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9月, 2019の投稿を表示しています

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大学生に自殺者が多いの知ってた?

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教育機関における学生の自殺問題 「いじめ問題」における子供の自殺や,教育機関に勤めている教職員が自殺する,というニュースが世間を騒がせます. その一方で, 自殺者数がとても多いのに無視されがちなのが「大学生」や「専門学校生」の自殺 です. 少し前に,このブログでも「大学生に自殺が多いから,そのうち新しい学校自殺ネタとしてニュースになるんじゃないか」ということを記事にしたところでした. ■ 大学教職員は要注意|そろそろ「大学生のいじめ自殺」が取り沙汰されます 何年か前から,「いじめ自殺問題」をブログ記事にする機会が増えたので,毎年,警察庁が出す「自殺者統計」に目を通すようにしています. 特に,教育関係の部分に注目しているところです. 先日までずっと「大学改革」の記事を書いてきたところですが,今すぐにでも改革すべきポイントとして,この, 「学生の自殺」 は結構重要だと思うんです. そして,先日から書いていた私が提案する大学改革案も,実のところこの「大学生の自殺」と少し関連するところがあります. 今回は,大学や専門学校に通う学生たちの自殺について考えてみます. 大学生と専門学校生の自殺 まず,以前の記事と同じものですが,2016年のグラフを以下に示します. 大学生の自殺者が明らかに多いことが分かります. 警察庁データ(2017年)より 年齢が高くなっているから当たり前だと考えてもいいのですが,そういう見解はちょっとドライ過ぎるでしょう. それに,日本の大学進学率は約55%ですし,専修学校等(いわゆる専門学校等)の生徒数はもともと少ないので,自殺率として捉えるとさらに高い数値なのです. ちなみに,今年発表された昨年(2018年)のデータでは, 大学生:324名 専修学校生等:104名 高校生:244名 中学生:97名 小学生:3名 となっています. これを警察庁の統計と比較しやすいよう,「10万人あたりの自殺者」で自殺率を出してみました. なお,自殺者が極めて少ない小学生は省いています. 大学生:11.2 専修学校生等:15.9 高校生:7.4 中学生:2.9 このように,大学生と専門学校生の自殺率が,中高生と比較してとても高いことが理解で

おい!ちょっと待て!こいつ,ただの痴漢だろ!

「歩きスマホを許せなかった」“体当たり”男を逮捕 前回記事を投稿して間もないのですが, あまりにも衝撃的な「ニュース反応」 だったので,思わず記事にしちゃいました. こんなニュースがあります. ■ 「歩きスマホを許せなかった」“体当たり”男を逮捕 (ヤフー・ニュース「テレビ朝日ニュース」2019.9.27) 記内良之容疑者(49)は6月、東京・千代田区の東京メトロ二重橋前駅のホームでスマートフォンを見ながら歩いていた会社員の女性(34)に体当たりして全治3週間の大けがをさせた疑いが持たれています。 なんだ,ただのキチガイか. こういう奴,都会にはたくさんいるよね. え? どうらや女性ばっかり狙ってた? そうか,こいつ痴漢なのか. ・・・と思っていたら,そのニュースに対するコメントに, 「体当たりはダメだが,気持ちは分かる」 「被害者の女性も悪い」 といったものがかなり並んでいます. バカ言っちゃいけない. 120%この男が悪いだろ. そもそも, 「歩きスマホを許せなかった」 だなんてウソでしょう. だって,女性ばっかり狙ってたんだから. この時点で言い訳として破綻しています. 歩きスマホをしている人は,男女問わずたくさんいます. 東京なら尚の事,至るところにいる. これに対し,そこら中の奴らに体当たりしているのであれば,人生をネタにしている気合いの入ったバカで済みますが,これだと単なるキチガイ. ニッチな趣味のある痴漢です. こんなもの, 「若者が夜中に怪しい街を歩いていることが許せなかったから,可愛い少女だけ選んでレイプしてやることで,その危険性を知らせてやった」 と言ってるのと本質的に変わりません. いやそれ,お前,ただの強姦魔だから,って突っ込むのが常識的な感覚のはずです. その理屈なら,可愛い少女だけでなくブスもレイプするべきだし,もっと言えば男女問わずレイプしたほうが良い. 可愛い少女だけ選んでいる時点で,「怪しい街をうろつく危険性」を知らせたかったわけではないことは明らかです. 冗談はさておき,若者が怪しい街をうろつくことについては,別途注意する方法がいろいろあるでしょう. それに,怪しい街をうろつくこと自体,どこまで蔑視されなければならな

新・大学改革論|地に足のついた,公平で合理的な,あまり嬉しくない改革

「ボクが考えた最強の大学」ではないですよ これまでの一連の記事から,最後に「新・大学改革論」のポイントを述べておきます. 私が過去記事で批判している,現行の大学改革に有りがちな近視眼的思考から発生した 「ボクが考えた最強の大学」 . ■ 新・大学改革論|大学改革が好きな人たち ■ 新・大学改革論|なぜ大学改革は間違うのか? これについて,前回・前々回では私なりの「改革案」を提示させて頂きましたが, 「それこそが,あなたにとっての「ボクが考えた最強の大学」ではないのか!」 「ミイラ取りがミイラになっているのでは?」 という指摘もあるかと思います. たしかにそういう側面もあるでしょう. 自覚もしています. しかし,過去記事で私が提案している大学改革案は,私が大学の在り方として最も望ましい状態だとは思っていません. 現在の日本社会,世界情勢,大学教育を取り巻く流れをみると,あのような改革しかできないのではないか. 現在の大学組織を可能な限り活かしつつ,ソフトランディングするにはどうすればいいか. 本当はもっと別の大学改革がいいのにな. と思いながら考えたものです. ゆえに,厳密な意味では「ボクが考えた最強の大学」ではありません,ということ. しかし,私が改革案として提示している, 「授業は不要」 「学生の面倒をみない」 「教員は学生の生活・仕事・趣味のパートナーになる」 「学費は高くても年間10万円程度」 「教職員の給料を大幅カット(研究費は増額)」 「卒業させない」 といったものは,まさにガチの「改革」ですし,考え方が突飛でついてこれない人もいるかもしれません. 改革案については,以下の記事に書いています. ■ 新・大学改革論|信頼性の高い学術コミュニティを用意する 私としては至って「地に足のついた」「公平」で「合理的」な改革だと思っていますが, そういった言葉自体,私はあまり好きではありません. ですが,これからの時代は,こういった言葉が幅を利かせるであろうことは容易に推定できますし,それに準じた改革が少なくとも向こう50年くらいは大事になると思っています. 教育には「費用対効果」が通用しないはずだが,費用対効果を考慮した改革は必要 何年も前

新・大学改革論|なぜ大学改革は間違うのか?

「間違う」というよりも,騙されてる 過去記事を読んでもらえれば分かる通り,大学改革にはそれを強烈に推進したがる大学内部の層がいます. 代表的なものとしては, ■ 新・大学改革論|大学改革が好きな人たち に書いたので,そちらをご覧ください. 90年代から始まったこの大学改革は,当初はほとんど動きがありませんでした. 入試とか科目などの一部の改革モドキだけで,世論と政治家,文部科学省が意図・期待した形にはならなかったのです. なぜかというと,まともな大学教員は「大学改革」なんぞに興味が無いからです. 改革しなくても「大学」として機能しているし,なんだかんだで頭の良い人達の集まりですから,意味不明な理屈で推し進められる答申に従うバカはいないから. ところが,中にはそれに感化されて従う人もいます. それまで大学内部で「虐げられている」と感じている人であれば,この機に旗揚げしようと目論む人も出てくるもの.. その一連の動きをまとめると, 「自分たちの活動がどのような価値を持っているか 具体的に 説明せよ」 というものでした. 大学改革とは,その説明方法の考案に奔走した日々だったのです. つまり, (1)研究費を争奪戦にすることによって,研究費を獲得できた人は,すなわち「研究できる人」であることの証明になる (2)教育重視・学生目線・高い就職率を謳うことで,学生と保護者に対する「費用対効果」の証明になる (3)大学運営(新規設置を含む)の自由度を上げることで,それによって生まれる差異は経営努力の裏返しという証明になる というものです. それぞれの改革をボンヤリと聞いていれば,なんだか効果的なような気がします. しかし,これら3つを同時に行うとどうなるでしょう? その結果が現在の大学という顛末なのですが,どうやらまだ大学改革は止まりそうにありません. 上記の3つについて,それぞれいずれか1つを強烈に支持する層がいることを, ■ 新・大学改革論|大学改革が好きな人たち で紹介しました. こんなメチャクチャな大学改革が,ボロボロになりながらもその歩みを止めないのは,上記3つのうちのいずれかが推進されることで,自分の地位が上がると勘違いしている層がいるからです. 大学現場をご存知ない

新・大学改革論|信頼性の高い学術コミュニティを用意する

これからの大学は,まるでSNSを利用するような存在になるという話 前回は,これからの大学は教員が「授業」とか「講義」をしなくなるだろう. そして,授業を中心とした教育から,実践研究とディスカッションを中心とした教育にシフトしていくという話でした. ■ 新・大学改革論|これからの時代に授業は不要 具体的な話にも及んでいますが,実際にその通りにすることが大事なわけではありません. 重要なのは, 「質の高い授業」「行列のできる授業」とやらが幻想であることを認め, 授業よりも対話と研究を中心とした教育が展開できるように改革する必要がある. という話なのです. もともと,心の奥底では,学生側も教員側も双方ともそれを希望しているはずです. そして,「最高の授業」「理想的な授業」というのも,実際のところ一人ひとり違います. こうした個人個人の想いや要求をなるべく聞き入れつつ,ほぼ全員にプラスの影響があるよう実現させることが,あるべき大学改革だと思います. 現在進んでいる大学改革は,誰かを貶めたり排除することで得をしたり,絢爛豪華な砂上の楼閣を「期限付き」で建築しているようなもの. とにかくしんどいし,虚しい. そこで今回は,現在の大学にある課題を整理して,その改革案をあげてみましょう. 【課題1】授業を受けるタイミングが悪い(レディネスが考慮されていない) つまらない授業に耐えられないと思っていたら,実は大事な内容が展開されていたことに後で気づく. しかし,それを知った時には「再履修」などできず,必修科目とかぶっていたら潜ることもできない. さらに,卒業後しばらく経ってから気づく場合もあるなど,とにかく授業を履修するタイミングに無駄が多い. 「教員に直接聞きに行けば良い」というのが正論なのだろうが,そのための心理的ハードルが高い. 小中高生もそうでしょうが,「教育あるある」ですよね. 特に大学では,18歳以上の大人を相手にするということもあって,かなり自由度の高い教育が展開されて然り. ところが,実際の大学ではそのようになっていません. むしろ,ここ最近の大学改革によって,学

新・大学改革論|これからの時代に授業は不要

不要になるための改革が必要 これまでの話を踏まえて,これからの大学像の話をします. これまでの話を踏まえないと突飛な話題に聞こえるかと思いますので,違和感のある人は過去記事をご覧ください. ■ 新・大学改革論|必要性に迫られているわけではなく,たんなる気分転換 ■ 新・大学改革論|大学改革が好きな人たち ■ 新・大学改革論|我田引水の改革案はやめよう あと,予め以下の話もおさえておいた方がいいでしょう. ■ 大学関係者が知っておくべき,2025年頃に受験者数が激減する未来予想図 「これからの大学」と言われても,いったいどの時代の話かと思われるでしょうが, 私が想定しているのは10〜15年後,だいたい2030年頃の話です. 2030年なのだから,来年とか2〜3年の話ではない,気にしなくていいと思われるかもしれません. そうではなくて,10年後に向けて今から準備しなければいけないということです. 10年って,あっという間です. 実際,現在の大学改革は1991年から始まって,既に30年間取り組んでいます. この30年間の大学改革を振り返れば,社会と時代に逆らった,いい加減で場当たり的な改革を漫然と進めると,取り返しのつかない被害が発生することは明らかです. まず結論から言います. 現在,世界中で「大学」と呼ばれている運営団体のその多くが,無料(格安)で誰でもアクセスできる学術的インフラになることは避けられないでしょう. 現在のような価格設定でやっていけるのはあとわずか. 近々,何かしらの学費対策は必須です. おそらく,そうした力学が,徐々に目立って働くようになるのが2030年頃からだと思います. 今回は,そのなかでも「授業」について取り上げます. この話をする上では,その前提となる重要な認識を解説しておかねばなりません. 大学の本質とは 大学は,モラトリアムの場でも,研究機関でも,職業斡旋場でもありません. 古今東西,大学が担ってきたのは,人が学術的な活動を展開する上でのハブ(HUB)の役割です. よく,「大学は研究機関か?,教育機関か?」と言われることがありますが,この疑問それ自体がおかしい. 答えは古より既に提示されています. 大学とは,「研究を通じて

新・大学改革論|我田引水の改革案はやめよう

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大学改革って,ようするに嫉妬心と優越感からくる我田引水でしょ? どのへんが我田引水なのかは,前回の記事にしています. ■ 新・大学改革論|大学改革が好きな人たち 農家の人はご存知かと思いますが,我田引水によって農業が発展することはありません. 我田引水とは,一般的に, 「自分にとって都合のいい言動をすること」 とされていますが, もっと重要な意味があります. 短期的に見れば自分の田畑に都合の良い治水をしたつもりであっても,中長期的に見ればその土地全体の田畑が枯れてしまう. それが我田引水の真の意味です. 段々畑(棚田)が代表的ですが,田んぼに入れる水は,その地域全体に関わるものです. どこか特定の田んぼだけに優先的に水を引くことなど,やってはいけません. なので,治水事業には高度な技術,そして経験と勘を必要とします. それに,山や田畑にはバランスのいい「流れ」というものがあって,それこそ「我田引水」してしまうと,その「流れ」を分断してしまいます. 結果として,その地域全体の耕作状況を悪くするのです. たぶん,土の栄養素の滲出とか,水質・水温だとかが微妙に影響しているんでしょう. これを防ぐためには合理的な発想だけではダメで,経験豊かなジジイの勘が結構当たったりするものです. 「あの部分の田んぼは毎年収穫が少ない.だからそこに水を引くのはやめよう.その代わりに俺のところにもっと水を引け」 「私のところの稲が最も売上が良い稲だ.だから私のところに優先的に水を引け」 などと,一見,合理的な理由で開拓してみたものの,実は, 「収穫の少ない田んぼにも水を引いていたから,そのおかげで他の部分が実っていた」 「他の部分を巡ってきた水だったから,その田んぼの稲が良く育っていた」 なんていう話は普通にあります. 大学改革論も同じです. 自分にとって都合のいい部分,すなわち,どこか特定の領域や部署だけ改革したつもりでも,その影響は全体に及び,巡り巡って返ってきます. 改革によって,大学全体にあった「流れ」が変わるのです. 大学改革によって大学教員や職員が苦しんでいるのは,元を辿れば,それぞれが自分にとって都合のいいアイデアを詰め込んだからに他なりません. 大学改革について,