2017年10月6日金曜日

大学現場の凄惨さがネット記事になっている

こんなネット記事がありました.
日本のアカデミズムは危機にあるのか――ノーベル賞受賞者も警鐘(ヤフー・ニュース2017.10.5)

「危機にあるのか?」とか言ってる場合じゃなくて,もう既に危機を通り過ぎて「手遅れ」になっているんだ,ということを,このブログでは5〜6年前から指摘してきたところです.
ようやく,こういう人目につくニュース・サイトでも大学教育の危機感を煽るようになってきましたね.
でも,そういう段階になっている時点で,先ほど申したように既に「手遅れ」なんです.
一般大衆ですら「気になる」ようなレベルになった時点で,もう打つ手はなくなっています.

私がこのブログを始めるよりもずっと以前から,大学教育のことを本気で心配していた諸先生方は「このままじゃヤバい」とさんざん指摘していました.
しかし,こういう指摘は当時,「象牙の塔にはびこる保守的な態度」と言われたり,「大学教員なんて所詮は社会不適合者の集まりだから,もっと外部の風を取り込まなければならない」などと嘲笑されていたのです.

上記のネット記事のアウトラインを並べてみました.
・地方から失われていく、科学研究の基礎体力
・世界における「科学エリート」の地位を失いつつある
・「就職できないから」東京大学でも大学院生が減少
・問題を抱える「任期付きポスト」
・科学技術への投資なくして日本に未来はない
どれも過去記事で取り上げてきたことですけど,私のブログよりも丁寧に取材されていますので,気になる人はぜひご確認ください.

その記事の中から,話題を一つを挙げておきます.
こうした傾向に、深い懸念を抱いている研究者は多い。
その一人が2015年に「ニュートリノ振動の発見」でノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章・東京大学宇宙線研究所所長だ。
(中略)
梶田氏は、この20年ほどで普及してきた「選択と集中」という言葉に、基礎研究の立場から違和感を覚えるという。
「『選択と集中』は盛んに言われてきた言葉ですが、その結果、大学がどうなったか。東大はいいかもしれないですけど、地方の国立大学では衰退が激しくなった。学問の多様性を急激に失わせている気がして、将来の芽が出る前に根こそぎなくしているような感じがするのです。むしろ、重要なのは多様性です。科学には多様な可能性があるので、きちんとサポートしていかないといけない。それは、つまり、無駄になる研究もあるかもしれないということ。それでも、そうした部分に目をつむるという感覚も必要なのだと思います」
同じことを私も繰り返し過去記事で書いてきましたが,どこの馬の骨か知れない奴の言葉と違って,東京大学ノーベル賞受賞者の言葉には説得力がありますね.

梶田先生の言葉に付け加えるとすれば,そもそも「選択と集中」によって何を求めていたのかが問題だったのです.
多くの人々は,選択と集中によって大学教育や研究が活発化するものと思っていたのです.バカですね.どうしてそうなるのか意味不明です.
「選択」して「集中」するのだから,当然のことながら一方では「選択されず」に「放置」される領域が出てくることを意味します.それでどうして活性化すると思ったのか.

当たり前のことですが,「選択と集中」というのは,限られた資源をどこかの部分に集中的に配分して,その領域だけを生き残らせようという手法のことです.
当然のことながら,選択して集中させるわけですから,そこでは「競争」がなくなることを意味します.複数のグループが切磋琢磨して競い合う,ということを避ける方法としては優秀なので.

ところが,世の中の多くの人々は「選択」するための領域やグループを「競争」させることによって,その結果当該領域が「活性化」するのではないかと考えていたフシがあります.科学研究費補助金なんかが典型です.
どう考えても無理筋なのですが,この浅はかな思考が反省されることはありません.

「反省されることがない」
これが最大の問題点でしょう.
ですから,この「大学教育の危機」というのは既に手遅れなのです.

今後ですが,堕ちるところまで堕ちたら,その原因や経緯を当たり障りのない別の何かで誤魔化しつつ,何事もなかったかのように「大学教育」に似た何かを改めて始めるものと思われます.

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