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新・大学改革論|我田引水の改革案はやめよう
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大学改革って,ようするに嫉妬心と優越感からくる我田引水でしょ?
どのへんが我田引水なのかは,前回の記事にしています.
■新・大学改革論|大学改革が好きな人たち
農家の人はご存知かと思いますが,我田引水によって農業が発展することはありません.
我田引水とは,一般的に,
「自分にとって都合のいい言動をすること」
とされていますが,もっと重要な意味があります.
短期的に見れば自分の田畑に都合の良い治水をしたつもりであっても,中長期的に見ればその土地全体の田畑が枯れてしまう.
それが我田引水の真の意味です.
段々畑(棚田)が代表的ですが,田んぼに入れる水は,その地域全体に関わるものです.
どこか特定の田んぼだけに優先的に水を引くことなど,やってはいけません.
なので,治水事業には高度な技術,そして経験と勘を必要とします.
それに,山や田畑にはバランスのいい「流れ」というものがあって,それこそ「我田引水」してしまうと,その「流れ」を分断してしまいます.
結果として,その地域全体の耕作状況を悪くするのです.
たぶん,土の栄養素の滲出とか,水質・水温だとかが微妙に影響しているんでしょう.
これを防ぐためには合理的な発想だけではダメで,経験豊かなジジイの勘が結構当たったりするものです.
「あの部分の田んぼは毎年収穫が少ない.だからそこに水を引くのはやめよう.その代わりに俺のところにもっと水を引け」
「私のところの稲が最も売上が良い稲だ.だから私のところに優先的に水を引け」
などと,一見,合理的な理由で開拓してみたものの,実は,
「収穫の少ない田んぼにも水を引いていたから,そのおかげで他の部分が実っていた」
「他の部分を巡ってきた水だったから,その田んぼの稲が良く育っていた」
なんていう話は普通にあります.
大学改革論も同じです.
自分にとって都合のいい部分,すなわち,どこか特定の領域や部署だけ改革したつもりでも,その影響は全体に及び,巡り巡って返ってきます.
改革によって,大学全体にあった「流れ」が変わるのです.
大学改革によって大学教員や職員が苦しんでいるのは,元を辿れば,それぞれが自分にとって都合のいいアイデアを詰め込んだからに他なりません.
大学改革について,
自分たちで自分たちの首を締めているようなもの
と評されることがあるのは,それを指しています.
入試を自由にして学生募集をがんばりたい.
研究活動を弱肉強食の実力主義にしたい.
教育や学生と向き合っている労力をもっと評価してほしい.
学術レベルではなく,企業からの評判がいい大学という分野を開拓したい.
そんな,
「自分が得意とする領域で,自分こそが輝く業界にしたい」
という想いによって,複雑カオスな改革を進めてきた結果,皆が皆して苦しんでいるのが現状なのです.
必要だった大学改革とは,旧来の田畑を捨てて大規模農場を作ることでした
我田引水がダメなら,我田引水しなくていい状態をつくればいい.
それが私の「大学改革」についての持論です.
私はなにも,
「旧来の田畑を守るべきだ.それが大事なんだ」
などと懐古主義,保守的なことを言いたくて大学改革に反対しているわけではないのです.
旧来の田畑は生産力に難があります.
治水管理も難しい.
だったら,大きな平野にきちんと区分けした大規模農場を作って,安定した耕作量を確保する方式に「改革」したほうが良いのです.
もちろん,
「そんなとってつけたような農地では『本当に美味しい作物』はできない」
という頑固オヤジの批判もあるでしょう.
しかし,それにいちいち耳をかしていたら,日本の大学改革など進みませんし,我田引水したがる害悪がはびこります.
つまり,我田引水できないように,すべての領域や思想を持っている人たちが,等しく活動できることを保証する大学制度にするべきだったのです.
どの道,「活動的なバカ」は,自分の都合を周囲に押し付けるもの.
それを察知して,最初から我田引水にならないように配慮すべきでした.
最初からでなくても構いません.
途中でそれに気がついたら,早めに舵切りをすればよかった.
今から20年前.
90年代末から2000年にかけてがチャンスだったと思います.
その頃すでに,大学では「全入時代が到来する」だとか,「18歳人口の減少」,「大学のユニバーサル化」が叫ばれていました.
まだ声は小さかったものの,統計的に考えれば,現在のような状況になることは分かりきっていたのです.
なのに,大学はなぜか,旧来の方式を保ったままで,
「実力主義」
「教育力」
「ビジネスライク」
の三本柱で2010年頃まで邁進したのです.
意味不明です.
「あとからなら何とでも言える」というレベルを超えています.
明らかな判断ミスです.
大学全入時代を目指すべき
「大学全入時代」だというなら,全入しても「大学教育として大事な部分」をちゃんと実現できる仕組みや制度を用意すべきです.
むしろ,「大学全入時代」を,まるで悪いことのように扱いました.
日本人の多くが大学教育を受けられるようになる.
それが何を意味するか議論すべきだったのに,しませんでした.
その代わりに,現在の大学は,
「大学で学習すれば,全ての学生が卒業認定が受けられるようにする」
ということを目指すものになってしまいました.
卒業できない学生が発生するのは,「教え方が悪い」,「学習環境が悪い」という理屈が成り立つようになったのです.
いえ,百歩譲ってそれでもいい.
であれば,大学の授業料は一定額にするよう義務付ける改革をすべきでした.
全ての大学の授業料を一緒にするという意味ではありません.
つまり,大学の授業料は何年間在籍していようと一定という意味です.
それにより,卒業認定のハードルを下げる力学は低下します.
これなら,授業料がもったいないとか,授業料を稼ぐために留年させているのでは? といった批判は出なくなります.
(当然,単位取得のための賄賂も出てくるでしょうけど,それは厳罰化で対応)
在籍年数が増えても授業料が取られないのですから,勉強熱心な学生は「わざと留年する」こともできます.
もっと言えば,大学は卒業したい時に卒業できるという改革でもよかった.
つまり,大学では授業を履修して学習するだけの場所で,「単位を取得する」「卒業認定を受ける」といった概念を外すのです.
今どきのアイドルだって,何かの認定を受けて「卒業」などしていません.
自分の都合で卒業するのです.
大学の卒業もそれでいいじゃないですか.
大学は,全額授業料や,必要受講数などをクリアした学生を「卒業」させなければいけません.
それに違和感があれば,単位制を称号制に変更するという改革も良いでしょう.
つまり,今で言う「授業で単位を取る」ことを,◯◯学という授業に合格したという「称号」にするのです.
授業料を全額払い,必要受講数を受講し終えれば,卒業は自由.
ただし,各授業の認定試験に合格できた人は,「◯◯学合格」という称号を手に入れることができるのです.
これであれば,卒業のために授業を「こなす」学生はいなくなります.
教員としても,無駄に授業の難易度を下げる必要がありません.
各教員が,自分の専門分野の真髄を心ゆくまで語ることができるのです.
なにより,授業の魅力とか評判を気にするような事態にはならずに済みます.
自分の領域に興味を持ってもらいたい教員,後進を育てたい教員は,放っといてもそういう授業を展開するものです.
しかし,そこに学術的妥協を促す力が働いては本末転倒ではありませんか.
学生にしても,難しすぎたり,つまらなければ,受講するのをやめるか,寝てればいい.
授業を受けて授業料を払えば,卒業はできるのだから.
もしかすると,こうした大学側の都合が影響して,「新卒一括採用」という風習も改革できる可能性もあります.
学生としては,卒業したい時に卒業するのです.
言い換えれば,就職したい時に就職するようになります.
大学のスケジュール上の都合は一切関係なくなりますし,そもそも「卒業」という縛りがなくなるのですから,大学に在籍しながら就職することも普通になるでしょう.
大学にとって経営難は致命的
上記のような改革をすると,
「そんな大学に授業料を払う奴がいるのか?」
と疑問に思う人もいるでしょう.
もともと,90年代から「18歳人口の減少」は確実視されていました.
大学の運営が困難になるのですから,当然の疑問です.
なので,授業料を徹底的に下げる改革をすべきでした.
これは大学の経営努力などでなんとかなるものではないのです.
そもそも,大学の存在意義からして,大学経営は営利目的ではありません.
過去記事でも述べたように,大学に限らず,「教員」の給料は低くていいと思います.
よく,
「給料が低いと優秀な教員が集まらなくなる」
と言われますが,あれは絶対間違いです.
そうではなくて,教員の自由度や,義務的で事務的な仕事量を減らすことが重要なのです.
実際,大学教員を自由にやらせてくれるというのであれば,年収300万円でもやりたい人はたくさんいるはずです.
もちろん,教育・研究費を年間1000万とか1億といったレベルで自由に使わせてくれることが条件ですが.
それで嫌がるのは,授業や研究以外の仕事もたくさんやらなければいけないからです.
年収は恐ろしく低くてもいい,けど,好きなようにできる職業だからやる.
という人種を集めることが大事なのです.
自分の懐に入れるお金や,ステータスが欲しくて大学教員になる人が減るだけでも,かなり画期的な改革になります.
少なくとも,
「無駄な会議に振り回されて,それでも研究を頑張っている俺を評価して欲しい.研究していない教員を罰して欲しい」
と言い出す教員を防げます.
そんなことしたら,給料が高い大学に優秀な教員が集まって,崩壊するのでは?
という心配は無用です.
現状,そんなことになっていません.
なんのことはない.
給料が高い大学は,研究費も高いんです.
だから,強いところがさらに強くなる傾向にあります.
大学改革は,ここにメスを入れるべきだったのです.
日本の大学経営において,最も予算を圧迫しているのは「人件費」だからです.
例えば,
「我々文部科学省の方針に従い,教員の給料を300万円にした大学には,教育補助員,研究補佐,事務作業員を大量に配置する予算と,莫大な研究費を差し上げます(っていうか,ぶっちゃけて言えば「潰れない大学」にします)」
などと指示すれば,手を挙げる大学はたくさんあったと思います.
それこそ国公立大学は,本来ならこういう改革が必要でした.
実際,18歳人口の減少により,正面切って学生募集することに疲れています.
そんな無駄な努力をするくらいなら,大学本来の仕事を気楽に出来たほうが嬉しいという人たちは多いのです.
一旦そういう流れができれば,
「給料低くても,教育・研究費が潤沢」
という文化と制度ができます.
人件費を抑えることで,学生が支払う授業料も減らすことができます.
ちなみに,この「人件費を抑えて学費を安くする」という方式は,イタリア系の大学と同じです.
日本の大学教員の給料は約1000万円ですが,イタリアは約500万円です.
人件費が半分で済んでいます.
だから,イタリアなどのヨーロッパの大学の学費は「無料」だったり,「年間20万円」くらいで済むのです.
この話の詳細は,過去記事をどうぞ.
■文科省は大学をイジメる前にやるべき事があるだろ|日本の大学の特徴を再確認しよう
上述してきたことは,あくまでも例です.
他にも具体策はあるでしょう.
しかし,方向性はこうあるべきだったと思います.
大学全入時代が到来し,経営難を迎えることが確実視されていたのであれば,
「どのような学生が入学してきても,無理なく負担なく大学教育を実現できる」
「我田引水の横行による自爆を防ぐ」
といった点を考慮すること.
これこそが本来の大学改革です.
次回は,もうちょっと前衛的な大学改革論に話を進めてみます.
すなわち,「これからの時代に,授業って必要?」という点です.
■新・大学改革論|これからの時代に授業は不要
最近は,大学改革を懐疑的に論じる書籍が増えています.
喜ばしいことです.
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