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やっぱり多くの国民に等しく大学教育が受けられる機会を与えることは重要だと思う

前回の記事では,昨今話題の女子大とトランスジェンダーの問題を取り上げましたが,もう一つ最近の話題である「大学教育無償化」について,それを推進する方向での意見を提示しておきます.

このブログでは,7年くらい前から「大学教育はチャラいことせずに硬派にいこう」と主張する一方で,「難関大学,高偏差値大学以外は役に立たないから潰せ」というのも間違いだと繰り返してきました.
で,そのこころは「大学教育をあまねく国民に享受させよう」というものです.

「無謀だ」
「そんな予算がどこにある」
「低偏差値の子供を大学に行かせてもお金の無駄」
といったご意見もあるかと思いますが,これは次代を担う子供をどのように育てるのか? という日本人としての心意気の問題だと考えられます.

私としては,現状,国防費や福祉予算は据え置いても教育にかけた方が,皆さんが気にする「コスパ」は良いと思っています.

何年か前に,ある学会で研究のポスター発表をした際に,その場で安藤寿康先生という方とディスカッションする機会がありました.
我々の研究に興味を持ってもらえたようで,いろいろ興味深い質問をいただきました.
私はその時は安藤先生のことを,質問をしてきた研究者の一人として捉えていたのですけど,あとでこの学会に講演者として招かれた先生であることを知りまして.

その講演内容が非常に面白かったことと,私が常々考えていた体育・スポーツ論や教育論とも親和するものだったので,その後,著書も読ませていただきました.

例えば以下のようなものです.
 

一言で言えば,
「人間のパフォーマンスは,育った環境条件が同じであれば『遺伝』の影響が大きい」
というもの.
さらに言えば,
「教え上手な教師に習おうと,教え下手な教師に習おうと,その子供にとっての中長期的な教育効果に差は無くなる」
ということも,様々な研究データを根拠として主張されています.

これについては,御本人も講演や著書でも「安易に受け取られて誤解されることが多い」と困っているようですが,決して「遺伝で全てが決まる」わけでもないし,「教育を受ける意味がない」というわけでもないことが重要です.

つまり,教育においては「学校で教師から指導を受ける」という環境条件が同じであれば,あとはそこで子供がどのように育つのかは遺伝によるところが大きいということ.
逆に言えば,学校教育を受けた者と受けなかった者とであれば,そこには差が現れるわけです.

安藤先生の著書から引用すれば,例えば一卵性双生児の研究では,一方は優良大学を卒業,もう一方はFラン大学を卒業したとしても,一定期間が経って両者の社会的地位(所得・収入など)を比べると,そこに差はなくなっている場合が多いんだそうです.

たまたま通っていた高校レベルや入試対策の違いによって,入学・卒業した大学レベルが異なったとしても,そこから先の「社会人としての振る舞いやスキル」は遺伝によるところが大きいからです.
だいたい7〜9割くらいが遺伝の影響だそうですよ.

ただし,ここで問題なのは「だから学校・大学教育なんて不要だ」というわけでないこと.
両者は,学校や大学の教育を受けるという「環境条件」が同一だからこのような結果になるんです.
ここがこの現象を理解する上でのポイントになります.


別の観点からこの現象を見てみます.
これは以前,私の後輩である東京都の高校教師から聞いた実話です.

あるクラスの担任を受け持っているその教師は,指導スキルに問題があることが校内でも危惧されていたそうです.
社会人としても問題があるとされ,例えば会議でも不適切な言動をすることで有名.
実際,クラス運営もヤバいので生徒たちからも不安視されていました.

「生徒の名前を覚えていない」なんて当たり前で,「ホームルームや授業中に『先生』が寝る」,「学園祭の用意を生徒に丸投げ」,「進路指導を一切しない」等々,メチャクチャな先生だったそうです.

しかし,このクラスの生徒はなぜか「教育困難校」とされる当該高校の中でも不思議とトラブルや問題を起こさない.
しかも,クラスの平均学力は学年トップ.

一生懸命親身になって生徒指導しても,トラブルが絶えず,勉強しないクラスがたくさんあるのに,どうしてコイツのクラスは安定しているんだ?

そんなわけで学校が調査してみると,どうやらこのクラスの生徒たちは
「この担任に自分たちのことを任せると冗談抜きでヤバいことになる」
ということで,自発的に勉強するようになり,生活態度も節制し,進路も自分で決めるようにしていることが分かりました.
絵に描いたような反面教師ですね.

もちろん,この教師は「現代日本社会」においては極めて問題のある教師です.
受け持った生徒やクラスが,たまたま重大事件を起こさなかったから,マスコミや保護者に糾弾されずに済んでいるとも言えます.
教師失格の烙印を押されても仕方無いでしょう.

しかし,ではこの教師が「生徒に悪影響を及ぼしているのか?」「悪い人間を育てているのか?」と問われれば,これは判断や評価は難しいことが分かってくれるかと思います.

と同時にこの事例が教えてくれるのは,人間とは,与えられた環境下で課題に取り組む中にあって,その最適解をひねり出すということ.
そして,それこそが教育の本質なのではないか.


この問題教師は,たしかに一般的に認識されている「良い教育」はしていないかもしれません.
やっていることも極めて非常識.
このクラスは当初,大混乱だったことは想像に難くありません.

ですが,彼なりに「高校教育(中等教育)」を生徒にしっかり授けているわけだし,それによる効果もタイムラグを置いて現れている言えます.


教育の語源である「エデュケーション(Education)」には,その人が持っている能力を「導き出す」という意味があります.
能力は植え付けるものではなく,引き出すもの.
まさにその通りだということです.


では,話を大学教育無償化につなげましょう.
現在,日本で取り沙汰されている大学教育無償化構想は,
「無償化する代わりに,政府の要望を聞き入れさせる」
こととの抱き合わせで進んでいます.

具体的には,
「卒業に必要な単位の1割以上を企業の実務経験のある教員が担当する授業とすること」
とか,
「外部理事を複数任命すること」
といったこと.

だからとても危険です.
大学無償化、支援対象に私立大学などから異論(大学ジャーナル 2018.5.28)

「大学を支援する政策なんだから,政府の要望を聞くのは交換条件として当たり前じゃないか」
と思う人は結構多いと思いますが,それがダメな理由は過去記事でいっぱい書いていますし,ある意味このブログ全体の一貫したテーマなのでここでは割愛します.


大切なのは,大学で行われている高等教育を多くの国民が受けられる機会を,純粋に増やすことです.
何かにつけて今の政府は,大学を「就職予備校」とか「職能養成学校」にしたがりますが,重要なのは高等教育の普及です.

高等教育は役に立たないからと,社会や世間の要望を取り入れることではありません.
大学は学術研究を追い求めて,そのエッセンスを学生に振り掛けていればいいのです.

それによって学生がどのように育つか,それは本人の資質(遺伝)にかけるしかありませんが,まっとうな高等教育を受ける機会が与えられることは,国や社会全体のことを考えれば決してマイナスにはならないことを意味します.


では「高等教育」とは何か?
それは「モノの考え方」を身につける機会です.
これは,昨今流行している「考える力」とは微妙に違います.

以下,昔の記事で書いたものをそのままコピペしたものですが,大事なので繰り返しておきます.

大学において学生が学んでいるのは,それぞれの教員が授業で扱うモノに対する「考え方」です.
例えば「経済学」であれば,その教員が「経済」や「経済学」というものをどのように捉えているのか,その「考え方」を学ぶのです.決して「正しい経済学」なんてものではないし,もともとそんなものは存在しない.

ときどき,
「大学で学んだことは実社会では役に立たない」
とか,
「5年もすれば価値は下がる」
などと言われることもありますが,これこそ大学の授業を「何かに役立てるための “パッケージ” を手に入れる場」だと勘違いしている典型です.

大学は職能養成学校になってはいけないし,そもそも大学では職能養成できない理由がそこにあります.


大学教員が学生に受け取ってもらいたい事とは,この世界を見つめる上での羅針盤となる「モノの考え方」なのです.
具体的な例で言えば,学生が将来一人で,もしくは誰かと或る “それ” について議論しなければいけない際に,より正しい結論や答えを紡ぎだすための体力をつける時間が大学の授業と言えるでしょう.
それはどのような科目であれ関係ありませんし,何年経っても価値は下がるものではないのです.

誤解を恐れずに言えば大学の授業に「答え」はなく,「考え方」が問われているのであって,それゆえ「教師」ではなく「(答えを探し求めている者)研究者」が授業を行っています.

ところで,学校教育や高等教育をあまねく国民に享受させることは,決してバラ色の未来を約束するわけではありません.
冒頭にご紹介した安藤先生も解説していますが,教育が平等に普及すればするほど,『遺伝』による差が明瞭になっていくのです.
すなわち,どうしようもない格差,越えられない壁が明らかになってくることを意味します.

しかし,それがどうしたというのでしょう.

もともと,人間の才能には差があること,その能力の上限に差があることは本能的に知っていることではないか.
だからこそ,そうした差を認めた上で,お互いが与えられた役割をこなしつつ楽しむスキルを養う機会が必要になります.

それが如実に現れるのが身体能力であり,体育・スポーツの場ではないかと私は考えています.
教育において,わけても高等教育にこそ「スポーツ教育」が必要な理由がここにあります.
大学における体育授業の意義

そのへんも含めて,あとは以下の関連記事も読んでください.

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