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井戸端スポーツ会議 part 16「体育の授業で得てほしいこと(特に大学で)」

「体育」という授業が小中高の「学校」だけでなく「大学」にも存在する意義とは何か.
これについて数あるうちの一つを今回は記事にしてみたいと思います.

以前,
井戸端スポーツ会議 part 14「スポーツと資本論」
でも少し紹介したものではありますが,あらためて書いてみます.

体育が目指しているところ,文科省が出している学習指導要領ではどのようになっているでしょうか.まずは学校教育におけるそれを確認してみましょう.
以下のリンク先に,小中高の学習指導要領における体育の目標が示されてあります.
小学校学習指導要領
中学校学習指導要領
高等学校学習指導要領

確認するのが面倒な人のために,それぞれの学習指導要領の言わんとするところをまとめますと,
生涯にわたって運動に親しむ資質や能力,態度を育てる.
ということのようです.

つまり,運動やスポーツは「良いもの」だから,それを生涯にわたって親しんでもらいたい.故に体育を学んでもらっているのだ,ということです.

ではなぜ運動やスポーツが「良いもの」なのか?
一般的には,心身の健康の維持増進に効果的であることが科学的にも実証されているから,という理由がつきそうです.
学校教育における最終段階である高校体育の学習指導要領の「目標」には,
心と体を一体としてとらえ、健康・安全や運動についての理解と運動の合理的な実践を通して、生涯にわたって計画的に運動に親しむ資質や能力を育てるとともに、健康の保持増進のための実践力の育成と体力の向上を図り、明るく豊かで活力ある生活を営む態度を育てる。
とありますから,健康が大きなキーワードになっていることが窺えます.

たしかに健康も大事なことの一つではあるのですが,ここでは特にスポーツが持っている人間社会を安定化させる機能に着目し,それを教育できる機会としての「体育」を論じてみたいのです.

結論を先に言えば,
スポーツを健全に楽しむ資質や能力,態度を教育することは,その教育を受けた集団(国民)の社会を安定させることにつながる
ということです.
言い換えるなら,スポーツは心身だけでなく,社会をも健康にすることができるということです.

ややもすれば体育・スポーツ嫌いが多い(?)インテリ層からすると生理的に受け付けない主張かもしれません.
しかし,体育の存在意義はまさにこの点にあり,体育を通じてスポーツの思想や哲学を健全に継承することが求められます.

体育やスポーツを通じた教育がなぜ社会の安定につながるのか? 
それを考えるためには,まずスポーツについて知っておくことが必要です.

過去記事でも繰り返していることですが,この話をする上では重要な事ですので簡単に触れておきます.
「スポーツ」というものを一言で説明すれば,
「なにかしらのルールを作って相手よりもスコアを稼ごうとする競争であり,できれば自分と相手のベースラインは同レベルであるほうが好ましい」
という考え方とそれに基づく活動です.

ですから,皆さんもよく知っている野球やサッカーという,いかにもスポーツらしい活動以外にも,将棋やトランプゲームといったものも「スポーツ」として分類されることがあります.
いかにもスポーツらしいスポーツというのは,「スポーツ」と呼ばれるものの中でも「近代スポーツ」という範疇のものです.スポーツの範囲は思った以上に広いのです.

さらに言うなら,このスポーツはなにも「スポーツ」と指し示される活動だけでなく,人間が生み出している文化や営みの多くに当てはまるものだと言えます.
極論じみたことを言えば,「人間というのは常にスポーツをしたい生き物であり,なにかにつけてスポーツ的に活動しようとするところに,他の生物との相違点がある」と考えられるのです.
※その詳細は■人間はスポーツする存在であるを読んでください.

特にこと「近代」においては,上述した「できれば自分と相手のベースラインは同レベルであるほうが好ましい」という思想が強く,これに基づいた法律やその解釈,論評がなされることが多くなりました.
その代表的なものが「もともと人間は平等なものでありたい」という思想です.
これは別角度から見ると,平等な状態から競争をスタートし,その結果として現れた差が,その人が持っていた本当の能力なのだ.ということで納得しようとする思想です.

と同時に,これがスポーツと呼ばれる活動の面白さであり,人々を魅了するスポーツの思想だと思われます.

平等な状態からスタートして現れた差なのだから,その差には価値があるように思えます.その差の価値を持ち上げて徹底しようとするのが「近代スポーツ」でしょうし,その近代スポーツの在り方を社会においても実現しようと構えたのが「近代」であり「現代」と言えるのかもしれません.

このようにして現れた「差」に価値があるという思想が強まると,上に居る者はずっと上にいたいと思うようになります.
生物である以上,自分の優位性を保ちたいと考えるのは本能的なものかもしれません.

こうした生物としての本能に従った状態が続くのが,いわゆる格差です.政治経済的には貧富の格差,格差社会などと呼ばれるでしょう.

こうした「格差」や,「埋めようのない溝」を前にした時,体育・スポーツ教育が重要な意味を持つようになってくるのです.

スポーツの魅力は何かというと,その一つに「勝つか負けるか分からないスリル感」があります.
勝ち負けに限らず,結果が見えている競争は面白くありません.結果が見えていない競争を楽しもうとするところにスポーツの面白さがあるわけです.
前述したことを含めて言えば,人間が平等な状態から競争をしたがるのは,その結果として現れてくるであろう「差」が不確定になるからこそです.
その競争を始めた時には分からなかった差が徐々に現れてくるところに,その人の本当の能力,努力度,才能,運命といったものを見ることができます.

ところが,それこそ体育の授業で経験したこともあるでしょうが,例えばサッカーなどで一応は平等にチーム分けをしても,何度も試合をしてみると圧倒的に勝つチームとどんなに頑張っても負け続けるチームというものが出てきます.
つまり,平等な状態で始めたゲームであっても,そのうちチーム間に「格差」が出てくるわけです.

その差を埋めようと頑張ることを教えるのも,体育の存在意義の一つではあると思います.
これは体育の授業というよりも,スポーツ系のクラブ活動を頑張ってきた学生の社会的評判が高いところから窺えます.
そんなわけで,「スポーツは忍耐力や礼儀,友情とチームワーク,努力することの大切さを子供が学ぶ絶好の機会だ」と評されることは今やステレオタイプになっているでしょう.

しかし,スポーツを通じた教育である体育において “最終的に” 教えるべき目標とは「勝者としての態度」ではないかと思うのです.

「Good loser(良き敗者)を学ぶのがスポーツ教育」と評されることもあります.負けたからと言ってふてくされたり,負けた原因はナニナニだったと言い訳をせず,素直に勝者を称える敗者であることが重要なのだと.

それもそうなのですが,やはり皆が目指している勝者という存在の影響力は大きいはずです.勝者の態度はスポーツにおいて重要な意味を持っているのではないかと考えることは当然ではないでしょうか.
勝者は勝てて嬉しいでしょうし,勝ち続ければその選手やチームの優越感は満足のいくものとなります.
それは自身の能力であり,努力であり,才能なのだということを証明する過程なのであり,自覚させてもらえるものだからです.

だからこそ,ここでスポーツとしての魅力に戻ってもらいたいのです.
もしこの勝者が圧倒的であれば,勝つか負けるか分からないというスリル感はありません.結果が分かっている競争をしていることになります.
しかし,結果が分かっている競争にスポーツとしての魅力はありません.もっと言えば,そこに居る者にとってそれはスポーツではないのです.ひたすら勝者と敗者を機械的に作り出す作業です.

こんなにつまらないものはない,そう思うでしょう.
そこにおいて勝者はスコア(得点)を稼ぐだけの存在になっています.スポーツをするところに人間の本質が隠れているのであれば,スポーツをしていない人間はもはや人間ではない.つまり,ワンサイドゲームを続ける者は人間ではない.そうも言えます.

そんな時,勝者が「人間」であったならどうするか.
勝者はスポーツできる状態を作り出すのです.それは何を意味するか,もうお分かりかと思います.
自分たちが負けるかもしれない状態を意図的に作り出すことです.それが勝者のやるべきことなのです.
ハンディキャップやルール変更,チームメンバー交換といったことをやって,再度,平等な状態からスタートする競争を始めることが,勝者としての振る舞いです.
自分が最も得をする状態ではなく,場や状況全体が “スポーツになる状態” を欲するのが,そのスポーツにおいて勝者となった者がとるべき態度なのです.

敗者が平等を訴えることは美しくありません.たんなる妬みと思われるのがオチです.
だからこそ,敗者にはGood loserとしての態度が求められるのであり,それ故に勝者には勝者ならではの振る舞いが必要になります.

敗者をいつまでも敗者とさせておかない.敗者にも勝者となる可能性を持たせることが,時の勝者に求められる振る舞いです.
それが社会を安定させることにつながるのです.
これを強者からの施しと呼んだり福祉・弱者救済と呼んだりするかもしれませんが,これらの意義や意味は,スポーツによって説明できるかもしれません.

逆に言えば,勝者としての地位に安住すること.つまり,ワンサイドゲームを続けることは勝者が取るべき振る舞いではないのです.
しかし考えてもみてください.ワンサイドゲームほど安全で合理的な状況はありません.生物としての本能に従ったなら,あらゆることをワンサイドゲームにすることが求められます.
ですが,我々はそうしない.ワンサイドゲームを楽しむ者を我々人間は忌み嫌うのです.下品で下劣なものと見做します.
それはやはり,人間がスポーツをするところをその存在の本質としているからとも考えれます.

スポーツを通じた教育や体育は,学校教育ではもちろんのこと,(建前上は)エリートを育てている大学においても重要なのです.
むしろ,社会においてエリート(強者)という立場になりやすい者を教育する大学だからこそ体育は重要であると言ってもいいでしょう.

ところが,近代におけるスポーツは勝敗やスコア稼ぎの厳密性を徹底するようになりました.
人は皆,生まれながらにして平等な立場からスタートしていて,その結果,そこに差が出たのはその人の実力や努力の結果を示すものだ,と考える人が圧倒的に増えたのです.

しかし,その人の境遇はその人の実力や努力だけで形作られているわけではなく,さまざまな偶然が複雑に折り重なって出来たものであると考えることもできるでしょう.
つまり,スポーツにおける勝者にしても,自分が勝ったのはもしかするとたんなる偶然が重なったからに過ぎないのではないか.そうであれば,勝ったことを「自分の力だ」などと公言することは憚られることであるし,敗者へ配慮する心も芽生えてくるものです.

それよりなにより,人間は常にスポーツする存在なのですから,自分自身がスポーツできる状況を創ることこそが,人間らしさを維持できることなのだと直感的に分かるはずなのです.
敗者に塩を送り,周囲の者の能力を高めることで,自分が勝ちづらくなる.しかしそれは同時に,自分がさらに面白いスポーツができるようになることも意味するのです.
それこそが人間としての生き甲斐や幸せにつながるのではないか.そう考えることができる人を育てる上で,スポーツを通した教育は格好の教材です.

勝者が敗者にどのように対応するのか,その態度を身につけさせることが「体育」に課せられている使命ではないかと思うのです.
その場にいる者全員がゲームを楽しむには,個々がどのように振る舞えば良いのか,それを学ぶことは,社会を安定させるコツを学ぶことと同義ではないでしょうか.

それだけにこの社会を見回してみますと,こうした体育・スポーツの教育的意義が軽んじられているのではないだろうか.そして,ノイズの少ない勝利を目指そうとする近現代スポーツの魔性に取り憑かれているのが,この近現代社会ではないかと危惧するところです.


※別の角度から論じた,
井戸端スポーツ会議 part 14「スポーツと資本論」
も読んでみてください.