2018年5月8日火曜日

ハラスメントといじめ

このブログでも度々取り上げることのあった和田慎市先生が,オピニオンサイトのiRONNAに記事を寄稿されています.
「ズボン脱がされてもイジメじゃない」それってどうなの?(iRONNA 2018.5.3)
私も全く賛同するところですので,ぜひリンク先の記事を閲覧ください.

ちょっと前まで一連の記事にしていた「セクハラ問題」において,セクハラはいじめ問題と類似していると述べました.
なので,ここでその関連をお話ししてみます.

実のところ,「いじめ」と「ハラスメント」は,「嫌がらせ」という意味において同義です.
嫌がらせ(wikipedia)
ハラスメント(コトバンク)
ですから,いじめであろうとセクシャルハラスメントであろうと,捉え方やその対処は同じものと考えられます.

セクシャル(性的)ないじめがセクシャルハラスメントであり,権力・上下関係を使ったいじめがパワーハラスメントであり,妊婦に対するいじめがマタニティハラスメント,師弟関係でのいじめがアカデミックハラスメントというわけ.
ようするに,相手が嫌がることをしたら,それはいじめでありハラスメントなんです.

和田先生は上記記事中の結論でこのように述べています.
 学校現場の人間として声を大にして言いたいことは、真にいじめを克服するためには、杓子(しゃくし)定規な定義や報告など形式にこだわるのではなく、まず根絶できない現実を受け止めるべきです。そのうえで、いじめの発生しにくい環境づくりをするとともに、重大な事態に陥らないように早期発見と迅速な対処を心掛け、当事者の人間関係修復と被害者の立ち直りをサポートしていくことです。さらに、有効な未然防止策は、いじめを能動的に克服し乗り越える力、いじめをやめさせる力を子供たちに地道に身につけさせていく教育しかないと思います。
至極当然な意見のように思えますが,そのようにならないのが一般社会の受け取り方というもの.
「いじめ」という状況そのものの発生を根絶したがるんですね.
いじめは悪.いじめの加害者に制裁を.いじめが発生する学校は碌でもないところだ,と声高に叫ぶ人達が後を絶ちません.

これは昨今話題になったセクハラに代表されるハラスメントにおいても同じことが言えます.
よく,セクハラ問題で「セクハラは根絶されなければならない」と吠えだす過激な思想を持った人がいますが,そりゃ無理ってものです.

勘違いしないでください.
先日までの記事でも分かるように,私はセクハラを「仕方ないもの」とか「発生しても放置してよい」と言っているわけでもありません.
むしろ,セクハラにせよ,いじめにせよ,私はその問題改善に積極的なほうだと自認しています.

ただ,いじめやハラスメントというのは,「法律」によって定義付けて根絶を目指すようなものではないと言いたいのです.
これはちょうど,憲法で「戦争をしない」と明記すれば,戦争が根絶できると言っているようなもの.
いじめやハラスメントというのは,戦争と同様にその発生を根絶することはできませんし,発生に至る背景や事情が複雑極まりないことや,当事者のどちらに「正義」や「もっともな言い分があるのか」といった点が不明瞭であるところも類似しています.

そんな不明瞭なものを法律で定義付けて,発生をコントロールするのは至難の業です,って言うか無理です.
いじめもハラスメントも戦争も,人間社会が存在する限り永遠に発生するもの.
課題となるのは,発生しにくい環境づくりと,例え発生したとしても重大な事態になることを回避する能力を養うことでしょう.

ところが,「いじめ防止対策推進法」や「男女雇用機会均等法」に代表される「嫌がらせ」への対処を謳う法律は,その法律の趣旨に問題があることに加え,「何をもって嫌がらせなのか?」を具体的に規定したがる姿勢を生み,それは同時に「何であれば嫌がらせにあたらないのか?」を引き出そうとする態度を惹起させます.
私がより問題と考えるのは後者のほうです.

つまり,「何をもって嫌がらせなのか?」については,いじめであれセクハラであれ,「被害者が心身の苦痛を受けたと感じた場合」となるわけですけど,これに対して「じゃあ,どこまでだったらいじめやセクハラにはならないのか?」という文句が出てくるんです.
賢い人であれば「“どこまでだったら” という表現が意味をなさない」ということにお気づきになるかと思いますが,世の中そんな人たちばかりではありません.
ネットにも世間話にも「どこまでだったら」と同じような文句を言う方々がいっぱいいます.「同じ行為をしても,訴えられる人と大丈夫な人がいるのはおかしい」とか言い出す輩ですね.

「何であれば嫌がらせにあたらないのか?」って聞かれたら,そりゃ「相手が心身の苦痛を受けたと感じないこと」というのが模範解答なのでしょう.
でも,明確なマニュアルを求めてしまうのが人間ですから,「◯◯はOK.△△はNG」というリストを欲しがります.
これが最大の問題点です.

和田先生が上記リンク先の記事で指摘しているのはまさにこの点で,「◯◯をしていたから,これはいじめだったのではないか」とか,「△△程度であれば,いじめではない」などといった個別具体的な行為や現象を指して「いじめか否か」を論じたがる人が多いわけです.
その結果,いじめ調査を担当する人としても,「◯◯はいじめと言えるのか?」とか,「△△はじゃれあいなのか?」といった議論をするハメになり,結局のところ世間が納得しそうな結論を導くことになる.
過去記事でも書いたことですが,「いじめ防止対策推進法は機能しない」というのは,そういう側面もあるからです.
いじめ防止対策推進法のこと
笑ってはいけない「いじめ防止対策推進法」
つまり,学校教育の場が,生徒間におけるコミュニケーションスキルや人間関係構築の涵養ではなく,生徒達の言動の正否を評定する場になってしまう恐れがあるのです.
(それが「良い」ことだという人がいれば,それはそれで別に議論する必要があります)

人間のコミュニケーションに,「◯◯はOK.△△はNG」なんてありゃしません.
そんなことしてたらまともな社会生活にならないのは,極一般的な社会生活を営んでいる方々はご案内の通りかと思います.

であるからこそ,学校教育においては「いじめ」「ハラスメント」が否応なしに発生する人間社会の虚しさと複雑さを見据えた上で,それへの対処と乗り越える力の育成に焦点を当てるべきではないかと思います.
それが,少なくとも日本社会におけるハラスメント行為の抑制につながるものと考えられます.


和田先生の著書にはこのようなものがあります↓