2016年10月30日日曜日

じゃあ,どのラーメンが一番旨いのか?

東京のラーメン,実は旨くないよ.
ってことを最近の記事では取り上げてきたわけですが,そんなこと言っていると,
「じゃあ,どのラーメンが一番旨いのか言ってみろよ」
なんていう文句を言ってくる人が必ず出て来ます.
つまり,私がこういう話題で伝えたいことをぜんぜん汲み取ってくれていないんです.

私はどういうラーメンが旨いのかっていう話をしているわけでありません.
ラーメンを食べるために行列を作ったり,激戦地で生き残る店は旨いと評価したり,斬新な味付けにしたラーメンを「これぞ至高の味わい」とばかりに持ち上げる精神を批判しています.

福岡出身で博多ラーメンをこよなく愛する知り合いの先生が言うには,「ラーメンは,おやつ」.小腹が空いたときにササッと食べれるファストフードとのこと.作り方の何をこだわっているのか知らないけど,注文してから5分以上待たせる店はダメ.ましてや行列ができているなんて言語道断.しかも最近は,東京人に持ち上げられて調子に乗っている博多ラーメン好きもいたりする.すでに彼らは博多っ子ではない,それこそ『東京人』です.

激しく同意します.
※そう言えば,「東京人が博多ラーメンだと思っているもの,あれって久留米ラーメンのことだよね?」ってことも言ってました.

いつから「ラーメン」が一級の料理になってしまったのか.
傍から見ていますと,まるで「マクドナルドのハンバーガーのどれが美味しいのか?」っていう議論を頑張っているようにしかみえません.

誤解しないで下さい.ラーメンは下劣な料理だと言っているわけではありません.マクドのハンバーガーと同じような階級と位置付けをもった料理だということです.
どれだけ多様で予算と時間をかけようと,やっぱりラーメンはラーメンです.酒を飲んだ帰りに,よせばいいのに食べてしまう料理がラーメンなのです.
マクドのハンバーガーに行列を作ったり,「照り焼きチキンこそ至高の味わい」などと言う奴はいないでしょ,ということです.

もちろん,マクドのハンバーガーが悪いと言っているわけでもありません.マクドのハンバーガーは,それはそれで味わい深いものがあるでしょう.これに思い出がある人もいるし,状況によってはとても便利で美味しいわけです.

それに,マクドのハンバーガーでなくても,自分でこだわって「ハンバーガー」を作れば,これもまた非常に美味しい料理になることはたしかです.
私も自分好みに選定した美味しいパン,ハム,レタスを使ってハンバーガーを作ったことがありますが,これがまたメチャメチャ美味しくできちゃったりします.自分で作ったハンバーガーを超えるハンバーガーに出会ったことは残念ながらまだありません.変に手間暇かけて作る料理より,悲しいかな,このハンバーガーのほうが美味しかったりする.

あと,ハンバーガーに関して言えば,欧食文化圏の(それなりに悪くないクラスの)ホテルの朝食に出てくるパン,ハム,野菜で作るサンドイッチとハンバーガーが非常に美味しい.
何が違うってパンとハムです.特にパンが,日本で出回っているものとは比べ物にならないほど美味しいのです(あれ,何によって違いが出てるんでしょうね.材料なのか作り方なのか).ヨーロッパ方面に行く度,朝食を食べることが楽しみで仕方ないほどになります.

そう言えば,山形に出張した時のホテルの朝食も,我が人生屈指の食事でした.
なんせ米がメチャメチャ旨い.米だけで完結できそう.そこに芋煮とかコンニャクとか漬物とか.そりゃもうヨーロッパのパンとハムの比ではない.
あぁ,思い出しただけで幸せになります.

そうそう,名古屋の路地裏で地味にやってる居酒屋に入ったこともあります.味噌煮込みおでんを出すお店でした.
地元民が集う,まさに「アウェイ感」いっぱいの中で飲んで食ってしてきたのですが,こういうところに美味しいものがある.
このエピソードは,ブログを書き始めた1年目に記事にしたことがあります.
名古屋

...,そんな話がしたいのではありません.話を戻します.
つまり,美味しい料理というのは,そこに住む人々にとって最適化されているはずで,どれが最高のものかという話ではないのです.
たしかに「日本人」という単位でくくることもできるかもしれませんが,それでもやっぱり日本人は多様です.

賑わっているとか,競争を勝ち抜いているとか,新しい取り組みだとか,そういうヘンチクリンな理由で食べ物を評価してはいけません.

そこに住む人々が「旨い」と思うように作り上げてきた文化が存在し,それはその地の風土に馴染んだものとして発展してきているはずです.
ところが東京人はこれに「最強の◯◯」とか「ランキング」といった評価をつけたがる.
本当に美味しいものとは何か? を間違って捉えちゃっているわけですね.
本当に美味しいものは,状況や風土によって違ってくるのに,無理やり「一番」を作ろうとします.

バカなウヨクほど,例の蓮舫議員の「2番じゃダメなんですか?」を明後日の方向で批判したがります.
別に私は蓮舫議員を擁護しているわけではありません.結局のところ,ウヨクによる蓮舫議員への批判の仕方というのが,「日本のランキングが下がると悔しいから,蓮舫はクソ」という批判をしてるだけじゃないの? ってことです.

ランキングなんてどうでもいい.それは,何かしらの基準で順位付けられたことによる結果でしかありません.その分野の価値や質の高さを担保するものではないのです.
バカなウヨクはランキングにこだわってもいいでしょう.でも,国会議員がそれと同じでは困ります.
この点,蓮舫よりも安倍の方が害悪です.

そして最初の記事の結論と同じになります.
つまり,料理を味わう姿勢は政治経済や教育福祉を論ずる姿勢と通底しているのです.

東京ラーメンの記事
東京ラーメン再考

関連記事はこちら.

やっぱり東京を諦める

2016年10月27日木曜日

東京ラーメンと生物兵器教員:追記

しつこいと言われようと,本件についてもう少し述べておきたいことがあります.

以前の私の上司である生物兵器教員について書いた記事に,
私をほめなさい。300字程度で。
というのがありましたね.
信じられないかもしれませんが,そのタイトル通り,件のキチ◯イじみた俗物教員は,「私をほめなさい。300字程度で」と私に指示しました.
彼が登用されたのは,昨今の大学改革が進む中にあって必然でした.現在の大学は,総じて彼のような「無能で無責任な破壊者」を欲しています.

でもこれは最近のウヨク,そして東京人の特徴でもあり,彼らはこの大学教員と驚くほど行動パターンが同じです.とても興味深い.
ショートケーキ
やっぱり東京を諦める

その生物兵器教員の行動をみていると,現在の日本が見えてくる.これは今年ヒットした映画『シン・ゴジラ』の分析と同じです.
シン・ゴジラ再考

※ちなみに,『東京人』というのは「東京都在住の人全て」を指していません.詳しくは前回記事,
東京ラーメンと生物兵器教員:補足
をどうぞ.

さて,「私をほめなさい。300字程度で」のどこあたりが,東京人化してきた最近のウヨクと共通しているのか?
そのままズバリです.
昨今のウヨクは「私をほめなさい」という態度をとっています.
しかも,「300字程度で(なるべく簡単に)」ということを求めている.
自分たちがどれだけ優れているか,外国人からほめられているか,他国に威張れるものがあり,また実際に威張ることができているか,ということであり,しかも例の生物兵器教員と共通するのは,“それでいて自分は謙虚で控えめな態度をとっている,という評価を欲しがっている” という点です.
一歩間違えば「病院」行きのように思えますが,残念ながらこれを西洋医学的な疾病とは見做せません.

当該記事で紹介したように,その教員が私に「私をほめなさい」と指示したのは,自身の手で己をきちんと “ほめられなかった” からでした.
だから他人にそれを求めたのです.他人に自分をほめた文章を書かせ,それをパクろうとした.
ここには,自分がどのような人間であり,その組織にとってどのような貢献ができているのか分からない,考えようともしない者の痛々しさが見えます.

彼について「ほめべき部分がない」ということを嘲笑っているのではありません.
どんな人間にも評価できる点はある.問題なのは,その評価について「こういう場面において相応しい回答とは何かを教えて欲しい」という意図を持った画策をとったことにあります.

これは,彼自身の中に己を評価するための基軸がないということを露呈しています.すなわち,彼のなかには「大学教員とはかくあるべき」という理念や哲学がなく,とにかく大学当局と学生の顔色をうかがうことが「評価」だという認識があるわけです.そして,その評価スコアさえ獲得していれば,仕事をしていることになると思っている.
簡単に言えば,彼は大学教員の仕事とは何かを知らないのです.

「私をほめなさい」と命じた大学教員と同じ人種の者は,マスメディアやネットメディアに日本の自虐的な記事が登場することに不満を持ち,その一方で日本を持ち上げる記事が出ると喜びます.

彼らは,日本が世界に誇れる「こと」を,自分で探すことはありません.
掲載してもらうことに楽しみを得ます.
彼らは「ほめられる」ということに快感を得ているだけです.
日本がどうあるべきかということを考えたくない.とにかく「ほめられている」という状況があればそれでいいということになります.

2016年10月25日火曜日

東京ラーメンと生物兵器教員:補足

ここ1週間くらいの記事は「東京ラーメン」と「大学教員」についてでした.
言葉足らずなところがあったので補足しておこうと思います.

まず,私は東京のラーメン店はどれもこれも不味いと言っているわけではありません.
美味しいお店もあります.でも,『東京人』という人種が好む味に合わせて作られているお店が圧倒的なので,どうしても残念な味の店が多い.
これは仕方ない側面があります.そうでなければ営業を続けられないんだから.

東京に進出している,某「博多ラーメン」のお店に,これまた行列ができていました.
東京人にも博多ラーメンの味が好まれるものなんだなぁと思って,行列ができていない時に入ってみたんです.
やっぱりです.豚骨フレーバー全開の強烈な味付け.東京人というのは,こういうのが「本物の博多ラーメン」だと認識して楽しんでいるのでしょう.

以前,博多で仕事をした時に,せっかくだからと空き時間に中洲付近の屋台ラーメンを食べに行きました.
時間がなかったこともあり,タクシーで向かったんです.
で,タクシーの運転手さんに「ここらへんでオススメできる屋台ラーメンはどこですか?」って聞いたら,
「屋台でやってるラーメンは,まだお店が持てない人がやってるんです.普通のお店のラーメンの方が間違いありませんよ.それにあれ,観光客向けにやってるところが多いですし」
って言うんです.
まぁ,そりゃそうだ.一同,納得.

まるで香川県の讃岐うどんみたいですね.讃岐うどんも,香川では「地元民用」と「観光客用」とにお店が分かれています.
ちなみに,高知県のカツオのたたきもそうです.

タクシーの運転手さんにいくつか候補を挙げてもらい,その中から地元の人が通うオススメ店を選択しました.
地元民用ですから,たしかに繁盛しているけど行列はできていないお店.
味はというと,たしかに濃厚で強いスープなんですけど,臭みのない滑らかなもので,想像していたような豚骨らしさがないね,と同僚たちと話したことを覚えています.もちろん美味しかった.

たぶんですけど,東京人が魅力的だと感じた博多ラーメンというのは,ご当地博多の人達からすれば「豚骨くささが抜けきれていないラーメン」ではないでしょうか.
豚骨くさければ博多ラーメン,豚骨くさければOK,みたいな.
だから高知のカツオのたたきも,地元民なら閉口してしまうようなカツオ臭くなったベロベロの切り身に,ショウガをたっぷり入れたものを「うまい,うまい」と言って食べる.

素直に「不味い」と言えばいい.
でも,素直に不味いと評価できないのが東京人です.
豚骨くさいから博多ラーメンは美味しい.
カツオくさいからカツオのたたきは美味しい.
プリプリとコシがあるから讃岐うどんは美味しいね,って言い出すのが東京人なのです.

そんな話を知り合いの先生としていたら,その先生曰く,“素直に” という次元を通り越して,もう既に東京人はそういう評価すらできなくなっているのではないか? と言うのです.

「豚骨くさいから博多ラーメンは美味しい」ではなく,「豚骨くさい博多ラーメンは美味しい」となっている.もう「評価」ですらない.
どういうことかって?
つまり,「◯◯は,◯◯だから,◯◯だ」という思考がぶっ飛んでるんです.
じゃあそのラーメンが美味しいかどうかの判断基準は何かというと,メディアに取り上げられているとか,行列ができているとか.それでしか評価できなくなっているのだと.
あぁ,なるほどと思わされました.

その先生と話している中で,私もたまに記事で紹介している適菜収氏が出てきました.
(例えばこんな記事で取り上げたことがあります.■俗物が俗物らしくしちゃダメ
適菜氏はラジオ番組でこんなことを言っているそうです.アメリカ大統領選挙戦において,ヒラリーとトランプどっちもダメ候補であることから,どちらを選ぶかは究極の選択だとして,「うんこ味のカレーか,カレー味のうんこ,どちらかを食べるか問われている」と.

でも,私はこう思うんです.
うんこ味のカレーか,カレー味のうんこの選択に迫られているのは,『非東京人』.
東京人はむしろ,うんこを食べて「これはカレーだ」と言い出す次元に突入しているのです.

関連記事
東京ラーメンと生物兵器教員
東京ラーメン再考
私をほめなさい。300字程度で。
ショートケーキ
やっぱり東京を諦める

2016年10月23日日曜日

東京ラーメンと生物兵器教員

ここ3回の記事がこれです↓
東京ラーメン再考
私をほめなさい。300字程度で。
ショートケーキ

さて,お察しのいい人はお気づきかと思いますが,前回・前々回の記事でご紹介した「生物兵器教員」とは,まさに現在の日本国民,わけても『東京人』のそれと同じです.
東京人を濃縮還元したのが,例の生物兵器教員です.
え? 例の生物兵器教員は関西弁だったじゃないかって? 良い指摘ですね.

『東京人』は,なにも東京に住んでいるとは限りません.全国各地に東京人はいます.
東京に住んでいることで養われやすい気質,それが東京人です.
これは『江戸っ子』と同義ではありません.むしろ対極かもしれない.

例えば「水俣病」は,水俣市だけで発生するわけではありません.原因は化学物質による公害であり,たまたま水俣市で頻発したからそう呼ばれるだけ.これと一緒です.

ウヨクがよく好む侮蔑語に『朝鮮人』という言葉があります.
朝鮮半島に住んでいる人皆が嫌われる人たちだとは限りませんが,それをウヨクは一括りにしてそう呼ぶ.
『東京人』とは,それと同じものだと思ってください.
ですが,これだけは言える.東京人の方が朝鮮人よりも人類,少なくとも日本人にとっては脅威です.

東京人とは,都市型俗物とも言い換えられるでしょう.
『東京人』それは,真言宗の開祖・空海が最も恐れた人種です.
鳥無き島の蝙蝠たち(4)空海

あと,福田恆存も釘を差した.
俗物が俗物から遠ざかるには

4ヶ月前ですが,東京都知事選の前にこんな記事を書いていました.
東京人は舛添要一氏を辞めさせた後,彼と同類,もしくはもっと酷い人物を都知事に選ぶはずだと.
その通りになっているようですね.
鯛の活け造りが食べたかった東京人は,塩焼きを見せられ「活け造りにしてほしい」と頼みました.
でも,現在の東京という場所で活け造りを食べることは無理です.絶対無理なんです.
だったら塩焼きであってもそれを美味しく食べればいいものを,活け造りがダメなら何が出来るんだ? と聞いてくるので,「まぁ,炊き込みご飯くらいですかねぇ」っていうことになったから,「塩焼きは嫌だから,炊き込みご飯に変更だ」というわけで,塩焼きから作り変えたボソボソの残飯みたいな炊き込みご飯が出されたとしても,きっとそれを「うまい,うまい」と言いながら食べちゃうんですよ.
けど,その炊き込みご飯にしても「もっとうまい炊き込みご飯があるそうだ」ということになったら,「これは本物の炊き込みご飯じゃない」などと文句を言い出して,なにがどう “本物” なのか分かんないんけど,とりあえず「本物の炊き込みご飯」を注文しだす.
地方出身者からすれば「結局,活け造りはどうなったの?」って思うんですけど,それは忘却の彼方です.
で,こういうのをずっと続けていって,そのうち「豆腐の刺身をショウガ醤油で食べよう」というところまで行き着きます.
それって冷奴ちゃいますの? ってツッコミが全国から来るものの,「分かってないなぁ.これだから地方は困るんだよ」って言うはずです.
やっぱり東京を諦めるより
これと同じことが,築地市場移設問題でも起こっているようです.
移設する上で問題ないってことが分かったんですから,自分たちの勇み足とひねくれ根性を自覚して謝罪し,素直に話を終わらせればいいのですけど.
まあ,素直じゃないのが東京人ですからね.
活け造りを東京で食べれないと思ったら,諦めてさっさと塩焼きを食べてればいいのに,何をトチ狂ったのか,「本物の炊き込みご飯」とやらを注文しています.さすが東京人.

私としては,例の生物兵器教員が起こした「ホテル・ロビー・ショートケーキ事件」と類似した展開なので,ニュースを見るたび楽しませてもらっています.
やっぱり,同じ思考形態をもった人種は,同じようなことをするらしい.

いや,楽しんでいる場合ではない.
例の生物兵器教員は,その大学や学生を不幸のドン底に陥れたではないか.
東京人も,きっと東京都民や日本国民を不幸のドン底に陥れるはずです.


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東京ラーメン再考
私をほめなさい。300字程度で。
ショートケーキ
やっぱり東京を諦める
鳥無き島の蝙蝠たち(4)空海
俗物が俗物から遠ざかるには

2016年10月20日木曜日

ショートケーキ

昨日の記事である,
私をほめなさい。300字程度で。
でご紹介した「生物兵器教員」ですが,最後の方で「過呼吸患者にショートケーキを食べさせた」という話をしました.
何のことか分からなかったかと思います.
せっかくなので,このエピソードも詳細にお話しておきましょう.

ある夏の日の夕方,たぶん午後5時ごろだったと思います.私が大学の研究室で仕事していたら,携帯電話が鳴りました.
例の生物兵器からでした.
電話に出てみると,生物兵器はこう言います.
「おぉ,◯◯先生か? お疲れさん.今な,俺はクラブの合宿でホテルにおんねん.でな,今ここで体が痙攣してる奴がおんねん.どうしたらえぇと思う?」

「あんたスポーツ指導者でしょ.自分でなんとかしろよ」って思いましたが,学生選手が筋痙攣を起こしているようなので,助言だけでもと気持ちを切り替えます.
「どこが “つって” るんですか? ハムですか? ふくらはぎですか? つっている筋肉をストレッチしてあげるといいですよ」って言うと,
「ちゃうねん,全身やねん.ここで体を丸めてビクビク震えてるんやわ.仰向けになってぶっ倒れてるわ」って.
こりゃただ事ではないと思いましたので,「それ,救急車呼んだほうがいいんじゃないですか?」って聞くと,
「ん? そうか? ちょっと聞いてみるわ,(おい,お前,大丈夫か? 救急車はいるか? ん? そうか)もしもし,あのなぁ,いらん言うてるわ.救急車はいらんねんて.どう思う?」

絶望的な状況がそこにはあったのですが,気を取り直して助言をします.「先生,本当に救急車はいらないんですか? そこどこですか? グラウンドですか?」
「ちゃうねん,ホテルのロビーやねん,1階やわ.ソファーがあるわ」
「そうですか.あのぉ,周りに誰かいませんか? ホテルの人とか」
「ん? そうか? ・・いや,おらんわ.受付にも人はおらんなぁ.こういう時はどうしたらえぇと思う?」
「あの,その学生,大丈夫なんですか? 大丈夫に見えますか?」
「ん? そうか?,ちょっと聞いてみるわ,(おい,お前,大丈夫か? ん? そうか),あ,もしもし,大丈夫言うてるわ.大丈夫やわ」
「あのぉ,・・・・じゃあ,安静にして大至急,誰か呼んでください.ホテルの人とか,誰かを」
「ん? そうか? これ,ストレッチした方がええんかな? 安静にしてて大丈夫か?」
「誰かを呼んだほうがいいと思います.誰か呼んでください」
「りょーかーい.アーリガートサーン.ほなな」
電話はそこで切られました.
その後,生物兵器から本件に関わる連絡はなかったのですが,後年,私は思わぬ形で本件の詳細を知ることになるのです.

卒業式を間近に控えたある日,生物兵器が顧問・監督をするクラブに所属していた4年生の一人が「最後の挨拶」として私の研究室を訪問してくれました.
大学での思い出,クラブ活動での思い出を語っているなかに,あの夏の日の事件があったのです.
「めっちゃ大変だったんですよ,あの日.思い出すと鳥肌が立ちます」そう言って学生は話してくれました.

「練習が終わって,ホテルの部屋に戻っていたんです.畳の上に横になってウトウトしていたら,携帯電話が鳴りました.◯◯(生物兵器)監督からでした.出たら,『早くロビーに降りてこい』って怒鳴るんです.私,主務もやってるんで,ホテルのこととか明日のスケジュールとか打ち合わせるのかなって思いながらロビーに降りていったら,談話コーナーって言うんですか,ソファーがいっぱい並んでるところに◯◯監督が座ってるんです.こんな感じに」って言いながら,腕組みをして胸を張り,威張ったような態度をとってみせます.さすが4年間を共にした部員だけのことはある,よく似ています.

「何か怒られるんかなぁって思いながら近づいたら,◯◯監督が座ってる前の床に,学生コーチの□□さんが倒れていて,ブルブル震えてるんです.凄いんですよ,ブルブル震えてるんです.口から泡も吹いてました.息が荒くて,うめき声をあげながら,ゴロゴロ転がってるんです.でも,◯◯監督はソファーに座ってるんです.腕を組んで.こういう感じに.・・凄くないですか?」
凄いです.凄すぎワロタ.

「だから言いましたよ.『◯◯監督!,□□コーチが倒れています!』って.でも,『安静にしとけ』って言うんです.□□コーチは死にそうなのに」
ああ,なるほど.って私は思いました.安静にして,人を呼んだのですね.

「で,そしたら◯◯監督は『今日の晩飯はなんや!』って聞くんです.今日の晩飯はなんやって言われても,意味不明じゃないですか.だから『え?』って聞いたんです.そしたらめっちゃ怒ってくるんで,だから仕方なく『たしか,ハンバーグとコーンスープ,それにサラダがついています.ご飯とサラダはおかわり自由です』って.そしたら監督,なんか考えだして,その日のお昼に監督の知り合いの先生からもらった,差し入れのケーキを3つか4つくらい持って来いって言うんです.でもなんでケーキだったんですかね?」
知らん.

「とにかく早くケーキを持ってこないといけないと思ったので,急いで部屋に戻って冷蔵庫からケーキを箱ごと全部持ってきたんです.戻ってきたら,『急いで□□コーチにケーキを食べさせろ』って言うんです.意味不明じゃないですか.でも,断ったら怒られるんで食べさせることにしました.でも,どのケーキを食べさせたらいいのか分からなかったので,『どのケーキがいいですか?』って聞いたんです.そしたら監督は,『□□コーチに聞いてみ?』って言うんで,□□コーチに『どれがいいですか?』って聞きました.そしたらコーチは『いらんわボケ』って苦しそうに言うんです.だから監督に『監督,コーチはケーキを食べたくないそうです』って言いました.けど,監督が『食べさせろ!』って怒るんで,とりあえずチーズケーキから食べさせることにしました.こうやって抱き起こして,口に突っ込んだんです.でも,コーチは『いらない』って言うんです.『なんでケーキやねん』って.たしかにそうだなぁって思ったんですけど,監督に怒られるんで食べさせました.そしたら監督,『今度はショートケーキにしよう.ショートケーキが効くんや』っていうんです.でもショートケーキって発作に効くんですか?」
効かないよ.

「頑張ってコーチに食べさせようとしたんですけど,コーチは口が動かないんです.だから食べてくれませんでした.そしたら監督が怒って『□□コーチ,食べなアカン.食べぇ!』って.私もがんばってコーチの口にケーキを押し込んだんですけど,息が荒いし,すぐに溢れてくるんです」
なんだかファンシーな地獄絵図ですね.

「そのうち,□□コーチが『もうえぇ』って怒り出して.それに,発作も治まってきたみたいで.そしたら監督は『よし,効いてきたな』って言い残して,部屋に戻っていきました.なんで監督はケーキを食べさせたんですかね? あのあと,どのケーキが一番効くか解説してくれたんですけど,もう覚えていないんです」
覚えてなくていいです.

ちなみに,この学生コーチが発作を起こしたのは,クラブの指導方針について話し合っている中で,この生物兵器と意見が対立したことが要因の一つらしい.
強いストレスに曝されると,たまにこういう症状が現れるとのこと.


関連記事
私をほめなさい。300字程度で。

2016年10月19日水曜日

私をほめなさい。300字程度で。

以前私が勤めていた大学の上司であり教授の一人に,想像を絶するほど仕事が出来なさ過ぎた人がいます.
オブラートに包まず評価すれば「無能」の極地なのですが,いかんせんこういう奴ほど自分を有能に見せたがるし,もっと言えば,たちの悪いことに “そう思い込んでいる”,つまり自己暗示をかけて催眠状態に入っているという状況がそこにあります.
大学教員には変わり者が多いと言われますが,それが過ぎると生物兵器です.

そう言えば昔,この人についてはこんな記事を書いたこともありましたね.
反・大学改革論3(学生はお客様じゃない)
そこで述べた,私に向けて「お前,金が欲しくないのか!?」って,どこぞの悪代官みたいに脅してきた人がそれです.

「下衆」「醜悪」「俗物」,いろいろな表現を考えてみるものの,最適なものが思いつきません.強いて言えば「キチ◯イ」が最も適切でした.
結局,その大学ではあの手この手を駆使されクビになったのですけど,クビになるまでの経緯が「昼ドラ」もびっくりの展開だったようです.

まあ,こういう生物兵器級の大学教員の存在というのは,大学の職場ではよくあることの一つでして.
たいてい,それによって精神疾患を発症する人が出たり,少なくない自殺者が発生します.笑い事のようですけど,結構な件数を耳にします.

刺すか刺されるか..,否,“刺され潰される” 殺伐とした職場に,性格がひん曲がる若手教員もいますし,頭がおかしくなってしまう職員さんもいます.
私の知り合いの女性研究者も,某有名大学の研究所に勤めてしまったことがきっかけで,常時クスリをやってんじゃないかと思うような性格になってしまいました(実際,ちゃんとした『薬の服用』はやっている).
大学教員に変わり者が多いのは,そういうエキセントリックな環境に長時間曝露されたからなのかもしれませんね.

私もそんな上司がいる職場に一時期いたことがありますが,こんなブログを書いているくらい “変わった性格” の持ち主ではありますので,致命的ダメージを受けずに今に至っています.

無能のくせに「有能」を装う上司は,摩訶不思議な命令を発することがあります.
例えば,私にメールでこんな指示を送ってきた奴がいました.
私をほめなさい。300字程度で

事情を知らない人にとっては解読不能なものでしょうが,一定期間付き合いをもった私には分かります.
つまりこういうこと.
大学事務局(たぶん人事課)から「今年度における自己評価調査票」みたいな物の提出を求められたのです.
で,所属していた委員会とか,クラブ活動とか,高校訪問への参加とか,授業評価アンケートの結果などの「学内業績」を書く欄には機械的に羅列・記入できたんだけど,最後のところでつまづいたのでしょう.
その欄にはきっと「今年度における自己評価の概要(300字程度)」と書かれてあった.

彼は文章が書けませんでした,まったく.
学内紀要などに掲載する研究論文も,「若いもんは経験を積まなアカンのや」などと難癖・言い訳をつけて,私に「彼の名義の論文」を書かせていたし,授業用のパワポスライドも私が作ったこともある.
マジで「中学生以下」を地で行く大学教員だったのです.

だけど当の本人は自分が「無能」であることを周りから隠せていると信じていて,それを信じるあまり,むしろ「有能」ではないかと幻を見ていたりする.
周囲の人間をうまく利用して困難を克服しているんだ,という自負のようなものになっていたわけですね.

そんな彼が「今年度における自己評価の概要(300字程度)」というタスクを前にして,これをなんとか乗り切ろうとした際の作戦が,
「私をほめなさい。300字程度で」
という文章を私に命じるものだったのです.

私に彼を「ほめる」文章を書かせて,その文章をパクれば「自己評価の概要(300字程度)」というタスクを乗り切れると考えたのです.
なかなかのグッドアイデア.

彼にしてみれば,
「大学に提出するため用の,シュッとした『自己評価の概要』を300字で書くことができないから,代わりにお前が書いてくれ」
などと直接命令してしまうと,自分が文章が書けない無能者だと思われてしまうから,そうとは悟られないように文章を獲得する方法はないものか? と思案した結果なのでしょう.

メールを受け取った時,私は「へぇ〜,そう来たかぁ.こいつも成長したなぁ」と感心したものです.
でも,文章がなかなか思いつかなかった私は,同僚の先生にこのメールを転送し,「私にはとても書けませんので,代わりに書いてくださいよ」って依頼しました.すると,即,こんな「自己評価の概要」を返してくれたんです.
 ◯◯(当該教員)は大変優れた人材である.
 まず,早起きである.早起きであるという時点で健康的に違いない.朝に余裕を持って行動するため,的確に時間をマネジメントすることができる.当然朝ご飯も余裕を持って食べることができるため,慌てて喉に詰まらせるなんてことは皆無である.余裕がありすぎて2度目の朝ご飯を食べちゃうくらいである.
 次に,学生サービスが得意である.◯◯は,焼き芋やたこ焼き等隙あらば学生にこれらの催しを行う傾向がある.ときにたかられた少年のごとき態度でこれらを行っているように感じることすらある.それは,そのくらい学生サービスに徹していることの裏返しである.決して,授業をやりたくないからこれらを行っているわけではない.◯◯なりの愛情なのだ.
 また,研究,教育,実習,学科業務等何一つまともにできないにもかかわらず,それをミスターサタンばりに取り繕うスキルを有する.このような力を発揮できる人材は◯◯以外には見たことがない.
 最後に,マネジメント生理学という新分野を構築し,過呼吸患者にショートケーキを食べさせるという処方を実践した.このエピソードからもわかるようにオリジナリティあふれる着想で,どこに向かうか誰にも理解できない方向へ学問の幅を拡張しつつある.これらの類い稀な行動力も評価に値する.

「お忙しい中,適切な文章を作成いただき,ありがとうございます.大変申し訳ございませんが,300字を大きく逸脱しておりますので,こちらで一部削らせていただくことをご了承ください」
ということで,本件は対処しております.

そんな彼も最終的には大学の職を追われたわけですが,私が問題視したいのは,こういう教員を「現場肌」「実践的」「学生目線」という理由で採用したがる教育環境が現在の大学にあるという状態です.
できればこんな教員・志望者を採用したい(ただし一部の大学に限る)
彼は再起のため準備を着々と進めております.
またどこかの大学で暴れる日が来るのでしょう.

関連記事
厄介な教員は切り捨てても良いか?
こんな大学の教員は危ない part 1
ショートケーキ

2016年10月15日土曜日

東京ラーメン再考

既に何度か同じテーマで話してきていることですが,最近また同じ気分にさせられたので “一地方民” として述べておこうと思います.
「しつこい」「面白くない」と言われようとも,これは誰かがちゃんと言わなきゃいけないことだからです.

類似過去記事はこちら.
続・東京人と中国人はよく似ている
都知事選と抹茶ビールの間にあるもの

ここ東京はラーメン激戦地なんだそうです.たしかに流行りのラーメン店が群雄割拠な状態にあります.
でも,このことを東京人には教えてあげなければいけません.

「東京人が『旨い』と言っているラーメンは,概ね不味い」

なぜ教えてあげなければならないのか?
それは,東京のラーメンが全国津々浦々の中でも,とりわけ「レベルが高い」と勘違いさせることになるからです.
東京のラーメンは格別美味しくありません.むしろ味付けのレベルは低い方だと思います.

たかがラーメン,たかが一つの勘違いだと見做してはいけない.この勘違いを放っておくと碌なことになりません.
それが発展していくと,抹茶ビールを飲んだり,碌でもない都知事を選ぶようになる.最近は魚市場の移転でしょうもないことをやっています.

さて,去年から自宅の近くに新しくラーメン屋ができていました.
開店当初に食べてみたのですが,ことのほか不味いので行くのをやめたのです.
ところがこの店,最近になって行列ができるようになった.店の前のベンチにずらりと人が並ぶんです.

何があったんだと思い,空いている時に食べに行ってみたのです.
どうやらメニューが変わって,「濃厚な魚介スープがオススメ」ということになっていました.
どれどれ,あのラーメンがどれほど美味しくなったのかと期待して注文したのですが,やっぱり不味かった.これならラ王を食べていた方が「コスパ」からすれば納得できる.

一方,これも自宅の近くにあるラーメン屋ですが,いつもそれほど客が入っていないけど美味しいんです.この店は閉店が早いので,私の生活時間に合わないため頻繁には行けないのですが,お気に入りのラーメンを出してくれます.
客が入っていないから,そのうち店を閉めるんじゃないかと心配でなりません.
そう言えば,大将も気弱で今にも倒れそうです.この仕事に向いていないのかもしれませんね.

結論から言いましょう.
東京で流行っているラーメンは,マジョリティである「東京人の舌」に合うラーメンなのです.それが流行っているだけです.
これが地方民からすれば不味い.
当然と言えば当然のことですが,この理屈が意外と通りません.

日本は想像以上に広大です.各地域によって食文化が異なります.
地方人が,「東京に行ったら,美味しいラーメンを食べるんだ.きっと,こんな田舎のラーメンなんかより遥かに美味しいはずなんだ」などと雑誌片手に期待して食べてみたら,思いのほか不味かったというケースは多いはずです.

大丈夫.それは間違っていません.
東京人に合わせた味が,地方人に美味しいわけがない.地方人には地方人の舌に合わせた地元のラーメンが美味しいのです.
これはちょうど,海外に出店している日本料理屋で,外国人向けの味付けにしている日本料理が,日本人にとって「?」な味になるのと一緒です.

ところで,上述した不味いラーメン屋ですけど,どうやら東京では最近「魚介スープ」のラーメンが流行っているんだそうですね.どおりで最近はインスタントラーメンにもそんなのを良く見る.
ラーメン博物館のHPによると,2002年あたりから首都圏でブームになったそうです.
日本のラーメンの歴史(ラーメン博物館)

この魚介スープなんですけど,それこそ首都圏で何店か食べて回ったのですが,「無理やり感」が凄い.
「ほれ,魚介フレーバーを強くしてやったぞ.新鮮な味だろ?」というリニューアル・アピールだけで乗り切ろうとする根性が透けて見えるのが頭にくる.

ちなみに,私の実家がある高知では魚介スープのラーメンは昔からポピュラーです.
以前,料理好きで栄養士でもある母から聞いたのですが,高知みたいな田舎では「イリコダシ(煮干し)」と中華スープを合わせるのが普通で,ある意味この地域の特徴だということでした.
幼い頃に中国大陸と朝鮮半島で育った母としては(祖父が海軍下士官だった影響です),イリコダシで作るラーメンスープが気に入らないとのこと.
でも,私はイリコダシのラーメンで育ったので,この味が「懐かしいラーメン」ということになります.

そんなイリコダシ文化・四国出身の私としては,どうもこの「魚介系ラーメン」に漂う取って付けたような仕上がりが不気味です.
スープとなった魚介達が泣いているように感じます.
そう言えば,不気味と不味いって,字が似ていますね.

ところで,大阪・関西人は飲食店について「良い店」「悪い店」を接客能力で判断すると言われます.
これに対し,東京人のそれは「美味しい店」か「不味い店」かで判断すると言われます.

関西に住む以前は,私もお店は「美味しい店」か「不味い店」かで良し悪しを判断するものだろうと思っていました.
ところが,いざ関西に住んでみると,どうも「接客」の方が重要なファクターになるなということに気づいたのです.

これも結論から先に言いましょう.
東京では,「美味しい店」に当たるのが貴重なのです.なんせ人口が多いし店数が多いですからね.ちょっとくらい不味くても客が入るので,採算がとれるんです.
だから必然的に「美味しい店」が少ないので,客側としては店選びの判断材料は料理の「美味しい」「不味い」が重要なものになります.

それに対し関西(に限らず,地方)では,出店するからには料理が美味しいことは当たり前で,それ以上の価値がないと継続してやっていけません.
ですから,客側としては店の料理の味は判断材料にはならず,何度も足を運べるかどうか? が基準になるのだと思います.

例えば,私が関西にいた時に通っていたラーメン屋は,何度か足を運んでいるうちに私を覚えてくれて,入店した時点で注文が予測されて動いていました.
「いらっしゃいませ.ご注文は?」と聞かれ,
「じゃあ,これ」とメニューを指差すと,
「ありがとうございます.中・固(チュウカタ:中麺,茹で加減は固め)でよろしいですね」と返してくれるので,私はそれに頷けばOKという感じ.
この時点でもう既に厨房では中・固が茹でられているので,あっという間に出てきます.ちなみに,茹でているのは当時赴任していた大学の学生でした.

私が麺を食べ終わると,店員がすかさず寄ってきて,
「失礼します.替え玉は,細・固(ホソカタ:細麺,茹で加減は固め)でよろしいでしょうか」と聞くので,これも頷けばOKです.
ここでも既に教え子である学生が細・固を茹で始めているので,超速で替え玉が来ます.
こちらとしても,この注文パターンを変えるつもりはなく,来る料理を間違えたとしても不味いわけじゃないから気にしません.
バイトをしている学生に聞いてみたら,やっぱり馴染みの客にはこんな感じで対応しているのだそうです.

東京ラーメンについて,大事なことを言い忘れていました.
東京のラーメンが全国の中でも「レベルが高い」と勘違いさせてはいけない,という点です.
むしろ,君たちが食べているラーメンは不味いんだ,という冷水をかけてあげなければならない.それはどうしてか.

東京人は,斬新な味付けになら何でも「旨い」と言ってみせるからです.
たとえそれが不味くても「旨い」と言う.非常に変わった人たちです.
素直に不味いと言えばいいのに.
いえ,そうではない.東京人は,「旨い = 変な味」「変な味 ≠ 不味い」「不味い ≒ ありきたり」という関係式をつくっているように見えます.

こういう東京人の気質が,抹茶ビールを作ったり,舛添要一を辞めさせたかと思えば小池百合子みたいなのを都知事に選んだりするのです.
「変な味 ≠ 不味い」なのだから,山本太郎とか蓮舫も当選させる.地方の田舎では「変な味 = 不味い」のはずですけど,ここじゃそうはならない.
最近は魚市場の移転で無意味にもめています.どうでもいいよこんなの.

本当に美味しいものを,きちんと選ぶ.
これはラーメンを始めとする飲食店だけでなく,政治経済に対する姿勢と通底しているところがあります.


関連記事はこちら.
続・東京人と中国人はよく似ている
都知事選と抹茶ビールの間にあるもの

2016年10月12日水曜日

体育学的映画論「ロッキー・ザ・ファイナル」

前回の記事に続き,さっそく体育学的映画論の記事を一つ.

スポーツ映画の最高峰だと思われる一本を紹介しておきます.
『ロッキー・ザ・ファイナル』(2006年)
です.
今,Huluで配信されています.
以前にも見たことがあるのですが(もう10年前の作品なんですね),このネット配信を機会に何度も見返しています.

細かな評論をする必要のないほどの「完全なるスポーツ映画」.
スポーツが持っている魅力を余すことなく純粋培養したのがロッキー・ザ・ファイナルです.

「ああいう映画って好きじゃないんです.他にもっといい映画ないですか?」
などと言い出す女子学生もいますが,そんな甘っちょろいこと言ってる女に授業の単位は出しません.
この映画は “基本” です.

実際のところロッキー・ザ・ファイナルだけではダメで,「ロッキー1」からシリーズ全てを見ることで「ザ・ファイナル」の価値が分かるというものです.
まさにロッキー・シリーズの最後を飾るに相応しい完璧な作品.文句のつけようがありません.

私にとって心に残るシーンとセリフはこれ.
映画の序盤でロッキーは過去を思い出しながら町を歩き回ります.
そこで彼はこんなことを言う.「同じ場所に長く住んでいると,その場所が自分自身になる」
中途半端にあちこち住所を変えている私にって,なんだか妙にズキンと胸にくる言葉でした.
人は同じ場所に長く住むことが本来の在り方なんだ.定住することで,その場所すら自分の体の一部となる.つまり周囲の環境が「身体化」するのだということを,彼は語っているのです.
これは体育学的を考える上でも重要な観点です.

でもまぁ,そんな難しい話は抜きにしても,この作品を真正面から見ればスポーツの価値を容易に読み解くことができます.

老いたロッキーが現世界チャンピオンと試合をするなんて非現実的だ,ですって?
そんな細かいことに口を出すのは野暮ってものです.これは映画です.

何もかもが都合よく展開している?
エキジビション・マッチへの流れ然り,息子の行動然り.たしかに都合がいい.
でもこれは映画です.話は都合よく展開するに決まっています.
そこに何を見るかが問われているのです.

今作のロッキーの相手役ですが,彼は過去(ロッキー3)のロッキーです.
勝てる挑戦者としか戦わず,エキジビション・マッチに遊び感覚で参加し,スター選手として自惚れているボクサー.
今作のロッキーは,そんな過去の自分に立ち向かっているのです.

終盤,お決まりのトレーニング・シーン.
ちなみに,今回のロッキーのトレーニングですが,実施しているメニューは最新のスポーツ科学的にも「重いパンチを生み出すためのパワー強化」として王道的なプログラムが行われています.
適当に見栄えのしそうなものを用意したのではなく,かなり緻密に設定されたものであることが窺えます.これには私も感心しました.

そして試合開始.カッコ良すぎて笑けてきます.
思わずパソコンの画面に前のめりになって見ている自分がいる.画面を見ながら拳に力が入るのを自覚できる.
カメラワークを実際のボクシングの試合をベースとしたものにしているのも良い.実況アナウンサーも “いかにも” なフラグを立てまくるし,周囲の反応もわざとらしい.
でも,ここに「スポーツの本質」を見れるかどうかが,この映画を楽しむためのコツです.

最終ラウンド.フラフラになりながら対峙する2人.
そこでチャンピオンは言いいます.「イカれたジジイだぜ」
ロッキーの返事は,「お前もそうなる」
涙が出そうになります.

結末,「ロッキー」の最後は,やっぱり「ロッキー」でした.
スポーツとは,勝つことではなく,勝とうと努力するところにその魅力がある.という綺麗事を,見事なまでにスポーツの「真理」として呈示してくれている.
人類史に残る名作.オーバーでなく,私はそう思っています.

2016年10月9日日曜日

授業と映画

シン・ゴジラ再考
っていう記事を先日書きました.
チャンネル桜というテレビ局の番組で,
という評論をやっていたことがきっかけです.

そこに出演していた論者の一人である京都大学の藤井聡先生が仰っていたのですが,大学の講義で映画を取り上げることが多いのだそうです.人に何かを伝える際に,映画という媒体が強力に作用するからだということです.

かくいう私も,大学の授業では映画を取り上げて説明することが多い一人です.
体育学やスポーツ科学で伝えたい事が,実はいろいろな映画のテーマと親和することに興味を持ってもらいたいですし,それによって我々の分野の理解が進めば,これに勝る喜びはありません.

特に他学部・他学科の学生にとっては「映画」を用いた解説はとても好評で,リアクションペーパー(小レポートみたいなもの)に「体育学やスポーツ科学を考える上で参考になる映画や小説をもっと教えてほしい」と書いてくる学生もたくさんいます.

究極的な話をすれば,どんな芸術作品であっても,あらゆる学術領域に通ずるところがあります.各学術領域同士も然り.
問題となるのは,それらから互いにとってのエッセンスやメタファーを引っ張り上げたり結びつけたりするスキルなんだと思うのです.

昨今の大学は,「初年次教育」と称される1年生対象の「大学生活入門」みたいな授業をやっています.たいてい,我々が1つのクラスを割り当てられて,担任の先生のようにして大学生活のチューターの役割を担う展開が多いのですが.
そうした授業において,私が彼ら新入生に毎年オススメしている「大学生活の例」が,芸術漬けの生活です.
その一つして,私自身の学生の頃を紹介しながら「映画漬けの日々」を推奨しています.バイトにかける時間を最小限にしてでも,映画をひたすら見なさい.そうでなくても,何でもいいからどっぷり浸れるものを見つけなさいと.
それが「大学生ならではの生活」ではないかと本気で思います.

私の場合,映画マニアほど見ていたわけではありませんが,TSUTAYAの「100円クーポン」なんかを利用して短期で大量にレンタルする方式を採用し,一ヶ月50本を目安にがんばっていました.
あんなふうに呑気に無理ができるのも,学生の頃だけだなと思い返しています.

笑い話の一つとして言うのが,返却まで残り1日(24時間)を前に,まだ見ていない映画が10本あった時の話.てっきり3日間くらいかけて見るつもりが,用事が重なってしまい,「ちょ〜っ,あと1日しかないやん!」って事態になることもしばしば.
ノンストップでテレビの前にかじりつくことになるのですが,そんな時の食事は3食すべて「卵かけご飯」で済ましていたのも良い思い出です.

シャワーを浴びるように映画を見ていくと,なんとも説明し難い「領域」に足を踏み入れることを実感します.
これはきっと英語の勉強と同じことだと思いますし,研究活動とも一緒です.

3年前に私のクラスだった学生の一人が,「1年生の時に先生に言われた映画漬けの生活,ずっとやってきましたよ」って言うんです.
オススメはしたけど指示した覚えはないよ,などと言い返しましたが,「おかげで映画を見る目が変わりました」ってことなんですが.

そう.私もそれまでとは映画を見る目が変わりました.これは研究を考える時と同じ感覚です.
分かりやすい変化としては,「面白い映画」という評価の質が変わってきた.つまり,映画の批判の仕方が「楽しいか否か」ではなく,「興味深いか否か」に変わったんです.

それまでなら「単調でありきたりな展開だから,これは楽しくない.面白くない」と思っていたであろう映画も,作者や監督,役者らがこの映画によって何を伝えようとしているのか,何をやりたいのか,という点に目が向くようになるのです.

楽しい作品ではないけど,この映画を見ることで何かしら自分に得るものがあるのではないか? これを見ることで自分の考えが広がったり深まったりするのではないか,という点に関心が出るようになりました.

例えば,かつて私が見た「クソ映画」の筆頭が,ハリウッド版『ドラゴンボール』なのですが,これも「なぜ私はこの映画がダメだと思うのか」と考えさせられる作品だったと思うようにしています.
で,そんな記事も書いたことがあります↓

ここ何年かは,なんとなくですけど映画から足(目)が遠退いておりました.さながら「見るべきほどのことは見つ」という気分になっていたのですけど,同じ作品であっても繰り返し見ることで新しい発見もあります.新作もそれなりに面白い.

最近はHuluという動画サイトで映画を見るようになっていますので,今後はこのブログでも「体育学的映画論」という観点から論じられれば面白いかと思います.
まあ,体育学とかスポーツ科学にこだわらなくても,私なりの映画の見方をご紹介していくつもりです.

過去の映画論記事
(思いつく限り列挙してみたのですが,意外とたくさんの記事を書いていたんですね)

2016年10月8日土曜日

鳥無き島の蝙蝠たち(15)月読尊(ツクヨミ)

関連記事を読んでもらわないと理解できないかもしれません.
こちらも一緒にどうぞ.

古代日本における「西日本統一事業」において,どれも四国の地を足がかりとしなければ成し得ないはずなのに「神話には四国それ自体への言及が殆ど無い」ということについて,日本神話の行間と考古学的資料から読み解こうという企画です.

その謎を解く鍵の一つとして,私は「月読尊(ツクヨミ)」という三貴神の一人をあげます.
ツクヨミ(wikipedia)
結論から言いましょう.
ツクヨミという神様は,四国勢力のことを指していると考えられます.

三貴神が示しているのは,古代日本において重要な役割を演じた3勢力のことを指しているのではないか? というのは私がかねてより考えていたことなのですが,ここ最近の「四国妄想ファンタジー」を機に,「ツクヨミが “四国” だとしたら,いろいろ合点がいくじゃないか」と思うようになりました.

三貴神というのは,古事記においては黄泉の国から逃げ帰ってきた伊邪那美命(イザナギ)が,川で禊(体を洗う)をした時に生まれた,日本を代表する神様3人「アマテラス」「ツクヨミ」「スサノオ」のことです.
この三貴神が象徴しているものとエピソードからしますと,古代日本における重要人物,もしくはその重要人物が率いる国の行動を暗喩したものが神話化したものではないかと考えられるのです.

分かりやすいのはアマテラスとスサノオです.おそらくは,
アマテラス:九州・邪馬台国.卑弥呼や台与を擁する女王国.
スサノオ:近畿・ヤマト朝廷の礎となった国.おそらくは近畿土着勢力と出雲勢力.
を指しているのではないかと思うのです.

ツクヨミの話をする前に,まずはこの2神について解説しておくと理解してくれやすいかと思います.

私説によれば,ヤマト朝廷を打ち立てたのは四国・九州(&中国)連合です.
しかし,その後は近畿(奈良地域)を中央政府とする時代が続き,その間,邪馬台国や四国,中国地域は様々な内紛がありつつ吸収合併されたものと考えられます.
従って,古事記や日本書紀を編纂する目的としては,近畿地方とそこに住まう有力者と為政者にとって都合のいいものにならねばなりません.
自分たち(天皇や貴族)が日本を治める資格があることを宣言・公言することが,古事記と日本書紀の編纂目的だからです.

とは言え,「神話」は民衆が納得するものでなければ神話としての力を発揮しませんから,全くの創作というわけにはいかず,国産み,天孫降臨,神武東征といったエピソードを用いることで九州,中国,四国地方が国作りに携わったことを比喩・暗喩を駆使して練り込んでいるものと考えられます.

そうなると,日本の最高神とされているアマテラスは,太陽を信仰し,女王により統一され,近畿地方を制圧した国の一つである九州・邪馬台国を指していると考えるのが自然です.
事実,日本書紀においてはアマテラスのことを「白日神」と呼びます.九州・筑紫地域のことも「白日別」と言いますから,少なくとも「九州勢=アマテラス」と考えられます.

後年,逆に九州地方は近畿地方の勢力下に置かれたことが考古学的にも有力説となっています.これを日本統一の動きの一つだと考えると,近畿・中央政府が九州勢を神格化し,「アマテラス」という最高神として祭ることで,九州勢のご機嫌をとったと考えられます.
勢力下に置いた地域の神を,自分たちの神として崇める,というのは世界各国にみられることです.

スサノオはというと,彼は三貴神のなかでも具体的なエピソードの量が多く,様々な行動が記述されています.おそらくは,スサノオという神の行動を通して,神話の編纂者である自分たち近畿地方が,古代にやってきたことをぼかして解説しているものと考えられます.

代表的なエピソードを「スサノオ = 近畿・出雲勢力」として解釈してみましょう.
スサノオは高天原で横暴を働き,アマテラスの機嫌を損ねて追放されるという一連のエピソード.これは,近畿地方がアマテラス(九州勢)と衝突して西日本で孤立したという状況があったことを匂わします.

高天原を追放された後,空腹でさまようスサノオは,オオゲツヒメ(四国・徳島地域を司る女神)に食べ物をもらうのですが,その際,口や尻から食物を出して調理するオオゲツヒメの姿に驚いたスサノオは,この女神を殺してしまいます.これは,孤立した近畿勢が海を挟んですぐ隣である徳島地域に助けを求めたことと,その際にこの地域を支配下にいれたことを指している可能性があります.

そして出雲へ降り立ったスサノオは,ヤマタノオロチを退治するという有名な偉業を成し遂げます.さらに,ヤマタノオロチから三種の神器の一つである鉄剣「草薙剣」を手に入れるのです.これらのことは,出雲を制圧し,彼らの最新テクノロジーである製鉄技術も手に入れたことを指していると考えられます.

スサノオ(近畿)がアマテラス(九州)と仲違いしたのは,おそらく「朝鮮からの鉄器輸入」や「外交」の航路をめぐる対立だと思われます.
図示すれば,こういうこと↓

九州・邪馬台国としては,彼らの眼前を通って大量の「鉄器」を輸入しようとするヤマトに対し,「こいつら,そのうち武器をたくさん保有して我々に歯向かってくるんじゃないのか?」と疑うのは当然のこと.
近畿・ヤマトとしては「いやいや,そんなやましい気持ちはありません.農地開墾のために,そして武器は周りの諸勢力から身を守るために輸入しているんです」などと言い訳したはずです.
このやりとりが,古事記に描かれている「アマテラスとスサノオの誓約」のエピソードだと考えられます.そして,その時はヤマトの言い訳は受け入れられた.
ところが,やっぱりヤマト(スサノオ)は邪馬台国(アマテラス)を怒らせるようなことをしたのです.だから国交断絶に追い込まれたのでしょう.

瀬戸内海を断たれたヤマトとしては,鉄器を輸入するルートを新たに確保しなければなりません.そこで考え出されたのが出雲を通る「日本海ルート」です.
しかも,どうやら出雲は「鉄器を生産している」というではありませんか.ヤマトが出雲制圧に乗り出したのはこうした理由からだと思われます.
そして見事ヤマタノオロチ(出雲勢力)を退治して,草薙剣(鉄器)を手に入れた.

この神話においてポイントなのは,スサノオは最終的に「出雲」に住み着くことです.これは,元来,近畿勢力そしてその後の大和朝廷を象徴しているスサノオという神様を,あえて出雲の神様として置くことで,出雲勢力に同族意識を持たせる狙いがあるのだと考えられます.
すなわち,「過去,私たちにはいろいろあったけど,この国を象徴する神様の一人は出雲の皆様のことも意味しているんですよ」ということです.

それに,出雲については古事記・日本書紀において「大国主命(オオクニヌシ)の国作り」として,たくさんの紙面を割いていますし,そこでもスサノオは大きな存在感を示しています.
あの手この手を使って出雲勢力のご機嫌とりをしなければいけないほど,ヤマト勢力にとって出雲は国家統合における重要な意味を持っていたのだと思われます.

あんまり長くなると「ツクヨミ」の話ができなくなるので,ここで戻します.

三貴神として暗喩しているのではないかと思われる3地域,3勢力をまとめておきます.
こういうことです↓
さて,ツクヨミは「三貴神」と呼ばれるほど重要な意味付けをされているのに,古事記と日本書紀にはその記述がほとんど見られません.
それはまるで,西日本統一において重要な地理的状況にあるにもかかわらず,その記述がほとんど見られない四国のように.

「ツクヨミ = 四国」と考える上での重要なキーワードは「食物」です.
古代において,食物の生産と確保は国家運営における最重要課題でした(今でもそうですが).
日本神話では,実は四国は食物と非常に関連が深い位置づけとなっているのです.

例えば古事記では,スサノオがオオゲツヒメ(徳島地域を司る女神)を殺すことで食物を得ることになっています.
また,四国の四神のうちオオゲツヒメのほかに香川地域を司る男神の名がイイヨリヒコと言う食物の神です.愛媛地域を司るエヒメや高知地域を司るタケヨリワケについても,食物に関連する名前ではないかという意見もあるくらい,四国は食物を司る土地なのです.

天孫降臨した天津神の一人が「ニニギノミコト」ですが,彼はまたの名を「ホノニニギ」と呼ばれており,「稲穂(イナホ)が賑々(ニギニギ)しく実っている」ことを示す神だとされています.
鳥無き島の蝙蝠たち(11)邇邇芸命(ニニギノミコト)でも考察したように,天孫降臨を四国による九州東部の平定物語だとすると,ニニギとは日本各地に食料生産技術を広めた存在だと考えることもできるのです.

私説からすると,いち早く優れた農業技術を開発して軍事力を増大させることができた四国勢による瀬戸内海沿岸部の制圧が,天孫降臨と神武東征として神話になったのではないかと考えられます.

農業において暦(カレンダー)は重要な存在です.
「月読尊(ツクヨミ)」とは,読んで字のごとくカレンダーを象徴する神様だとされており,そこから農業の神と考えられています.
実際,日本書紀におけるツクヨミは,ウケモチ(食保神)を殺して食物を得る存在として伝わっています.

これらのことから,「四国 = 食物の神々が宿る地」であることを物語っているのであり,そこから「四国勢力 = 農業技術を普及させた人々」であることが考えられ,つまりは「農業の神であるツクヨミ = 四国」という可能性が強く考えられるわけです.
ところが,五穀豊穣を司るはずの四国やツクヨミは日本神話にほとんど登場しません.
むしろ,訳ありの登場の仕方をします.そこに古代四国の顛末を推測するヒントがありそうです.

古事記においては「スサノオがオオゲツヒメを殺して食物を得る」という神話になっており,日本書紀においてはこれが「ツクヨミがウケモチを殺して食物を得る」という神話に書き換えられています.
ウケモチを殺したツクヨミに怒ったアマテラスは,以降,ツクヨミとは絶交したということになっています.ですが,実はアマテラスはツクヨミがウケモチを殺したことで得られた食物にたいそう喜び,ありがたく頂戴しているのです.
えらく現金な最高神です.

ちなみに,「女神を殺して食物を得る」というのはハイヌウェレ型神話の一つとされており,世界中でみられるタイプの食物起源神話です.
日本神話における食物起源神話(wikipedia)

こうしてみますと,日本における食物(農業)起源とはスサノオ(近畿勢力)やアマテラス(九州勢力もしくは日本)の都合によって得られたもの,という意味合いの強い描かれ方をしているのです.
つまり,こうは考えられないでしょうか.

たしかに四国勢力は優れた農業技術を開発して一大勢力になり得た.しかし,日本統一事業の道半ばにおいて,何かしらの理由により四国勢力は失脚することになった.
失脚したとは言え,民衆レベルにおいては「かつての大国・四国王国」にまつわる瀬戸内海制覇伝説は根付いているので,古事記・日本書紀の編纂においてはこれをベースとした神話を作らざるを得なかった.
彼らはたしかに日本統一事業における三貴神の一角であり,その大きな強みは「農業」だった.
しかし,今はその栄華を知るものはいないほど凋落し,ツクヨミの存在のように「夜の闇に隠れている」ということです.

なお,四国勢力が凋落した理由ですが,政治的・軍事的なものも考えられますが,「震災」という可能性もかなり高いと考えられます.
四国は数百年に一度,定期的に大地震災害に見舞われるという歴史があります.
もしかすると,四国勢力が比較的豊穣であるその土地から「海外」へと侵略を始めたのも,地震により町や田畑が崩壊したことにより,新たな土地を求めたからかもしれませんね.


関連記事

2016年10月6日木曜日

サプライズ・パーティーとデジタルカメラ

先日のことです.
大学のゼミで実験研究を企画しているので,具体的に何をすればいいか(けっこう本気で神妙に)打ち合わせている中,突然電気が消されてロウソクに火が灯された大きなバースデーケーキが現れ,クラッカーが鳴り響きました.
サプライズでやってくれたのですけど,完全に想定外だったのでメチャクチャびっくりしました.

なんで「完全に想定外」だったのかって,サプライズ・パーティーを企画するような連中だとは思っていなかったし,もっと言えば実際の私の誕生日からはかなり離れた日だったからです.
「え!嘘! 今日じゃないんですか!」って,どうやら勘違いしていたとのこと.
あぁ,こういう勘違いをする連中ではあるなと,これは想定内です.

以前にも学生からこんなサプライズ・バースデーケーキがあったのを懐かしく思い出しています.
誕生日会
それに,こういうことを企画・実施するのはやっぱり女子学生ですよね.
男子ばっかりのゼミだと,こうはならない.
物凄い勢いでケーキを食べる女子.たんにケーキを食べる口実が欲しいだけではないかと邪推するのはよしておきます.

「何歳になったんですか?」って聞かれるので年齢を言うと,まだ20代後半くらいに見られるタイプではあります.
授業やセミナーなどで,私の大学院生時代の写真を「自己紹介用」としてパワポ・スライドに出すことがあるのですが,それを半年に1回自分でも見ることになるのですけど,着実に老けていることを実感します.

2000年くらいから画質の良い「デジタルカメラ」が普及しましたでしょ.携帯電話による写メが一般化したのも,私たちが大学生の頃からです.
デジタルカメラによる写真は劣化しません.
だから,そこに写っている被写体・風景は,撮った時のままです.これが結構不思議な感じがします.

私の子供の頃の写真を見ると,カメラやフィルムの性能もあって「時代」を感じさせるのです.でも,今のデジカメや写メにそれはありません.
同じことが「デジタルビデオカメラ」にもあるでしょう.
別に良い悪いの話をしているんじゃなくて,私達が「この目」で見た情景が,そのまま残り続けるデジカメの性能と機能に,なんとも不思議な興味深さを感じるのです.


2016年10月4日火曜日

鳥無き島の蝙蝠たち(14)古代四国人2

9月の更新頻度が落ちていたのは忙しかったからというのもありますが,実は以前から始めた「古代四国伝説」について,妄想を膨らませるためのネタを仕入れていたというところもあります.

その過去記事はこちら↓
鳥無き島の蝙蝠たち(1)古代四国人
鳥無き島の蝙蝠たち(11)邇邇芸命(ニニギノミコト)
波多国:七星剣が置かれた国

古代四国にまつわる疑問に,なんとなく口を出してみたら,意外と面白いじゃないかと思い始めて半年近く.
古代史に全く興味なかったはずの私がなぜか,古代史小説や神話解釈に関する書籍を買い漁り,挙句,

などという本格的な図書まで買って調べてしまうほど「古代四国」にハマってしまいました.
あぁ,これが古代史とその謎を解くことが好きな人たちの気持ちなんだなと.

上記記事で繰り広げた古代四国ファンタジー,案外いい線いっているのではないかと自信も出てきた今日此頃です.
なので,この私の古代四国ファンタジーを,もうちょっと補足する記事を書いていくことにします.

おさらいしておきますと,私が考えている古代日本伝説とは...
古代日本(西日本)を統一に導いた “きっかけ” や “立役者” は四国人であり,それを匂わせる記述が『古事記』『日本書紀』に散らばっており,それを裏付けるような遺跡や歴史がたくさんある.
というもの.

過去記事である■鳥無き島の蝙蝠たち(1)古代四国人では,四国人なら誰もが気になる
神武東征伝説:なんで神武軍は四国をスルーしたの?」について,
「それはね,実は四国が神武東征の拠点だったからだよ」というファンタジーをご紹介しました.
で,私はそれが結構「真相」だったんじゃないかと,ちょっと本気に考えておるのです.

松本直樹 著『神話で読みとく古代日本』という興味深い本があります.

これがかなり面白い.一読をオススメします.
松本氏いわく,その「神話」が全くの創作であれば神話としての説得力を持つことはできず,広く民衆に語り継がれている古の事実の欠片を集めたものが「神話」になるはず,というのです.

つまり,古事記や日本書紀で述べられている神話には,そのモデルとなった出来事が実際にあった可能性が非常に強いということです.

もちろん,『古事記』や『日本書紀』は政治的な意図をもって編纂されたものですから,為政者にとって都合の良いものとして書かれているはずです.が,それが神話として力を持つためには,完全な創作にはできないということですから,行間を読んでいくことで真相を垣間見ることができるのではないかと思うわけです.

『神武東征伝説』も然り.
これは,九州南東部から安芸(広島),吉備(岡山),そして近畿地方を制圧し,今に至る「日本」の礎を築いた軍団の伝説を掲載したものと考えられます.

私はこの伝説の「軍団」の正体が四国連合軍ではないかと考えているのです.
これを裏付ける考古学的な知見がいくつかあります.

その典型が高地性集落
弥生時代中・後期(BC100年〜AD200年)における謎の集落群.大人数が住むには適さない山上に集落を築いたもののことですが,この集落を作った目的は,おそらく外敵から身を守りやすくするためであろうとされています.
ちょうどこの頃は邪馬台国が中国・魏と外交していた時代でもあり,そこで大規模な戦争(倭国大乱?)が繰り広げられていると記録されているので,これと関連があると考えられています.

この高地性集落ですが,時代によって作られている場所が違います.
ですから,どの時代のどこの地域に高地性集落が作られているのか確認することで,当時の倭国大乱の様子が見えてくると考えられます.
そして,そこから「神武東征伝説」が読み解ける可能性があるのです.

縄文と古代文明を探求しようというサイトに,防衛的高地性集落の時代別分布図が掲載されています.まるっきりコピーするのは良くないので,同じような図を作成しました.

まずは弥生Ⅲ期(BC100年〜0年)の分布です.高地性集落が築かれ始めた時期になります.
ちなみに,私の考えでは「邪馬台国」は九州北部に,「ヤマト朝廷の前身となる国」が畿内にあったと考えています.その他の各地域を含め,以下のように名称をあてました.

この時代,瀬戸内海に暗雲が立ち込めてきたものと考えられます.
おそらく,船で軍団を移動させる技術が高まり,海を越えてその地域を襲うことができるようになったのではないでしょうか.
それに対処するため,各地では見渡しの良い高所に定住する者を用意し,海を渡ってくる敵を常時監視するようになったものと考えられます.

ちなみにこの高地性集落,それが作られている地域が「防衛する側(攻め込まれることが多い地域)」だと考えられます.

弥生時代Ⅳ期(AD0年〜200年頃)になると,以下のようになります.

四国が真っ赤です.
この時代はちょうど「邪馬台国」がブイブイいわせていた頃と重なります.
また,魏志倭人伝にも「我々邪馬台国に従わない国(狗奴国)が南方にある」と記録されています.この狗奴国とは,四国のことではないでしょうか.
え? 四国は九州の南ではなく,東じゃないかって?
実は当時の中国では,日本の地域は北を東,東を南,南を西,西を北.つまり各方位を90度時計回りにした状態で理解していたとされています.それに,もし邪馬台国が九州北部にあれば,そこから四国へ向かうには関門海峡あたりから船で「南下」する位置関係にありますよね.四国を南方にある国と考えていた可能性は高い.

邪馬台国が台頭していたこの時期は,四国はひたすら守りに入っていた時期のようです.
おそらくは周辺国である安芸,吉備,近畿からも攻撃を受けていて,だから四国沿岸部はその防衛のため,おびただしい数の高地性集落を築いたものと考えられます.

ところで,防戦一方の四国は各地で連携していたのでしょうか?
実は,上述した松原弘宣 著『古代四国の諸様相』によれば,考古学的にも愛媛地域と香川地域は同じ文化・宗教を持っていたとされており,連合国を形成していた可能性が高いのです.
まさに瀬戸内海こそが倭国大乱の主戦場であり,そこで四国は共同戦線による徹底抗戦の構えを見せていたことが窺えます.

ところが,弥生時代Ⅴ期(AD200年〜300年頃)になると以下のようになります.


それまでとは打って変わって,四国の高地性集落は減り,その代わりに中国,近畿の側に高地性集落が激増します.
さらには,高地性集落がほとんど見られないとされている九州地域にも,この時期にたくさん現れるのですが.
実は,この現れ方が「神武東征伝説:四国拠点説」を裏打ちする可能性があります.

鳥無き島の蝙蝠たち(11)邇邇芸命(ニニギノミコト)でもお話したように,神武東征に先立ち,四国連合軍は九州南東部を制圧したものと考えられます.
この「四国連合軍の九州南東部制圧物語」が「邇邇芸命の天孫降臨伝説」として語られたと私は考えています.
つまり,こういうこと↓

もう一度高地性集落の場所をご覧ください.そうした出来事を物語るかのように,四国・佐多岬半島から豊予海峡を渡った先にある大分市に高地性集落が築かれており,その後南下して「高千穂峰に降り立った」ことを裏付けるように宮崎県南部にも高地性集落が築かれているわけです.

詳細はその記事に譲るとして,四国が邪馬台国に勝てた理由は「邪馬台国の急所が,九州東部地域だから」だと思われます.
九州東部が邪馬台国の急所」.これを唱えているのは歴史作家である関裕二氏です.九州は東部,なかでも大分県日田市が要衝だと考えられていて,ここは東側からは守りにくいのに,西側からは攻めにくい土地.
しかも「周辺国と仲が良くない」ため「女王・卑弥呼の妖術でもってなんとか統一できている」とされる邪馬台国は,女王亡き後,九州東部陥落をみて四国勢との和睦に持ち込んだ可能性があります.

神武東征で述べられている宇佐や筑紫・岡田宮での出来事は,四国が邪馬台国との和睦会談に至るまでの流れを象徴している話なのかもしれません.

その後,四国は広島・安芸攻めを行ないます.
1世紀から3世紀頃とは打って変わって,安芸地域におびただしい数の防衛的高地性集落が築かれており,「四国が神武東征の拠点」だとすれば,これがどういう状態だったのか容易に察することができます.

次は吉備攻めですが,この吉備地域には高地性集落が築かれていません.その割に神武東征では吉備制圧には8年もの歳月をかけています.もともと吉備はこの時代を通して防衛的高地性集落が築かれていない地域でもありますから,こうしたことは同時代において吉備が軍事大国であったことを意味するのかもしれませんね.
いろいろと謎の多い吉備ですが,前述した歴史作家の関氏も興味深い考察をしています.日本神話を深読みする必要がある話だと思いますが,ひとまずここでは割愛しておきます.

最後に近畿攻め.これも四国側からの攻撃が苛烈であったことを物語っています.
徳島地域には高地性集落がみられないのに,この時期の近畿地域は徹底防衛の構えです.

ちなみに,かつての近畿・大阪地域は■「昔は海が近かった」を確認できる「Flood Map」でもご紹介したように,海が広がっていました.
こんな感じに↓

だから近畿の内陸部に高地性集落があるのは自然なのです.

神武東征するためには四国が拠点にならなければいけない理由として,当時の船の航行能力もあげられます.
この時代の船は,一度に進める距離は20kmほどだとされています.
しかも,沿岸部に休息や食料を安全に調達できる友好的な地域がなければまともに航行できないと考えられています.
そんなことが長野正孝 著『古代史の謎は「海路」で解ける』とか茂在寅男 著『古代日本の航海術』に紹介されていました.

そうなると安芸,吉備,近畿といった地域を攻めるためには瀬戸内海の島々を抑えるだけではダメで,安定的に食料や水,居住地を確保できる四国を手中に入れておかなければ「神武東征」は不可能なのです.
これはつまり,そもそも「四国」が神武東征の拠点であることを類推させるものであり,四国が瀬戸内海沿岸部を制圧していった物語を「神武東征伝説」として神話にしたことを伺わせるのです.

ではなぜ日本神話から「四国」がすっぽり抜け落ちた形になっているのか?
それも私なりに解釈したものを追ってご紹介したいと思います.


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2016年10月2日日曜日

シン・ゴジラ再考

やや更新に間が空いちゃいました.
9月から鬼のような忙しさでして,まだ忙しいのですけどそれっぽく見せないように取り繕うのに苦労しています.

さて,やっと一息ついた今日は,ニコニコ動画を久しぶりに閲覧.
その中でチャンネル桜という(ウヨク?)団体が作っている番組において,今年の話題作だった『シン・ゴジラ』の評論会が企画されていたので,これを見てみました.
【討論】シン・ゴジラから見えてくる日本の現在(youtube)

評論家の佐藤健志氏が氏のブログで番組の予告していましたので,それで興味があったというのもあります.
http://kenjisato1966.com/シン・ゴジラ観てきました%E3%80%82/(佐藤健志氏ブログ)

私自身,久しぶりに映画館で見た映画でもありました.
私は映画館で映画をみるタチではありません.そんな私が,なぜ『シン・ゴジラ』については映画館まで足を運んだのか? という点も,自分自身で気になるところでもあるのですが.

ちなみに,私はあの映画は非常によく作り込まれた良作だと思っています.
閲覧直後のブログ記事はこれ↓
シン・ゴジラを見てきてしまった

番組のテーマが「シン・ゴジラから見えてくる日本の現在」ということで,それについて番組司会者が熱く(やや批判的に)語っていたのが印象的でしたが,これに私はちょっと引いてしまったというのが実際のところです.

番組のテーマは非常に的確です.「シン・ゴジラから見えてくる日本の現在」という非常に的確なものだっただけに,「そんな討論テーマを選んでおきながら,何を今更」という感が拭えないのです.

私が『シン・ゴジラ』を良作であるとしている理由は,物事の描き方のバランスがいいからです.
この作品に現れてくる物事,そして判断も,どれも正解がない.つまり,考え方や価値観でいかようにも捉えられることなのです.「こういう判断,こういう行動のほうが本当はいいのに・・」というものが一つもないんです.これは庵野監督が狙って作っているはずです.

一例として,ゴジラ幼体が東京湾に現れた際,「専門家からの意見」として古代生物学者や海洋生物学者を招集して助言を求めるシーンがあります.そこで学者は役に立たないコメントをして総理大臣をガッカリさせるどころか怒らせるのですが,私に言わせれば学者を呼んで「具体的な解決策」とやらを得ようとする方が間違っています.発言内容は明らかに彼ら学者の言っていることが “正論” です.でも,映画を見ている多くの一般人は,これを聞いた直後の総理大臣のセリフである「余計なことで時間を無駄にした(学者は大事な時に役に立たない)」と同じ気分にさせる,という誘導にかかっているはずです.
私は序盤のこのシーンで完璧にハマりました.こういう細かいところに物凄い計画性を感じたのです.

一つ前の記事で取り上げた,ドラマ「遅咲きのひまわり」も,そういうバランスがいい作品です.過疎地域が抱える問題と,地域起こしの現実とを見据えた上で作られている良作ドラマだと思っています.

私の好みの問題でもありますが,作者の主張やイデオロギーが強い作品は嫌いではありませんが,その作者の主張やイデオロギーにとって都合のいい展開を見せる作品は嫌いです.

番組中でも出てきた意見として,シン・ゴジラは「右翼的な人からも,左翼的な人からも喜ばれる作品だ」というものがありましたが,まさにそれが象徴しています.

この作品の監督を勤めた庵野秀明氏のことを私は深く知っているわけではありませんけど,この方は非常に卓越した「今そこにある社会の特徴を切り取ってエンターテイメントにする能力」をもっていると思うんです.
ですから,見る人によって意見が違う,捉え方が変わってくる,そういう性質を持った映画になっています.

故に,『シン・ゴジラ』によって描かれている日本についての不満を持つ人が現れたり,ゴジラが暗喩しているものについて語りたがる人が現れたり,この作品がヒットしている現実の日本社会を憂慮する人が現れる.

そもそも,シン・ゴジラは「現在の日本の姿を(ゴジラという虚構を用いて)描いた」作品ですので,そこに「現在の日本の姿」がありありと見え,いろいろな感情が渦巻いたのであれば,それこそ庵野監督の目論見通りなのであり,やっぱり本作は類まれなる良作だったのです.

例えば,「モノマネ」という芸能があります.
松村邦洋は元阪神の掛布雅之やビートたけしのモノマネをしますが,よく似ています.
これは松村邦洋が掛布やビートたけしの特徴を良く捉えているからです.

シン・ゴジラは現在の日本をモノマネしたようなものです.モノマネですから,日本の特徴・特性が描けている方が良いということになります.
シン・ゴジラに対してケチをつけるとすれば,「本当の日本人はこんなことをしない」「実際の日本ではこうはならない」というものでしょう.しかし,シン・ゴジラで描かれている「日本」はその点で「真(シン)・日本」と非常によく似ていました.

現実の日本においても,想定外の巨大生物が現れても会議に継ぐ会議を展開するだろうし,貴重生物なのですからすぐに屠殺処理なんかしないだろうし,市民の避難が完了していなければ発砲は許可しないだろうし,すぐアメリカに頼ろうとするだろうし,要人が死んでも代わりがすぐ決まるだろうし,外資の力を借りて復興を取り付けようとするだろうし.
そして,スクラップ・アンド・ビルドで発展したいと思っているし,一度既存のシステムをリセットしたいと思っているのが現在の日本だ,と庵野監督は捉えているのではないでしょうか.

上記の評論番組において佐藤健志氏や京都大学の藤井聡先生が強く批判していたのが,シン・ゴジラに見える「スクラップ・アンド・ビルド思考」と「自閉的手段による解決」ですが,私はこの点も含めて「あぁ,やっぱり庵野監督は日本をそう捉えているんだなぁ.やっぱ天才だわ」と感心した口です.

たしかに両氏の言うように,これが日本の抱えている問題点ではあるのですが,まさにそれを(素直に)えぐり出しているのが『シン・ゴジラ』という作品だと思うのです.