2016年12月31日土曜日

新年への準備,お宮とか田の神とか

明日から2017年ですね.ここ実家でも新年の準備にバタバタしています.

私の家はこの地域のお宮の手入れを担当しています.なので今日は父と一緒に,今晩から正月三ヶ日にかけて必要な作業を済ませてきました.

田舎にある薄暗いお宮の内部を見ることなど普通はないでしょうから,興味のある人は御覧ください.

まず,これが我々の地区のお宮です.


村の中心部にある鎮守の杜に建てられています.

小学生の頃,学内行事でここにピクニックに来ることもありました.
その時,御神木の樹の皮の一部を剥いでしまった同級生がいて,それを学校に持って帰ってきたことが先生に知れ,えらく怒られていたことを思い出します.

小学生ながらに,「罰当たりめ.こいつには「教養(みたいな概念の何か)」がないな」と呆れたものです.
たしか,本件は全校集会になったと思います.学校長の英断です.今ではどうでしょう.「御神木ごときで・・」と,そんなことしない学校もあるかもしれませんね.

学校の隣にあるお宮ですので,たまにここで遊んでいました.

床下に潜り込んでいたのも懐かしい思い出です.


今じゃ入る気がしないです.

ちなみに,このお宮の担当をしている父たっての希望で,地区の人々に頼み込み,「力石」というものを鳥居の横に設置させてもらいました.

「力石ってなに? どういう謂れのもの? 」っていう話はまた後日.
そんなことより,お宮の手入れです.

まずは鳥居のしめ縄を調整.
シデ(紙垂)を取り替えてきれいにします.


父の脚立に載る姿が年を感じさせるようになってきました.危なっかしい動きがするところは私が代わることに.

次は宮の中.


さかき(榊)を新しいものに取り替えます.
奥が新しい榊,手前が以前の榊.写真では分かりませんけど.

これも紙垂を付けて,社の横に飾ります.

三方(さんぽう)に,米,酒,塩,水を載せて棚に置きます.
手前・左から,水.その右が塩の小皿.
その奥が酒が2つ並びます.
写真では見えにくいですが,その奥に小皿に載った米があります.
米はこぼれるほど山盛りにすることが作法とのこと.

三方を並べて完成.

本当ならそれぞれに「おめでたいもの」を載せるのですが,ここではずっと略式です.
並べ方を知る人が少なくなってきたこともあり,父は壁にこんなものを作って貼っています.並べ方を記したものです.

そう言えば,社の飾りに隅切り角に十字の紋がありますが,これが我が家の家紋になっています.
マイナーすぎて,家紋集にも掲載されていないとのこと.
家紋を入れた服やネクタイを作る時に苦労するんだそうです.

十字といえば九州・島津家が有名ですが,彼らは丸に十字ですね.関係はないと思います.
ネットで調べてみましたが,たしかに隅切り角に十字はありませんでした.
菱轡のそれが一番近いでしょうか.でも,菱ではなくて隅切り角です.

このお宮の壁には,こんな絵も飾られています.


二人の若い女性が,一人の侍と決闘をしているシーンです.周りには立会人と見物人が並んでいます.
だいぶ傷んでいますが,これも父がたっての希望できれいにして飾っているのだそうです.
今では毎年,小学校のイベントなどでこのお宮と絵の説明をしているとのこと.

文久元年(1861年)に描かれたと記録されているこの絵は,私の実家がある集落で起きた事を示しています.
この話もまた別の機会にしましょう.

家に帰ったら,最後に「田の神」をまつります.

まさに「田の神」です.田の神って書いています.
今年,石柱を新しくしたのだそうです.
左から榊,カズラの輪と中央に丸石,柿,稲穂.後ろに笹です.
来年の豊作を祈りました.

ついでに,自宅の門にもしめ縄をしました.
これで新年の準備は終了.

皆様が良いお年をお迎えできることを祈っております.

2016年12月29日木曜日

2016年も残り少なくなりました

実家に帰ってきています.高知です.
今年の庭からの星空の眺めはこんな感じです.


昨年も星空の写真をお見せしましたが,あれからもう1年になるのですね.時が経つのが年々早く感じます.
あっという間に一生を終えるのではないかという気になりますが,この星空だけはずっと静かに輝き続けるのだと思うと,なんだか安心感があります.

実家に帰るとテレビを見るようになります.食卓にテレビがついているので,仕方なく見ることになるのです.
テレビを見なくなって15年・・,という話を最近記事にしていましたが,別に私はテレビを見るのが嫌なわけではありません.あれば見るのです.

目を通していますと,「2016年の総まとめ」的な番組をやっている事が多いですね.
こういうのを見ますと,今年に何が流行っていたのか確認することができます.

で,ぜんぜん分かりません.
紅白歌合戦とか,もう意味不明な人たちだらけです.

気になった話題がいくつかあります.
一つ目は,シャバに出てきた清原和博氏を取り上げたもの.
ネットニュースにもなっていました.

人間の醜い部分が,これでもかと感じ取れる話です.
いえ,清原和博本人のことではありません.これをニュースにしている人達がいることと,つまりは,その話を楽しみにしている人たちが記事やテレビの前にいるということが,です.

清原和博氏の現在の姿を見て,何がいいのでしょう.こんなのを見て「覚醒剤は良くない」などと改めて考えるわけではないでしょうに.
そっとしておいてあげるのが,まっとうな人間のすることだと思います.

二つ目は,BSのチャンネルをいじれば,どれもこれも通販番組ばっかりだということです.
昨年から気にはなっていたのですけど,いくらなんでも多すぎだろうと思ったので,ネットで検索してみたんです.
そしたら,制作費と視聴率との関係で,どうしてもそうならざるを得ない状況があるのだという説明をよく見ます.どうやらそういうことのようです.

最近は,我々研究者が参加したり運営したりする「学会」も似たような状況にあります.
運営者側が時間と場所(プログラムと教室)を用意したら,あとは企業に頼んで発表内容を用意させ,講師も呼ばせてやりくりするというもの.
ランチョンセミナーっていう弁当を食べながら聞くスタイルのものが典型的です.

これだと運営者側としてはお金の心配がないし,なにより企画が楽ですし,なんだか実践的で先進的な取り組みをしているように見えるし,参加者としても弁当が食えるので悪い気がするわけでもないし.
企画に困ったら「企業に何かやらせれば,彼らも喜ぶし,良いんじゃないか」を合言葉にしています.何の事はない,学会の運営者側が最も喜んでいるんです.
以前はそれとなく静かにやっていましたが,今では大手を振ってやっています.ただたんに,「企業とコラボする」という響きが気に入っている運営者もいます.
そのうち,学会もBSチャンネルのようになるのだろうと達観している私です.

三つ目は,SMAPの解散がかなりうるさいこと.しばらく前からネットニュースにもなっていましたが,まだ騒いでいます.
静かに解散させてあげたらいいのに.
よく分からない事情で揉めているようですが,だったら尚の事そっとしておいてあげたほうがいいでしょう.

四つ目は,市川海老蔵と小林麻央のニュースについて.
たまにネットニュースでもタイトルを目にしていましたが,ぜんぜん本文を読まずにいました.なので今回,テレビでその内容の一端を目にしたんです.

で,今もまだ詳細を調べずにいるのですが,どうしてこんな話がニュースになるのか.
市川氏の妻である小林氏がガン闘病中なんですってね.
特別な事情で発ガンしたというわけではないようです.
恐ろしい話です.人のガン闘病を話題にして,その病人が逐一状況報告をし,その家族が記者会見をしている.
私には悪魔の所業にしか思えません.
この国の庶民の精神はここまで崩壊している,ということを如実に示す話です.

そう言えば,ベッキーという芸能人が不倫していたという話題もありました.
ベッキーが誰なのか知らなかったので興味なかったのですが,やたらと長い間ニュースになっていたので,いい加減うるさく感じてきたのを覚えています.

聞けば,ベッキーというのは外国の有名人ではなくて,どうやら日本の芸能人.そして,好感度ナンバーワン・タレントだということです.
そんな彼女が不倫をしたということが話題だとのこと.
笑えない冗談です.

芸能人なのですから,まともな常識感覚で生きているわけないでしょう.
不倫くらいするはずです.
芸能人というのは,不倫して離婚して破産して,覚醒剤を打って自殺するのが相場です.
それくらいで丁度いいと思います.

くだらない.
やっぱりテレビを捨てることをオススメします.

どうやら,テレビでやっていることとネットのトップニュースは相関しているようです.テレビで話題なっていることが,すなわちネットでも話題のニュースになっています.
しかし,ネットは「見ない」「読まない」という選択肢がありますが,テレビは一連の流れの中で情報を浴びるように得ることになります.極めて危険です.

こんなくだらない話にずっと曝されて生きることを思うと,テレビはさっさと捨てたほうが身のためです.

2016年12月24日土曜日

続・入学試験クツこれ

そう言えば,書いたあとにビックリしたのですが,なぜか,
入学試験クツこれ
の閲覧数が伸びます.
なんででしょう?

てっきり,
入学試験あれこれ
の方が,昨今の大学入試事情を茶化したものなので読まれると思っていたのですが.

せっかくなので,私なりに「靴」のことを続編のように書いておきます.
その記事ではざっくり触れたことを,もう少し詳細に述べておきたいのです.

「大学教員の仕事には「足音」のしない靴が求められます.受験生の迷惑にならないよう,足音のしない靴を要求されるからです.」
という趣旨の内容でした.

なので,高級靴にありがちなコツコツ,カツカツ音の出る靴は避けられやすいのです.
これはなにも,「大学や学校の教員は,足音が発生する靴を履いてはいけない」というわけではありません.通常勤務時やオシャレをしたい時にはそれでも構わないでしょう.

でも私としては,何足も靴を履き分けることはしたくない,というだけのことです.
さらに私の場合,普段,革靴を履くことはできるだけ避けたい人種です.通勤だけでなく,学内では専らスポーツシューズやサンダルを普段使用しているので.
(そういう意味では,「何足も履き分けている」のかもしれませんが)

そんなスタイルですから,メンテナンスに手間をとられる革靴はできるだけ避けています.
ところが,そうは言っても革靴は月に何度か履く必要がありますから(まぁ,無理すれば履かなくてもいいのが大学教員なのですが),一応用意しなければいけないわけでして.
それに,冠婚葬祭のこともありますし.

こうした状況から導かれる最適解は,「安価なゴム底革靴を高頻度に買い直す」というものになりました.
なかでも以前ご紹介した,


とか,同じようなコンセプトで作られている,

などが,実体験として履き心地が良いということです.
(なお,私はアシックスの回し者ではありません.知り合いが内部にいるのは確かだけど)

これらは,いつも履いて「慣らして」おかなくても,足が痛くなったりすることがありません.
革靴って,履き慣れておかないと不快じゃないですか.それが無い,ということです.これは私のような革靴敬遠生活を送っている人間にとって都合がいいのです.

あと,前回記事に加えてさらに強調しておきたいのは,革靴の「メンテナンス」についてです.
私が愛用しているのは安物革靴の部類に入っていくるものですが,メンテナンス次第でかなり綺麗に見えるようになります.

逆に,「(インソールにラベルされているブランド名を見るからに)きっと高級なんだろうなぁ」という靴を履いている人もいますが,きちんとメンテナンスされていないものは貧乏くさいですね.

例えば,■私をほめなさい。300字程度で。でも紹介したポンコツ教員は,バーバリーで全身を揃えることを信条にしており,十数万する革靴しか買わないと豪語していましたが,ほとんど手入れされていないバーバリーのそれは,なんとも惨めなものでした.
ホコリまみれでくすんでおり,カカトのところを踏んづけてる形跡もあるし,「履けば履くほど味が出るのがバーバリーなんやで」と申しておりましたが,とても残念な気持ちにさせられます.

さて,学生の頃は,革靴を履くことなんて全く無かったので,
 
のようなものを使っていたのですが,ぜんぜんダメ.
安っぽい見た目がさらに増します.

野球をやっていた頃のスパイクのメンテナンス経験から「やっぱり保革用具を揃えたほうがいいのかなぁ」と考え直し,社会人なってからは,
  
を使うようになっています.
なるほど,部活動の経験は重要です.

ブラシがけするとツヤが出る,というのは高校の頃は知りませんでした.クリームを塗ったら,ひたすら適当な布で磨いていただけでしたので.でも,知っていたとしてスパイクシューズにツヤ出しをすることはなかったでしょうが.
今はネットで靴磨きの方法がたくさん紹介されています.それを参考にすればいいでしょう.

特に,上で紹介しているような安物革靴であれば,購入後,最初からしっかりクリームを塗って磨き込むことをオススメします.残念ですが,やっぱり安物は安物です.購入直後はくすんだ革靴にしか見えませんので.
ちょうど,スキーやスノボのチューンナップみたいなものと思ってください.一番最初にしっかりクリームを入れておくことで,だいぶ違ってきます.それをするだけで,かなり深みのあるツヤと色が出るようになります.遠目には,ホコリまみれのバーバリーよりも断然いい.

例の教員が,それこそ入試の時だったか,こんなことを言ってきたことがあります.
「なんや,お前も大学教員になったから,ええ靴を買おうたんやな.どこのメーカーや?」

見る目のない人にはバーバリーもテクシーリュクスも同じです.
「アシックスです」って答えたら,冗談だと思われました.スポーツシューズのメーカーが,革靴を作っていることを知らなかったようです.地元メーカーなのに,体育教員の風上にも置けません.
テクシーリュクス(アシックス商事)

私の場合,さらにインソールを換えて履いています.
実際使っているのはこれ↓

テクシーリュクスにこんな感じで入れています.

性能もお値段もピンキリですが,「インソール」が身体パフォーマンスに及ぼす影響は結構大きい,ということを知っている手前,それなりのものを買いたいところです.
ものによっては靴本体より値が張りますが,履き心地と疲労度,それに「足音」を重視しているので譲れません.

そうそう.
靴と言えば「匂い」対策も重要ですね.
私のオススメはこちら↓


Amazonで買い物をするようになって間もない頃から,ずっとこれを定期購入しています.近所の店には売ってるのを見たことがないですし.

私は,あらゆる靴にバンバン放り込んでいます.
見事に「足の匂い」が消えます.劣悪環境での消臭効果が,他の靴消臭製品とは段違いです.
汗やムレに悩まされるスポーツシューズや登山靴に入れておけば,匂い対策からフリーになれます.

ここ数年で,かなり有名になってきました.
なのでバッタモンもあるそうですから,注意しましょう.

注意しなければいけない点は,「白い粉」が非常に目立つことです.
靴を脱いで上がるお店なんかに行くときは使えません.ま,その時は使わなきゃいいだけのことですけどね.
※何日間か使えば,以後,何ヶ月も消臭効果が持続するという驚異的な性能を持っています.本当にそうなります.いやマジで.詳細はリンク先を読んでください.

これで安心して入試に挑むことができますね.
入試は足元から,です.


関連記事
入学試験クツこれ
入学試験あれこれ
私をほめなさい。300字程度で。

2016年12月23日金曜日

大学における体育授業の意義3 危ない大学こそ体育が大事

大学における体育授業の意義について語り始めて3回目.
今回は,「どうして大学の体育は『楽しむこと』を重視した方がいいのか?」という点について,角度を変えて論じてみたいと思います.

これまでの記事を読んできた大学体育教員の中には,
「本学には,体育の授業を楽しく取り組む学生はいない.体育館の壁にもたれて座り,じっと動かない奴がいる」
などという現状を嘆いている先生もいることでしょう.

たしかにそういう状態の大学もあります.
そして,この手の大学はたいてい偏差値が低い
さらには,たいてい危ない大学であるケースが多い.

誤解を恐れずに言えば,スポーツや運動への関心の高さと,知能レベルは比例します.バカはスポーツを楽しめないからです.
さきほど「偏差値」の話をしましたが,偏差値が高くてもバカはいます.「スポーツなんて・・・」といじけてる学生は,総じて頭が悪いんです.勉強のできるバカっていますよね.あれです.

逆に,部活動や競技スポーツをバリバリやっている人の中にも,「隠れスポーツ嫌い」はいるものです.
自分の専門競技以外には関心がなかったり,自分が納得できる条件下でなければゲームをやらないというタイプの人です.
体育においても,一見積極的に取り組んでいるように見えて,その実,非常に身勝手なことをしてクラスを混乱させている奴がいますね.そいつです.
この人はスポーツがしたいのではなくて,単に自分が楽しくなりたいだけです.

バカはまともにスポーツへ取り組めません.
私もまだまだ若輩者である自覚はありますが,それでもこの業界での仕事を始めて10年になる中から導かれる法則性.これにはかなり強力な相関関係を見出しています.

ちなみに,学力とか学習能力の話をしているのではありません.体力や運動能力のことを評論しているわけでもありません.お間違えないように.
身体パフォーマンスが優れていることは悪いことではありませんが,スポーツを楽しむこととは別です.
スポーツのスキルや競技力が高いことはもちろん良い事ですが,低体力者であろうとスポーツはできるし,下手でも楽しめるのがスポーツです.学力の有無に関係なく,バカだとここを理解できません.

そういう意味でも,我が国の学校・学習指導要領に繰り返し出てくる,「心身を一体のものとして捉え・・・」という教育理念は結構重要です.

身体は,心の有様を具体的な事象として現す媒体です.
内部,つまり「頭のなか」では良い事を考えていても,外部に現れてくるものがデタラメであることはよくあります.
言うは易く,行うは難し.などと言われますが,ようするにそういうことです.

体育の授業は,そうした「身体」を操ってみせるところに学習課題を設けています.
そして身体運動は,「頭のなかでは解っているのに,実際のパフォーマンスとして表現できない」という不合理に再三遭遇します.
「頭では解っているのに,実際うまくいかない」というのは,我々が生きる世界の掟です.この不合理に頻繁に直面できる教材が「体育」の特徴といえるでしょう.
そして,だからこそ教育的価値があるのです.

小中高の学校教育では基本的な身体の操り方を学びます.スポーツの技術やルール,安全管理,基礎的体力です.
では,大学教育で何を学ぶのかというと,身につけてきた基本的な身体運動能力を用いて,様々な条件下で楽しめる力を養うことにあります.

これは簡単なようで難しい学習課題です.
過去記事でも書いたように,授業で「この90分,好きに楽しんでくれ」と指示を出しても,それができる学生は非常に少ない.仲良しグループだけならいざしらず,適当に集まったクラスでこれができる学生は稀なのです.
そこには,リーダーシップの発揮できる者の存在や力強い賛同者,目標設定の合議,互いの協力,配慮,明確な意思表示,説得,妥協といった非常に高度な知能と技能が要求されます.

こうした技能がある学生は,大学での学びを有意義なものにできます.そうでない学生はいつまでたっても大学や授業などに不平不満をつらねる奴になります.両者が4年後にどうなっているのかは想像に難くないでしょう.
ですから,大学体育の授業では上記の技能を高め,その知能レベルを高めることが求められるのです.

大学生の時期からでは,もう手遅れだと思わされることもあります.
もちろんそういうところもありますが,大学教育における重要な使命だと私は考えています.

「本学には,体育の授業を楽しく取り組む学生はいない」
という大学こそ,体育の授業を充実させる必要があります.
充実させるといっても,コマ数を増やすという意味ではありません.
学生に厳しく出席を促し,自らの意志で運動とスポーツに取り組む姿勢を根付かせることです.強制的に取り組ませては元も子もないですからね.いかにして自主的にやらせるかが勝負となります.

体育の授業をまともに取り組めない学生が,まともな大学生活を送れるとは思えません.
スポーツを楽しむ態度は,学問を楽しむ態度と通底しています.
ですから,極言すれば,各自が自分の気に入ったスポーツを好きなように取り組めるようにさせればOKなのです.
それができるようになれば日本の体育教育は完了です.

関連記事
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大学における体育授業の意義2
井戸端スポーツ会議 part 39「日本のスポーツの定義に物申す」
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体育学的映画論「ロッキー・ザ・ファイナル」

2016年12月20日火曜日

体育学的映画論「ポチの告白」

“警察官の実態”
この手の話が広く世間に知られるようになった今日.
「ポチの告白」は,このテーマを基にして警察のような組織の闇について,さらに深くえぐり出した映画です.

ポチの告白(wikipedia)
3時間超えの作品ですが,あっという間に時間が過ぎました.

公共の福祉にまつわる仕事に就いている人が本作を見れば,ここで描かれている事の水面下の流れがよく感じとることができるものと思われます.

警察組織犯罪,職務怠慢,非合法捜査といった警察官の悪事にスポットを当ててはいますが,この映画は「その職業ならではの必然的な悪習」について考えることができる作品です.
本作を見て「警察官は,その気になればこんなに悪いことができるんだ.今の警察は腐ってる.抜本的な改革が必要だ」と思う人は,まだまだ子供です.早く大人になりましょう.
逆に,「警察は悪事を働いているばかりではない.ここには警察の正の側面が描かれていない」と言い出す人は,もっと冷静に映画を見たほうがいい.

この作品で描いているのは「警察の闇」そのものではありません.
システムと環境に曝された人間は,そのシステムと環境に適応した思考と行動を採るようになる.ということを描いています.
警察という組織が存在することで,必然的に現れる適応現象とは何か.について考察された作品です.

私は警察を擁護しているわけでもなければ,本作をけなしているわけでもない.
「ポチの告白」は,警察という使命と役割を担った組織を運営することの難しさを垣間見る上で,非常に有益な映画です.

私の先輩,同級生,後輩には警察官がたくさんいます.そういう卒業生が多い大学だったので.
あと,身内にも警察官はいます.何年か前に退職した叔父は,警視庁で働いていた人です.

彼らの話を聞いていれば,本作で描かれていることは過剰演出なところはあれど,嘘ではないと言えるでしょう.

警察官は聖人君子ではありません.

私の先輩は一見「人間のクズ」のような人ですが,警察官です.
ヤクザみたいな風貌で,ヤクザみたいな態度で暴力的に私たちに接していた人でした.学生の頃,胸ぐら掴まれて壁に叩きつけられ,脅されたこともあります.でも今は警察官です.
仕事以外の時は,スピード違反で捕まっているそうです.乗ってる車もファンキーです.
免停にならないのは不思議ですね.

後輩の一人は極度のロリコンですが,警察官です.
幼稚園の前に来ると興奮するのだそうです.もちろん幼稚園の先生に対して欲情しているわけではありません.
私は幼稚園の先生のほうがいいなぁと思うのですが,まあ,人の価値観はそれぞれです.

いや,そんな話がしたいわけではない.
つまり,どのような仕事であれ,そこで扱っているモノを自由にできるのが「仕事」だということです.

警察なら,犯罪や取り締まりを自由にできます.
飲食店なら,客に何を食べさせるのかを自由にできます.
自動車整備なら,車をどのように整備するのかを自由にできます.
大学や学校の教員なら,学生をどのように指導するのかを自由にできます.

もちろん,そこには倫理・道徳という歯止めがあり,バレたり行き過ぎるとマズいことになるという抑制は効きます.でも,今そこでそれを起こせるという「実行可能性」は消えません.

信頼とは何か.

警察組織に蔓延る悪事をこれでもかと見せつけた後,それでも警察を信じることが我々に課せられている課題です.
もちろん,警察の自浄努力は当然のこと.悪いことは悪いんです.
しかし我々自身が警察官になることは出来ません.警察という仕事を彼らに担わせているのは我々です.
そうした状況を改めて見つめ直すことが「ポチの告白」にあるテーマだと思えます.


2016年12月17日土曜日

水素水に効果はあるのか? っていう疑問がそもそも問題

途中まで日露首脳会談のことを書いていたのですが,やめました.
呆れた話だし,おもしろくないので.

で,ニュースを見ていたら,こんなものがありました.
水素水「やっぱりただの水」 国民生活センター調査の唖然

まだ売ってたんですね,これ.

私が所属していた大学院の研究室に「水素水の効果を確かめてほしい」というメーカーからの依頼があったことを思い出します.私が院生の頃ですから,今から10年前でしょうか.

後日,メーカーから12本入りのダンボール箱がいくつも送られてきたので,置き場所に困ったのもいい思い出です.
「ひとまず対象製品を送ってきてください」と私の先生が返事しちゃったからなのですが,あまりにバカげた依頼に誰も調査・検証するわけもなく,院生室の壁一面を占拠して一週間.
「邪魔だし,さっさと片付けないと」という指令が出たので,そのまま捨てるのも勿体無いと思い,助手・院生総出で水素水を毎日来る日も来る日も飲み続けました.

最初のうちは,みんな物珍しそうに飲むんです.
「うん,水だ」
「うん,完全に水ですね」
「まるっきり水だね」

そのうち,ただの水なので飽きてきます.
「シュワっとしたら効果があるように思えるんじゃない? メーカーの人に提案したら?」
「でも,それだとただソーダ水ですよね」
「これで水割りつくったらおいしいかも」
「いや,まずかったよ」
「え? もう試したの?」

たまに遊びに来た学生をつかまえて,「これを飲んだらパフォーマンスが上がるぞ」と騙して飲ませてもいました.彼は「マジっすか.ありがとうございます」と嬉しそうにたくさん持っていきましたが,その後は知りません.

そうこうするうち気がついたんです.
こんなに毎日何本も水素水を飲んでいるんだから,自分たちの生理的指標や心理尺度をきちんと測定したら,それで検証実験になるんじゃないかと.

「いや,そもそも『水素水』っていうもの自体がパチもんなんだから,そんな調査する意味がない.時間の無駄」
という院生もいました.正論です.

私と,もう一人の院生は,趣味で大学のトレーニング室に週3〜4回通っていました.
だから,一応筋力トレーニングへの影響という観点から客観視することはできるんです.

その結果.
う〜ん・・,効果や影響は感じられませんでしたね.
なんせ,ただの水ですからね.ないですよね.

最後の方になってくると,院生室で開催する鍋パーティーのだし汁用になっていました.
特段美味しくなったりするわけでもありません.


2016年12月16日金曜日

大学における体育授業の意義2

体育の実技指導ができない大学教員が増えてきた
と言われることがあります.

そして,
「体育の指導方法を習ったことがないから,不安だし,授業計画が負担でしょうがない
とか,
「いつも学生になめられているようで悔しい」
とか言ってる先生もいますね.
たまに相談を受けることもあります.

でも,私はこう思うんです.
初心者にとってハードルが高く,入り口としての専門性が求められる種目(ダンスとかスキーとか)や,慎重な安全管理が求められるもの(水泳とか野外活動とか)でもない限り,大学体育の授業を教員が必死こいて指導しなくてもいい,と.

そうですね.「救急処置法」くらいの知識があれば大丈夫じゃないでしょうか.
一方,実技指導の能力はあるくせに,救急処置ができない教員もいます.学生がケガをしても知らんぷり,かと思えば摩訶不思議な応急手当をしたりする.こういう教員こそ危険です.

以前の記事の続編のつもりで書くので,興味のある人はこちらもどうぞ.
大学における体育授業の意義

そもそも,大学の授業として「体育」を受けさせる意義をきちんと考えてみたことがない人が多いのです.
そんな状態で悩んでいては,いつまでたっても自分なりの答えは湧き出てきません.
ひとまず体育をやってる感がある「スポーツ・スキルを習得させる」ことを第一に考えてしまうし,学生も一見それを望んでいるように見えるから,そこが大事だと思ってしまいます.

それも当然かもしれません.中学・高校まではそれが「体育」だったのですから.

でも,考えてもみてください.
大学に来てまで「スポーツ・スキルを習得させる」ことに何の意味があるのか.
常識的に考えたら「ありません」よね.
けど,それでも大学には体育の授業があるのです.

大学の手前である「高等学校」における体育の学習指導要領に目を通してみましょう.
「保健体育の目標」にはこう書かれています.
心と体を一体としてとらえ,健康・安全や運動についての理解と運動の合理的,計画的な実践を通して,生涯にわたって豊かなスポーツライフを継続する資質や能力を育てるとともに健康の保持増進のための実践力の育成と体力の向上を図り,明るく豊かで活力ある生活を営む態度を育てる。
大学には学習指導要領はありませんから,各大学・各教員の理念と哲学から教育されることになります.しかし,そうは言っても日本の大学における体育の授業です.日本の学校教育における「体育」の理念と哲学を踏襲するところがあって然りでしょう.

だとすれば,「生涯にわたって豊かなスポーツライフを継続」し,「明るく豊かで活力ある生活を営む態度」を持った人間を育てる最後の教育機関が大学ということになります.
ようするに,「スポーツを楽しむ」ための資質を育てなければならないのです.

こんなこと言うと,「ただ楽しませる授業では意味がない」と,尤もらしい意見を言う教員に遭遇します.
けど,そんな教員にかぎって,授業では学生の動きを「統率」することに満足感を得ています.そして,自分が用意した教材とプログラムによって「授業が盛り上がった」ことを喜んでいたりする.
中学・高校の教師になりそこねた人に多く見られるタイプですね.
大学の授業で「九九」を覚えさせて喜んでいるようなものです.
結局,こういう教員も「学生をただ楽しませているだけの授業」を展開してることに違いはありません.

スポーツが楽しいことは皆知っています.
練習すればスポーツのスキルが高まることも知っています.
これまで学校の授業でやってきたのですから.

でも,豊かなスポーツライフとは何か? 活力ある生活を営む態度とは何か? について,学校体育で学んでいるかと言われたら怪しいものです.
事実,90分間を学生の好きにさせたら「楽しめなくなる学生」とか「時間つぶしを始める学生」が現れます.
つまり,スポーツを楽しむことができない学生はたくさん存在するのです.

そんな彼らは,得てして「グループワークや演習形式の授業」を充実したものにできないし,就職活動も難儀します.
十人十色のクラスで,どうすれば皆が万遍なくスポーツを楽しむことができるのか.それを考えることは,社会を構成する者に必要な能力を育てることにつながっています.

学習指導要領の第一条「教育の目的」にはこうある.
教育の目的
第一条 教育は,人格の完成を目指し,平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
バスケのドリブルや,バドミントンのサーブの練習をしてはいけないなどと言っているのではありません.授業を展開する上でのプログラムの一つとして盛り込んでいいでしょう.大学の授業として「九九」をやってはいけないと言っているわけではないのです.
でも,そんなことより,もっと大事なものが大学体育の授業にはあるのではないか,ということです.


関連記事
大学における体育授業の意義
井戸端スポーツ会議 part 39「日本のスポーツの定義に物申す」
海軍の学校での体育
体育学的映画論「ロッキー・ザ・ファイナル」

2016年12月12日月曜日

テレビのない生活の流行語大賞

疲れました.
1週間が怒涛のように過ぎ,ようやく一息ついているところです.
不思議なもので,こっちでコントロールできない仕事って分散されず固まって入るものですね.

さて,年末に取り沙汰される流行語大賞について,「テレビのない生活15年」の私が考えてみようという記事です.

流行語大賞のホームページに,過去の受賞対象が挙げられています.
こちらです↓
新語・流行語大賞(自国民社)


私が流行語大賞っていうのを初めて意識したのは高校生くらいの頃.
「凡人・変人・軍人」っていうのが懐かしい思い出です.
流行語大賞って,流行していないものを取り上げるものなんだなぁってのが最初の印象でした.
これは「知ったかぶり大賞」というのが実際のところだろう,と見做して早20年近くになります.

同時代のものをみると,「ハマの大魔神」と「だっちゅーの」が受賞しています.これはたしかによく聞いた覚えはあります.
でも,「流行」していたかどうかと問われたら,かなり疑問です.

なにがどうなったら流行なんでしょうね.
少なくとも,その年に印象深い,参照・引用・利用されることが多かった言葉と考えると良いのかもしれません.
でも,「だっちゅーの」なんて,寒いオヤジギャグにしかならいでしょう.よほどのバカでなければ,能動的に使用する用語ではありません.実際,私の学校では話の節々で「だっちゅーの」と言ってる奴は無慈悲にバカにされていました.それだけに,たしかに印象深い影響のある言葉だったと言えます.

今日,こんなニュースがありました.
俵万智氏「『死ね』が世の中動かした」 流行語選出批判に「思い」明かす(Yahoo!ニュース)
「保育園落ちた日本死ね」って,たしかに今年の流行語でしたね.
選ばれて当然の言葉だと私は思っていますよ.

選出理由はいろいろあるんでしょうけど,つまるところ「流行していた言葉」だったかどうかは重要です.
その「選出理由」が気に入らない人が多いようですが,その年を代表する言葉であれば,別になんでもいいと思うのです.選ばれたからって何かあるわけじゃないでしょうに.そんなにいきり立って評論しなくても,気軽に楽しめばいい.

「神ってる」は,テレビのない生活を送っている私にとっては初耳です.
テレビのない生活を送ると,特にスポーツから縁遠くなりますので.
ところで,過去に受賞している言葉をみてみましても,スポーツ界から多数選ばれていることが分かります.
多分ですけど,スポーツ界から選ぶのが無難なのでしょう.批判されにくいだろうから.
昨年受賞した「トリプルスリー」なんて唐突過ぎて意味不明でした.

私が選ぶ流行語大賞は,やっぱり「ポケモンGO」です.
ポケモンGOがなんなのか未だ不明ですが,それでも聞いたことがあります.猫も杓子もポケモンGOにハマっているというのを聞きます.マスメディアから遠い私にも聞こえてくるのですから,これぞ流行語大賞です.

昨年は「爆買い」とか「SEALs」っていうのが印象的でしたね.昨年を代表するのはこの2つです.
2年前の受賞は何がなんだか.全部分かりません.唯一その意味がわかるのが「集団的自衛権」ですけど,こんなのが流行していたんですか? 世も末ですね.

3年前のものが興味深いですね.
「今でしょ!」は,当時,どういう経緯から生まれたのか全然知りませんでしたが,たしかに皆して「今でしょ」と連呼していました.コイツら頭おかしいんじゃないかと本気で心配したことを思い出します.
ここでもやっぱりスポーツは無難に選出されています.「オ・モ・テ・ナ・シ」.恥ずかしい言葉ですね.日本死ねって思いたくもなりますよ.

そんな感じで過去のものを眺めていたのですが,はっきり言って,どうでもいいものばかりです.気軽に楽しめるようなものではありません.強烈な虚無感を覚えます.
金輪際,我が人生において「流行語」なんてものを意識の縁にもってくることは避けよう.そう誓いました.

ちなみに,私が個人的に今年の新語・流行語として挙げるとすると,
「EU離脱」
です.
流行語としてだけでなく,そして「新語」としても今年を代表するものであり,今後使われる機会が多いであろう言葉だからです.

2016年12月4日日曜日

テレビは無いけどテレビに出たことはある

今回は思い出話.

テレビのない生活も15年になりますが,その間にテレビに出ること2回です.
なかなか貴重な体験をさせてもらいました.
1つはNHK.もう1つは朝日放送です.

NHKは学生時代です.
なぜか私の母校でやってる課外(サークル)活動が珍しいということで,NHKの番組プロデューサーの目に止まったらしく,それで取材に来ました.
その課外活動をやっている一人に私も含まれていまして,それでテレビ番組のなかの企画の一つとして写ることになったんです.

夕方の生放送番組で,全国をつないで各地域のネタを放送するというスタイルのものだったと思います.
その時既に私はテレビを廃棄していたのでよく知りませんが,朝昼夕と似たような形式の番組はよくありますよね.

私達学生が活動している様子を,「カメラで流しながら撮るだけだから」っていう打ち合わせをしてからスタート.
あぁいう番組って,結構適当にやってます.一応「ここを撮ります」って準備はするものの,あとは行き当たりばったりな感じです.
実際,私のところまでカメラが回ってきた時,なぜかアナウンサーが私にマイクを向けてインタビューを始めたのです.

そりゃビックリですよ.「え? 俺?」って.
話が違うじゃないか.
周りの友人達もギョッとした顔をしている.私もギョッとしている.
蜘蛛の子を散らすように・・,という日本語はよくできているなと感心した次第です.

生放送だし,このカメラの先に何百万人の目と耳があるかと思うとやっぱりビビります.
アナウンサーがなんか聞いてくるから,それに応える.何言ったのかよく覚えていません.でも,意外と流暢に言葉が出るものなんだなという感覚は記憶しています.
そのあたり,アナウンサーも応えやすい質問の仕方を心得ているのだなと思います.

あとで「突然ゴメンね」って謝られました.
時間が思いのほか余ったから,とっさに「学生の声」として拾ったらしい.

もう一つの朝日放送は,バラエティ番組でした.
これは大学で研究員をやっていた頃です.

バラエティ番組の企画で,芸人たちの体力テストをやるってことになったらしく,それで所属研究室の教授に同伴して出演することになったのです.
今度は生放送じゃないから気が楽です.

当初大学からは「テレビ出演に関する相談のため来客がある」とだけしか聞いていなかったので,とりあえず番組のプロデューサーの話を聞くだけ聞いてみようという感じで私と先生が対応しました.

現れたプロデューサーは開口一番,
「お二人は,◯◯◯という番組をご存知ですよね!」
って自信満々に聞いてくるんです.
私と先生は,
「いえ,知りません」
と答えました.ホントに知らなかったから.

なんでも,関西ローカルだけど視聴率が高いということで有名なバラエティとのこと.
たしかに,私と先生以外の人達はよく知っていました.

ガッカリした様子を隠さないプロデューサーは,そこから今回の番組の企画を資料を見せながら説明します.
芸人に体力テストをやらせるからってんで,その際に解説や測定値の評価をしてほしいとのことでした.
そんなもの,目立ちたがり屋の医学系大学教員に出演を頼んだら喜んで引き受けるだろうに,なんで私達のような本気の研究者を訪ねてきたのか不思議でした.

で,当時まだオブラートに包んだ物言いが出来なかった私は,これをプロデューサーにそのまま聞いちゃってるんです.「どうして私たちのような研究者にこんな話を持ってきたんですか?」って.困った若者です.
これについては,「ちゃんとしたスポーツの研究者を取り上げて番組を作りたいんです」とかいう,いまだ謎な理由を挙げていました.

ともかく,「な〜んだ,結構簡単な仕事じゃないか」と思って私と先生は引き受けたのですが,後にこれが案外大変なことだと分かります.

実は,番組内で芸人たちとからみながら測定・評価をするというものだったのです.

基本,私の先生が前面に出て進行したのですが,終始,「助手」という位置付けで私もちょくちょく出るものでした.
さすが,先生は場馴れしてるなぁと関心したものです.
私もかなり芸人たちからいじられたのですが,あとで「頼むから全部カットして」って懇願したし,私達芸人じゃない人とのやり取りはカットされやすいようですね.

あと,とても面白かったのが芸人の素顔.
カメラが回っている時と,そうでない時の落差が半端じゃない人がいます.カメラが回っていないと,うつ病患者じゃないかと思うくらいボーっとしているのですが,カメラが回り始めると弾けるようにはしゃぐ.この人は躁うつ病ではないかと心配です.

物凄く丁寧な対応をする芸人さんもいました.結構名の知れたベテラン芸人さんなのですが,撮影現場に入るなり,スタッフ一人ひとりに挨拶をしてまわります.
我々のところにも来て,先生だけでなく,なんと私にまで「君も今日,一緒にやってくれるんやてな.ホンマありがとうな.お願いします」と丁重に声かけをしてくれるのです.これには驚きました.

気配り上手が芸能界では大切だと耳にすることがありますが,そういうものなのかなと思わされます.
実るほど頭を垂れる稲穂かな.
上り下りの激しい芸能界では,いざって時にこうした気配りが効いてくるのかもしれません.

実際,録画している現場ってそんなに面白くないんです.
なんだかギャーギャー騒いでるけど,脇で見ているこっちは退屈です.
こんなやっつけな展開で本当にバラエティ番組として成り立つのか心配になるくらい.

あとで面白くなるように編集するようですね.
芸人さんやカメラマン,プロデューサーの会話を聞いていると,なんかそういうこと前提でやってる感じもあります.
だからプロデューサーやスタッフの方々に好かれていれば,なるべく面白くて活躍しているように仕立ててくれるのかもしれません.
見栄えや映る時間も,結局は編集次第ですから.

さて,番組が放送されると,じゃんじゃんメールが来るんです.
「お前,テレビに出てるぞ!」って.
先生もビックリしたらしいです.こんなに影響が大きいとは思ってもみなかったらしい.

さすが,プロデューサーが自慢するだけのことはありました.

2016年12月2日金曜日

大学における体育授業の意義

以下,大学における一般体育の授業方針に悩んでいる教員(教務委員の先生も含む)の参考になればと思います.

このブログでは,何度か「大学において体育は軽視されがちだけど,本当は重要な科目」ということを述べてきました.
例えば→■昨今の大学用語辞典より 【体育】強い理念のもと指導する教員が多いわけではない,学生にとっての休み時間.本来は大学教育において重要な科目.

これについて,以下の記事↓
井戸端スポーツ会議 part 16「体育の授業で得てほしいこと(特に大学で)」
でもお話したことがありますが,今回は別の観点から述べてみます.

「運動能力が高い人は学力も優秀」「スポーツをすると学習機能が高まる」などと言い出す人もいますが,これはどうでもいいことです.週に1回の体育の授業とはなんら関係がない.それに,研究ではたしかに有意水準ではあるけど劇的な影響はみられません.こういうのは,特に大学において重要視されやすい知的活動へのコンプレックスから来ていることですね.
「スポーツを勉強することにも意義がある」とか「健康を保つためにも価値がある」などと宣伝する人もいますが,これも副次的なことです.

一方,「スポーツの技術・技能を高めること」を第一に掲げる人もいます.結構います.
これは論外です.
たいてい,昨今の「スポーツ科学研究」の隆盛についていけない教員が,己のアイデンティティである指導能力を誇示するために使っているロジックです.
スポーツ技能の習得なんて,わざわざ大学に来てまでやることではないし,上手くなったからどうだっていうんでしょうか.教え方が上手いことを自慢したいなら,どっかのインストラクターにでもなればいい.お願いですから普通に大学教員として人類に貢献してもらいたいものです.

では何が重要なのか.
スポーツは,スポーツすることそのものに意義があります.スポーツという営みを通したなかに人間らしさが現れます.そこに教育価値を見出すことができるのです.

直接的に言及したことはありませんが,関連した過去記事があります.
私の祖父が海軍の学校で経験した体育について述べたものです.班対抗の持久走レースが企画され,ルールは「その班内で最も遅くゴールした者の順位によって班の順位がつく」というもの.それに祖父たちはどのように取り組んだのか.
海軍の学校での体育
運動の出来ない者はどこにもいます.祖父の班にもそういうメンバーがいたそうです.ですから,この条件下で勝とうとすれば普通に走っていたら絶対に勝てないことになります.
班長をやっていた祖父は,すぐさま班のメンバーを集めてミーティング.このレースに勝つ方法を考え指示したそうです.
(中略)
もしかすると教官は,運動の出来ない生徒に自覚をもたせるために考案した持久走だったのかもしれません.皆の足を引っ張らないように体を鍛えろよ,と.
ですが,結果的に現れたのは
「強い者が弱い者をカバーしたほうが,全体の勝利へとつながる」
ということです.
これ,体育の授業における重要な教育価値だと思うんです.
もっと言うなら,別に勝敗を決することに真剣にならなくてもいいでしょう.
私が大学における体育の授業で大事にしているのは,「いかに自分たちだけでスポーツを楽しめるか?」という点です.
なんだそれ,甘っちょろい授業目標だな,と思われるかもしれませんが,実はこれが結構厳しい学習課題です.

誤解を恐れずはっきり言いますと,「授業時間である90分間のなかで,学生たちだけで有意義なスポーツ活動を展開し,その場にいる者皆が嫌な思いをせず,等しく楽しむ状況をつくることができる」という課題は,申し訳ないけど知能レベルと強力な相関があります.
頭のいい学生は,放っといても積極的にスポーツを楽しみますし,なるべく皆が楽しめるよう配慮できます.

一方,バカは自分たちだけ楽しもうとします.自分たちが騒いで盛り上がっていれば,その場の全員が楽しめているものだと認識しています.これは本人たちは気づきません.
だからそこに「教員」が必要です.

頑なに動こうとしない学生もいます.じっとして授業の時間をやり過ごそうと企んだり,わざと無気力な態度で取り組むことでカッコつける学生です.これも本人たちは至って「カッコつけてる」つもりなので,周囲にどう思われているか気づいていません.もちろん,周囲にちょっと迷惑かけてる認識はあるのですが,それが「ちょっと」じゃなくて甚大な迷惑になっているという想像力は働きません.
だからこれにも「教員」の補助が必要になります.

まるで小学生を指導しているように聞こえますが,偏差値や学力に関係なく,小学生みたいな奴はどこにもいます.
この未熟者を,一端の大人に育てるのが大学体育の使命だと考えられます.

「周囲・全体に配慮しながら自分たちだけでスポーツを楽しめる学生」は,ゼミ活動でも優秀です.周囲・全体に配慮しながら,有意義な議論を展開できるのは,やっぱりこういう学生です.
たとえ学力は低くても,こういう学生は大学生活後半の伸びが違います.
「スポーツ」における振る舞いは,「議論」や学術活動での振る舞いと類似するのです.

低俗な話ですが,この課題がなんなく出来る学生は就職活動にも苦労しません.もっと言えば,就職後も苦労しないですよ.ご縁のあった勤め先で,同じようなことができるからです.

では,どんな授業を展開するのか?
私は授業初日にこう宣言します.「僕は技能練習を指示しないし,細かいルールも教えない.どのようにすれば上手く90分間が回るかも伝えません.可能な限り自分たちでやってくれ」と.
初日が最も重要ですね.ここでその半期,もしくは1年が決まると言っていい.

例えば「サッカー」という教材を使うとします.全くサッカーを知らない学生が全員集まるという状況は,この日本ではほぼ考えられません.小中高の体育でやってきているからです.
小中高の体育では,サッカーの基本的な動き方,練習やウォームアップの仕方,試合展開やルールを学習してきています.
だから,それを基にサッカーを楽しめばいいじゃないか,大学では楽しむことを学べばいい.これまでずっとサッカーを楽しむための方法を勉強してきたんだろ? と,そう伝えます.たいていの学生が「あ,そうか.言われてみればそうだな」と気づいてくれます.
でも,言うは易く行うは難し.

男女差,技能の上手/下手,体力の高い/低い,興味関心の高い/低いなどに差がありますから,そうした集団でどのように楽しめばいいか考えることは意外と難しいものです.
それに,授業は通常15回ありますから,同じことをずっと続けて良い場合もあれば,何回かやれば飽きてくる場合もある.
そんな時どうするか? こうしたことへの対処方法を検討するのが,重要な学びです.

自分たちで乗り越えられるクラスならいいのですが,できないクラスもあります.
技術的な話(練習法や特殊ルールのアドバイスなど)なら対応は簡単ですが,一部の仲良しグループが自分勝手に進めたり,スカした態度で協力しない学生が一定数現れたら,なんとも気分の悪い空気が流れ始めます.
そんな時は,なるべく「学生たち自らが組み立てている」という状況をつくりながら進めるようにしています.

この時の対応が非常に難しい.
ともすれば,「正論」と「綺麗事」を並べ立てる教員になってしまいます.それでも良いのかもしれませんが,自分勝手な学生やスカした学生は,そういう教員を最も毛嫌いしています.周りの学生は「よく言ってくれた」と溜飲を下げるかもしれませんけど,肝心の注意されているこの学生には伝わりません.

万能な指導法はありませんので,ケース・バイ・ケースで頑張っている次第です.
それに,大学におけるその他の授業と同様,全員を等しくレベルアップさせることはできません.
どんなにしたって,学ぶ気がない学生は学びません.
でも,地道にやっていれば,それなりに学生は受け取ってくれるものです.

ある年のクラスに,いわゆる「自分勝手に進めるチャラい男子グループ」がいました.いい歳して不良がカッコいいと思ってる奴らです.
なかなか手こずった学生たちでしたが,最後の方では,こちらの意図したことを理解してくれたところがありました.
人見知りの(こう言っちゃなんだけど,ちょっと発達障害気味の)学生に対しても配慮できるようになり,彼らが伸び伸びプレーできる状況を作ることのほうが,自分たちも楽しくプレーできることに気づいてくれたのです(と信じています).というのも,技術レベルに差がある者同士でも楽しめるルールでの試合を,彼らがネットで調べて「今のままだと全力で出来ないから,これでやろう」と言い出したんですよ.

こういうことは,こっちから説明してしまったり,厳しく叱責して従わせては元も子もありません.自ら「気づかせる」ことが大事です.

「そんなこと,誰でも思い付くし,やろうと思えばやれることだ」と思われるかもしれません.
しかし,「やれることだけど,これまでやらなかったこと」というのは,本人にとって実際の行動に移すまでのハードルは非常に高いものです.それだけに,自分で意図したことを行動に移してみるという経験には,強力な教育効果があります
体育という授業では,そうした状況にたくさん遭遇するのです.

自分が楽しむためには,まず周囲の者達が楽しめる状況になければならない.
それはスポーツに限らず,学問も,社会も,政治経済も同じことだと気づいてくれることが重要です.
大学で得た知識を適切なかたちで人間社会に活かすためにも,体育は重要な役割を果たし得る科目なのです.


関連記事
井戸端スポーツ会議 part 39「日本のスポーツの定義に物申す」
海軍の学校での体育
体育学的映画論「ロッキー・ザ・ファイナル」

2016年12月1日木曜日

カジノの使い道

カジノの話が喧しい.
カジノ法案、あす衆院委採決方針 自民、今国会成立狙う(朝日新聞)
カジノを含む統合型リゾート(IR)の整備を政府に促す「カジノ解禁法案」が30日、衆院内閣委員会で審議入りした。自民党は同日、連立を組む公明党に対し、12月2日に委員会で採決したうえで、6日に衆院を通過させる方針を伝えた。議員立法だが、政府・自民は14日まで延ばした今国会での成立をめざしており、国会最終盤の焦点となりそうだ。(朝日新聞)
私は過去記事で「カジノ」について扱ったこともあります.
実は,カジノ自体に反対はしていません.むしろ,使い道によっては良い効果が期待できるとも思っています.
ところが,この一連のカジノ法案はなんだかきな臭い.というか,かなり熱くて煙い.
法案は超党派の「国際観光産業振興議員連盟(IR議連)」に所属する自民、旧維新の党、旧次世代の党の議員8人が提出。カジノ実現のため政府の法案提出を義務づけており、議連はかつて安倍晋三首相が最高顧問を務めていた。30日の内閣委では、議連会長の細田博之・自民総務会長が趣旨説明で「観光及び地域経済の振興に寄与するとともに財政の改善に資する」と意義を強調。議連副会長で日本維新の会の小沢鋭仁氏が「ビジネスとして極めて有望だ」と答弁した。
安倍晋三と維新の会.
地域振興とビジネス.
この組み合わせは国体崩壊間違いなしです.

過去記事(既に6年の歳月が流れた)でも述べたように,私は「カジノを作る」という法整備過程において,
1)競馬,競艇などの賭博ができる地域・都市を限定,規制する
2)パチンコを取り締まる
3)公共交通機関を整備,促進するための起爆剤
が期待できると考えていたからです.

かつては私も政治や世論にちょっと期待していた部分があったので,「カジノを作るふりして賭博・風俗関係をしっかり管理できるような体制にできればいいのに」と妄想しているところがありました.「バカとハサミは使いよう」と考えていたのですね.

でも,そうした甘い期待はできないと知った20代.
今となっては,同じような状況を見たら「キチガイに刃物」と思うようにしています.今回は「安倍にカジノ」です.

人間,どうしても一定数のバカがいます.
残念なことではありますが,ギャンブルや風俗は人類誕生以来の下品で低劣な「遊び」の文化であり,これがなければ,さらに別の危ないものに手を出そうとする奴は出てきます.

私が考えていたのはこういうこと.
「カジノ法」と称して賭博全般やキャバクラとか風俗関係の商売を限られた一部の地域だけに規制し,そこ以外での業務を徹底的に取り締まろうというものです.そこでの儲けは地域振興財源に使い,これに乗じてパチンコも潰してしまえばいい(合法的に)とも考えていました.

要するに,「カジノを起爆剤にする」という謳い文句で公営ギャンブルをコンパクト化,そして一極集中するのです.こういう「一極集中」なら私も歓迎です.今時,「一極集中」とか「選択と集中」って聞くだけで,たいていのバカは喜びます.
その施設に行けば,競馬,競艇,競輪だけでなく,ポーカー,ブラックジャックにスロット,ルーレットまで出来る.なんなら,時代劇とかでやってる「丁か半か!」っていう博打を扱ってもいい.
競馬で負けても帰りにポーカーで勝負して,お酒はバニーガールが運んでくれるっていう歓楽リゾートを公営でやればいいのに,っていうことです.

そうは言いましても,まともな人間ならギャンブルや水商売,風俗なんて無くても生きていけます.少なくとも私は生きていけます.きっと私以外にもたくさんいると思うので,賭博場や夜の街は全国的に潰しても問題ありません.
どうしても行きたい奴は,大阪や東京に行けばいい.そうすれば公共交通機関も潤うでしょう.

でも,今回のカジノ解禁法案にそうした「規制」は期待できません.
作った奴らが「ビジネスとして極めて有望だ」っていう認識でいるからです.
国としてギャンブルを規制する仕組みを盛り込む気なんてありません.むしろ,カジノを純粋に普及しようとしています.
人間のクズやお水の女を増やすことを是とする政策ってどういうことでしょう.
まあ,安倍晋三が最高顧問をしている集団だから仕方がない側面もありますが,これは極めて危険です.

こいつらが提出した法案はこちらで読めます.
危ない典型的な条文を以下に列記します.
・観光及び地域経済の振興に寄与するとともに、財政の改善に資するものである
・地域の創意工夫及び民間の活力を生かした国際競争力の高い魅力ある滞在型観光を実現
・政府は、特定複合観光施設区域が地域の特性を生かしつつ真に国際競争力の高い魅力ある観光地の形成の中核としての機能を備えたものとなるよう、必要な措置を講ずる

この条文から滲み出ているのは,「地域は自立しろ」「世界に打って出ろ」というものです.
財政難を,カジノで打破しろと言ってるわけですね.

世論調査によると,カジノ法案には反対が多い.
ということは,財政にゆとりがある地域はカジノを「作らなくて済む」のに対し,財政難の自治体はカジノを「作らなければいけない」状態になることを意味します.

これは,チンピラが貧乏人に「カネがないなら,娘でも売って作ってこい」と言っているのと同じ構造です.
今,中央はチンピラになっています.国であることを放棄しているわけです.
もはや国境や国籍にこだわる時代ではないのかもしれません.