2017年12月31日日曜日

例の双眼鏡

正月休みで実家・高知に帰っています.
2017年大晦日の記事は,お盆休み中の記事で紹介した例の双眼鏡について.

「ニコン 12cm 双眼望遠鏡Ⅱ型」
カツオ漁船に取り付けてあったものを,父が譲り受けてきたものです.
こういうやつ↓
無骨なデザイン.
なかなかのデカさで,手に持って見ることはできません.重量は15kgあります.

その時の記事はこちらです.
お盆休み:実家の様子

その後,知り合いの鉄工所の人に相談して三脚に取り付ける器具を作成したとのこと.
今回帰省してみましたら,完成しておりました.
それがこちら↓
15kgの重量があるのでそれなりの三脚が必要なのですが.
その三脚は,これまた知り合いの建設業の人から,使わなくなった測量用の三脚を譲ってもらったそうです.

取り付けるために特注した器具はというと,こんな感じ.
三脚上部に,コの字型にした金具で支えています.


両サイドには双眼鏡を仰俯角ティルトさせる機構が残っていたので,それを活かすための金具も用意しました.
作りは至ってシンプルで,回転する軸を金具で挟むようにしています.
これにより,旋回と仰俯角が自由にとれるようになりました(ようするに,普通の仕様).

見え方も気になりますので,さっそく目の前の山を観察してみます.

普通にiPboneのカメラで撮ったアングルがこちらでですが.
双眼鏡を通すとこうなります↓

小型のものや安物とは比べ物にならないほどの視界です.
さすがデカいだけのことはある.

ちなみに,この双眼鏡を設置しているのは父が手作りした「庵」です.
山を切り分けて小屋を建て,水場や電気を引いています.
全体像はこんな感じ.

こういうのは男の趣味というやつですね.

2017年12月23日土曜日

体育学的映画論「スターウォーズ/最後のジェダイ」

見てきましたよ,「最後のジェダイ」を.
内容が内容だけに,きっと批判レビューが多いものと想定しておりましたが,やっぱり多いようですね.
ただ,私個人的にはかなり高評価な映画でした.
スターウォーズ・シリーズの中では最も好きな作品になったかもしれません.

【以下,ネタバレを含みつ書いていきます】

上映時間も2時間半だし,内容も詰め込みすぎな感が否めないのですが,それでもこれは2つに分けたりせずに1本に収めてよかったと思います.
本作は,これまでのスターウォーズの物語を「そのまま引き継いだ」作品として労作だと私は見ていて,だからこそ長大な上映時間にもなっている.
なので,本作のテーマは「スターウォーズは続くよ,どこまでも」といったところでしょうか.

スターウォーズ・最後のジェダイは過去作の繰り返しです.ようするに,「歴史は繰り返す」ということ.
だからこそ,今作では「ジェダイとは何か?」とか「フォースとは何か?」「光と闇とは何か?」といったことに言及しています.

どうしてそうなるのか? 具体的な項目を立てて考えてみましょう.

(1)ルーク・スカイウォーカーとカイロ・レン
この2人の関係は,完全にオビ=ワン・ケノービとダース・ベイダー(アナキン・スカイウォーカー)の繰り返しです.
アナキンの内部に広がる暗黒面を阻止しようと,オビ=ワンがアナキンと戦ったように,ルークもレンの内部に広がる暗黒面を阻止しようと暗殺しようとしています.そして,両者は結局のところ失敗したようです.
そして,オビ=ワンがルーク達を逃がすためにベイダーと一騎打ちの後,霊体となって死んだように,ルークもレイ達を逃がすためにレンと一騎打ちの後,霊体となって死にます.
きっと,続編ではレイの前に霊体となって現れて助言することでしょう.
ただ,今作のルークは長髪髭面,座禅組んで浮いてたりと,完全に麻原彰晃でした.次回作でレイに「カイロ・レンをポアしなさい」などと助言しないことを切に願います.

(2)ルーク・スカイウォーカーとレイ
一方のこの二人の関係は,オビ=ワンとルークですね.
今作でルークがレイに協力しようと決意したきっかけは,R2D2が再生した,レイア姫がオビ=ワンに宛てたメッセージ映像でした.R2D2はルークに「お前もオビ=ワンから同じようにしてもらっただろ」と言ったに違いありません.あれは明らかに狙った演出です.

(3)レイの存在
作中,レイは「私はベン(カイロ・レン)とは違う」と言います.
この言葉は同時に,レイの存在が,アナキンの繰り返しであるカイロ・レンとの合わせ鏡であることも象徴しています.
つまり,アナキン・スカイウォーカーに代わる,新たなる「フォースのバランスをとる存在」としてレイが描かれているのです.
実際,レイは半端ないフォースの使い手です.なんと,自力でフォースを操るすべを体得し,おまけに前作では初めて手にしたライトセーバーでカイロ・レンに勝利しています.
さらにメカニックにとんでもなく強く,初めて乗るファルコンを手足の如く操る姿はまるでニュータイプ.
まさに赤い彗・・,いえ,アナキン・スカイウォーカーの再来です.

(4)カイロ・レンはダース・ベイダーか?
レイがアナキン・スカイウォーカーの再来として描かれているので,言い換えればカイロ・レンはダース・ベイダー,つまりアナキン・スカイウォーカーにはなれない存在として描かれることになります.
前作の「フォースの覚醒」の時から,ずっとカイロ・レンが「ダース・ベイダーのようにはなれない」と悩んでいるのは,別に「強さ」だけではないのです.
カイロ・レンはダース・ベイダー,すなわちアナキン・スカイウォーカーにはなれません.レイがアナキン・スカイウォーカーだからです.
これは同時に,ラスボスみたいな存在感を出していたスノークが,あんなにもあっさり討ち死にしたことの理由でもあります.所詮,スノークはそういう器ではなかったのです.

(5)レイの出自は?
レイはルーク・スカイウォーカーであると同時に,アナキン・スカイウォーカーの再来です.なので,レイの出自もアナキン・スカイウォーカーと類似したものになると私は予想しています.
一応今作でも「謎」にされた主人公・レイの出自ですが,多分私は「フォース」によって誕生したのだと推測していおります.そう,アナキン・スカイウォーカーのように.
覚えておいででしょうか? アナキンに父親はいません.母であるシミ・スカイウォーカーが処女懐胎して産んだ子供です.まるで聖母マリアがナザレのイエスを産んだかのようですね.まあ,キリスト教系の文化圏の映画ですからね.
一方,今作においてレイは,ルークがニート生活をしていた島の地下空間で不思議な体験をします.
そこで彼女は「両親に会いたい」と願いますが,そこに映し出されたのは彼女自身でした.まるで彼女に「親」がいないかのような演出ですね.
これは私の完全なる推測ですし,何かの都合で変更になる設定かもしれませんけど,レイはきっとアナキンのように片親無しで誕生した「キリスト(救世主)」です.

(6)最後のジェダイは誰?
タイトル回収のための「最後のジェダイ」はルーク・スカイウォーカーということになるでしょう.
実際,ジェダイの書物は霊体化して現れたヨーダが雷を落として燃やしてしまいました.
これが意味するものは,それまでの「ジェダイ」が現時点で滅んだということです.
そして,新たなるジェダイがレイによって始まるということ.さながら,旧約聖書を廃して,新約聖書を編むようなものでしょうか.
やっぱりキリスト教系の文化圏の映画ですからね.そういう展開が好きなんだと思います.

私の憶測が入った解釈ではありますが,多分そんな感じなんだろうなぁと思いながら「最後のジェダイ」を見ておりました.
それだけに,本当にそうなのか続編が楽しみでもあります.

2017年12月16日土曜日

道徳教育は体育でやりましょう

「昨今喧しい『道徳教育』は,体育でこそ実現できるものだ」
そんな記事を書こうと思っていたら,大学の体育教員控室に置いてある雑誌にこんなのがありました.

体育科教育という我々の業界の雑誌でして,その12月号の特集が「いま,体育と道徳の関係を問い直す」「体育から発信する『学びに向かう力,人間性等』の育成」っていうやつだったんです.タイムリーでした.
興味のある方は御一読ください.

過去記事でも述べたことですが,体育は人間らしさを育てる上で重要な機会です.
体育ではスポーツを教材として扱う事が多いのですが,この「スポーツ」をきちんと楽しむためには人間らしさ,すなわち,倫理,道徳,人間性が求められます.
スポーツには,これらから惹起される「スポーツマンシップ」とか「フェアプレー精神」をもって取り組まないと,最初はそうでもなくても,途中からつまらなくなったり飽きたりします.
以前にも言いましたが,バカはスポーツができません.バカなのでなんとなくバカ騒ぎをするも,途中から投げ出します.
ですから,「スポーツを楽しもうとする営み」に取り組むことは,自然と道徳教育につながるのです.

人が何かを学び取るためには,その行為によって自分が楽しい思いをするであろうことが予想されなければいけません.
道徳教育であれば,道徳的に振る舞うことがどれだけ自分にとって価値あるものかを実感できなければ,道徳を身に着けることにはならないでしょう.

一部の気合いの入った人たちは,(道徳教育に限らないけど)熱弁をふるって,怒ったり喚いたりすることで道徳の重要性を説くことが多いですね.
最近は「いじめ問題」なんかでもそうなんですけど,とにかく怒鳴り散らすことが熱血的な教育だと考えているフシがあります.悲しいかな,そういうのって教育関係者以外の人に多いです.そんな人たちが教育現場に向かって「もっと道徳教育を徹底しろ」などと要求し,それに必要なのは「修身教育」とか,はたまた「人権教育」を説くことだなどとデタラメなことを言い出します.
でも,そんなものは子供はもちろんのこと,人には効果的に伝わらないですよ.

人が説得を受けるのは,自分がその行動を採用することによって楽しい思いをすることが予想できる状況においてです.
道徳教育であれば,「道徳的」とされる行動をとることが,自分自身にどのような価値をもたらすのか分かっていないといけません.

その点,スポーツを楽しむためには道徳的な行動をとることが条件になります.
「自分だけが楽しい思いをすればいい」と考えて取り組んだとしても,よほど競技性が強い場合は別でしょうが,そのスポーツはつまらない活動になってしまいます.
スポーツを楽しむためには,「私」の相手となってくれる存在(人間,動物,自然)も,「私」と対峙することで楽しめなければ成り立たないからです.

大学生を対象に一般体育をやってみますと,それが如実に現れます.
例えば,30人くらいの学生に場所をボールを与えて「サッカーをやりなさい」と課題を出してみると,ウォームアップをしてチーム分けをしてゲームをする,という一連の流れを達成するのは非常に困難です.実際,残念ながらこれは「偏差値」と相関してしまいます.
偏差値が低い学生はバカだとは言いたいわけではありませんし,偏差値が高い学生の全てがしっかりスポーツできる者ばかりではありませんけど,現状,これにはゆるい相関があるのも事実です.

元来,スポーツ教育はエリート育成のために用いられていました.
スポーツする場において,自分がどのような振る舞いをするべきなのかを考えられるのは,やっぱり人間社会におけるエリートなんですよ.
これは別に,リーダーシップを発揮したり,上手にプレーしたりといったことではありません.スポーツを楽しめる場を強調・協力して作れているかどうかという話.リーダー格になっている学生を補佐してあげたり,チーム内での役割を感じ取ったり,そこにいる人達が心地よくプレーできるように配慮した行動がとれることが大事なのです.

私自身,さまざまな大学で体育の授業をやってきましたし,知り合いの先生方と情報交換してみましても,これには非常に関連があります.
低偏差値大学では,学生は瞬発的に盛り上がることはあっても,90分持ちません.仮に90分持ったとして,次の週には飽きています.
そんな大学では,スポーツ嫌いの学生は嫌々取り組んだりするのはもちろん,それを堂々と態度に出します.
たとえ誰かがリーダーシップをとろうとしても,その人に協力してあげようという学生は少なく,むしろ甘えたり反抗したりします.せっかくサッカーのウォームアップを皆でやろうとしているのに,「俺,バスケがやりたい」とか言い出して脇で遊び出し,それだけならまだしも,「お前も一緒にやろうぜ」などと周囲の何人かを誘って場をメチャクチャにします.
あぁ,これがバカっていうんだな,ってことが観察できます.

で,結局はこういうのが専門ゼミでの議論・討論とか,研究ミーティングなどの場面でも表出するんです.
スポーツに対する態度はアカデミックな態度と通底しています.

ある先生が仰っていたなかで印象的だったのが,「低偏差値大学の学生の特徴として,『上手くいったのは自分の努力,上手くいかなかったのは誰かの責任』という態度が強い」というもの.
つまり,「私が心地良い思いをしていないのは,誰かがそれを阻害しているからだ」というメンタリティがあるのではないか? ということであり,そんな彼らは,自分自身が能動的に働きかけて心地良い状況を作り出そうという意志が弱いということなんです.

こういう学生をどのように教育するのかが大事になってくるわけですが,私なりに授業期間を通して様々なアプローチをかけてはいますよ.別に野放しにしているわけじゃありません.
ただ,「言う事聞かないと単位を出さないぞ」とか「指示をしっかり聞いて行動しろ」などと指導したくはないんです.
私も昔はそんな授業をしていましたが,今はやっていません.だって,そんな体育の授業に教育意義が見いだせないからです.
指示通りのことをやらせて,それでスポーツの技能が上がったところでどうだっていうんです?

上述したバスケを始めた学生にしたって,「おい,こっち来てサッカーしろ」と毅然とした態度をとってその場を治めても,彼は依然として「周囲の迷惑を顧みず,スキあらば天邪鬼な行動をとって気を引こうとする人間」という困ったチャンであることには変わりない.
これまた別に「困ったチャン」であること自体が悪というわけでもありません.そういった行動を可能な限り自制してコントロールできるようになりましょう,ということです.

実際,バスケを始めた学生としても,実は自分なりに「楽しい状況」を作るために能動的に働きかけた可能性もあります.そんな彼に必要なのは,指導者からの「やめろ」という指示・命令ではなく,周囲の学生から迷惑がられているというレスポンスと,本人自身もその行動によって深い楽しみを得られなかったという結果です.
そういった状況を得る機会として,体育とスポーツは非常に便利であると言えます.

頭では分かっていても,実際の行動にはつながらない.
体育が扱っているのは言動一致を目指すことです.
実際,体育の学習指導要領は,改正を繰り返してもこの文言は変わりません.
心と体を一体として捉え,生涯にわたって心身の健康を保持増進し豊かなスポーツライフを実現するための資質・能力を次のとおり育成することを目指す。■新学習指導要領(文部科学省)
正しい答えを身につけるのではなく,正しい答えを導く力を養うこと.
それが体育の授業に課せられた使命であり,豊かなスポーツライフを実現することとは,これすなわち道徳の陶冶に他なりません.


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2017年12月12日火曜日

体育学的映画論「0.5ミリ」

チャンネルが合わないと全然おもしろくない映画です.
たぶん,私も10年前の自分ならおもしろくないと思ったはず.
30代という,この歳になったからこそハマった映画と言えます.
0.5ミリ(wikipedia)

チャンネルが合った映画ですので,何か評論しようって話ではないのかもしれません.
映画で捉えているものが,すんなり入ってきます.
久々に凄い映画を見た.いやぁ~,ええもん見たなぁって思える映画には,なかなか出会えるものではないですから.

にしても上映時間が長い.3時間超え.
でも,あっという間に感じるほどのめり込めます.

この『0.5ミリ』の原作者であり監督をした安藤桃子氏は私と同世代です.
小説版が2011年,映画は2014年に撮られたもので,2017年現在における我々「30代半ば」の者たちがなんとなく感じている「世代の見方」を写し撮っているように思います.
逆に,おそらくは20代以下の人が見ても退屈と感じる映画です.

30歳くらいになったら,以前にも増して世代間の違いを意識するようになってくるんですよ.それは別に「違い」を評価しようっていうわけじゃなくて,意識するってことです.
中年や高齢者との違いはもちろん,この歳になると20歳くらいの人との年齢差を感じるようになる.それも同じ民族・文化圏で育った者同士での差を感じるわけです.

劇の終盤で,主人公がつぶやきます.
「死にそうな爺さん相手にしてるとさ,時々思うの.私の知らない歴史を生きてきた人が,おんなじ世界に生きているんだなって.戦争とか私知らないし.今日生まれる子も,明日死ぬ爺さんも,みんな一緒に生きてんだよ.お互いにちょっとだけ目に見えない距離を歩み寄ってさ.心で理解できることってあるんだね」

あぁ,分かる分かるその感覚.
以前は頭で理解できていたことですが,最近は心の底からそう思うようになりました.
歴史を大切にするっていうのは,史実を追い求めたり知識を整理することではなくて,その民族と社会の生き様を語り継ぐことなんだなぁって.

劇中に出てくる老人たちとのエピソードは,どれも破天荒なものばかりですが,実はいずれも「普通」な人たちなんです.
そこら辺に住んでいる普通の老人に目を向けると,普通でないものが見えてくる.「介護」がそれを浮き彫りにさせます.

簡単に言えば「お年寄りを大切にしよう」という映画なのですけど,こうしたテーマとメッセージをきちんと取り扱った映画はほとんどないんじゃないでしょうか.
もっと広く捉えるなら,「人のことをちゃんと考えてあげよう」というのがテーマだとも思います.
介護とか高齢者は呼び水にすぎない.大事なのは「人」とどのように対峙するかです.

この点について,あえて焦点を絞らず,大きく切り取ってきたからこその3時間超えなのでしょう.
でも,じっくり腰を据えて見る価値はありました.私はこれくらいの長さで一気に見るのが丁度いいと思います.

ところで,この映画のロケ地は,私の地元である高知です.
映画を見ながら,「あっ,サニーマートだ.ここはフジグランの中だ.種崎海岸だ」と楽しくさせてくれます.
監督の安藤桃子氏は,この映画撮影を機に高知に移住したとのこと.
(実は)日本最大の映画県に移住されるとは,なかなかお目が高い映画監督です.
最近は高知市内に映画館を作ったというニュースがありましたね.
高知と映画(全体とは部分の総和以上のなにかである)

なお,この『0.5ミリ』では,土佐弁による演技は一切ありません.
変な土佐弁で演技するより,まったく触れなかったのはいい選択でした.
地元民としては好評価です.


2017年12月6日水曜日

例のNHKの判決

NHKの受信料を支払う必要のない私にとっては,価値があるんだか無いんだか難しい話題です.
でも,それだけに関心はあったりするわけで.

どうやらテレビなどの受信機を持っていれば,NHKの受信料を支払わなければならない状態にあることが認められたようです.

NHK受信契約、テレビあれば「義務」 最高裁が初判断(朝日新聞2017.12.6)
NHKが受信契約を結ばない男性に支払いを求めた訴訟で、最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は6日、テレビがあればNHKと契約を結ぶ義務があるとした放送法の規定は「合憲」とする初めての判断を示した。事実上、受信料の支払いを義務づける内容だ。
ただ,現在支払いを拒否している人が,違反しているからってんで一斉検挙なんてことにはならず,以下のように・・・
NHK受信契約、成立には裁判必要 最高裁(日本経済新聞2017.12.6)
NHK受信契約をめぐる6日の最高裁判決は、受信契約が成立する時期について「裁判で契約の承諾を命じる判決が確定すれば成立する」とした。「契約を申し込んだ時点で自動的に成立する」とのNHK側の主張は退けた。契約を拒む人から受信料を徴収するためには、今後も個別に裁判を起こさなければならない。
とのこと.

NHKが嫌いな人にとっては腹立たしい話でしょうが,冷静にフェアに考えてみれば当然の判断だと思います.
だって,法律を読めばどう考えたって「支払わなくていい」ということにはならないからです.

「テレビを持っていれば支払う」ということになっている以上,NHKの番組に不満があるから受信料を支払わない,などというチンピラみたいな主張が通るわけがない.
払いたくなければテレビを持たなければいいんです.私みたいに.

日本のテレビっていうのは,基本的にNHKを見るための装置です.
ついでに無料で民放も見れる仕組みになっているわけで.
これは別に日本独自のシステムではなく,その他の国でも採用されています.
もちろん,そういう国でも公共放送の受信料を「廃止しろ」とか「安くしろ」っていう不満は出ているそうで,私の知り合いのヨーロッパ人も,そんな政治話が母国でしょっちゅう持ち上がると言っていました.

むしろ,このNHK受信料の問題点とは,徴収する気が弱いNHK側に問題があります.
普通の感覚なら,テレビを購入する際にNHKと契約しなければ入手できない仕組みにしますよね.
例えば,よほど特別な事情がない限り,携帯電話も購入時にプロバイダと契約するし,自動車を購入する時も保険と一緒に組まされます.
それと同じ仕組みをNHKもすればいいだけのこと.
それが出来ないのは,何か後ろめたい事情があるからと勘ぐられても仕方がない.

たしかに,そんなことすると案外たくさんの人が「テレビを購入しない」という状況になったりするかもしれないから,ちょっとビビってるんでしょう.
あれって,テレビ1台あたりに課される場合もあるんですよね.ホテルの客室とかなんて,退っ引きならない状況になりますし.
NHK受信料、「ホテル1部屋1世帯」の不思議(東洋経済2017.4.3)
なので,家電業界からの圧力とか,今年の流行語になった忖度があったりするのかもしれません.

あなたがもしNHKの受信料を支払いたくないのであれば,テレビを持たなければいいんです.
テレビを持っていたら支払え,っていう仕組みになってるんだから,まずはテレビを捨てるのが先.
そしたら集金人も明るく元気に追い払えます.

NHKに不満があったとしても,まずはテレビを捨ててから要求しましょう.

何ていうか・・,テレビ(民放を含め)を見ながら「NHKは見る価値がないし実際見てないから,受信料を払いたくない」って言ってる人って,政治で言うところのサヨクとかウヨクによく似てるなって思います.
うん,凄く似てると思いますよ,そのメンタリティが.
憲法9条で平和が保てると思っていたり,憲法9条を改正すれば普通の国になれると思っている,そんな甘えたメンタリティです.

こういう人達と一緒にはなりたくない.
そんな思いを強くしたニュースでした.