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反・大学改革論4(喜んでる教員)
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ラーメン,ラーメンと連呼していたので,今日は実際に近所のラーメン屋でラーメンを食べてきました.
そして,学問とは何かを知らない学生が社会に放出されます.
就職の世話をしてくれなかった,とかいうおバカさんな不満が,なんと正論になるのです.
卒論なんて適当過ぎですよ.なんせ「就職」には役立たないからね.
というか,本当に驚愕したのが,「研究はできないけど私は教育が・・・」って言ってる教員の学問レベルの低さです.
全部が全部とは言いませんが,
「 教育力 ≒ 研究力 」
だと思うんですよ,大学教員は.
私もまだまだ青臭い20代の教員ですから,誠に誠に,誠に僭越ながら,ですが.
いやー,もうちょっと,えぇー,その,んー,なんとかならんのですかね.
ままっ,ねぇ,学生を就職させてあげてるんで,それはそれで,えぇ,いいんでしょうけどね,うん,いいんでしょうか?
ビックリします.絶句です.このままではゼック・ジャパンです.
幸い,その店にマンゴープリンはありませんでしたよ.
ここは学生街なので,その店は学生が常連のようです.
いいですね,さっきまで鼻クソほじりながらラーメン食べてたところからの変わり様.
その浅はかさが微笑ましい.
隣の席にいた男子学生はというと,ラーメンつつきながらのマックス・ウェーバー 著『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』.
えらく真剣にページをめくってんだけど.
ちゃんと読めてんのか,君.
でも,
こういうのが学生ですよね.
うちの大学の学生にこういうのはおらんなぁ.残念.
さて,大学改革論に反対する見解をずっと述べてきたわけですが,私も別に大学を改善していくこと自体は大事だと考えているわけで.
問題は,その改善・改革によってもたらされる様々な影響をしっかりと考慮した上で取り組まなければならない,という点が,あまりにも蔑ろになっているのではないかというところを憂慮しているのです.
先般の記事に書きましたように,大学改革の方向が,
学生(保護者・企業)をお客様扱いして市場原理に曝せば,大学の “悪い部分” は淘汰されるだろう,という極めて安直な思想のもと行なわれてしまうと,実は “悪い部分” だけじゃなくて,“大学全体” が機能不全に陥る状況になってしまった.
それが現在進行形の大学改革なのです.
そもそも大学改革というのは,国民(学生・保護者・企業)の要望に応えたものでした.
これに対し,大学はあまりにも無警戒だったと思います.
そして,この大学改革を最も喜んだのは,「研究ができない教員」です.
「別に研究ができなくても,教育ができるんならいいじゃないか」
という意見があって然りですが,事はそんなに単純ではありません.
という意見があって然りですが,事はそんなに単純ではありません.
現在進行している大学改革には,巧妙に「研究よりも教育が大事」というコードが埋め込まれています.
故に,各大学は「教育力」を追うようになります.
しかし,この「教育力」というものが具体的に何なのかを示すことはできません.
つまり,大学が学生を教育したことで何に影響があるのか?が分からないのです.
というか,そもそもそんなもの「分からない」と正直に答えて済ませばいいのですが,“改革” の結果を示さなければならない大学は,何か具体的なものを打ち出さなければなりません.
そこで,大学はその教育による成果として見なせるであろう「就職率」というデータをつくりました.
こうして,大学教育というのは「就職率」を上げるためにあるのだ,就職できる学生を育てることが大学の使命なのだ,という,一見もっともらしい目標を得ます.
ところが,この「就職率」を高めるためには,高度な研究能力や学問,専門知識は必要ありません.
毎年,「企業が学生に求める能力第1位」でバカの一つ覚えのように出ている,
「コミュニケーション能力」
が必要とされます.
そして,この「コミュニケーション能力」ですが,大学や大学教員が教育できるもんじゃないんですよね.
ちょっと考えりゃ分かることですけど,結構な人々がスルーしてることでもあります.
ゆえに,教育力を掲げておきながら,実は大学の正規のカリキュラムとして教育することがない,できないのです.
すなわち,「研究できなくても教育が・・・」の論理が成り立たないわけです.
学生の「コミュニケーション能力」を高めるために最も貢献しているのはアルバイトやボランティアでしょうし,そういったことを斡旋するキャリア支援のイベントとかでしょうか.
学生の「コミュニケーション能力」を高めるために最も貢献しているのはアルバイトやボランティアでしょうし,そういったことを斡旋するキャリア支援のイベントとかでしょうか.
まぁ,それもどれだけ効果があるか不明ですが.
もともとコミュニケーション能力が高い学生が,世間の風潮に合わせて立ち回ってる,ってのが実際のところだと思うんですよ.
ということで,研究ができない教員が喜ぶ理由がわかりましたでしょうか.
そうです.
研究ができなくても(しなくても),私には教育力があるんだ,ってことにしやすい構図なのです.
研究も教育にも注力しなくとも,少し大学改革にのっかってる態度をとっておけば,学内評価は安泰になるのです.
教育らしいこと何一つしてないのに,です.
だって,やってることは就活セミナーみたいなもんですよ.
それを教育だと言われたら,そんなん誰だって(誇張ではない)できる仕事です.
研究も教育にも注力しなくとも,少し大学改革にのっかってる態度をとっておけば,学内評価は安泰になるのです.
そして,学問とは何かを知らない学生が社会に放出されます.
就職の世話をしてくれなかった,とかいうおバカさんな不満が,なんと正論になるのです.
卒論なんて適当過ぎですよ.なんせ「就職」には役立たないからね.
というか,本当に驚愕したのが,「研究はできないけど私は教育が・・・」って言ってる教員の学問レベルの低さです.
全部が全部とは言いませんが,
「 教育力 ≒ 研究力 」
だと思うんですよ,大学教員は.
私もまだまだ青臭い20代の教員ですから,誠に誠に,誠に僭越ながら,ですが.
いやー,もうちょっと,えぇー,その,んー,なんとかならんのですかね.
ままっ,ねぇ,学生を就職させてあげてるんで,それはそれで,えぇ,いいんでしょうけどね,うん,いいんでしょうか?
ビックリします.絶句です.このままではゼック・ジャパンです.
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