このブログでは再三にわたって学校教育における「いじめ問題」の取り扱いの難しさと,それを簡単に扱おうとする世論・民意の愚かしさに警鐘を鳴らしてきました.
『いじめ防止対策推進法』についても,当初から「こんなもの絶対に機能しない」と述べてきたところです.
その代表的な過去記事がこちら↓

そもそも,本ブログの『Deus ex machinaな日々』というタイトルが,こうした「いじめ問題」に代表される「私が考えている凄い解決方法を,優れた能力のあるどこかの誰かが着手すれば,問題はたちどころに解決できるんでしょ」という態度(デウスエクスマキナ的手法)に対する嫌悪に由来しています.

話をいじめ防止対策推進法に戻します.
この法律は3年をめどに改正を検討することが規定されています.
ですので,そういう議論が出てきているようです.
いじめ防止法施行3年、馳浩文科相「改正必要ならば議論」(産経新聞)
どのように改正するのかが問題ですが,例えばこの記事にはこうあります.
(本法律が立法する)きっかけとなった大津市でいじめを苦に自殺した中2男子生徒の遺族は今年2月、いじめの情報を学校が把握した場合、保護者への報告を義務化することなどを馳氏に要望している。
冗談じゃない.そんなことを学校に義務付けようものなら,教育現場は大混乱です.
これは「そんなことしたら隠蔽できなくなるじゃないか」という話ではありません.

いいですか.落ち着いて誤解無きよう聞いて下さい.
子供の「いじめ」について落ち着いて正面から向き合ってくれる「親」だったらそれでいいでしょう.
しかし,教育現場にいる人なら分かってくれることですが,世の中そんな親ばかりではありません.問題を抱えた親,当事者の相関関係がいわくつき等,そういうケースがいろいろあります.
情報を包み隠さずストレートに伝えたら問題がこじれて,結局は子供のためにならない状況になる場合だってあるのです.
「報告の義務付け」なんてことしようものなら,良い意味での学校における情報コントロールができなくなることを意味します.

そんなこと言うと「学校による情報コントロールだと!? 都合よく情報をかき回すだけじゃないのか? お前ら何様のつもりだ!」と食ってかかる人もいるでしょうが,そういうことではありません.
何もかもオープンにすることが「善」だとは限らない.
(教育のプロの方々に向かって「教師ごときが何様のつもり」という態度をとる連中が,私はそもそも気に入らないのですが,それはこの際脇に置きます)

これを法律によって「義務付け」をするということは,どんな親であろうと,どんなシチュエーションであろうと報告しなければならないことを意味します.それが子供を教育する現場においてどれだけ恐ろしいことかお分かりでしょうか?
「想像できない」「わからない」という人は学校教育にイチャモンつけるべきではない.

こういうことを言うと,「だったら例外を用意すればいいのではないか?」と言い出す人が出てきます.けど,それって結局今と一緒ということです.
例えば道路交通法において,制限速度をオーバーしてはいけない,というドライバーとしての義務がありますよね.
それに例外として「急いでいる場合はこの限りでない」なんてものを用意したらどうなるか,容易に想像できることでしょう.これと同じことです.

いじめ防止対策推進法は機能しません.
過去記事でも書いていますが,ここでもう一度述べておきます.
なぜいじめ防止対策推進法は機能しないのか?

それは,この法律があろうとなかろうと,学校では「いじめ」への対策はされているからです.わざわざ法律にしなくてもよいものです.
この法律を読んでいただけると分かるのですが,学校現場にある人達からすれば,
「そんなこと昔からやってるよ.ってか,これは現実的じゃないから,もっと別の良い方法を採らせてほしいんですけど」
というような内容なのです.

たしかに「いじめ問題」に端を発する重大事件が起きたことは痛ましいことです.ですが,それをもって日本の学校における「いじめ問題への対応」が不適切なものだと断じ,それに対する法律をこしらえるのはあまりに拙劣です.

今,いじめ防止対策推進法が,
「機械的対応になっている」
「無力だ」
「効果的ではない」
ということになっている.
そんなこと,教育現場を少しでも垣間見たことがある人なら最初からわかることです.
どうして教育現場に立っている者や,その専門家の意見を聞かなかったのか.

もっと言うなら,私は「いじめ防止対策推進法」には現代社会の闇が隠れていると睨んでいます.
それは何かというと,子供のいじめを法律で,そして,教師の力でコントロールできるものだと考えていることです.
そして,「いじめを無くせば,子供が善く育つ」と考えていることです.

「いじめは良くない」「いじめを無くそう」
とても良いことです.異論はありません.

しかし,「いじめ」はどのような社会でも発生するものです.「防止」できるものでも,解決できるものでもありません.定常的に発生し続ける現象です.
けれども,この「いじめ」の悪化を放置すると,その社会や共同体が健全に機能しなくなってしまう.それでは問題だから,どのようにすれば良いのだろうか,と考えることが大切なのです.

誤解を恐れず言えば,「いじめ」がなくなってしまうと健全な学校教育ができなくなってしまう.そういうものではないかと思います.
学校教育において「いじめ」とは,それが被害側であれ加害側であれ,より良い人間になる上での克服すべき課題と捉えるべきではないでしょうか.
いじめとは,無くせるものではないからです.人間,生きている限りどこまでもついてくる課題であり,それは「発生」をコントロールするのではなく,「現象」をコントロールするところに人間性が現れてくるのだと思うんです.

ですから,いじめを「防止」して「なくそう」とする思想哲学を持つこの法律では,絶対にいじめ問題に対処することはできません.
仮に「いじめ」を無くせたとしましょう.でもそこには,「いじめ」という名称ではない「いじめ 2.0」が発生したことを意味します
これはちょうど,「クリスマスで寂しい思いをしないために,クリスマスを禁止しよう」っていうのと同じです.恋人がいないことの寂しさは,クリスマスによって発生するものではありませんし,禁止したところで「クリスマスが寂しい」とは異なる別の「恋人がいない寂しい状況」が発生することと一緒です.

そうこうするうち,切羽詰まった人が「出合い系サイト」なんかに手を出すわけですけど.
ここで私の予言.この「いじめ防止対策推進法」,今その改正が検討されているようですが,
「いじめ防止対策推進法も,出合い系サイトと同じ思想哲学のことをやり出すであろう・・(例えば,いじめの解決法が文科省の管理サイトとしてアップされるとか)
この予言が当たらないことを切に祈っております.

2016年8月18日木曜日

井戸端スポーツ会議 part 37「のうが悪い(土佐弁・幡多弁)」

高知・幡多の話題をもう少し.
今回は「スポーツ」とは関係なさそうで実はある,土佐弁と幡多弁についての雑談をひとつ.

日本各地の方言のなかには「標準語に直訳できない」というものがあります.
土佐弁や幡多弁も同様.その代表的なものがこれ.

「のうが悪い」

「のおがわるい」と読みます.
一般的には,
「不便だ」「具合が悪い」
という意味として紹介されています.
例えば以下のサイト.
のうがわるい(高知新聞)
のうが悪い(Web高知)
ちなみに,「のうがええ(具合が良い)」という表現もあります.

しかし,ネイティブ・スピーカーである私としては,この説明では些か不十分だと思うのです.
必ずしも「のうが悪い」イコール「具合が悪い(全般)」を指すわけではありません.
実は結構奥深い方言なので,ここはひとつお暇でしたら読んでいって下さい.

例えば,ハサミの使い勝手が悪いことを指して「のうが悪い」とは言いますが,
スマホ等のアプリの使い勝手が悪いことを指して「のうが悪い」とは言いません.
でも,タッチパネルの使い勝手が悪いことは「のうが悪い」と言います.

同様に,ハサミにしてみても「切れ味の悪さ」を指して「のうが悪い」とは言いません.
ハサミのグリップや軸の緩みなどの悪さを指して「のうが悪い」と言うのです.
同じような「使い勝手」であっても,「性能」を指しているのではなく,「操作性」を指しているのです.

つまり,「のうが悪い」という土佐弁・幡多弁は,一言で言うなら,
身体との合一性を評価する言葉.
評価対象が,自分の体の一部になり切っていないもどかしさ.それが「のうが悪い」なのです.

ですから,そのモノの「性能」が低いことに起因する使い勝手の悪さに対して「のうが悪い」とは言いません.意のままに操れないことに起因するものを「のうが悪い」と言うのです.
これは見方を変えれば,高知の人は「身体感覚」や「随意的な操作性」から物事を評価する言葉を持っているとも言えます.

これについての標準語としては,「しっくりこない/くる」というのが最も近い訳だと思いますが,「しっくり・・」というよりも,もっと明確な「身体操作性・動作追従性」を評価しているのが「のう」です.

ちなみに,この「のう」が何を指しているのかは謎です.「のう」を「能」と書いているのも目にしますね.
さきほどは「のう」のことを「身体操作性」「動作追従性」と言いましたが,より直感的には「乗り移り(憑依)」のことを指しているように私は感じます(あくまで私見ですが).

そう言えば能楽も「能(のう)」と呼ばれますね.これも語源は不明なんだそうです.
もしかすると,「のう」という言葉には,何かに憑依して身体を操ることを指す意味があるのかもしれません.
それが日本を代表する「陸の孤島」の言葉,土佐弁と幡多弁として残った可能性もある.

それを象徴するように,特に高知の高齢者のなかには「のうが悪い」を以下のように使う人もたくさんいるんです.
例えば,お正月の鏡餅のてっぺんに橙(みかん)を置きますよね.その橙の座り具合が良くないことも「のうが悪い」と評します.
これは私もよく分かります.今にも橙が落ちそうだ,バランスが悪くて偏りがある,そのまま置いておくと橙が疲れてしまいそう.こういう状況にも「のうが悪い」を使うんです.
これはつまり,鏡餅と橙を自分の身体に置き換えて評しているのです.

ですから,絵画や写真といったものの「構成」にも使います.
以前,私の父がTVに映っていた現代アートのモニュメントを見て気に入らなかったのか,「こりゃいかん,のうが悪い」と評したことがあります.
単なる「バランス」とか「偏り」,「出力」や「脆弱性」といった測定可能な事象を指すわけではありません.ここらへんがとても微妙なところ.

以前,こういう記事を書いたことがあります.
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」
人間は身体というモノを依代として物事を理解しようとする
というお話でした.

土佐弁・幡多弁の「のうが悪い」は,まさにこの「身体を通した理解」を色濃く残した方言ではないかと思うのです.


関連記事

2016年8月17日水曜日

高知の酒事情

Uターンのための高知空港.
そのレストランにこんなものが置いてありました.

高知県下でのキリンラガービールの広告です.
「たっすいがは,いかん」というのは「弱いものではダメだ」という意味です.

以前,高知県では全国売り上げナンバーワンとして有名なビール「アサヒスーパードライ」は飲まれていないということをご紹介しましたよね.
都知事選と抹茶ビールの間にあるもの
ビールの消費量の都道府県ランキング(アサヒスーパードライ)
一人あたり年間消費量:全国平均23.3缶に対し,高知は13.3缶でダントツ最下位です.

じゃあ代わりに何が好まれているのかというと,実はキリンラガーなんです.
高知県とキリンラガーの関係は知る人ぞ知るところでもありまして,そのエピソードが最近になって新書として出ています.
それがこちら↓


冒頭のキャッチコピーに戻りますと,ようするに高知県民はスーパードライのような「のどごし重視のあっさりした味」よりも,ラガーのような「苦味の効いた気合の入った味」を好む傾向があるようなのです.

実は私も「ビール」と言えばキリンラガーが好きで,学生の頃の飲み会でも「どうしてラガーなの?」と不思議がられていました.
こっちからすれば「どうせ飲むならラガーでしょ」という感覚なのですが,県外の人にはラガービールを嫌う人が多いんですよね.スーパードライが売れる理由もそこにあるのでしょうし.

全国的にはスーパードライが好まれてしまう.そんなわけで,1995年にキリンラガーはスーパードライのような「あっさりテイスト」に味を変えていた時期があるのだそうです.
当然のことながら,そんな「たすい(弱い)味」のキリンビールに高知県民は激怒.
キリンの高知営業担当を通して「味を戻せ」と訴え,1998年,キリンラガーは元の味に戻ったのです.

で,その後のキリンのキャッチフレーズがこちら.

「この国には、キリンラガービールがあります。」
「時代は変わる、ラガーは変わるな」

これが保守思想の原点のように思います.高知県民には本格保守が多い.

なお,前回記事でもご紹介していますが,実は高知は飲酒量がさほど多くありません↓




その代わりに,高知は飲酒費用が多いんです↓
それもブッチギリで.
つまり,高知では飲酒時の料理や肴にお金をかける傾向にあるのです.
「どうせ飲むならより良い酒を,より良い料理と共に」
これが高知スタイル.


ちなみに,高知は「アサヒスーパードライ」は飲みませんが,東京に次いでビールを飲む地域です.
どれだけラガー好きなのか容易に類推できましょう.

「どうせ飲むならより良い酒を,より良い料理と共に」ということでしたが,これは逆に言えば,
「どうでもいい時はどうでもいい酒を飲む」ということの裏返し.
事実,発泡酒・第3のビールもよく飲みます.

「目くそ鼻くそ」「アサヒスーパードライを飲むくらいなら,もっと安い発泡酒でいい」
と構えるのが高知スタイル.
その感覚,よく分かります.


その他のアルコール飲料について.
まずは焼酎.
これは九州(特に南部)がおかしいだけですが,どっちかっていうと高知は焼酎を飲まないところです.
でも,私の実家である幡多地域には,全国的にも珍しい「栗焼酎」があります.
なかでも「ダバダ火振」が有名です↓

九州の人たちからすれば「栗の焼酎なんぞ邪道」と言われるでしょうが,私はこれを愛飲しています.
湯割りにして飲もうものなら,幡多の山々の香りが体いっぱいに充満して幸せになれます.


さて,次は日本酒です.
高知には「土佐鶴」「司牡丹」「酔鯨」といった,「安いくせに旨い」という傑作酒がたくさんあるのですが・・・.
今度はさっきと南北が逆転.やっぱり東日本で日本酒は飲まれていて,高知は平均的.
そんなに飲まれているわけではないのです.


ウイスキーはというと.
東日本が圧倒的.


対するブランデー.
なんともきれいに反転.ブランデーは西日本が多いのですね.
「東のウイスキー,西のブランデー」という構図があるようです.

このブランデーですが,私のオススメはこちら↓
これならお手頃ですし.

ブランデーって安いものが売られているでしょ.20代の頃,スーパーで売られているものを買って飲んだら「うわっ,まずっ」ってなったんです.
でも,Amazonとかで調べたら,ウイスキーと同様,ピンきりじゃないですか.
なので,思い切って高めのやつを買ってみたんです.
全然味が違いました.スーパーで売っているものとは別次元の味です.
私は「ブランデー:水」を「2:1」の比率で割って,秋から冬にかけて常温で飲むのが好きです.
ブランデーを「まずい酒」だと思っている方は特に,お試しあれ.


ちなみにワインの消費量はというと.
東京と山梨で特に飲まれているアルコールなんです.
この感覚もよく分かります.
「ワイン,ワイン」ってよく目にするけど,実際のところ飲まないですよね.
東京の人だけが集中的に飲んでいるものなんですよ.


というわけで,高知は「ビール」それも「キリンラガービール」が好きだということが分かっていただけたかと思います.
ですが,これだけビール好きな県なのに,意外にも「地ビール」が無い県でもあるのです.

だから高知で地ビールを作ったらウケるんじゃないか? そんな声もあるのですが.
いえ,そんなことしなくても,事実上の高知の地ビールは「キリンラガー」である.それでいいじゃないですか.

それに,南国風土で作ったわけわからん地ビールなんかより,保守的な高知県民はキリンラガーを飲むに決まっています.


※最近,キリンが都道府県別のキリンビールを作っているようですね.
47都道府県の一番搾り(KIRIN)
まだ飲んだこと無いのでわかりませんが,そのうち飲み分けてみたいものです.

2016年8月16日火曜日

波多国:七星剣が置かれた国

実家に帰省中.この実家の話を続けましょう.
私は高知県南西部の幡多(はた)地域の出身です.過去に何度か写真なんぞをお見せしてきました.
ここが私の実家です↓

生半可な田舎ではございません.峡谷のようなところです.
ドラクエとかFFでは秘境の村みたいなところですね.

今日は送り火でした.これは我が家の送り火↓

なお,京都の大文字の送り火がよく知られますが,この幡多地域では「中村(四万十市)の大文字焼き」が有名です.
大文字焼き(wikipedia)

さて,そんな幡多地域.以前,
「昔は海が近かった」を確認できる「Flood Map」
でもお話したように,この地は古代において「波多国」と呼ばれる国でした.かつて土佐国は2つに分かれていたんです.

この波多国,日本建国上の歴史的において「出雲国」くらい重要な地域である可能性があるのですが,意外とメジャーではありません.
今日はその波多国のお話.
出雲国みたいに地道にキャンペーンを張っていれば,そのうち関心が高まって考古学的な調査が入るようになるかもしれませんので,気長にいきましょう.

まず,それらの場所を確認しておきます.こういう感じ↓
高知県西部が波多国(はたこく).東部が都佐国(とさこく)です.

波多国は都佐国に先駆けて発展していたことは間違いないようで,古代遺跡の多くがこの地域に集中していることと,大和朝廷がこの地に「国造」,つまり地方官を置いたのも波多国が都佐国よりも先であることなどから推察されています.
波多国造(wikipedia)

どうして当時土佐国を一括管理できなかったのかは諸説考えられますが,上図の青線で引いたところに険しい山があるため,都佐国への進出が困難であり,その地域を制圧するのに時間がかかったからではないかと思われます.

というのも,かつて首都である畿内から土佐地方に入るためには瀬戸内海・愛媛地域を経由するのが普通だったからです.
こんな感じ↓

なので,とりあえず波多国に入ってこの地を管理するんだけど,そこから先に進むには船を使うしかない.つまり,日常的,乃至,一般庶民レベルでの交流が難しかったのでしょう.
事実,高知県は「土佐弁」が有名ですが,私たち幡多地域の者は土佐弁を使いません
「幡多弁」と呼ばれる土佐弁とは微妙に異なる方言を使うのです.
ちょうど,「関西弁」と一括りにされても,京都,大阪,神戸で違うし,大阪のなかでも南部の泉州弁は微妙に違うというのと一緒です.
幡多弁(wikipedia)
これを知っていると “高知通” として一目置かれますよ.

で,その後,徳島を経由する短いルートが開拓されてからは都佐国の方が栄えるようになったというわけです.
しかも都佐国のほうが平野が多いですから,都市としてのポテンシャルは高かったであろうことは容易に推察できます.
ちなみに,紀貫之「土左日記」は,この新ルートでの道中・船中を著したものです.

さらに時は流れて,波多国と都佐国が統合して「土佐国」として管理されるようになったのは,1601年に山内一豊がこの地にやってきてからのこと.実に1000年以上もの間,土佐は波多国と都佐国とに別れていたんですね.

さて,この波多国には数々の「」があります.
まず,日本を代表する宝剣が置かれている国なんです.
その名も「七星剣(七星宝刀)」.
これです.
画像:http://blog.goo.ne.jp/kochi53goo/e/76326277a93e1eb9649b74334e8f2bdfより
四万十市(旧中村市)の一宮神社で発見されました.

七星剣.なんとも仰々しい名前の剣ですが,実際仰々しいものです.
七星剣(wikipedia)
ウィキペディアの解説によると,
七星剣(しちせいけん)とは、中国の道教思想に基づき北斗七星が意匠された刀剣の呼称。破邪や鎮護の力が宿るとされ、儀式などに用いられた。
ようするに典型的な「聖剣」です.
一番有名なのは,聖徳太子の愛刀とされる四天王寺(大阪)が所蔵している七星剣.
その写真がこちら.
画像:wikipediaより
あとは法隆寺と正倉院(奈良)所蔵のもの,稲荷山古墳(千葉)から出土したもの,個人所有(長野)として伝わったものがあります.

で,この剣はどういうものなのかというと,例えば平安時代では天皇の代替わりの際に新たな天皇へ渡される護身刀だったようで,時代によって意味が変わる可能性もあれど,少なくとも「天皇の親族が持つ剣」だと考えられています.
飛鳥時代には聖徳太子が帯刀していたわけですし(もちろん,聖徳太子以外の皇族も持っていたはず).

現存しているのは7本あり,歴史的には何十本と作られているもののようですが,全国各地どこにでもあるものではないようで,国家統一を象徴する貴重な宝剣であったことはたしかです.

おそらく,日本各地を治めるため,まさに「破邪と鎮護の力が宿る聖剣」を持った天皇ゆかりの者が国造りのため遣わされた際に帯刀していた可能性があるのです.
つまり,波多国は「七星剣を持つ者がいる国」だったわけです.これが意味するところは重大かもしれません.

さらに興味深いのは,幡多地域で見つかった例の七星剣は,現存の中でも最も古いものである可能性があるとのこと.
造形や材質からすると,5世紀頃,つまりまだ日本で製鉄が始まっていない時代のもので,朝鮮半島で製造されたものではないかと考えられているのだそうです.
しかもですね,上述した波多国の管理を任された「波多国造」,その者の名前は何か?

実は,その名を「天韓襲命(あまのからそのみこと)」と言います.
そう,波多国造は朝鮮からの渡来人だった可能性があるのです.
(漢字からすると,三韓征伐を担当した将軍(朝鮮を襲った人)のようにも捉えられますが・・,おそらく「熊襲」などと同じような解釈ではないかと思います)
波多国造(wikipedia)

当時の日本は朝鮮侵略(三韓征伐)をしていましたから,支配下に入れた王族や将軍・役人などを波多国造として任命した可能性があります.その際,この一族が朝鮮で製造された鉄剣「七星剣」を持ってきたとも考えられる.

そもそも七星剣とは,中国・朝鮮において聖剣とされていたものですので.日本もその聖剣の力を使ったわけですね.
ちなみに,あの「七支刀」も同じように朝鮮から伝来しています.
もしかすると,この波多国の七星剣が日本最初の七星剣である可能性だってあるのです.

さらに言うと,天韓襲命の子孫が「波多氏」だとされていますが,この波多氏には皇族の重鎮とされる一族がおり,彼らにはさまざまな伝説上の出自があります.
波多氏(wikipedia)
で,そのうちの一つが波多矢代を祖とする波多氏で,この波多矢代は神功皇后に付き従って三韓征伐に向かっています.

「三韓征伐」に向かった波多氏ですか.
なんだかここでも関連性を感じてしまいますね.

一般的に,この皇族の重臣である波多氏は,奈良・波多郷の出身だとされています.
ですから,波多国とその国造とからめると,こう考えられるわけです.
神功皇后に従った波多氏は,三韓征伐によって支配下においた地域の朝鮮人のある一族を,四国南西部(波多国)の国造として採り立てた.
その者の名(一族)が「天韓襲命」だった.
そして,この者が治める地域を波多氏にちなんで「波多国」とした.
けっこうきれいに筋が通っている話でしょ.

でも,これはあくまで日本神話の話,伝説上の話です.
例えば,古事記の記述内容を現実的な年代に当てはめた場合,先ほど出てきた三韓征伐の神功皇后を含めて「15代 応神天皇」までは創作された天皇ではないかとされています.
そうでなければ,日本は2600年以上の歴史を本当に持つことになってしまいます.いくらなんでもそりゃ考えにくい.
3世紀から4世紀にかけての日本は動乱を迎えていた可能性があり,中国の魏志倭人伝にも載っておらず,この時期の日本は歴史の闇に埋もれているのです.

その闇を「壮大な四国ファンタジー」として描いた記事があります.
以下の結論はそれらを前提としますので,意味不明な人はそちらもお読みください.
一言で言えば,「西日本統一戦争を制したのは四国連合軍だった」というもの.

そうした壮大な仮説によれば,もしかすると四国・波多国の波多氏が,神武東征の後,天皇の重臣となったのではないか,とも考えられるのです.
そして三韓征伐の際,彼ら波多氏は聖剣「七星剣」を手に入れ,これを祖国・波多国に納めたのではないか.
けったいなファンタジーではありますけど,そうでなければ,こんな辺境の地に日本最古の七星剣が置かれているのはおかしいんです.


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2016年8月15日月曜日

皿鉢料理のある生活

今日は終戦の日.珍しくテレビで「戦没者追悼式」を見たのですが,天皇陛下が会場を退室される際に,何度も振り返っては参列者に向かって会釈する姿が印象的でした.
今年が最後になるかもしれないと思っていらっしゃるからでしょうかね.

ちなみに,8月15日というのは前回まで取り上げていた「竹取物語」においてかぐや姫が月に帰った日でもあります.
不思議な偶然ですね.

さて,今私は高知の実家に帰省しています.
昨年亡くなった祖母の初盆だったこともあり,親戚一同が集まる機会もありました.
ここ10年来顔を合わせていかなった人もいますので,こういう機会は貴重です.
長机をたくさん出してきて大勢で一緒に昼ごはんを食べることになるのですが,その昼ごはんが「皿鉢料理」です.
この料理は最近は県外にも知られるようになりました.

大きな鉢皿に料理を盛り付けるというのが特徴だとされています.
何か特別な料理が盛り付けられるわけではありません.刺し身とか寿司とか煮物やフルーツなどが大きな鉢皿に盛られるので「皿鉢料理」と呼ばれるのです.

調べてみたら,やっぱり「皿鉢料理」は土佐・高知独自のものではなく,かつて(江戸時代から古代にかけて)は全国的に見られた「晴れ料理(イベント料理)」だったとのこと.
ただ,同じ集落共同体の人々が一堂に会して大きな皿の料理をつつくという風習が「郷土料理」という形で残るほど,飲み会好きなのが高知県民のようです.

以前もご紹介しましたが,高知県民はたしかに酒好きですが,飲用量はいうほど多くありません.むしろ,東京人のほうが高知県民よりたくさん飲んでいます.


一方で,高知県民の特徴は「酒を飲む時にかけるお金(飲酒費用)」が非常に高いんです.
ここんところの違い,結構重要です.

ようするに,高知の人はお酒を飲む際は料理を盛大に振る舞うということなんです.

よく県外の人から「高知の人はよくお酒を飲むから・・・」などと言われますが,そんなこと気にしたことありません.
上述したように統計上も東京人のほうが飲んでいますし,感覚的にもこれは納得できます.
東京のほうがよくお酒を飲みます.飲む機会がめちゃくちゃ多いんですよ.
それに,県外では「はしご酒」という奇妙な風習もあります.
「はしごは面倒だから一軒目で全力を出したい」というのが,少なくない高知県民の本音ではないでしょうか.
高知には「はしご酒」するほど飲み屋が多くないし,そういうことができるのは一部の酒好き・金持ちくらいじゃないですかね.

つまりですね,高知にはお酒をたくさん飲む文化があるわけじゃないんです.豪快な会食をする文化があるんです.そこには当然お酒が入ってきますから,県外の人からすれば「高知ではお酒を豪快に飲むんだなぁ」と思われたのでしょう.

以前,福岡出身の先生とお話した時に,「関東の人は酒の「つまみ」が貧相なのが気に入らない」と仰っていました.
飲酒費用ナンバーワンの高知県民である私も当然同意します.

こういうのは関東に限らないのでしょうけど,学会や出張などで全国行脚をしてきて感じるところでもあります.
逆に,酒のつまみ(もとい,肴)にこだわりたいのが西日本,中でも四国・九州ではないでしょうか.
ところが,少なくない地域ではフライドポテトとか枝豆,果てはポテトチップスとかナッツで済ます.挙句,ラーメン屋のテーブルに置いてあるなんだかよくわからない漬物を「酒のあて」として飲もうとします.
ようするに,ちょっとしたチビチビと「つまむもの」でお酒を飲むことが「粋」だという感覚がある.
でもね,これは四国・九州勢からすれば気が滅入るので勘弁してほしいんです.
「つまむ」くらいなら飲まない.

さて,初盆での飲み会ですが,そこでの話題のほとんどが甲子園大会かオリンピックなんです.
さすが,スポーツの話題は強力ですね.

2016年8月12日金曜日

もう少し竹取物語と「かぐや姫の物語」を考える

かなりしつこいと思われるでしょうが,言い足りないところがあるので前回の話を続けておきたいと思います.
竹取物語をアニメ映画で観た
の続きです.

ジブリアニメの『かぐや姫の物語』(監督:高畑勲)が非常に興味深かったので取り上げました.
原作である『竹取物語(竹取の翁の物語)』に忠実な展開で,かぐや姫という女性の心情にスポットライトをあてた作品だと評価されています.

ですが,前回の記事ではその物語が破綻していることを論じました(これはジブリアニメではよくあることですが).
その原因は,「かぐや姫を人間の女性として描いてしまった」ことによるものだというのが前回の記事で言いたかったことです.

「月の民」であり,そして「天上界の高貴な姫君」という出自を持つかぐや姫を,我々が住む穢れた地である下界の女性と同じような心情として描けるわけがない.ざっくり言うと,そういうことです.

では逆に,どうすれば『かぐや姫の物語』は破綻しなかったのでしょうか?
まず,件の作品『かぐや姫の物語』で描いていたような,「自立した女性の生き方」を見せたかったのであれば,かぐや姫は月の民ではなく,普通の田舎娘として描かれるべきでした.
そうでなければ,「成金オヤジにつれられて都にやってきたけど,都会生活や貴族のしきたりに辟易し,素朴で自立した女性の生き方を貫く」というコンセプトが成り立ちません.
だって,彼女は天上界の姫君なのですから.
あれだけ「保守的な生活は嫌だ!慣習に縛られたくない!どうして自然のなかで素朴に生きてはいけないの?」と言っているのですから,本気でそう思っているのならさっさと田舎暮らしに戻れば良かったのです.

でも,そうできなかった.
なぜなら,「下界での生き方,言い換えれば,《人生》というのはそういうものだから」です.
『かぐや姫の物語』において,「かぐや姫」には全く救いがないんですよ.
もっと言えば,彼女に救いはいらない.彼女は天上界における高貴な姫君だから.そこに帰っていっただけのこと.

私は『かぐや姫の物語』が悪いと言っているわけではありません.極めて常識的なことを伝えている.
ヒトには人の,イヌには犬の,ネコには猫の生き方がある.そういうアニメ映画なのです.

私が問いたいのは,結局あのアニメ映画は「昔々あるところに,かぐや姫という天上界の女がいましたとさ.おしまい」という話でしかないでしょ? それってわざわざ莫大なお金をかけて作って,広告打って上映するお話なんでしょうか? ということです.

かぐや姫の出自を普通の人間女性の田舎娘にしておけば,そうはなりません.
「こんな都会の生活は嫌だ」ってことで,最後は「月」に帰らず「田舎」に帰らせれば良いのですから.でも,田舎に帰ったら田舎での苦労が待っているだけなんですけどね.


では,かぐや姫が「月の民」であるという設定を保ったままで物語を破綻させないためにはどうすればいいのか.
前回の記事の後半部分でも書いていることではありますが,徹頭徹尾,彼女が「月の民」の「高貴な姫君」であることを素直に描くしかありません.

だとすると,かぐや姫は成人したあたりから自分の出自や立場を自覚していたと考えるのが妥当です.
そう考えれば,「竹取物語」は極めて精巧に出来たヒューマンドラマになるのです.

でもこれをやると『かぐや姫の物語』ではなくなってしまうんですけどね.

貴族の要求を突っぱね,帝にも楯突く「かぐや姫」という女性に,思わず「自立した女性」の姿を見てしまいたくなるのが現代人.
でもこれは,「そんな高貴な男たちに頑として抵抗できるかぐや姫という女性は一体何者なんだ?」と考えさせたいというのが著者の意図ではないでしょうか.

そして最後にそのネタバレが一気になされる.
読者は,「あぁ,そうか.だからこの女性は貴族にも帝にも強硬な態度がとれたんだ」と思う.
なんせ彼女は「天上界の高貴な姫君」というチートキャラだったのです.

で,この物語はつまり,
天上界のお姫様が,流刑地であるはずの穢れた下界の人間と分かり合えた
という結末を伝えているのです.

これは数々の小説や映画でも使い古されている,
当初は弱者に侮蔑的な態度をとっていたはずの強者が,彼らとの交流を通じて次第に理解を示すようになる
というパターンですね.

そしてここから,高畑勲監督が示したものとは異なる「かぐや姫の罪と罰」が推察できるのです.

ちなみに,『かぐや姫の物語』の高畑監督は,この「罪」と「罰」として以下のものを示しています.
「罪」:月の民であるかぐや姫が,穢れた世界である地上の民に憧れてしまうという罪を犯す
「罰」:その罪を償うため,地上の民と穢れた世界で生活をするという罰を受ける
私はこの解釈は非常に面白いものだと思います.
でも,これだと「罰」が罰になっていないという致命的欠陥があります.

その他の説としては以下のものがネットにありました.
群がる求婚者を徹底的に排除することが「償い」だと解釈するもので,つまり,
「罪」:かぐや姫は天上界で「恋愛」に関する罪を犯した(不倫,もしくは恋愛感情を持つことなど)
「罰」:穢れた地の多数の男から求婚を迫られ,それを断る状況を受ける
というもの.たしかにこういう解釈もありますね.
でも,これも「罰」になっていないんじゃないかと思うんです.求婚を断る彼女の姿は,明らかに本気で嫌がっています.それに,最後は帝に恋愛感情を持ってしまっているのですから,償いを果たしたとも言えない.
仮にこれを「罰」だと捉えるためには,彼女の「罪」とは何かの恋愛をしたことの咎ではなく,恋愛を「しなかった」ことだと考えるのが自然です.

これらに対し,私が考える「かぐや姫の罪と罰」はもっとシンプルです.
というか,いろいろネットを探したのですけど,このシンプルな解釈が意外にも見当たりません.普通すぎて取り上げられていないのでしょうか? それとも皆さん,深読みしすぎているのでしょうか?
前提としては,天上界を過度に潔癖な「仏界」として捉えず,下界よりも優雅で雅やかな場所である考えます.そして,かぐや姫は天上界の王が自ら迎えに来るほどの「スーパーセレブ」だということを考慮します.
そこから考えられるのは,極めて普通なもの.
「罪」:かぐや姫は高貴な身なのに,ヤンキー不良少女として育ってしまった
「罰」:低俗な連中のもとで一から生まれ直し,天上界の暮らしがどれほど良いものか思い知らせる

天上界のお姫様がヤンキーではいけません.困り果てた「天上界の王」は,罰としてもう一度生まれ直させ,下界という汚い場所に流刑させたのです.
これなら「罰」として成り立ちます.
きっと,「一からやり直して,大人しく刑に服していれば月に帰れるぞ」とでも言われていたのでしょう.
だから表向きは親孝行な女の子を演じていた.

とは言うものの,生まれ直して大人になるまでの時間が人間と同じではさすがに酷ですから,3ヶ月で成人させます(もっとも,月の民はそれが普通なのかもしれませんが).
しかも,下界とはいえ育ての親となるホームステイ先選びはきちんとしておく必要がありますから,「功徳を積んだ」とされる老夫婦が選ばれたわけですね.
さらに,この老夫婦とかぐや姫が生活に苦労しないよう金銭を与えています.なんせかぐや姫はスーパーセレブなので,流刑と言っても待遇は配慮される必要があります.食うに困るほどの罰は課されないのです.
これは当時の高貴な身分の人が受ける流刑,すなわち,「都から離れた場所で暮らさなければいけない罰」と同じようなものでしょう.天上界の民にとって,下界の都など汚らしいド田舎にすぎないのですから.

「大人しく刑期を満了する」というのがかぐや姫に課されたことですから,求婚を迫ってくる男達は邪魔者でしかありません.だから次々と不幸と死に追いやった.かぐや姫は大人しくしてなきゃいけない身なので,直接的に手をくださず,彼らを言いくるめることで追い払ったのです.
さしずめ,超難関校の女子大生が,群がるFラン男子を手玉に取って遊んでいたようなものです.天上界の民であるかぐや姫は,下界の者より知能が高いことが予想されます.
かぐや姫は一見冷酷な女に見える?
いえ,それは間違いです.彼女は骨の髄まで冷酷な女なのです.

ところが,天上界の人々にとって(あるいは彼女自身も)誤算だったのは,かぐや姫が下界の者と相通じる感情を持ってしまったことです.
まさかあの冷酷非道なヤンキー娘が,あと少しで釈放という時期になったら,汚らしい下界の民のことを想って涙まで流しだした.
その時,育ててくれた老夫婦には泣きながら「かの国の父母のこともおぼえず」とまで言います.おかしな話です.彼女は何から何まで事情を知っているのに,実の両親の記憶だけはないと言うのです.そんなわけがありません.これは育ててくれた老夫婦への思いが強く,下界に留まりたいことを訴えているのでしょう.私は月の都を捨てても良いと.

下界での服役中の嫌な思い出を消すために用意されていたはずの「天の羽衣」は,なんと皮肉なことに,下界で見つけた大切な「育ての親」と「想い人」の記憶を消すものになってしまった.
これが『竹取物語』にある強烈な悲しさなんだと思います.


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竹取物語をアニメ映画で観た

2016年8月9日火曜日

竹取物語をアニメ映画で観た

今日の今日まで全然知らなかったんですけど,「竹取物語」をジブリがアニメ映画にしていました.
『かぐや姫の物語』です.監督は高畑勲氏です.
DVDと小説が出ています↓
 

ひょんなことからこのアニメ映画を知って,評判が良いようなので見てみたんです.
今回は,その映画感想文を書いてみたいと思います.

この作品は「映像がきれい」であることと,原作「竹取物語」が抱えているメッセージを高畑監督なりに解釈して見せたということで注目されています.
原作「竹取物語」は,淡々と第三者の目から述べられていますが,この作品ではヒロインである「かぐや姫」という女性の心情から描いてみたというもの.

毛筆で描かれたような絵はさすがにきれいで,たしかに素晴らしい映像でした.
ただ,さすがは「ジブリ」の作った物語.そのメッセージが「自己矛盾」に陥っているところが可愛らしい.

この作品に限らず,ジブリ(高畑勲や宮﨑駿)が描く作品には「良いこと言っているように聞こえるんだけど,よくよく考えたらその論理は破綻している」というものが散見されます.

高畑勲監督であれば,「平成狸合戦ぽんぽこ」なんてその典型です.
自然との共生をタヌキの視点で語っているのですが,タヌキたちが「あの時代は良かった」と懐古する原風景が「昭和の農村」なんです.原生林じゃなく,農村.
あれって人間が自然を相手に奮闘して作り出した,血と汗と涙の結晶ですよね.しかもタヌキを害獣として追い払っているのが農村ですから,これは大いなる矛盾です.
農村とは,いかに自然をコントロールするかに苦心している現場です.自然と仲良くする気なんてさらさら無い.
農家である私の父は,田畑を荒らすイノシシ退治が日課です.こうした害獣をいかに抹殺するかが農家の仕事と言っていいでしょう.

そんな「猪神:乙事主様」を『もののけ姫』で描いていた宮﨑駿監督の作品にもそれがあります.典型的なのは「風の谷のナウシカ」.
腐海の森に覆われている地球を人間の手に取り戻すため,軍事大国の司令官であるクシャナは「腐海の森を焼き払う」と言います.
それに難癖つけて抵抗するのが風の谷と,ナウシカです.自然を破壊してはいけない,腐海の森に手を出してはいけない,などと扇動する余命いくばく無いババアに導かれて頑なに反対します.
でも,人類が生き残るためには,どうにかして腐海の森を焼き払わなければならないのであり,あとはどのような手段を用いるのかという点が議論されるべきはずです.
小さい頃は気づきませんでしたが,何度か「金曜ロードショー」を見ているうちに,どう考えても正論を言っているのはクシャナの方だと思うようになりました.子供の時分の私が,左翼思想から解脱するきっかけとなった記念すべき作品と言えます.

こういうのを多角的かつ詳細に論じられたものがあります.佐藤健志 著『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』です.御一読あれ.


話を戻しまして,では『かぐや姫の物語』はどうでしょうか.
この作品の重要なキーワードとして,かぐや姫の「罪」と「罰」が語られます.
その罪と罰とは何かというと,以下のことです.
「罪」:月の民であるかぐや姫が,穢れた世界である地上の民に憧れてしまうという罪を犯す
「罰」:その罪を償うため,地上の民と穢れた世界で生活をするという罰を受ける

ようするに,穢れ無き世界である月の民が,穢れた世界である地上の民に憧れるのは「罪」だということ.
それ故その「罰」とは,穢れた地上の民と共に生活をすることで,その憧れがどれだけまやかしなのかを思い知ること,という設定なのです.

かぐや姫曰く,自身が月の都に戻ることになったきっかけは「ここからいなくなりたい,と心の底から願ってしまったこと」なんだそうです.
つまり,あれほど憧れていたはずの地上の世界が,どれほど穢れた世界であるかを思い知ることによって,かぐや姫の罪が償われるのだ,という設定なのです.

かぐや姫は人間らしい生き方,自分らしい生き方をしたいと願っていました.
でも,身も蓋もないことを言えば,彼女は「月の民」です
人間らしさを否定するところに幸福を見出す者達です.
ゆえに,彼女に人間らしい生き方なんてできるわけがない.

この作品は「かぐや姫」の視点から「人間らしい生き方とは何か?」を論じているとされています.「それが出来ない理由」として周りの環境を描いてもいる.
でも,穢れた地に住む人間は,そうした環境で必至に生きているからこそ “人間らしい” のだ,ということもまた確かなのです.
おそらくそれを高畑監督も自覚しているはずです.そうでなければあのラストにはならない.

自然の中で暮らし,たまにキジ鍋を食べながら貧しくも清らかに生きていくことが,かぐや姫の理想として描かれていました.でも,そんなことができるのは,貴族や武士が必至になって国を治めているからです.彼らの存在も人間らしい生き方として否定できません.
これはちょうど,「平成狸合戦ぽんぽこ」がタヌキの視点で描かれたことによるメッセージの崩壊と一緒です.

つまり,『かぐや姫の物語』というのは,
「とある一人の月の民の夢想妄想が,現実を前に崩壊しましたとさ
っていう物語でしかないということなんです.
あまりに虚無な話ではないですか.
かぐや姫を通して高畑監督は一体何を見せたかったのか?
まさに,ジブリがやらかす「一見良いこと言ってるようで,よくよく考えてみたら論旨が破綻している」というものを見せられた気分になります.

これを見て私は,「かぐや姫」に投影されているであろう「左翼思想」が,現代においては崩壊してしまったことを暗喩しているように受け止めてしまうんですよ.
事実,昨今「左翼思想」は急速にその勢力を弱めています.人間らしさを謳いながら,所詮は人間らしさを無視した理想論ではないか,そんな批判がなされてきて,実際そういう側面がある.
『かぐや姫の物語』に描かれているのは,自他ともに認める左翼思想家である高畑勲氏の,「左翼」に対する期待と希望が壊れてしまったことを示すのではないか,そんな気もするのです.

クライマックスで見られる幼なじみ「捨丸」との空中デート・シーンは,左翼思想の孤立を如実に示しています.
飛んでる時は幸せそうです.そこで捨丸は「一緒に逃げよう」とかぐや姫に駆け落ちを持ちかけます.直後,この夢のような現象から我に返った捨丸は,なんと自分の妻子のもとに戻るのです.
ここは盛大にツッコミを入れるところでしょう.妻子があるのに,かぐや姫と駆け落ちしようとするのが捨丸という男なのです.
つまり,かぐや姫の目に映っていた理想の男性である「捨丸」とは,第三者の目からすればたんなるチャラ男なんです.そういう「ちょいワル」を匂わす描写は映画前半からずっとありますしね.
かぐや姫と同じ歳頃の女の子には,こういう勘違いをする人がたくさんいます.新宿・歌舞伎町でよく目にする光景です.
たまにオバサンにもそんなのがいます.これは東京・丸の内でよく目にする光景です.

それより,どうしてこんなシーンが入ってしまうのか? そこが問題です.
おそらくこういうことではないでしょうか.
高畑監督は「かぐや姫」に理想的な女性の生き方を投影しています.ですから,こういう生き方をする女性には,それを理解する男性が現れる必要があります.その男性が「捨丸」です.
その男は,決して世の中の常識や慣習に縛られたりすることのない,先進的な人物である必要があります.だから捨丸は,妻子を捨ててかぐや姫のもとに行く男として描かれるのです.伝統的な常識や慣習には縛られないのに,結婚してただ一人の女性だけを愛するという常識と慣習に縛られる男では虫がよすぎるからです.

かぐや姫のような生き方をする女性には,捨丸のような男がピッタリだ.という思想がそこにない限り,あんな描写は在り得ないでしょう.左翼思想を自認する高畑監督には,そこは曲げられない設定だったのではないでしょうか.
でも,こういう男を理想とする女性って少ないんじゃないかと思うのですが,わざわざあのような設定を用意するには,余程の理由があると勘ぐりたくなります.

もっと言うなら,この作品については「原作に忠実でありながら,かぐや姫の心情に焦点を当てた」と評されることがありますが,そもそも,原作「竹取物語」から女性の生き方なんてものは論じられないと私は思います.

ためしに,原作を素直に読んでみてください.こういう現代語訳も出ています.


この物語についての解釈はいろいろ成されていますが,有力説としては,
「藤原氏の政治体制への批判」
だとされています.
求婚を迫る5人の貴公子は,誤魔化しようのないほどあからさまな実在モデルがいます.
多治比嶋,藤原不比等,阿倍御主人,大伴御行,石上麻呂の5名.それぞれ,「竹取物語」が書かれたであろう時代にブイブイいわせていた権力者たちなんです.
これはウィキペディアにも載っていまして,江戸時代から提唱されている有名な説です.
竹取物語(wikipedia)

当時,これだけの情報量(貴族のしきたり,地方や海外の知識)がある物語を書ける人は政界知識人以外には考えられないことから,身元がバレないように作者不詳で公開されたのではないかとされています.
有力な作者候補としては,藤原氏に恨みを持っていて,且つ,文才があった紀貫之がその筆頭です.

では,この物語を素直に読んだらどういう内容なのか.以下,まとめます.
恐れ多くも「天上界の姫君」であるかぐや姫に対し,バカな男5人が身の程知らずにも寄ってたかって求婚し,案の定,それぞれ恥晒しを演じたそうです.
でもこの「かぐや姫」様は,実はお優しい一面も持っていらして,育ての親である老夫婦と人徳溢れる帝に対しては,「天上界の姫君」というご自身の絶対的存在にもかかわらず別れ際には御涙まで流され,可能な限りの御配慮をされて天上界にお戻りになられるという大変慈悲深き御方なのでした.
それだけに,あのバカな藤原5人衆の下衆っぷりが際立ちますね( ´,_ゝ`)プッ.チャンチャン.
「竹取物語」とは,そういう物語です.

ちなみに,かぐや姫が犯した「罪」と,その「罰」がどのようなものであったのか原作には明示されていません.それを示した高畑勲監督は素晴らしいと思います.そういう解釈もあるのかと膝を打って感心しました.
でも,「天上界の姫君」であるかぐや姫様を,普通の人間女性と同じように描くのは頂けません.この御方の一言一言は,天上界の姫君のお言葉です.穢れた地の「女性」と同じなわけがない.
事実,「竹取物語」の展開に沿いながらも,かぐや姫を人間の女性として描いた『かぐや姫の物語』は,物語として崩壊しちゃってるのですから.
※だからといって『かぐや姫の物語』がダメな作品だと言っているのではありませんので,誤解無きよう.

原作「竹取物語」におけるかぐや姫の言動は,結末が分かればすんなり理解できるものなのです.素直に読んでいれば,「あぁ,だからあの時かぐや姫はそんな言動をしていたのか」となる.
これを高畑監督は深読みしすぎた,自分の思想を入れすぎた,そう思います.

原作の「竹取物語」においても,地上の世界は,天上界である月の民からすれば「穢れた地」と述べられています.なんせ流刑地ですからね.
かぐや姫を天上界に戻すため遣わされた天人が,彼女を気遣いこう言います.
「この薬をお飲み下さい.穢い所の物を召し上がっていたので,さぞかしご気分が悪いことでしょう」
そう言って,かぐや姫に薬を飲ませるのです.さながら抗生物質みたいなものでしょう.
下水道とかブタ小屋で生活していた人に対する気遣いのようですね.地上の世界とは,彼らにしてみればそういう場所なのです.

そんな場所にいる生物のオスが,寄ってたかって「おまえ,かわいい娘じゃないか,結婚しよう」などと迫ってきたらどうでしょう.「この虫ケラども,死ねぇ!」ってなりますよね.
実際,一人殺しておいて「少しあはれ(意訳:m9(^Д^)プギャー)」と言っている.

極普通に「天上界の姫君」としての態度をとっていたのがかぐや姫なのです.
かぐや姫は決して「自立した女性としての生き方」を貫いていたわけじゃない.ゴミを見るような目で地上の人間を眺めていた.
ゴミクズ共と結婚なんてできるわけがありません.だから一見冷酷な女に見えるんですよ.

ちなみに,かぐや姫が自分の正体を認識していた時期ですが,5人の貴公子が現れた時期には分かっていたのだと思います.
この時翁に対し,「変化の者にて侍りけむ身とも知らず,親とこそ思ひ奉れ(人間ではない者とも知らずに,あなたを親だと思っておりました)」というセリフがあります.
この辺りから自分の出自を自覚して隠していたと考えたら,その後のかぐや姫がとる態度の合点がいくんです.
それに,成人する時点で記憶が完全になって過ごす方が,「下界で罪を償う」ことになるはずです.そう考えることが自然かと思います.
自分は天上界の高貴な身分.こんな地上で這いつくばっている奴らとは違う.かぐや姫は,そんなふうに考えながら暮らしていたものと思われます.

でも,そんなかぐや姫も,育ててくれた老夫婦には恩義を感じており,「私,人間じゃないんですよ」とカミングアウトしたのに,それでも熱心にアプローチしてくる帝には心動かされていたようです.

「竹取物語」というのは,藤原バカ5人衆の愚行を嘲笑うという下品な作品でありながら,「人間」と「天人」という種族の違いを乗り越えようとするラストに仕上げられた,実に巧みな物語なのです.

これと似たストーリー展開をもつ作品が『新世紀エヴァンゲリオン』ではないか,そんな考察をしたことが過去記事にあります.
エヴァンゲリオンは竹取物語である

どちらの物語にも言えるのは,排他と差別を乗り越えようとしているところではないかと思うのです.

続き
もう少し竹取物語と「かぐや姫の物語」を考える

2016年8月8日月曜日

井戸端スポーツ会議 part 36「イチローの3000本安打」

天皇陛下が重大なお言葉を述べられた日ではありますが,それについて論じるのはおこがましいのでスポーツの話題にします.

ついにこの日がやってきましたね.
イチロー,メジャー3000本安打です.
類稀なる素晴らしい選手をリアルタイムで見れていることに感謝.

この記録の偉大さがどれほどかと言うと・・・・.

などと言い出すのは野暮です.
野暮どころか最悪です.
イチローが3000本安打を打った.これはもの凄い偉業です.奇跡的な御業を目の当たりにできた.その価値が分かるものがその価値を噛みしめればいい.

以下,前回の■井戸端スポーツ会議 part 35「リオデジャネイロ大会」とも関連するのでそちらも一緒にどうぞ.

よく,野球界の偉業に対して,
「でも野球は世界的にはマイナーなスポーツだから,そこでの記録なんて大したことではないんだ」
などと言い出す人がいます.

たいてい,その比較対象はサッカーであることが多いんですけど,別にここでサッカー・ファンを批判したいわけではありません.私もサッカー・ファンの一人ですから.

わざわざ他の競技種目と比べようとする根性が腐っているのです.
ピカソとゴッホ,フルトヴェングラーとマイケル・ジャクソンを比べることに意味が無いように,同じスポーツの中でも競技種目をまたいで比較することに価値はありません.
すきやばし次郎の寿司を食って「こんな寿司より二郎ラーメンの方が旨いぞ」と文句を言ってもバカなだけです.
でも,こういう比較をやらかす奴はたくさんいます.Yahoo!ニュースのコメント欄を見ていたら結構いる.

どの競技が最も高度なパフォーマンスを発揮しているのか,なんて議論をしている時点で,その人が浅薄な人間であることを明らかに示しています.
学生にもそんなことを質問に来る者がいます.
なので,どのようなもので比較しようとしているのか問いただしてみたら,
「競技人口の多さ」
「年俸」
「動いているマネーの大きさ」
「運動量・運動強度」
「経済への波及効果」
「選手の犯罪率」
といったものを出してきます.
なので丁寧に叱ります.「君は人間として下劣だよ」ってことを,オブラートに幾重にも包んで叱ります.
いや,これ結構大学教育において重要だと思うんです.
人間にとって,スポーツ教育が大事であることの一つです.

四の五の言わず,身体から繰り出されるパフォーマンスに,ただただ感動すればいい.
野球というフィールドは,イチローというパフォーマーの価値を存分に引き出した舞台でした.
スポーツは芸術なのです.
このことは■井戸端スポーツ会議 part32「イチロー」でもお話しましたね.

その一方で,「記録」が生まれたからと喜ぶ人もいます.
こういう人は,「同じ日本人が頑張っているんだ.我々の偉業を素直に喜ぼうじゃないか」という趣旨のことを言う.
でも,なんでもかんでも褒め称えればいいってもんじゃありません.
例えば今回の件であれば,野球のバッティングという身体運動がどのような価値を持っているのか知ることが大事です.3000本打つためにどのような条件があるのかを知らなければなりません.
それを考えもせず,ただたんに「3000本打った.これはメジャーリーグで偉大な記録らしい.そうメディアで報道している」ということで喜んでいるとしたら・・・.

細かいことにケチをつけているように聞こえるかもしれません.
でも,こういう「スポーツを観る態度の堕落」が,いつしか形を変えて別の場所で巨悪を生むような気がしてならないのです.


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2016年8月7日日曜日

井戸端スポーツ会議 part 35「リオデジャネイロ大会」

オリンピック・パラリンピック・リオデジャネイロ大会が始まったらしい.
でも,TV持っていないし興味ないので観戦するつもりはありません.

まったく関心がないわけではありません.
こういう仕事していますから気になる部分があるところはたしかで.
知り合いが試合に出てたりするし.
でも,だからといって情熱的に眺めるものではないと,そういうことです.

オリンピックに興味がなくなったのは中学生くらいからです.
大騒ぎするほどのものではないなと,そういうことです.
それ以上に,スポーツは「観る」ものではない.そう捉え始めたところが大きいです.

オリンピックだけじゃありません.
高校生くらいからプロスポーツ全般を見なくなりました.
プロ野球はもちろん,サッカー・ワールドカップもバレーボール・グランドチャンピオンズカップも見ません.
そもそもTV持っていないので見れません.
頑張ってスポーツ観戦に興味を持つように務めたこともあります.今思うと無駄な努力でした.

こういう仕事していますから,周りがそういう話をすることがあります.「あの試合,凄かったよねぇ」って.
その度,「ですよねぇ」などと適当な相槌を打っています.

一応,高校球児でしたので,WBCとかイチローの3000本安打には興味はあります.でも,わざわざリアルタイムで確認,観戦するほどではないですかね.

必竟,スポーツは「観る」ものではなく,「する」ものだということにしたんです.
自分で取り組んでこその「スポーツ」.
観ることに楽しみを見出すことは諦めました.
観戦なんて邪道.そういうスタイルにしています.

実は,我々のように体育・スポーツ学を専門にしている人には,こういう考え方の人が結構います.
同志多数が心強い.

「スポーツ観戦は邪道」
これは重要なスタンスではないかと思うんです.

否,スポーツ観戦そのものを批判しているのではありません.
スポーツ観戦する姿勢を問うているのです.

誰かがスポーツをしている様子を観ること,それ自体に「注力」すること.
ルールも経緯も意義もわからず,ひたすら観戦することに価値を見出す姿勢.
これは「バカ」を生み出すことにつながります.

よく,そのスポーツのルールや経緯や意義なんて細かいことは気にせず,盛り上がって観戦すればいいじゃないかと言う意見があります.オリンピックやワールドカップのような国際大会・日本代表戦ではそれが顕著です.

でも,短パンTシャツでは入れないレストラン,予備知識がなければ聞けない音楽,教養がなければ見れない美術があるのと同じように,「スポーツ観戦」するにしてもこれと同じことが言えるのだと思うんです.

渋谷でハイタッチ」する奴は,きっと格式あるレストランに短パンTシャツで入ろうとするし,『シン・ゴジラ』よりも『ゴジラ vs メカゴジラ』の方が戦闘シーンが良いと言い出す.

そんな連中をのさばらせると碌なことがありません.一刻も早く改善すべきです.
詳細は関連記事に譲ります.


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2016年8月5日金曜日

「昔は海が近かった」を確認できる「Flood Map」

ここ最近,古代日本・四国ファンタジーを取り上げていたので,
鳥無き島の蝙蝠たち(1)古代四国人
鳥無き島の蝙蝠たち(11)邇邇芸命(ニニギノミコト)
そのネタ集めの途中に出たったのが,「Flood Map」というサイト.
Flood Map
グーグルマップの海抜高度情報を用いた海面水位シミュレートができるものです.

古代日本(に限らず,世界)は今より3〜5メートルほど海面水位が高かったようでして,その状況を確認するためのものとして有用です.
この海面水位が高かった時代が日本では縄文時代のあたりだったので,「縄文海進」と呼びます.
縄文海進(wikipedia)
もともとは,丘の上にあった遺跡から海産物の遺物(貝塚)が出てきたりしたので,「もしかしたら昔は海が近かったのではないか」というところから始まったのだそうです.
その後,世界的に約1800年前までは地球は温暖であり,地球の海面水位が高いことが判明しました.地球温暖化の影響を語る際によく引き合いに出されるやつです.

Flood Mapを使って古代の海面水位をシミュレートしてみると,「昔,この地域は海が近かった」というのがよく分かります.
もちろん地盤沈下・隆起,人工的な開発などの影響もあるのでしょうが,だいたいの状況を察するに十分なものが得られます.
以下,いずれも海面水位を「+5メートル」にして見てみました.


まずは,水没で有名なの関東平野
今でこそ開発などによって地図上では海抜が高くなっている部分も多いのですが,かつてはその大部分が海の底でした.
しかも,江戸を作るまでは利根川が東京湾に流れ込んでいて一面湿地帯だったようで,人が住めるような場所ではなかったのだそうです.



遺跡として最大級の規模である「吉野ヶ里遺跡」.
今ではここは佐賀県の内陸部ですが,古代の海面水位をシミュレートすると,ここが浜辺の街であったことが分かります.貝塚が出るのも当然です.
逆に,佐賀県と福岡県南部の大部分が水没していたようです.



大阪です.
遠い昔,門真から東大阪,八尾にかけて内海があったというのはどうやら本当のようです.
かつてはそれを「難波津」と呼んでいたのではないかとされています.
難波津(wikipedia)
関東平野と同様,ここも湿地帯が広がっており,古代のテクノロジーでは開拓しようがなく.それゆえ,海抜の高い奈良・飛鳥のあたりから栄えたのではないかと考えられています.



名古屋と「熱田神宮」です.
熱田神宮(wikipedia)
ウィキペディアでも紹介されていますが,当初,熱田神宮は「岬の先に建てられていた」とされています.
シミュレートしてみたらその通りでした.たしかに岬の先になる.
あと,ここも現在大都会として発展しているところは海の底です.



海辺に建てられていた神社をもう一つ.「出雲大社」です.
私も何度か足を運んでいるところなんですが,出雲大社の歴史博物館に古代のイメージ図がありまして,そこには「浜辺に建てられた社」として描かれているんです.今とぜんぜん違うじゃないかと思っていたのですけど,こうしてシミュレートすると実際に出雲大社が海の直ぐ近くに建てられていたことが分かりますね.



岡山県の吉備児島です.
今では児島半島となっていますが,かつては島であり,海面低下&干拓事業によって人工的に半島になったところです.
古事記と日本書紀にも登場する由緒ある場所で,神武東征の吉備攻めで重要な地となったのではないかと私は考えています.



そこから南下して香川・徳島
過去記事で「古代・四国王国」ファンタジーをお話してきましたが,それを裏打ちするものです.
例えば香川・讃岐国をご覧ください.ほとんど今と変わりません.
讃岐国を指す神様の名は「飯依比古(イイヨリヒコ)」と言います.肥沃な土地を意味する神様で,ここが古代において国力の高い場所であったことを物語ります.
徳島・阿波国は吉野川河口付近で水没していますが,長大な吉野川の川辺に田畑が用意できた土地であることが分かります.
ちなみに,阿波国を指す神様の名は「大宜都比売(オオゲツヒメ)」.五穀豊穣を意味します.



愛媛・伊予国はどうでしょうか.
実はここも大部分が水没しません.平地に河川も豊富な場所ですので,古代のテクノロジー水準でも開墾が容易だったのではないでしょうか.
しかも平野部の真ん中に「温泉(道後温泉)」があります.古代においては神秘的な場所として都市の発展を促進した可能性がありますね.
実際,伊予国を指す神様は「愛比売(エヒメ)」と呼ばれ,美しい地域を意味する名前です.



高知・土佐国.
高知は・・・.もともと小さいのでなんとも言えませんが.比較的平野部が残る地域であることはたしか.
なお,「とさ」の語源は「遠狭(遠くて狭い場所)」だとされることが多いのですが,実のところは分かっていません.
ご覧のように,浦戸湾から内海が出来てますよね(図中央部).その内海に入るところが狭いから「門狭(とさ)」とされていたとも言われます.
ちなみに,土佐国は古代においては東部の「都佐国」と,西部の「波多国」に分かれていました.
そして,図で示している地域・都佐国は比較的遅くに発展した場所です.



こちらが都佐国に先んじて重要な土地とされていた,高知県西部の「波多国」です.
今となんにも変わらない.
現在は日本屈指の「陸の孤島」とされています.最近やっと高速道路の敷設工事が始まりました(開通するのは遠い将来ですが).
こんな地域が我が国において重要な地だとは思われないかもしれませんが,実は波多国にはいろいろ意味深なものが眠っています.そのうち記事にします.
(例えば,皇族だけが持てるはずの聖剣「七星剣」が納められてたりします)


都佐国にせよ波多国にせよ,この地は食料生産と人口による国力を誇っていたわけではないことが推察できます.
で,ここでやっぱり土佐国を指す神様の名前が大事です.
この地は「建依別(タケヨリワケ)」と呼ばれます.武力を持った地域という意味です.
こういう食料生産に難のある地域や国が大きくなってしまうと,世界的にみても「略奪」と「傭兵」をするのが歴史の常です.たぶん,土佐国はそうして生計を立てていたのでしょう.だからそんな名前がついた.

そんな地域では伝統的に「戦闘民族」のメンタリティが人々のなかに存在し,戦国武将・長宗我部国親が始めた農民兼兵士である「一領具足」へと受け継がれたのではないかと妄想したくなります.
一領具足などという「血に飢えた兵役システム」に同意できる気質が領民になければ,運営できないわけですからね.
一領具足(wikipedia)


古代日本を考えながらFlood Mapを眺めていますと,いろいろと思いを巡らすことができます.
ぜひ興味のある場所を「水没」させてみてください.
面白い発見があるかもしれません.


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鳥無き島の蝙蝠たち(11)邇邇芸命(ニニギノミコト)

2016年8月3日水曜日

井戸端スポーツ会議 part 34「甲子園の女マネの件」

私にとっての青春でもあります高校野球について,こんなニュースがありました.
大分の女子マネが甲子園のグラウンドに 大会関係者慌てて制止(ヤフー・ニュース2016.8.2)
第98回全国高校野球選手権大会の甲子園練習が2日、甲子園球場で行われ、大分の女子マネジャーがユニホームを着てグラウンドに立ち、大会関係者から制止される一幕があった。大会規定では危険防止のため、グラウンドに立つのは男子のみと明記されている。甲子園練習も準じる形になるが、手引きには男女の明記がなく、ジャージーでの参加は禁止、ユニホーム着用とだけ書かれていた。
こんなアンケートまでやってる↓
甲子園練習で女子マネージャーの練習補助を制止、どう思う?(ヤフー意識調査)

世論としては,圧倒的な差をつけて「規定を変更し、女子マネージャーの練習補助を認めるべき」というのが大勢のようです.


どうでもいいですよ,こんなの.
むしろ,ずっと問題無かったのだから今までどおりでいいです.
この高校は,女マネが補助に入らなければ練習がままらない事態にでもなっていたのでしょうか?
そうでなければ今までどおりの規定で問題ないということです.
いちいち気にしすぎ.

それにね,実際ああいう慣れない試合会場での練習って危ないんです.
まして,気分が高揚してしまう甲子園球場でしょ.注意散漫になりやすいし,特に外野からのバックホームとか,グラウンドの隅っこでの簡単なティーバッティングの「流れ弾(球)」が飛んできて,顔面にぶつけて出血,なんてことがある.
硬式球ですから,当たりどころが悪いとケガも大きいんですよ.
男子なら「おまえマヌケだなぁ(笑)」で済まされますが,女子だと大事になるでしょ?

私も野球のポジションは1〜9まで一通りやってきましたが,特に外野だと試合会場では普段以上に思い切って遠投したくなるものです.気分盛り上げるために.
周りも周りで,浮足立っているからボールの往来を確認しきれないところがあって.気づいたら鼻血ブーな状況に遭遇します.
まぁ,野球経験者なら分かってくれるんじゃないかと思います.
「そういう調査データがあるのか?」って言われたら言い返せないんですけど,経験的によくあるんです.

そんなわけで,「麗しき乙女の顔を傷つけたくない」「何かあったらそれはそれでクレームが来るし」っていう配慮から禁止にしてるんじゃないですか.
何事も理由があって存在するものです.
「危険かどうかは男女で関係ない」「防具つければOKだろ」っていう話もあるようですが,そこまでして女マネをグラウンドに立たせようとするモチベーションはどこからくるのか.私はそこが不思議でなりません.
それに,繰り返しますが,このルールのせいで公平性や運営に支障が出ていたわけじゃない.

むしろ,こういう「女子高生」をグラウンドに立たせて,それを一つの甲子園の華のように扱おうとするメディアのゴキブリ根性が透けて見えるので,単純に気に食わない.

甲子園関係者の皆様,こうした世論に反論する必要はありません.
全力で無視してください.私は支持する.

ただでさえ高校野球の女マネに対する内外野(守備位置のことではないよ)からの「視線」は複雑なものがあります.
潔癖なまでの友情と性愛的象徴のバランスを必死にとろうとする《場》.これはこれで興味深い日本スポーツの事象です.

「そっとしておいた方が良いもの」というのはある.
高校野球の女マネも,そんな存在の一つだと思うのです.

2016年8月1日月曜日

オープンキャンパスの来場者数を想う

昨日は「映画は自宅で見るもの」と決めている私を映画館まで足を運ばせた『シン・ゴジラ』の話題をしましたが,そう言えば都知事選もあったのですね.
東京はもう終わってる地域なのであんまり興味ないのですけど,
こういう選挙とよく似たものに大学のオープンキャンパスの来場者数があります.
入試もそんな感じ.「終わってる」というのも同じです.

我々大学教員も,夏は「サマー・オープンキャンパス」と銘打ったイベントに駆り出されます.
私もさっきまで高校生や保護者向けの「模擬授業・体験授業」のパワポスライドを作成していました.
もちろん,「体験だから」とバカ正直に大学でやっている授業をそのまま高校生にやると大変な事態になるので,飲み込みやすいように噛み砕いて擦り潰して流動食みたいにして提供します.

オープンキャンパスとは「お見合い」です.
相手の本当のところは分からないイベントです.
「ご趣味は?」
と聞かれて,
「エクセルだけで統計処理作業をする方法をいろいろ模索するのが好きでして,それをブログにアップして閲覧数を稼いで楽しんでいます」
などとバカ正直に言っても私の性的魅力は上がりません.
そこはしっかりと,
「フットサルが好きですね.たまにワンデー大会に友達と一緒に出場しています」
って応えるのが正解です.

さて,夏にやるので「サマー・オープンキャンパス」と呼ばれているわけですが.
ということは,「スプリング」も「オータム」も「ウインター」もある大学があります.
学生募集につながるんだそうです.
このオープンキャンパスですが,
(1)年間を通して開いている大学ほど経営難
(2)連日開いている大学ほどブラック
と解釈してください.

より詳細に言いますと,(1)の「年間を通して開いている大学」というのは,受験者数低下や経営状況に焦り始めた大学を意味します.
◯◯大学は春にもやってるらしいぞ.やっぱりたくさんやったほうが広告になって学生募集につながるんだろう,と素人発想で考えるものの,高頻度でやると疲れるし学内から不満が出るので散発的にやる,っていうことです.

年間を通さなくても,(2)のように「特定の時期に集中的に実施する大学」があります.勘違いしてもらっちゃ困るのは,大規模大学が連日・日替わりプログラムでやるっていうのとは異なります.連日同じ学部学科の同じ趣旨のプログラムが続くということです.
こういう大学は,連日同じ人員を割くための命令・統率が利いていることを意味します.

実際のところ,両方該当する大学が多いんですけど.

高校生の皆さんとしては,どちらかって言うと(2)の大学には行かないほうが身のためです.大学教育を受けられない可能性があります.
2日連続で行ってみて,目当ての学科のプログラムに昨日と同じ教員達が連日張り付いていたらビンゴです.その大学は受験候補から外しましょう.
「やったほうがいい」よりも「やってはいけない」を選別することのほうが重要.これは人生何事においても同様です.

オープンキャンパスって,企画する方としては大変なんです.
私が今勤めているような経営に余裕のある大学は別ですが,そうでないところでは教職員一同必死こいてやってます.
必死こいてやっているうちに,気分はハイになっていきます.灰ではありません.Highです.

すると,「これだけ苦労しているんだから,どうせなら盛大に盛り上がるといいな」っていう考えを持つようになるんです.
当初は面倒くさがってたのに,いつの間にか「成功」を望むようになる.
不思議ですね.

で,オープンキャンパス当日も教職員共々手を取り合って頑張ります.
開門前に「エイエイ,オー」の勝鬨をあげようとする痛い人もいます.

そんな大学は,来場者数をしっかりカウントするんです.
そして夕方になったら,「今日は過去最多の来場者数でした」などと発表します.
延べ人数は何人だったか,実質は何人だったか,パンフレットを渡せたのは何組いたか,なんてことを元気に報告するんです.

そのうち,理事長だとか入試・広報的な部署の長がマイクを持って,
「これも今日の皆さんのご尽力の賜物です」
などと言ってくれるので,拍手が起こります.

当たり前ですが,オープンキャンパス当日の来場者数は教職員の頑張りでなんとかなるものではありません.
その大学が5年,10年前にやってきたことの結果であり,身も蓋もないことを言えば昨今の高校生の「ブーム」です.
より丁寧に言えば,10年以上前に卒業した人達の評判がその大学の人気を決めます.
つまり,オープンキャンパスの来場者数というのは「前評判」のスコアを意味します.

オープンキャンパス.
こんなものに尽力する大学に未来はありません.最近は “その大学” と関係のないイベントを盛り込もうとする経営陣もいる.
著名人を呼んでトークショーとか,地域の人達を交えたスポーツ大会とか.
こういう新しい企画を次々考えるために,夜中まで苦労している教職員がいます.
憐れですね.

そのエネルギーのいくつかを教材研究や学術研究,そして学生対応に向ければ「大学としての資源」が高まるはずなのに.
実際,私がいる学科では広報を控えることにしました.意味ないからです.
広報活動を嫌がる教員が圧倒的に多いということもありますが,広報しなくても受験生は勝手に来ることが分かったからです.なぜって,学内でも評判がいいし,入学時の偏差値の割に卒業生が優秀です.
ちゃんと卒業生を育てれば,それなりの評判はついてきます.それが何よりの広報であり,この国のためにもなっている.
でもそれは,オープンキャンパスで伝えられることではりません.

高校生にしたって,こんなオープンキャンパスで一体何を得ようと言うのでしょう.得られるものなんて何もないじゃないですか.
オープンキャンパスに行ったことで,受験したい大学が変わるなんてことはまずない.そもそも,オープンキャンパスごときで大学の何を知ったつもりになっているのか.

そんなに大学のことを知りたいのであれば,普段の授業中の様子を見学することです.
どうしても気になるというのなら,大学教員の研究室に訪ねてみればいい.
少なくとも私のゼミであれば,高校生であろうといつでも体験してもらって大丈夫です.
そういうつもりがないのであれば,おそらくは「ブランド」と「偏差値」と「専攻」で決めるんでしょ?(アンケート結果ではそう出ています)
いや,それを批判しているわけではありません.
そうした大学選びの只なかにあって,オープンキャンパスというイベントの無意味さに気づくべきなのです.

いや,皆気づいています.
実行するのが怖いだけなのです.
でも,オープンキャンパスを侮るなかれ.これをのさばらせることは,大学教育の崩壊を加速させていることを意味します.


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