2015年1月12日月曜日

井戸端スポーツ会議 part 14「スポーツと資本論」

先日,大学院の後輩である一人と池袋で蕎麦を啜りながら昨今の政治経済について議論しておりましたら,
「資本主義を否定するんですか?◯◯さんは共産主義者ですか!?」
と言われました.
いえ.私は共産党員でもないし共産主義者ではありません.
例えばニコニコ動画の「志位和夫チャンネル」を,再生数が全く伸びない頃(今もだけど)から見てあげている一人ではありますし,共産党員やその支持者に知り合いが多いんですが,私は支持しておりません.

でも,どうやら私の話や主張は共産主義に聞こえるようです.
どんな内容なのかというと,
1)競争社会は大事だが行き過ぎると弊害があるため,競争状態にしたらそれでOKとはならない
2)社会が安定するには,貧富の格差が広がらない方が良い
3)一旦強者と弱者の関係(格差)が出来ると,これを自然に挽回することは非常に困難であるため,そのギャップを緩やかにする意図的なコントロールが必要
というものです.
資本主義を否定していないし共産主義でもありません.極めて常識的な発想に基づく政策を我が国も素直にやった方がいいのではないかと申したわけです.

で,その時に同時に話したのが,このブログでも度々お話ししている
人間はスポーツする存在である
というもの.
人間が行なっている多くの文化・営みは,実は「遊び」によって発展したものであり,そして近代社会は「遊び」を通り過ごして「スポーツ化」が過ぎているのではないか?というものです.

今回は,その蕎麦屋では頭が回らず話せなかったことをここに記します.
あと,この話は「体育」という教科が存在する理由の一つでもあると思いますので,そういう視点でも読んでもらえると幸いです.

まず,スポーツとは一言で言えば,
「なにかしらのルールを作って相手よりもスコアを稼ごうとする競争であり,できれば自分と相手のベースラインは同レベルであるほうが好ましい」
という考え方とそれに基づく活動です.
この要素を徹底的に濃縮させたものが,皆さんがよく知る野球やサッカーといった「近代スポーツ」であり,より広くみれば囲碁将棋やトランプもそうだと言われています.
他にも,例えばフェアプレー精神やスポーツマンシップという美徳は,この考え方から生まれたものです.

でも,この点取り合戦はなにも「近代スポーツ」だけに見られるものではなく,我々現代人の多くの活動領域に刷り込まれている考え方であるとも言えます.
特に近代の政治経済活動やそれを取り巻く法整備などは,まさにこのスポーツ的なものを浴びていると見做せるのではないでしょうか.
つまりここから,
近代社会と近代スポーツは相互関係にある.乃至,近代とは「近代スポーツ」の在り方を社会においても実現しようとするものである.
と考えられます.

ベースラインを同じにして,フェアなルールでスコア(お金)を稼ぐ.しかもそれを競争という形で行う.これはまさにスポーツなのですから,それに取り組むことは非常に面白い活動なわけです.
まして強者には大量スコア獲得者,ランキング上位者としての称号がもらえるわけですので,優越感にひたれるわけですね.

ですが,この「政治経済」という名の近代スポーツは,普通のスポーツと同様に一旦強者と弱者が生まれ,その差がある程度開くと強者の一方的なゲームになってしまいます.
これを挽回することは極めて難しいですよね.クラブ活動や体育の授業で誰しもが経験することだと思います.

これを挽回するにはどうすればいいか?
その方略やアイデア,忍耐力を養うところにスポーツ教育や体育の存在意義はあるでしょうし,スポーツ活動に積極的だった学生や,体育・スポーツ系の学部学科を卒業した学生の評判が良いのは,こうした背景もあるのだと思います.

ただ,それ以上に体育の存在意義,そしてスポーツの思想が重要なのは,「勝者が敗者をどう扱うのか?」であり,そこにこそ体育で教えるべき肝があるのです.

より具体的に言えば,あまりにも勝者と敗者で戦力差がついてしまう状態が続いたとき,特に勝者がこの状態をどのように捉えるのか?ということです.
もともとベースラインは一緒なんだし,練習での努力の違いが出たんじゃないのか.フェアなルールで俺達は戦っているんだから,今度もまた同じように戦って勝たせてもらうよ」
と考える人もいるかもしれません.
それに,上記のような物言いはスポーツの場だけでなく,政治経済においても類似したものが聞かれることがあります.

でも,これは本当に面白いスポーツでしょうか?それで皆が楽しめているでしょうか?と考えられることが,スポーツの場において,そして社会を形成する上で重要だと思うのです.

強者も弱者も楽しめるにはどうすればいいか?野球を例にしてみましょう.
弱者があまりにも打てないのであれば,ピッチャーというポジションを排してトスバッティングのようなものにしても良いかもしれません.それだと強者がホームランを連発できてしまうのであれば,外野フェンスを越えるものは全てファールという扱いにしても良いかもしれない.弱者もそのプライドが納得できるのであれば,予めハンディキャップのようなルールを施したり,いっそメンバーを交換するのもありでしょう.
つまり,強者と弱者のギャップを小さくして,ワンサイドゲームにならないように,且つ,野球としての面白さは残したままで真剣勝負できる「ゲーム」へと調整すること.それこそがスポーツ本来の楽しみ方であり,スポーツを通した教育で学ぶべき事なのです.

これは決して「弱者救済」という単純なものではありません.スポーツの底流には「いかにして相手よりもスコアを稼ぐか」という野心めいたものがあります.
まあ,たしかに弱者救済と言えなくもないですけど,それでも真剣勝負することに違いはないですし,それを「面白い」と感じ,楽しめるところに「人間らしさ」があるのです.
ワンサイドゲームを楽しいと思う勝者に「徳」や「品格」は感じませんし,讃えられるべき人間ではないことは納得してもらえることと思います.

ところが「近代スポーツ」はと言うと,ルールの統一がその存在意義の一つになっているほどにフェアで厳密な勝敗を求めます.ゆえに近代スポーツ的な思想からすれば,どんなにワンサイドゲームになろうと,そのルール下での勝敗が全てを物語る,ということになるわけですが・・・.

私が言いたいのは,「近代スポーツになり過ぎた近代社会」に,あらためてスポーツ本来の楽しみ方を取り戻そう,ということです.
参加している者や見ている者が,等しく競争の楽しみを享受できて勝敗に一喜一憂できる状態を作り出すこと,それこそがスポーツを知ることであり,体育という教科で生徒に伝えるべきスポーツの思想です.

これは政治経済にも同じことが言えるのです.
競争をすれば,当たり前ですが勝者と敗者が生まれます.それが抜きつ抜かれつのチェイスを演じていられるような関係であれば良いのですが,ある程度差がついてくるとそのルール下では差は埋まらなくなります.

この時,強者が弱者にどのような態度をとるのか?という点で,その社会(国民)のスポーツマンシップ(下町風に言えば「男気」)が問われると言えるでしょう.
「俺は勝ち組なんだ.この地位は絶対に譲らないぞ」
という人々が多ければ,その国の社会は完全に「近代スポーツ化した社会」と言えます.

そうした国では,極一部のトップアスリート(富裕層)と,その他大勢(貧困層)によって構成されるものと思います.
トップアスリートに勝てるその他大勢なんて極々々々...一部であり,「俺が弱いのは事実だし,そりゃそうだけどさぁ,・・・なんか面白くないよなぁ」という不満が積もっていく社会になります.

これまでのスポーツ教育では,「いかにして弱者が強者を倒すか」という着想で取り組まれてきたかと思いますし,そうした物語が好まれたと言えます.
それを否定する気はさらさらありません.ですが,「いかにして強者が弱者と共に楽しむか」という着想からのスポーツ教育,こと体育が望まれているのが現代なのではないかと思うのです.

弱者は決して強者になりたいわけではないのかもしれない.
弱者であっても,強者と共に戦える喜びを感じたい.
そうしたところに本当の意味で強者を称える心が生まれ,多くの人々が楽しみを分かち合える安定した社会があるのではないでしょうか.


「スポーツビジネスの理想郷」とされた某国の経済状態はこちら↓


近代スポーツ的(スコア獲得主義,ランキング主義)な経済を進めた先にあるものはこちら↓



井戸端スポーツ会議
■ 井戸端スポーツ会議 part 1「プロ野球16球団構想から」
■ 井戸端スポーツ会議 part 2「スポーツ庁の必要性」
■ 井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」
■ 井戸端スポーツ会議 part 4「自転車は車道を走らないほうが安全だろう」
井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」
井戸端スポーツ会議 part 6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」
井戸端スポーツ会議 part 7「ジュニア世代の育成」
井戸端スポーツ会議 part 8「スポーツ観戦のような政治観戦」
井戸端スポーツ会議 part 9「スポーツ分析のような選挙分析」
井戸端スポーツ会議 part 10「スポーツをすると勉強ができるようになる」
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は身体を通して理解する」
井戸端スポーツ会議 part 12「なぜ障害者スポーツへの関心が低いのか」
井戸端スポーツ会議 part 13「私が嫌いなら見なければいい」