2009年1月31日土曜日

悪い奴じゃなさそう


例の猫です.

こやつがココに居座るようになって3日が経ちました.

居座っているところが臭いので,そいつが寝転んで居るところに行ってファブリーズ吹きかけてティッシュで拭き取ってやりました.例のジャージは捨てました.

「何事だ」とビックリした様子で,私の傍らからのぞき込むように事の次第を眺めていましたが,危害を加えられるわけではないと悟ると隅に座って掃除が終わるのを待っていました.

掃除が終わって部屋に戻ろうとした時,どこかの部屋でカップルが大喧嘩.修羅場と化しているようです.“喧嘩するほど仲がいい” ,なんてレベルのものじゃないなありゃ.殺気を感じるほどです.なんか物投げ合ってるし.安いドラマみたい.

振り返って猫を見ると,不安そうな目をして見返してきます.夫婦喧嘩は犬も食わないそうですが,カップルの修羅場は猫も不安でしょう.
何も言わずについてきました.

部屋に戻ったら,おなかがすいているようなので晩酌の肴に買った刺身を数切れあげました.今宵は一人酒ではなくなったけど,相手が猫じゃなぁ...できればもチョと色気のある相手がいいんですけど.

とてもおとなしいやつで,部屋の中で暴れ回ったりしないので安心しました.はじめはウロチョロしてましたが,気に入った場所を見つけて座り込みました.そこはエアコンが一番よく効いてる特等席なんだけどな.ずうずうしいやつ.

ほろ酔い気分で今日の読書はマルシア・マシーノ 著『タロット教科書』.あいつも放ったらかしてても大丈夫そうだし,ゴロンと横になってのんびりタロットの世界に浸ります.

私これでも実はタロットカードに魅力を感じる者でして,別に “信仰” みたいなのはないんですが,世界中を魅了するこのカードに,ある種の芸術性とカリスマ性みたいな魅力をを感じます.
先日も学生にせがまれて適当な占いを披露しました.ホントに適当だったんですが喜んでくれまして,「当たってる!」とか感激してくれたので悪い気はしませんでした.

自分自身はタロット占いを信じていませんが,カードの解釈の仕方はある程度わかりますので,それらしく言ってればカタチにはなるものでして.そういうところがうまくできてるんですよね,このカード.

この本はアメリカでタロットの入門書としてベストセラーになっているものを訳して出版されたもので,1枚1枚のカードの解釈や歴史を詳しく丁寧に解説しています.
私としては大アルカナ(運命の輪,死神,太陽,世界といったシンボルを描いたカード)以外の小アルカナ(トランプに似ている)に関する解釈を知れたのが目新しかったでしょうか.また一段とタロットの奥深さに触れることができました.

そんなこんなで気がついたら寝てました.横を見るとやつもそばで寝ています(今も足下で寝ています).

残念だけどずっとここにおいとおくわけにもいかないんだよね.
あのカップルの修羅場も終わっているみたいなので,そろそろ帰ってもらいます(あ,起きた).

2009年1月30日金曜日

犀の角


まだいました.
猫です.

私のアパートは共同バスルームなのですが,そこの更衣室に誰かがほったらかしたジャージの上で奴は寝ていました.

こっち見て開口一番,「ニャー」

はいはい,おはようさん.とりあえずそこをどけ.俺が今から着替えるんだ.
本日最初の挨拶相手が猫.

「俺の着替えの上で寝るなよ」
と,他の住人に聞こえない程度に口頭による警告を与えといてバスルームへ.返事はよかったんだけど,でもあの顔,信用できない.
人がシャワー浴びてる時も仕切りの前で鳴いてるし,落ち着いてシャワー浴びれないっつーの.

通勤しようと自転車に乗るところまで付いてくるんだから執念深い奴.
さすがに自転車の足にはかなわないから追いかけてはきませんが.

ここまでくると呆れるというか,なんというか.
首輪がついているので誰かに飼われているんだろうけど,さっさとお家に帰ってください.
頼むからここに住まないでくれ.


佐々木閑 著『犀の角たち』を読みました.たしかに面白い本.内容の鋭さはもちろんなのですが,著者の科学と仏教学に対する情熱が伝わってくる力作.宮崎哲弥氏の紹介だけのことはあります.
仏教のことをある程度知っておかないとチンプンカンプンってことになるかもしれなかったので,玄侑宗久 監訳『マンガ 仏教入門』をあらかじめ読んでおきました.これも宮崎氏おススメの本.

科学と仏教は非常によく似ている.そういう視点から佐々木氏が語っていくのですが,これはたしかに納得しました.
仏教は,唯一絶対の真理があらかじめ存在し,その教義・戒律を守ることを信仰活動とする他の宗教(キリスト教,イスラム教など)とは大きく違います.端的に言えば,仏教は 「苦」 から解脱することを最大の目標として修行する信仰(厳密には信仰とは言えない)なのです.
これは,救いを求めて 「神」 を崇めるという活動とは似て非なるもの.

「仏教」とは,「この世の事は全て苦である (一切皆苦)」 というところから始まり,その苦をどのように取り除くのか,そのすべを各々が自らの力で見つけ出す作業なのだそうです.つまり,この世の真理を探し出す作業を延々と続けること,すなわち 「科学」 とその作業工程が同じなのです.

ブッダとは,その苦から解脱できた先験者のような存在.「神」 とは違うのです.そのブッダが入滅する(死ぬ)前に最後にして最大の教えとして残した言葉が,

自らを灯火とし 他を拠り所とするな
法を灯火とし 自らの道を行け

というもの.
これはそのまま科学の作業にも当てはまります.
科学的推論や論理に従って,得られたデーターを見て観察者が理解できる範疇でその事象を解釈する.それを繰り返すことで真理を得ようとする営みが科学です.

仏教とは 『人生を楽しく生きる方法を科学する』 ということを実践しているものに他なりません.

ちなみにブッダが辿り着いた真理は,

この世は常に変化する(諸行無常).
自身も常に変化する(諸法無我).
上記のことを理解できれば苦はなくなる(涅槃寂静).

不変な物・固定された物など一切存在しない.それが宇宙の真理なのだから,それに身を任せれば心は開放され苦はなくなる.ということ意味です.

今日のところは詳細については省きますが,諸行無常と諸法無我については,科学哲学として考察しても全く遜色ないものなのだそうです.

そんなこんな書いていたらまとまらなくなったので,最後に佐々木氏が贈るブッダの言葉を,

究極の真理へと到達するために奨励努力し、
心、怯むことなく、行い、怠ることなく、
足取り堅固に、体力、智力を身につけて、
犀の角の如くただ独り歩め

2009年1月29日木曜日

修士論文発表会


今日は修士論文発表会でした.

大学院生(M2)がドキドキしながら自分の研究を発表する催しです.

私はその会のサポートをしていたのですが,せっかくですから質疑応答タイムには質問を.
発表する人が緊張のあまり地に足が着いていないことを知っている心やさしい私としては,どうとでも答えられる質問をしようと練って手を挙げてみてはいるのですが,どうもうまく言葉にできません.
発表者が困っている顔をしています.ヤバい,と思って質問の仕方を変えてみても,研究内容を初めて聞くこっちとしては質問方法にも限界があるわけですから,ま,いっか,と諦めて「どうもありがとうございました」と言ってマイクの電源切って座ります.
そして自分自身のスポーツ科学への見識の浅さを恥じるのです.
さすが教授の方々は違います.その道の専門家であることを,こういうところで再確認させられます.手厳しい指摘もありますが,思い切って突っ込めるのは知識の裏付けがあるからこそ.私もそれに一歩でも近づくために精進せねば...
身内だけに分かる話をすると,今年の発表会は「総括質疑」がなくなり,発表時間も短く(10分に)なり,全体的にスリム化しました.

総括質疑がなくなったことで,凝った質問や院生・学生からの質問がなくなりましたが(彼らは質問を考える時間が必要ですので),まあ,これはこれでさっさと終わるのでいいのではないでしょうか.

“修士論文発表” と仰々しくやりますが,結局そこでの “発表” によって論文自体がどうこうなるわけでもないですし,“発表” を一種の通過儀礼として位置づけることが今回は明確になったようです.
まあ,何にしても発表者の皆様お疲れさまです.
どうでしょうか.「こんなもんか・・・」と感じられたのではないでしょうか?
“発表” なんてそんなもんです.
発表会が終わって,その後私はアルバイトでやっているトレーニング指導に自転車で向かったのですが,今日はいつになく気温が高く,やっと春の気配がしてきました.

30人定員である参加者が,今日は5人と少なかったこともあり,ちゃっちゃと終わらせて帰ってきたら,猫が一匹自宅アパートの倉庫に座っています.

逃げない.そして,追いかけてくる.

何のつもりだこの猫.
部屋の前まで付いてくる.一緒に部屋に入ろうとする.
素早く体を玄関に入れ,一緒に入ってこないように閉めたのですが,いつまで鳴きやまない猫.ドアを叩くこともある.

お前何しにきたんだよ.帰れ.

これを書いている時もまだニャーニャーいっています.

2009年1月28日水曜日

バカ本

バカ本にハズレなし.
(今のところ)

タイトルに “バカ” とつく本はたいてい当たりでして,楽しく一気に読めてしまいます.

まずは時事を扱ったものとして勝谷誠彦 著『バカが国家をやっている』.
表紙には各国リーダーのバカっぷりを表す挿絵がのっていますが,中身はそれにとどまらず国際問題,内省,教育,食品問題などなど,勝谷氏が得意とするフィールドでの取材によるコラムが見開きページ単位で展開されます.
シリアスにバカを取り扱う,ためになる本.

最近読んだ本としては呉智英 著『バカにつける薬』.ニュース,芸能,事件などに毒づきながらバカ事象を切っていく.
特に前半部分に出てくる某評論家との紙面論争のやり取りを掲載しているところはホントにバカらしくてアホらしくて.頭良さそうな評論家の論争って子どもの喧嘩のようなやり取りが展開するんだなと.「お前のカーちゃん出べそ」的な論争には幻滅.呉氏は 「こういう頭良さそうな仕事している人が最もバカであることの典型を見ているようである」と述べます.
呉氏の本は他にも読みましたが,なかなか歯切れが良いから,「?」 と首を傾げたくなるような意見もあるがそれはそれで面白いからOKということで.

同名タイトルに,高須克弥 著『バカにつける薬』がありまして,あの高須クリニックの院長でもある氏が,まさにバカにつける薬を処方箋しています.医師としての本音を語る部分が多いのですが,それがなかなか面白い.すべてを吹っ切ったぶっちゃけ話を展開しています.バカをバカと論じた上で,どうすればマシになるのか対策まで述べる姿はさすがお医者さん.バカへの愛情が見えます.

呉氏と似たような切り口のものとしては,勢古浩爾 著『まれに見るバカ』.呉氏以上にこれでもかと “これぞバカ” と断定する人・事を列挙.バカをレベル別にランク付け,これ以上どうしようもないバカ・死んでも直らないバカを超えるバカを 「まれに見るバカ」 と定義し,ここまで来たバカはバカ過ぎてむしろ希少価値すらつくのではないかと論じています.

有名どころでは養老孟司 著『バカの壁』,『超・バカの壁』.バカはバカ.バカはどうにもできないい.と,バカへの理解を諦めるに至った究極のバカ本.養老氏の上品な文章力をもってしているのでソフトタッチな印象を受けますが,「結局バカはバカ」 と結構ハードな物言いです. バカは死ななきゃ治らない,と言った先で 「死」 についても語るところはさすが養老氏.「科学」は絶対的な “正しさ” を保証するものではないことを語る部分はとても参考になりました.

私達に関連が深い分野としては,永井洋一 著『少年スポーツ ダメな指導者 バカな親』.親が安易に抱くスポーツの教育効果への期待をぶった切ります.自分ではろくにしつけをせず,スポーツしてりゃしつけられるだろうみたいがバカ親が多過ぎる上に,図に乗ってしつけ気分で指導するバカ指導者も多いそうです.スポーツ・体育はしつけの場ではない.しつけられた子どもが,スポーツという有機的な場で,そのしつけ・行動が試されることに意味があるのだと.バカ親に育てられたバカ息子はバカ指導者に導かれてバカ・スパイラルに巻き込まれてしまうということです.

バカを自覚している人のためのバカ本として小谷野敦 著『バカのための読書術』.バカはどうすればバカにされないか,その勉強法を具体的に述べています.結論としては,「バカは歴史を学べばいい」とのこと.バカは理系のことを勉強してもボロがでるので,歴史ならなんとかなる,歴史は長く生きているものにアドバンテージがあるから,バカが勉強するにはうってつけ.年下・後輩にもバカにされなくてすむのだそうです.
自尊心旺盛な私としてはバカを自覚していなのですが,氏の勉強法に関する記述からはとても有意義な示唆を得ました.

こうしてみると,「バカ」 をタイトルに冠する本はなんだかどれもノビノビと書かれているので,すっきり歯切れがよくって読みやすいものばかりです.
「バカ」 を論じる人は,ある程度開き直ることによってサッパリとした主張ができるのかもしれません.

2009年1月27日火曜日

犀の習慣


学生に貸していたスティーブン・R・コヴィー 著『7つの習慣』が返ってきました.

そんな本貸してたっけ?と思いつつ,その本を買っていたことすら忘れており,なおかつ開いてみたけど内容全然覚えていないというありさま.
ここは一つ,ペラペラペラ~,っと付箋を貼ってあった場所や線を引いてある場所を飛ばし読み,適当に流し読みして記憶をたどってみました.

で,思い出しました.
この本の内容は,仏教の聖典である中村元 訳『ブッダのことば』『ブッダの真理のことば・感興のことば』(簡単に言えばブッダ氏による対談本)に書かれていることと非常に似ているのです.

これについては,コヴィー氏が自分自身でも「アジアの人からよく仏教・道教・儒教と似た思想だと言われることが多い」と述べています.ブッダの言葉は比喩表現のオンパレードで,ちょっとオシム元日本代表監督の言葉ような観もあり.「そこまで無理して比喩を使わんでも」っていう表現もありますが,説得力のある説教が並びます.

一切の生き物に対して暴力を加えることなく、
一切の生き物のいずれをも悩ますことなく、
また子女を欲するなかれ。
いわんや朋友をや。
犀 (さい) の角のようにただ独り歩め。
そんなわけで私には彼女がいません.
さすがに友がいないと現代社会やっていけませんけど.しかし,あのブッダ氏のことですから,“友” という概念が常人とは違うのかもしれません.ニルヴァーナを目指してもっと修行せねば...

一方のコヴィー氏は愛の大切さを説きます.
「愛」は動詞ではない.気持ちでもない.愛は行動によって具現化される「価値観」である,と.
大衆ウケするのはコヴィー氏でしょうな.

ですが,プチ仏教徒である私としては,やっぱりコヴィー氏の “ことば” よりもブッダ氏の “ことば” の方がありがたい気がして.コヴィー氏の本はお値段も張りますしね.ブッダ氏の本はリーズナブルです.
こういう自己啓発の本は気分が変わればいいものだと思っていますので.

仏教,犀の角と書いて思い出したのですが,佐々木閑 著『犀の角たち』という本を購入しました.仏教と科学をミックスした非常に面白い本だということです.
どこで知ったのかというと,宮崎哲弥 著『1冊で1000冊読めるスーパー・ブックガイド』の最後に取り上げられてたもので,実際にこの人も熱心な仏教徒.
この人の読書力は半端じゃないことはよく知られており,1日に10冊~20冊の本を読むと言われています.とてもじゃないけど能力的にも経済的にもマネできません.

若き知の巨人であるこの人が大絶賛する本なのですから,結構期待大.
『犀の角たち』まだ読み始めたばかりなので,終わり次第またテーマにして書こうと思います.

2009年1月26日月曜日

生命とは何か



チョイ前に福岡伸一 著『生物と無生物のあいだ』がよく売れました.

その後,知り合いの大学教授からも勧められたのですが,「読んだことあります」とかえし,「大して面白くはなかったです」との言葉までは付け足さかなったことを覚えています.

今私は「大して...」と言いましたが,全く面白くなかったと言っているわけではなく,ある種の “人気のある・売れているもの” に逆らいたいというひねくれた部分を自覚しています.

内容はタイトル通りに「生物と無生物の境界は何か」を論じています.
著者自身の研究も紹介しながら,高い文章力をもって分かりやすく解説しているのですが,新書というのがありきたりで(内容を批判しているわけではありません).
なので,このテーマを扱ったものとして私は士郎正宗 原作,押井守 監督『Ghost in the shell』を推します.アニメでこれを表現したのには脱帽.昨日もアニメの話題でしたが,別に私,オタクではありません(ある意味オタクかもしれませんが).


生命とは何か.両者とも「自己複製できること,だけではない」ことを強調し,その違いは何かと論じます.
福岡氏は 「生命とは動的平衡にある流れである」 とし,生命活動に重篤なダメージがある場所を欠損させたマウス(ノックアウトマウス)であっても生命活動を再開させる様に,機械とは違う生命の本質と不思議さを説いています.

一方の士郎・押井氏も,劇中のキャラクター 草薙素子に「戦闘単位としてどんなに優秀でも,同じ規格品で構成されたシステムは,どこかに致命的な欠陥を持つことになる.組織も人間も同じ.特殊化の果てにあるのは、ゆるやかな死...」と言わせています.
ヒトのサイボーグ化が常態している近未来の世界で,生物の機械化に対する危惧を説いているのでしょうか?これは福岡氏のそれと同じ意味でしょう.生命にはアクシデントやダメージを緩衝・修復する能力があるのだと.

SF作品であるGhost in the shellではさらに,「自己修復・自己防衛能力が生命たる定義なのであれば,それは一種の「プログラム」であり,それを有した無生物は生物ではないのか」 と迫ります.それを, “情報(ネット)の海” から生まれた新しい生命体であるとして生物と無生物の境界を論じるのですが,現実にありえそうですから興味深い.

プログラムの中から産まれたプログラムを生命というなら,我々の行為もまたプログラムによるものなのかもしれない.押井氏はさらに続編である Ghost in the shell 2, Innocence で劇中の一人に「ロボットはプログラムで笑う,最近は人間もそう」と言わせ,プログラムによる行為と生命体の意思による行為の境界のあいまい性を論じています.

まあ,たしかに私も最近作り笑いしてますからねえ.プログラムかもしれませんねぇ.でも作り笑いってのはそのほうが都合がいいと “自分の意思” によって考えた結果でしょうし.けど,その意思っていうのも,最初は自己防衛・作業の円滑化というプログラムから出発し,長年のフィードバックを繰り返した結果生まれたプログラムと言えなくも無い.

そんなことを考え出すと,ヒトを含めた生物の行為とは,どこまでが自分の意思による行為で,どこまでがプログラムされた行為なのかが分からなくなってきます.
いえ,もしかすると,“意思” そのものが意思とという名のプログラムなのかもしれません.

2009年1月25日日曜日

Remember Pearl Harbor


私が少年時代を過ごしたところではアニメをほとんど放送しておらず,『ドラえもん』をはじめとする藤子・F・不二雄の作品の記憶しかありません.
だから当時,世間をにぎわせていたエヴァンゲリオンとかガンダムなどについては見たこともありません.今住んでいる関西では信じられないようなことですが.
この歳になって 「あの有名だった作品はどんなのだろう?」 と思い出し,子どもの頃の憧れだった作品を見てみたいと思うようになってきました.

幸い,今はYoutubeやニコニコ動画で(著作権違反の)アニメ本編が流れていることもあり,労せず見れるのがラッキーで,今日も朝から富野由悠季 原作,今西隆志 監督『機動戦士ガンダム0083 ジオンの残光』を見ました.

(以降,作品のネタバレあり)
子どもの頃にこの作品を見たら何とも思わなかったでしょうが,今になっていろいろな情報をあらかじめ知っておくと,アニメとは言えその奥深さに驚き感心します.

まずこの作品を至極簡単に説明すると,世界を牛耳っている「地球連邦」に,先の大戦で敗北した「ジオン公国」の残存兵が決起するというもの.ジオンは連邦の秘密兵器「ガンダム」を奪取し,短期決戦・ゲリラ戦を仕掛けます.再び敗戦することは確実なはずなのに,ジオン軍は亡国への想いを胸に,先の大戦で散った戦友のために戦います.

はっきり言ってこの作品,旧日本軍へのオマージュ,そして戦後日本の “右” の人達の想いが詰まったものではないですか!!

何よりそれを象徴しているのが,ジオンが奪取したガンダムで連邦の観艦式を襲うシーン.陽動・隠密行動しながら忍び寄るジオンの作戦は,あまりにも旧日本軍の真珠湾奇襲に酷似.一方,攻撃を察知しながら暢気に観艦式を決行する連邦はまさに「アメリカ」そのもの.ハワイの真珠湾基地でも多数の艦船がたむろしている同じ状況でした.

攻撃に向かう際,ジオン兵のガトー少佐が呟くセリフ,
「待ちに待った時が来たのだ.多くの英霊が無駄死にでなかったことの証のために…!」

ガトーという名前は,第二次大戦で多くの日本兵が命を散らした「ガ島(ガダルカナル島)」からとったもの?そしてそのガダルカナル島が浮くのは太平洋のソロモン海域です.
そう,この作品でガトー少佐が奇襲を仕掛けた場所もソロモン宙域と呼ばれていました.そしてあのセリフ...,偶然とは思えません.

まだまだあります.
ガトーが攻撃に際して放ったのは,“連邦”から”奪取”したガンダムによる“核弾頭”.これもヒロシマ・ナガサキに対するアメリカの原子爆弾投下へのメッセージ性が伺えます.
ジオンの将兵の口からでるセリフは「侍」を意識したような言い回しだし,連邦の思想も当時のアメリカを意識した構成になっています.

敗戦が確実になった時のガトーの言動も,
「一人でも多く突破しアクシズ艦隊へたどり着くのだ.我々の真実の戦いを後の世に伝えるために!」

アクシズ艦隊というのはジオンの友軍のことですが,これは第二次大戦中の,枢軸国(Axis) = 日本・ドイツ・イタリアのことですから,これも偶然ではないでしょう.

そして最後は,生き残れないと判断した兵から,一人また一人と,ガトーも連邦の艦隊へと「特攻」していきます.これについては言わずもがな.

「我々の真実の戦いを...」というガトーの言葉は,旧日本兵の言葉を代弁させたものでしょう.作者の意図がここに終結といった観.
視聴者としては連邦軍からの視点で物語を追うのですが,ジオン軍の戦いにかける想いに心打たれます.
敵ながら天晴れ,と.そして,同じような物語(歴史)があなたの国にもあるのだと.

チョッと前に田母神論文が話題になっていましたが,おおよそ訴えたい内容は同じようなこと.アニメか論文かの違いです.1991年の作品ですか・・・,あの時代にこのようなメッセージを発するのはアニメで,しかもこのようなマスクをかけないと無理でしょうからね.やるな作者!!

2009年1月24日土曜日

チラシが完成


チラシが完成しました.

身元がばれそうな部分は消しています.ご了承ください.

このイベントの大会長お気に入りの一枚を使って,いろいろとイベントの情報を入れました.
最終的なGo signはまだですが,大筋のデザインはこれで行くと思います.


この一枚を作る中でもいろいろと勉強になりました.
レイアウト,配色,情報の質と量,プリンタの設定などなど,違和感無く作ることがどれだけ難しいことか.適当じゃダメなんですね.奥が深い.

規模が小さいとはいえ,これが人々の間に出回ると思うと今になってビビッてきました.
これに使った写真の著作権が本当にパブリックドメイン (Public-Domain) なのかどうかも心配.Wikipediaで調べたらパブリックドメインだと表記されていたので問題ないはずなのですが.

著作権のことって,調べれば調べるほど複雑なので,絶対の確証がないような気がしてきました.国によって違うとか勘弁してくれって感じです.
じゃあ Web で拾ったやつとかどうなるのよ.ってWikipdeiaで調べたら,ネット社会になった今,著作権の改革が進められているそうで,「へー,そうなんだ~」 って感嘆にふけっているのはいいんですが,肝心の自分が使った写真のことについては99%違反していない自信はあるのですが,残りの1%が妙に気になる.そんなところです.

そうそう,
今回の件で一番気をつかったのは著作権のことです.
ザッと調べただけでも,
>加工も使用も一切禁止.
>加工はダメだけど許可とったら使用はOK.
>許可とったら加工も使用もOK.
>無許可で使っていいけど作者を尊重するような使用に限る.
>無許可で使っていいけど営利目的はダメ.
>無許可で何してもOK (Public-Domain).
などなど.

それが見慣れない英語で書かれてるものだから,デザイン以上に頭を悩まします.
許可とらなきゃいけないのは 「ダメ」 だってすぐ分かるのですが,それ以外が妙にグレーな言い回しで困ります.どこからどこまでがいいのか.その線引きが結構あいまいで.
こりゃ専門の人が必要になる理由がわかりますし,裁判とかで違反だ・違反じゃないと “争点” になるのも頷けます.

今回のチラシで何も問題が起きないことを祈って,とりあえず任務完了と...

2009年1月23日金曜日

我が意を得たり


自分がやってきたこと,やりたいことを整理,代弁してくれた.

そんな心境です.

今日,龍谷大学の長谷川裕教授の講演がありまして,それを聴く機会を得られました.
テーマは「スポーツ科学を現場にどのように活かして行くか」という趣旨であり,私の今の活動にとても有益な示唆を含んでおり,有意義な時間を過ごせたと非常に満足しています.

以前から持論として「スポーツ科学は現場では役に立たない」とは考えていたのですが,ではその “役に立たない科学” を 「どのように役立たせればいいのか」 ということについて自分では “言葉・言語” として整理できずにいました.
まだまだ未熟者ですから,この頭の中にフワッと浮かぶ考えを固定することもできず,そしてこの “考え” に自信もなく悶々としたものを抱えていたのですが,それを的確に言葉として整理していただいたという感じです.

それについて先生の言葉を借りますと,一言で言えば,

「スポーツサイエンスをスポーツテクノロジーとしてフィールドへ」

といったところでしょうか.

具体例を挙げると,数学者,物理学者といった人たちが,「科学」 として理論を構築しても,それは役に立たないのです.
それを利用するためには「テクノロジー((科学)技術・工学としてココでは定義します)」が必要であり,それによってコンピューターや建築,宇宙開発が進められ,これが我々人間社会に還元されるわけです.人間社会が「科学」の恩恵を得るには 「テクノロジー」 というフィルターを通さなければならず,「科学」はその 「テクノロジー」 に示唆を与えるものに過ぎません.
「科学者」は純粋に知識・情報を生み出す作業に従事するものであり,むしろそれ以上の価値を成すものではないないのです.
この「科学」を実用的に人間社会で利用するためには「テクノロジー」という技術をはさむ・変換する作業が必要になるのです.

スポーツの世界では,スポーツ科学をダイレクトに現場(フィールド)に還元しようとする向きがあります.以前の私もそうでした.なんとかスポーツ科学を現場に活かせないか,活かさなければ.さらには「スポーツを科学することがスポーツを理解することになるのだ」と.しかし,スポーツを “理解“ することとスポーツを “する” ことは違います.知らず知らずのうちに “活かす” のではなく “当てはめる” ことに終始していたのです.

科学についての解釈には伊勢田哲治 著『疑似科学と科学の哲学』が非常に分かりやすく,かつ問題提起もたくさんあり名著だと思います.ぼんやりと 「科学」 について自分なりの位置づけを持っていたつもりでしたが,今日は私にとっても灯台下暗しと言いたくなる 「スポーツ科学」 のありようを再確認できました.スポーツ科学も例に漏れず 「科学」 なんだなと.

スポーツ科学についても,テクノロジーや工学といった考え方・視点でみればスッキリとまとまるような気がします.スポーツ科学として得た知識・情報を,スポーツや体育の現場で活かすためには,やはり “活かす” ための営みが別に必要となるわけで,長谷川先生曰く「それが日本は非常に遅れている」 とのことです.

スポーツ界でよく言われる 「研究と現場のギャップ」 というのも,ここにその渦の中心があるような気がします.当たり前と言いましょうか,研究と現場にギャップがあるどころか,そのままでは相容れないものなのです.

長谷川先生の講演は自分の考えをかなり整理でき,方向性も確立できたいい機会でした.
スポーツ科学から得た知識や情報をどのように利用するのか.テクノロジーとしての視点をスポーツ分野にも取り入れれば,スポーツ・体育にまつわる世界も幅広いものとなってくるのではないでしょうか?

2009年1月22日木曜日

子どもの体力:チャンス


学力に続き、体力でも地域間の〈格差〉が浮き彫りになった。文部科学省が21日公表した全国体力・運動能力、運動習慣調査(全国体力テスト)の結果。昨年公表された全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)で下位に甘んじた大阪府は、体力でも都道府県別順位で39~43位に低迷し、橋下徹知事は「大阪の教育は最悪。いい加減にしろ」と府教委を痛烈に批判した。一方、両テストで好成績を収めた自治体は「基本的な生活習慣を身に着けている証し」と文武両道に胸を張った。2009年1月22日  読売新聞


大阪府の子ども体力が低いんだそうです.これはまたとないチャンスです.我々体育に携わる者の活躍の場ができたというものですので,小中学校の教師の方々には失礼ですが,あえて言いましょう.

「ありがとうございます」

このチャンスがさらなる発展をとげることを祈っております.

ぜひとも橋下知事には,関西でスポーツ・体育を広めようとしている我々に活躍の場をいただけたら,これ幸いと思っております.
お金目当てではありません.使命感です.義務だとも思っています.ですが正直言うと職です.

なんにしても,お金をケチりたい橋下府政ですから,どケチな我々がビジネスパートナーとしてぴったりではないでしょうか?どうでしょう橋下知事,いい仕事させていただきますよ.
とりあえず体育会系ですから,リーダーが一声かけたらドッと動く人海戦術を得意としております.
それは役人の比ではありません.

知事は学生時代ラグビー部に所属していたとか.
これまた我々とも合うかもしれません.

でもまずは分析が先かと思います.今回の体力テストの結果です.
昨日のこととも関係しますが,単純に体力の値が上がった下がったで話をしていいものかどうかですし,子どもたちの背景についてももう少し詳細に知りたいところです.

本気で子どもの体力を改善するのであれば,実は私にも策があるのですが,今日のところは疲れたので休みます.
特別な奇策があるわけではありません.ちょっと内容を言えば,もう少し「子どもの体力」というものを慎重に見定めるべきかと.

これについてはまた別の機会に.

2009年1月21日水曜日

統計学,わかりましたか?


週1回のペースで,少人数の大学院生を中心に研究・その他のことについての勉強会を開いています.

毎週誰かが発表する形式で,今日は私が発表する番になりました.発表内容はというと,私が学生時代に苦心したデータ整理・統計処理についてです.


これを押さえておけば何とか統計処理については理解できる,理解の足がかりになる,という内容を考えて発表しました.
参加してくれた方々は 「分かりやすかった」 と喜んでくれましたが,終わったのが先ほどの夜11時で,夜が更けましたも甚だしい状況です.8時半からスタートしたので,かなりお疲れだったでしょうに.先輩の発表ですから 「遅いです」 とも言えず,かわいそう.
次の発表の時はテンポよく終わりますので許してください.


発表するための資料作りでは,いろいろな統計学の本を引っ張り出してきたのですが,中でもやっぱり使い勝手がいいものとして,石村貞夫,デズモンド・アレン 著『すぐわかる統計用語』 がありました.
言わば統計学の辞書みたいなもので,50音順に統計用語がまとめられているのです.統計の勉強は適当に済ませているので,「この検定方法どんなんだっけ?」「この用語は何?」 みたいな状況にあうことが多々ありまして困ることがあります.なので普段からペラペラめくって重宝しています.
学生にも紹介しとくんだったと後悔.詳しくはこれ読めということで.

身内でしかも少人数の勉強会ですが,まがいなりにも聴ける発表内容にしなければいけないわけですから,根詰めて資料作りをしました.おかげで自分の中で統計処理のことなど確認できたことなど多く,ちょうど卒論指導などで統計学を必要としている時期であることもあって自分にとってはタイムリー.参加した学生はポカーンとしてしまう内容も多かったでしょうが,それはまた個別に対応するってことで,今日のところはご容赦を.

今回の発表資料は昨日からの2日がかりですが,大至急でつくったこともあり,トッカン作成の痕跡が満載です.デザインの勉強をしたというのに, http://imnstir.blogspot.com/2009/01/blog-post_07.html ヒドい発表スライド (パワーポイント) だなと.まあ,ヒドいかどうかが判るだけでも勉強した甲斐があったというもの,ということにしておきましょう.

ということで次の発表の時は,デザインのことについてやりましょうか.

2009年1月19日月曜日

授業の反応 (月曜日)


反応はありませんでした.

無関心だったというわけではなく,授業がこちらが用意したものではなく,生徒達がどうしても「最後に何かスポーツして終わりたい」ということで,フットサルをやって終了になってしまったからなのです.
私としては,自分自身がやりたいことがあった事はたしかですが,最後の体育の授業(全授業を通しても最後)なのですから,盛り上がることをやって終わりたい気持ちもわからんではないです.
最初は数人の生徒が言い出したのですが,クラス全体を巻き込んでのせがまれると,ダメだとは言い切れず,「しょうがない」と,体育館に向かわせてフットサルです.
たしかに盛り上がるには盛り上がりましたが.
あとで一人の生徒に「どんなことをやる予定だったのですか」と聞かれ,内容を端折って説明すると,詳しく聞きたそうな顔をしてくれたのが,むしろチョッと後悔の念にかられます.

 少年よ,隣のクラスの奴に聞いてくれ...

なんにしてもタイミングって重要だなと思わされる年末年始の授業スケジュール.非常勤講師ですので,なかなかその学校の 「コアな部分(?)」 まで感じ取れないところがありますから,ドタバタしながら終わるという感じです.
そして生徒からは,何かが大きく変わろうとしている慌ただしい雰囲気が伝わってきます.
進路や将来のこと,2ヵ月後に向けて計画を立てているであろう者や,まだ決まっていなくて最後の高校生活を楽しもうとしながらも焦りを隠せない者.
では自分はどんなことを考えながら生活していたんだろうと思い出してみても,悲しいことにあまり思い出せなくなってしまいました.


年末に流れた母校のニュースは,一つのきっかけを作ってくれました.
出来事としては警察沙汰ですし,いいニュースとは言えませんが,母校だけに擁護したくなる気持ち.いやむしろ擁護ではなく,今では同じ 「教育」 という現場に立っている者としても 「未成年の喫煙」 について考えを整理する機会が得られたことは大きいです.
自分自身,冷徹で薄情な人間だと思っていましたが (なら教師やるなよ,って?),今回の件で,知ったかぶりしたTVのコメンテーターや下等メディアの報道姿勢などに“イラっと”くる感情はまだ持っていたのだなと気づきました.
「あのコメンテーターを前に,自分がスタジオにいたらどう言い返えそうか」と本気で独り脳内ディベートし,気づいたら「寝れね~」って状態になっていた夜もありました.

そんな時に面白い本に出会うもので,諏訪哲二 著『学力とは何か』に感銘を受けたのが年末のこと.
あそこまで “ゆとり教育” を推すのはどうかと思いますが,考え方には賛同します.これについての詳細についてはまた機会があれば書きたいと思います.

とりあえず今年の担当授業は全て終了.
来年度も頼まれているので,気を引き締めてまた頑張っていきます.

2009年1月17日土曜日

ファンタジスタの会

会長を務める私としても満足のいく第1回でした.

実際に同席した人でないと何のことか分からないかと思いますが,“ファンタジスタの会” とは,言動・存在・挙動,全てのパラメーターが不思議で面白い人,“ファンタジスタ” としか表現しようがない人を集めた会のことです.
「ファンタジスタ会員」と「凡人会員」がありまして,第1回はそれぞれ3人ずつの計6人で,昨日執り行われました.
居酒屋で水炊き鍋を囲みながら,我々凡人会員はファンタジスタが繰り広げるファンタジーな世界を楽しむというものです.
ファンタジスタ達は放っておいても楽しんでくれているので,それを肴に酒を呑む.至福のひと時です.
下手なTV番組を観るよりよっぽど面白いと思います.

“類は友を呼ぶ” とはよく言ったもので,ほとんど関わりがなかったファンタジスタ達は,あっという間に打ち解け仲良くなって,ファンタジーなエピソードやトークを展開してくれます.
今回の会では,後半にとんでもない展開に発展し,ここでは書けないようなビッグバン・ファンタジーが炸裂しました.
笑い過ぎで腹が痛くなってしまいます.腹筋トレーニングの必要がないのではないかとも考えられます.

次回は2月中・下旬を予定しています.さらなるファンタジスタを召集し,こちらから何もフラなくても最初から最後まで笑い通せるようになると理想です.

2009年1月15日木曜日

授業の反応 (水曜日)


我が母校である黄柳野高校の喫煙ルーム(禁煙指導室)問題を,自身が担当する高校(黄柳野高校ではない)の授業で話してみました.今年度最後の授業,しかも体育の授業だというのに,本来とはてんで違う授業展開に,むしろ生徒は興味津々だったよう(に見えました).その反応とそこで考えたことをお話します.


一連の事件の経過,私なりに事件をどのように受け止めたのか,そして,1月6日の記事 h ttp://imnstir.blogspot.com/2009/01/blog-post_06.html にあるようなことを話し,その後,生徒からの意見を聞いてみました.


生徒も自分達の身の回りに近い(?)話題であったことからも,私の未熟な無茶振りにも臆さずいろいろと意見を言ってくれて,楽しい一時でした.

生徒から出た意見は,概ね以下のようなこと.

「高校なのだから,やっぱり喫煙はいけないのでは?」

「高校で喫煙室がいけないのであれば,大学ではなぜ喫煙エリアがOKなのか?同じ未成年を扱った教育機関ではないか?」

「高校として,『喫煙室』と受け止められる・報道されるようなやり方がマズかった.もっとソフトなやり方はなかったのか」...など.


生徒としては,先生が自分の意見を述べている上でさらに意見を言えと言われているわけですから,かなり慎重な言い回しになっていますが,せっかくの意見交換の機会.それぞれの意見に対して私の方からも補足をしながら聞いて回りました.


たしかに,「高校なのだから,やっぱり喫煙は...」との意見はもちろんごもっともで,黄柳野高校には喫煙をするために入学しているわけではないのだから,『禁煙教育』云々の前に,『禁煙』自体が学生生活の絶対条件としてあるべきだとの考えは当然です.

『喫煙について考える』などと悠長なことを言っている場所ではないんだということ.今回のように『喫煙問題』が取り沙汰されることで,非喫煙生徒が損害をこうむるわけですから,「喫煙」については断固とした処置がなされるべき.


「大学ではなぜ喫煙エリアがOKなのか?」という意見はなかなか鋭い.これについて私は今すぐ法的・社会学的な補足説明をすることはできないのですが,「高校」と「大学」という教育施設の設立哲学のようなものが関与しているかもしれません.まだ調べていないので,月曜日の授業までには用意しておきたいです.

単純に考えても,大学には必ず20歳以上の学生がいることになるわけですから,必然的に喫煙に関するマークが甘い雰囲気・習慣・文化が根付き,それが問題とならない土壌になっていることは考えられます.それらの問題は自己責任というなんとなく捕らえどころない「空気」で済まされる不思議な空間です.ここで思ったのは,「短期大学」ではどうなんでしょうか?20歳以下の学生が少ない空間では,どのような空気があるのでしょう?

短大出身の人が職場にいますので,明日にでも聞いてみたいと思います.


「もっとソフトなやり方はなかったのか」とは,なかなか面白い意見.「タバコを吸える部屋」という位置づけにしなければ,もっと問題も大きくならなかったのでは,とのこと.たしかにニュースのネタになりやすいとは思います.「原則禁止」という姿勢は崩さず,それでいて,いい意味でなあなあにやっていくというバランスを大切にするという.ただちょっと高度で危険な気もするが...


いろいろな意見が聞ける機会をつくった今回の事件は,高等学校における生徒の喫煙についての議論を少し進ませることになっているのかもしれません.

今度は月曜日にも別のクラスでやります.また違った意見が聞けるといいですね.

2009年1月13日火曜日

凍える夜は...

去年・今年と,なるべく自宅には帰るように努力していますが,できれば職場に泊まりたいと思うほどの寒さです.
自宅に帰ったら帰ったで,ノン断熱,ノン防風構造の築30年家屋が待っており,寒さに凍えながら布団にくるまる始末.そのうち風邪をひくんじゃないかと.

ということで今日は雑談身の上話です.

久しぶりに足先がシモヤケにもなりましたし,外に出るのが億劫でしょうがありません.「じゃ泊まれよ」と思うかもしれませんが,なんだかそんな雰囲気の職場ではないので,大手を振って泊まれません.それでも泊まる時は,デスクの下に銀色の断熱シートを敷き,Colemanの寝袋に入って寝ます.職場が電気代をもつのですから,とうぜん暖房フル稼働でアンチ・ウォームビズ(夜間の発電のカラクリについては以前,『派遣に思うこと』で話しました).たまに会議室(っぽい作業室)の大テーブルの上で過ごすことがありまして,これが結構寝心地抜群.でもこれにはちょっとした工夫が必要なのです.テーブルから落ちたら骨折間違いなしだし,頭とか打ち所が悪かったら朝になっても永遠に眠りから覚めないことになる可能性大ですので,たくさんのイスをテーブルから少し引いた状態で雨どいのごとく並べておき,落ちてもダイレクトに床にぶつからないようにしておくとOK.最悪でも打ち身で済みます(まだ落ちたことないけど).

自宅に帰らないことで,電気代はバカみたいにウキますから,以前,ひと月の電気代が700円代だったことが.冷蔵庫しかまわってないみたいな状況が続いたんです.
それにしても,まだ結婚もしてないのに家に帰るのが億劫とか.冬・期間限定「人生の墓場」です.

でもまあ,今日もこの辺で帰ります.
明日はいよいよ喫煙ルームのことを高校生相手に話してみます.どんなリアクションがあるのか楽しみです.

2009年1月12日月曜日

教える技術


藤沢晃治 著『「分かりやすい教え方」の技術』を以前読んで,てっきりその気になり,いつか “教える” という機会が得られることを楽しみにしていましたが,ここ最近その機会を得て困っています.

やっぱり難しいです,“教える” ということは.「論文指導」というのをやっているのですが,まずパソコンの操作指導から始めなきゃならないのがシンドイです.WordやExcelくらい使えろよ,と思ってみても,自分だって学生の時には大したことなかったな,と思い出したりもしています.だからちょっとくらいイラッとしても,そこは抑えてしっかりと指導しないといけません.
藤沢氏の著書の中にもこういう内容のことが書かれてあった覚えがあるのですが,“教えたその時に理解できなくても,理解できなかったなりに,それを理解しようし続けるきっかけをその人に与えること” が大事なんではないかと思います.その時に分かればいいだけであれば,それは「分かりやすい説明の技術」なのであって,「教える」のとはチョッと違うのだと.

言うのは簡単ですが,これは超絶に難しいことです.“理解し続けようとするきっかけ” ってどうやって判断・評価すればいいのか分かりませんし.そもそも,そんなことが本当に存在するのかどうか.教える技術云々ではなく,たまたまその人の興味・好奇心と一致する事柄だっただけなんではないかとも思いますし.

教える側(例えば先生・教師)が自分が教えようとしている事の楽しさや大切さ,深さを伝えようと思っていても,それは自分が得意であったり,興味があるから教える側にいると言っても過言ではないわけで,それを相手に「これは楽しいよ」「重要だよ」と教えても,なかなか満遍なく心に届くようなことはできないのではないかと.たまたま波長があったのが「その後の自分に影響を与えた」ということになるのではないのでしょうか.

自分のことを思い出してみても,楽しい授業をしてくれた先生ほど,えてしてその授業の内容や大切さって思い出せないし,いま役立っているとも思えないのです(そのうちジワジワ数十年の時を越えて活きてくるのかもしれませんが).

嫌だと思ったり,つまらんと思っていた “教え” や授業ほど今になって活きていたりするわけですから,どんなやり方が “正しい” のかは分かりません.

でもやっぱり「嫌だ」「つまらん」と“その時”相手に思われるような教え手にはなりたくないという,向上心とも迎合心とも言えるなんとも複雑な気持ちがあって,この「教える技術」というのには自分自身にもかなり迷いがあります.これは以前「喫煙ルーム(黄柳野高校のこと)」でも取り上げた教育問題とも関連があると思います.

今のところ私自身この教えるについて何か法則性が見出せているわけではないので暗中模索状態.やっぱりそれは自分自身の「教える」ということへの哲学を構築していく中で見つけられるものなのでしょう.

2009年1月11日日曜日

障害者スポーツを考える

もしマンモスが復活して動物園にいたら観にいきますか?

実際,氷漬けのマンモスから精子を取り出し,現存するゾウのメスの卵子と交配させ,そこから産まれたハーフのメスの卵子からクウォーターを産ませ・・・,と続けていけば,完全なマンモスは無理にしてもマンモスに極めて近い種ができるのです.

それが動物園にいるのです.観に行きませんか?パンダやライオン,普通のゾウを遥かに凌ぐ人気が出ると思っているのですが,今日それを同僚と話していたらあまり芳しくない意見を頂きました.絶滅している種を蘇らせることに違和感がある様子.
その後もこのような話をしていたら,議論はヒートアップ.深い哲学的な生物・生命科学の話に発展していき,以下のような話題になっていきました.

義手・義足の方が生身の手足よりも性能が良くなったら(近い将来必ずそうなるでしょう),障害者スポーツの方がダイナミックでエキサイティングなプレーができるようになります.
別に今の障害者スポーツがエキサイティングではないと言っているわけではないのですが,障害者スポーツの人気がどうしても健常者スポーツの人気を超えられないのは,なんだかんだで “健常者が発揮するプレー” の魅力を超えられないからです.
自ら課したルールの中で運動能力の優劣を決するという模擬決闘としての色を呈するスポーツの魅力は,健常な身体と知能を持つパーフェクトなヒト(Homo sapiens)から繰り出されるプレー,動作,テクニックに対し,人(Human)が無意識にエンターテイメント性を見出していることだと思います.それは(障害者には失礼ですが)“欠けている”身体から生み出されるプレーが超えられない壁だとも思うのです.

しかし,その壁を超える能力を人工的に手に入れられる時代が来たとしたらどうでしょう.「義手・義足」から発せられるプレーと「生身の身体」から発せられるプレーはやはり違うという価値観はそこにあるのでしょうか?

※)もし “ある” とすれば,私はそのような時代になっても “障害者を「障害者」として見る価値観それ自体は変わっていない” のだなと、むしろ残念に思うのですが,今回の話とはちょっとズレますので別の機会に.

「義手・義足」といっても,科学・工学が発展した先の未来の義手義足です.今,私達がイメージするような義手義足ではないのかもしれません.限りなく “本物” に近い見た目と質感かもしれません.ちょうど士郎正宗 作『Ghost in the shell』のような.その作品と同じように、健常な人でも生身を捨て,義手義足に取替える時代が来ないとは言えません.そして障害者スポーツには現在のモータースポーツのように義手義足のスペックを制限するなど,規格化が導入されることになるでしょう.

その時,人のスポーツに関する価値観がガラリと変わるのではないでしょうか.私は,「スポーツ」という営みこそ人類らしさ証明の一つであると思っています.それは,言うなれば必然的に生まれる “サイボーグ” の存在によって大きく変わります.

義手義足だけではありません.ドーピングにしてもそうです.ドーピングが禁止されている理由として,「フェアプレーに反する」ことはもちろんのこと,「使用した者の健康を害する」「社会悪になる(選手のマネをして薬物乱用が広まるなど)」ということが挙げられます.
「フェアプレーに反する」ということについては素直に納得できるのですが,他の2つについては将来的にはクリアできてしまう可能性があります.お金はかかるがパフォーマンスを向上させ,それでいて健康を害さず,むしろ使うことを社会的に容認するような物質.そんなものが出来てしまった時代に,その物質の使用を「フェアプレーに反する」と考える価値観があるのでしょうか.

そうした時,体育・スポーツ学という分野の哲学や身体観に,大きなパラダイムシフトを起こすことになるのではないでしょうか.

2009年1月10日土曜日

派遣に思うこと

登録型派遣 共・社・国民新が「原則禁止」要求。
労働者派遣法の改正をめぐる調整が、与野党双方で本格化してきた。野党は共産、社民、国民新の3党が、限られた業種以外は登録型派遣を原則として禁止する案で一致し、民主党に歩み寄りを求めた。
一方、自民、公明両党も実務者による協議を始めた。与党の新雇用対策に関するプロジェクトチームは9日、派遣契約の中途解除防止や製造業派遣の禁止などについて来週後半に議論を始めることを決めた。派遣先が派遣社員との契約を中途解除する場合、30日前までに予告しなければ賃金に応じた賠償金を派遣元に支払うことが厚労省の指針で定められているが、罰則がないため、プロジェクトチームではこれを派遣法に取り込むことを検討。残りの契約期間について、賃金の一定割合を派遣元に保障させることや、事業の許可要件の厳格化も議論されそうだ。 [asahi.com 2009年1月10日8時36分]


私の職場でも “派遣さん” がいます.本職の人よりも仕事をこなしているのではないかと思うことも間々あります.派遣に関する問題点がいろいろと取り沙汰されていますが,そもそも「人材派遣」という雇用方法がここまで活発になった背景は,“必要な労働力を必要な分だけ安い給与で確保できる” という点が企業にとって美味しかったから,もっと言えば,そうでなければこの数年間の不況を乗越えられなかった企業がたくさんあることです.
派遣切りに対する企業への批判が起こっています.不況を乗り切るために安い給与で雇い働いてもらった人達なのだから,苦しい時こそ派遣社員を守れと.しかし切られなかったとしても,切らなきゃ沈む舟に乗っていては近々一緒に沈むことになるわけで,そこをどうこう言っても仕方がありません.企業としては法律の範囲内で自分が沈まないようにマネジメントしただけのことですから.派遣を雇って儲けたあくどい企業なんてごく一部.今が不況でないのならその話も通用しますが,ずっとこのかた不況続きなのですから,正社員も一緒に切るような事態に派遣を守ることなんてできません.

実は私も学生のとき人材派遣系のアルバイトをしたことがありまして,その時はむしろ「派遣ってカッコいい働き方」とまで思われていた記憶があります(その後ドラマまであった記憶も [探したらありました.「ハケンの品格」]).正社員とは違う一つの生き方として認知されつつあったようにも思いますが,現実は厳しい雇用状態だった人達もいるようですし,それが一気に噴き出した2008年だったのではないでしょうか (ちなみに,昨日も触れた秋葉原通り魔事件については,派遣社員の勤務状態を世間に示した出来事でしたが,私は “派遣” が事件の主原因では無いと思っています).

上記のニュースについて思うことは,派遣を禁止にしても失業者が増えるだけで意味無しかと.限られた業種以外というのがどこまでなのか詳しくは不明ですが(民主党案では製造業は禁止だそうです),こういう後先考えない政策よく出すなと.
以前にも「コンビニ営業時間を制限」なんてわけ分からん政策をとろうとしてた人達もいましたし(私的には: コンビニ営業時間制限 → 大量の深夜バイトが他の仕事探す → 派遣でまかなってた深夜の仕事に旧コンビニ達が侵出 → 失業者が増える/派遣問題に油を注ぐ :という流れになる気がするのだが.そもそも夜間の電気は昼間とは違い,火力発電を抑えて原子力発電に依存させている.Co2発生がほとんどない原子力発電(しかも原子力は発電量が莫大な上に調節が難しく,余剰に発電している)の電気を消費しているに過ぎず,Ecoの観点からみても間違いな政策),場当たり的な対策はやめてもらいたいものです.

派遣という雇用形態が悪いのではなく,この問題の本質は景気の低迷 + 雇用の低下です.派遣に頼らざるを得ない経済状態では,派遣を禁止したところで別の形でこの不況を乗り切ろうとまた劣悪な雇用形態が生まれます.
給与の低さが問題なのであれば,最低賃金の引き上げというのがありますが,私はあの政策によるメリットがどうもまだイメージできません.この経済状況で給与の増加は現実的とは思えないので,言うなれば働き先を増やす政策を打ち出してほしいのですが.でもそれが簡単に思いついたら苦労しないんでしょうね.

2009年1月9日金曜日

トリアージについて


トリアージをご存知でしょうか?一人を助けるために十人を死なせてはならない(ナポレオン),という考え方に則った救助活動のことです.手遅れ,死に掛けはほっといて,助かりそうな人だけを助け,明らか助かるやつは適当に対処するという「患者の優先順位付け」です.命の選別とも呼ばれます.

大規模な事故・災害が起きた際,軽症の人は近くの病院に駆け込み,すぐに助け出された患者もこれに続くため,病院外来は大混乱になる.ところが,本当に治療処置を施さなければならない患者は,たいてい救助活動が難航していることが多いことから,遅れて病院に搬入される.しかし,その時すでに軽症患者に手がいっぱいの病院では対処ができず,見す見す重症患者を死なせることになる.

このような事態を防ぐためにトリアージが施されるのですが,日本でもトリアージを用いた救助がなかった時代には,大事故の際,助かるかもしれなかった人が助けられなかったエピソードはいろいろあり,有名なものでは,1980年の静岡駅前地下街でおきた大規模ガス爆発事故で,死傷者が200人を越える惨事の際,周辺の病院ではこのような事態になったのだそうです.

なんで今日はこのテーマかと言うと,Amazonでやたらと大多数のレビュアーから高得点評価をうけている,仲田和正 著『手・足・腰診療スキルアップ』の一番最初の章がトリアージだったのです.整形外科の本なのに最初の章が「トリアージ」とは.なかなか “できるな…!”と思わせる構成ぶり.医療の基本は大多数の幸福のためだろう.命を救うのが医者の務めだよ.という著者の意気込みが感じられる章立てだったのに感銘しました.トリアージのあとの章は普通に捻挫,骨折,野球肩といった身近に感じらることがメインになっていまして,それでも随所に「現場の医者」の言葉が散りばめられている内容に惚れ惚れしております.

トリアージの話に戻ると,私は命の選別という別称があることからも過酷な判断をしなければならない仕事なのかなあと思っていたのですが,この本を読ませてもらってからは「なんだ別に当たり前のことをしてるだけじゃん」と,考えを変更.「死んでるやつはほっとけ!」「その程度のケガで泣くな!」を遂行するだけなんだなと.選別基準も,当たり前ですけど “助かりそうな人を見捨てる…”,というようなお涙頂戴ではなく,そりゃあ手遅れだろう,という人にブラックラベル(死亡)を貼り付けるだけですから,私ならバンバン貼り付けまくります.

しかし,このトリアージですが,やりゃあいいってものでもないようで,秋葉原通り魔事件の時には,被害者17人全てを周辺の病院でまかないきれるにもかかわらず選別してしまい,もしかしたらもしかして助かる可能性があった人に黒ラベルを貼り付けていたのかもしれないそうです.まさに黒ラベルが秋葉原のメイドならぬ冥土への餞別 (選別) になったご様子.
トリアージの導入も気をつけないと難しそうです.

2009年1月8日木曜日

世論調査批評への反論


“数字はどこまで信用できるのか” というサブタイトルに世論調査を多角的な視点で捉え,その信頼性について語っているものだと それこそ “信用” して衝動買いしたのがこの本,吉田貴文 著『世論調査と政治』です.久しぶりの突っ込みどころ満載本です.こんな本があることを知ったというだけでも価値があったと思って気を鎮めています.
この「世論調査」や「国民意識調査」の不確実性は他の書籍でも取り上げられており,調査する上で注意しなければいけないポイントや,調査それ自体の裏を読むことの大切さが語られて久しいのです.今度はどんな視点から語られるのか興味があったのですが…,全然.著者が世論調査をする側の人間であることからも,調査する側の視点で書かれていることは貴重かもしれませんが,端的に言って,これまでに出た “世論調査断罪本” に対する言い訳や反論にならない反論,釈明に終始していました.
著者プロフィールを見て納得というか,あの朝日新聞の世論調査担当でした.“世論調査断罪本” では,やれ質問が恣意的だの,なんの目的でやったのか不明だのと目の敵にされている朝日ですから,少しくらいは反論しとかなきゃいけないと考えたのでしょうか?
得るものが全くなかったというわけではないし,突っ込みながらもそれなりに楽しく読ませてもらいました.著者が最後に言う「それでも世論調査は民主主義国家には必要だと思う」との考えは,なんだかんだで答えが見つからないもので,政治と世論調査の関係の複雑さを改めて感じさせてくれました.
支持率の変動を報じる報道を国民が知ることによって,その結果が “真の支持率” に影響している,という可能性は大ですが,ではどのような方法であれば政治に対する国民の声を調べることができるのかはとても難しい.自民党幹部の「我々は内閣支持率を気にしていない.人気度みたいなもので,その時々でコロコロ変わる.本当に気にしなければならないのは政党支持率」との考えには納得.政治に疎い人は,先のこと,複雑なことを考えずに雰囲気に流され付和雷同しますから.
世論に振り回され,本当の意味での善い政治ができないことはあってはならないですが,一方で世論を無視してでも行なう政治が果たして “本当に善い政治” であるのか,それを調べるのも世論調査ですから堂々巡り.
世論の支持をパワーにした悪政としてはヒトラー政権が有名ですが,世論を無視した悪政は星の数ほどあるわけで.「民主主義には世論調査が必要」あとはその方法や評価指標に工夫や磨きをかけなければいけないのでしょう.

2009年1月7日水曜日

デザインの勉強

おおよそデザインのセンスが無い私が,ひょんなことから某イベントのチラシ作りを依頼されまして,あぁでもない・こうでもないとパソコンを前に悩んでおります.

せっかく頼まれたんですから,適当じゃいかんと思ってこの際デザインの勉強をしてみることにしました.

さっそくAmazonで資料集めです.レタッチソフト(写真とかを加工するPCソフト)はGimpをつかっているので,そのテクニック集的なものと,デザインについて扱っている・語っている書籍を数冊用意しました.

やっぱり素人が思いつきで出来ることは知れていますから,なにかヒントになることはないかと必死に,それでいて途中からはザーッと流し読みしました.とりあえず年末までにデザイン案を何点か用意しました.その中から気に入ってくれたものが上がってきましたので,今後さらに詰めていくという運びになっています.

今回読ませてもらったなかでも,深澤直人 著『デザインの輪郭』は,一流工業デザイナーである著者のデザイン観を,抽象的ではありますが,ぼんやりと教えてもらった気がしまして,なかなか楽しめた本でした.

印象に残っているところとしては,デザインとは直接関係ないんですが,著者はタマゴの形が気に入っているらしく,デザインの上でも参考にしている様子.たしかに,タマゴの形はなんとも言えないパワーやオーラが発せられているようで,それでいてクールな形です.

それだけじゃなく,著者はゆでタマゴにもこだわりがあるようで,茹で過ぎて黄身に緑の部分ができないように,かつ半熟過ぎないように,なおかつタマゴの中心部に黄身が位置するように茹でることに喜びを見出しているのだとか.

気持ちは分かるんですが,そこまでせんでも.


かく言う私もゆでタマゴにハマッていまして,茹で過ぎて黄身に緑の部分ができないように,かつ半熟過ぎないように気をつけています.

別にこの本を読んでからというわけじゃなくて,一時期ゆでタマゴを大量に食べなくてはいけない期間がありまして,その時,知人の紹介で “レンジでチンするゆでタマゴ作り器” なるものを手に入れました.あまりにも簡単にゆでタマゴができてしまうので,それ以来,私のタンパク質摂取源はゆでタマゴです.

タマゴの大きさに留意し,レンジのタイマー設定に細心の注意を払っています.しかし,深澤氏のように “タマゴの中心に黄身が位置するように” まではできません(ゆでタマゴ器の特性上).

2009年1月6日火曜日

喫煙ルーム(黄柳野高校のこと)

実はこの高校の卒業生です. 卒業生としては母校がニュースになったわけですから,不祥事とは言えちょっとワクワクしたことは確かで,そして一連のニュースやそのご意見に対しても言いたい事はいろいろあるわけです.今日はそれをテーマにしたいと思います.

私としては,「ついにこの日が来たか…」というのが率直な感想でした.
『喫煙ルーム(禁煙指導室)』という名称の場所が設置されたのは2007年からだということですが,『タバコ部屋』という名称の寮生の部屋があったのは開校当時からです.いわゆる,“タバコを吸う生徒が入っている部屋”という意味です.
(補足: 本校の学生/寮生は4人1部屋の単位で生活している.部屋割りは入学時の合宿で気の合う(?)人を見つけ,その仲間で部屋を組む.よってタバコを吸う者同士の部屋が出来上がる事が多い.その部屋のことを学生の間では「タバコ部屋」と呼称する)

当時からそういう部屋があることをスタッフ(本校では先生・教職員をこう呼ぶ)の皆さんは把握していましたが,別に生徒がタバコを吸うこと自体を(あきらめたりして)認めているわけではありません.
でも喫煙は依存性があるものですから,「今日からタバコ吸っちゃだめだよ」「ハ〜イ.今日から僕達/私達はタバコを吸わない生活をしま〜す」なんてバカなことはないわけで,「タバコ部屋」なるものが実際存在するのは仕方ないわけです.
いつまでも隠し通せるものではなかったのですが(保護者や地域住民は承知の事実ですから),学校としてはなんとか喫煙をやめさせる方向に生徒を指導しており,さまざまな報道にあるような「喫煙をするために用意された部屋」というのはちょっとニュアンスが違います.

今回問題になったことは,“喫煙をする場所を高校が用意したこと” ということでしょうが,誤解を恐れずに言えば,それは一連の報道にあった “悪い” ことなのでしょうか?
確かに状況からすれば法律違反ですが,「喫煙をする学生がいる」という事実を認めた上で,そこからどのように学生生活/寮生活をするのかということを考えさせる場をつくったわけです.他には「火災」や「隠れて吸う」を防ぐためというのもありますし.
どのようにタバコをやめるのか,タバコ嫌いの生徒とどのようにつきあうのか,それを一緒に考えることを「教育」と位置づけている本校の姿勢は間違っていないと私は思います.

だいたいそんなに未成年の喫煙を “悪く” 言うなら最初から全面的にタバコ販売・喫煙自体を違反にすればよいのです.
タバコとどうつきあっていくのかを教育することがそんなに悪いでしょうか.
タバコの上手な吸い方を教育するわけではあるまいし,実際に喫煙している生徒を前にし,その教育のために「喫煙ルーム」が必要だったのであれば許されることではないでしょうか?

2008年12月8日付の毎日新聞に『喫煙室事件 社会の包容力も問われている』なる社説が載りました.さすが毎日新聞,自由奔放な発言ができる新聞社 と改めて感心しました.朝日は論外として,読売,産経にはできない離れ業です.

今回の件に厳しい意見を述べるコメンテーターがたくさんいました.「あきらめる前にカウンセリング,禁煙指導をすれば」という人もいましたが,そんなの10年以上前からずっとやってるっちゅうの.ちゃんと事実確認してコメントしてほしいものです.
中には「喫煙する生徒には厳しい対応を」とか息巻いてる人もいましたが,で,どんな “厳しい対応” をすればいいんでしょうか?
退学ですか?停学ですか?反省文ですか?鉄拳制裁ですか?
それで “その未成年の人” が喫煙をやめるんですか?それでタバコについて考えますか?

バカらしい.ドラマの観過ぎ,妄想が過ぎるというものです.
それ以前に生徒をあずかって「教育」をしているんだという責任を微塵も考えていないアホどもです.
もう一度言いますが,今,目の前に,喫煙する生徒が事実,存在しているのです.そのような「生徒」をどうするのか「教育」しなきゃならんのです.
「退学にすりゃあいい」とまで言った人もいました.で,退学した生徒はどうなるんですか?学校としては責任逃れできるでしょうが,それ教育ですか?

でも,TVや新聞で堂々と
「別に悪い事ではないでしょう.学校にも事情があったのでしょうから」
なんて勇気のいる発言はなかなかできないでしょうし,言ったらいろいろなところから批判のメッセージが届くんでしょうから,この人たちの立場も分からんではないです.
ただ,手に負えないなら,せめて黙っててほしいところでしたが….

派手に持論をに展開してきましたが,自らの意見に一点の曇りもないというわけではありません.
今回の件については,私が担当している高校の授業でも取り上げるつもりです.
3年生の体育の授業,しかも今年最後の授業なんですが,ネタもあんまりないし,適当な体育やるよりよっぽどいいでしょう.
生徒とのやり取りのなかで面白い意見とかコメントが出るのが楽しみですし,それを通して自分も勉強させてもらおうと思っています.


※この時期の私は言葉にトゲがありますね.
後日,この高校の寮で火災が発生しまして(2013年5月).そんなこともあって上記の内容の続きとして以下の記事を書きました.
無事であればいいのですが...
ご参照ください.

2009年1月5日月曜日

今日からブログ

これまで,ブログとかMixiとかそういう関連のものをやってみようとは思っていたのですが,なかなか続かず断念してきました.
理由は簡単で,めんどくさかったのです. たあいも無いこと書いて,どこの誰かも知らん者(あるいはチョイ知り合い)にコメントとか足跡つけてもらって,なんだか「つながってる…」って気持ちになる行為に満足が得られなかったのです.

でも今回,なぜか 「続けられる」 という根拠の無い確信に至ったので,手元でカチカチ操作してたらヒョッコリ出てきたGoogleのブログツールを利用して始めることにしました.

今回は続けられます.なぜ始めたかって?,理由は自分にも分かりませんが,とにかく何かを今さっき(20時ちょうどに)感じたので始めます.

こういうのたまにありませんか?
これはいける...!という確信.
それです.


記念すべき1本目のテーマは..., グーグルの検索機能についてです.
そうそう,このグーグル検索に関する本を読んでいたからGoogleのブログで始めようと思ったのです.

『グーグル最新検索術』アスキー・ドットPC編集部編(アスキー新書)を買って読んだのですが,知らない検索機能が目白押しでして,グーグルってこんな検索もできるんだなぁ,と感心しました.
でも別に知らなくてもいい機能がほとんどだし,webで検索しても出てきそうな内容・方法でした.

と,それじゃコレ買った意味がないじゃないかということになってしまうのですが,まあ,なんですか,損した気分じゃないですね.
結局何が言いたいのかというと,例えばコレに書いてあるようなことをwebで検索するとして,めんどくさいじゃないですか.
どこまでできてどこまでができないのか,いわゆる限界を調べるのってwebだけだと大変です.720円の価値はあったということです.
あったのかな?.
あったんでしょう.

「webで調べりゃタダでいいじゃん」というかつての己の意見から脱皮した日だったという日記なわけです.
質の高い(この場合,誤りが少ないという意)情報を多量にザッと目を通すことが重要だなと.
完璧に覚えてなくていいから,確かそんなことできたような...という記憶だけ脳内にタギングできればそれで良しと.
そういうことです.