2017年11月13日月曜日

体育学的映画論「メッセージ」

これ,つまるところガンダムですよね.
ハリウッド版「ニュータイプ論」.

現在公開中の『ブレードランナー2049』のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が,昨年に製作したSF映画が『メッセージ』(2016年)です.

ブレードランナー2049も良かったですが,SF映画としてはこちらの方が遥かに出来が良いと思います.
まあ,ブレードランナー2049はファンサービスとして作られたものかもしれませんので,それなりの楽しみ方をするものなのでしょう.

【以下,ネタバレを含みつつ話していきます】
映画を楽しむ上では以下の話を読まない方がいいかと思います.
観てから読むことを推奨します.

ネタバレを含む映画のあらすじは,ウィキペディアで読むことができます.
メッセージ(映画)(wikipedia)

非常に質の高いSF映画です.
近い将来,「死ぬまでに観ておきたい映画◯選」などと形容されるようになることと思われます.

次元の異なる知的生命体とどのようにコミュニケーションをとればいいのか? というのがこの映画の基本的なストーリーになっています.
突如,世界中の地域に現れたUFOに対し,各国は独自に対応を始めるというもの.
学者たちによるエイリアンとの交流が描かれるのですが,「どうやって交流できることになったのか?」といった細かい経緯はぶった切られていて,「エイリアンとのコミュニケーションをどのようにとるのか?」という点に絞った展開が無駄がなくて良い.

言語学や数学などを駆使した,エイリアンが使う言語を解読してゆく過程が非常に興味深いんです.
「ほうほう,なるほど.へえ〜,そういうふうに解釈するわけねぇ〜」と,引き込まれること間違いありません.
めちゃくちゃ難しい話なのに,むちゃくちゃ分かりやすく映画にしてくれています.
これは圧巻です.

でも,この映画の一番大きなテーマは「もしも “刻” が見えるようになったら」というものです.
だから冒頭述べたように,ニュータイプ論なんですよ.

実は,この映画の構成自体が,主人公である言語学者・ルイーズの「認識」そのものを示しているんです.
原作はテッド・チャン著『あなたの人生の物語』というタイトルなのですが,まさにこの映画は「ルイーズの人生の物語」と言えます.

どういう事かというと,この映画の基盤となる考え方として,映画前半のヘリコプター内でのシーンに「思考は言語により形作られる」と語られるところがあります.
言い換えれば,物事の捉え方は,用いられる言語によって異なるということです.

これは,日本語を使っていれば日本語の考え方になり,英語を使っていれば英語の考え方になる,などと言われることの延長と言えます.
ただ,ここでいう「言語の違い」とは,日本語と英語の違いといった小さなものではなく,もっと大きな違いである「言語の次元」の差を指します.
で,その言語の次元の差は何によって生まれているかというと,「体育学的映画論」らしく「身体」によって現れているんです.

劇中でも示されているように,このエイリアンは空中に漂う生命体です.
つまり,1Gの重力下である地球で,「地面」に根付いて生きている我々「人間」が作り出した言語とは異なる思考をしている知的生命体,それがエイリアンということになっています.

富野由悠季氏が製作した『機動戦士ガンダム』においても,人類は宇宙へ移住することによってニュータイプへと覚醒する.という設定があります.
ニュータイプとは,宇宙に飛び出して地球の重力から解き放たれることによって認識能力が進化し,「“刻” が見える」ようになった人類とされているんです.
この映画と設定が全く同じではありませんか!
凄いぞガンダム,凄いぞ富野由悠季.

環境が違えば言語が異なり,言語が異なるので思考と認識が異なります.
で,このエイリアンはニュータイプと同様,「“刻” が見える」んですね.
だから,物語の途中からルイーズは,自分がエイリアンの言語を理解できたことを思い出します.

いえ,正確には思い出したのではなく,理解できることを認識したんです.
「理解できることを認識した」っていう表現が意味不明かと思いますが,どうしてそんな表現なのかというと,エイリアンの言語を理解できたルイーズにとっては,「時間」とは流れるものではなく,見るものになったからです.
その瞬間,ルイーズにとっては,彼女の人生そのものが一塊の物体を見るようなものになっています.

というのも,言語学者の彼女は,近い将来にエイリアンの言語を研究・理解して,それを本にして出版することになります.
なので,ルイーズはエイリアンの言語によって思考し,物事を認識できるようになるわけですが,そんな「エイリアンの言語を理解できた彼女」にとっては,過去も未来も同じもの.

だから,映画の冒頭からずっと自分の娘との思い出のシーンが,ストーリーの合間合間に流れ続けているんですね.
実はこの「娘との思い出のシーン」とは回想シーンではなく,ルイーズにとっての未来なんです.

しかし,こうした映画の作りも,時間のことを「流れる」ものとしてしか捉えられない私達にはこのように認識するしかなく,エイリアンやルイーズには「あのように」は見えていません.

これはちょうど,知っている小説や映画を繰り返し読んだり見たりするようなものです.
だから原作タイトルが「あなたの人生の物語」なんだと思います.
こうなってくると,例えば人生のことを「一度きりの人生だから・・」などと捉えたりはしません.
よく,この映画の感想などで,「ルイーズは,新しい言語を手に入れることで,決められた未来に向かって生きるしかない状態になった」とか,「自由意志がなくなった」などといったものが見られますが,これは間違いだと思います.
なぜなら,この言語を手に入れ,それによる思考と認識ができるようになったことで,いわゆる「一度きりの人生」という捉え方そのものが無くなり,その捉え方から惹起されていたはずの「決められた未来」という価値観それ自体が意味を成さなくなっているからです.

ルイーズにとって自分の人生とは,小説や映画を何度でも読み返すようなものになっています.
いえ,もっと正確に言えば,読んだり見たりするようなものですらない.
「そういうもの」として認識しているんです.
それが分からない私達は,そんなふうに「時間」を捻じ曲げた認識として想像するしかありません.

これは例えば,目の見える人と目の見えない人が何かの物体を認識しようとした時の違いと似ています.
目の見えない人は,その物体を手で触りながら,「ここが出っ張ってる.凹んでいる.ここは輪になっている」などと,ちょっとずつ時間をかけて知ることになります.
しかし,目の見える人にとってはその物体を見るだけで認識できるので,そこに時間は必要ありません.
目の見えない人が時間をかけて物体を認識しようとしているのが「人類の人生」であれば,エイリアンにとっての人生とは,目の見える人が物体を見ているようなもの.
しかし,「物体」は時間をかけようとかけまいと,同じ物体であることに違いはありません.
人生とか生涯といったものへの認識も,用いられる言語と認識能力が違えば異なるということです.

そしておそらく,ルイーズの娘もエイリアンの言語を理解した人間だった可能性は高いんです.
そんな描写が映画の冒頭からいくつか出てきます.

例えば,娘が幼い頃にやっている粘土遊びでは,彼女が知らないはずのエイリアンを造形していたり,同じく幼い頃に書いたクレヨン画の両親(ルイーズとイアン)には,エイリアンとコミュニケーションをとる任務についていた2人のそばにあった「籠の中のカナリア」が一緒に描かれています.

つまり,ルイーズの娘は全てを知っていたんです.全ての刻を知っていてなお,(一般的な人間の認識からすれば)短い生涯を生きていたことになります.
と同時に,それは彼女にとって哀しいことかというと,実はそうではない.
「短い生涯を生きた」という認識そのものが,時間のことを「流れる」ものだと認識する我々の捉え方でしかありません.
むしろ,ルイーズは自分の娘を「救うため」にエイリアンの言語を教えたのではないか? つまり,いわば「ニュータイプ」へと覚醒させたのではないかとも考えられます.

ここらへんの「次元」に関する哲学的なことを分かりやすく解説されているのが,飲茶 著『史上最強の哲学入門』です.


『メッセージ』を理解する助けになるはずですので,一読をオススメします.


ガンダムで考える関連記事は以下のとおりです.
人間は身体を通して理解する「ファーストガンダム編」
人間は身体を通して理解する「Zガンダム編」
人間は『身体』を通して理解する「ガンダムW編」

こちらもどうぞ.
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」
井戸端スポーツ会議 part 12「なぜ障害者スポーツへの関心が低いのか」


2017年11月11日土曜日

どうして「絶対理解してくれない高等教育論」なのか

前回の記事,
絶対理解してくれない高等教育論
その理由編です.

大学に代表される高等教育に関する,デタラメな政策が止まりません.
現政権はそれを加速させています.

本ブログではずっと以前から繰り返しているように,おそらくはもう大学教育は致命傷を負っているので手遅れです.
まだ本格的に表在化していないだけで,そのうち「どうしてこんな事態になるまで放置したのか?」などと言い出すに決まっています.

でもそれは,決して国民自身の判断を問うようなものではなく,きっと「大学側の情報発信や主体性が弱かった」とか,「文部科学省にヴィジョンが無かった」とか,もしくはその時になってもまだ「時代に取り残された象牙の塔」などと言うに決まっています.

5年前の記事でも取り上げましたが,大学改革を始めたのが間違いなんです.
反・大学改革論
改革をすれば良くなるという意味不明な信仰が,将来の,少なくとも向こう50年くらいの日本人の知性を破壊してしまいました.
享保の改革とか天保の改革とか,とにかく「改革」と名のつくことは碌な結果にならないというのは学校の授業で教わることですが,この麻薬のような中毒性を喜ぶ人は多いものですね.

この破壊は自己回復不可能です.
また100年くらいの時間をかけて直さなければなりませんが,まだ絶賛破壊中ですので,そのスタートラインに立つ日はずっと先のようです.
少なくとも,私達の世代が引退するくらいの時には,そのスタートラインに立てるように頑張っていきたいものですね.期待薄ですが.

さて,そんな高等教育に関するデタラメっぷりですが,これをまともな方向で是正しようと考えても,絶対理解してくれません.
絶対理解してくれないのには理由があります.

前回の記事でもお話ししたように,例えば「大学無償化」は,現状のまま取り組んだり,現政権が目論む「民間経営的手法」を促進させる政策と抱き合わせることによって,教育現場を壊滅させることができます.

これをまともな方向で是正しようとすれば,その一つとして考えられるのは,「大学無償化」と合わせて「卒業基準の厳格化」をすることで教育現場は救済されます.
大学教育を無償化(現実的には格安化)する代わりに,簡単には卒業できない仕組みへと徐々にシフトさせるものです.

これはつまり,現在の「学生から人気のある大学が優良大学」という捉え方から,「高い学術レベルの学生を輩出する大学が優良大学」と捉えることへと移行することを意味します.
実際の教育現場にいる方々からはご賛同いただけるかと思いますが,高い学術レベルをもった学生を輩出するためには,大学教員や研究グループが不断の研究活動をしていなければいけません.

「教え方がうまいから,学生が伸びる」というのは,極めて初歩的な段階の話.
極一部の領域を除き,大学は何かを教えるところではありません.学術的思考力を鍛えるところです.
それは「教え方」でなんとかなるようなものではないのです.

ところが,こうした着想はメディアで取り上げられることもなく,政策にも反映されることはありません.
巧言令色な現在の大学よりも,質実剛健な大学に変わってくる方が喜ばれるかと思うのですが,そんな声は聞こえませんね.
なぜなら,そんな大学を多くの人が望んでいないからです.
もっと煽った刺激的な言い方にすれば,そんな大学にしてしまうと,次代を担う若者のレベルが自分たち自身より高くなってしまうので,それが悔しいからです.

もっと簡単ところから言えば,教育全般について「無償化」や「機会の平等化」を嫌う人は,おそらく自分自身を「勝ち組」と認識している人が多いのではないでしょうか.
そんな人が考える「教育システムの成功モデル」とは,自分自身の履歴です.
故に,自分自身が歩んできた道を「この日本社会における成功モデル」として固定化させたいという欲求が出てきてしまう.
別に批判するつもりもありません.それは人間らしい欲望ですからね.可愛らしいですね.

勝ち組の人達からすれば,自分たちの成功モデルを否定することは難しいものです.
もっと言えば,その成功モデルにありつけた人は,できるだけ少ないほうがいい.なぜなら,希少価値が高くなるからです.

あれだけ頑張って受験勉強して合格した大学が,これからは簡単に入学できる大学になってしまう.なんてことは避けたいという心理が働くのもわかります.
ましてや,「入学した」ことよりも「卒業した」ことの方が価値があるなんてことになったら,現在自分が保有している「◯◯大学卒業」という肩書がキャンセルされてしまうわけです.彼らにとって「卒業」とは「入学」のことを意味しているからです.

斯くして,「大学を卒業した人々」は,高等教育の研究教育レベルを向上させる政策を望みません.

一方の,「大学を卒業していない人々」も,高等教育の研究教育レベルを高めようという気はありません.
これには2つ理由があります.

1つ目は,単純に,大卒のレベルが高まることを望まないからです.
簡単な話です.彼らにとっては,大学で学ぶ人が受ける恩恵は低い方がいい.
大学に行くことは,あくまで肩書をつけることであってほしくて,本当に実力がついてしまうと悔しいという話です.
ようするに,これからもずっと「大学なんて所詮は肩書をつけに行くところさ」と罵りたいという心理です.

2つ目は,学校教育の延長でしか要求ができない,というものです.
つまり,この人達には学校と大学の違いが分かっていません.いえ,むしろこれには大卒の多くも含まれていることでしょう.
学校と大学の違いが分かっていない人達だから,しかもウィキペディアでその違いを調べることすらしない人達だから,自分の頭の中だけで「教育」を語りたがります.
結果,上述したような「教え方がうまい」ことに価値を見出したり,大学を「職能を伸ばしてくれる」ためのサービス機関だと捉えています.
そんな人達が求めるのは,学生が寝坊しないためのモーニングコールであり,より多くの資格を取得できるカリキュラムであったりします.

そして,「人気のある大学が優良大学」「定員割れする大学はダメな大学」というドグマに支配されることにより,大学側もそれに対応した経営をするようになります.
あとは負のスパイラル.

とどのつまり,嫉妬と妬みなんですね.
これが大学教育と,日本の学術研究を破壊しています.
大学が一体何をするところなのか? それに立ち返って考えてもらいたいものです.


関連記事

2017年11月9日木曜日

絶対理解してくれない高等教育論

大学等の高等教育を無償化させたり,学部の切り売りを促したりといったニュースが続いています.

「教育無償化」高等教育に8000億円 2兆円配分の大枠(毎日新聞2017年11月9日)
政府は教育無償化など2兆円規模の政策パッケージについて、配分の大枠を固めた。大学など高等教育の無償化に約8000億円を配分。幼児教育・保育の無償化では、0~2歳児に100億円程度、3~5歳児は8000億円程度を充てる。高等教育と0~2歳児については、無償化の対象を住民税非課税世帯(年収約250万円未満)に限定する方針。

私大に「学部の切り売り」認める…大学再編促す(読売新聞2017年11月8日)
18歳人口の減少で経営悪化した大学の「学部の切り売り」を認めることで大学再編を促す。(中略)学部の譲渡が可能になれば、経営が行き詰まった大学が学部の一部を他大学に売却し、当面の運転資金を確保できる。また、経営の効率化を図りたい大学の場合は、不人気学部を切り離し、研究成果が顕著な学部や人気学部を強化できるようになる。
具体的な方策が見えていないのでなんとも評価し難いのですが,どれもこれもデタラメ臭さが漂っています.

以前の記事でも取り上げましたが,私は大学無償化には反対していません.どのような方策になるかにもよりますが,多くの国民が高等教育を受けられる状態にすることは,国家として望ましい在り方だからです.

ただ,「学部切り売り」とかいう政策を考えているところからして,おそらく碌な思想・信条に基づいていないことが推測されます.
現政府には注意が必要です.

教育無償化に反対する人のなかには,「そんなことしたらFラン大学をのさばらせるだけだ」という人がいます.
お気持ちはわかりますが,ご安心ください.そんなことにはなりません.
「高等教育(大学)無償化」については,ある教育政策と抱き合わせることで,現在のFラン大学であっても有名大学と変わらない教育が実現できるのです.

昨今のニュースでも取り上げられているように,現在の日本の大学は,研究レベルや教育水準の低下が著しいんです.
「このままではノーベル賞がとれなくなる」という懸念もされていて,まあ,ノーベル賞はどうでもいいですけど,まともな学術研究ができない環境にあります.
実際,日本では大学・研究所と研究者は増えているのに,発表論文数は低下しています.

その理由はというと,現在の日本の大学は,教員や研究員が「研究」するよりも「経営」することに注力しなければいけない状態にあるからです.
安定した経営ができない大学運営者としては,教職員に学生募集とか広報といった活動を精力的に取り組ませることで,「この難局を皆で分かち合いたい」という気分にさせています.
結果,当初は上層部の先生たちの研究する時間が減っただけだったのですが,次第に大学全体で取り組むようになり,そのうち若手に振るようになったもんだから,若手が研究できなくなっている状態にあります.

ノーベル賞もそうですけど,その研究者が自身のキャリアにおける代表的な研究業績に取り組んでいた期間というのは,30歳〜40歳ぐらいの若手の時なんです.当たり前ですよね,その時が頭脳も体力も充実しているわけですから.
ところが,現在の大学はというと上記のような次第で,非常に多くの「画期的な研究の芽」をこれでもかと潰しまくっている状態です.

大学教育というのは,研究者である教員が取り組んでいる研究成果を資源としていますので,教員が研究できない状態というのは,これすなわち教育できない状態となります.
ところが残念なことに,世の中の多くの人々は,大学教育を学校の延長だとしかイメージできない人や,大学教育とまともに向き合わずに卒業した人が圧倒的多数を占めています.
だから,「大学で学んだことは社会で役に立たない」とか「これからの大学は,研究よりも教育にシフトすべきだ」などとトンチンカンな事を言い出しますし,それが多数派となる.

前置きが長くなってしまいましたが,高等教育無償化と抱き合わせるべき政策というのは,大学卒業基準の厳格化です.
現在のように,「Fラン大学」だとか「難関大学」だとか言って,「入学」することに価値を見出しているかぎりは,大学教育の無償化は絶対失敗します.

Fラン大学であっても,そこにいる教員の質が低いわけではありません.Fラン大学に勤めている時に良い研究業績を積んだり,流行りの研究テーマになったからということで有名大学に招かれるケースは多いものです.
なので,有名大学には「ハズレ」の先生が少ないとは言えますけど,研究者・教育者としての能力は,どの大学であっても,そこにいる教員に差はありません.

ところが,Fラン大学は「Fランだから」という理由で学生数確保に難儀し,入試による基礎学力の差から,卒業させるためのハードルは大学間で相対的なものになってしまいます.
その結果,「Fラン大学の卒業生よりも有名大学の卒業生の方が優秀」という状況が,なんだかんだで発生してしまう.

「Fラン大学の学生でも,しっかり育てれば学術的思考力はつくし,有名大学と比べても遜色ない能力を引き出せる」と考えている人たちは多く,私もその一人です.
しかし,文部科学省から大学に向けられる指示には,有名大学であろうとFラン大学であろうと,進級や卒業といった場面で,一定数以上の留年者や卒業延長者を出してはいけないという圧力が作用します.まさにお役所的発想ですね.別に批判するつもりはありませんが,非難したい話です.

学士のレベルを維持・向上させたいのであれば,進級・卒業のレベルを維持,または引き上げれば済む話です.
Fラン大学ではなおのこと,学習目標が達成できていない学生が多くなるはずなので,どんどん落とせばいい.
そうやって,どの大学に入学しても教育レベルが一定になるようバランスをとれば,卒業生の学術レベルは保たれることになります.
簡単な話だと思うのですが,世の人々には受け入れられません.不思議ですね.

それよりも「手厚い指導と支援により,進級できない学生や,単位を落とす学生を減らすように努力する」ことを求められます.
最近の大学では,学生が寝坊しないようにモーニングコールをしたり,保護者説明会や学生親睦会を頻繁に開くなどして,大学に登校しやすい配慮をするようになっているのをご存知の方も多いかと思いますが,それは上記のような理由によります.

もちろん,Fラン大学で優良大学並の厳しい(?)指導をしてしまうと,退学する学生や定員割れする大学が “最初のうちは” 頻出するであろうことは容易に予想できます.
しかし,それこそが「大学教育無償化」によって,Fラン大学の経営難を緩和すべきことなのです.

どの大学であっても卒業生のレベルに差はない.
もちろん完全にそんなことにはならないだろうし,各大学のオリジナリティなども出てくるはずですし,そうであってほしいとも思っているのですが,日本の大学教育無償化が目指すべき方向性だと思います.
これは夢物語ではなく,例えばドイツ系の大学では,「私は◯◯大学卒業です」といったステータスはなく,どんな学問領域を専攻したのかが問われるそうです.ドイツの人から聞いたので間違いないはず.
むしろ,日本のように大学間でステータスの差があることに驚いていました.

ですが,そんな簡単なはずの話が,なぜか「学部の切り売り」などという政策との合せ技になっているようですね.
つまり,政府としては大学教育を「民間経営」の思想と基準で進めていくつもりなのです.
ニュースにもあるように,経営を効率化させたり,人気学部を強化したりしたいのだそうです.
そもそも学部を切り売りしたところで,そんな学部を買う機関があるのか? あったとして,そんな機関はどんな所なのかが気になりますが,脳ミソがとっ散らかっているような政策であることは間違いありません.

この記事のタイトルですが,「絶対理解してくれない」というのは,大学教育を充実させ,大学教育を受ける機会を増やすことの恩恵を,世の人々が理解してくれないという意味です.
これは世論の理解は期待できませんから政治的に進めるしかないのですが,現政権には期待できません.むしろ悪化させる可能性大です.

一昔前も,どの国の「世論」も似たようなことを言っていました.
「学校なんかで勉強するよりも,丁稚奉公させたほうが仕事ができるようになる」
「頭のいい子供だけが勉強すればいい.こいつは頭が悪いから肉体労働をさせる」

時代が変わり,学校が大学に変わっただけのこと.10歳くらいの話が,20歳くらいの話になったわけです.
将来,50年〜100年くらい経ったら,今度は30歳,40歳といった社会人が学ぶ(という概念ではなくなっていると思うけど)機会を,国がどのように提供するか? について議論されていると思います.

教育とは,そこに完成形として存在するものではありません.流れのある話です.
遠い将来についての私見としては,「勉強・学習」というよりも,「研究・調査」という概念で進められる活動だと考えていますが,まぁ,これは完全に推測です.

学校や大学で勉強するのは,良い就職先にありつくためではありません.勉強が仕事に役立つわけでもない.
それらは,学校や大学で勉強することによって,随伴して得られるものであって,最大の目的ではないのです.

人が勉強するのは,より良く生きるためのヒントを得るためです.
それを踏み外した教育政策にならないよう注視していく必要があります.


2017年11月7日火曜日

私の天皇論

今上陛下が生前退位の意向を表明されてからというもの,ネット上でもこの議論をよく目にするようになりました.
平成30年を節目として譲位することが計画されているようです.
元号が変わることが決まっていると,なんだか楽しみですね.

私は生前退位には賛成します.
死ぬか心身がボロボロになってからじゃないと譲位できないというのは惨い話です.
歴史的には天皇の生前退位はいくらでもあったのですから,あとは在位中の天皇の意向に沿っても良いのではないかと思います.

私としては「天皇」のことについて何か論じるほど知識も関心も無いので扱ってこなかったのですが,一臣民として天皇をどのように捉えているかブログしておくことも良いかと思いキーを叩いています.
今回は,生前退位の件で取り沙汰されることの多かった,「万世一系」「男系継承」という点について.

まず明らかにしておいた方がいいであろう私の考え方として,日本に天皇をおくことについては諸手を挙げて賛成しています.
今の日本の在り方を象徴する存在として,天皇と皇室は無くてはならないものです.

しかし,天皇と皇室を廃止するような動きがあったとしても,これに頑なに反対するつもりはありませんし,何かしらの事件・事故等で皇室の皆さんがいなくなったとしても,日本が混乱して立ち行かなくなるような事態にはならないだろうと楽観してもいます.

右翼系の人のなかには情熱的に皇室を捉えている方々がいます.皇室がなくなったら日本ではなくなる,と考えている人も少なくありません.
別に彼らを批判しようってわけではありません.
むしろ,熱心な人達だなぁ,と感心している次第です.

逆に,皇室や天皇制を廃止しようと訴えている人たちを批判するつもりもありません.
彼らは彼らで,天皇に代わる何かを用意して日本国と日本人をやっていけるのでしょう.
別にそれでも構わないと思いますよ.

作家で元東京都知事の極右政治家とされる石原慎太郎は,「皇室は役に立たない」とか「天皇を最後に守るべきものではない」と言っているようですが,これは私も別の意味で賛成します.賛成するというのは,石原氏の考え方にではなく,表現に対してであって,私は真逆の意味で言っています.
つまり,皇室は役に立つためにあるのではないし,天皇よりも守るべきものは日本にはある.天皇や皇室とは,そういう「機能」とか「価値のランキング」にかけるようなものではない,というのが私の考えです.
もし,皇室や天皇が今の日本からなくなったとしても,おそらく日本人は「天皇のようなもの」を新たに創造して「日本」であることを確立させる.今,天皇制に反対している人たちは,そういう日本が見えているのかもしれません.

もちろんこれは今の日本であって,遠い将来においては,日本は天皇を戴いていたとしても「日本」ではなくなるであろうし,その時が,おそらくは天皇制を廃止する潮目なのかもしれません.
言い換えれば,「皇室があるから日本たりうるのではなく,日本たりえているからこそ皇室がある」ということ.
私は天皇と皇室の存在をそのように捉えていますし,どちらも遠い将来においては消えゆく定めをもっているものと考えています.
日本が近代に入ったことで,「消える」ことは決定的になったとも言えるでしょう.
そういう意味で,天皇制反対を唱えている人は,私からすれば時期尚早だし,せっかちだと思います.そんなに急がなくてもいつか必ず「天皇制の廃止」はやって来きますので,のんびり待っていてはどうでしょうか.

さて,そんな天皇の跡継ぎ問題ですが,私はこれにも楽観的で,むしろ男系であれば誰でも天皇にしていいのではないかと考えています.
これについては男系男子にこだわる右翼系の人たちとも意見が一致すると思います.

でも,私はそもそも歴代の天皇が男系だけで継承されてきたとは思っていません.
だからもっとゆるく捉えてもいいのではないかと,そういうことです.

皇位継承ですが,神話である神武天皇からのつながりはもちろんのこと,実在が有力視されている応神天皇や,一度途切れているのではないかされる継体天皇からの血筋も怪しいものです.
おそらく,明治天皇から現親王までの皇統は,メディアにさらされているので本当なのでしょう.
ですが,それ以前なんてかなり適当だと思いますよ.

昼ドラ的な話で,その女性が皇族ではない男性の子を身籠ってしまい,その子かその子孫が天皇になってしまった,なんて事態は容易に想像できます.
昼ドラ的な話じゃなくても,皇室がどうしても男子が欲しいという事態に迫られた時に誤魔化した場合だってあるでしょう.例えば,キチガイ地味た天皇やその側近が「男子が生まれなかったら殺すぞ」などと側室の女性を脅していたとしましょう.で,産まれたはいいけど残念ながら女子だった時に,その周囲の人達がこの女性を憐れんで,昨日どこかで産まれた男子を拾ってきて入れ替えた,なんて歴史ミステリーも想像できます.
こんなに複雑な話じゃなくても,都合に合わせて子供を用意したというのはあり得たのではないでしょうか.

なんにせよ,天皇の血統が男系だけで「本当に」継承されているというのは,人間模様を含めて考えれば確率的に言って非常に怪しいと思うんです.
私はなにも「皇統はデタラメだ」と言いたいわけじゃなくて,「万世一系」「男系継承」について,もっと遊びを持って捉えたほうがいいのではないかと言っているんです.

天皇の存在は,万世一系,男系継承されてきたから価値があるわけではない,ということ.もっと別のところにあるのではないか,私はそのように考えています.
現段階で私が捻り出せる言葉としては,「日本人が天皇という存在を共有する」という状況それ自体に,その存在価値があるのではないかと思うんです.そしてそれが,天皇を中心とした国の在り方と評される.

福田恆存が書いた『芸術とは何か』の冒頭に,「呪術について」という評論があります.
「呪術を用いていた原始人は,その効果を本当に信じていたのか? いや,彼らは呪術に効果などないことを知った上で,それでも呪術を用いていたのではないか」という趣旨なのですが,これが天皇を戴く日本にも同じこと言えるのではないかと思います.
これは,天皇が「君主」という側面よりも,「祭主」としての存在が強いことも親和性が高くなることに影響しているでしょう.

私が天皇を「役立つもの」でも「守るべきもの」でもないと言うのは,福田氏のこの文章で説明できます.
呪術は自然を客観的に説明するためのものでもなく,また直接的に自然を支配するためのものでもありません.それは人間が自然と合一するための行為であり,より純粋に,そしてより強烈に,みずからが自然物であることを意識し,その自覚に酔うための行為であります.
天皇は,世界に誇れるから残した方がいいわけでも,万世一系を保ち続けているから価値があるわけでもない.ましてや,価値があるから守るべきだとも思っていません.
天皇には何かの機能があるわけではない.我々日本人が,日本人であることを確認するために見つめているもの,それが天皇ではないかと思うのです.

その「見つめ方」には人それぞれあるでしょう.
天皇に国家の伝統を見る人もいれば,世界への自慢を見る人もいる.存在に反対する人もいれば,抹殺を企てる人もいる.彼らは各々の理由でもって天皇を見つめ,考え,それに酔っている.
でも,そういう見つめ方がたくさんあること自体が,この日本を形作っていることの証左であり,だからこそ私は天皇に「存在理由」などいらないというわけです.

天皇と皇室がどれだけ偉大なのかを,あれこれ理由をつけて説明したがる人がいます.
でも,そういうのに私は気持ち悪さが湧くんです.なんか違う,と.
これについても福田氏の文を引いておきます.
われわれ現代人が原始人を嘲笑することなど,もってのほかだ.かれらは知っていたのです.なにもかも知っていた ― すくなくとも現代の文明人以上に.つまり,かれらはだまされることを意識してだまされた.が,われわれはだまされまいとして,いや,だまされていないと安心していて,その結果,けっこうだまされている.
今の日本ほど,天皇のことを騒ぎ立てている時代はないのではないか? そして,その騒ぎ方は小賢しい理屈にまみれていて,天皇を戴いていることの本質から外れているのではかいかと感じています.

2017年11月2日木曜日

体育学的映画論「クリーピー 偽りの隣人」

神奈川県座間市で起きていた事件と似ている.ただそれだけの理由で取り上げてみた映画です.
今回の事件のニュースを見て,きっと他のとろこでも「状況がこの映画と似てる」と言わているかと思います.

神奈川県座間市で起きていた事件というのは,こういうやつです.
座間のアパート、計9遺体発見…住人の男を逮捕(読売新聞2017.10.31)
神奈川県座間市のアパート一室から複数の遺体が見つかった事件で、室内からは計9人の遺体が見つかったことが捜査関係者への取材でわかった。遺体はいずれも切断され、クーラーボックスなどに入っていた。
どうしてこんな事件が出来たのかというと,自殺幇助をほのめかして誘っていたようなんです.
「一緒に死のう、自殺手伝う」書き込みで家誘う(読売新聞2017.11.2)
神奈川県座間市のアパート一室で男女9人の切断遺体が遺棄された事件で、白石隆浩容疑者(27)(死体遺棄容疑で逮捕)は、ツイッターで自殺志願者を探しだしていたことが捜査関係者への取材でわかった。(中略)「一緒に死のう。1人で死ぬのは嫌なので」「自殺を手伝う」などと書き込んで接近し、自宅に誘っていた。遺体で見つかった9人のうち、女性の8人とはツイッターで知り合ったという。
精神的に異常をきたしている人が,精神的に異常な人に吸い寄せられていくのはよくあることです.
でも,意味がわからない事件ですよね.私もそうですが,世の大多数の人々には受け入れ難い話です(受け入れるのもおかしいけど).

黒沢清監督「クリーピー 偽りの隣人」(2016年)は,そんな精神異常者たちが作り出す箱庭を眺めているような気分にさせてくれる映画です.
案の定,こういう映画は世間からのレビュー・評価がとても低い.

たしかに一般人を喜ばせるためのエンターテイメントの構成にはなっておらず,一応はストーリーができているものの,出来事を映し出すだけになっています.だから,分かりやすい物語だと構えて見てしまうと退屈になってしまうのです.

この作品には視聴者に対する大きなフェイクがあります.
それは,劇中に登場する人物のほとんどが精神異常者だということです.
精神異常者の設定である香川照之演じる西野とその娘は,紛うこと無き精神異常者であり,サイコパス殺人鬼なのですが,隣人として引っ越してきた主人公の高倉夫婦も精神異常者です.
西島秀俊演じる高倉は,一見「犯罪心理に詳しい熱血刑事」ですが,要するに犯罪心理マニアで,犯罪そのものが大好きな危ない奴です.
そして,竹内結子演じるその妻は,孤独と寂しさのなかで完全にイッてしまってる女性です.そんな事態に至るまでの描写が弱いからそう捉えにくいのですが,こういう破滅的な人って結構いますよね.

映画のレビューなんぞを見てみますと,
「どうして高倉の妻があんなことするのか分からない」とか,「普通に考えておかしい」といったものがありますが,そもそも,ここに映し出されている人物はみんな普通じゃないんです.普通に考えてはいけません.
サイコパスである西野に基準値が設定されてしまうため,それに対峙する人物は「普通の人」であると考えてしまいますが,実は劇中の人物は誰もが異常者なんですよ.

「どうしてそんなことをするのか分からない」という疑問を,殺人犯である西野に向けることはありませんよね.なぜなら,彼はサイコパスだからです.サイコパスによる殺人に理由を求めることはできないことは,少しずつ世間に浸透してきました.
これと同様のことが,高倉やその妻,その他の登場人物の行動にも言えます.

登場人物たちの行動には理由がない.「それって物語や映画として破綻してるんじゃないのか」と考えられなくもないのですが,そういうもんだと思って見れば,それなりに興味深い作品ではあると思います.判別しにくいだけで,それを示す描写はずっとあるわけですから.

つまり,「サイコパスに翻弄される普通の人」というよくありがちな設定ではなく,「サイコパスの周りにはサイコパスみたいな奴が寄ってくる」というのが,この映画で描かれている重要なテーマです(と私は受け取りました).

一見普通の女性が,「どうしてあんなクズみたいな男と結婚したのか?」という話も枚挙にいとまがありません.
「クリーピー 偽りの隣人」のテーマもこれと一緒.実は身近なお話と言っていいでしょう.


2017年10月29日日曜日

体育学的映画論「ブレードランナー2049」

この週末はあっちこっち飛び回って結構忙しいのですが,ちょっと無理してドゥニ・ヴィルヌーヴ監督『ブレードランナー2049』を見てきました.

これは10月27日(金)に公開された映画.
仕事が一段落してからとも思ったのですけど,リドリー・スコット監督『ブレードランナー』(1982年)のファンの一人としては居ても立ってもいられず,スケジュールにねじ込んだところです.

以降,ネタバレは最小限にしますが,関係が深い話が出てきます.ご注意ください.
でも,ブレードランナーのことをあまり知らない人にとっては,むしろ以下を知った上で見たほうが良いかもしれません.ご参考まで.

さて,前評判では賛否両論でしたけど,私としてはかなり楽しめました.
さまざまなところで論じられていることですが,この『ブレードランナー2049』は前作を含めて万人受けする映画ではありません.
今でこそ1982年の『ブレードランナー』はSF映画の最高峰として有名になっているようですけど,公開当時はアメリカでも難解なクソ映画として酷評されていたとのこと.
生命科学や哲学の論考を好む人達に好かれるタイプの映画であり,家族で楽しむエンターテイメントでもなければ,デートで気軽に鑑賞して話題にすることもできません.

かくいう私も,子供の頃にテレビで放送されていた『ブレードランナー』を見た時はイマイチ話がわからず楽しめなかったんです.でも,何度か見ているうちに,どうして人造人間たちが反乱を起こしているのか?とか,なんで人造人間は最後にデッカードを助けたのか? なぜデッカードは寿命が尽きるはずのレイチェルと共に逃亡したのか? その際に玄関に落ちていた折り紙がなぜユニコーンなのか? とか,大人になるにつれていろいろ解釈できるようになってきます.
つまり,見る度に魅力が増してくるのがブレードランナーという映画の特徴なんですね.
大学生以降では1年に何回か見る映画になっていたので,その都度借りたりネット上で探すのが面倒になって,7年くらい前についにDVDを購入しました.
私がDVDを購入するのは極めて珍しいことです.

今回の『ブレードランナー2049』は,前作の世界観をそのまま引き継いでいます.
ブレードランナーって「陰鬱なゴミゴミした街に汚い雨が降っている」という世界が象徴的ですよね.この世界観がその後のSF作品に及ぼした影響は大きいとされています.
この風景のモデルは日本・新宿歌舞伎町とのこと.
今回のブレードランナー2049は東京の映画館で見たのですが,見終わって映画館を出てみますと,台風の影響を受けて薄暗いなか雨が降っているんですね.それが完全にブレードランナーの世界と一緒.思わず鳥肌が立ちました.

テーマについても前作と同様,人間とは何か? を問い続けています.
シンプルなアクション映画だと思って見ると面食らうので注意が必要です.
今作の捜査官(ブレードランナー)である主人公のKは,新型の人造人間(レプリカント)であり,周囲からは「人間もどき」と侮蔑され,同じレプリカントからは憎まれています.さらに,そのKの恋人は人工知能という設定.

実は前作の「ブレードランナー」においても,主人公のデッカードは新型レプリカントであるという解釈があります.デッカードの目が赤く光るシーンがあること.ユニコーンの夢を見て,そのユニコーンの折り紙を見つけて頷くシーンが入っていること.原作がフィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」という点からです.
※詳細はウィキペディアを御覧ください.■ブレードランナー(wikipedia)

この点を「ブレードランナー2049」におけるヴィルヌーヴ監督は “きっとファンのために” きちんと回収しており,前作の主人公デッカードが,
「自分のことを人間だと思っていたけど,実はレプリカントだったのか!?」
というものに対し,今作の主人公Kでは,
「自分のことをレプリカントだと思っていたけど,実は人間だったのか!?」
というストーリーに仕立てられています.
その結論は映画を見てのお楽しみ・・・,ですし,さらにファンとしては嬉しいことに,この点も実は「結局のところ謎なのではないか?」として曖昧になっているのが,さすが「ブレードランナー」です.
「Kは何者なのか?」は,見る人の妄想を掻き立てられるようになっている.

あと,「ブレードランナー2049」の重要なストーリー設定が,「妊娠できるレプリカントがいる」というものです.
レプリカントが妊娠できるとなると,では「人間」とは一体どういう存在になるのか? 何を持ってレプリカントと人間を分かつのか?
これが今作における重要なテーマになっています.

もちろんお察しの通り,「妊娠できるレプリカント」とは前作のレイチェルであり,その父親がハリソン・フォード演じるデッカードなんですが,ではその子供は人間なのか?人造人間なのか?
こうしたテーマが,今作の主人公であるKの存在や,その恋人が人工知能のホログラムである「女性」であることと鮮やかに対比されています.

今回の「ブレードランナー2049」には前日談が用意されていて,この世界ではデッカードとレイチェルが逃亡した2019年のあと,2022年にアメリカ中を「大停電」が襲っているとのこと.
それによりあらゆる電子媒体での情報が消えてしまい,その復旧に膨大な時間がかかっており,未だに完全な情報としては残っていないという設定があるんです.
その事件の経緯がユーチューブでアニメ作品として公開されています.
ブレードランナー ブラックアウト 2022(youtube)

前作の2019年に反乱事件を起こしたレプリカントは「ネクサス6型」なのですが,この型には寿命が4年という設定がありました.
次に生産されたのが寿命に制限のない「ネクサス8型」であり,このネクサス8型が大停電のテロ事件を引き起こします.
ちなみに,2049年において活躍しているのは「ネクサス9型」で,主人公のKもこの形式です.

ところで,「じゃあ,ネクサス7型はどこいった?」と思われるでしょうけど,そのネクサス7型というのが繁殖能力を付与されたレプリカント「レイチェル」(そして,もしかするとデッカードも)だったという設定なのが「ブレードランナー2049」なんです.

で,ここで先ほどの「大停電」という事件の重大性が頭を擡げてきます.
結論から言えば,「ネクサス7型はレイチェル(とデッカード)だけだったのか?」ということです.
「大停電による全米の電子データの消失」により,天然の「人間」と,人造の「人間」の区別が,役所や製造元に記録されていた「登録データ」からは判別できなくなっているんですね.
もしかするとネクサス7型は既に何体も製造されていて,しかもレイチェル(とデッカード)と同じように,自分がレプリカントだと知らずに生きている可能性は高く,彼らネクサス7型の子供やハーフが何人も生まれているのではないか? そして,大停電からの復旧に際し,「妊娠して誕生しているのだから」ということで,登録データを「レプリカント」ではなく「人間」として記録されている人がたくさんいるのではないかということです.
こうして,いろいろ妄想できるのもブレードランナーの魅力ですし,その余地を残して「2049」を作っているヴィルヌーヴ監督も憎い配慮をする人です.
DVDやネット配信されるようになったら,何度か見直してやろうと思います.

そう言えば,繁殖能力をもった人造人間の誕生について取り扱ったものに,先日発行された森博嗣 著『ペガサスの解は虚栄か?』があります.
今回のブレードランナー2049は,人造人間と人工知能が,遠い将来に「人間」としてどのように関わっていくかが描かれているとも言えます.
これと同じことが森博嗣氏の小説Wシリーズと百年シリーズで扱われており,ブレードランナーのパラレルワールドとして楽しむことも出来ますので,それだけにタイムリーなストーリーだったなと思います.

その「ペガサスの解は虚栄か?」の最後の方に,こんなセリフが出てくるんです.
「このままでは,人類は滅亡する.それさえも望んでいるのかもしれない.我々の子孫は,人工知能とウォーカロン(人造人間)だ.あとは,彼らに任せよう,といったところかな」

人造人間との間に生まれた子供は何者なのだろうか?
人工知能との間に「愛」は生まれるのか?
ということをウダウダ考えるよりも,そうしたことを当然の前提とした上で,彼らこそが人類の子孫だと捉えて解釈していく物語が刺激的.こちらの小説もオススメです.


関連書籍
  


2017年10月27日金曜日

体育学的映画論「関ヶ原」

どうしても映画館で見ておきたかったので,先週末の台風が近づく雨の中見てきました.
別に動画配信になってからでも良かったような気もするのですが,やっぱり日本を代表する合戦「関ヶ原の戦い」はスクリーンで見ておくべきだと思ったのです.

結果,残念な思いをしたところです.

そうは言いましても,昨年一番の残念な思いをした映画,
でも述べたように,監督や役者さん,スタッフの皆さんがせっかく作ってくれた映画ですから,こき下ろすような批評はしたくありません.

どうしてこんな出来になってしまったのか?
どうして(少なくとも私の)心に響かない作品なのか?
といった点をしっかり考察することによって,(少なくとも私の)今後の映画鑑賞の足しになればと思います.

以下,この記事を読んだ皆様の参考になれば幸いです.
以降より映画のネタバレを含みますが,史実に基づく関ヶ原の戦いがテーマなので,ネタはももともとバレてるだろうとも言えます.

今回の「関ヶ原」は,ここ最近の(って言い出して久しいのだろうけど)日本映画にありがちな,「どうしてこうなった?」が満載の映画です.
むしろ,その点を考察することで日本映画の質の向上,そして、今後の展望が見えてくるとも言えます.

まず,とにかく中途半端ですよね.
この一言に尽きると言っても過言ではない.
徹底して中途半端な作品です.
中途半端であることにかけては他の追随を許さない.そんなところを目指した作品だと言われてもおかしくありません.

本作はテーマがてんこ盛りです.
・原作・司馬遼太郎による解説と語りを基にした展開
・関ヶ原に至るまでの経緯を猛スピードで追うスタイル
・石田三成と女忍者との恋愛模様
・各武将の生き様の紹介
・エキストラを大量動員した壮大な合戦
・よく分からない素性の登場人物(朝鮮人兵士とか医療班とか)
史実と違うとか,余計な色恋沙汰を入れるなとか,そんな批判もありますが,私としてはどれもそれらはそれらで魅力的だと思いました.
でも,いかんせん全てが中途半端だった.

私的には,どうせなら石田三成と女忍者の恋愛模様にフォーカスを当てた方が良かったのではないかと思います.それこそ,莫大な予算がかかったであろう合戦シーンなんかは,適当なCGやNHK大河ドラマ並みの濃霧(煙)で誤魔化してしまえばいい.むしろカットでいい.

実際,女忍者役の有村架純さんは気合いの入った演技をしていました.ヘラヘラしておらず,かなり自然にくノ一を演じられていたと思います.アクションシーンも迫力があって及第点です.もっと彼女に焦点を当てれば良かったのに.

ただ,前言を撤回するようですが,戦国武将とくノ一の色恋もいいんですけど,やっぱり「関ヶ原の戦い」の映画でそれはないよね.
結局,どんな映画にしたいのか決めきれずに作り出したのが原因ではないかと邪推しています.だから中途半端になってしまった.

どうして古今東西の映画監督って,この手の戦争スペクタクル映画に辻褄の合わないショボい色恋沙汰を入れたがるんでしょうね.
もしかすると,「人気俳優・女優のからみを入れておけば,OLとか主婦層を取り込めるのではないか」などというプロデューサーやらスポンサーからの圧力があるのでしょうか.
そんなもの見せられても全然つまらないし,映画の質は絶対に下ります.それで成功した映画がない以上,もうそろそろ気づけよと思うんですけど.
たぶん,「マーケティング」とか「アンケート調査」の弊害です.不安なんでしょうね.
昨今の大学経営と似たような感じですな.

大きなテーマを扱う手前,あれもこれもと思いつき,「全部のせ」の「ごった煮」になってしまう.
我々の業界で言えば,抽象的なテーマで依頼された研究発表や,ピンポイントの授業とかオープンキャンパス用のスライドとかでよくある失敗です.
今作の「関ヶ原」では,それと同じものを見せられた気がします.

実際,ウィキペディアにはそれを匂わす経緯が紹介されているんです.
関ヶ原(映画)(wikipedia)
監督の原田眞人は1991年から映画化の構想を抱いており、当初は島左近を主役に考え、1998年には主役を小早川秀秋に変更していた。2003年に『ラストサムライ』に出演した際に目にした合戦シーンに触発されて「日本発の世界戦略時代劇」を作りたいと考えるようになり、主役を島津義弘に変更したが、最終的には小説と同じ石田三成を主役にすることになった。
言われてみれば,映画の構成がたしかに『ラストサムライ』っぽい.
けど,「日本発の世界戦略時代劇」というのであれば尚の事,島津義弘を主役にして,関ヶ原の合戦における壮絶な「リアル・スリーハンドレッド」を撮れば,関ヶ原マニアにはたまらない作品になったのに.
それこそ世界に向けて,「300人が撤退するために数万の敵本隊に向かって突進」という謎の作戦や,薩人マシーンによる『敵将のみロックオン戦法(捨て奸)』を見せてあげれば,
「Oh! カミカゼ・アタックの起源はココにあったのデスネ!」
って話題になること間違いない.
ハリウッドの「ラストサムライ」のサムライ達は敵中突破できませんでしたが,例の一族ならやってのけます.事実なんだから仕方ない.
朝鮮人兵士による自爆テロを見せられても,日本発の世界戦略時代劇にはならないと思うよ.

せっかく「関ヶ原の戦い」という極上サーロイン肉があるんです.
小洒落た創作料理なんかにせず,普通にステーキで食べさせてくれればそれでいい.それが私の希望です.
具体的には,2017年現在において最も史実に近しいと考えられる関ヶ原の戦いの戦況推移を描いてくれた方が嬉しかった.

つまり,「この映画を見れば日本のサムライの戦い方が全てわかる!」という映像資料も兼ねた映画です.
その方が,ことあるごとに世界中の教育機関で中世日本の「サムライの戦い」の映像資料として使ってもらえるので価値が出るんじゃないかと思うんですよ.
例えば,大学の「中世日本の歴史」なんかの講義があったとして,そこで学生に見せる教材としても便利でしょう.
興行的には歴史マニア以外は鑑賞しないでしょうから収入の面では厳しいでしょうけど,それ以上の意義があると考えられます.

現在,時代考証が考慮された中世日本における質の高い合戦シーンを撮った映画って無いですよね.
これってお金はかかるけど日本映画界の「仕事」としては重要だと思うんですよ.ハリウッドとか外国じゃやってくれないから.
どうやら日本の合戦シーンを撮る技術も失われてきているらしいので,その技術の維持と発展のためにも大切ではないかと思います.


2017年10月23日月曜日

選挙結果の話

選挙結果が出ましたね.
自民圧勝というのか,現状維持というのか,評価はいろいろでしょうけど.

先日お話ししたように,私は選挙・投票には滅多に行きません.今回も行きませんでした.
選挙結果にも関心がないとも言いましたが,全く目を通していないわけではありません.
それなりに国情は分析しています.

「投票しなかった奴は政治に口出しするな」と言い出す人もいますが,投票した奴だからと言って口出しできる道理もありません.
選挙なんて所詮は人選びです.裁判員制度とかみたいに抽選で決めたっていいくらいだと思います.

そもそも,「我こそは選挙で投票した者であるぞ!」ってドヤ顔したところで,その選挙結果にあれこれ言っても無駄ですよね.もう結果は出ているんだから.
これはちょうど,我々の業界で言うところの「オープンキャンパスの来場者数」とか「入試志願者数」に対する講釈と似たところがあります.
そんな話を以前したこともある.
オープンキャンパスの来場者数を想う
実のところ,選挙と大学のオープンキャンパスや志願者数争奪戦はよく似ています.

「政治家と国民」「大学と学生」,いずれも始まってからの取り組みの方が大事なのに,その入口に立ったところがゴールと思ってしまっている.
これは日本人の特性なのかもしれませんね.もしかすると,学校や大学教育の取り組み方を改善することで,半世紀くらいすれば選挙や政治への視座も変わってくるのかもしれません.

いずれにせよ,選挙で投票することが国民の政治的主張の表明であるという勘違いは早急に是正されるべきです.取り返しのつかないところまで行く前に.

ところで,私の地元の選挙区・高知2区では,「保守王国・高知」を示す結果が出ておりました.
無所属の広田一氏が,元農水大臣であった自民党・山本有二氏を破って当選したのです.
山本前農相が比例復活 高知2区は無所属候補勝利(西日本新聞2017.10.22)
もちろん,山本有二氏は農水大臣であった昨年にTPPを強行採決する旨の発言が物議を醸しており,これが響いたことは間違いありません.
ですが,高知県は農林水産業で成り立っている地域です.そんな地域出身である山本氏が農水大臣をやっているのに,政府のTPPの方針にホイホイついて行くような姿は地元民にどのように映ったか.

というか,もともと,高知2区での山本有二氏への信頼は薄かったんです.
昨年の記事である■山本有二:鳥無き島の蝙蝠にノミネートでも書きましたが,私の両親を始めとして,地元民の方々の評判はすこぶる悪い.
昨年の農水大臣での所業を見た高知県民は,ついに山本氏を見限ったと言えます.

先ほど高知は保守王国だと言いましたが,本当に保守的なんです.もともと,昨今の自民党中枢部が掲げているような左翼思想には反発する気質があります.
2005年の郵政選挙の時も,高知では自民党議員を当選させる一方で,根強く郵政民営化反対の嘆願がありました.
さらに言えば,高知は保守王国である一方で,共産党王国でもあります.
2013年参議院選挙日本共産党得票率
2012年衆議院選書日本共産党得票率
つまり,右翼と左翼の両翼が強いという,とても特徴的な地域なんです.
「保守=自民」「保守=反共産」と考えているニワカ者には分からないでしょうけど,この感覚は大事です.

別に難しい話ではありません.これが本当の意味での保守的な地域なんです.
右翼が強くなったら左翼に移り,左翼が強くなったら右翼に移る.
そうやってバランスをとるのが保守です.

かつての高知県知事である橋本大二郎氏は,高知の県民性をこのように評価したとされます.
※私の父から伝え聞いた話ですので,間違っていたらごめんなさい.
「高知県の人は議論を好む.あれをすればいい,これをすればいいと,いろいろ面白い提案をしてくれるのだが,問題なのは,いざそれを始めるとなった時にまとまりがない」
えぇ,分かります.
何か一つのことで一致団結することはありません.天邪鬼気質っていうのでしょうか,必ず対立構造を作りながら進めるんです.傍から見たら面倒くさいのでしょうけど.
畢竟,トップダウンが嫌いなんでしょうね.現場でアレヤコレヤと話し合いながらやるのが好き.だから保守気質も維持される.

そう言えば,2014年に文科省が企画した「スーパーグローバル大学構想」ですが,それに応募した高知大学のプロジェクト構想名がこれ↓
「スーパーグローカルな高知大学の形成」
平成26年度スーパーグローバル大学等事業申請状況(文部科学省:PDFページ)
構想名からして企画の趣旨を真っ向否定.さすがトップダウンが嫌いなだけはある.
もちろん不採択でした.

今回当選した無所属の広田一氏も,以前は民主党からの推薦を受けていたこともあります.
今回の選挙では民進党の成れの果てである「希望の党」からのオファーがあったそうですが,これを断り,完全な無所属で「反安倍政権」による選挙活動を展開しています.
つまり「反自民」を掲げているわけで,今回の選挙結果は高知が反体制・反中央を示したと言えます.
ようするに,安倍政権に擦り寄るような奴をここから出したくない,ということ.世が中央になびく時代になったから,その反対の道を選んだということです.

冒頭にお話しした,「選挙とオープンキャンパスは似たところがある」ということについてですけど,それを一言で表せば,
「獲得数(入場者数)は選挙(オープンキャンパス)が始まる前に決まっている」
ということです.
これはオープンキャンパスではなく入試志願者数にしても一緒.
さらに付け加えるならば,
「その獲得数(入場者数)を増やそうと躍起になることで,本来の政治(教育)ができなくなる」
と言えます.
だから程々にしなければいけません.難しいのでしょうけど.

大学がその年にどんなに広告を頑張ったところで,入試志願者数が増えたりすることはありません.
志願者数とは,大学がそれまでの過去5年,10年の間にやってきたことの結果です.
これは選挙結果も一緒ですね.というか,そうであるべきです.

例えば沖縄県では,その他の地方の情勢とは裏腹に,自民党が負けました.
沖縄、自民に逆風強く 3選挙区敗北
こういうことに対し,「沖縄は左翼が強いから」と批判めいたことを言う人達もいますが,そもそも,沖縄で左翼勢力が強くなってしまった経緯や,左翼に頼ろうとする状況に目を向けなければいけません.

私も必ず毎年1〜2回は仕事で沖縄に行きますし,ゼミの学生にも沖縄出身の人がいるのですけど,ここ数年,いろいろ話を聞いてみても,この地では反基地の機運が高まっているのを確かに感じます.
それは,「沖縄県民の多くは,本当は基地を望んでいる」とか「反基地運動は本土から来た活動家がやっていること」などというレベルではなく,ようするに中央政府のやり口に辟易している住民は多いんです.
ですから,今回の沖縄の選挙結果は真摯に受け止め,基地問題について沖縄県民の要望はしっかり耳を傾けるべきです.

それに対し,「沖縄では反基地が勝ったかもしれないが,全国では自民が大勝している」と言い,その挙句,「だから沖縄は,日本政府における基地政策を聞き入れろ」と言い出す人もいます.
やばいですね.日本各地で選挙をして,そこから議員を選出している意義が分かっていないんでしょう.
2010年の民主党・鳩山政権の時にも同じこと言えばよかったのに.「“最低でも県外” は日本政府における基地政策なんだから,国民は聞き入れろ」って.

結局,これまでに沖縄県民の顔を札束ではたくような政策を続けてきたつけが,今になって噴出してきているんです.
そのつけは国民全体で考えなければいけないし,丁寧に向き合わなければならない事です.
その他,沖縄基地問題に関する話は過去記事にもありますので,ご参考まで.
沖縄基地問題を諦める
続・沖縄基地問題を諦める:私と同じ認識を示した某女性歌手への保守系論者の反応

他にも,「どうしてこんな奴が当選したんだ!」と憤りたくなる選挙結果はあるものです.
でも,彼ら/彼女らが当選したからにはそれなりの理由があるはずです.
その候補者に政治家になってもらおうという人々の要望はあったはずで,それがどういう性質のものかを考えなければいけません.
そこに善悪や正誤を見出すかどうかは別としても,これらをしっかり分析し,次の時代に備える.
こうした飽くなき取り組みが,政治の質を維持するためには大事だと想うのです.


2017年10月22日日曜日

今日は選挙ですね.お疲れ様です

今日は選挙ですね.
昨年の参議院選挙の時もそんな記事を書きました.
今日は参議院選挙

その時にも話したことですが,私は選挙には関心がありません.
選挙結果を動かすことになる部分での情報や話題の提供をすることにしています.その方が私一人投票に行くよりも有効だからです.私が1票投ずるよりも,私の考え方に動かされた誰か2名が投票してくれる方が,世のため私のためになるのですから.
方法としてはこのブログはもちろん,大学での授業とか井戸端会議などがあげられます.
それが私なりの政治参加と言えるでしょう.

ちょうどいい機会なのでここで告白しておくと,私自身が選挙に行くことは滅多にありません.
投票日に暇で時間を持て余している時には行ったことがあります.
たまに興味本位で行けば気分転換にもなりますし.
でも,今日みたいに雨が降っている日は絶対に行かない.
細かい話は上記記事で書いているので繰り返しませんけど.

でも,こういうこと言うと怒り出す人がいます.
「投票しなかった奴は政治に口出しする資格はない」とか,果ては「選挙で決まった結果が気に入らないなら日本から出て行け」などと言い出す人です.
こういった人が人間社会には一定数いるのは仕方がないことです.
もしかすると,いつもあまり時間がとれずに,選挙とか政治のことを深く考えられない人もいるかと思いますので,そのためかもしれません.

でも,心の底から本気で「投票しなかった奴は政治に口出しできない」と考えている人っているものです.けどこれは,「選挙と政治」について丁寧に考えてくれれば間違っていることはすぐに分かります.

よく,「きちんと筋道立てて考えれば誰でも分かることだ」と言う人がいます.
私も授業とか論文指導でも同じことを学生に言いますし,このブログでも使うことがありますけど,実はこれは嘘です.
どんなに丁寧に時間をかけて考えても,分からない奴はずっと分かりません.
私が授業やブログでこれを言うのは,ちょっと煽って聞き手の思考への動機を促すためです.本心からではありません.手遅れな奴には無意味です.
世の中の人全てに叡智を授けられるような教育方法はないのが現状なのです.

例えば,「投票しなかった奴は・・・」などと熱り立っている人に,選挙で投票することが政治参加することになっていないこと丁寧に語っても,そもそもこの人物に話を聞く準備(レディネス)ができていないから理解しません.

極稀に大学生にもそんな人がいますね.
「俺が考えていることが絶対に正しいのだから,この考えを受け入れてもらうために頑張ることがレベルの高い大学生の在り方なんだ」みたいな感じ.
最近では,むしろそんな骨のある学生が減ってきて面白くなくなった,と仰る先生方もいますけど.

そんな学生と向き合い学術的な思考法を教えることによって,かえってこういう学生の方がアカデミックな領域に興味を見出すことがあります.それまでの反動でしょうか.
自分が信じて疑わなかったものが壊される快感,唯一絶対の解など無いことを知り,だからこそ唯一絶対のものを探したくなる好奇心.

結局のところ,大学教育というのは「何が正しいのか」ではなくて,「何が間違っているのか」を研究するところのように思います.そのほうがしっくりくる.
何が正しいのかを研究するのは,大学教育を受けた先のことです.

そんなこと言っていると,「四の五の言う前に,『投票しなかった奴でも政治に口出しできる』その根拠を言えよ」と言い出す人もいるかもしれません.
もしあなたが本当にそのように考えているのであれば,こう考えてみてははどうでしょう.
「投票しなかった奴は政治に口出しできない状態」をつくるとどうなるか,ということ.
これでは政治が成り立たないことが容易に分かるかと思います.投票しなかったことが理由で政治に口出しできないとか,どんな酔っぱらい国家だよ,と.

さらには,政治に口出しするとはどういうことか? なにをもって口出しなのか?
そもそも,政治とは何を指しているのか?
逆に言えば,投票した奴が政治に口出しできるという根拠はどこにあるのか? 投票という行為によって「口出し」できるようになる理屈はなんなのか?
投票しなかった奴が政治に口出しできない理由はなにか?

考える時間がなくて感情的に「投票しなかった奴は・・」と言っていた人であれば,すぐにこの主張のバカバカしさを察知できると思います.
でも,分からない人もいますよね.はい,いるんです,どうしても一定数は.

別に思考能力に障害を抱えているわけじゃない.自分の今の状態や考え方が絶対的に正しいと居直っているのです.
その理由はきっと,人生のどこかで「選挙で投票することが国民の政治参加」だとでも教えられたのでしょう.
本人は至って「正しいこと」をしているつもり.だからその「正しいこと」とは反対のことをしているのは「間違っている」と.典型的なバカですね.

選挙と食事はよく似ています.先日,選挙期間ということもあって私の外食事情を記事にしましたが,これは私なりの選挙論です.気になる人はこちらも合わせて読んで下さい.
最近の自宅周辺の外食事情
私は馴染みの寿司屋と中華料理屋では,注文しなくても料理や酒が出てきます.
それを見て「あの人,注文せずに料理を食べているのはおかしい」とは言いませんよね.
「注文」という手続きを踏むことは正しいことです.でも.そうでない道があることも知るべきです.
注文したからって美味い料理が食べられるわけでもないし,その逆もまた然り.
だから,気に入らなければ「今日のこれ,あんまり美味しくないですね」って言えばいいことです.注文してないからって批評してはいけない理由はない.むしろ,注文していなからこそ店の側には響くとも言える.
もちろん,それで店に行くのを辞めるわけじゃない.これからも足繁く通うんです.でも,批評はする.それでいいじゃないですか.
ココらへんのことが分かってくれれば,選挙も同じことだと察してくれるでしょう.

結局,「投票しなかった奴は・・」などと言っている人は,選挙や政治に対する捉え方が幼稚なんです.誤解を恐れずに言えば,選挙での投票を義務付けている国・社会もやっぱり政治として幼稚なんですよ.国家としての連帯の危うさを漂わせていることの裏返しと言えます.要するに学校の「部活」みたいなもの.
幼稚っていうのは言いすぎでしょうけど,こんなことを義務みたいに考える社会は恥ずべきものです.実際,投票を義務にしている国なんてほとんどありませんし,あってもそれなりの事情が垣間見えます.
義務投票制(wikipedia)

いえ,別に私はこういう人達を否定したいわけではありません.こういうような人達であっても,我々日本国民であることに変わりはありません.
国が安定してくれればそれでいい.そのために選挙が機能してくれればいいんですよ.
選挙とは,「我々国民の意見を聞け〜!」っていう人を黙らせるシステムと言えます.
投票させてあげることで「私は今,政治参加しているぞ!」という気分になってくれるのであれば,それでOKなんです.

でも最近は,衆議院と参議院を一緒にして「一院制」にしようとか,国民が首相を選挙で直接選ぶ「首相公選制」にしようといった話が持ち上がっています.
これこそが最も危ない.
注文することに正義感と義務感を見出した者は,その欲望に取り憑かれます.
つまり,「投票した者こそが政治に口出しできる」というところを通り過ぎ,「投票によって政治に口出しできる」ところまで来てしまった.

こういう話は選挙結果や,投票に行った/行かなかったでどうにかなるものではありません.
選挙とか投票率とは関係がないことです.世論に訴えなければならない話ですから.

料理屋に来たからには,どうしても自分の気に入ったものを食べたいと考え「注文」する人は多いでしょう.
でも,注文しようとしまいと,旨い料理を食べることとは関係がないことを知るべきです.むしろ,メニューを選りに選って,結局まずいものを注文することだってある.
それに,注文の数にこだわり「人気メニュー」など分析していたら,料理人もそれに翻弄され,本当に旨い料理が食べられなくなるかもしれません.

2017年10月19日木曜日

体育学的映画論「ダンケルク」

先月から公開されているクリストファー・ノーラン監督作品『ダンケルク』(2017年)を,先日ようやく見ることができました.
公開前からかなり期待していたのですが,その期待を裏切らない迫力ある映画でした.

ネット配信されるようになったらもう一度見てみようとは思いますが,これは映画館で見ることをオススメします.
「追い詰められた軍隊」について,戦地での緊迫感や絶望感を追体験できる映画です.
特に,映画冒頭にある「最初の弾丸」からの銃撃戦で「生き残るために逃げている」側にいることを意識付けられ,没入感は最高.

そう言えば,三谷幸喜監督の映画に『ラヂオの時間』(1997年)というのがあるのですが,そこで「頭にマシンガンの音が必要なんだ.そこで惹きつけておかないと客が食いつかない」とマシンガンの効果音に拘る場面があります.なんだかそれを思い出させられました.
あとは終始,ハンス・ジマーによる不安を煽る重低音の音楽が(いい意味で)ダラダラと流れつづけており,気分が滅入ります.

予告映像にもありますが,浜辺にて帰国用の船を待つ兵隊の行列.
爆撃や機銃掃射を受けても,彼らは行列を崩さない.東京人もびっくりの「行列のできる浜辺」です.
私が過去記事で言いたかったことを「戦争」を通して間接的に表現しているとも言えます.その意味でもとても興味深い.
整列乗車はマナーではない

陸・海・空それぞれのシーンで異なる時間軸により話が進んで行き,最後に3つが統合されるという手法をとっているのですが,これも小説を読んでいるようで面白かった.

とりあえず,英国ジジイがカッコよすぎる映画です.

映画評なんかを見てみますと,ストーリーがないので退屈だとか,「ダンケルクの戦い」を事前に知っていないと意味がわからないなどというコメントが散見されます.
たしかに,ただひたすらダンケルク港からの撤退作業を見させられているのは事実です.
でも,私としては「こういう戦争映画が見たかった」と感じさせられたのも事実でして.
戦争映画の描き方の転機となる作品になるのではないかと思うんですよ.

それはもしかすると,近代以降における「戦争」を考えるテーマにもなるかもしれません.
つまり,「近代戦争とは,そもそも『ストーリーがない』のではないか?」という問題提起.
現代においては尚の事,顔の見えない,物語のない戦争が展開されている.
以前,そんなことを記事にしたこともありました.
人間は『身体』を通して理解する「ガンダムW編」

いえ,戦争にストーリーがないのは近現代に限らず,人類の歴史すべてにおいて言えるのかもしれません.
しかし,かつてはストーリーにすることができたのです.人の姿形が見えていたからです.

スピットファイアと小舟が,戦争において「人の姿形」を見せるための最後の依代だ.
『ダンケルク』において感じるのは,そうした戦争と身体の臨界点のように思えます.

2017年10月16日月曜日

最近の自宅周辺の外食事情

関東に移住してしばらくは味付けの違いに辟易しており,仕方なく自炊することも多かったのですが,ここ数年は自分好みの料理を出してくれるお店を見つけて安定しております.
自宅周辺と勤務先の間にある,うどん,寿司,ラーメン,中華をローテしているところです.
安定するまで2年かかりました.

もともと,外食に限らず同じ店に繰り返し足を運ぶタチではあります.
理髪店もずっと馴染みのお店ですし,衣服もずっと自宅近くのAOKI.毎朝・毎晩通うコンビニも,自宅前のセブンイレブンです.

同じ店を使い続けると,当たり前ですけど「常連客」になります.
常連客って楽なんですよ.きっと店側もそうです.
そういう関係がなにかと楽だし,楽だから「楽しい」.

理髪店なら「いつもの感じで」で済ませられるし,ちょっとした追加注文するにしても話が通りやすい.床屋談義は月に一度の楽しみになります.
服を買うにしても,いつもの店なら馴染みの店員が対応してくれるので,最近のファッション事情なんかをいろいろ教えてくれます.私は服選びで悩みたくないので,その店員に任せることにしています.そこらへんの詳細は,過去記事にしたことがあります.
若手研究者用:スーツの上手な買い方・着方

さて,外食の話ですけど,私は30歳を越えてから寿司屋に足を運ぶようになりました.
もちろん回転していない店です.独身貴族ならではの楽しみだと思っています.
私が通っている店はそんなに高級なところではなく,安くあげれば3000円くらいで満腹になります.
けど,腕は確かなようでして,いつも繁盛していて予約無しで入ることは難しいですね.

私はいつも予約して行っています.一人なので席を取るのは簡単です.
何回か通っているうちに私を覚えてくれて,注文もスムーズになりました.
そのうちこっちが何も言わなくても「次,玉子握りますね」とか「お味噌汁を出していいですか?」,最後は「お茶を出してもいいですか?」ってなります.

いつも混んでいる店ですが,たまにポッカリと空いている時があるものです.
私は普段口をきかないのですけど,こういう時だけですね,大将と話しをするのは.
私も高知の港町出身ですから,それなりに魚の話題では盛り上がれます.魚料理や寿司屋について,いろいろ話が聞けるのは楽しいものです.
混んでいる時は,脂ギッシュなオッサン達が次から次へと「ヘイッ大将!」ってな感じで喋りたがるので,私みたいな若輩者が口を出すのは控えているんです.
大将としても,混んでいる時は私とは二言三言話して,あとは一人にしてくれます.あくまで私が「夕飯を食べに来ている」ということを尊重してくれるんです.夕飯用のものを握ってくれるし.

あと,寿司屋が暇な時にはよくあることなんでしょうけど,本来なら出さないネタを握って出してくれたりします.
先日は熟成マグロを出してくれました.なんでも,大将が最も好きなネタなんだそうです.
私,マグロって好きな魚じゃないんです.関東の人は好んで食べますけどね.ブリとかカツオのほうが美味しいのにって思っていました.
でも今回,熟成マグロを食べさせてもらって,マグロをみなおしました.あれはたしかに旨い.
こういうところが常連客になるいいところですね.

その寿司屋から200mほどのところに,行列のできる不味いラーメン屋があります.
どうして行列ができるのか不思議でならないのですけど,そのラーメン屋の向かいに中華料理屋があります.
ここがメチャクチャ美味い.

中国人のオッサンが料理やってて,店員も中国の女の子.客にも中国人が多いんです.
案の定,エビチリが不味い.けど,その他のメニューはすこぶる旨い.
ここも足繁く通っているうちに店員に覚えてもらえました.
この1年くらいはずっと「ピーマンと牛肉の細切り炒め」か「ナスと豚肉の甘味噌炒め」を基本とする定食しか注文しなくなっているので,注文を取りに来た女の子が「キョーはナスが無くなったデスヨォ」って親切に教えてくれることがあります.
実は「キクラゲと玉子の炒め物」もかなり美味しいんですけど,そこは一つ「じゃあ,ピーマンで」って.もしかしたら厨房のオッサンも既にピーマンを炒め始めてるかもしれないし.
こういうところが常連客のいいところですね.

この中華料理屋から100mほどのところに,行列ができない旨いラーメン屋があります.
行列ができないというだけで私のポイントは高い.極めて優秀な経営をされています.
麺,スープ,具,どれをとっても非常にオーソドックスなものを出してくれる店で,「私は今,普通にラーメンを食べているぞ」という気分にさせてくれるところです.

ひたすら黙々とラーメンを作り続けるオヤジ.無駄なことは一切しない.
私も昨年までは「麺は硬めで」と追加注文していましたが,最近は何も言わなくなりました.
「えぇっと,ラーメン」
「はいよ」
・・・
「はいお待ち」
それだけ.
こちらも食ったらすぐ帰る.
滞在時間およそ10分.
これぞラーメン屋.


2017年10月15日日曜日

パイナップルの食べ方

どうでもいい話ですけど,高知つながりでもう一つ.
毎年,実家からパイナップルが送られてきます.しかも,年に何回か.

母の園芸の趣味が発展してゆき,15年くらい前から実家ではパイナップルが栽培されているんです.

過去記事の■“日本一”の故郷を撮るでも紹介しましたが,こんな感じです↓

先日も「今年最後だから」などと言いながらパイナップルが3個送られてきました.
実際,これを処理するのが大変です.
大学院生だった頃は,院生室の皆で分け合って食べていたのですけど,今となっては「パイナップルを分け合う」ような環境にもなく.
私が家族持ちなら楽しく食べるイベントになるのでしょうけど,そうではないので「処理」という言葉がぴったりなのが哀しいですね.

パイナップルは新聞紙にくるまれて送られてきます.
高知からなので高知新聞にくるまれています.


冒頭の写真や見慣れたパイナップルと比べると果実が強いオレンジ色ですが,これが完熟したパイナップルの証拠です.
ここではキッチンの電球の色の影響もありますが,普通に売られているものと比較すると真っ赤です.

これを切っていきます.
まずは実の上下を切り落とします.


次に,側面の皮を削ぎ落とします.
遠慮なく大胆に切り落として構いません.「処理」なので.
「もったいない」からと細かく削っていたら面倒くさいことこの上ないですし.
あと,新聞紙の上で切れば,あとの片付けが楽です.


皮を削ぎ落としたら,次は「芯」の周りにある果肉を削っていきます.
これも大胆に切り落としていく感じです.
ここまでくると部屋中にパイナップル臭が充満し,トロピカルな雰囲気を漂わせます.
一旦部屋を出た後,また帰ってきた時の匂いが凄いです.


芯だけになりました.


普通はこの「芯」は捨ててしまうのですが,実はこの芯の周りにある果肉こそがパイナップルで最も美味しいところです.
さしずめ「マグロのなかおち」「ヒラメのエンガワ」みたいなもの.
なので,以下のように削っていきます.


一般に売られているパイナップルでは「芯」の周りは美味しくないかもしれません.
繊維質ばかりで食べられたものではないかと思います.
ここが美味しく食べられるのは,ちゃんと完熟したパイナップルだけです.
パイナップル独特の刺激性がなく,程よい上品な甘さが絶妙なところなんですよ.

皿に盛り付ければ完成.

気分はすっかり南国ハワイ,ではなく,南国土佐の実家の庭です.
これが実家の庭園↓


2017年10月14日土曜日

高知と映画(全体とは部分の総和以上のなにかである)

どうして高知の映画の話題なのかと言うと,私が高知出身だからです.
知らない人がいたらと思い,念のため.

先日,こんなニュースがありました.
「0.5ミリ」の安藤桃子監督が高知に映画館オープン(映画.com 2017.10.7)
安藤サクラ主演の「0.5ミリ」などで知られる映画監督の安藤桃子氏が企画・運営する映画館「ウィークエンドキネマM」が10月7日、高知市内でオープン。父で映画監督、俳優の奥田瑛二、エッセイストの安藤和津ら奥田ファミリーも応援に駆けつけた。(中略)安藤監督は外観、内装から、作品選び、配給まで全面プロデュース。映画館前の通りには出店で賑わう中、呼び込み、チケットのもぎり、上映前には作品紹介の“前説”も。「ザ・トライブ」の上映の際には、通りかかった10代の若者グループに丁寧に説明し、勧誘に成功。「目標は高知の映画人口を増やすこと。映画をきっかけに町が賑わいを取り戻せたら」と言葉に力を込めた。今後は、トークショーやイベントなども企画しているという。
映画そのものの凋落もありますが,過疎化が進む高知では映画館が軒並み潰れているのが現状でした.
なぜ安藤監督が高知で映画館を始めたのか? というと,以下のような理由なのだそうです.
安藤監督は13年、「0.5ミリ」を高知で撮影したことがきっかけで移住。その際、04年に廃館になった高知東映の存在を知り、復館できないものかとの思いを強くした。
なんと,高知に移住されていたんですね.
父、奥田は07年11月から約4年間、山口県下関市で自身のミニシアター「シアターゼロ」を運営しており、奥田ファミリーで映画館を経営するのは2館目となる。「シアターゼロ」の立ち上げも手伝った安藤監督は「父が下関の映画館で苦労する姿、喜ぶ姿を見てきた。独立プロで映画を作ってきた人間としては、映画の入り口から出口までやってみたいとの思いが最初からありました」と話した。
奥田は「僕は映画人として、監督をやって、興行もやり、全てを経験したけども、奇しくも親子で、新たに映画のシステム全体を経験する人が生まれることはうれしい。僕が下関でやってきたことを受け継いでくれたかなと思うと、感無量です」と喜んでいた。
お父様である奥田瑛二氏も,山口県で同じことをやっていたのだそうです.
私は体育・スポーツ科学の研究者・教育者・指導者をやっていますけど,安藤氏が語る「入り口から出口までやってみたいとの思い」というのは分かる気がします.
部分部分を突き詰めていくのも良いですし,今時,効率よく生きていくにはどうしても「部分」を扱わざるをえないという現実がありますけど,やっぱり「全体」を扱う楽しみはあるものです.研究は研究,教育は教育,指導は指導という具合いに分断させて活動している同業者は多いものですが,これらを連結させることは魅力的です.

高知新聞にはこんな記事も載っていました.
高知市街に10/7に映画館が開業 安藤桃子さん運営(高知新聞2017.9.21)
「街中に映画館を再興したい」との4年越しの情熱を実らせた。「何かが起きる劇場にしたい」と思いを膨らませている。(中略)桃子さんが代表を務める会社が運営し、上映本数は月6~8本が目標。東京からゲストを呼んだり、奥田瑛二さんが活弁士を務める無声映画を上映したりする構想もある。
「高知のお客さんが求める作品を探りながら、これぞという作品があれば上映したい」と桃子さん。「少々アバンギャルドな作品も挑戦します」と、いたずらっぽく笑った。
「何かが起きる企画にしたい」というのは,見通しの甘さからくる失敗フラグとも言えますし,一昔前の私なら「こりゃダメだな」と思っていたことです.
でも,大人になってからはそんな取り組みも有りかなと考えるようになりました.
この安藤監督ですが,年齢も私と違わない人ですし,いろいろと注目しておきたい人です.

ところで,安藤監督は「少々アバンギャルドな作品も挑戦します」とのことですが,高知ではアバンギャルドな作品を好む下地はあるようですので,挑戦のし甲斐はあると思われます.
実は今夏,高知で珍しい映画の取り組みがありました.
「神様メール」で知られるベルギー映画界の鬼才ジャコ・ヴァン・ドルマン監督が手がける『キス&クライ』を,日本で唯一公開したのが高知県立美術館だったんです.

「キス&クライ」はただの映画ではありません.舞台でもあるのです.いえ,映画を舞台にしているとも言える・・・.と言っても難しいですね.
どういうことかというと,今まさにそこで舞台をしつつ,それを映画として上映するという奇妙奇天烈な作品だからです.つまり,観客は舞台を見ながら,同時にその舞台を映画として見ることができる.しかも,作品時間は90分間と非常に長い.

詳細は以下をどうぞ.
ホール事業:「キス&クライ」-KISS CRY-(ベルギー)(高知県立美術館)
全篇90分にも及ぶ長篇映画を創り出せるのは、計算し尽くされた緻密な動きの構成と、ドルマル監督率いる最高の映画スタッフの布陣の賜物。ミシェル・アンヌが考案した手の踊り“ナノ・ダンス”は、見えない主人公の視線や気配を感じさせ、優しく語りかけるナレーションが相まって、直感的な解釈を際立たせてくれます。メディアに“記録”して再生可能にする「映画」に対し、限られた時間に劇場へ足を運ぶ観客の“記憶”にのみ共有される「舞台」。相反した手法が見事に融合した珠玉のスペクタクルは、観劇する者のみに贈られる至上の時間となるでしょう。
こういうの,私は好きですよ.見れてないけど.
「舞台を映画にしてしまえ」っていう企画を本気出してしまった結果ですね.

この「舞台と映画の融合」の似た取り組みに,監督・三谷幸喜,主演・竹内結子の『大空港2013』というのがあります.
約100分の映画ですが,それを全てノンストップのワンカットで撮りきっているんです.これも非常に面白い.
最近話題になったものとしては,ドイツの『ヴィクトリア』っていう映画があります.

これらはどちらかと言うと「映画で舞台をやった」という趣旨ですが,前述のキス&クライは「映画を舞台でやった」というところ.
いずれも作品としては映画ではありますが,舞台の魅力も併せ持っているわけです.

舞台では視点や焦点,視野・画角といったものは観客に委ねられます.「見るところ」は見る側が決めているんです.一方,映画ではカメラに頼ることになります.カメラが撮っているところが「見るところ」なんです.
その点,「映画で舞台」をやったり,「映画を舞台」でやることによって,舞台や映画において前提となっている「見るところ」が観客の前で解体されてしまう.そこに,こういう手法の魅力があるのだと思います.


2017年10月8日日曜日

体育学的映画論「鬼龍院花子の生涯」

ちょっと前の話ですが,本学の野球部の数名が不祥事を起こしました.
当事者間での示談で済んだので表沙汰にはならなかったのですが,週刊誌あたりが嗅ぎ付けるとそれなりに危ない事件ではあったんです.

最近の大学では,初年次教育で担当しているクラス(主に「基礎演習」などと呼称される)を,学校で言うところの「ホームルーム担任」のように扱っているところが少なくありません.
学生生活の相談事や,今回のような学生の不祥事があったら,その担任の教員が対応するという次第です.
うちの大学もそうでして,私もその担任をやっています.

不祥事を起こした野球部の一人が私が担任をしていたクラスの学生でしたので,担任である私も呼ばれて「面談指導」をやることになりました.
知らない人は驚かれるのですが,今の大学はこういうことをやるんです.「学生課」とか「教務課」あたりが処理するわけじゃありません.

学科長と,当該学生たちの担任である私ともう一人の先生が面談を担当しました.
事の次第を聞き取り,彼らの反省の弁を聞くということだったのですが,私にはそのうちの一人がどうも反省しているように見えなかったんですね.
「はいはい,反省してるって言えばいいんでしょ」みたいな態度でふんぞり返って,薄ら笑いを浮かべる場面もあったりで.

さすがの私も,それにキレてしまったようなんです.
私と面識のある人は知っているかと思いますが,私はとても優しく心穏やかな人物です.私が怒るところはもちろんのこと,機嫌が悪いところも見たこと無いはずです.パワフルプロ野球なら「安定感」と「ピンチ◯」が必ずついているでしょう.

だから「キレた」と言っても,結構穏やかにキレたはずなんです.怒鳴り散らすようなことはしていません.
「君たちがやったことは,とても大変なことなんだよ.そんな態度でいると,今に取り返しのつかないことになってしまうよ.なめてかかってはいけませんよ」という趣旨のことを言ったと思います.

あんなに優しく朗らかな私がブチ切れたのですから,これが学生(だけでなく他の先生も)には衝撃的だったらしく,泣き出しそうな奴もいました.
以後,彼らは反省したようで,授業でも大人しくなったようですし,野球部内での素行の悪さもおさまったと聞いています.
中高生とは違い,さすがに大学生になったら聞き分けがありますね.

面談が終わって,同席していた学科長が言うんです.
「先生が高知出身だということを,あらためて知った気がします」って.
どういうことですか?って聞いたら,
「昔の映画にありましたよね.夏目雅子の『なめたらいかんぜよ!』っていうの.あれを間近でネイティブから聞けて嬉しかったです.やっぱり土佐弁は迫力がありますね」なんて言うんですよ.
どうやら上述した学生に諭した言葉を,私は高ぶる感情のなか「土佐弁(厳密には幡多弁)」でしゃべっていたんです.
東京の人たちには刺激が強かったかもしれません.

かつて,「なめたらいかんぜよ」というセリフが流行したらしいんですね.実際,私が高知出身だというと,これを話題にする人がたまにいます.
でも,それがどういう映画の誰のセリフなのか知らないままでいたんですが,この度,動画配信サイトで『鬼龍院花子の生涯』(1982年)を見たので「あぁ〜,これかぁ!」ってなりました.
「なめたらいかんぜよ」は,以下のユーチューブ動画で見ることができます.
夏目雅子「なめたらいかんぜよ」(youtube)
ちなみに,それまではなんとなく「スケバン刑事」あたりのセリフかなって思ってました.スケバン刑事も見たことないですけど.

「鬼龍院・・」なんてところから察せられるように,これはヤクザ映画,任侠映画です.
実は1984年にテレビドラマ化され,また最近になって観月ありさ主演(2010年)でテレビドラマにもなったらしいんですね.全部知りませんけど.

ヤクザ映画の面白さがずっと分からなかったのですが,ここ数年見るようになりました.
決して誉められた生き方ではないけれど,それだけに,だからこそ「自分の人生」として納得できるものにするため,必死に藻掻く人間の姿を描いているものが多いですね.

「鬼龍院花子の生涯」はその典型で,主人公の松恵の境遇がヤクザ映画の本質を見せているように思うのです.
主人公・松恵は鬼龍院家の実娘ではなく,望んでヤクザの家の娘になったわけでもないし,大人になってからも小学校の先生として生きようとしています.
とにかくヤクザの世界から逃げ出そうとしているのですが,それでも運命は彼女に味方せず,本人も結局は鬼龍院の娘であることを受け入れる.
例の「なめたらいかんぜよ」というセリフは,それを象徴するシーンで発せられます.

そんな松恵の視点から見ることによって,鬼龍院の実娘である花子への哀れみは格別のものとなります.
小説や映画のタイトルが『鬼龍院花子の生涯』となっていますが,一見,鬼龍院花子のエピソードやシーンは少なく,主人公であり語り部である人物も,その姉である松恵です.
でも,そんな境遇の松恵の視点から見るからこそ,ヤクザ者の世界の虚しさと,その中で必死に「良い生き方」を模索する人々の,なかでも「極道の女」である花子の生涯が際立つのでしょう.

ちなみに「極道のオンナ」と言えば,主人公・松恵の義理母であり鬼龍院政五郎の妻である歌役をした岩下志麻さんは,この映画で初めて極道の妻を演じたそうです.それまで岩下志麻さんは清楚で可憐な役柄で売っていたそうなので,そこから180度方向転換した体当り出演ということなります.
しかしこれが「岩下志麻=極道の妻」誕生の瞬間となりました.
私達の世代にとっては,岩下志麻さんと言えば,高そうな着物着てマシンガン撃ってるイメージしかありませんからね.


2017年10月6日金曜日

大学現場の凄惨さがネット記事になっている

こんなネット記事がありました.
日本のアカデミズムは危機にあるのか――ノーベル賞受賞者も警鐘(ヤフー・ニュース2017.10.5)

「危機にあるのか?」とか言ってる場合じゃなくて,もう既に危機を通り過ぎて「手遅れ」になっているんだ,ということを,このブログでは5〜6年前から指摘してきたところです.
ようやく,こういう人目につくニュース・サイトでも大学教育の危機感を煽るようになってきましたね.
でも,そういう段階になっている時点で,先ほど申したように既に「手遅れ」なんです.
一般大衆ですら「気になる」ようなレベルになった時点で,もう打つ手はなくなっています.

私がこのブログを始めるよりもずっと以前から,大学教育のことを本気で心配していた諸先生方は「このままじゃヤバい」とさんざん指摘していました.
しかし,こういう指摘は当時,「象牙の塔にはびこる保守的な態度」と言われたり,「大学教員なんて所詮は社会不適合者の集まりだから,もっと外部の風を取り込まなければならない」などと嘲笑されていたのです.

上記のネット記事のアウトラインを並べてみました.
・地方から失われていく、科学研究の基礎体力
・世界における「科学エリート」の地位を失いつつある
・「就職できないから」東京大学でも大学院生が減少
・問題を抱える「任期付きポスト」
・科学技術への投資なくして日本に未来はない
どれも過去記事で取り上げてきたことですけど,私のブログよりも丁寧に取材されていますので,気になる人はぜひご確認ください.

その記事の中から,話題を一つを挙げておきます.
こうした傾向に、深い懸念を抱いている研究者は多い。
その一人が2015年に「ニュートリノ振動の発見」でノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章・東京大学宇宙線研究所所長だ。
(中略)
梶田氏は、この20年ほどで普及してきた「選択と集中」という言葉に、基礎研究の立場から違和感を覚えるという。
「『選択と集中』は盛んに言われてきた言葉ですが、その結果、大学がどうなったか。東大はいいかもしれないですけど、地方の国立大学では衰退が激しくなった。学問の多様性を急激に失わせている気がして、将来の芽が出る前に根こそぎなくしているような感じがするのです。むしろ、重要なのは多様性です。科学には多様な可能性があるので、きちんとサポートしていかないといけない。それは、つまり、無駄になる研究もあるかもしれないということ。それでも、そうした部分に目をつむるという感覚も必要なのだと思います」
同じことを私も繰り返し過去記事で書いてきましたが,どこの馬の骨か知れない奴の言葉と違って,東京大学ノーベル賞受賞者の言葉には説得力がありますね.

梶田先生の言葉に付け加えるとすれば,そもそも「選択と集中」によって何を求めていたのかが問題だったのです.
多くの人々は,選択と集中によって大学教育や研究が活発化するものと思っていたのです.バカですね.どうしてそうなるのか意味不明です.
「選択」して「集中」するのだから,当然のことながら一方では「選択されず」に「放置」される領域が出てくることを意味します.それでどうして活性化すると思ったのか.

当たり前のことですが,「選択と集中」というのは,限られた資源をどこかの部分に集中的に配分して,その領域だけを生き残らせようという手法のことです.
当然のことながら,選択して集中させるわけですから,そこでは「競争」がなくなることを意味します.複数のグループが切磋琢磨して競い合う,ということを避ける方法としては優秀なので.

ところが,世の中の多くの人々は「選択」するための領域やグループを「競争」させることによって,その結果当該領域が「活性化」するのではないかと考えていたフシがあります.科学研究費補助金なんかが典型です.
どう考えても無理筋なのですが,この浅はかな思考が反省されることはありません.

「反省されることがない」
これが最大の問題点でしょう.
ですから,この「大学教育の危機」というのは既に手遅れなのです.

今後ですが,堕ちるところまで堕ちたら,その原因や経緯を当たり障りのない別の何かで誤魔化しつつ,何事もなかったかのように「大学教育」に似た何かを改めて始めるものと思われます.

関連記事

2017年10月5日木曜日

t検定:対応のある/なしの違いは何か

統計学を専門にされている人にとっては常識であっても,
その他の人たちにとっては意外とスルーして,
且つ,手軽にエクセルや統計解析ソフトが使えるようになった現在,
今更そんな基礎的なことを確認するのも面倒だと思いつつも,
統計処理をする上ではやっぱり知っておいた方がいいことは確かだという認識はある.

実験や調査データを扱う人たちにとって,こういう話は多いものです.

これまで本ブログではニッチなネタを取り上げてきましたが,せっかく閲覧者数も多いので,もっと基本的なところを扱ってみたいと思います.

今回は研究論文でも非常にお世話になる統計手法の一つ,「t検定」について,「対応のある」「対応のない」の違いはどこにあるのかお話します.
なまじエクセルやSPSSなどを使っていると,たんに「対応のある」「対応のない」を使い分けるだけで,その計算方法の違いが分からないままです.
計算方法を知らなくても有意差の有無を判別することができるようになった時代だからこそ,その計算方法の違いを知っておく必要があります.

例題となるデータを以下に示します.
左側は対応のあるデータ,右側は対応のないデータ.両者とも比較対象となる測定値は同じです.
そして,それぞれ対応のあるt検定と対応のないt検定でp値を算出済みです.

対応のあるデータでは5%水準で有意差あり,対応のないデータは有意差なしになっています.
上記のように,同じ値の2群であっても,対応のある/なしでp値は変わってきます.
それは計算方法が異なるからなのですが,冒頭お話したように,具体的にどのように異なっているのかは案外知られていません.

両者の違いはエクセルの関数や統計パッケージを使っているとスルー出来てしまえるのですが,今回,あえて計算式をエクセル上に展開してみます.
そこから両者の違いを明確に知ることができます.

まず,対応のあるt検定は,2群間における個々の差を算出します.
一方の対応のないt検定では,両者の分散(もしくは標準偏差)さえ分かっていれば算出できるのです.
以下を御覧ください.


対応のあるt検定では,2群間における個々の差を算出し,それらを使って標本分散を算出します.エクセル関数では「VARP」を使って算出できます.
一方,対応のないt検定では,各群の分散もしくは標準偏差を算出します.エクセル関数では分散は「VAR」,標準偏差は「STDEV」で算出できます.

その後はt値の算出になります.
対応のあるt検定であれば,以下のような式から求められます.

すなわち,両群間の平均値の差(差の平均値)を,両群間における差の標本分散を使って計算しているのです.
※なお,「5−1」というのは「n−1」のことです.例のデータではn数は5なので.

一方の,対応のないt検定は以下の通り.

こちらは,両群間の平均値の差を,各群の分散(もしくは標準偏差の2乗)を使って算出しています.
※なお,こちらの式の中にある「5」というのもn数のことです.

両群とも平均値の差を検定していることは同じなのですが,そのなかでも対応のあるt検定は2群間に現れた差のバラツキ具合いを検定しているのに対し,対応のないt検定では両群の測定値のバラツキ具合いを検定しているんです.

ですから,対応のないt検定では両群のn数が異なっていても算出できます.
一方の,対応のあるt検定ではn数が違っていたり,データを並べる順番を間違うと算出できなくなる理由は明白ですね.両群の個々の差を算出し,そのデータを使っているからです.

私が学生の頃の話です.
報告書みたいなものに有意差検定がされていないデータが載っていまして,「このデータに有意差はあるのかなぁ.でも,統計処理されていないし」なんて話をしていたんですね.
そしたら先生が「平均値と標準偏差とn数が分かっているんだから,早く有意性の有無を算出しなさい」って言うんです.
その頃はてっきりt検定は個々の全データがなければ算出できないと思っていました.実際,エクセルやSPSSでは個々のデータを全て入力しなければ自動算出してくれませんから.
「これだけじゃ出来ませんよ(だって,ここには生のデータが無いんだもん)」って思っていたのですが,実は対応のないt検定なら計算できるんですよね.
標準偏差は2乗すれば分散になるのですから,電卓さえあれば苦もなく算出できるのです.
っていうか,論文などに掲載する研究データとして「平均値」「標準偏差」「n数」を載せるのは,そのためだったりします.
パソコンや統計パッケージを使うことが当たり前になってくると,そんな基本的なところをすっ飛ばしてしまうようになります.注意が必要です.

では最後に,得られたt値から「TDIST」というエクセル関数を使ってp値を出しましょう.
対応のあるt検定では以下のようになります.

t値を選んだあとは,自由度のところに「n−1(5−1)」である「4」を.
尾部には両側検定である「2」を入力します.

対応のないt検定はこちら.

こちらは,t値のあとの自由度は「全n−2」になりますので,「10−2」である「8」を.
尾部は同じく両側検定の「2」を入力します.

以下のように,エクセル関数で算出したものと比較しても,同じp値であることが確認できます.



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その他,こういう怪しいブログ記事よりも,ちゃんと勉強になる書籍もご紹介しておきます.
詳しくは,
独学で統計処理作業をスキルアップさせるための本
を御覧ください.


2017年10月2日月曜日

ラスベガスで起きた銃乱射事件について

被害者の方々にはお悔やみを申し上げるとしても,アメリカでこういう事件が起きてもあまり驚きが無いのが正直なところですね.
つくづくヤバい国だと思わされます.

ただこれ,人類の長い歴史の中で,どこかで誰かがやりかねない事件ですよね.
かつて,やろうと思った人はたくさんいたはずですし.
今回の犯人は,たまたま銃や弾をたくさん買える経済力と,射撃の腕前が優秀だったからこれだけの被害が出たと考えられなくもない.

YouTubeで現場の映像を見ましたが,マシンガンをフルオートで撃ってますよね.しかも夜に.
普通なら当たりにくいはずなのですが,これには高いところから人の密集地に向かって撃つという,とても合理的な方法で対処しています.冷酷なほど頭がいいですね.
案の定,犯人は自殺していたそうです.ある種の自爆テロ.

「アメリカは銃社会だから」というコメントも散見されますが,こうした事件とはあまり関係ないと思います.
日本でも昨年,神奈川県相模原市で銃も使わず20人近く殺害された事件がありました.その前は,オタクの聖地で暴れた人もいます.
日本では刃物を持って無差別殺人するのが主流なんですね.もしかすると海外では,やっぱり「日本はサムライ社会だから」と言われているのかもしれません.

本人が死ぬ気でいるなら,東京の満員電車にガソリンタンク背負って火を付ければ,50人くらいは余裕で殺せます.
別に死ぬ気がなくても,ジワジワと拡散する毒ガスを車内にバラ撒けば何十人も被害が・・・って,それは既に経験済みですね.
電車内でのガソリン着火にしても,2年前に東海道新幹線で死傷者を出しています.この時は,車内が混み合ってなくてよかったですね.

こういう事件が起こったのですから,これに喚起されて類似した「自暴自棄による大量殺人事件」が発生しないことを祈るばかりです.
著名人の自殺とか,未成年の自殺などが取り上げられると,それに呼応するように自殺者数が増加するという現象がありますよね.ウェルテル効果というやつです.
ウェルテル効果(wikipedia)
有名なものだと,「盗んだバイクで走り出す」の尾崎豊の自殺への追従自殺とか,最近は子供のいじめ自殺なんかがウェルテル効果ではないかと考えられています.

つまり,自暴自棄による大量殺人というのは,ある意味で「自殺の演出」の一つとも考えられるため,今回の事件を受けて「どうせ自殺するなら,ラスベガスの銃乱射事件のように派手に行こうぜ!」という着想に至る人が増える可能性があります.

実のところ,一般人による大量殺人は,やろうと思えば結構容易にできてしまうんです.
大量殺人を計画している時点で,一般人ではないのかもしれませんけど.
逆に言えば,思いつきでの大量殺人は難しいということでもあります.

ですから,大量に人を殺そうと計画するような段階に至らせないことが大事ということになります.

ところで,コンサートも大変でしょうけど,オリンピックは大丈夫なんでしょうかね.
ひとまず韓国の冬季大会を様子見としましょう.
東京大会は厳重な警備体制が求められます.

2017年10月1日日曜日

新型トラックボールの使い心地

私はいわゆる「マウス」をほとんど使っていません.
「トラックボール」というタイプのポインティングデバイスを使っています.

トラックボールというのは以下のようなものです.
このLogicoolのトラックボール・シリーズを,有線タイプだった頃から,からかれこれ10年以上使っています.


親指でボールを動かしてポインタを操作する方式です.
人差し指と中指はマウスと同じように使います.
腕を動かさないので,私としては疲れにくい気がします.
でも,この「疲れにくさ」は人によると思います.人によっては親指ばかり動かすことが疲れるという人もいますので.

ちなみに,マウスを全く使わないわけではないんです.
トラックボールをはじめとし,タッチパッド(トラックパッド)やマウスは作業によって使い分けています.
それぞれ得手不得手な作業がありますので.

トラックボールはエクセル作業や,我々が使う学術的な専門性の高い分析ソフトの作業に強いんです.ボールを動かさない限りポインタがブレないので,確実性の高いポインティングができます.手を離してもポインタがズレたりしません.

一方,ワードやパワポにはマウスが強い.指ではなく,腕や肩を使って操作しているので,ポインタを自在に動かす感覚が高い方が文書作成や図表作成のためには作業がしやすいんです.

タッチパッドは,トラックボールやマウスの補助として使っています.
左側に置いといて,右手でキーボードを入力している時などに左手でポインタを動かしたい時に使うのです.
以前は,マウスやトラックボールにならって「タッチパッドはキーボードの右に置くもの」という既成概念が私にはあったのですが,たまたまキーボードの左側に置いて仕事をした時に,思いの外便利だったので,以来,高速作業が求められる場合にはこのスタイルにしています.よくよく考えてみれば,ノートパソコンではキーボードの手前に配置されていますよね.
Appleのトラックパッドは指の繊細な動きに追随してくれるので,エクセル作業やパワポでのスライド作成などでも,ワンポイントの細かな作業をしたい時に重宝します.

ところで,トラックボールの最大の強みは,作業場所が狭くても大丈夫な点です.
実際,腕は全く動かさないまま作業できますので,手元に資料や他のデバイスを並べて作業する場合には強力です.
私としては手元にいろいろな物を用意して仕事したいタイプですので,トラックボールに出会った時は感動モノでした.

最近,Logicoolのトラックボールに新商品が出ました.
それがこちら↓


どうしてこんなに高価なのか?
という疑問はさておき,トラックボール・ユーザーの私としては即買い.
さっそく使ってみましたよ.

その使い心地ですが,「非常に良い」です.

以前のモデルと大きく違っているのは,傾斜角がついていること.
以下を御覧ください.右が旧モデル.左が新モデルです.


実は私自身,旧モデルを使っていて腕が疲れてきたら,机とトラックボールの間に5mm程度の厚さのものを挟んで親指側を浮かせていました.
今回のモデルでは,最初から親指側が浮かせられるんです.かゆいところに手が届くとはこのこと.

あと,
「長いスクロールなどを素早くできる“スピードモード"、より精緻にトラックできる"プレシジョンモード"の2つをすぐに切り替えることができます。」(商品紹介ページより)
という機能がついているのも私好みです.

私としては現段階では恩恵を感じていないのですが,
「 Easy-SwitchとFLOW機能により、2台のコンピュータ間でテキスト、画像、ファイルをコピー・ペーストするなど、シームレスな作業が可能。」(商品紹介ページより)
という機能もついています.慣れてきたら便利に感じられるのかも.

そうそう,トラックボール最大の魅力は,「寝てても作業ができること」です.
椅子にゆったり座ったままでも,布団に入ったままでも,手元でポインタを動かすことで,かなりの作業ができます.

マウス操作が煩わしいと感じている人がいましたら,まずは安めのトラックボールから試してみてはどうでしょうか.


2017年9月21日木曜日

井戸端スポーツ会議 part 50「最も強い表現で非難する」

昨日の記事でも書きましたが,現在日本は北朝鮮に対し「最も強い表現で非難する」という声明を出しています.
菅官房長官「最も強い表現で非難」 北朝鮮のミサイル発射で(日経新聞2017.7.29)

「『最も強い表現で非難する』とは,これいかに?」
というネット記事も見かけますが,案の定,国際的な声明の出し方に準拠したものなのだそうです.

ようするに,日本語で最も強い非難の言葉を述べたとしても,相手国の言語にとってはどの程度の非難なのか解釈するのが難しくなるのですから,「私は今,最も強い非難をしているんですよ」ということを表すために,それをそのまま伝えているということです.

例えば,相手国に「怒髪天を衝く心境です!」と伝えたとしても,言われた国によっては「ヘアジェルの量が多すぎて困っている」と捉えるかもしれませんし,「はらわた煮え繰り返る思いです!」と伝えても,「モツ鍋が美味しそう」と間違われるかもしれない.

つまり,「最も強い表現で非難する」というのは,
「私は今,あなたが思いつく中での最大級の非難表現をしていると脳内変換してください」
という日本外交の約束事なのです.

ちなみに,私も過去のブログ記事で似たような手法を用いたことが何度かあります.
例えば,■子供の自殺原因「いじめ」は2%,という記事への反応への反応
実際の使用例は以下のとおり.
これについて私から言えることは,もうこの国の大勢,少なくともネット閲覧者の多くが,想像を絶するほどに◯◯だということです.
※上記の◯◯には,考えられる最も侮蔑的表現を想像で入れてもらって結構です.
本当に諦めました.やっぱりこの国はダメかもしれません.
やばいです.
直接言及しても,それは相手にとっては侮辱にはならないかもしれませんし,最大級の侮辱的表現は人によってマチマチでもある.
だから,その表現については読み手に一任しましょう,ということです.

それに,直接的に言ってしまうと,いわゆる “コード” に引っかかるということもあります.それを回避するためにも有効な手法でしょう.
総理大臣や官房長官が「このハゲー! テメエらはクソだ! 死んじまえ!」って言ったらマズいですよね.

そんなわけで,外交において非難声明を出す際には,あらかじめ表現にグレードを用意しておいて,その用意された外交プロトコルに合わせて声明を出しているわけです.
政府の言う「遺憾」はどこまで強い非難なのか?「上から4番目」(エキサイトニュース2015.5.31)
それによると,「外交プロトコルによる非難の表現」とは,以下のような等級になっています.
最大級:断固として非難する
    非難する
    極めて遺憾
    遺憾
    深く憂慮する
    憂慮する
    強く懸念する
最小級:懸念する

というわけですから,「最も強い表現で非難する」というのは,日本国における退っ引きならない外交表現ということになります.


そう言えば,この記事は井戸端スポーツ会議でしたね.実は,スポーツ科学でもこれと似たようなものがあります.
ボルグ・スケール(Borg scale)と呼ばれる心理尺度で,心理分野だけに限らず体育・スポーツ領域全般でよく知られているものです.

主観的(自覚的な)運動強度(RPE:rating of perceived exertion)を測定する尺度で,その中でも特に有名なのが,心理学者のボルグ博士が考案したボルグ・スケールです.

一般的には,ジョギングやウォーキングといった有酸素運動時における運動強度や疲労感の測定に有効だとされています.
いろいろな尺度が考案されていますが,代表的なのが以下のようなもの.
最低6から最大20までの15段階のものがこちら↓
6
7 Very, very light(非常に楽である)
8
9 Very light(かなり楽である)
10
11 Fairly light(楽である)
12
13 Somewhat hard(ややきつい)
14
15 Hard(きつい)
16
17 Very hard(かなりきつい)
18
19 Very, very hard(非常にきつい)
20 Maximal(最大)
実はこの15段階尺度,「6」から始まるには理由があります.
各等級の数値に0をつけることで,その時の心拍数が推定できるんです.
例えば,「15 きつい」という運動をしている時は,心拍数を計測すれば約150拍/分になっているということ.

今すぐ簡単に試すことができます.
階段昇降とかスクワット運動など,何でもいいので2〜3分間の運動をします.
その直後,心拍数を計測します.最も手軽なのは,橈骨動脈か頸動脈で触れる拍動を10秒間計測して,それを6倍するという方法.もしくは15秒間計測して4倍すると良いでしょう.
そして,上記のボルグ・スケールを見て,その時の運動による疲労感やきつさを回答します.
おおよそ心拍数と一致しているのではないかと思います.
運動したけど「楽である」と感じたのであれば,約110拍/分.「かなりきつい」と感じたのであれば,約170拍/分といったところです.

つまり,英語圏の人が「Hard」と思っている時というのは,日本人にとっては「きつい」と思っている時であり,さらにはその時両者の心拍数は約150拍/分ということ.
結構おもしろいでしょ?

それだけに,ボルグ・スケールにおける最大強度には「最大(Maximal)」とだけ表記されていて,最大級の表現がないのも興味深いですね.
まさに「最も強い表現で『きつい』」ということなのです.

人によっては「死にそう(be dying)」とか「三途の川が見える(see the Grim Reaper)」とかになるのかもしれませんが,こうした表現も人によってマチマチでしょう.
それに,研究論文中に,
「被験者が『死にそう』と訴えた時点で運動負荷を終了した」
とか,
「被験者が『三途の川が見える』と感じた時点での測定値を記録した」
なんて書いたら倫理的に問題ですからね.

2017年9月20日水曜日

このタイミングでの解散選挙って凄くね?

にわかに「衆議院解散」が喧しくなってきました.
どうしてこのタイミングなのか?
我が国の首相はトチ狂ってしまったのでしょうか,さっぱり意味が分かりません.
安倍首相 25日に会見 解散に踏み切る理由を説明へ(NHKニュース)

もっとも,トチ狂っているんじゃないかと思うのは今に始まったことではありませんから,あまり驚きもしないのですけど.
いよいよこの国の社会も末期を迎えたのかもしれませんね.

ネトウヨと称される人たちが,つい先日まで,
「北朝鮮問題や災害対策に予断を許さない中,森友学園だの加計学園だの言ってる場合じゃない!」
などと熱り立っていましたが,彼らの教祖である安倍晋三の頭の中には,今は北朝鮮や災害よりも選挙をした方が良いという予断があるようです.
見事なブーメラン(©ウヨク)と,梯子外し(@ウヨク)ですね.

そんなこと言うと,こんな反論もあるかもしれません.
「この選挙は,北朝鮮問題や災害対策に注力するための基盤づくりのための選挙だ」

でもそれは,つい先日に内閣改造した政府に対しては苦しい擁護です.
安倍首相は先の内閣改造でこう言いました.
安倍晋三首相、信頼回復へ「仕事人内閣」 第3次改造内閣が発足(産経新聞2017.8.3)
政権の信頼を回復するため、新内閣を「結果本位の仕事人内閣」と名付け、経済最優先で政策を推進していく考えを示した。
(中略)
今回の改造について「幅広い人材を糾合し、国民のため、しっかりと仕事に専念できる態勢を整えることができた」と強調した。
ところが仕事せずに,結果も出さずに解散する運びとなるわけですから,これでは「危機対応よりも自己保身を目的とした選挙」と言われても反論の余地はないと考えられます.

ウヨクこそ安倍晋三を批判すべきではないのですか?
森友だ加計だと言ってる場合じゃなかったのですから,尚の事,今は「選挙」どころではないでしょう.
ましてやミサイルがポンポン飛んできている最中.すぐまた次のミサイルが撃ち込まれるかもしれない状況です.
そんな事態にあって,政治の空白期間を作っても良いという自信はどこからくるのか.

つまり,我が国の首相は,この極東での不穏な動きに対しては,慎重に対応しなければならない喫緊の課題ではないと捉えていることになります.
ウヨクはよく「サヨクはお花畑だ」と言いますが,バカ言っちゃいけない.
ウヨクこそが,その総本山・安倍政権こそがお花畑です.

一般的に,国家安全保障に関わる出来事があった直後は,その政権がどんなポカをやらかしたとしても支持率は上昇します.
あの民主党・菅政権ですら,「東日本大震災」の直後は支持率が回復するんです.
菅内閣の支持率推移(時事トピックス)
今は北朝鮮問題が緊迫していますので,案の定,現政権である安倍内閣の支持率は回復しています.
そういう場面を狙って選挙をすれば,議席を取れる確率は高まるわけですね.
それを素直に,まことに素直に実行しているのが安倍晋三のようです.

私はこう考えることにしました.
北朝鮮問題は気にしなくていい問題だ,と.
腐っても日本国首相・安倍晋三です.彼がこの時期これほどまで脳天気に選挙のことを考えてられるんですから,きっとミサイルも撃ち込んでこないんだろうし,人為的な理由で緊急事態になる可能性は極めて低いのでしょう.
以前からそんなサインはありました.安倍首相は,公邸に住まず自宅に住むことを好みます.
安倍首相が公邸に住まないのは「犬」のせい? 危機管理意識を批判する声も(ハンフィントンポスト2013.11.9)

危機意識が低いんではなくて,諦めているんだと思います.
公邸にいようが自宅にいようが,何か起きても何もできないことに変わりはない.
同様に,選挙中にミサイルが飛んできても何かできるわけでないし,何の対策もとれない.どっかに着弾しても「選挙中だったから仕方ないね」って.
それが実際のところではないかと考えられます.
だからこんな状況でも無邪気に「選挙するよ」って言い出せるんだと思うんです.

2017年9月12日火曜日

「本能寺の変」に関する明智光秀の書状が見つかったらしい

今日,こんなニュースがありました.
明智光秀:密書原本 本能寺の変直後,反信長派へ 室町幕府再興目指す(毎日新聞2017.9.12)
本能寺の変で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと、藤田達生(たつお)・三重大教授(中近世史)が発表した。変の直後、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)衆で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはししげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭と光秀が通じているとの内容の密書としている。
(中略)
藤田教授は「光秀が、まず信長を倒し、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や毛利ら反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想を持っていたのでは」と話す。
過去記事の「鳥無き島の蝙蝠たち」シリーズで取り上げていた,「本能寺の変・長宗我部元親暗躍説」と関連するかもしれないということです.

今回発見された雑賀衆・土橋に宛てた文書と,以前から注目されていた斎藤利三に宛てた「石谷家文書」から,本能寺の変が案外簡単な理由で動いていたことが推察されます.
摩訶不思議な謎も,分かってみればシンプルな解というのはよくあることです.

つまり,織田信長と対立した四国の長宗我部元親が,信長による「四国征伐」を止めるため,明智光秀を利用して信長を暗殺したのではないか? ということ.
そして,光秀としては主君である信長を暗殺するほどの大義名分を「室町幕府再興」に求めたのではないか? ということです.

おそらく,元親は光秀に対し,室町幕府を再興する手伝いをする代わりに信長を討ってもらう約束をしていた可能性が高い.もちろん,光秀としては幕府再興のためとは言え,主君を不意打ちするのですから事後に何を言われるか不安だったでしょう.その時に加勢してくれる味方は多い方がいいし,自分の行いを「あっぱれ,光秀,日本一のサムライ」と認めてくれる仲間(サクラ)を用意したいところです.
その一人が元親だったのではないか.

室町幕府再興という大義名分であれば,将軍・足利義昭を保護している毛利輝元は支援してくれるだろうし,元親(四国)と輝元(中国)の伊予・瀬戸内海における対立もそれによって和解にもっていける可能性もあった.
ついでに雑賀衆も味方につければ,一気に近畿と京都を制圧できるはずだったのです.
さらに,明智光秀が出した文書の宛先である雑賀衆の土橋重治は,長宗我部勢力と親密だったとされています.

以下に位置関係を示してみました.

圧倒的に光秀優位な状態だったんです,理論上は.
ところが,光秀の思惑とは裏腹に,元親も輝元も雑賀衆も,世の「風」を読んで動かなかった.
むしろ彼らとしては,自分たちにとって邪魔な信長を光秀に討たせさえすれば十分だった可能性もある.
いずれにせよ,事は水面下で動いていたのだから,真相は誰も知らないまま.
哀れ光秀は,孤立無援になったところを「山崎の戦い」で羽柴秀吉に討たれてしまった.

もう一つ.
秀吉が例の「中国大返し」をして山崎の戦いに挑んだという話ですが,もし秀吉が光秀の企みを事前に想定していたとしたらどうでしょう.
上記の地図をご覧になったら分かるように,秀吉にとっては万事休すの状態なんですよ.
頭のいい秀吉のことです.光秀が「室町幕府再興」を旗印に,毛利と手を組んで挟み撃ちにすることくらい想像したと思います.

中国大返しとは,「光秀を討つため急いで帰ってきた」のではなく,「明智・足利&毛利・長宗我部勢力の包囲網から急いで逃げ帰ってきた」という要素の方が大きいのです.
もちろん,理由はその両方だったと言えます.秀吉としては一刻も早く大阪へ戻り,「光秀を討つ」以外に逃げ道が無かった.
もし秀吉が中国大返しをせず備中高松城に居座っていたらなら,光秀は元親,輝元,雑賀衆と共に秀吉を挟み撃ちにして葬っていたことでしょう.
中国大返しが “異様なほど速かった” のは,「本能寺の変の黒幕が秀吉だった」といった説よりも,「死に物狂いで逃げ帰らなければ,軍団全体が壊滅するほどの危機的状況だった」という説が最も真相に近いのではないかと思われます.

なんにせよ今回の発見は,明智光秀が無計画に織田信長を討ったわけではないことを示唆するものになっているようです.
あと,一連の文書の発見で有力視されるようになった「長宗我部元親暗躍」と「室町幕府再興計画」は,もともと歴史好きなら散らばっている事実を基にして考えそうなストーリーではあるんです.
どうやらその一つが当たっていたようだ,ということ.
普通に考えてみて,なんの後ろ盾も計画もなく,たくさんの人が運用に関わることになる軍団を動かすなんてあり得ないですからね.何かしらの戦略があったであろうことは当然だと思います.

でも光秀さん,本気で「室町幕府再興」を考えていたのであれば,“あの方” のような情熱と執念がなければいけませんよ↓

2017年9月7日木曜日

体育学的映画論「告白」

興行的には大成功した作品ですので,見たことがある人も多いものと思います.
告白(wikipedia)
2010年に公開された,監督:中島哲也,主演:松たか子の映画です.

私はつい最近になって見ました.
学生の頃はTSUTAYAを利用してたくさんの映画を見ていましたが,2008年頃から数年前までは映画から離れた生活をしておりましたので,この映画のことも知りませんでした.
かなり興味深い作品でしたので,先日,気になったので原作も読んだほどです.

見たことがない人もいるかもしれませんので,ウィキペディアから「あらすじ」を引っ張ってきます.
とある中学校の1年B組、終業式後の雑然としたホームルームで、教壇に立つ担任の森口悠子が静かに語り出す。「わたしは、シングルマザーです。わたしの娘は、死にました。警察は、事故死と判断しました。でも事故死ではありません。このクラスの生徒に殺されたんです」一瞬にして静まりかえる教室内。この衝撃的な告白から、物語は幕を開けた。
映画でもこの「衝撃的な告白」から始まるのですが,その時の女性教師役である松たか子さんの演技が非常に上手いので,ここで一気に惹きつけられます.
冒頭のこの30分間だけで十分な作品じゃないかと思わされるほどですが,実際に,原作者によればこの部分だけで一つの作品だったようです.
告白 (湊かなえ)(wikipdida)

映画としてのエンターテイメント性の高さもさることながら,私としては本ブログで度々取り上げているテーマと共通することが興味深かったんです.
具体的に言えば,「世間の目」「大衆の反応」「いじめ問題」「教育の役割」といったところでしょうか.
こうした点は,原作の小説よりも映画のほうがよく現れています.映画監督によるところが大きいのかもしれません.

「少年法により裁くことができない『犯人』への復讐劇」というスタイルで進行する物語ですが,当然のことながら,そこで描かれているのは少年法に関する問題提起などという陳腐なものではありません.

「衝撃的な告白」から年度が明けたこのクラスでは,殺人犯と目される生徒への「いじめ」が始まります.
「お前,ぜんぜん反省してねぇだろ!」と吐き捨て,物が投げつけられる.私物が捨てられる.
そんな調子で盛り上がっていく加害者へのクラスメイトによる私刑は,いじめられている人物がどのような立場にあるかを踏まえても,クラスメイトの側に醜さが感じられます.

相手は殺人犯なのだから,これは「いじめ」ではなく制裁ではないか?
そんなわけで,この『制裁』を拒む生徒に対してもクラスメイトは牙を剥く.「人殺しに味方して,あんたには感情がないの?」

どうして人殺しに味方することができるのか?
それは他者に対して理解する姿勢があるかどうかです.
映画の視聴者の側には,その姿勢が強制的に与えられています.だから殺人犯へのいじめを醜いものとして見ることができる.

クラスメイトたちには,自分たちが「いじめ」をしている自覚なんてありません.相手は殺人犯なのですから,絶対的に正義は我の側にあると考えています.
ですが,こういう正義は疑ってかからなければなりません.

彼らは正義の鉄槌をくだしているフリをして,自分自身が楽しんでいるだけなのです.
誰も本気で殺人犯を制裁しようとなんて考えていない.本当に制裁しようと思ったら,本当に「反省しろ」と思ったのなら,どうすれば「制裁」や「反省」になるのか考えるはずですよね.
でも,クラスメイトたちはそれをしません.
これは中学生,ガキだからではありません.
大人もそうです.
大衆は「本当に向き合わなければならない事」には興味がないからです.

本当に向き合わなければならないのに,それが面倒くさかったり,実のところ興味がないというのであれば,関わらなければいいだけのことです.
でも,それでは楽しくないのが大衆というものです.
原作には,犯人への「制裁」を拒んだ女子中学生によるこんな語りがあります.
ほとんどの人たちは,他人から賞賛されたいという願望を少なからず持っているのではないでしょうか.しかし,良いことや,立派なことをするのは大変です.では,一番簡単な方法は何か.悪いことをした人を責めればいいのです.それでも,一番最初に糾弾する人,糾弾の先頭に立つ人は相当な勇気が必要だと思います.立ち上がるのは,自分だけかもしれないのですから.でも,糾弾した誰かに追随することはとても簡単です.自分の理念など必要なく,自分も自分も,と言っていればいいのですから.
(中略)
愚かな凡人たちは,一番肝心なことを忘れていると思うのです.自分たちには裁く権利などない,ということを・・・.
(中略)
悠子先生,直くんと修哉くんが人殺しなら,ここにいる子たちは何ですか?
いじめ問題や,それによる自殺などが発生すると,ワイワイガヤガヤ炎上することが好きな人達がいます.
そういう構図がすでに「いじめ」であり,事の解決にも,事態の収拾にも,ましてや今後の改善にもつながらないことは明白です.
それに対する理屈を捻り出す人もいます.「いじめの加害者は『制裁』を受けるという空気にしなければ,いじめは無くならない」などというものです.バカですね.

実際,上述した女子中学生は,映画ではこんなことを言います.
たぶん,みんな弱虫だから,悠子先生が突きつけた真実から逃げ出したくて,バカになりすましたんです.
このクラスは2年生です.だからなのか,この女子生徒の語りも中二病なところがありますが,それでも必死に考えようとしています.
人は,バカにされまいともがく一方で,都合よくバカであることを望む.
彼女はクラスメイトをそう評し,それに踊らされる新任教師をバカにしました.

この映画や原作小説では,女性教師による犯人への復讐という視点から始まり,最終的にも結ばれるのですが,事件に関するその他の関係者それぞれのモノの見方も示されていきます.
個々人が抱いている周囲の人物や事態への評価がそれぞれ異なること.これらに各々の言い分があり,そしてそれは「(我々視聴者には与えられている)全体像」を知らないために発生していることが,物語を進めるにあたり明らかになっていきます.

私としては,犯人の一人の母親(映画では木村佳乃が演じている)の心情を考えると居た堪れない気持ちになります.こういう状態になる前に,なんとかならなかったのかと気が滅入るんです.

女性教師が退職した代わりに赴任してきた「熱血バカ教師」なんか,読者や視聴者に対してもかなりのフェイクでしたね.
彼はたしかに熱血バカ教師ではありましたが,それでも本当に熱血だったのだし,何より彼の行動は,実は前年度担任である女性教師の指示によるものだった.
小説では,どうしてあそこまで熱血バカ教師を演じていたのか説明もあります.
なにより,新人教師がこんなクラスの担任を受け持ってしまったことは不運だったとしか思えません.

教師という仕事を簡単に考える人が多いんですけど,とても難しいことなんです.
生徒にバカにされていることが分からない教師なんて,そう居ませんよ.たいてい分かっているんです.でも,だからと言って明日から事態が好転するなんてことはない.
皆が皆,生徒の心をつかむ才能がある人間ではありませんから.
それだけに教育に関する相談相手は重要です.
作中の熱血バカ教師の相談相手は,娘を殺した生徒に復讐しようと目論む教師でした.これも不運ですね.

物事は多面的に見たほうがいい.
当たり前のことですが,それが実際には非常に難しいことと,それを怠った時に何が現れるのかを示している映画が本作です.




2017年9月5日火曜日

危ない大学には危ない教員がいる

先日,本ブログの「危ない大学シリーズ」を読んでくれている大学教員のお一人から,私と情報交換をしたいとのお誘いがありましたので一席設けてきました.
興味深いお話とビールをありがとうございます.この場を借りてお礼申し上げます.

この先生,いわゆる「危ない大学」として,その名を業界の津々浦々まで響き渡らせている,知る人ぞ知るマジで危ない◯◯大学に勤務されている方です.
関係者の皆様に悪影響があると良くないので,大学名は伏せさせていただきます.

赴任した後「まさかこれ程までとは」と思われたそうですが,実はその大学とは私もちょっとしたご縁がありましたので,内部事情が気になっていたところでして.
私がその大学の採用面接を受けた時,面接担当者が話す建学の理念を聞いて「この大学はダメだ」と思っていたので,あぁ,あそこはやっぱりダメだったんですね,と確認できたところでございます.

「建学の理念なんて,あってないようなものだ」と言う人もいますが,建学の理念を舐めてはいけません.
自分たちがどのような大学を作りたいのか,それが人間のためになるのか否かが大切です.
大学が運営方針などに悩んだ時,そこでどのような舵取りをするのかは建学の理念に依るからです.

建学の理念がおかしいと,そこに所属する人たちの行動もおかしくなります.まともだと思っていた人も,タガが外れたように狂った行動をとるようになる.
結果,建学の理念がおかしくて運営方針がデタラメな大学は「危ない大学」になってしまいます.

危ない大学の条件はいろいろありますが,その一つに「教員として危ない奴がいる」というものがあります.
まあ,これは上述したこととの合わせ鏡になっているので,危ない大学だから教員も危ない奴になってしまうという側面もあります.
ですが,危ない大学では危ない教員がのさばりやすくなるのは確かです.

以前,そんな記事も書きました.お暇でしたら,こちらもどうぞ.
危ない大学に奉職してしまったとき「厄介な教員対策」
こんな大学の教員は危ない part 1

でも,今回お話ししたいのは,危ない大学にいることによって「危ない教員」になってしまうことではなくて,「もともと危ない教員」が危ない大学に奉職することによる害悪です.
冒頭にご紹介した危ない大学においても,やっぱり危ない教員がいるそうです.そして,こういう教員が職場を荒らす.

過去記事でも書いていますが,私は「危ない大学は潰してしまえ」とは思いません.潰れてしまうのは仕方ないですが,わざわざ潰す必要はない.
それぞれの大学に集まっている先生方は,その多くがまともな大学教員だからです.
皆さんがまともに仕事をすれば,大学はどこもまともになれます.
ところが,それを「危ない教員」は阻害します.

よく,危ない教員は「こんな大学やってられるか!」と文句をたれますが,実は彼らはまともな大学を望んではいません.
まともな大学では,彼ら「危ない教員」は生き残れなくなりますし,彼らが声を荒げて主張しているようなことを「まともな大学」は受け入れませんから.

突き詰めるところ,危ない教員とは,己が「大学教員」でありたいだけなのです.
大学教員になりたいから大学教員になった.そんな感じ.
そして,得てしてこういう教員は危ない大学に奉職し,不満を撒き散らして職場を荒らします.
どうしてそんなことになるのか.

危ない大学では,とりあえず在籍してくれてれば誰でもOKみたいなところがあります.
当然,そうなると売名目的や「大学教員」というステータスが欲しいという理由,「それだけ」で働く奴が現れます.
働いてくれてればまだマシ.働かない奴もいます.

大学教員になる人って,たいていは「研究するのが好き」もしくは「就活せずに流れに任せてたら成り行きで」とか,あとは本気で「学生の教育がしたいから」という理由です.
この内のどれか一つということではなくて,この3点が混在しています.

ところが,危ない教員は「大学教員」という仕事をするよりも,他にやりたいことがあるんです.
つまり,「研究」と「教育」と「浮世離れ」といった大学教員として必要な要素ではなく,それとは180度異なる,売名とステータスなんですね.
典型的なのは,テレビやラジオ,大衆紙に取り上げられることを好みます.

悲しいのは,彼らにとっての大学教員とは,偉くて,有名になれて,チヤホヤされている存在だと考えていることです.
まともな大学教員だとそういう価値観そのものが弱いので気にしませんが,俗物根性にまみれた人はそう考えちゃうんです
むしろ,「大学教員の多くは,非現実的な世界で脳天気に暮らしている」などと言い出すのは,こういう危ない教員であることが多い.

でも,こういう危ない教員は何かにつけて劣等感を持つことになります.
大学とは第一に研究と教育を行うところであり,浮世離れした存在でも許されるからです.
研究も教育もバリバリやって,それで上記のようなことを言うのであればいいんです.
でも,いわゆる危ない教員は,研究も教育もしません.

一般書籍や大衆紙に向けて書くことは多いのですが,研究誌や学術書は書かないのが危ない教員です.
もちろん,大学ではそんな人は蔑まれます.だから彼らはそういう自分のコンプレックスを隠すため,「私はこんなに有名だ」「社会的な評価を得ている」とアピールしたがります.「研究業績はないけど社会的な業績はある」「教育に時間を割いていないけど,それは別の仕事が忙しいからだ」というように.
彼ら危ない教員にとっては,それこそが大学教員らしい評価だと考えているからです.

つまりは「困ったちゃん」なのですが,現在の余裕のある大学であれば,そういう奴は放っといてもさほど害はありません.
たまにブツクサ言うこともありますが,その大学における常識的空気や,それらが作り出す周りの目が怖いから黙ってることが多いんです.
ところが危ない大学においては,こういう教員こそ「発信力がある」とか「大学教育の在り方を変える突破力がある」などと評価され,そして意外と経営者からのウケはいい.
だから問題です.

他の教員がまともに「大学教員」ができなくなるんですよ.
ちゃんとした授業をやろうとしても,それにコンプレックスを持っている彼らが潰しにかかってきたり,意味不明なイチャモンをつけたりします.
研究しようとしても,そんなところに回す予算があったら,もっと学生のためになることに割いてはどうか? などと心にもないことを言い出します.

教員自身がちゃんと研究して,それを資源とした教育をする.
それが大学教育の根幹ですが,危ない教員としては,それを否定しなければ自分の立つ瀬がないと思っているので潰したいんです.
結果として,その大学が立ち直るための道を断つことにもなっています.
負のスパイラルというやつですね.

ある意味において,研究しない教員がいたっていい.私はそう思っています.
でも,それにはきちんとした条件と理由がありますし,マイナーな存在だとも考えています.
ところが,危ない教員はそういう評価軸があることを理解してくれません.

寂しい話ですが,こうした事態を改善することは絶望的です.もう無理だと思っています.
これについては話が長くなるので,詳しくは過去記事を読んで下さい.


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2017年8月30日水曜日

邪馬台国はここにあったんだと思う

統計学だとか大学改革だとか考えるのも大事ですが,たまには趣味の世界も楽しみたいものです.
ときどき古代日本を妄想する記事も書いておりますので,今回はそれについて.

以前,邪馬台国の比定地をご紹介したことがありますけど,あれは私説へ強引に結びつけるところがありました.
その後も時間があるときに古代日本のことを調べていたのですが,今回,私なりに現時点で最も納得できる「邪馬台国があった場所」が見つかりましたので,その理由とともに取り上げたいと思います.

**邪馬台国はここにあった**
結論から言えば以下の通り.
(1)邪馬台国があった場所は,九州北部(福岡県〜大分県にかけての沿岸部)
(2)邪馬台国とは,「筑紫国」の前身となる連合国のこと
(3)一般的に邪馬台国と称される「女王国」があった場所は,福岡県行橋市周辺から宇佐市周辺
(4)邪馬台国に属さないとされる「狗奴国」とは,九州東部のことで,のちの「豊国」に相当する地域のこと
(5)邪馬台国への道中にあるとされている「投馬国」とは,九州西部のことで,のちの「肥国」のこと

図示すると以下のような感じ.

その理由を示していきます.魏志倭人伝の記述に沿って読み解いていきましょう.
魏志倭人伝の記述は,ウィキペディアから引用しました.

倭人が住んでいる場所
原文:倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。
和訳:倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、もとは百余国で、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。
この魏志における「倭人伝」を書いている人は,自分たちの支配している「帯方郡(韓国・ソウル周辺)」から南へ海を渡った島に「倭人(日本人)」が住んでいる国があって,大陸へ使者が来ていることは知っているのです.
全くの未知の領域というわけではないようですね.

でも,倭人がどんなところに住んでいるのか,詳しくは知らない.だから今回,偵察として使者を送り,その様子を記録したのだと思われます.
ここだけでなく,倭人伝全体を読んでみても,どうやらそんなニュアンスが伝わってくるんです.

ポイントなのは,この「魏志」における「倭人伝」は,あくまで「倭人伝」であり,邪馬台国のことをメインで紹介している記録ではないということ.
詳細は後述するとして,まずは倭人の国への道のりを解いていきます.


**九州上陸まで**
原文:從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
和訳:帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で〔倭の〕北岸の狗邪韓国(こやかんこく)に到着する。
図示するとこんな感じ.

この文章はシンプルに読み解けると思います.
帯方郡というのは,現在の韓国・ソウル周辺だとされています.
大陸から日本列島に渡るのも,対馬と壱岐島を経由するのが通常の感覚でしょうから,「狗邪韓国」とされているのは現在の韓国・釜山あたりとみてよいでしょう.

帯方郡(ソウル)とされる場所から狗邪韓国(釜山)に行くとすれば,海岸を伝って南下し,そして東に向かうことになりますから,この解釈が成り立ちます.

次は,狗邪韓国から対馬国に渡ります.
原文:始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶㠀、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。
和訳:始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
これはそのものズバリ,現在の対馬のことでしょう.

ここからさらに南下します.
原文:又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
和訳:また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000許(ばか)りの家が有る。田畑は有るが田を耕すが食糧には足りず、南北から市へいく。
一大国というのは,現在の壱岐島とみて良いと思います.対馬から南方に見える陸地は壱岐島です.
当時の船のテクノロジーからすれば,そこを目指すのが自然です.

一行はさらに南下.九州の東松浦半島に到着です.
原文:又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。
和訳:また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
末盧国というのは,東松浦半島にあった国と考えられています.
これまでの道中を図示します.
ここで重要なことを一つ.
渡航者の距離感覚についてです.

当時はGPSや精密な測量器などありませんし,時間を測る時計もありませんから,距離はだいたいの感覚で測るしかないことが予想されます.
これについて,韓国〜対馬〜壱岐島〜東松浦半島のそれぞれの距離は異なるのに,全て「1000里」としているところに注目です.

当時の船はガレー船という手漕ぎボートですから,1日に進める距離は「体力×日照時間」で推定されることになります.
おそらく,1日に船で進めた距離を「1000里」として記録したのだと思うんです.
そう考えると,1000里は約60km〜80kmくらい,1里は約60〜80mですね.
これなら,帯方郡(ソウル)から狗邪韓国(釜山)の距離とも類似します.たぶん,帯方郡から釜山までは7日かけて来たと推定されます.

「壱岐島から末盧国までが1000里では短いのではないか」という記述を見ることもあるんですが,1日必死で漕いだものを1000里としてカウントするのは普通の感覚だと思いますし,天候が少しでも悪くなったら漂流の危険がある時代ですから,壱岐島から最も近い陸地を目指すのが常識的ではないでしょうか.

末盧国を東松浦半島の北端ではなく,現在の唐津市市街地だと考えることもできます.
船出した時に目指したのはの半島の北端.そこから流れの速い対馬海流を受けながら,唐津市市街地を目指すのが人力のガレー船での航行としては妥当かと思います.
それに,半島東部をまわって唐津湾から唐津市市街地へと入ったとすると,対馬から壱岐島へと至る距離と同程度になります.
しかも,この航路であれば,対馬海流に流されたとしても取り付く島があるので安全です.
これなら「船で1日かけて漕いだ距離が1000里」という解釈ができるのではないでしょうか.


**陸路で女王国を目指します(邪馬台国ではない)**
末廬国からは陸路です.
原文:東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
和訳:東南に陸行し、500里で伊都国に到着する。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。世、王が居た。皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。
南東に向かって歩き出したとすれば,やっぱり末盧国は唐津市市街地からやや北部にかけてだと考えられます.
以下のような感じです.
伊都国は末盧国のちょうど真東にあたりますが,御一行が歩き出した方向は南東なんですよ.
末盧国があったとされる唐津市周辺から,伊都国があったとされる糸島平野(および福岡市西部)までは約35km.
文中に示されている距離「500里」は妥当なものと考えられます.

ちなみに,当時は方角を知るには日の出日の入りを頼りにしていたはずです.
さらに,手漕ぎのガレー船で日本海を渡海できるのは7月〜8月にかけてだとされており,御一行は夏に来たものと考えられます
ですから,夏の日の出日の入りの方角を知ることで解釈できるはずです.
日の出日の入りマップというサイトで,7月の各地における「日の出日の入りの方角」を見ることができます.
試しに,7月15日の唐津市から見た日の出日の入りを以下に示してみました.

このように,唐津周辺から東進しようとすると,まずは唐津湾をまわるために南東に進むことになるのです.
もし冬に来ていたら「南東」ではなく,「東」と書いたのかもしれません.

次は大都市と考えられる奴国に至る道です.
原文:東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
和訳:東南に100里進むと奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。
図示するとこんな感じ.
これも末盧国から伊都国と同様,夏季の日の出日の入りの方角からすれば「南東」に位置します.
そこから100里(約7km)という短い場所で想定されるのは福岡市西部になります.
さらに,この「奴国」というのは魏志倭人伝とは別の中国の文献でも福岡市周辺にあった国であることが知られています.
この奴国も,その奴国である可能性は高い.
原文:東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
和訳:東へ100里行くと、不弥国に至る。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。
奴国は大きな都市とされていますから,きっと福岡市西部で広範囲に広がっているものと考えられます.
その郊外からスタートして,福岡市中心部を流れる川を渡った反対側にある国が不弥国だったのではないでしょうか.
現在ここには宇美町という地域があり,これが不弥国の名残ではないかとも言われています.


**邪馬台国までの道のりを示した謎の文章の解釈**
さて,不弥国までの道程は多くの研究や著作で同じものが語られていますが,そこから先が問題です.
原文:南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
和訳:南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
そして,
原文:南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。
和訳:南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。
いきなり距離が示されなくなり,「水行20日」などと日数が示されるのです.
その日数が非常に長いことから,これを根拠に「邪馬台国・近畿説」などが語られます.

さらにもう一つ重要なこと.
「邪馬台国」の国名が出るのはここが最初で最後です.
しかも,ここの人口(戸数)の記述だけ投馬国も邪馬台国も推定値になっています.
それまでの記述とは毛色が違っているんですよ.

こう考えることはできないでしょうか.
つまり,著者としては「奴国」という魏(中国)国内でも少しは知っている人がいるほどの,ちょっと有名な国までの距離を記述してきたので,ここで一旦文章をまとめ,『魏志倭人伝』としての全体像を示しているのです.

例えば,東京から京都の金閣寺へ旅行した人の旅行日誌として,こんな文章があっても不思議ではありません.
東京駅から京都駅まで新幹線を使い西へ約500km.
京都駅からは地下鉄で北上し,北大路駅まで約7km.
北大路駅からはバスに乗り換え西に約2.5km向かえば,金閣寺に到着します.
ちなみに,品川駅から大阪までなら「のぞみ号」を使って140分で,
京都の金閣寺までなら「のぞみ号」の120分と,電車と車の移動が60分かかります .
最後の2行のように,旅程を所要時間で示したり,比較対象と一緒に示すことがありますが,これが「投馬国まで水行20日」と「邪馬台国の女王国まで水行10日陸行1日」ではないかと思います.

そして,ここでいう「大阪」と「京都」が,上述した「投馬国」と「邪馬台国」になると考えられます.
ウィキペディアでは「南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る」という訳文になっていますが,もしかすると「南に水行10日と陸行1月で邪馬台国(女王の都がある所)に至る」と解釈するのかもしれません.
魏志倭人伝の日本語訳は確定的ではないとされていますし.

そう考えると,投馬国と邪馬台国の戸数をあえて「推定値」として記述している理由も分かります.
つまり,投馬国と邪馬台国はいずれも連合国であり,ここ倭人の国に出向いた御一行は,その全てを見ているわけではないのです.
ですから,伊都国,奴国,不弥国といった女王国に属しているとされる「邪馬台国」の総戸数は7万戸であり,もう一つの倭人の連合国である「投馬国」は5万戸であると考えられます.
常識的に考えてみて,古代日本の一地域に5万戸や7万戸もあるのは不自然です.
逆に言えば,それだけ「奴国(2万戸)」が倭国を代表する巨大都市だったとも言えます.


**基本情報である「帯方郡から女王国まで1万2000里」**
「南至投馬国・・・」から「・・・自郡至女王國、萬二千餘里。」までの文章は,女王国の位置を説明している一連のものです.
ですから,それぞれ別々に解釈するのではなく,一連の文章として読む必要があるんです.
長いですが,そのまま掲載します.
原文:自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。
其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。
自郡至女王國、萬二千餘里。
和訳:女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である。
其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず。
帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である。
帯方郡(ソウル)から邪馬台国の女王国まで1万2000里だと明言しています.
不弥国までの総距離は1万700里です
ということは,女王国は不弥国から1300里(約80〜100km)のところにあるということになります.

これは長すぎても短すぎてもいけませんから,以下の緑色の領域内が有力候補です.

だとすると,その前に書かれている「水行10日 陸行1ヶ月」の意味も分かってきます.
上述したように,船で進める距離は「1日で1000里」でしたよね.
では,その計算で帯方郡から水行した日数はどれほどでしょうか?
帯方郡〜狗邪韓国:7000里(7日)
狗邪韓国〜対馬国:1000里(1日)
対馬国〜一大国:1000里(1日)
一大国〜末盧国:1000里(1日)
合計10日.つまり,水行10日なのです.


**羅列された21カ国にも掲載するだけの意味がある**
そして,陸行1ヶ月ですが,これを考えるためには「女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶たっていて、詳に得ることができない」のあとに紹介されている国の合計が21カ国であることがポイントです.

著者は「詳らかにすることはできない」と書いていますが,その後に書かれている国々は,女王国までの「陸行1ヶ月」の間に訪問できた国々のことではないでしょうか.
常識的に考えてみてください.彼らは偵察も兼ねた大陸からの使節団ですよね.1日毎に隣町まで移動して1泊し,その都度,現地の首長からのおもてなしを受けつつ,1ヶ月かけて女王国まで向かったと考えるのが普通でしょう.
そう考えれば,末盧国,伊都国,奴国,不弥国を加えれば25カ国です.
もちろん1日で辿り着けない時もあったでしょうから(末盧国から伊都国の間など),諸々あわせて約1ヶ月.
これが「水行10日,陸行1ヶ月」の正体ではないでしょうか.


**女王国(いわゆる邪馬台国とされた都市)はどこにあったのか**
では,女王国の場所はどこなのでしょうか?
「自女王國以北、其戸數道里可得略載・・・」とありますから,女王国から見て北方に土地があることになります.
さらに,位置を特定するためのヒントは以下の文章です.
原文:女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
和訳:女王国から東へ1000里渡ると,また倭人の国がある。
つまり,女王国の東には海があるのです.
北方に多数の国々を位置させることができて,東方に海を望む場所.
そこが女王国.
ということは関門海峡から東側,福岡県東部から大分県北部が有力候補になります.
これまでをまとめて図示するとこんな感じ.
福岡県行橋市から大分県豊前市辺りが,最もその条件を満たしています.
それに,この位置は不弥国から約1300里(約100km)にも位置しているのです.

さらに言えば,ここは地政学的にも重要です.
船を使った外交や商取引(特に鉄の輸入),情報交換などが活発になってきたこの時代において,関門海峡周辺を押さえることは日本列島の覇権を握ることを意味します.
日本海勢力と瀬戸内海勢力に睨みを効かせられるからです.
原文:自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國。
和訳:女王国より北に特に一大率という官が置かれ、諸国を検察し、諸国は之を畏れており、伊都国に常駐していた。
この記述は,現在の北九州市あたりに監察官を担う本部があったことを示していると考えられます.場所としても,ここにそれを置く意義は十分にある.
そして,その監察官は伊都国に常駐していたというわけです.

そう考えると,邪馬台国とは現在の糸島半島から宇佐市までを勢力下に置いていた連合国,つまり「筑前」から「豊前」までの領域に相当し,のちの「筑紫国」の前身になった国ではないかと思えます.


**投馬国はどこにあったのか**
もう一つの疑問を解釈してみましょう.
「南至投馬國、水行二十曰」の投馬国とはどこを指すのか?
東松浦半島までにかけた「水行10日」に追加して,さらに水行10日(合計20日)で行ける場所が投馬国ということになります.

私は,末盧国を分岐点として,九州西部に水行した先の国を差しているのだと思うんです.
理由は2つあります.
(1)魏志倭人伝では,女王国より東方を未知の倭人の土地として描いている.ゆえに「投馬国」が瀬戸内海勢力(安芸,吉備,伊予,讃岐など)や,日本海勢力(出雲,丹後,但馬など)とは考えにくい.
(2)より安全な陸行ではなく,危険でも水行した方が便利な場所にある

当時の大陸(中国・朝鮮)にとって「倭人の国」とは,邪馬台国と投馬国が有名所として知られていたのではないかと思われます.
だから,「魏志倭人伝」として「両国とも帯方郡から南下したところにある」と記した.
邪馬台国と投馬国の両国は,末盧国〜対馬国を経由して大陸と交流をしていたのかもしれません.

投馬国のことが詳しく記載されていない理由としては,大陸からの御一行は邪馬台国にしか行かなかったからではないかと考えられます.
そして,魏志倭人伝においては,詳しく偵察することができた邪馬台国の記録を記述した.
一方の投馬国については,末盧国で「ここから西側に船で10日くらい行けば,投馬国に着くよ.規模は邪馬台国よりちょっと小さいくらいだよ」という情報を集めただけなのかもしれない.
だから,「南へ水行20日で投馬国.同じく南へ水行10日と陸行1ヶ月で邪馬台国の女王国に行ける」という文章になり,投馬国についての詳しい距離や首都の記述がないわけです.

陸行せずに,水行20日のみである理由も簡単です.
以下を御覧ください.

九州西部は,リアス式海岸と諸島が続いており,ここを陸路で旅することは困難です.
陸行は不可能というわけではないけど,船を使った移動の方が便利だった可能性があります.
なので,「水行20日」とだけ記述した.九州西部では陸行することはないと考えられたからです.

投馬国の中心地がどこだったのかは不明ですが,私の妄想としては「大村湾内・諫早市周辺」というロマンを描いています.
ここは川と平地が適度にあり,水路の確保が容易で,しかも有明海を越えて現在の佐賀県や熊本県との交流もできます.
その海洋航路技術も高かったでしょうから,大陸とのつながりも深かったのではないかと思うんです.


**狗奴国はどこにあったのか**
次に,「其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず」についても考えてみましょう.
女王国が行橋市周辺だとすると,その南方には大分県の別府市や大分市があります.豊後の国ですね.
位置関係をおさらいするため,冒頭に示した図を再掲します.
そのまんまです.狗奴国は九州東部の国だと考えられます.

おそらく,狗奴国としては大陸と通じて鉄などの希少資源や新しい技術・知識を欲しがっていたのではないかと思います.
そのためには,関門海峡を押さえている邪馬台国が目の上のタンコブだった.
私の妄想としては,きっと国東半島が九州の火薬庫だったと推察しています.

そんな九州の火薬庫のど真ん中に,日本の歴史上極めて重要で,武運の神「八幡神」を祀る八幡宮の総本社「宇佐神宮」が鎮座しているのも,何かを意味していると考えたくなります.

それに,「狗奴国は別府市・大分市周辺にあった」のだとすると,実は私のもう一つの妄想である「日本神話における『天孫降臨』は四国勢力による九州平定の物語だった」を別の形から説明してくれるんです.
詳細は■古代四国人・補足(国譲りと天孫降臨から空想する)を読んでほしいのですが,つまりは,
「邪馬台国(アマテラス)と争っている狗奴国(サルタヒコ)が,四国勢力(ニニギ)を導いて制圧に乗り出した」
ということです.
興味があったら上記リンク先をどうぞ.


**邪馬台国が近畿ではない最大の理由**
最後に,「邪馬台国九州説」の念押しをしておきます.
原文:參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里
和訳:倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、一周めぐるのに五千里ばかりである。
これって島ですよね.そこそこ小さめの.
本州じゃないですよ.
「一周するのに5000里(約400km)」というのは九州にしては小さいですけど,現地で情報収集したところからの分析ですから,精緻なものではないと考えられます.
ちなみに,グーグルマップで九州1周分を計測すると,約1000kmになります.
もしかすると,一番遠いところまでの距離と間違えたのかもしれませんね.


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