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コミュニケーション・この劇的なるもの

かれこれ大学教員を10年ほどやってきました.
このたび辞めるにあたって,私がこれまで教員生活を続ける上で参考にしてきた書籍をちょっとずつ紹介しています.
もうすでに大学教員をやっている方や,これから目指す方々のお役に立てる記事シリーズになれば幸いです.

昨日は福田恆存を取り上げました.
滅びゆく日本の教育へ

今回は内田樹氏です.
これまでにも幾度となく内田樹氏の著書をご紹介してきましたが,今回はこちら.
内田樹 著『日本の覚醒のために―内田樹講演集』


内田氏の本は,学生の頃からちょくちょく読んでいたのですが(当時はエッセイ本よりも哲学解説書を),大学教員になってからも氏の考え方は大変参考になりました.

ダイレクトに「教育」について触れていなくても,その「考え方」が授業や学生対応にとって有益な示唆を与えてくれるものが多いです.
例えば,「コミュニケーション能力」についての解釈は激しく同意です.





大学生が身につけるべき本当のコミュニケーション能力とは


今から5年ほど前,こんな記事でこんなことを書きました.
子供のコミュニケーション能力は社会の鏡
ちょうど就職活動が始まった大学3年生.ゼミの学生からも,
「実際のところ,コミュニケーション能力ってなんですかね?」
という質問が出ていました.良い質問です.
「相手に自分の言いたいことを伝える力ですか?」
「問題なく交流を進める力ですか?」
などと聞いてきてましたが,それはチョットしっくりこないですね.
やっぱり,失敗せずに,誰も傷つかずに,という視点が強いのだと感じました.
つまり,彼らのコミュニケーションにおけるデフォルト設定というのは「誰からもイチャモン,クレームがつかない話し方」というものである可能性が高いのです.
ですから,教育的指導ということで説明したのが,
「様々な人との交流(やりとり)を,問題を起こさず進めていく能力ではなく,問題が発生した時にそれを乗り切る能力のことだよ」
というものでした.

同じようなことを著書で内田氏も述べています.
ふつう,コミュニケーション能力というと,自分の言いたいことをはっきりと述べて,相手に伝えることだと思いがちですけれど,僕は違うと思う.そうではなくて,コミュニケーション能力というのは,コミュニケーションが成立しなくなった局面を打開する力ではないかと思うのです.意思の疎通ができなくなったときに,その難局から脱出する能力.途絶してしまったコミュニケーションを再開する能力,断絶に架橋する能力,それをコミュニケーション能力と呼ぶのではないか.(「日本の覚醒のために」より)

就活で企業が学生に求めるスキルとして,「コミュニケーション能力」は毎年トップです.
その人がコミュニケーション能力をどのように定義しているかによりますが,たぶん企業側が求めるのは(企業側にその自覚があるか否かは別として),「自分の言いたいことをはっきりと述べて,相手に正確に伝えること」ではないと思うのです.
コミュニケーションに問題が発生した時,それを乗り切る能力のことを「コミュニケーション能力」だと解釈している可能性は高い.

このコミュニケーション能力ですが,もし上記の定義で解釈するならば,内田氏によれば(そして私も上掲した記事で述べているように),近年は「人間社会」としてコミュニケーション能力不足に陥っています.
これは危険なことです.マニュアル通りのことにしか対応できない,思いがけない事態に遭遇しても定型的なふるまいを繰り返すだけで,自己裁量で「言い換え」もできないし,臨機応変の対応もできない.そういう人たちが前代未聞の出来事に対応できるはずがない.
(中略)
でも,そんな能力の開発のために,いまの学校教育はなんのプログラムも用意していません.ゼロ,です.問いと正解をセットにして暗記して,それを出力できることを学力だと思っている.そんなものは危機的状況では何の役にも立ちません.(「日本の覚醒のために」より)

実際,学校教育ではコミュニケーション能力を高める指導をすることは困難です.
現在の学校教育に突きつけられているミッションでは,内田氏の言うように,
「問いと正解をセットにして暗記して,それを出力できること」
をトレーニングすることしかできないからです.

それ以外のことを学校でやろうとすると,世論と世間が怒ります.
理由は,「スコア」「得点」で評価できないので,不公平感があるからです.

コミュニケーション能力が「問題が発生した時にそれを乗り切る能力」だとするならば,最近の教育界でもてはやされている「問題解決型」の授業がそれに対応できると考えられるかもしれません.
しかし,問題解決型の授業にしても,それを「評価」しなければならない以上,問いと正解をセットにする必要が出てきます.


教育業界では,「生きる力」「問題解決能力」「予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力」といったキーワードが踊っていますが,皮肉なことに,実際の取り組み状況と内情は逆行していると言っていいでしょう.

もうちょっと大学教育に類するようフォーカスを当ててみます.
内田氏は「専門家」に必要なコミュニケーション能力についても言及しています.
長いですが,結構重要なことだと思うので引用します.
この間,「日本土木学会」という学会の学会誌から寄稿の依頼がありました.テーマは「コミュニケーションについて」というものでした.どうして土木学会というようなところから僕にコミュニケーションを論じて欲しいのかしらと不思議に思ったら,趣旨が添付してありました.そこはもちろん土木技術者たちの学会なんですけれど,最近,その土木技術者たちが非専門家との間で意思の疎通が困難になっているのだそうです.公共事業などで,土木の専門家は他の領域の専門家や地方自治体の役人たちとコラボレーションしなければならないわけですけれど,そういう人たちとの間でなかなか適切なコミュニケーションがとれなくなっている.
これは僕にもわかります.専門家というのは他の領域の専門家とコラボレートすることでしか専門的職能を発揮できません.そのためには「自分が何の専門家であって,何の専門家ではないのか」を非専門家に理解させる必要がある.「自分には何ができて,何ができないのか.自分にはどういう専門家のどういう支援が必要なのか」それが言えない人は専門家としては機能しません.自分と同じ専門分野の人たちとだけ「業界用語」で話すことしかできない人は,その分野についてどれほど専門的な知識や技術を有していても,コラボレーションの場では「使い物」にならない.そんな当たり前のことなんですけれど,その当たり前のことが通らなくなってきて,かなり深刻な事態になりつつあるので,ご意見を承りたいというのです.(「日本の覚醒のために」より)

この依頼について内田氏は,前掲したような「コミュニケーション能力とはなにか」について述べ,さらに以下のように追記します.
「ありもの」を使いまわして,何とか言葉が通る回路を創り出す.医療設備がないところで怪我人が出たときに,外科医がホッチキス傷口を縫いつけ,ガムテープで止血し,木の枝で副え木を作るのと一緒です.手近にあるもので何とかするしかない.レヴィ=ストロースが「ブリコラージュ」と呼んだ生き延びるための技術です.
(中略)
資源の乏しい環境で,限られた手持ちの道具を使い回して,そのつどの状況的要請に応えるためには,手持ちのものの潜在的な使用可能性を最大限まで想像できる力が要る.それができる人のことをレヴィ=ストロースは「ブリコルール」と呼びました.
(中略)
ブリコルールに求められる最も大切な能力は,「定型的に考えない」ということです.目の前にある素材について,誰も思いつかなかったような用途を思いつく.それがブリコルールに求められる才能です.そして,まさにコミュニケーション能力というのは定型的な考え方をいったん離れる力のことなのです.「ふつうはそうすることを,しない」ということです.「コードを破る力」と言ってもいい.(「日本の覚醒のために」より)

理屈は分かった.でも,それを大学教育として展開できるのか?
という疑問もあるでしょう.

かなり難しいと思います.
私も上掲している過去記事でも述べたように,現代日本社会では,そういう能力のある人を必要としなくなっているし,この能力を鍛えることを嫌います.
それは以下のようなこと.
人と人との交流,世に出す芸術作品,公的な発言・発信などなど,こうしたものには総じて “誰も傷つかない適切な加減”というものがあって,人は,それを正確に選択できるか否かが問われている.それがコミュニケーション能力だ.
ということを,日本社会が了解しつつあることを示唆しているのです.(■子供のコミュニケーション能力は社会の鏡より)

それでも,レヴィ=ストロースのいう「ブリコルール」を育成することが大学教育の使命の一つのようにも思います.
困難な課題であっても,取り組む価値はあるでしょう.


例えば,私が専門としているスポーツ・体育学は,この能力を鍛える機会として最適です.
それについて解説した記事はこちら.

あなたが大学教員でゼミ生をもっている方であれば,ぜひ一度ゼミ生でスポーツをやらせてみたらいい.
それで如実に分かります.

ゼミ活動や授業で活発に発議・討論できる学生は,「ここにいる皆でスポーツを楽しめ」という課題を前にしても(それがあなたからの無茶ブリに近い提案であっても),周囲に配慮しながら楽しい空間づくりを展開できます.
ほぼ間違いありません.

これは,その本人が運動神経が良くて,スポーツ万能ということとは関係ありません.
たとえ運動神経が悪くて,取り組むスポーツのルールを知らなくても,その状況に合わせた適切な振る舞い方をして,ゲームを楽しむことができる学生のはずです.
興味のある人は,ぜひお試しください.



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