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新・大学改革論|なぜ大学改革は間違うのか?
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「間違う」というよりも,騙されてる
過去記事を読んでもらえれば分かる通り,大学改革にはそれを強烈に推進したがる大学内部の層がいます.
代表的なものとしては,
■新・大学改革論|大学改革が好きな人たち
に書いたので,そちらをご覧ください.
90年代から始まったこの大学改革は,当初はほとんど動きがありませんでした.
入試とか科目などの一部の改革モドキだけで,世論と政治家,文部科学省が意図・期待した形にはならなかったのです.
なぜかというと,まともな大学教員は「大学改革」なんぞに興味が無いからです.
改革しなくても「大学」として機能しているし,なんだかんだで頭の良い人達の集まりですから,意味不明な理屈で推し進められる答申に従うバカはいないから.
ところが,中にはそれに感化されて従う人もいます.
それまで大学内部で「虐げられている」と感じている人であれば,この機に旗揚げしようと目論む人も出てくるもの..
その一連の動きをまとめると,
「自分たちの活動がどのような価値を持っているか具体的に説明せよ」
というものでした.
大学改革とは,その説明方法の考案に奔走した日々だったのです.
つまり,
(1)研究費を争奪戦にすることによって,研究費を獲得できた人は,すなわち「研究できる人」であることの証明になる
(2)教育重視・学生目線・高い就職率を謳うことで,学生と保護者に対する「費用対効果」の証明になる
(3)大学運営(新規設置を含む)の自由度を上げることで,それによって生まれる差異は経営努力の裏返しという証明になる
というものです.
それぞれの改革をボンヤリと聞いていれば,なんだか効果的なような気がします.
しかし,これら3つを同時に行うとどうなるでしょう?
その結果が現在の大学という顛末なのですが,どうやらまだ大学改革は止まりそうにありません.
上記の3つについて,それぞれいずれか1つを強烈に支持する層がいることを,
■新・大学改革論|大学改革が好きな人たち
で紹介しました.
こんなメチャクチャな大学改革が,ボロボロになりながらもその歩みを止めないのは,上記3つのうちのいずれかが推進されることで,自分の地位が上がると勘違いしている層がいるからです.
大学現場をご存知ない方のために,少し解説しておきます.
まず,(3)の「経営努力」が前提となっていると,大学経営にとって大きなコストである(1)に関する「研究費」や,(2)に関する「学術教育」は削りたくなるものです.
経営者にとって「研究費の争奪戦」というシステムは都合がいいのです.
競争的資金の獲得者を「勝者」として評価してあげればいいので,シンプルです.
これにより,全体の研究費を削減しつつ,客観的な教員評価をしているとアピールできます.
「学生目線の教育」も,経営者にとっては好都合です.
費用対効果が見えない授業やコンテンツを削れる口実になります.
ぶっちゃけて言えば,「就職」と大学の教育内容はほとんど関連ありません.
勉強に力を注げば注ぐほど,その学生は就職競争から遠のいてしまいますから.
研究重視と教育重視の対立は,実のところ,お互いの潰し合いにはなりません.
研究肌の教員は「研究改革」を喜び,教育肌の教員は「教育改革」を喜びます.
大学教育を「研究/教育」などと分けることなどできないのですが,多くの大学では教員の活動評価について,「研究部門」「教育部門」などと分けて評価します.
さらには,「大学運営部門」とか,「その他(広報,クラブ指導等)」という部門もあります.
お分かりですね.
大学改革というのは,「責任放棄」と「コストカット」を目指しています.
しかし,責任放棄を喜ぶ人はいないし,コストカットの理屈がトンデモであることは国際データを確認すれば分かることです.
こんなに丸出しな策略にまんまと騙されているのは,大学教員のなかにも一定数のバカがいるからで,そのバカの声がやたらとデカイのです.
百歩譲って,責任放棄とコストカットを目指した大学改革でもOKだと思います.
私が問題としているのは,責任放棄とコストカットを目指しているクセに,あたかも責任放棄などしておらず,コストをかけて高等教育を施しているように取り繕っていることです.
これは万死に値します.
将来性が明らかに予想できる事実を無視してしまう
間違った大学改革を進めるのは,将来性が明らかに予想できる事実を無視するからとも言えます.
前回の記事で詳しくお話したように,あるべき大学改革とは,「大学」が本来持っている最重要な機能を活かせるものにするべきです.
■新・大学改革論|信頼性の高い学術コミュニティを用意する
時代の移り変わりは,大学の形を変えることになるでしょう.
それを否定するほど私も保守的ではありません.
先程,責任放棄とコストカットでも良いと述べました.
実際,もはや大学が学生の将来に責任を持つ時代ではなくなると思っていますし,大幅なコストカット,または大規模予算投入しなければ大学はやっていけません.
現在の世論の流れから言って,大規模予算の投入は期待できませんね.
本当はそれが良いと個人的には思いますが.
ですから,私がこの「新・大学改革論」で提案しているのは,大学運営にかかるコストを極力小さくし,学生が主体性を持って利用しなければいけない社会インフラへの転換です.
明らかに予想できる将来を見越せば,その改革が妥当だからです.
(もちろん,他の選択肢もあるのですが,そちらを採用するためのハードルが高すぎます)
その明らかな将来とは,
(1)現在の高額の学費を支払える世帯が大幅に減る
(2)18歳以下人口は減り続ける
(3)高卒で就職を考える人が増える
(4)情報の発送信をサポートするウェブサービスやアプリが増える
(5)コミュニティの形成はネットが主体になる
詳しくはこちらの記事で解説しています.
で,これらに対抗するために,
(1)学費を払えるように所得を上げる
(2)子供をたくさん産む
(3)高卒では就職できない空気を作る
(4)ネット・コミュニティの危険性を啓蒙し,実体のあるコミュニティを尊ぶ
(5)ウェブサービスの可能性を閉ざす
といった策を考えてもいいのですが,ちょっと現実的ではないですし,何よりどれも既に遅きに失しています.
90年代〜2000年代にかけての大学改革では,
より良い教育コンテンツを提供した大学が生き残れる!
という自然淘汰の原理を謳いました.
しかも,その改革は,
「大学」「大卒」「大学教員」というステータス(ラベル)を保ったままで
というものでした.
結果,少子化が進むなかで生き残りに必死になる大学は,あの手この手を使って,結局その多くが生き残りました.
知り合いの先生たちとも話すのですが,
「なんだかんだで大学という組織は簡単には潰れないですよ」
ただし,
「潰れるまでのバッファが大きい組織である分,苦しむ時間も量も大きくなる」
ということです.
ここで注目されるのは,その「バッファ(余力)」となるものです.
これを食い潰している間は,まだ生きてられます.
犠牲になったのは「学術性」や「将来投資(余裕)」でした.
意固地に「大学」「大卒」「大学教員」というステータスは守ったのです.
これは,文部省の天下り官僚が「大学教員」というステータスが欲しかったから,そこだけは死守した,ということも影響しているのでしょうかね?
いずれにしても,大学が本来持っている機能を破壊したのです.
まともに大学教育をしたい者からすれば,バカみたいな話です.
皮肉なのは,こうした改革の先にあったのは,
「どうせ大学教員は高所得なのだから,給料分は働け」
という理屈が通ってしまうこと.
結果として,意味不明な会議や委員会活動に追い回され,窮屈な職務環境に悩まされる人が増えたことです.
どっかから天下ってきたジジイ教員が理事長に文句言ってるのは,たいていこれについてです.
この続きの記事はこちら.
■新・大学改革論|地に足のついた,公平で合理的な,あまり嬉しくない改革
大学改革の本
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