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井戸端スポーツ会議 part 12「なぜ障害者スポーツへの関心が低いのか」

パラリンピックや障害者スポーツへの関心が低い理由


なぜ障害者スポーツへの関心が低いのでしょうか?
この問いに対し,今回も「人間は『身体』を通して理解する」という観点から考えてみたいと思います.

過去記事は,■井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」です.

「日本人は障害者スポーツへの関心が低い」
などと自虐的に言われることもありますが,実のところ諸外国においてもこれは変わりありません.


以前,NHKの調査で以下のようなものがありました.
太字のとこだけ読んでもらうだけでもOKかと思います.
『日本での障害者スポーツの関心の低さ明らかに』2014年11月25日 NHK
日本で障害者スポーツを観戦したことがある人は海外に比べて少なく、6年後の東京パラリンピックを観戦したいと考えている人もオリンピックの半分にとどまることが「日本財団」の調査で分かりました。
公益財団法人「日本財団」は、ことし9月から先月にかけて日本をはじめドイツやアメリカなど6か国で、障害者スポーツへの関心についてインターネットを通じてアンケート調査を行い、4200人余りから回答がありました。
このうち、6年後の東京パラリンピックを会場で観戦したいか日本で尋ねたところ、観戦したいと答えた人は15.4%で、30.2%が観戦したいと答えたオリンピックのおよそ半分にとどまりました。
また、これまでに障害者スポーツを観戦したことがあるか尋ねたところ、ドイツは18.9%、アメリカは17.9%、オーストラリアは13.9%、韓国は12.6%、フランスは10.8%と、海外の5か国ではいずれも10%を超えたのに対し、日本は4.7%と最も低く、関心の低さが浮き彫りになりました。
いやチョット待ってくれ,と言いたいところです.

(調査方法の妥当性はさておき)まず,これで明らかになったのは
「障害者スポーツへの関心の低さは世界共通である」
ということでしょう.

「障害者スポーツ」という大枠でみても,諸外国の8〜9割の人が障害者スポーツを見ていないわけです.

障害者スポーツへの取り組みが活発な国々ですらこの状態です(ちなみに日本は極めて活発な国の側にあります).
他の国での関心も図り知れるものですね.


障害者スポーツの “世界的な” 関心の低さを示すものとして典型なのが,障害者スポーツのオリンピックである「パラリンピック」への関心度です.

最近では,冬季パラリンピック・ソチ大会がありましたが,やはりオリンピックと比べて格段の差があります.
現地を見てきた人の話では,そりゃもう閑散とした会場だったようです.


ところで,日本の障害者スポーツは非常に進んでおり,世界的にも恵まれた環境にあるのが現状です.

障害者スポーツを取り巻く予算元やシステムは複雑なので,各国の「障害者スポーツの優遇度」を国際比較することは難しいのですが,私もかつて障害者スポーツの場に身を置いていた者として,そして,現在その身を置いている方々から聞くところからすれば,日本は非常に恵まれているというのが実感です.

(それは国際大会やパラリンピックでの日本選手勢の活躍にも現れています.やっぱり支援金が物を言うのがスポーツの成績だったりしますんで・・)


それでもなお日の目を見ることの少ない障害者スポーツに対し,その普及と発展を目指す方々は「支援体制」ではなく,「周囲の関心」を今後の課題として扱いだしたのが実情ではないでしょうか.

私はこの点について,「なぜ障害者スポーツへの関心は低いのだろうか?」という疑問から先に考えてみようということです.
それを先に考えてみることで,障害者スポーツのより良い普及と発展が望めるのではないか,そう思うからです.


長々と綴るのもなんですから,先に結論からいきましょう.

障害者スポーツへの関心が低い理由,それは,
健常者の多くが障害者スポーツに「身体性」を見出すことが困難だからです
人間は身体を通して理解する,というお話を以前の記事で,そしてロボットアニメ(ガンダム)を使って前回まで説明してきたところですが,それは障害者スポーツにも同じことが言えるのではないか?ということなのです.

つまり,SF作品のマシンですら人型で表現したくなるほどなんですから,身体を用いた表現・競技,すなわち「スポーツ」においては尚の事,多数派である「普通の身体」に魅力を感じ,関心は向くだろう.そういうことです.

健常者と障害者の比率から言えば,圧倒的に健常者の方が多いのは自明のことと思います.
故に,「人間は身体を通して理解する」という観点からすれば,「多くの人が関心を持つ(持てる)モノ」というのは,いわゆる障害の無い「平均的な人体」ということになるわけです.

脚が無い,目が見えない,耳が聞こえない,そうした身体性を理解しようと務めることはできますが,やはり「(障害者を含め)そうでない人」にはそれをダイレクトにその身を通して理解することはできません.

健常者が障害者スポーツを見ても,せいぜいが,
「障害を持っているのに頑張っている」
とか,
「◯◯に障害があるのに,よくあんな動きができるなぁ」
と関心(感心)の気持ちを抱くことくらいではないでしょうか.

私はここに,障害者スポーツがエンターテイメント性(強い魅力的な関心)を見出すことができない絶対的境界線があるのではないかと考えています.


つまり,
「障害者スポーツをエンターテイメント性の強い観戦スポーツとして発展させることは不可能だし,目指すべき方向ではない可能性が高い」
というのが私の結論めいたものになります.


こんなこと言うと,正義感がやや強めのトチ狂った人が,

「それは差別だ!障害者のスポーツも多くの国民から等しく関心を寄せられるべきなんだ!」

などと詰め寄ってくるかもしれません.

しかし,冷静に読んでくれた人なら分かってくれるかと思いますが,私はそういう健常者上位な差別的主張をしたいわけでも,障害者スポーツに未来が無いなどと言いたいわけでもありません.


私はエンターテイメント色が強い観戦・商業スポーツにやや否定的でもありますし・・・,
だからということでもないのですが,障害者スポーツは「周囲からの関心」とは別のところにエネルギーを向けるべきではないかと考えています.

それは,スポーツの本質に立ち戻ることです.
健常者であろうと,障害者であろうと,スポーツすることの本質においては変わりません.
過去記事にも書きましたが,■人間はスポーツする存在であるからです.


そう考えながら障害者スポーツの未来を展望してみれば,障害者スポーツが目指すべきところというのは,
「障害者スポーツ」と呼ばれるものが無い時代を目指す
ことではないか.そして,
「障害者」と呼ばれる者がいない時代を目指す
ことにあるのではないか,
そう思うのです.


難しい話になっていくので,今回はここまで.

その他,この記事に関係する過去記事を並べてみました.


障害者スポーツの将来については以下の記事.
障害者スポーツを考える

スポーツをすることの本質については以下の記事.
井戸端スポーツ会議 part 6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」

なぜ健常者は障害者スポーツを理解できないのか?の基本的な部分は以下の記事.
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」

人体(人の形)を通さなければ人間は理解できない,という点は以下のマニアックな記事.
人間は身体を通して理解する「ファーストガンダム編」
人間は身体を通して理解する「Zガンダム編」
人間は身体を通して理解する「ガンダムW編」