2017年4月24日月曜日

Tomorrowはあるのか

前回記事では「TOMORROW」の話をしました.
でも,この日本では,そんなTomorrowがあるのか怪しい事態になってきたことを感じさせる今日このごろです.
見るもの全てに怯え竦んで,アスファルトに咲く花が一つ残らず吹き飛ぶかもしれません.

私の研究室の窓からは都心部が眺められるんです.いつかこの景色が一変するような事態になるんじゃないかと思い,実は,なんだかんだで気にしているのが「もしも弾道ミサイルがここで炸裂したらどうするか」という脳内シミュレーション.

これについては4月21日に,内閣官房が「国民保護ポータルサイト」で弾道ミサイルが落下した場合のオススメ行動を紹介していました.
こんなホームページが開設されています.このご時世,「核攻撃があったらどうすればいいのか?」という問い合わせがたくさんあるからでしょうね.
内閣官房・国民保護ポータルサイト

そこでは,こんな感じのPDFを見ることができます.
行動について:その2(内閣官房HPより)
いよいよ空襲警報が鳴り響く状況に突入したのですね.
空襲警報と言っても,今は「Jアラート」という緊急情報発信システムで周知されるそうです.特殊なサイレン音とか緊急放送とかになるようですよ.
その「特殊なサイレン音」はこちら→■国民保護のための情報伝達の手段

ですが,ここで「核攻撃」とか「毒ガス攻撃」における準備として考えておかねばならないことがあります.
Jアラートが鳴ったとして,こちら側でコントロールできることはほぼありません.

それはなぜか?
そもそもこの「Jアラート」,どうやらかつての空襲警報と同じように,被害予想後に発せられるものなのです.
つまり,弾道ミサイルの発射をもって機械的に鳴り出すわけではなく,日本に着弾する可能性が高く,被害が発生しそうだという内閣官房による見積りを経て発信されるものだとのこと.

そこには人間の判断と介入があるわけですから,場合によってはミサイルが着弾する間際にサイレンが鳴り出す可能性があるのです.
北朝鮮からの弾道ミサイルが到達するまでに約10分と言われています.実験目的ではなく攻撃目的であれば不意打ちをするだろうし,着弾することが分かってから鳴り始めるJアラートですから,我々が知れるのは現実的には2〜3分を切ってからでしょう.
場合によっては,伝達ミスやエラーなどで発信されない可能性もあります.
ですから実際のところ,落下地点周辺の人々は何もできないと言っていいわけです.

これは別に「Jアラートは無意味」と言っているわけではありません.いざという時には頼れるものではないということです.無いよりはマシ程度のもの.
言い換えるなら,弾道ミサイルへの対応は「確認」なんかしてる余裕はないということを啓蒙しなければいけないということを示しています.

想像してみてください.自分のスマホや携帯,周囲のサイレンが突然鳴り出したからって,大急ぎで地下やコンクリート遮蔽物に逃げ込む人がいるでしょうか?
スーパーで買い物していて,Jアラートが鳴ったからって「早く部屋を密閉しろ!」と言い出せる人っていないと思います.
イメージトレーニング上ではできるかもしれません.
でも,いざ現実の場面だと,
「え? え? 何があったの? まさかミサイルが飛んできてるんじゃない?」
とか言って空を見上げてるのが普通の人ではないかと.

そんなわけで,私としては「どうせ大胆かつ迅速な対応はできない」という前提で避難方法を検討することにしています.
つまり,どうすれば「変な人」「怪しい人」と受け取られずに避難できるか? ということです.
きっと「その時」には,大多数の人がボケェ〜っとしているに決まっています.危機に際して,人間とはそんなものです.
だからこそ,周囲がボケェ〜っとしていることを想定して自分が動ける範疇を考えておくことが大事だと思います.その数分後,パニックになってからでは遅いのですから.

核攻撃における閃光と爆風や,毒ガスの直撃を受けるエリアにいれば,ほぼ間違いなく死にますから,そこんとこは想定しなくていいと思います.運がなかったと諦めるしかない.
でも,その場からやや遠いところに着弾し,そこが自宅ではないというのであればサバイバルする必要があります.

例えば,できることなら「飲料水」が確保できるところに逃げ込むとか.できるだけ密閉空間が作れそうなところを常時見回しておくとか.
どうやら,最初のミサイル炸裂から運良く生き残ったとして,その後に必要となるのは「密閉空間での救助待ち」なんだそうです.
救助待ちは,だいたい2週間くらいが目安とのこと.行政もパニックになっているし,外は放射性物質や毒ガスが充満しているわけだから,それくらいしないと救助隊も来れないらしい.あと,放射性物質は2週間くらいで弱まるので,それくらい経ってからなら外に出ても致命的被害にならないそうです.
核・毒ガスシェルターも,この2週間〜1ヶ月をしのげる設計になっているとのこと.

でも,そう考えると都市部で生き残るのって至難の業ですね.周りが死んでくれないと生き残れないことが前提になっている.

その他,特に核攻撃に関して詳しいことは,
にいろいろ掲載されています.
概ね内閣官房が提言していることと一緒ですが,核攻撃にしても毒ガス攻撃にしても,生き残れたらとにかく「密閉空間で救助を待つ」ことが第一のようですね.

2017年4月23日日曜日

鳥無き島の蝙蝠たち(16)岡本真夜

岡本真夜オフィシャルHPより
このシリーズがだいぶ空きました.
人選が悩ましくて.どうしても高知県に偏ります.ですが,今後,もうちょっと気軽に書くことにします.

今回は珍しく,存命者である「岡本真夜」さんです.

四万十市(旧・中村市)出身なので,私の実家とそう遠くないところの人です.
デビュー当時,「オラたちのところから歌手が出た!」と騒がれていたのが懐かしいですね.
岡本真夜(wikipedia)

阪神淡路大震災でてんやわんやして,地下鉄サリン事件とオウム事件に震撼していた1995年にヒットしたのがデビュー曲の「TOMORROW」でした.その年,紅白歌合戦にも出場しています.
涙の数だけ強くなれるよ
アスファルトに咲く花のように
見るもの全てに怯えないで
明日は来るよ君のために
youtube→https://www.youtube.com/watch?v=3mRC2yEgDiw

歌やカラオケを一切嗜まない私が,一部だけとはいえ歌詞を覚えている極めて稀有な曲です.もちろんCDやテープを持っているわけではないのですが,かなり流行っていたし,
覚えやすい歌詞でした.
あと,これで「Tomorrow」の意味とスペルを覚えました.なんでRが2つついてるんだろう?とか思ってたのも懐かしいです.
ものすごく分かり易い歌詞で,ちょっとこそばゆい感じもしますが,臨床精神が素直に表現された綺麗な曲だと思います.
その後もたくさんの曲を作り続けて現在に至ります.

高知や四国から出る芸能人ってそうそう多くはないのですが,それだけに「鳥無き島の蝙蝠」を体現している方々が多いとも言えます.
実は,そういうことを裏付けるような現象があるんです.

最近,このブログではスポーツとファッションに関する記事を扱うことが多いのですが,そこで調べているうちに興味深い話をみつけました.
なんでも,「ファッションへの意識」について都道府県別にみると,その意識が高いのは高知県なんだそうですよ.
ファッションと身体に関する研究をしている鷲田清一氏によると,東京で流行しそうなファッションが実際に流行するのは地方,なかでも高知県で顕著なのだとか.例えば,女性のスカート丈の長さ変化は,東京や大阪よりも高知の方が顕著なんだそうです(『おせっかい教育論』より).

私の母も着付け師としてファッション関係の仕事をしていたこともあり,同じことを言っていました.大学に行くため上京した時,東京にはファッショナブルな人が多いものだと思いきや,意外にも服装を気にしないダサい格好している人が多いことに驚いたとのこと.高知の片田舎の方がファッションに敏感だということです(今から50年前ですが).

ちなみに,「ファッションにかける予算」について調査した報告もあり,東京・千葉に次いで四国勢が高いことが明らかになっています.神奈川や埼玉,大阪,兵庫よりも高いんです.
「ZOZOTOWN」の都道府県別購入金額ランキング、上位に四国地方が多数ランクイン

どうしてこんな状況になるのか?

高知県(土佐国)は,古来,中央部から最も遠い場所として位置づけられていました.それだけに,なにかにつけて「中央(都)」を意識するところがあり,場合によっては高い反骨・反発・対抗意識を有する地域性があるとされています.
この地域性が発揮されたのが幕末・明治維新での土佐藩やその志士の働きだという解釈もされているくらいです.

つまり,物理的なアクセスが困難な地域ほど,その国の「中央部」で発生している動きや状況について意識しやすくなるということなんですね.
しかも,物理的アクセスが容易であれば交流が盛んになり,まさに意識せずとも「交わり」が強くなるのですが,それも少ないわけで.結果,「うちはうち,よそはよそ」というアンビバレントな意識が芽生えちゃうので,中央の流行をただ「真似る」「模倣する」だけでは芸がない,という反骨精神につながったりする.

かくして高知や四国は,煽った言い方をすれば「ガラバゴス」,このブログ風に言えば「鳥無き島の蝙蝠」になるわけです.
でも,それが結果的に「ちょっと変わった奴」を生み出す土壌になるといえます.
平賀源内とか秋山真之とか横山やすしとかジャストシステムとか.

ちなみに,日本画家である千住博氏は,『芸術とは何か』でこう述べています.
「東京は,ひとつの流行に流されやすすぎます.すぐブームになり,持ち上げ,こき下ろして次の獲物に食いつくようなところがあり,これでは芸術家は自分のペースで生きるのが大変です.(中略)東京は好きな街ではありますが,東京を文化的に過大評価しないほうが良いと思っています」

そう,そうなんです.私も東京に居て思うのが,なんか自分のペースで流行を作っている感じがしないんですよね.流行を自分のものにしていないというか.
あるのは流行への盲目的追従か,頑ななアンチ流行か,その2つの間で迷っている姿.
でも,流行やファッション,文化ってそういうものではないですよね.
学術研究も似たところがあるように感じます.

そんな中央・東京が,クールジャパン戦略とか,冗談もほどほどにしてほしいというところです.

そう言えば,岡本真夜さんもウィキペディアによると,
デビュー当時は作曲や作詞に詰まる事があると高知に帰り、友人と思いきり遊ぶことでリフレッシュしていた。
とあります.ただのホームシックからくる帰省リフレッシュだと見ることもできますが,やっぱり東京という場所は文化創造には向いていないと思うんです.

以前ご紹介した歌手,「矢野絢子」さんも,結局,東京ではなく高知で活動をしている人です.
鳥無き島の蝙蝠たち(8)矢野絢子


2017年4月21日金曜日

井戸端スポーツ会議 part 45「スポーツカーのこと」

最近,スポーツとファッションに関する記事を書いたんですが,その延長線上に「スポーツカー」の話があると思うんです.
以下,そんな話をしてみます.

ところで今日,こんなニュースがありました.
日産スカイラインが「還暦」 販売は最盛期の40分の1
若い世代に支持されたスカイラインも、昨年の販売は約4千台と最盛期の40分の1。2015年度の日本自動車工業会の調査では、車を持たない若い世代の7割が「車に関心がない」と答えた。日産の星野朝子専務執行役員は「日本の若者の熱情を集めた車がスカイライン。いまの若い人たちにも楽しさが伝わるといい」と話した。
スカイラインと言えば,私にとっては「父」の車です.
なんでも,私の父は若い頃にスカイラインを3代に渡って乗っていたと自慢しています.
以下,それらのスカイラインです.ウィキペディアから写真を引いてきました.

3代目スカイライン C10
4代目スカイライン C110
5代目スカイライン C210

私にも小さい頃の記憶として,我が家にセダンタイプの車があったことを覚えています.
サイドミラーがドアとフロントガラスの根っこではなく,前輪の上・ボンネットのところについていました.懐かしいですね.

そしてこれだけは言える.うちの父にC110は似合わない.

父としては高知の片田舎で家庭をもったこともあり,ちょうどバブル崩壊もあったのでスポーツカーはいらないと考えたようで,私が保育園を卒業する頃に手放しています.だからスカイラインがあったことを覚えていますが,乗っていた記憶はほとんどありません.

そんなスカイライン.上述記事にあるように,まさに30〜40年前は若者の車だったわけです.父も20代〜40歳にかけて乗っていたものなので.

ところがこのスカイライン.私も「いつかは乗ってみたい」と思っていたのですが・・・.
今はこんなフォルムです.


13代目スカイライン V37
なんていうか,これじゃない感があります.
はっきり言ってダサい.
それで,お値段なんと400万円超.

さっき,写真元でもあるウィキペディアで「歴代スカイライン」を眺めてみたんです.
スカイライン(wikipedia)
んで,私が欲しいと思うのは2代目「S5」か,4代目「C110」ですかねぇ.

でも,仕方ない部分もあると思うんです.
若者の車離れと低所得が叫ばれる今,メーカーとしても狙うのは「スカイラインに憧れたオッサン世代」.つまり,40代〜60代でスポーティーさをアピりたいけど無理してスポーツカーに乗るほどハッチャケたいわけじゃない,っていう層でしょうか.
なのでフォルムも「オッサン」にウケるようなものになるんだと思います.

「日本の若者の熱情を集めた車がスカイライン。いまの若い人たちにも楽しさが伝わるといい」(朝日新聞2017.4.21)
と日産の人は述べているようですが,どうやら今のスカイラインは若者の車ではないように思います.

ちなみに,現行車全体を通して,お値段無視して私が「欲しい」と思うのはこれ.
BD11 アストンマーチンHPより
手が届かないこと,この上ない.

なお,日本車縛りならホンダのNSXが別格です.
NSX ホンダHPより
こいつら,なんていうか・・,エロいですよね.


そうそう,今回はスポーツカーとファッションの話をするっていうことでした.

スポーツカーのフォルムに感じるものは,「人」の身体と同じだと思うんです.
つまり,これら自動車のデザインに対する感性も,人間の身体に感じるそれと同じものがあるのではないか? ということ.

少なくとも私はBD11やNSXにエロさを感じます.タイトなカクテルドレスをまとった艶のある女に似た何かを感じます.
逆に,スカイラインV37に感じるのは,ダイエットに励むタオルを首に巻いたオッサンの姿です.
現在のスカイラインが若者ウケしていないというのも,世相や値段だけじゃなく,そこに「オッサンの身体」があるからではないか? そんな気がします.

だいぶ前の記事で,
というのを書きました.
人間は自分の身体というメディアを利用して物事を理解しようとする,という話です.
そしてこれは人間同士のコミュニケーションだけでなく,その他の動物,さらには物体をも「身体」として理解しようとするのではないか?
その記事から少し引用します.
「我思う.故に我あり」ではなく,「我がある.故に我思う」というところでしょうか.そしてその「我」の存在は「身体」を抜きに「我」とはならない.
どこまでも心と身体は分離不可能なものと考えられるのです.
(中略)
私たちは,このような(自分の)身体があるから自分として成り立っていられるわけで,この身体から離れてしまうと,もはやそこでは,今,私が私として認識している私(人間)はなくなってしまうということでしょうね.
このようにして考えていきますと,人間が物事を理解するプロセスについてもう一つのテーマが浮かんできます.
それはつまり,
人間は身体というモノを依代として物事を理解しようとする
ということです.
いわゆる「擬人化」というのと似ています.動物とか乗り物とか植物を「ヒトの形」をしたものとして描く手法です.
擬人化(wikipedia)
最近は「萌え擬人化」というのもあるらしい.
萌え擬人化(wikipedia)

擬人化は,さまざまな物を「人間の身体」として描くことで,対象を理解しやすくしようとする技術的・認識的欲求だと考えられます.
ということは,擬人化して描こうとする欲求それ自体がどこから発生するのかというと,おそらく人間は万物を「ヒトの形」として理解しようとしているからではないか? と考えられます.

さて,どうしてBD11やNSXがエロいのか?
おそらく,こういう生粋の「スポーツカー」は,着飾っていないからです.着飾らず,その身体をさらけ出している.ゆえにそこには性的魅力が現れてしまう.
「え? スポーツカーって,いかにもデザインに凝っているように思えるんだけど」という人もいるかもしれませんね.

そもそも,スポーツカーは「自動車」の原生的な姿です.
ウィキペディアにもこうあります.
スポーツカー(wikipedia)
「スポーツカー」は自動車のカテゴリ中、最も古いものの一つである。
もともと自動車は,生活・仕事のための「労働」に先駆けて,「レジャー・スポーツ」することを目的として作られています.
本ブログでは「スポーツが人間らしさの象徴」であることを繰り返し述べてきましたが,実は自動車も「スポーツ」がその本質にあるということです.

自動車が自動車として存在するための最小のものを身にまとった存在がスポーツカーと言えなくもない.
さっきまで「エロい」という表現をしていましたが,これはその自動車のデザインが女性的であるところが多分にあるでしょう(あくまで個人的感性ですが).
ですから,スポーツカーによっては男性アスリートのようなものもあります.かつて「スカイライン」と称されていた日産GT-Rなんかにはそれを感じます.
GT-R 日産HPより
なお,この日産GT-Rですが,本当に「ゴリマッチョ・アスリート」のようなエンジン・パフォーマンスを発揮することで有名です.
GT-Rがこんな風貌に行き着いたのも,もとい,製作者やデザイナーがこういうフォルムにさせたかったのも,やっぱりその内面が「ゴリマッチョ」だからではないでしょうか.内面が外面に現れるのです.

ところで,手の届く範囲で欲しい車は? と問われたら,私は今はこれですかね.
ロードスター マツダHPより
もしくはこっち.
S660 ホンダHPより
以前乗っていた「ダイハツ・ムーヴ」でもいいかなって思うんですど,せっかくならこういうのに乗ってみたいですね.
小さい車の方が,今時の道路交通事情からすれば「走る楽しみ」が味わえると思うんです.NSXなんか乗っても,なんだか申し訳ないような走りしかできないでしょう? 
関東から引っ越したら,上記のような車を買うつもりです.


関連記事
女子大に「体は男性、心は女性」の学生を受け入れられるか?

2017年4月20日木曜日

外れ値や異常値を判断する統計処理をエクセルでやる方法

エクセルだけで統計処理するシリーズです.

今回は,これまでネットであまり取り上げられていなかった「外れ値」や「異常値」ではないかと思われるデータの処理について取り上げます.
かなり以前から「ネットにあがっていないから」と思って取り上げるつもりだったのですが・・・,のんびりしているうちに,どうやらウィキペディアにも掲載されるようになりました.
外れ値(wikipedia)

でも,具体例を使ってエクセルで算出しているブログ記事があるのも良いかと思います.

データを取ってみたところ,「これって外れ値や異常値じゃないか?」というのは,例えば以下のようなものです.


Iさんが「48」ということで,他の人たちよりちょっと大きい数値です.
これが何かしらのエラーや記入ミスなどで起こったものかどうか判別したいというケースはありますよね.

クソ! こいつさえ居なければ・・,こいつさえ居なくなれば有意性がある(ない)と言えるのにぃ! って悔しい思いをしている人は多いことと思います.

もしくは,もっと穏やかで健全な理由として「一般的で平均的なデータだけを扱ったことにしたい」という人もいるでしょう.

つまり,この集団と計測データの平均的な分布パターンから,その当該データが統計学的に大きく離れた値であることを示したい.「だからこの値を異常値として除外した」と言いたい(できれば「統計学的に有意性が認められたため」と言い放ちたい)ということです.

考え方としては,「平均値および正規分布からどれだけ離れた値なのか?」を示すことになります.
似たような統計処理に,「1サンプルのt検定」があります.
「そっちの方が知りたかった」という場合もあるかもしれません.遥か昔に記事にしていますので,こちらもどうぞ.
あまり知られていないt検定


では,計算に必要なデータを算出しましょう.
まず,平均値と分散です.以下のようにエクセル関数で簡単に出せます.
平均値はAVERAGE関数,分散はVAR関数です.参照セルはこのようにします.

平均値は32.6,分散は39.8となりました.

これで準備は終わり.あとはここから統計量を出していきます.
ウィキペディアの記事にも算出式が載っています.「スミルノフ・グラブス検定」というやつです.
外れ値(wikipedia)
それを,この例データを使って算出してみましょう.
D列11行目にT値を算出しています.

D列11行目には,以下のように記入されています.
=(B10-B11)/SQRT(B12)

つまり,Iさんのデータ「48」を全体の平均値により引き算して差を求め,それを分散の平方根で割るという計算をします.
するとこうなります↓

これはT値ですので,エクセル関数の一つ「TDIST」を使えば,p値を出すことができます.
自由度は「N数−2」を使います.
この例のN数は9ですので,「7」ということです.尾部は両側検定なので「2」にします.
D列12行目にp値を算出しました.このようにします↓
D列12行目には,以下のように記入されています.
=TDIST(D11,7,2)

結果は以下の通り↓

「p=0.04」ですから,5%水準での有意性が認められたことになります.
つまり,Iさんの測定値「48」は,外れ値や異常値として処理しても文句がつきにくいということです.

【注意】この方法には注意点があります.
今回のように数値が平均値より大きい場合にはそれで良いのですが,小さい場合には以下のようにしなければなりません.
例えば,Iさんのデータが48ではなく,「15」ということで,小さすぎるのではないか? という場合は・・・.

さっきの算出式のままだと以下のようになります↓

「おい! エラーになるじゃないか!」って焦ります.
なので,以下のように平均値との差をみる引き算の部分を,逆にしなければなりません.
このように,上述したものと違い,B10とB11を入れ替えています.
=(B11-B10)/SQRT(B12)

そうすれば,以下のようにきちんと算出されます.

どれを「外れ値」として扱うか迷っていて,探索的に作業したい,もしくは一括算出してしまいたいと計画しているのであれば,ABS関数を使えばOKです.
こんな風にします↓

=ABS(B10-B11)/SQRT(B12)

ABS関数は絶対値を算出してくれますので,上記のようなエラーは発生しなくなります.


関連記事
Excelで多重比較まとめ
ExcelでTukey法による多重比較
ノンパラメトリック検定で多重比較したいとき
ノンパラメトリック版Tukey法による多重比較「Steel-Dwass法」
エクセルExcelでの簡単統計(対応のあるt検定と多重比較)

ちょっとした統計処理上のエクセル小技はこちら
エクセルで相関係数のp値を出す
エクセル散布図で相関関係・相関係数を確認する便利な方法
エクセルで大量のデータを等分割して統計処理したいとき
エクセルで大量のデータを処理したいとき
エクセルだけで統計処理する卒論・ゼミ論用アンケート調査のオススメ方法 part1
点数・得点を段階評価するためのエクセルシートの作成

その他,こういう怪しいブログ記事よりも,ちゃんと勉強になる書籍もご紹介しておきます.
詳しくは,
独学で統計処理作業をスキルアップさせるための本
を御覧ください.


2017年4月17日月曜日

井戸端スポーツ会議 part 44「スポーツの精神が大切なわけ」

前回記事である,「小林秀雄が語るスポーツの精神」ですが,ちょっと抽象度が高い話だったかもしれないので,もう少し具体例を挙げて話してみたいと思います.

その前に前回記事をまとめると,
ヒトはスポーツをしなければ人間たり得ない.
危険な登山を楽しむ者が遭難したとして,それを「無駄」「迷惑」と切って捨てるのは人間のすることではない.むしろ,スポーツする者に対し,「無駄」「迷惑」という観点から論じる社会は,おおよそ健全な人間社会ではないと言える.
スポーツする者には対しては,スポーツの精神から論じられる必要があるだろう.
といったところです.

スポーツごときにどうしてそんな言われ方をされなければならないのか? と不満の方もいらっしゃるでしょう.
そして,前回記事だけでは「スポーツの精神」がどのように人間社会に影響しているのか納得できなかった人もいるかもしれません.

スポーツの精神が大切なわけを考えてみます.
例えば小林秀雄は,著書『人生について』でこう述べています.
リアリストというものをひと口で定義するなら,好きなものは文句なく好き,嫌いなものは文句なく嫌いだという信条の上に知恵を築いている人だ.利害打算に追われ,現実的観察なぞに追われている人々が,実はどんなに不安定な夢想家であるかを見抜くのは,難しいことではない.
スポーツに取り組む者の姿勢と,それを取り囲む人々の眼差しは,この社会の縮図と言えるのではないか.小林秀雄が言いたいのはそういうことではないでしょうか.

登山で遭難する者をみて,これを「無駄死」だとか「迷惑をかけているから辞めろ」などと評価し,危険を承知で「人間らしい欲望や情動」に動かされて行動,判断する者を嘲笑う.そのような者たちを「リアリスト」と呼ぶのであれば,それは違うと小林秀雄は言います.

真の「リアリスト」は,人間,いつどこでどのように死ぬのか分かったものではないし,確実に予測可能な判断というものなど存在しないと考えます.
であるならば,我々にできるのは「自らの信条に基づく生き方」を,慎重に,かつ堅実に貫く知恵を磨くことなのです.

「現実的には,アメリカの圧力があるから,今は売国的になるのは仕方がない」といって政権や政治家を擁護する人がいますよね.主に保守・右翼系に多いです.
逆に左翼系には,「現実的には,この国際情勢を見れば自衛隊の容認も仕方がない」という人もいます.
どちらにも「スポーツの精神」がありません.
これが小林秀雄の言う「利害打算に追われ,現実的観察なぞに追われている人々」です.

アメリカの圧力があろうとなかろうと,自分の信条に照らして行動・判断すればいいのです.圧力を受けようとも,それが日本の在り方に関わるなら,これを貫くのが政治家です.
逆に,非武装中立という政治の在り方が善だと考えているのなら,国際情勢なんか気にせず自衛隊を否定すればいい.

私はどちらでもいいと思います.もちろん私個人としては日本が非武装中立することには反対ですが,そういう意見が出ること自体を叩くつもりはありません.「自衛隊(国防軍)無し」で国際情勢を渡っていく知恵を絞り出すのが,彼らのすべきことです.
国防軍を用意しない国として存在する,もしくは国家という枠組みを廃して新たな共同体概念を作るという,「極めて危険な登山」に挑もうとする心意気を否定するつもりは無いと言っているだけです.私は反対だけど.

リアリストは,実のところ夢想家であり妄想家です.それはなぜでしょうか?
「現実的には,アメリカの圧力があるから,今は売国的になるのは仕方がない」と言いつつ,その判断の先には壮大な夢と希望,そして妄想が待っているからです.代表的なのが,日本の自主独立です.
「今は臥薪嘗胆」が合言葉ですね.

しかし,彼らが採る現実路線によって,彼らの夢と希望が叶えられることはありません.仕方がないと言い訳しながら採る行動が,さらなる足かせとなって夢と希望を霞ませます.
自主独立したいなら,あらゆる局面で自主独立のための行動をとるべきです.もちろん叩かれ,潰されます.それでもやるべきです.
これが本当の「臥薪嘗胆」のはずです.今のままでは「保身賞賛」になってしまいます.

登山が好きなら,好きなだけ山登りするのが人間です.そこに利害打算があったら,彼は
スポーツマンではありません.スポーツは利害打算でやるものではないからです.

ところが,リアリストがやっているのは「今は危険だから,登山するのはやめておこう.それが現実的な判断だ」と言って登山しないことなのです.
危険だから,死ぬかもしれないから登山はしないという登山家がいましょうか? いるわけがない.そんな人は「登山が好き」と言いつつ,実は登りたくないのです.そのうち「もう山を登るのはやめよう」と言い出すに決まっています.

同様に,「負けるかもしれないから試合をしない」というサッカー選手や,「ケガをするのが怖い」というボクシング選手が,まともなスポーツマンとは言えません.
こういうのが「カッコつけ保守」なんでしょうね.サッカーやってる俺,カッコいいんじゃね?みたいなもの.

「俺が本気出したら・・」と言いつつ,「でも,今は試合をする状況じゃないから」と言い出す,絵に描いたような腰抜けがいます.
リアリストの言動に通じるものがあります.
彼らにはスポーツの精神がない.あるのは「負けず嫌いの俗物根性」です.

実は彼らが欲しているのは,試合に勝つための戦い方ではありません.
試合会場への道が渋滞しているとか,今は腹痛で動けないという言い訳です.
渋滞しているなら走っていけばいいのだし,腹痛になったのは自分の体調管理が悪かっただけのこと.
リアリストの言動とは,これと同じことです.

スポーツの精神について,ここでも小林秀雄の言葉を引いておきます.
この精神は,おそらくオリンピック以来少しも変わっていないと思う.オリンピックが語るとおり,スポーツの起源は,宗教的なものだ.選手たちは戦いの動機の純粋性を互いに信じ合い,戦う条件や手段の公示と潔白とを認め合い,審判の絶対性に対する共通の信仰を持つ.
だから,たとえ敗北したり失敗したとしても,その者を批判することはしません.それこそが「スポーツする者」を受け入れる姿勢であり,人間らしさの象徴です.

故に,この精神は,洋の東西を問わず「人間社会」に存在します.
ただ,名称がいろいろ異なります.
「勇者」とか「英雄」と言ったり,あるところでは「騎士道精神」,またあるところでは「武士道精神」,よく知られるところでは「スポーツマンシップ」,人間社会ではないところでは「サイヤ人の心意気」と呼ばれます.

スポーツの精神がない社会では,現実から逃げ回る「現実主義者(リアリスト)」が跋扈します.
危険を承知で立ち向かう気概(スポーツの精神)がなければ,現実に向き合うことはできません.




関連記事
井戸端スポーツ会議 part 43「小林秀雄が語るスポーツの精神」
井戸端スポーツ会議 part 20「プロレスはスポーツである」
井戸端スポーツ会議 part 39「日本のスポーツの定義に物申す」
大学生用:一人で運動しよう

2017年4月14日金曜日

井戸端スポーツ会議 part 43「小林秀雄が語るスポーツの精神」

先月,
大学生用:一人で運動しよう
という記事を書いて,「雪山の武甲山に登ったよ」という話をしました.
そこでは,
「単独登山は危険ではないか?」については,また別の機会に取り上げます.
ってことにしていましたので,ここでそれを取り上げます.
そう言えば 昨日の記事でも,少し前に発生した「雪崩遭難事件」のことにも触れましたので,この手の「危険が伴うレジャー・スポーツ」に関する話をしたいと思います.

本件について,マスメディアでも学術界でもいろいろ論じられていますが,今回はちょっと毛色の違う引用をしてみました.
小林秀雄 著『人生について』に掲載されている「スポーツ」からの引用です.

小林秀雄は「批評家」として知られる著名な作家,文芸評論家です.
小林秀雄(wikipedia)
保守思想家としての側面も持っているとされますが,私はまだイマイチぴんと来ません.
ただ,この人の著書や講演音声記録は以前から目・耳に入れているのですが,スルメのように噛めば噛むほど味わい深いので気に入っています.

そんな小林秀雄ですが,実は大のスポーツ好きだったという話はあまり目にしませんね.
本人もいろいろな評論文で言及しており,スキー,野球,ゴルフ,登山などを熱心に楽しんでいたようです.
ゴルフを嗜む小林秀雄
wikipediaより
上述した『人生について』で,小林は「危険が伴うレジャー・スポーツ」について論じていますので,それを引いてみます.
新聞を見ていると,近ごろ,山の遭難が非常に多い.まことに遺憾なことである,と世の識者は嘆いている.むろん,遺憾でないことはないのだろうが,貴い青春を,たかが山登りなぞというつまらぬ遊びで失うのは愚の骨頂だ,という意見には組することはできない.考えてみれば人生,なんのために死ぬのが愚であるか,わかったものではない.そんな高踏的な意見を,私は持っていない.ただ私は,スポーツが好きだから,スポーツの好きな人々のスポーツから来る幸不幸には,スポーツの精神をもって対したいというまでだ.
「スポーツの精神をもって対したい」というのが重要な視座です.
スポーツの精神をもって対すれば,登山における遭難事故に対する批判,例えば,「レスキュー隊を出すにも予算がかかるんだ」「危険な登山は自己中のやることで,社会にとっては迷惑でしかない」などという批評は的外れだということです.

では,スポーツの精神とはなんでしょうか?
小林秀雄はこう述べています.
この精神は,おそらくオリンピック以来少しも変わっていないと思う.オリンピックが語るとおり,スポーツの起源は,宗教的なものだ.選手たちは戦いの動機の純粋性を互いに信じ合い,戦う条件や手段の公示と潔白とを認め合い,審判の絶対性に対する共通の信仰を持つ.
これを私なりに解釈したのが■人間はスポーツする存在であると■スポーツと資本論になると思います.
詳細はそれらの記事に譲りますが,つまりは,ヒトが人間であるための精神性,その根源がスポーツであるということです.
「スポーツの精神」が人間を形作ることについても,小林はこう述べます.
野球のような,団体の競技にしても,スポーツの精神の力でたちまち理想的な団体が出来上がる.成員を結ぶものは理論でも主義でも党派心でもない.もっと人間的な信頼感が彼らを結ぶのだが,これは個人的な関係をこえたものでありながら,各人の個性の発揮を,少しも妨げていない.
スポーツが健全な人間社会を「保守」します.
スポーツにはそういう力があるのです.
どんな社会的条件の下に行われようと,スポーツというものが行われる以上,スポーツ固有の精神が現れざるを得ない,というところをはっきり知る方が良いと思う.(中略)われ知らず求めているものは,人間らしい道義ではあるまいか.
逆に言えば,スポーツをないがしろにする社会は,その社会自体が健全ではなくなる危険性も孕んでいるということです.これについては私の過去記事をどうぞ.本文末に関連記事を掲載しています.

ところで小林秀雄は,自身が雲取山の登山にて遭難しかけた(ほぼ遭難状態)ことがあると告白しています.しかも,登山をしようと思い立ったのも「遭難記事」を読んだのがきっかけとのこと.
山というものが,突然,不思議な魅力で,私をとらえてしまった.仲間三人と語らい,米,みそ,油紙(これは野宿用である)などをひそかに家から持出して,雲取山に出かけた.
ところが地図を読み間違え,必至になって歩くも力尽き,谷川の洞穴でビバーク(緊急野営)したそうです.
翌朝,水をのみのみ沢を下ったが,空腹でもう歩けぬというところで,偶然いわな釣りに出合った.(中略)いわな釣りに会わずに沢を下っていたら,むろん命はなかったのだが,そんな事でこりるどころか,これが,私の登山熱のきっかけを作った.だから,私は,自分の経験に照らして,近ごろの山の遭難記事は,いよいよ青年たちの登山熱を挑発するであろうと思っている.
素晴らしい洞察です.
登山に限らず,スポーツに存在している「魅力」とは,この「危険性」だからです.
危険性のないスポーツは,もはやスポーツとしての魅力はありません.
ケガをするかもしれない,命を落とすかもしれない,不健康になるかもしれない.不満を抱くことになるかもしれない.そうした自らの心身をチップとして賭けることで得られるスリルを味わうのがスポーツの本質と言っていいでしょう.
そして,その危険性を遊ぶことにヒトが人間であることを見出すことができるのであり,その危険性を遊べない,スポーツできない社会は健全とは言えないのです.

今はこう言っておきましょう.
社会が,スポーツする者に対し「スポーツの精神」をもって対峙できなければ,その社会に存在するヒトは「人間」ではなくなるのだと.
山好きが慎重に行動して,しかも事故に会うことに,だれが文句をつけられよう.私は山好きを少しもロマンチストなどと思っていない.私の考えで,リアリストというものをひと口で定義するなら,好きなものは文句なく好き,嫌いなものは文句なく嫌いだという信条の上に知恵を築いている人だ.利害打算に追われ,現実的観察なぞに追われている人々が,実はどんなに不安定な夢想家であるかを見抜くのは,難しいことではない.
そう! 私が言いたかったのも,これ!
なんとなく頭の中で形作られているんだけど,それがなかなか言葉にできない,ということについてバッチリ文章にしてくれている感動.

近頃の右翼・保守を自称する人には,自らを「リアリスト」であると説く者が多い.彼らにとっては耳が痛い話ではないかと思うんですが・・.
上述した山好きに対する小林秀雄の文章を,国家の「安全保障」とか「経済政策」などとして読み替えてみれば,スポーツの精神が国の在り方と密接に関係することが理解できるでしょう.

でも,先日記事にした■「笑ゥせぇるすまん」が始まったよで述べたようにに,こうした意見・見解を述べたところで,この現代においては「なんかよく分かんないけど,ムカつく」ということで一笑に付されるのではないかと考えられます.



関連記事
井戸端スポーツ会議 part 20「プロレスはスポーツである」
井戸端スポーツ会議 part 39「日本のスポーツの定義に物申す」
大学生用:一人で運動しよう
「笑ゥせぇるすまん」が始まったよ

2017年4月13日木曜日

こんな大学がある国家は万事休すだ

この2月の始めに,
こんな大学は万事休すだ
という記事を書きました.
森友学園問題の直前に書いた記事だったので,当該事件にタイムリーな内容を含んでいます.

その中からちょっとピックアップしてみると,
(2)よく理事が逮捕される
(3)自民党の息がかかっている
(25)理事長が真性のアホなのに,誰も諫言しない
(48)オープンキャンパスで講演料の安い芸能人がトークショーをしている
(57)学生を指導することを「学生をコントロールすること」と勘違いしている
あたりは森友学園問題との親和性を覚えます.

この記事以外にも「こんな大学は◯◯だ」というシリーズは過去にたくさん書いています.
で,それらで言いたいことをズバリ言えば,
「教育業界に見られる振る舞いは,この国の姿を写す影絵である」
ということ.

幼稚園,学校・大学,それらが社会から断絶して単体でおかしな事になっているわけがない.こうした教育界で見られるハチャメチャぶりは,世相や政治の影響を多分に受けているわけです.
私がブログ記事で「こんな大学は◯◯だ」と茶化していることの延長線上には,日本社会と政治経済の在り方があるのです.

気づいてくれている人もいるかと思いますが,「こんな大学は◯◯だ」のシリーズで述べていることを, “大学” ではなく “日本” と読み換えみてください.現代日本の問題点と同じであることが分かってくれると思います.
もちろん,教育界で先行している問題点もあります.「こんな大学は◯◯だ」では,日本の将来を見て取ることができるのです.

例えば「移民政策」.
これは既に教育界で問題になっていたことです.留学生による入学者数の水増しです.
コンビニとか居酒屋でバイトしている若い外国人を見ることが多くなったかと思います.
これは経営難の大学が学生数水増しのためにつれてきた場合が多いんです.
留学生をたくさん受け入れると,日本人学生の勉強や授業展開に問題が発生するのですが,そんなことより経営のためには「学生数」が大事という仕組みになっています.経営難は自己責任という状態なので.

言い訳はいくらでもききます.グローバル化,日本の大学による国際貢献,異文化交流.
でも,そこにある本質的理由は「お金がないから」です.

そんなロジックを了解してしまった社会は,「高度人材の受け入れ」という言い訳をまんまと聞き入れ,移民政策を許容するようになります.
バカなのは政治家ではありません.国民です.政治家は国民の要求を聞き入れているだけです.

移民政策と似ているものに,「外注」「アウトソーシング」があります.
今の大学および「学術学会」は,アウトソーシングの誘惑に負け,なんでも外部委託しようとします.
理由は時間がないからです.タイム・イズ・マネーとはよく言ったもので,お金がないからと学生募集に精を出し,さらには留学生まで連れてくるのですが,いかんせんそんなことしてると時間がなくなるし授業も困難になって疲労困憊です.
そんな時,いくつかの業務はお金を払ってでもアウトソーシングしようと言い出します.
貧乏暇無しとはよく言ったものです.

結果,自分たちで把握している事が少なくなってしまいますから,何かトラブルがあっても適切な対処ができません.
あたふたしている時,世間擦れした一人がこんなことを言います.
「いや,そもそもアウトソーシングなんだから,その外注先に責任をとってもらえばいいんですよ」
「あぁ,なるほどね」
そんなことを会議で話しているうちに,学生に対する責任感が教員・職員からどんどんなくなっていきます.

そうかと思えば,重要な作業や専門的技能が必要な仕事を外部委託せず,予算節約のために自分たち内部の者だけで済まそうとします.
その合言葉は「手作り」「家族のような」「オリジナル」です.

以前,学外スポーツ実習で専門的な技能が必要とされるものに参加したのですが.
その大学は予算節約のために極力内部教員でやろうとしているんです.
場合によっては学生の命に関わることですが,それを「我々には専門的技能がある」ってことにして,内部教員で済まそうとするわけです.まさにそこで言われたのが「手作り感覚」とか「家族のようなプログラム」でした.
冗談じゃない.学生に必要なのは家族ごっこではなく,まともな授業です.

同じことが政治経済にも言えます.結果として手作りになった,家族のようになったのであれば話は別ですが,最初から「手作りにしよう」「家族のような国にしよう」「日本のオリジナリティを出そう」などと目指すのは愚の骨頂.
なんのことはない.この源流をたどれば「アウトソーシングによる責任感の低下」に行き着きます.そう言えば,この国は国家として重大なものをアウトソーシングしていますよね.

ところで,これは先日の「高校生雪崩遭難事故」を想起させているわけではありません.
でも,それと似たようなことが今後発生するであろうことは予想に難くないのです.

大学もバカではありません.当然こうしたことは「予想」できるのですから,そもそもこのような危険性のあることに「取り組まない」という方略で乗り切ろうとします.

これは命にかかわる危険性に限った話ではありません.危険性というのを「労力」とか「投資」と言い換えてもいい.
それに取り組むことで,その危険性に見合った対価が得られないことについては,そもそも取り組まないようにしようという行動パターンになっていきます.

かくして大学で起こっている顕著な例が,キャリア教育は重視するが学術教育が手薄になるという現象.もっと言えば,「指導」や「コントロール」を重視し,「教育」や「陶冶」を軽視する傾向にあるわけです.

偉大な武闘家にして俳優であるブルース・リーは「Don't think. feel」と言いましたが,バカはこれを斜め読みして「考えるよりも行動しよう」とします.
「具体的な行動」によって指導しようとするのが現在の大学です.キャリア教育とか学外実習の充実などが典型ですね.

「具体的な行動の中でこそ教えられるものがある」っていう言葉には強い説得力がありますし,実際に良い利益も得られるのですが,これが前面に出てはいけません.
具体的な行動は具体的に行動できる立場の者がやるべきです.それ以外の者が具体的に行動してもじゃれ合いにしかなりません.
きちんと学生の思考力を鍛えて卒業させるのが大学の在るべき姿です.そして,国民の在るべき姿とは,まともな思考力をもった政治家を政界に出すことです.

「具体的な行動」ほど厄介なものはありません.百害あって一利だけ.1歩進んで99歩下がる活動です.どれだけ1歩を喜んでも,相対的に後退してればダメでしょう.一般的には朝三暮四と言います.

サヨクはもとより,最近はウヨクも「具体的な行動」を重視します.
昔はショットガン持って宿泊所に立て籠もるのが一般的でしたが,最近は拡声器持って日の丸をかかげ,怒りの声を挙げてトボトボ練り歩くのが流行りです.
どちらも反社会的行動であることに違いはありませんが,本人たちにとっては具体的に満足感の得られる具体的な行動なのでしょう.


他にも,いろいろと読み替えられる話があります.
なかにはそのまま読めるものもあります.
・「◯◯戦略会議」と銘打っているのに,話し合われているのがテクニカルなこと
・キャッチフレーズにこだわっている
・経営戦略が単年スパン
・「家族のような組織」を謳う
・派閥抗争する余裕がない
・大本営発表が捏造・歪曲される
・コストパフォーマンスを重視する
・運営陣が以前ドラッカーが好きだった.今はガバナンスを重視している


「危ない大学」を読み替えて「危ない日本」になる一例はこちら↓
・教員が学園バスを運転している(プロパーじゃない人がバスを運転して事故ってる)
・大学名を変更する・変更している(組織の名称がころころ変わる)
・(HPに)学生がジャンプしている写真がある(躍動感に突破口を見出そうとする)
・「学生目線」が経営方針(国民目線が政策方針)
・やたらと「在学生の声」をアップする(なにかと「国民の声」を大事にする)
・学部学科の連携を重視したがる(なにかと連立しようとする)
・学生の「理解」よりも「納得」を重視する(納得することが大事で,理解する気はない.最近は「安全よりも安心が大事」というバリエーションもある)
・学生の主体性を重視しているように見せてはいるが,放任だ(国民の主体性を重視しているように見せてはいるが,自己責任だ)
・心の底では「どうせ偏差値の低い学生に将来はない」と思っている(心の底では「働かざる者食うべからずを政治に反映させたい」と思っている)
・いわゆる「施設課」に相当する部署を廃止した(いわゆる「インフラ」に相当する予算を削った)
・高校訪問を重視しているくせに,イマイチ本腰を入れていない(経済の立て直しを重視しているくせに,イマイチ本腰を入れていない)
・授業評価アンケートで人事が決まる(政治家も労働者も人気度で決まる)
・授業評価アンケートで高得点として発表されるのが体育実技(オリンピックと言えば反対が少ない)
・かの国からの留学生が多い(結局,中国・韓国・東南アジアからの移民が多い)
・図書館を縮小することを検討している(報道の自由度が低下)
・文部科学省からの通達と,その抜け道に詳しい(法令の間隙を突かなきゃ経営できない)
・理事長が真性のアホなのに,誰も諫言しない(国のトップが真性のアホなのに,誰も諫言しない)


参照記事


関連記事
お暇でしたらこちらもどうぞ.
「学校」が誕生した理由
「問題解決能力」を高めることの危険性
例の教育評論家のこと


2017年4月11日火曜日

代わりが誰かいるために

前回の記事では「じゃあ,代わりは誰かいるのか?」について,そもそも代わりが誰もいないことこそ絶望的な問題であり,むしろ,「代わりが誰もいない」ことを無自覚的に望んでいるウヨク的世論の絶望性を述べました.
彼らは誰か代わりが欲しいのではなく,代わりが誰もいない状況が嬉しいのです.お花畑ですね.
まだ言ってる「じゃあ,代わりは誰かいるのか?」

しかし,何度も繰り返しますが「代わりが誰もいない」ことは一つの国家として極めて恥ずかしいことです.ここにその国の民度が現れます.

「代わりは誰かいるのか?」という態度それ自体が問題なのですから,そうならないように気をつける必要があります.

「代わりは誰かいるのか?」
これは「英雄待望」のメンタリティです.
そんな人に限って「草莽崛起(身分を問わず在野の民が決起すること)」とか言ってたりします.矛盾です.

いえ,草莽崛起を批判したいわけではありません.
ちゃんと草莽崛起するべきだと思います.

そもそも,草莽崛起とは何でしょう? 
これもちゃんと意味を調べておいたほうが良いです.

「草莽崛起」の発言者として有名なのが,幕末のグレートティーチャー・吉田松陰です.
有名人なので詳細は割愛します.知らない人はウィキペディアを御一読ください.
吉田松陰(wikipedia)

そのウィキペディアに「草莽崛起」が紹介されています.
吉田松陰・草莽崛起(wikipedia)
吉田松陰は初出の手紙でこう述べています.
「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし.草莽崛起の人を望む外頼なし」
つまり,「今の政治家たちはバカ過ぎるから期待できない.ここは庶民が立ち上がることに期待したい」という意味です.
まさに現代社会にも当てはまりますね.

気をつけなければいけないのは,この着想は「革命思想」につながることです.
しかし,吉田松陰は「一君万民論(天皇のもとに万民は平等)」も唱えており,それなりに賢い人が聞けば危険性はありません.
一君万民論(wikipedia)
一君万民の思想のもと,草莽崛起するということです.これであれば筋が通ります.

そう考えると,草莽崛起と言いながら安◯首相を応援するっていうのが意味不明であることが分かると思います.
そんなこと言ってると,「民主主義国家であり,選挙で政治家を選ぶという現代日本においては,特定の政治家を皆で組織的に応援することこそが草莽崛起と言えないだろうか?」という趣旨の反論が返ってきそうです.
微笑ましい話ですね.

私は「政治家を応援すること」それ自体を批判したいわけではありません.
私が批判しているのは「代わりは誰かいるのか?」という「態度」です.

同時代,似たようことを福沢諭吉が唱えています.
「一身独立して一国独立する」
4年前にそんなことを記事にしていました.

福沢はこう言います.
「日本にはただ政府ありて未だ国民あらずと言うも可なり.(中略)道理あるものはこれに交わり,道理なきものはこれを打ち払わんのみ.一身独立して一国独立するとはこの事なり」
日本が一国としての独立を保つためには,日本人が「お上(政治家)」に付き従う態度から解き放たれ,「国民」として一身独立することが必要条件だと説いています.

つまり,売国政策を打ち出すような道理のない政治家が現れたら,これを打ち払わんのみ.
「まだ結果が出ていないけど,そのうち巻き返せる」
「他の政治家だったら,もっと酷いことになっていた」
「今はまだアメ◯カの圧力があるから仕方がない」
などと言っていてはダメなんです.
これらは完全な偶像崇拝であり,まともな政治思考ではありません.

分かり易い例がこれです.
「日本の首相がこの時期にア◯リカに逆らったら,潰されるのがオチだ」
潰されたら良いじゃないですか.潰されればいい.
保身のために,うまく波乗りしてやろうとするから逆らえないのです.結果,そんな政治家はノリノリで国体を破壊しようとする.
国がボロボロになって,アメ◯カからの圧力が「圧力」ですらなくなるその時まで.

「でも,せっかく首相になってくれたのに,潰されたらお終いじゃないか」そんなこと言う人に限って,「あとに続くを信ず」という特攻隊員の言葉を有難がったりします.いい加減ですね.
正しいことのために自らの身を捧げるのが政治家の務めです.次の首相も同じように逆らえばいいのです.
そうやって何度も潰されればいい.
でもそれが本当意味での「国家の意思表示」となります.

そのためには,代わりは誰でもいい状態にしておかなければいけません.
そういう政治家をコンスタントに出すためには,国民が一身独立し,多角的に物事を考える力が必要だと福沢諭吉は説いているのだと思います.

それは一朝一夕にはできないかもしれない.でも,そこを目指さなければ成熟した政治,独立国家としての政治は望めないでしょう.
「代わりは誰かいるのか」という態度がダメである理由がここにあります.


関連記事

2017年4月10日月曜日

まだ言ってる「じゃあ,代わりは誰かいるのか?」

もう2年以上前になりますが,こんな記事を書きました.
「じゃあ,代わりは誰かいるのか?」の愚

2年以上経つのに,一向に状況は変わりません.
2年って,あっという間に過ぎるものですね.

今回もう一度,本件を取り上げてみたいと思いました.
その前に,上記の記事ではどんなことを書いていたのか.
長いですが,言いたいことが変わってるわけじゃないので,その趣旨を引用します.
『ニコニコ動画』とかで政治系の動画を見ておりますと,たまに目にするコメントが,
「じゃあ,代わりは誰かいるのか?」
「じゃあ,誰だったらいいんですか?」
「代わりの人が誰なのか言えないのに,批判だけなら楽ですよ」
なんていうものです.
Yahooニュースのコメントでもたまに見ることがあります.
こういうのって,今ならほぼ100%現総理大臣・安倍晋三についてのやり取りにおけるものなんですけど.
(中略)
代わりは誰かいるのか?
えぇ,いるでしょ山のように.
同じ党(現時点では自民党)にいっぱいいるじゃないですか.誰に代わっても大丈夫なように党を組んでいるわけで,そのための「政党」なんですから.
「いや!ア◯ちゃんしかいない!他の奴ではダメだ!」
って叫ぶ人もいるかもしれませんが・・,そういう人に聞きたいのは,
では,現総理大臣が事故や病気,トラブルなどで急死したり政治家をやれない状態になったらどうするんですか?
この国は終るのでしょうか?
そんなことは無いですよ.次を担当する総理大臣が粛々と引き継ぐだけです.
良きにつけ悪しきにつけ,この国の政治を民主主義で執り行っている以上,一般国民の意見が時の政治に反映されることになります.
つまり,現政権が行っている政治とは,現在の一般国民の多数派の意見が取り入れられているということです.
もっと言うなら,その時の一般国民の意見を集約して具現化する装置が政権ということになります.
であるならば,時の政権がやろうとしていることについて,一般国民は積極的にイチャモンをつけなければ民主主義が成り立たないのです.
もし時の政権に対して随時国民がイチャモンをつけて修正改善を要求しなければ,それは王様を多数決で決めているようなものになってしまいます.
皆で王様を決めたら,あとはその王様の意見に従おう,と,そういうことになります.
(中略)
「私はこの人を信じる」とか「きっと何か裏があってのこと」など妙な深読みをして政権や政治家を評価してはいけません.
彼ら政治家に「国民は,こういう政策を良しとしている」と思わせてしまうことになるからです.国民自身にとっても「あぁ,俺達ってこんな政策を望んでるのかぁ〜」と自己暗示めいたものになりかねません.
故に,トンデモ政策にはその都度しっかりと批判する必要があるのです.
その後もこの「じゃあ,代わりは誰かいるのか?」は幅を利かせています.

本件について,いくつか言い足したいことがありますので,以下に示します.

まず,「代わりは誰かいるのか?」という問いには重大な問題があります.
というのも,きっと彼らは「代わりの誰か」を示したところで,それを受け入れようとしない,という点です.
こういうのを一般的に「お花畑」と言います.
「代わりは誰かいるのか」と言ってるお花畑に限って,相手に向かって「お前らサヨクはお花畑だ」と言い放つことが多い.不思議ですね.

はっきり言えば,「代わりは誰でもいい状態にしておくこと」が重要なのです.
それが真っ当な組織やチーム,ましてや「政治」の在り方でしょう.
担当者が事故やトラブルに遭遇した時,すぐさまバックアップがとれる状態にあることが,強靭なチームであることを意味します.

隊長が殺されたらチリヂリになる軍隊や,監督が病欠したら士気がダダ下がりになる野球チームが「強い」とは言えません.
しかし,得てしてそういう「誰か一人に頼ったチーム」という存在にシンパシーを感じる人は多いものです.
ちなみにこれは,特にスポーツ経験が浅く,競技力向上というものに正面から向き合ったことがない人に顕著なように思います.あくまで私の皮膚感覚ですが.

一般的に,強力なパフォーマンスを発揮するチームとは,一人ひとりが自己の役割を認識していて,欠員が出たとしても,それをどのようにカバーすれば良いか無意識的にやってのけます.まさに一つの個体のように振る舞うのです.

それはともかく,誰か一人に事故があれば機能不全に陥る組織や国がマトモなわけがない.
結論として,今の我が国は極めてマトモじゃない,ということを彼ら自身がゲロっているに等しい.
故に「お花畑」.

次に,そもそも政治家は自らの進退でしか責任がとれないのです.
「責任者」というのは自らの進退で責任をとるものです.ましてや民主主義国における政治家ともなれば,亡国・売国の結果を産んだ責任はそれでしか取れません.
それを「他に誰がいるんだ」などと甘やかしていたら,日本の政治が破綻します.

まるで過保護な親に対する忠告のようですね.
暴力・窃盗事件を起こした我が子に「この子は本当はいい子なんだ.だからちょっとくらい見逃してくれ.勉強はクラスでトップだし,部活でも活躍しているんだ!他にも似たようなことをしている生徒はいる!」などという擁護が,どれほど不道徳なのかは論を俟たないでしょう.
信者の人達にはツラいかもしれませんが,ここで贔屓にしている政治家を甘やかすと,この国のためにはなりません.

こんなこと言ってると「じゃあ蓮舫や志位とかに政権を任せるのか!」とか怒ってきそうなんですが.
そんな話ではありません.

政治家は進退でしか責任がとれないのだから,「ダメなものはダメ」で責任をとらせるのが筋ってもんだろ,という話です.
蓮舫や志位にも同じことを適用すればいいだけのこと.国益に適う政策を進め,結果を出す政治家を残すよう研鑽するしかありません.そうやって政治の質を上げることが先決のように思います.

もっと言えば,「代わりは誰かいるのか」って言ってる時点で,彼ら自身も本当は「ア◯首相」ではダメだということを感じ取っているわけでしょ?
結果を見れば,民主党時代よりも酷い有様です.
だから「代わりは誰かいるのか」という言葉となって出てきてしまう.まともに物事を考えられなくなっているんですね.

「日本の周辺がきな臭くなっている今,そんな悠長なことを言ってられない」という人もいるかもしれません.
ですが私からすれば.5年近くまともに政治ができていない政権のままでいる方が,よっぽど危機だと思います.

何事も,始めるのに遅すぎることはありません.あの首相を早く引きずり下ろすか,引きずり下ろすような圧力をかけるべきです.本当に遅すぎてからでは遅いのです.

残念ですが,このままだとあの首相は国賊のラインを越えます.本人にその自覚はないと思います.
たぶん歴史の教科書に載ります.そして40年後,その扱いについて教科書検定でもめると思います.

2017年4月5日水曜日

「笑ゥせぇるすまん」が始まったよ

昨日から動画配信サイトであるHuluでも『笑ゥせぇるすまんNEW』が配信され始めました.
実は以前からずっと楽しみにしていたんです,このアニメ.
笑ゥせぇるすまん(wikipedia)

昔のテレビアニメ版は,私も子供の頃にも見ていました.たしか「ブロードキャスター」という少し深夜系番組の途中で流されていたものです.
密かなファンでした.

この『笑ゥせぇるすまん』ですが,見る人を選ぶ作品だと思います.
それだけにちょっと気にしておきたいのが,今の日本社会でこれを放送しても評判は芳しくないのではないか?ということ.

さしずめ,「時代が追いついた」のではなく,「時代を追い越した」作品.
いや,違うな.「時代を追い越しすぎて,時代を周回遅れにしている作品」だとも言えます.
だからきっと,そのうちこんな評論やコメントが出るはず.「笑ゥせぇるすまんで描かれていることに懐かしさを感じる」とかなんとか.
いやいや,お前が周回遅れなだけですから,って.

試しに,機会があったら原作や昔のアニメ版を見てみてください.
まさに「予言」とも言える内容に,「これってこの『現代』のことじゃねえか!」って驚愕しますよ.

「笑ゥせぇるすまん」は,現代人が特有的に持っている俗物根性や醜悪性を,ほんのちょっとくすぐってみせ,それを盛りに盛って悲劇としている点が面白いところです.
今回の「笑ゥせぇるすまん」のオープニングテーマは「Don't」(作詞作曲:NakamuraEmi)という曲だそうですが,その歌詞が秀逸で,まさに「笑ゥせぇるすまん」の内容そのもの.
ほろ酔いくらいがちょうどいいのに,どんどんカクテル美味しいお酒
ナチュラルくらいがちょうどいいのに,どんどん濃くなる厚化粧
手に入れたい 満たされたい 気持ちがいい 一歩折れたらドツボ
昔話で教わった 欲張りはあとで懲らしめられる
ちょっと待ってよ天狗になってない? ダサい大人ここでおしまい
おいおい,子供がお前を見てるぞ
スポットライトもいいけど,木漏れ日は最高だろ
ところが私が感じるところでは,「笑ゥせぇるすまん」で取り上げるこの「現代人の俗物根性や醜悪性」というのは,実はこの現代においては「俗物」とも「醜悪」とも思われていないのではないか?という点です.
そうなると,喪黒福造が弄んでいることの一体何が「面白い」のか,視聴者に伝わらない時代に突入しているのではないかという危惧があるわけです.
いいんですけどね,分かる人が分かっていれば.

そう言えば,喪黒福造が「ドーン!!」してる人は,まさに私のブログで取り上げている「東京人」ですね.
東京で東京人を「ドーン!!」って.

東京人については,過去記事をどうぞ.
じゃあ,どれが一番いいのか?
俗物が俗物らしくしちゃダメ
あと,その追加記事である■俗物が俗物から遠ざかるにはで述べたように,昨今は俗物が俗物であることを恥じなくなったのではないか?ということに触れました.

上述した記事で糾弾しているのは,そうした昨今の俗物たちの “拠り所” が「保守思想」であり,「天皇」であり,「国家」ではないかという話です.最近では,「天皇」のバリエーションとして「教育勅語」というのも加わりました.
彼らは保守と言いつつ保守ではない.たんなる俗物です.

俗物は,「ちょうど良い加減」とか「全体における調和」を大事にしません.
すぐ「一番」とか「ランキング」とか「コスパ」とかを気にします.
「神道を大事にするのが日本人」とか言いつつ明治神宮とか靖国神社には通うくせに,住んでるアパートの脇にある祠には手を合わせないのが俗物保守です.

そんな俗物保守たちの多く見られる事象に焦点を当てた作品が「笑ゥせぇるすまん」なのです.
「笑ゥせぇるすまん」を見れば,エセ保守(もとい,俗物)の生態とその末路が読み取れます.


関連記事
じゃあ,どれが一番いいのか?
俗物が俗物らしくしちゃダメ
じゃあ,どのラーメンが一番旨いのか?
東京人と中国人はよく似ている
「日本人」という居直り
やっぱり東京を諦める

2017年4月4日火曜日

女子大に「体は男性、心は女性」の学生を受け入れられるか?

こんなネット記事がありました.
女子大は「体は男性、心は女性」の学生を受け入れるべき?(Yahoo!意識調査)

私は「大学次第」だと思っています.
別にどっちでもいいです.
大学がやりたい教育方針と,在学生との相互関係のなかで決めればいい.

ちなみに,世論の意識調査としては,
受け入れるべき:22%
受け入れる必要はない:61%
わからない/どちらとも言えない:17%
(2017年4月4日現在)
となっています.

まあ,この手の話,つまり性的マイノリティにかこつけた「男女平等はどこまで進めるべきか?」とか「男女差別の象徴的事象」に関する話は,あの手この手で現れてきますが,一つの指標としては「トイレを男女共同にするべきか?」「女性専用車両を取りやめるべきか?」といったところに行き着くかと思います.

女子トイレに男性の姿形をした人が入れる社会になった時,女子大にも男性の姿形をした人が気兼ねなく入れるようになるでしょう.

「大学とトイレを一緒にはできない」と言い出す人もいるかもしれませんが,いやいや,両者は基本的には同じことです.

実際,男子トイレに女性(特に清掃員)は入ってくるし,女性専用車両以外には女性も乗れます.女性はメンズ服を簡単に着れますが,男性がレディース服を着るのは容易ではありません.
男子大が早々に廃れ,女子大が根強く残る理由はここにあると思われます.

この問題の本質は,
「内面とは外面のことである」
「男性は女性の領域には入れないが,女性は男性の領域に入れる」
という,ちょっと哲学な話になっていくのですが・・・.

そんな難しい話は抜きして,ひとまず女性という存在はそういうものだと捉えておきましょう.
どうしても気になる人は,
 
を一読することをオススメします.

そもそもこれに明瞭な答えはありませんし,皆で気合を入れて論じあったところで,社会的に良い考えが生まれるわけでもない.
大局的にみれば,こんなことにグチグチ言う方がおかしいんです.

この際,女子大の存在意義を見直したほうがいいのでは?
などと知ったような口を聞く人もいますが,事はそんなに大げさな話ではありません.
女子だけの環境で学びたいという要望があり,女子だけで学ばせたほうが学習が円滑に進むという経験則と現実がある以上,この上なにを論じる必要がありましょうか.

私も女子大で授業をやった経験もありますし,同性のみ(女子だけ/男子だけ)のクラスや講義を受け持ったこともあります.
全てが全てとは言いません.でも,やっぱり同性のみで行なう授業の良さというのはあるものです.

「ひらめき」とか「共感」といったものに違いが出てくるんだと思うんです.特にコミュニケーションを伴う場合,そこで作り出される学習空間には,同性同士ならではの「我々」という意識が強くなる.
これは,異性を交えた授業を否定しているわけでも,同性同士だと偏った学びになるということを意味するわけでもありません.
そういった学習空間による学びを活用しない手はないという話です.

こんなこと言っていると,「どうせ社会に出たら異性との競合になるのだから」などという浅薄なコメントをする人もいます.
いつも思うんですが,こういう人って本当に社会に出た経験があるのでしょうか?
社会人になればこそ,余計に同性としか向き合わない,という状況に置かれている職場や仕事は多いものです.

いや,そんな話をしているわけではないのです.
例えば,人は効率よく記憶系の勉強をしようと思ったら,一人で机に向かい,心静かにノートを開くでしょう.
これに対し,「実際に知識を使う場面は机とノートに向いている場面とは限らない.人と向き合い,肉体作業をしている時もあるのだから,そんな勉強に意味はない」とでも言うのでしょうか.
まあ,そんなことを言う人もいますけど,私がここで言いたいのは,勉強をするという行為において,どの手段が最も優れているか?などという話はできないのであり,学習させよう/しようとする事に応じて最適で特徴的な手段は存在するということです.
難しそうに述べてしまいましたが,なんのことはない.目的に応じて最適な手段があり,手段によって特徴的な効果が現れるのだから,それを考慮して進めましょう,というだけのこと.

そもそも,女子大の学生にしたって,向き合うのは男子教員や男子職員,門を出れば男性がいる一般社会なわけで,女子大の内部というのは(主に男性が妄想するような)そこまで異質な空間ではありません(少なくとも私の感覚では).
強いて言えば休み時間中に学生でごった返す廊下を歩くと香水の匂いがきついとか,ふいに体育館のドアを開けたら,そこで学生が着替えてたという場面に出くわすくらいでしょうか.なお,こういうのに遭遇しても意外と嬉しくありません.

あと,よく耳にする「女の子をもつ保護者(特にパパ)が,女子大なら安心して通わせられる」という話ですが・・・.なにに安心しているのか知りませんけど,「女子大の方が男性関係が激しい」ということは我々の業界では常識です.抑圧されたものへの反動でしょうかね.歳頃の娘をもつパパは,女子大への進学には気をつけましょう.
「女子大に通うと男性と向き合う機会が減る」というのは普通に考えても有り得ません.

話が脱線しているので戻します.
さて,「女子大で性的マイノリティを受け入れられるかどうか」の話ですが.
今のところ,姿形を女性として振る舞える人のみ受け入れられるというところでしょう.もちろん,「体は女性,心は男性」の人は女子大に入れるということを意味します.別にいいんじゃないですか,それで.
判断の指標としては,冒頭に述べたようにトイレと一緒です.

これは「女子大はトイレみたいなものだ」と言っているに等しいわけですが,別に侮蔑しているわけではありません.
むしろ,女性を「姿形」を基準としてフィルタリングしていることは,この社会の常識基準を確認するために存在してくれていると言っても過言ではありません.
姿形というのは大事ですから.

これを「保守的だ」と捉えるか,「新しい潮流に逆らうものだ」捉えるか.

私から一つ言えることは,女子トイレに男性の姿形をした人が入るのを許容できない社会において,これと類似したことを女子大でやれば,この国の「教育」に壊滅的ダメージを与えるであろうということです.
これは,べらぼうな話ではありません.「そのうち慣れる」などと片付けてはいけない話です.

で,結局「体は男性,心は女性」の人はどうすればいいのか?
共学にいきましょう.

冒頭に述べたように,なんだかんだでその大学の教育理念次第なんですけど,女子大って「女性の姿形をしている」ことが(当の大学教員たちも無自覚ですが)学びの重要な前提になっているので,「男性の姿形」をしている人がわざわざ女子大に通う必要はないと思いますよ.
それこそ,女子トイレでなければ用をたせない男性はいないので.

2017年3月30日木曜日

大学生用:一人で運動しよう

新学期直前ですね.
「大学生になったら・・」ということで,私がオススメする学生生活のコツを紹介するシリーズの第5弾です.
大学生活を充実させる上での参考にしてください.
(大学生でなくても参考にできます)

過去記事でも何度か「運動しましょう」という話をしてきました.
例えば,ファッションにこだわりたくない大学生は運動しましょう.運動していれば薄着でいられるし,体型が良くなれば何を着ても似合います.
(■大学生用:おしゃれしない人のためのオススメの服装

食事を安上がりにしたい大学生は運動しましょう.食事を「質」で考えるとドツボにはまります.栄養バランスは「量」でカバーする.余った「量」は運動で消費するのです.
(■大学生用:生活費を勉強に向けるための食事法

さて,そんな「運動」ですが,大学生ともなれば一人で運動することをオススメします.
もちろん,サークルに入って運動・スポーツすることもいいでしょう.テニスやフットサルにバスケ,最近はダンスなんかも人気が出ているようですが,私は「一人で運動」を推奨します.
スポーツに限らず,サークルやクラブ活動をしながらでも構いません.月に何回か定期的に続けられる運動をたしなむのです.

そのうち,十中八九,サークル活動の方が面倒くさくなってきます.友人関係もあるでしょうから一概には言えませんけど,しっくりこなければさっさと辞めるに限ります.

これは私の周りの知人・友人を中心としたサンプリングに限ったことですが,「一人で運動」することを好む,そしてそれを習慣化している人に「まともな人」は多いものです.「有能な人」とか「高所得者」とかって話ではありません.「まともな人」です.
これに首肯してくれる人も多いのではないでしょうか.

ただ,それにひっかけた書籍もたくさん販売されています↓
      

暇だったら読んでみてください.私はオススメしませんが・・.
(比較的まじめな本は,『脳を鍛えるには運動しかない』です.学術研究を基にしていますので,一般の方にはまじめ過ぎてつまらないかもしれません)

とは言え,これらはまったくのデタラメだということでもないんです.
理由はいろいろ妄想できますが,今のところ確固たる理屈は描けません.そのうち,何かの機会に統計調査してみたいですね.

上で紹介した書籍は筋トレやランニングが中心です.
最近は筋トレやランニングがブームなので,それに乗っかってる側面があります.
でも,運動であれば筋トレやランニングでなくても構わないんです.何でもいいんですよ.あとは懐との相談になります.

以下,一人でできる運動としてオススメのもの,そしてコツを取り上げます.
やっぱりオールシーズンで取り組めるものがいいですね.

(1)筋トレ,ランニング
筋トレやランニングでなくても良いとは言っても,やっぱりこれらは「一人で運動」するのが非常に容易な手段です.
その手軽さゆえに,実施者も多いでしょう.
ですがその反面,ドロップアウトする人が多いのもまた確か.

理由は「つまらない」からです.
あと,期待したように痩せない,筋肉がつかない,体型が改善しない.といった不満があったりしますね.
そして「あぁ,こんなにも意思が弱いから私はダメなんだ」と落ち込む人もいます.

「一人で運動」に限らず,運動・スポーツに取り組む上で重要なことを言っておきます.
目標設定をしてはいけません.◯◯のために運動する,という理由付けもダメ.
それこそ上で紹介した書籍群や,一般的な体力トレーニング・テキストには「目標設定しましょう!」「目標設定が成功の秘訣」と述べられることが多いわけですが,私はこれには反対です.

運動することそのものを楽しめることが重要です.そのためには,とにかく「私自身が楽しい運動とは何か?」を模索し続けることが大事です.
このためには,自分以外の者の嗜好や行動パターンなどに影響されてはなりません.徹底して自分が気に入ったことをする必要がある.
それ故,「一人で運動」することが重要なのです.

筋トレやランニングが気に入ったのであれば続けてください.
そうでなければ別のものを探せばいいのです.

ちなみに,私は以前,週3回の筋トレをしていてベンチプレスも100kgを挙げていましたが,今はやっていません.理由は,楽しく筋トレできる環境ではなくなったからです.以前は,日本屈指の充実したトレーニング・ルームを無料で使える状態にあったのですが,何年か前からそうではなくなりました.そうなると自然と足は遠のきます.それでいいと思っています.

筋トレをやらなくなってから後,ランニングをするようになりました.理由は,引っ越したことによりランニングが楽しくできる環境になったからです.川沿いや河川敷が充実したところなんです.以前に住んでいたところでは,住宅街ばかりでランニングの楽しみが見出だせなかったので.

自分が今いる環境下で楽しめることをすればいいと思います.
何か一つのことにこだわる必要はありません.こだわり始めると運動・スポーツの価値を享受できなくなります.


(2)自転車
私が学生の頃にハマっていた運動です.たまに紀伊半島1周とかしていました.
自転車の良いところは,スピードが出るのでランニングより爽快感があります.
荷物を運搬できるようにすれば,宿泊を伴うツーリングに出られます.私は寝袋と銀マットだけ持って旅に出ていました.

頑張って性能の良いスポルティーフやクロスバイクといった型の自転車を用意し,なんなら通学にも使ってしまえばいいんです.
スポルティーフというのは,こういう自転車です↓
写真:Amazonより
自転車の弱点としては,アップダウンのある地形に弱いのと,自動車の通行量が少なく整備された道でなければ楽しくないことです.関東に来てから,私は自動車に乗ろうとは思えません.とてもじゃないですが,こんなゴミゴミしたところでの自転車は苦行になります.

筋トレやランニングと同様,自転車で何かしようとしてはいけません.目標を持って取り組む必要はない.
ただ自転車を漕ぐことが楽しければそれでいいんです.つまらないと思ったらやめましょう.
だから,最初は安い自転車で構いません.ママチャリより性能がよければOK.

私見としては,学生の頃はそんなに高い自転車を用意する必要はないと思います.自転車の値段はピンキリですが,ピンのものは平気で10万円を超えてきます.でも,学生が取り組める範疇のなかでは性能差は現れないですよ.
ただ,経験から言えば気にしておいたほうがいいのはギアチェンジ機構とタイヤ周りの信頼性です.ここで値段に差がついてきますので,ここんとこは店員と相談して決めてください.

そう言えば,今年卒業した学生の一人にも,この自転車にハマった者がいました.「せっかくだから何か運動したいんですけど」って言ってたので,私が学生の時は自転車をやっていたという話をしたんです.
1年生の頃は白くて丸っこい奴だったのですが,4年になったら見違えるような褐色の逞しい体になっていました.聞くところによると,トライアスロンに出場するようになったそうです.


(3)水泳
近くにプールがないとできません.お金もかかるし.
そんなこんなで私は取り組んだことはないのですが,良い環境が得られたらぜひともやりたい運動です.
やっぱり「水の中」という非日常は魅力的ですね.

以前は「遠泳」の実習があったので,嫌でも教員として海で泳いでいましたが,自分のペースで泳ぎたいものです.

そう言えば,シュノーケリングとかスキューバダイビングに誘われています.なかなか予定と暇が合わないけど.
よほど裕福な学生じゃないとできないだろうし,季節も限定されますが,こういう形で「泳ぐ」のも楽しいです.


(4)登山
東日本の大学に通っている学生のアドバンテージがこれです.
私も関東に来てから始めました.
東日本・関東は登山のための山が豊富ですし,アクセスも容易.しかも登山道や設備が充実しています.
例えば東京には「高尾山」という人気スポットがあるそうですが,私も言ってみたことがあります.山頂はどこかなぁって思ってたら,既に山頂だったというほど登り甲斐の無い山もあったりします.あれならスーツでも登れる.

登り甲斐のある山もたくさんあります.しかも駅から近いものが多く,バラエティに富んでいます.こういうのは西日本にはあまりありません.六甲山くらいでしょうか?

実は今日も登ってきました.今回は埼玉県・秩父にある武甲山です.
雪が積もっていましたが,特に危険なところもなく楽しく登れました.
横瀬駅前より 奥に見えるのが武甲山
武甲山山頂
山頂からの眺め
山頂にある御嶽神社
「一人で運動」ですから単独登山になるわけですが,簡単な山から慣れていけば楽しめるようになります.
私は仕事柄,危険なことは出来ないのでテント泊を我慢しているのですが,いつの日かやってやろうと企んでいるところです.
「単独登山は危険ではないか?」については,また別の機会に取り上げます.

でも,これが結構大事なことでして,「一人で運動」をしていると,「命とは何か?」「人間とは何か?」を考えるようになります.いやホント,マジで.

山を登りながら,もしくは自転車を漕ぎながら,「なぜ私はこんなことしてるんだろう」と考えることはしょっちゅうあります.
自問自答しながら時間を過ごす,それが大学生の時に必要な時間なのかもしれません.


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2017年3月27日月曜日

【高知県】存在があまりに普通だったので今さら名物になったのが不思議でならないベスト6

故郷である高知県ネタです.

最近(といっても,だいぶ経っているものもあるが)になって,高知県名物として名乗りを上げはじめたものがあります.
それは高知県民にとっては極々普通のものだったのですが,何かの拍子にメディアが取り上げたことが発端となり,あれよあれよという間に知れ渡ったものです.

それをまだ「知らない」という人は,この機会にご記憶ください.
「最も中央から遠い地域 “高知” 」に来る際の参考にしてもらえればと思います.

(1)後免
「ごめん」と呼びます.
そのユニークな名称が有名になった理由です.

駅が取り上げられることが多いですね.
後免駅
ウィキペディアから画像を持ってきました↓
駅舎


マスコットキャラクターまで作られるようになりました.
デザインしたのは「やなせたかし」氏とのことです.


都市部の人からすれば小さい駅ではありますが,後免それ自体は小さな街ではなく,高知県下としては大きく,よく知られた街です.特急も止まります.

なお,名前がユニークなものとして関連するのは,徳島県所有ではありますが「大歩危・小歩危」があります.
「おおぼけ,こぼけ」と読みます.
こちらは,高知県と徳島県の県境にある秘境の名前です.

あと,意外とびっくりされるのが,後免がある市の名前,「南国(なんごく)」です.
「高知県 南国市 後免」というセットで覚えておいてください.


(2)ミレー
先日,高知空港で大々的に売られていたのに気がついて驚いたんです.
「ミレー」と言われてビスケットを思い浮かべる人は高知県民くらいのものでしょう.
普通の人は,アウトドア・ブランド「MILLET」か,画家のジャン=フランソワ・ミレーではないでしょうか.

高知県民にとってお菓子といえば「野村のミレー」です.
野村煎豆加工店
これです↓
写真:野村煎豆加工店HPより
子供の頃は,こればっかり食べていました.
決して絶品グルメではありません.でも,「私は食べなければいけない・・・」という使命感に似た何かを感じるビスケットです.

もともと明治製菓が作っていたものだそうで,今ではその「ビスケット生地」を使い,全国でも数少ない加工製造業者が使用して販売しているんだそうですよ.
ミレービスケット(wikipedia)

ちなみに,「野村のミレー」にはマスコットキャラクターがありまして.
これまた「やなせたかし」氏がデザインしたものです.
写真:野村煎豆加工店HPより
そんなに驚くほど美味しくはないんですけど,興味があったらお買い求めください.
なお,私は使命感に似た何かを感じて食べています.


(3)文旦
ブンタンと読みます.
一般的には「ザボン」という柑橘類だそうです.
これです↓
写真:Wikipediaより
とても大きく,皮が分厚いのが特徴で,これまた決して美味しいものではありません.
でも,使命感に似た何かを感じる柑橘類でして,冬になったらこれを食べなければいけないと思います.
十年くらい前から全国展開するようになったそうですね.
それ以前,大学の友人に文旦の話をしたら「それ何?」って感じで,これが全国区どころか四国でも珍しいものだということを知りませんでした.

さて,その味はと言いますと,とてもさっぱりしていて清々しいのですが,皮が厚くてとても食べにくいので,素人にはオススメできません.
文旦の皮をどうやってむくのか? それは家々によって異なります.

ゆるキャラにもなっています.「ぶんちゃん」っていうそうです.
なお,やなせたかし氏のデザインではありません.
写真:ゆるキャラグランプリHPより
高知県の柑橘類といえば「ゆず」や「小夏」が大変有名ですが,興味があったらこの文旦にも手を出してみてください.
え? ゆずも小夏も知らない?
まあ,どれも美味しい果物です.


(4)うつぼのタタキ
まだまだ知名度は低いのですが,そのうち大ブレークするであろう料理です.
「うつぼを食べる」と聞いて驚く人は多いのですが,古来,高知県下では極めて普通に食されています.
むしろ,あの「カツオのたたき」よりも好まれています.「カツオのたたき」は県外の人に食べさせているものです.高知県民は「うつぼのタタキ」を食べます.
よく会食の場において「皿鉢料理」として出て来るものですが,私も子供の頃はこればっかり食べていました.

ちなみに,ウツボはこちら↓
まるまる太って美味しそうですね.
写真:wikipediaより
これがタタキになると,こうなります↓
写真:土佐料理司HPより
アンコウのようなさっぱりした味とプリプリの食感がたまりません.
これに酢醤油がからまって絶品です.

なお,ゆるキャラはまだ存在しません.
すでに「カツオ」はゆるキャラになっていますね.「カツオ人間」というそうです.
画像:カツオ人間Twitterより
そのうち,「ウツボ人間」が出て来るかもしれません.


(5)仁淀川
このブログでも過去に何度が取り上げたことがあります.
「仁淀川」です.
ずっと「四万十川」というカッコイイ名前の川の後塵を拝してきましたが,ようやくその隠された実力が知れ渡ってきたようです.

水質日本一(2017年現在)でありながら,人の暮らしをも育み流れる,世界で最も美しい河川.
それが仁淀川です.

そんなことは高知県民なら誰しもが知っていますが,いかんせん高知県それ自体に知名度もアクセシビリティも低いため,ずっと「仁淀川? なにそれ」状態でした.
仁淀川(Wikipedia)
そう言えば昔,記事にしたことがありました。
“日本一”の故郷を撮る

最近になって,観光に力を入れるようになりました.
奇跡の清流・仁淀川(一般社団法人仁淀ブルー観光協会)

「奇跡の清流」ですか.四万十川は「最後の清流」でしたね.
「最後」「奇跡」ときましたから,そのうち「無限」とか「違う意味での」とか言い出すでしょう.
写真:仁淀ブルー観光協会より
高知県観光ガイド「よさこいネット」からも写真を引用します↓
川の流れ
沈下橋
川の中
ホタルの群れ


(6)高知城・本丸
最後にこいつを紹介しておきます.
写真:Wikipediaより
昔から高知市のアイコン,ランドマークとしてそれなり知名度はありましたが,昨今の城郭ブームによって,
「実は,日本で唯一『城郭』としての本丸が現存している城」
として知られるようになりました.

現存12天守というのがあります.
現存天守(wikipedia)
城郭ファンには釈迦に説法でしょうが,弘前城,松本城,丸岡城,犬山城,彦根城,姫路城,松江城,備中松山城,丸亀城,松山城,宇和島城,高知城です.こうしてみますと,現存天守って四国に多いんだなぁと思わされますね.
その中でも高知城の特徴は,先程も述べたように「お城として建てた状態の本丸」が,そのまま残っている稀有なお城なんです.

どういうことかというと,他の現存天守は明治以後に改築・再建をしながら「昔の面影」を残してきた部分が多いのですが,高知城は1749年(延享2年)に改築した状態がそのまま保たれている部分が多いのです.
つまり,日本で唯一「お城として建てたお城が見れる城」それが高知城なんですよ.

なので,至る所で「本物の城」を見ることができます.これがマニアにはたまらないのでしょう.
私も2度ほど足を運びましたが,そこに流れる空気は血生臭いものがあり,他の城が観光色を帯びているのとは一線を画します.
本丸にも様々な防御用の仕掛けが施されていて,それも保存されています.
最後に改築されたのが太平の世「江戸時代」だったとは言え,事があれば敵勢力と本気で対峙するための設計がそこには見て取れるのです.
近代以降,その「事」を想定せず,ただ「形」だけ再建されたものとは漂う空気が違います.

時間があれば,その空気を感じるだけでも行く価値はあると思いますよ.


以上,高知県民にとっては存在があまりに普通だったので今さら名物になったのが不思議でならないベスト6でした.

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