2017年2月28日火曜日

築地市場土壌汚染問題今更何故報道

タイトルを16字熟語にしてみました.
文字化けでも中国語でもないですよ.

どうやら築地市場の土壌はかなり汚染されているようだ,というニュースです.

築地も土壌汚染の恐れ 8工事で義務付け履歴調査怠る…他8市場20件前後の工事でも(産経新聞)
豊洲市場(東京都江東区)の移転問題をめぐり、築地市場(中央区)の敷地が土壌汚染されている可能性があるとの報告を都がまとめていたことが28日、都への取材で分かった。報告では、築地の敷地に戦後、ドライクリーニング工場が建てられ、有害物質を含む有機溶剤を大量に使ったとみられるため、土壌汚染の可能性があると指摘。都は今後、築地の土壌汚染の有無を調べるが、小池百合子都知事の移転判断にも影響を与えそうだ。
噂では,「既に昨年9月の時点でこのことは分かっていた.小池都知事が豊洲移転問題を政局に利用したいから伏せていた」なんてのもありますが,それはこの際放っておくことにします.

私が驚いているのは,このことが主要メディアでニュースになったことです.
先日も「自民党の息がかかっている教育機関」がニュースになりましたよね.これにもビックリしていたところです.
こんなウヨクの教育は万事休すだ

こういったことは豊洲移転問題のほとぼりが冷めてから出てくるもんだと思っていましたので,東京も案外侮れませんね.

私もかなり以前から「そもそも築地市場が汚染されているんだから,豊洲に移転したところで問題ない.むしろ,データからしても “穢れ”思想からしても清潔なのは豊洲でしょ」ということを述べてきました.
豊洲移転問題みたいな問題を考える

なんと言っても,築地市場ってあの「原爆マグロ」が埋められてる場所として(私のなかでは)有名だったので.
(これって中学か高校の社会の教科書とかに載ってませんでしたっけ? なんとなくそんな覚えがあるんですけど)

それを知った当時から,なんでそんな処理地の上にわざわざ魚市場を建てたのか疑問でした.
私なりの解釈はこうです.
原爆マグロという “穢れ” を,ある種の “鎮魂としての生贄” といった禊的価値観から,その埋め立て処理地の上に,敢えて「魚市場」を建設したのではないかと.
漁業関係者たちの心意気といいますか,表現が難しいですけど,この感覚,なんとなくですが理解してもらえるでしょうか.

ともかく,上記の過去記事でも書いたように,こういう話題って出てこないだろうと思っていたんです.
東京人って,そういうところの根性が腐っていると思っていたので.
でも出てきた.凄いですね.
おめでとうございます.

そもそも関東のくせに.ましてや東京のくせに「汚染されていない土地を探したい」などと言い出す事自体が身の程知らずなんです.
ちょっと頭がイカれていると思われても不思議じゃない.
東京に清潔な場所なんてあるわけないじゃないですか.

地方民である私からすれば,この関東一円が汚染地域です.
そういう認識で生活した方がいいと思います.
逆に言えば,そんなことが体を通して感じられないほどに,この地の人間は感覚が麻痺していると言っていい.

なんにせよ,こういうニュースが報じられるのは常識的な感覚が残っていることを意味します.

ただ私は,今回のニュースで豊洲移転問題が好転するとも思っていません.
以前から私は「東京人」を揶揄するため,こんな例え話を繰り返ししてきました.
出典■やっぱり東京を諦める
ホクホクと塩焼きにされた鯛を見せられ,「これを今から活け造りに変えてくれ」と言われても困ります.炊き込みご飯にするくらいならなんとかなりますが,活け造りは無理です.それと一緒.ただ一番困るのは,塩焼きでもそれを美味しく食べればいいものを,炊き込みご飯に作り変えたボソボソの鯛を「うまい,うまい」と言いながら食べちゃうのが東京人でもあることです.
どういう意味かよく分からない人もいるかと思いましたので,やや詳細に述べたのがこちら↓
鯛の活け造りが食べたかった東京人は,塩焼きを見せられ「活け造りにしてほしい」と頼みました.
でも,現在の東京という場所で活け造りを食べることは無理です.絶対無理なんです.
だったら塩焼きであってもそれを美味しく食べればいいものを,
活け造りがダメなら何が出来るんだ? と聞いてくるので,
「まぁ,炊き込みご飯くらいですかねぇ」っていうことになったから,
「塩焼きは嫌だから,炊き込みご飯に変更だ」というわけで,
塩焼きから作り変えたボソボソの残飯みたいな炊き込みご飯が出されたとしても,
きっとそれを「うまい,うまい」と言いながら食べちゃうんですよ.
けど,その炊き込みご飯にしても「もっとうまい炊き込みご飯があるそうだ」ということになったら,
「これは本物の炊き込みご飯じゃない」などと文句を言い出して,
なにがどう “本物” なのか分かんないんけど,とりあえず「本物の炊き込みご飯」を注文しだす.
地方出身者からすれば「結局,活け造りはどうなったの?」って思うんですけど,それは忘却の彼方です.
で,こういうのをずっと続けていって,そのうち「豆腐の刺身をショウガ醤油で食べよう」というところまで行き着きます.
それって冷奴ちゃいますの? ってツッコミが全国から来るものの,
「分かってないなぁ.これだから地方は困るんだよ」って言うはずです. 
きっと,豊洲移転問題もそんな顛末になると予想しています.

私が東京人に言いたいのは,「四の五の言わずに,まずは塩焼きを食え」ということです.
活造りは,地方に行って食べればいい.

身の程をわきまえるべきだということ.
ただそれだけです.


※より詳細な話は,以下の過去記事を参照してください.
関連記事
騙された?いえ,判断力の問題でしょ
じゃあ,どれが一番良いのか?
じゃあ,どのラーメンが一番旨いのか?
東京ラーメン再考
私をほめなさい。300字程度で。
ショートケーキ
やっぱり東京を諦める
鳥無き島の蝙蝠たち(4)空海
俗物が俗物から遠ざかるには

2017年2月27日月曜日

体育学的映画論「プラダを着た悪魔」

先日からファッション関連の記事を続けたので,せっかくですからもう一つ.

プラダを着た悪魔』は,私が「ファッション」について考えるきっかけになった映画です.研究室の助手をやっている頃(26歳くらい)に見たのが初めてでした.
とは言え,先日来述べているように,私はオシャレやファッションにこだわっているわけではありません.むしろ,その逆の行動をとってきたと言ってもいいくらいです.
この映画を見るまでは「ファッションなんかに関心を持つ人生は避けていきたい」と思っていたほどでしたが,いやいやなんで,ファッションとは奥が深いものだと気付かされました.

今回は,ストーリーに関わる話をしたいわけではありません.
この映画で語られているテーマについて,別の角度から眺めてみたいと思います.

先日は,スポーツと体育から「ファッション」を考えてみたのですが,この際,もうちょっと勉強してみようと鷲田清一 著『ちぐはぐな身体』と『ひとはなぜ服を着るのか』を読んでみました.
 
新しい考え方が得られてとても勉強になりましたし,ファッションに関する問題意識については私が過去記事で書いたことと類似点も多い.「身体」について興味がある人にはオススメです.

と同時に,こうした考え方をおさえておくと,映画『プラダを着た悪魔』も一味違った見方をすることができるようになります.

以前の記事で私はこんなことを書きました.
過去記事→■井戸端スポーツ会議 part 41「スポーツで考えるファッション」
体毛が極端に少ない動物であるヒトは,衣服を纏うことで生き延びてきました.
古来,衣服はヒトにとって「身体」だったはずです.
だとすれば,こう言えるはずです.身体である衣服を使って「遊ぶ」,そしてその在り方を文化的に高めようとする営み.ファッションとは,まさしく「スポーツ」ではないでしょうか.
ということは,人間にとってスポーツの在り方がファッションに及ぼす影響は大きいと考えられます.
論じる上で大事なことなので,冗長ですが過去記事からもう少し引用しておきます.
スポーツが「近代スポーツ」へと “衣替え” したことは,まさにファッションの変化をも促進しました.
ルールの統一と条件の平等を徹底した上で,「より速く,より高く,より強く」をモットーにする近代スポーツの普及と発展は,人類の多くに身体観の変化を促したはずです.
我々が直面しているファッションは,スポーツの影響を受けています.前述の通り,ファッションとはスポーツであり,スポーツはファッションから生まれているからです.
近代スポーツについて考えてみてください.ファッションにも同じことが言えます.すなわち,
1)身体が生み出すパフォーマンスの最大化
2)理想の身体の追求
意外に思うかもしれませんが,近代以降のファッションは,「着飾る」ことを嫌うようです.
自由に合理的に動く身体を目指し,理想とする体型を着用者に求める.
SF映画やSFアニメの描写として「未来の服装」が出ることがありますが,その多くが身体にピタッと張り付くようなファッションデザインになっていることが,それを暗示しています.
近代以降のファッションが目指している方向性とは,限りなく「身体」となる服装なのです.

もちろん,そこを崩そうとするのがファッションです.鷲田氏曰く,ファッションの発端は「与えられた服をわざと,ちぐはぐに,だらしなく着くずすことからはじまるしかない」のです.だから学生服を着崩し,スーツを着崩し,流行の服装を着崩す.

とは言え,近代ファッションの歴史を顧みれば,一貫してスリム化の流れをとります.
スリム→ユルユル→スリム→ユルユルの順番で,徐々に「よりスリム」に,そして「身体的」なっているのです.
現に,昨今はスリムでタイトなものが流行していましたが,去年あたりからユルユルの流れがきているそうです.でも,きっと数年後にはさらに「スリムに見える(身体化した)」ファッションが登場するのでしょう.

人はなぜ服を着るのか?
服は「体を保護するためのもの」「着飾るもの」という考え方が一般的ですが,これに鷲田氏は疑問を呈します.
体を保護することになっていない服,着飾ることを放棄していくファッションの流れ.
衣服は身体を保護するものだという考え方では,服飾の問題は説明がつかない.(中略)服飾とは,身体に合わせてモデルを作る行為なのではなく,むしろモデルに身体を合わせる行為なのではないかということなのだ.(『ちぐはぐな身体』)
激しく同意です.なので私は「ファッションはスポーツ」だと考えています.
服は身体の一部であり,身体のパフォーマンスです.その身体を使った遊戯・スポーツがファッションなのです.

鷲田氏は「スポーツ」についてこう言います.
スポーツは,服の下にあるオリジナルとみえる身体そのものを変換する作業,つまりは身体を衣服に変える行為なのだ.(中略)完全な身体? そう,これは現代の「エクササイズ中毒」とほとんど交錯している.「皮下脂肪が少なく,エクササイズによって鍛えられ,引き締められたからだ」というあのパーフェクト・ボディの幻想である.
(中略)
そのためにひとびとは,フィジカルコントロールに心を配り,フィジカル・エクササイズに汗を流し,ボディ・コンシャスな服を装着するのだ.まるで,もって生まれたその身体がよほど気に入らないかのように,ひとびとは自分の身体の改造に高額の費用を投入してとりかかっている.(「人はなぜ服を着るのか」より)
それが現代のファッションを追いかける人達の姿であり,それを追いかけていない人であっても,心の奥底では「それ」を理想的なファッションとして羨望の目で捉えているのです.

そもそも,「近代」とは「modern(モダン)」を日本語に訳出したものです.
modernとは,モード(mode)とモデル(model)に由来します.
modeは流行,modelとは模型のことを指していますから,近代とは「ある一つの模型(理想形)に向かった流行が起きる時代」ということを指しています.

そうであるならば,近代以降のファッションが,ファッションモデルに合わせたデザインになっており,それを追いかけるように流行していくことは不思議なことではありません.

そして,近代化したスポーツである「近代スポーツ」が,こと現代においては科学的トレーニングの発達とドーピングによる「サイボーグ化」と揶揄される状況.

理想とするものは模型(モデル,観戦)として眺めていた近代のファッションとスポーツは,現代においては自らがその模型となるべくコントロール(操作)する時代に入ったと言えるのかもしれません.

もっと言えば,ここには自分の理想とする姿,つまり「身体」を自分自身でコントロールすることができるという考えがあります.
そしてこれは,ファッションとスポーツを通じて,社会とその政治経済にも伝播します.

しかし,私も過去記事■大学における体育授業の意義3 で述べたように,そして,鷲田氏もうこう述べているように,
自分の身体が意のままになりうるものではないということを発見するためにこそ,われわれはスポーツをするのだと言いたい(「ひとはなぜ服を着るのか」より)
ということ.

つまり,ファッションとスポーツへの眼差しが,現代社会に生きる者にとって重要な意味を持っているのではないかと考えられます.
ファッションとスポーツについて,一個人として健全に向きあることが出来れば,現代社会に生きる者としてのバランス感覚の涵養につながるのではないかということです.

映画「プラダを着た悪魔」のラストで主人公の女性がとった選択について,上記のような視点から見てみると,「輝く女性©」といった見方とは異なる姿が見えてくるのではないでしょうか.


関連記事
井戸端スポーツ会議 part 20「プロレスはスポーツである」
井戸端スポーツ会議 part 39「日本のスポーツの定義に物申す」

今回と類似したことを,ガンダムで話すとこうなります.


2017年2月24日金曜日

こんなウヨクの教育は万事休すだ

先週書いた記事に,
こんな大学は万事休すだ
というのがあります.
あんな状態や,こんな状況にある大学は「危ない」とか言ってられず,もう既に「万事休す」だというネタです.

その最初の方に,こんなネタを入れておいたのですが,覚えてますか?
(未読の方は知らないでしょう.ご了承ください)

「よく理事が逮捕される」
「自民党の息がかかっている」

いえね,この手の話って大学に限らず教育業界全般に言えることではあるんですけど,なかなか一般の方々の前に提示されることってないわけで.
だからマジで深刻な問題になってきてからニュースにでもなるのかなぁ,って思ってたら,いきなり今週になってニュースが飛び込んできました.
かなりタイムリーだったので,自分でもびっくりですね.

「安倍晋三記念」名で寄付集め、首相が抗議 森友学園に(朝日新聞)
安倍晋三首相は24日の衆院予算委員会で、大阪府豊中市内の国有地が近隣国有地の約1割で学校法人「森友学園」に小学校用地として売却された問題に絡み、同学園が「安倍晋三記念小学校」の文言で寄付金を集めていたことについて、「何回も断っているにもかかわらず、寄付金集めに名前を使われたことは本当に遺憾だ」として、同学園に抗議したことを明らかにした。

森友学園と安倍首相の深い因縁 名誉校長・昭恵夫人が認めた「晋三記念小学校」(JCASTニュース)
安倍首相は、小学校に自らの名前を冠することは「お断りをしている」と国会で答弁していた。だが、昭恵夫人は過去の講演で、冠は「総理大臣を辞めてから」ならば構わないともとれる発言をしていたことがテレビ東京の報道で明らかになった。安倍首相は小学校の認可や国有地売却との関連も否定しており、昭恵夫人も含めて関与が明らかになった場合は「総理大臣も国会議員も辞める」と明言している。昭恵夫人の講演での発言をきっかけに、認可や土地の売却問題との関連についても、答弁の信ぴょう性が問われることになった。
別にこういう話が出た事にびっくりしているわけじゃありません.
こういう話がニュースになったことに驚いています.先日の記事で笑いのネタにしたのも,どうせ認知度は低いだろうと思ってのことですし.
でもこれは氷山の一角です.
この学園だけの話ではないのです.

自民党信者の方には申し訳ないのですが,自民党の息がかかっている教育機関には碌なところがないというのは我々の常識です.
ここ数日,結構話題になっているようですね.
ここ数年は「報道の自由度ランキング」がガタ落ち状態の日本ですから,てっきり与党自民党に関する話題は,もっと時間が経ってからニュースになるものだと思っていました.
報道の自由度ランキング(2016年現在:日本72位)
いつの時代も気合いの入った記者はいるものです.

繰り返しますが,これは幼稚園から大学まで,教育機関全般の話です.
今回は権力の強い政治家・安倍晋三ですので,まだ「危ない」とか「ヤバい」で済まされますが,そうでないところがもっとたくさんあるんです.
経営陣も,政治力を利用して経営しようという判断が優先されるようになりますから,どうしても強引な運営手法がまかり通り,教職員も酷使されます.結果,教育現場も(本当の意味で)荒れます.

もうかなり以前になりますが,
といった記事も書きましたよね.
で,それらで言いたかったことを「一言」で表わしたのが,
「自民党の息がかかっている」
ということなんです.
あんまりピンポイントなこと書けませんから,ギリギリぼかした表現がこれです.
でも,私としては結構思い切ったつもりです.

こういうのが出てくると,日教組とドッコイドッコイだと思わされるでしょ?
敢えて言うなら,過去記事でも述べましたが,左翼系の教育者の方がバカじゃないだけまだマシです.

これまでに私は教育問題に関して茶化した記事をいろいろ書いていますが,そこにはたくさんの「ヤバい話」が潜んでいます.
おバカな過去記事を読み直してもらったら,「もしかしてこれってこんな将来を意味するんじゃないか・・」と気づくものもあるでしょう.
なお,先日の記事■こんな大学は万事休すだのネタの中で,今後気をつけておくといいのは,「断捨離を好む」と「なにかと一点豪華主義だ」あたりです.そう捉えていただければ,私が適当な思いつきで■若手研究者用:スーツの上手な買い方・着方みたいな記事を書いているわけではないことも理解していただけるかと思います.そういう記事にも重要な視点があるんです.

今後もおバカな記事を書くことがあるでしょうが,皆様におかれましては,そこに潜む教育の闇を掬い取っていただければ幸いです.

どこそこの学校が危ないとか,あの大学は終わっている,なんてことを私は論じたいわけではありません.
そういうピンポイントな話ではなく,教育に対する「考え方」を問題にしたいのです.
問題意識が明確になれば,具体的な話なんてどうでもいいことです.


おバカな関連記事

まじめな関連記事

2017年2月20日月曜日

井戸端スポーツ会議 part 41「スポーツで考えるファッション」

先日,柄にもなく服装・ファッションについて記事にしました.
若手研究者用:スーツの上手な買い方・着方

そこではスーツの買い方と着方を主軸に述べていますが,ここに通底しているのは,
「環境と身の丈に合った服装が望ましい」
という,ただそれだけのことです.
結局のところ,本人固有の雰囲気や,着用する状況・条件に合わせて「ファッション」は決まるのだと思います.

もっと言えば,ここにも「スポーツ」が入ってくる.
スポーツでファッションを考えることができると思うんです.
今回はそんなお話.

そもそも,「服装」とは何か.

アスリートは,練習やトレーニングによって「技能」を得ます.すなわち,そのスポーツ種目において最大のパフォーマンスを発揮すべく,最適化された「身体」を獲得しようとするわけです.
別にアスリートでなくても,スポーツ活動をしていれば,人はそのスポーツに適した身体へと適応します.大きな筋肉が必要なスポーツ,細い筋肉が必要なスポーツ,適度な脂肪や骨の量,適正な血液特性,神経反応等々,様々な適応現象が身体に発生しますが,そこには決して「あらゆるスポーツに万能な身体」というのは現れません.
さらに言えば,スポーツ種目だけでなく,個々人の体型やプレースタイルによって最適な身体は異なります.

これと同じことこがファッションにも言えます.
服装とは,言わばスポーツにおける「パフォーマンス」であり,より良いファッションの在り方を模索することとは,身体のトレーニングに相当するものではないか.

体毛が極端に少ない動物であるヒトは,衣服を纏うことで生き延びてきました.
古来,衣服はヒトにとって「身体」だったはずです.
だとすれば,こう言えるはずです.身体である衣服を使って「遊ぶ」,そしてその在り方を文化的に高めようとする営み.ファッションとは,まさしく「スポーツ」ではないでしょうか.

むしろ逆かもしれない.ファッションは,人類がスポーツに先駆けて作り出したものであり,身体遊戯であるファッションの延長線上にあるものがスポーツ(身体競技)である.そう考えることもできますが,ここではその点については割愛します.

ここで指摘しておきたいのは,人はファッションによって時代と環境と社会に適した「身体」を作り出してきたということです.
これは逆もまた然り.時代と環境と社会の変化に応じた「身体」を得るため,それに適したファッションが生まれたと言ってもいいでしょう.
職業や階級,既婚などによって,その「状況」にふさわしい身体を作り上げたのです.

であるならば,我々が直面している現代ファッションの源流を辿ると見えてくるのは,自由と平等,合理性と進歩的思想を崇拝する「近代化」です.

これについて,体育・スポーツ研究における重要な位置づけとなっている哲学者ヨハン・ホイジンガが指摘しています.
それ以後,男の服装は少しずつ色彩のないぼやけたものとなってゆき,しだいに変化をこうむることも乏しくなった.その品位,威儀を礼装のなかにはっきりと輝くばかりに示していたかつての優雅な貴人は,いまでは真面目な市民となった.(中略)この男子の服装が平均化していった,あるいは硬化していった過程を,文化現象としてとるにたらぬことと評価してはならない.その中にはフランス革命以来の精神的・社会的変革がはっきりと表現されているのである.(ホモ・ルーデンス 1938年)
近代化とは,規格統一と合理化にその特徴があります.
スポーツが「近代スポーツ」へと “衣替え” したことは,まさにファッションの変化をも促進しました.
ルールの統一と条件の平等を徹底した上で,「より速く,より高く,より強く」をモットーにする近代スポーツの普及と発展は,人類の多くに身体観の変化を促したはずです.

我々が直面しているファッションは,スポーツの影響を受けています.前述の通り,ファッションとはスポーツであり,スポーツはファッションから生まれているからです.
近代スポーツについて考えてみてください.ファッションにも同じことが言えます.すなわち,
1)身体が生み出すパフォーマンスの最大化
2)理想の身体の追求

意外に思うかもしれませんが,近代以降のファッションは,「着飾る」ことを嫌うようです.
自由に合理的に動く身体を目指し,理想とする体型を着用者に求める.

近代ファッションの祖であるココ・シャネルが,スポーツウェアに類似した「シャネル・スーツ」で注目を集め,男女とも体型と素肌の露出が多くなってゆく傾向がこれを暗示しています.
あらゆるバリエーションがあるように思えて,その美の基準は着用者の身体に委ねられている.実は着用者側に「遊び」がないのが現在のファッションなのです.

これは,スポーツが近代化したこととも関係があります.
ホイジンガも述べているように,かつてのスポーツはもっと遊ばれていました.
こうして現代社会では,スポーツがしだいに純粋の遊び領域から遠去かってゆき,「それ自体の」一要素となっている.つまり,それはもはや遊びではないし,それでいて真面目でもないのだ.(中略)(現在のスポーツは)遊びの内容のなかの最高の部分,最善の部分を失っているのである.遊びはあまりにも真面目になりすぎた.(ホモ・ルーデンス 1938年)
「遊びの中の遊び」であったはずのスポーツが,近代以降は遊ばれなくなり,人々はそこで発生する記録やスコアに一喜一憂するようになる.
身体を使った遊戯は,今,身体を使った競技となっています.

しかし,そんな時だからこそ,あらためて自分の「身体」の特性や特徴に焦点を当てることが大事なのだと思うのです.
これはなにも「流行のファッションを安易に追いかけるな」と言っているわけではありません.
自分の身体と,それを取り巻く環境に合わせた衣服を選択することが,個性的なファッションを作り出すのではないか.ひいてはそれが,近現代を生きる我々の “ファッション” ではないか,ということです.


※この記事を読んでイマイチ分からないことがあるという人は,以下をどうぞ.
関連記事
井戸端スポーツ会議 part 20「プロレスはスポーツである」
井戸端スポーツ会議 part 39「日本のスポーツの定義に物申す」

今回と類似したことを,ガンダムで話すとこうなります.

2017年2月17日金曜日

保育所問題はここまで来た

最も危ない保育の議論が始まりました.
やっぱりダメです.もうダメです.保育所が足りないから公園に作ろうと言い出す.保育所問題はここまで来ました.

保育所問題については1年前に既に諦めていた私ですが,
ここ最近のニュースを眺めていると,つい口を挟みたくなります.

そう言えば,「保育園落ちた日本死ね」というのが昨年の流行語大賞でした.
その影響だからでしょうか.待機児童と保育所問題のニュースが連日続きます.
てっきり,すぐに世間の注目をなくす話題だと思っていたのですが,なかなかしぶとい.
どうやら来年度も待機児童ゼロにできないみたいだとか,男性保育士が女児を扱うなとか,いろいろあります.
流行語大賞をとって話題を振りまく効果はあったようです.良かったですね.

ただ,やっぱり世論の方向がおかしいんです.
こんなネットニュースがあるんです.
公園内に保育所設置,どう思う?(Yahoo!意識調査)
国土交通省は、保育所の待機児童対策の一環として、公園内に保育所を設置できるようにする方針です。あなたはこの方針に賛成ですか? 反対ですか?
で,アンケート結果をみたら賛成多数(約70%)です.
以前,保育士養成課程のある大学・学科で仕事していた私としましても,公園内に保育所なんかつくってる場合じゃねぇだろ思うのですが,世間ではどうやら「背に腹は代えられない」,すなわち,早く待機児童を解消するためには保育所を拡充することが重要だというんです.
世も末です.
細かい話は上述した■保育所問題を諦めるを読んで下さい.そっちに話は譲ります.


それより興味深いのは,こっちのニュースです.
国歌・国旗、保育所で「親しむ」厚労省が指針改正案(朝日新聞)
保育指針は10年に一度改訂されており、現行の指針には国歌や国旗に関する記述はない。改正案では「伝統的な行事、国歌、唱歌、わらべうたや伝統的な遊びに親しんだり、異なる文化に触れる活動に親しんだりする」などと記載されている。
別に保育所で国歌・国旗に親しむなと言ってるんじゃありません.
ちょっと頭がイカれてるんじゃないかと思われる可能性があるので,早めに諫言しておいたほうがいいんではないでしょうか,ということです.

あえてストレートに言えば,保育園児が国歌・国旗に親しめるわけがないし,保育士にもそんな余裕ないんだから,もっと大事なことに焦点をあててくれ.まずは「保育」に注力してくれ,ということです.

このバカ殿政権は,以前にも大学にそんな要求をしてきましたね.
大学における国旗国歌
恥を知るべきです.

恥だけじゃなく道理を知らないウヨクは「学校で教えていることを,大学,保育所で教えて何が悪い」という姿勢でいらっしゃいます.アホですね.だったら全部「学校」にすればいい.
政権の中心人物もこんなことを言う.
幼稚園・保育所で国旗・国歌、菅長官「ごく自然なこと」
「ごく自然なこと」なら,ごく自然にしとけばいいのに.

バカは限度と適度を知らないというところに,その特徴があります.なんでも単一化と均等化しようと企む.
なんのために分割していたり自治・自律しているのか考えない.そんな奴が昔,大阪の首長をやっていました.
これはウヨクとかサヨクと呼ばれている人種に共通することです.
この改正案は3月15日までのパブリックコメント(意見公募)を経て、今年度中に決定する。
ということなので,まともな意見が寄せられることを期待します.

2017年2月14日火曜日

若手研究者用:スーツの上手な買い方・着方

見た目は若いと言われますが,どうせお世辞だろうし,もうそろそろ「若者用」とされるファッションから外れていくであろう年齢になってきました.

今回は,薄給・無給でありながら忙しく動き回ることの多い「若手研究者」のための,スーツその他に関する記事です.
これらについて,徐々に先輩になってきた私からのアドバイスをと思っております.

「学会のときくらいで,普段スーツなんて着ない」という人が多いでしょうし,着る機会が多いとしてもアレコレ考えるのも面倒だというのが若手研究者というものです.
それでも,一応それなりの格好をしないといけないと思いつつネット検索してみるも,巷に流れているのは一般ビジネスマンを対象とした「おしゃれなスーツの着こなし術」とか「最近の流行スーツ」です.
挙句,10万円以上のスーツ,1万円以上の革靴,5千円を越えるネクタイがオススメ商品とか,俺にそんな余裕ねぇからというのが実情でしょう.できるだけ学会出張費とか書籍,研修費などに回したいですよね.

この記事ではそんな若手研究者,もしくは薄給ビジネスマンを対象とします.


(1)前提
まず,スーツ購入・着用を云々する前に大事なことがあります.
何事もそうかと思いますが,「ファッション」も,その人の姿勢や態度,考え方や行動パターン,職場や生活スタイルに馴染んでいるかどうかが大事です.
どんなにカッコ良いスーツを着ていても,姿勢や動作と釣り合っていなかったら台無しになります.

この記事では安物スーツの着こなしを紹介しますが,そもそも,20代の若造が高額で豪華なスーツを着ていても,ホストクラブの兄ちゃんか詐欺師にしか見えません.20代の若造にはそれなりのスーツが必要です.
間違ってもらっては困るのは,これは「20代の若造は何十万もするスーツや靴を買ってはいけない」と言っているのではありません.何十万もするスーツであっても,そんなふうに見えないスーツを選ぶことが「20代のスーツ選び」には大事だということです.
これについて俗物根性のある人は「どうせ高額なスーツを買うんだったら,安物と同じような見た目のものを選んじゃダメだろ」などと言いますが,こんな人とはできるだけ付き合いたくないですね.「値段相応の見た目」こそが大事だと思ってるんですから.
そんな奴に限って,スーツは豪華な質感なのにワイシャツやネクタイがいかにも安物なので,見る人が見たら気持ち悪い格好になってたりします.

結局のところ,着ているもの全体の調和が大事なんです.
3万円クラスのスーツなら,1万円くらいに見える革靴,2千円くらいに見えるワイシャツとネクタイを合わせる必要があります.
どこか一つに奮発することで満足してはいけません.こういうのを一点豪華主義と言うそうですが,これはファッションに限らず全てに言えます.

若手研究者やビジネスマンなら,たとえ10万円以上するスーツを買うにしても,他のものを同クラスで揃えられないなら「安物に見える高額スーツ」を購入すべきです.

でも,どうやって選べばいいのか分からない,ということになりますから,その対策が以下のものになります.


(2)店はなんでもいいから,どこか一つに絞る
私は一人暮らしをはじめた学生の頃から,ずっとAOKIを使っています.かれこれ15年のお付き合いです.引っ越しのたび,AOKIの近くにアパートを借りるようにしています.
AOKIが格別良いお店というわけではありません(AOKIの方には申し訳ないんですけど).一つの店に絞った方がいい理由は,自分の着る服に統一感が出るからです.私の場合,服は全部AOKIで購入することにしています.
※ちなみに,スポーツウェアや下着は別の所で買ってます.

別に百貨店でも「しまむら」でも「青山」でもいいんです.継続して通える,そんなお店を選定してください.どういうお店にするかは,ご自身の給料と相談しましょう.

これまた誤解してもらっては困るのですが,何から何まで「一つに絞る」こと自体が良いということではありません.あくまでこれは,ファッションにそこまでエネルギーを注ぎたくない人のための「ファッション対策」です.


(3)店員と相談して決めてもらう
この記事を読むくらいですから,自分のファッションセンスに自信が無い人が多いでしょう.私もそうです.
ファッションにエネルギーを注ぎたくない人が多いのがこの業界ですからね.
であれば,自分でコーディネートしなければいいのです.

店員は一応アパレル業界やファッションに詳しい人です.外からの客観的な目にもなってくれます.
とにかく店員を使いまくりましょう.
中には研修中だったり詳しくない店員もいますが,それでも気になるところをしつこく聞きます.店員にしても,困ったら他の店員にヘルプを頼んだり,こちらのスキをみて対応マニュアルを読んだりしています.

以前,百貨店の服飾部門の店員をやっていた人にお聞きしたことがあるのですが,ご自身の仕事内容や重要視していることを伝えて,あとは店員に「おまかせ」することを推奨していました.

客の見た目や体型,身振り,仕事,最近の流行などを考慮して,適切なものを選んでくれます.こちらが気にすることとしては,着心地くらいですかね.


(4)事例
私は大学院を修了して,大学の事務職員をする時,初めてスーツを買い替えました.
そこでAOKIの店員さんと相談しながら購入したのですが,そこで対応してくれた人がかなり配慮の利いた方だったんです.真の意味での「ハイスペック・ババア」でした.
この時,スーツに関していろいろ詳しくお聞きしました.

「普段スーツは着ないとおっしゃるけど,着るとしたらどんな機会ですか?」っていうんで,「事務仕事だけじゃなく,荷物持って走り回ることもあります.大学の授業の補佐とかやる時もあります.あと,学会発表とか」っていうことを伝えたら,それに合うように選んでくれました.

覚えている範囲では,曰く,
格調高いところでの仕事が多いようなので(実際はそうでもないんだけど),色はブラック.だけども生地の織り方で縦縞模様をみせてフォーマルさを抑える.その上で,汚れがつきにくく,痛みにくい,メンテナンスが楽な生地から選ぶ.
あきらかに「若者」らしい見た目なので,奇抜さをおさえたデザイン,かつ,当時流行が始まった「2つボタン」から選ぶ.襟の形にも流行があるという説明を受けましたが,詳細は忘れました.
人前に出て発表したり,肉体労働をするようなので袖丈は短め.標準よりワイシャツがやや長めにはみ出るようにする.
ジャケットの丈も標準より短めに仕立てられたものを選定.肩幅のある私にはその方がフィットする製品が多いとか言ってました.
スラックスはワンタックを選択.「タック」なんてものがあったんですね.当時は知りませんでした.別料金だけど,そこから体型に合わせてウエスト部分をいろいろ裁断調整しています.

「時間はありますか?」というので「大丈夫です」と答えたら,候補をどっさり持ってきてくれるので,あれこれ着せ替え人形のように試着が始まります.
なんでも,いわゆる「サイズ表記」って目安みたいのもので,商品のデザインや体型,見た目などによって適切なものが違うから,いろいろ実際に試着しまくった方がいいんだそうです.
着心地と動きやすさだけ伝え,あとはこの店員さんに任せます.
着せては眺め,着せては眺めを繰り返し,「では,この組み合わせでいきましょう」ということで決定.

後になって改めて驚いたのが,2005年頃にしてはえらく「タイト」なものを勧めてくれたので,なんだかキザったらしくお洒落すぎやしないかと思っていたのですが,結局,その後も長く使えました.まだ捨てられず置いていますが,現在でも十分通用するデザインです.
もっとも,ハイスペック・ババア曰く,体型に沿っているものを選ぶのが大事なんだそうで,「合うもの」を探していれば自然とこうなるものだそうです.

既製品とは言え,ここまでやればある意味「オーダーメイド」ですね.体型にピッタリで似合うものを選定してくれるんだから.

買って帰ってきて,以前のものと比べましたが,たしかに違う.やっぱり以前のものはいかにも古い感じがしますし,フィット感も段違いです.なにより,シワがほとんどよらないのにビックリしました.
あと,私の感覚では派手に見えたのですが,周りに聞けばそうじゃないらしい.
自分の感覚は信用できません.


(5)ワイシャツはたくさん買っておく
ワイシャツも時代に応じて変化があります.
でも,購入するものは自分が持っているスーツの質感と合わせる必要があります.
安いスーツなら安いワイシャツ,高いスーツなら高いワイシャツが似合います.

私は20代の頃はずっと2千円クラスのものを購入していました.明らかに安物感が漂いますが,この歳頃あれば,それがちょうど良いと思うんです.
最近,ちょっと値の張るスーツを購入したんですけど,やっぱり2千円ワイシャツではダメです.同じように見えるのに,不思議なものですね.仕方ないので,このスーツを着る時は5000円超クラスのものにしています.

アドバイスとしては,安物スーツを着ている若手の頃であれば,自分の体格にピッタリくる安物ワイシャツを見つけ,それを大量購入しておくに限ります.
だいたい10着は持っておいたほうがいいです.2着よりどり三千円とかもありますので,そういう機会に大量購入です.

どうせファッションのコーディネートに関心がないのですから,無地の白のワイシャツをたくさん持っておくのです.それをローテーションすれば,かなり余裕をもって生活できます.無地の白なら,慶弔時でも問題ありません.
「ほとんど着る機会がないから」とケチっていたら,思わぬ所でみすぼらしいワイシャツを着なきゃいけないケースが出てきます.
くたびれてきたり,黄ばみが出始めたらすぐに廃棄.見切りをつけて消耗品のように使います.
突然の出張や連泊などのために,緊急登板用のものを3着ほどキープしておきましょう.


(6)危険なネクタイ
ワイシャツと同様,気をつけなければいけないのがネクタイです.
研究室の後輩が,私の誕生日に高級ネクタイをプレゼントしてくれたことがあります.
アルマーニの艶々でクールな柄のネクタイでした.

喜んで受け取るも,試着してみて愕然.やっぱり私のスーツとワイシャツに合わないんです.特にワイシャツとの相性が全然ダメ.
ネクタイだけが異様に浮くんです.
ネクタイに負けないだけのハリとツヤがあるワイシャツが必要になります.

結局7年ほどお蔵入りしていて,この度のスーツのクラスアップに伴い,ようやく付けられるようになった次第です.

ネクタイは思わず高級なものに手を出しがちです.お値段としても手を出しやすいですから.
でも,やめておきましょう.一番危険なアイテムです.


(7)革靴はメンテナンス次第
革靴については以前,■入学試験クツこれと■続・入学試験クツこれでお話したことがあります.そちらもご参照ください.
安物スーツには1万円以下の革靴で十分です.
こだわりの高級革靴を購入するにしても,シンプルなものを選びましょう.
むしろ,安物に見えるようなものを選定する必要があります.

実際,オーソドックスなものであれば値段が違っても見た目は変わりません.
ただ,安い革靴で問題となるのは履き心地.安物は履き心地を犠牲にしがちなので,先程のリンク先で紹介しているような革靴がオススメです.

毎日革靴を履くような仕事についた場合,ローテーションで履くことになるので2足用意しておきます.
1万円未満の商品なら3足ほど用意することもできるでしょう.

それより,革靴で大事なのはメンテナンスです.
安物に見えても,みすぼらしく見えてはいけません.
安物の革靴は,メンテナンスを怠るとすぐにみすぼらしく見えてくるので注意が必要です.

頻繁に靴磨きをしましょう.
でも,ちゃんとした道具を使ってください.簡易的なものではきれいになりません.
そうすれば,手入れを怠った高級革靴よりよっぽど上質な質感が現れてきます.手入れを怠った高級革靴ほど憐れなものはありません.

あんまり磨くと艶々になり過ぎるので,ほどほどにしておきます.


(8)着用環境に馴染むものを選ぶ
冒頭で述べたことを繰り返すようですが,結局のところ本人の雰囲気や着用する状況・条件に合わせて服装は決まるもののように思います.
これは決して「個性を消す」ということではありません.

むしろ,本人の雰囲気,体型,動作,仕事内容に合わせるということは,非常に豊富なバリエーションを持つことを意味します.
逆に,「こういう服装にしたい」と望む事自体,実は個性を消していることになるのではないでしょうか.
そしてこれは,研究や教育,さらには政治経済にも同じことが言えるのだと思ったりしています.


関連記事
※最後の部分を書いてて思ったんですけど,今回の内容,過去記事のこれに似ています.
高校で得てほしいこと

2017年2月13日月曜日

こんな大学は万事休すだ

まじめな話も飽きてきたので,久しぶりに「こんな大学はダメだ」シリーズを書きたいと思います.

ネタはもう出尽くした感がありますが,重箱の隅をつついてみましょう.
さまざまなネットワークを使って情報収集しました.
その2017年最新版をお届けします.

早いもので,ネタ記事については1年以上書いていなかったんですね.

ちなみに,過去記事はこちら↓
こんな大学の教員は危ない part 1

以下のような大学は,もう既に「危ない」とかじゃなくて,「万事休す」です.
気をつけましょう.
※分かる人だけに分かる内容となっております.これらの「理由」や「解説」について詳しく知りたい方は,過去記事を参照ください.

(1)休日に私しか出勤していない

(2)よく理事が逮捕される

(3)自民党の息がかかっている

(4)初年次教育とかゼミのクラスでタコ焼きやクレープを焼くことが多い

(5)学生募集対策の会議が日付変更線をまたぐ

(6)学生募集対策の会議が週に2回ある

(7)深夜,呼び出しがかかる

(8)教員が学園バスを運転している

(9)大型免許を取らないと教員を続けられない

(10)学園祭に出席しないと叱責をうける

(11)学園祭に出ることが評価(ポイント)になっている

(12)自分たちの「強み」と「弱み」を見つめる話し合いをしている

(13)卒業論文を廃止することにした

(14)屋上からの眺めだけが自慢

(15)授業評価アンケートで高得点として発表されるのが体育実技

(16)授業評価アンケートで人事が決まる

(17)いつも給料の支払いでもめる

(18)かの国からの留学生が多い

(19)図書館を縮小することを検討している

(20)7月と12月に図書館がガラガラ

(21)「断捨離」を好む

(22)文部科学省からの通達と,その抜け道に詳しい

(23)駐車場で儲けようとする

(24)さほど強くもないのに3つ〜4つくらいの体育会クラブに学生が溢れている

(25)理事長が真性のアホなのに,誰も諫言しない

(26)理事長の権限で学長のクビがとぶ

(27)運営陣が以前ドラッカーが好きだった.今はガバナンスを重視している

(28)「学生目線」が経営方針

(29)そのうち「オーダーメイドの教育」とか言い出す

(30)それに対抗して「テーラーメイド教育」とドヤ顔したがる

(31)教育重視と言っているくせに教務課を縮小する

(32)いわゆる「施設課」に相当する部署を廃止した

(33)いろんな部署を連携・合併したがる

(34)学部学科の連携を重視したがる

(35)「掃除の時間」がある

(36)ことあるごとに「手作り」を大事にする

(37)大学としての受付が用意されているくせに,担当が素人のオバサン

(38)学内をスパイが元気に走り回っている

(39)女子学生もスパイをしている

(40)高校訪問を重視しているくせに,イマイチ本腰を入れていない

(41)ブラック企業に大きな就職口を持っている

(42)ホームページに「教員紹介」がない

(43)ホームページの「ニュース」の更新頻度が高い

(44)なにかと「一点豪華主義」だ

(45)やたらと「在学生の声」をアップする

(46)「顔が見える」の意義や意味を間違えていて,本当に写真で見せている

(47)「子ども」「スポーツ」「障害者」に焦点を当てることが多い

(48)オープンキャンパスで講演料の安い芸能人がトークショーをしている

(49)3日連続のオープンキャンパスに教職員が連日出勤

(50)学生の「理解」よりも「納得」を重視する

(51)学生の主体性を重視しているように見せてはいるが,放任だ

(52)未だにキャッチフレーズにこだわっている

(53)「◯◯戦略会議」と銘打っているのに,話し合われているのがテクニカルなこと

(54)例えば,高校訪問の巡回順序とか,初年次教育を担当させる教員とか

(55)経営戦略が単年スパン

(56)心の底では「どうせ偏差値の低い学生に将来はない」と思っている

(57)学生を指導することを「学生をコントロールすること」と勘違いしている

(58)職員が教員を顎で使っている

(59)「家族のような組織」を謳う

(60)派閥抗争する余裕がない



関連記事
お暇でしたらこちらもどうぞ.
「学校」が誕生した理由
「問題解決能力」を高めることの危険性
例の教育評論家のこと

2017年2月11日土曜日

一方の,日本の左翼と学校教育について

昨日は右翼(ウヨク)についてでした.
日本の右翼が教育問題について軽薄である歴史的な理由
なので,今日はバランスをとって左翼(サヨク)についてです.

日本の戦後教育は左翼に牛耳られている,という表現をよく聞きます.たしかにそういう側面があるのは事実でしょう.
一時期一大勢力を誇った「日教組(日本教職員組合)」も,左翼的な組織でした.

日本の教育問題に左翼が深くコミットできるのには理由があります.
それは,戦前教育への反動とか,GHQの陰謀とか,社会主義勢力の台頭とか.たしかにそれらも影響しているでしょうが,それだけではないと思います.

近代における学校教育とは,“現代日本” において「左翼的思想」と受け取られがちな考え方から誕生しているからです.

前回記事■日本の右翼が教育問題について軽薄である歴史的な理由や,■「学校」が誕生した理由の記事でもご紹介したように,近代において「学校」が誕生した理由は,
「大人社会のルール,大人の論理から子供を守るため」
という,ちょっと左翼じみた考え方によります.

近代化と富国強兵に邁進する日本のなかにあって,その犠牲となったのが子供でした.
その他先進国と同様,近代化の最中にあっては,搾取されるのは安い賃金で働ける弱い立場の労働者.その代表が子供だったのです.

ですから,先進国においては工業化に伴う子供の搾取を是正するため,一定期間子供を働かせないようにする労働法を整備しました.
そうして働かなくてもよくなった子供を預かり教育するため,学校が誕生したわけです.
大人社会とは,放っといたら子供ですら搾取をはじめる.だから予め子供を社会から隔離・保護しておこうという仕組みが学校なんです.

しかし,日本の事情は他国と少し異なります.
世界に遅れて近代化を始めた日本は,既に先進国で機能しているシステムを同時多発的に導入できました.

これはちょうど,それまで「電話」すら配備されていなかった国に,いきなり「スマホ」が入るようなものです.
電気通信とは何か? ネットワークとは何か? 情報スキルやメディアリテラシーなどといったものが全く準備されていない人々は,それらの歴史的経緯・経験を経た人々とは異なる態度で通信端末を手にするはずです.
これが,日本における「工業化」と「学校」にも同じことが言えます.

日本は近代化するために「工業化&学校」を導入しました.
日本において学校教育とは,近代化へ向けた活動の一部だったのです.

かくして日本では,
「近代化を成し遂げるための国民教育のために学校がある」
という認識に至ります.
日本のウヨクが学校教育に「国に貢献できる能力」とか「愛国心」を入れたがるのは,このためです.
ですが,何度も言いますが,この認識は「学校」の本来の存在意義や機能からは外れています.それ故,いろいろなところで破綻が生じます.

実際,日本では学校教育制度(1972年)のあとに労働法(1911年)が出来ています.普通は労働法を先に整備するが筋です.子供を働かせないようにしておいて,そこから学校に通わせるのが道理ってものでしょう.
しかし,学校には「行ける者が行く」というスタイルが日本流.あくまで学校は「子供が行く」ところという認識なんです.でも本来は「行かせる」ところです.

「義務教育」という言葉を,日本人の少なくない人が「子供が義務として行くところ」と勘違いしているのが,それを如実に表しています.

こうした現状について,学校の本来の存在意義を問い直したのが戦後左翼だったのではないかと思います.だから彼らは「ゆとり教育」を推進したり,脱受験戦争を掲げたりする.学校本来の在り方からすれば,これらはたしかに正論ではありますので.
ですが,こうしたことは本来,「保守派」が取り組まなければならないことのはずでした.本質的に,左翼では務まらないんです.「学校本来の存在意義を問い直す」なんて保守的なこと,左翼にはできません.だからジェンダーフリーとか国旗国歌とかで難儀を起こす.

そもそも,近代において「学校」を誕生させたのは欧米における保守派でした.
産業革命により激動する社会変革の中で,その荒波を出来る限り抑えようと努め,労働法を作り,学校を作って子供を守ったのが保守派だった.

ところが日本では事情が逆で,そうした「社会から隔離して子供を守る」という発想は左翼的だと捉えられます.その一方で,保守派と呼ばれる人こそが,学校教育において社会に出て役立つ知識だとかビジネススキルを盛り込もうとする.
子供を優れた労働者として育て上げるため,社会的要望や政府の都合を入れるなんて,これは明らかに左翼的発想です.

この国の右翼は左翼である.
その問題の源流を辿っていくと,どうやら我が国の近代化における「学校」の始まり方にその源泉があるように思えてきます.


関連記事
日本の右翼が教育問題について軽薄である歴史的な理由
なぜ教育者に右翼・保守が少ないのか
ウヨクの知能を諦める(愛国心教育編)
なぜ教育現場では「ネットの意見」が受け入れられないのか
大学における国旗国歌
「学校」が誕生した理由
なぜ右翼・保守的な言動をする人にバカが多いのか
「問題解決能力」を高めることの危険性
大学教育を諦める
この国難をなんとかするために大学教育
例の教育評論家のこと

2017年2月10日金曜日

日本の右翼が教育問題について軽薄である歴史的な理由

先日書いた2つの記事,
「学校」が誕生した理由
大学無償化が有する薬効と害毒
が,結構な閲覧数をいただいています.
各々いろいろ思われるところがあるかと思いますが,ひとまず,ありがたいことです.

先日,■「学校」が誕生した理由について知り合いの先生とお話していた時,ふと,こんな考えに至りました.

「日本の右翼や保守派とされている教育論者が,あんなにも無責任でトンチンカンな事を言うのは,『学校』が誕生した理由をマジで知らない(もしくは,あえて無視している)からではないのか?」
ということ.

そしてこれは,別に彼らが単に悪いってんじゃなく,そういう考え方に至るだけの理由があるから.すなわち,
「日本において『近代的学校』が登場した経緯が,欧米とは異なるからではないか?」
という考察です.

「近代的な学校がどのような理由で誕生したのか?」については,いろいろな書籍で紹介されています.
教科書的なものとしての参考文献は,例えば↓
 

近代において「学校」が誕生した理由,それは過去記事でも書いたように,
「大人社会のルール,大人の論理から子供を守るため」
です.

近代とは,弱者を巧妙に搾取する時代です.それを喝破したのがカール・マルクス著『資本論』であることはよく知られています.
ここでは別に資本主義を批判したいわけでも,マルクス主義を薦めたいわけでもありません.近代とはそういうものだということです.

そうした近代において,欧米では「社会から子供を守らなければいけない」という気運が高まり,その結果として労働法が,そして学校が誕生しました.

ところが日本はというと,欧米における,
1)産業革命・工業化に伴う労働環境と子供の養育の劣悪化
2)それらに対する労働法と学校の整備
という流れを経験せず,いきなり「工業化と学校の整備」が同時に輸入されました.

つまり,日本は近代化の過程においてそれぞれ発生する「状況」を経験せずに,近代のシステム(工業化と学校)を導入しているわけですね.
これが「悪い」ことだったと言いたいのではありません.しかし,これによって日本人は「近代」がどのような顔をしているのか,「学校」がなぜ誕生したのか知らないまま近代化したことになります.もちろん,導入を検討した頭の良い人たちは知っていたでしょう.でも,日本国民全体の認識としてはどうだったか,怪しいところです.

上で紹介した本を読んでみましても,当時の日本がどれだけ社会の西欧化とその教育システムの導入に勤しんでいたのか知ることができます.
その結果,日本は「工業化」と「学校教育」のダブルエンジン・スタートにより,奇跡とも言えるスピードで近代化を成し遂げました.

しかし,幸か不幸か,日本人には「近代と教育」においてこのような見方が身についたはずです.すなわち,
「国家の近代化と富国強兵のために,学校教育は大切である」
間違いじゃありませんよ.でもこれは,巧妙なるデタラメです.

ですが,それなりの人にとっては,なんかワクワクする表現でしょう.
日本の右翼・保守派とされている教育論者が,「学校教育」による国家への忠誠と立身出世,そして教育環境における自己責任論を殊更説くのは,こうした認識・背景があるからではないかと思うんです.
「寺子屋」という慣習・制度を踏襲して近代学校をスタートさせたのも,これに拍車をかけたかもしれません.

本来,近代学校とは「近代化へのカウンターバランス」として誕生しています.
ところが,日本では「近代化へ向けた一部」として導入されているんです.
こうした経緯が後世に及ぼす影響は小さくないと考えられます.

実際,学校教育の制度が始まって尚しばらく,日本では子供を労働者として搾取する問題が後を絶ちませんでした.学校教育制度が始まったのが1872年なのに,工場法ができたのは1911年です.作る順序が逆だし,あまりに子供の労働に無頓着です.
これは結局,日本人にとって「学校」とは子供を守るための制度ではなく,富国強兵と立身出世のための制度として受け取られていたことを示すものと考えられます.

もちろん欧米においても,学校教育が富国強兵につながると考えられていたことはたしかです.
最も有名なのが,フランスのピエール・ド・クーベルタンによる「スポーツ教育」です.
クーベルタンは「近代オリンピック」の創始者として名が残っていますが,彼は普仏戦争への敗戦により自信を失ったフランス国民の心身を鼓舞することを目的として,「スポーツ」に着目したとされています.
ですから,ワーテルローの戦いでナポレオン率いるフランスに勝ったイギリスの教育内容にスポーツがあることに感銘を受け,それをフランスの学校教育にも取り入れようとしたわけです.その延長線上にあるのが,あの「近代オリンピック」なんです.だからクーベルタンは,ドイツのヒトラーによる1936年ベルリン大会を大いに賞賛しています.
(詳細はマカルーン著『オリンピックと近代』を参照のこと)

そうは言っても,学校教育にスポーツを取り入れることは,学校の存在そのものに転換を迫るほどのことではありませんでした.
皮肉な話ですが,右派・国粋主義者とされるクーベルタンの思惑とは裏腹に,フランスをはじめとする欧米において「近代オリンピック」は,様々な力に曝されつつも戦争や国威発揚とは無縁の存在であることを理念に掲げています(実現できているかどうかは別として,理念としてはそうです).学校におけるスポーツ教育は,あくまで「スポーツ」であり続けたのです.

ところが日本の学校教育では,この「スポーツ教育(つまり,体育)」が富国強兵の一環として見事に取り入れられるんです.面白いですね.
日本の学校教育では,体育とはすなわち兵隊用の訓練でした.

こういう状況になるのは民族性とかも影響しているんでしょうけど,やっぱり最初の出だし,つまり「学校とは何か」という事への認識が大きく関わっているものと考えられます.


日本の右翼・保守派の教育論にありがちな話はこちら↓
なぜ教育者に右翼・保守が少ないのか
ウヨクの知能を諦める(愛国心教育編)
なぜ教育現場では「ネットの意見」が受け入れられないのか
大学における国旗国歌

関連記事
「学校」が誕生した理由
なぜ右翼・保守的な言動をする人にバカが多いのか
「問題解決能力」を高めることの危険性
大学教育を諦める
この国難をなんとかするために大学教育
例の教育評論家のこと

2017年2月5日日曜日

大学無償化が有する薬効と害毒

初等教育から高等教育までを無償化,もしくは大型の補助金を施した方が良いという議論は以前からありました.
既に高校無償化には着手していますが,大学もようやくそれが実ることになったというニュースです.
大学無償化へ「教育国債」…自民が検討方針(読売新聞)

初等教育から高等教育までが一貫して無償である国はたくさんあります.
大学だけをみても,非常に高い水準でありながら,無償,もしくは極めて安価で高等教育を受けられる国があります.しかも外国人留学生を含めて.
有名なところでは,フィンランド,フランス,ドイツ,スペイン,スイス,スウェーデン,シンガポール,南アフリカ,メキシコなどでしょうか.

というか話は逆で,日本は教育費がめちゃくちゃ高いことで有名です.
日本は教育に掛ける予算が少な過ぎ―実は先進国の中で最低クラス!(マイナビニュース)
しかも,国の教育予算もケチっているんです.なかでも大学,すなわち高等教育にかける国の予算が非常に低い.
日本の子育て、教育予算 OECD最下位 国の怠慢は明らか
その上で「学校や教員はもっと努力しろ」って根性論を説かれるのですから,鬼畜以外の何者でもありませんでした.

ですから,教育関係者にとって「教育費の改善」は悲願でした.
大学無償化も,その願いの一つです.

さて,この「大学無償化」,これまで小学校から中学校までだった義務教育の範囲を大学まで拡大し,日本国憲法から文言を引けば,
すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
を論拠として採用することになるのでしょう.
実際,現政府もそのような姿勢で臨んでいます.
1月20日の施政方針演説では「憲法が普通教育の無償化を定め、義務教育制度がスタートした。高等教育も全ての国民に真に開かれたものでなければならない」と述べた。(読売新聞)
高校や大学が「普通に受けさせた方がいい教育」であることは間違いありません.ですから,義務教育として扱って良いものと思われます.

「高校はまだしも,大学までもを義務教育と呼ぶのはいかがなものか」
と言う人もいましょうが,そういう人は教育のことを「社会に出て経済活動を営むための手法を学ぶこと」と考えているフシがあります.こういう人は,なにかにつけて「数学なら掛け算,割り算までできればそれでいい.方程式とか対数だとかイラネぇから」と言い出すので判別が容易です.

先日の記事,■「学校」が誕生した理由でも書きましたが,学校教育というのはビジネスマンや労働者を作るための機関と期間ではありません.
大学は就職予備校ではないのです.

前置きが長くなりました.
私なりに大学無償化について所感を述べておきます.


ネットを見ていますと,「国公立は無償化してもいいけど,私立はダメ」っていう意見が多いみたいですね.アンケートをとったわけではありませんが,どうせそんなことだろうと思います.大衆ってそんなものですから.
それなら,経営難に苦しむ私立大学から国公立化したい大学を募って,そこを国公立大学にしてしまえばいいのです.これで「私立の無償化はダメ」っていうのを解決できます.

これは冗談でもなんでもなくて,過去記事でも繰り返していますが,大学教育に関する最大の問題点は,
「大学を一般企業感覚で経営しなけばいけない状態にしてはならない」
ということに尽きます.
詳細は過去記事に譲りますので,「なんだか気に入らない」と感じる方は,先に本文末で紹介している過去記事一覧からご一読ください
(■反・大学改革論のシリーズが面白おかしく読めるのでオススメです)

というか,私がこの「大学無償化」を進める上で危惧しているのは,まさにこうした「国公立大学は無償化してもいいけど,私立はダメ」という一般大衆のメンタリティ,乃至,思考パターンが,この政策に反映されてしまうであろうことです.

経営難大学の肩を持つわけでも,私立大学を擁護したいわけでもありません.
むしろ,この無償化政策において一番危険なのは,他でもない「国公立大学」です.

問題は至ってシンプル.
無償化の対象となる大学は,当然のことながら経営難からは解かれます.学費を払わなくてもいいのであれば,入学希望者は確実に増えるからです.現に,国公立大学を目指す学生の少なくない者が「学費が安いから」という理由で受験しています.
どのような制度になるのか今のところ不明ですが,おそらくは「入学者一人あたり◯円の運営費が充てがわれる」といったものになるのではないでしょうか.

つまり,無償化対象となる大学は大学運営上間違いなく「恩恵」を受けることになります.
するとどうでしょう.こうした恩恵を受ける大学に対し,「取引」として何かを「要求」したくなるのが人情というものでしょう.

大学無償化の代わりに,政府や国民の要求を聞いてくれよ.例えばそうだな,スーパーグローバル化とか,ガバナンス重視とか,一部事業の外注化とか・・・」
そういうバーターが用意される可能性は非常に高い.
「大学の自治」「学問の自由」「人類普遍の価値の追求」こうした大学本来の存在意義が脅かされます.これが一番問題です.この問題が直撃するのが国公立大学なのです.

いや,むしろそうした「要求」を通すために用意したのが今回の「大学無償化」ではないのか? いわゆる “大学改革” が遅々として進まないことに苛ついた末の “飴” なのではないか?
現在の政治や民意を信用していない私としては,どうしてもその不安があります.

大学無償化は,繰り返される「社会的要望」と,「改革」の連続によって崩壊している現在の大学教育にとっては一筋の光明です.
しかし,もしこれが「社会的要望」と「改革」を推し進めるための起爆剤という裏の顔を隠しているのであれば,大学教育にトドメが刺されることになります.

文句ばかり言っててもしょうがないので,ちょっと理想を述べましょう.

大学教員である私としては,なるべく多くの人に大学教育を受けてもらいたいと思っています.この腐敗してきた現代社会において,本来の大学教育は必須です.
それこそ安倍首相が言うところの,「高等教育も全ての国民に真に開かれたものでなければならない」のです.
専門業務(医師,教員,技術者など)を目指した専門課程もありますが,これとはまた別に,一般教養を身につける必要があります.ここで言う一般教養とは,具体的な知識や技術ではなく,『モノの考え方』を指します.
※「モノの考え方」については過去記事で詳細を述べていますので,そっちをどうぞ.
例えば■これが身につけば大学卒業 とか

大学教育について,スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットは,著書『大学の使命』でこう述べています.
大学は,まず第一に,平均人が受けるべき高等教育として存立する.
ここで出てきている「平均人」とは,いわゆる「大衆」のことです.
オルテガの大衆論は有名ですので割愛します.ここで注目したいのは,オルテガ自身が「バカ」と侮蔑する大衆のために,大学が機能しなければいけないと説いていることです.
この平均人を何よりもまず,教養ある人間にすること,すなわち,その時代の高さへと導くことが必要である.それゆえ,大学の第一の,かつ中心的な課題は,大きな教養学科の教授にある.
そのためにこの日本で出来ることはなんでしょうか?
大学の数は足りています.「全入時代」と揶揄されるくらいです.
では,実際に「全入」できるかと言うとそうではありません.学費が大学教育を受けるためのハードルになっています.大学無償化は,そのハードルを下げることに貢献するでしょう.

バカは群れることで力を発揮します.
ネットで炎上してたり,街角で拡声器持って行進してたりする連中です.誰かが上げた声に同調,便乗することによって元気づくのがバカの特徴です.安心感を得たいのですね.これについてもオルテガは述べています.
人々はきわめて安易な,気まま勝手な世界を自分のまわりに作り上げて暮らしているのだ.だが彼らは不安を抱いている.今日の平均人は,大言壮語の身振り手振りをしてはいても,心底ではひどくものおじしている.彼らは,非常に多くのことを要求しきたるであろう真実の世界が現れるのを恐れている.だから彼らは,むしろ進んで生をいつわり,最も安易な,虚構の世界の殻の中へ,おのれの生を深く封じ込んでしまうのである.
そこに,大学の使命の歴史的重大性が存している.人間を啓発すること,時代の全文化を伝達すること,生が真正であるためにそこへ生がはまり込まねばならぬところの巨大な現代の世界を,明瞭かつ正確に露呈すること.この中心課題を大学は取り戻さねばならない. 
より多くのバカを治すためにも,より多くの人に大学教育を受けさせる必要があります.
真言宗を開いた空海も,同じ想いで大学を作りました.
鳥無き島の蝙蝠たち(4)空海

でも,今のままではダメなところもあります.
群れて拡声器持って行進するような奴が,大学にこそ多い.
大学について真面目に考えてこなかった,この国らしい姿です.

これに関連して,何年かかってもいいので,是正した方がいい日本の大学の慣習があります.
偏差値や就職実績等による「大学の格付け」と,その格付けによる入学希望者の偏りです.
これについては興味深い事例があります.

例えばヨーロッパ諸国,なかでもドイツの大学には偏差値などの格付けがないため,どこの大学を卒業しても,同じ『大学卒業生』として認識されるという,日本人には俄に信じがたい状況があります.
これは大学論に関する書籍でも紹介されていますし,私もドイツ系大学を卒業した人から直接聞いたので間違いないでしょう.彼らはどこの大学に入学/卒業したかではなく,何を専攻していたのかが問われるのだそうです.むしろ,日本のように「東大・京大」「Fラン大学」などと格付けしていることが不思議なんだそうです.
なぜなら,どこの大学に行っても同じ教育が受けられるはずだからです.

大学教員なら分かってくれるかと思いますが,これは日本においても同様です.
「嘘だ!」と思われるかもしれませんが,本当です.
どの大学に通っても同じような教育は本当に受けられます.なぜなら,教員の質はどこの大学でも同じだからです.田舎の短大にも世界的権威はいますし,都市部の偏差値の高い大学であっても碌でもない教員はいます.

問題なのは,入学希望者の多少や,それに伴う経営状況によって,「一般人」だけならまだしも「文部科学省」からの格付としても優劣がつくこと.これによって大学ごとに授業スタイルや試験難度・評価基準が違ってきてしまうのです.
大学ごとで授業内容や質が違ってしまうのは,大学に対し格付をし,それが大学経営に影響するからに他なりません.

「お金を払って入学しているんだから,責任持って4年間で卒業させろ」という理屈が幅を利かせていますから,「学士」としての基準は大学ごとに違ってきてしまいます.
だって,Fラン大学でそれをやったら,「あそこは卒業しにくい」ということで入学希望者がさらに減り,経営難に拍車がかかりますから.

「◯大学は入学希望者が多いから優良,◯大学は定員割れしているから低劣」
いつから教育は大衆消費財になったのでしょうか.『ぐるなび』の星の数で居酒屋を決めるのとは訳が違うんですから.
まさにこの「大衆」を是正するのが使命のはずなのに,これでは世も末です.

大学数が多く「全入時代」と呼ばれているにも関わらず,それでいて予算が割かれていないという日本の現状を考えてみるに,私はこのヨーロッパ・スタイルの大学の在り方を模索することが大事なのではないかと思うんです.

もし,大学無償化と共に「卒業評価基準の均質化」にも着手するならば,私はここに希望を見ます.
そのためには,一定期間,一定数の「定員割れ大学」が出てきてしまうことを許容してもらわなければなりません.冒頭にも述べましたが,大学教育に関する最大の問題点は,「大学を一般企業感覚で経営しなけばいけない状態にしてはならない」ということに尽きるからです.経営努力によって高等教育の質を上げようとするのは間違いです.断言しておきます,碌なことになりませんから.

でも,社会的要望とか改革を進めるための取引材料として「無償化」を言い出しているのであれば,日本の大学教育は衰退を加速させることになるでしょう.


私の主張が根本的に納得できないという人は,根本的なボタンの掛け違いをしている可能性があります.
まずは以下の過去記事をご覧ください.
この国難をなんとかするために大学教育
大学教育を諦める
大学における体育授業の意義
大学における体育授業の意義2
大学改革の凄惨さがニュースになっている
オープンキャンパスをやって想う
鳥無き島の蝙蝠たち(4)空海

2017年2月3日金曜日

大学の上にある大学院

このようなブログですから,「大学院とは何か?」「大学院はかくあるべき」ということを論じるための意味深なタイトルかと思われるかもしれませんが,そうではありません.

ふと思い出したことがあるんです.

私が大学4年生のとき,さて来年の進路はどうしようかと思い,就職する前に大学院に行って,もうちょっと研究活動をしてみたいということで,両親にその相談をしたんです.

母はその時代にしては珍しく短大に行っていますので(1960年代:女子の進学率は約5%),大学というものがどういうところなのか分かります.
ところが,父は中学卒業なので大学と言われても本当に全く分かりません.

「大学院に行こうと思う」
という私の話に,父は,
「大学院というのはどういうところなんだ?」
と聞き返しました.

私は,
「今通っているのが大学というところなんだけど,さらにその上にあるのが大学院なんだよ」
っていう説明をしたんです.すると父が,
「おい,お前の行ってる大学はいったい何階建てなんだ?」
と言ったのは嘘ではありません.

父にしてみれば「大学院」という建築構造物としての興味関心があったのでしょうけど,私にしてみれば,「大学と大学院の違い」という問題提起はけっこう考えさせられたんです.

飲み会の席で恩師に聞いてみたこともあります.「大学と大学院の違いってなんでしょうか?」って.
先生はこう答えました.
「教科書を読むのが学校.教科書を疑うのが大学.教科書を書くのが大学院だ」
と.
なかなか言い得て妙ですね.
以来,私もこれを使って説明することにしています.