注目の投稿
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」
- リンクを取得
- ×
- メール
- 他のアプリ
「大学に『体育』の授業があるのはなぜか?」
という話が出ることがあるんですけど・・,
大学に限らず,そもそも学校教育に『体育』がなぜ存在するのか?存在する価値はあるのか?という点を考えない教育者はけっこう多いものです.
そんな話を直接的に愚痴っても,ブログを読んでくださっている皆さんは面白くないと思いますので,別の観点から話をしてみます.
人間は身体を媒介して物事を認識する
という,ちょっと仰々しいお話です.
難しそうなことに思えますが,逆に言えば「人間は自分の身体を通したものしか認識できない」ということです.
でも実はこれ,デカルトが思惟の末に見つけ出した,あの「我思う.故に我あり」(心身二元論)に対する反論でもあり,けっこう重要な人間論でもあります.
と同時に,スポーツ科学や体育学を考える上でも重要なテーマでもあるのです.
ここらへんのことについては,アントニオ・ダマシオ 著『デカルトの誤り』が詳しいので,そちらをどうぞ.
一方の心身二元論の立場をSFタッチで考えてもらうには,士郎正宗 作『攻殻機動隊』とか,そのアニメ映画である押井守 監督『攻殻機動隊』を見てもらえればと思います.あと,ハリウッド映画の『マトリックス』も,そういうことを下敷き的なテーマとして描かれています.
「我思う.故に我あり」ではなく,「我がある.故に我思う」というところでしょうか.そしてその「我」の存在は「身体」を抜きに「我」とはならない.
どこまでも心と身体は分離不可能なものと考えられるのです.
ダマシオ氏が述べるところの,人間は「思う」に先立って,まずは「見る」「聞く」「触る」「味わう」といった『身体の感覚』があり,それに対して人間は「思っている」のです.
さらに言うと,この『身体の感覚』というのは,自分の身体ならではの感覚として認識されているのですから,『自分の身体ならではの感覚』として形成されていきます.
例えば,「私の足に何かが触れた」とすれば,それは私の「足」という空間的位置と形状のものに「何か」が触れたことを意味します.
つまり,私が「足に何かが触れた」と感じることというのは,私という身体固有の感覚として何かを感じている,ということを意味するわけです.
もっと言うと,人間の心とは,このような人間の形をしたものに宿っていると言えなくもない.そういうことです.
私たちは,このような(自分の)身体があるから自分として成り立っていられるわけで,この身体から離れてしまうと,もはやそこでは,今,私が私として認識している私(人間)はなくなってしまうということでしょうね.
このようにして考えていきますと,人間が物事を理解するプロセスについてもう一つのテーマが浮かんできます.
それはつまり,
人間は身体というモノを依代として物事を理解しようとする
ということです.
ハリウッド映画によくある,
「あれだけ銃弾をバラ撒いて,ドッカンドッカン爆破しまくっていたのに,結局最後は肉弾戦で決着がつく」
というアクション映画の鉄板的な流れは,人間が身体を通して物事を理解しようとするところを,エンターテイメントとして掬いあげているからではないかと考えられます.
つまり,「悪党をぶっ潰すカタルシス」を味わうためには,心理・精神的なものを描写するよりも,身体的な理解を促す描写を採る方が大衆娯楽作品としてはヒットしやすいわけです.
より典型的なのがSFロボットアニメなどでしょう.
むしろ,SF作品においては身体,もとい「人型」のモノが,作品のメッセージを増幅させるための「依代」として描かれています.
古くは『フランケンシュタイン』の「怪物」や「『われはロボット』の「ロボット」,日本では『鉄腕アトム』や『機動戦士ガンダム』のような作品です.
こうした作品では,人型のロボットが登場人(?)物や主役のように描かれていますが,そもそも彼らはなぜ「人型」として描かれるに至ったのか.というところが興味深いところなのです.
これにはさまざまな要因が複合的に折り重なっているのでしょうが,その一つに上述した
「人間は身体というモノを依代として物事を理解しようとする」
があるのではないでしょうか.
こういうことです.
「人間は身体を媒介して物事を認識している」とすれば,人間は「人型」のモノを通すことで,そこで起こっていることを理解しやすくなる.
これはつまり「人型」の登場人物や象徴をある種の「依代」とすることで,そこに作者が作品で訴えたいことがより伝わりやすいのです.これを逆に言えば,作者が訴えたいことを伝えるための手段として「人型」のモノを象徴としたくなる.ということです.
例えば機動戦士ガンダムなんかを,各シリーズの最後のシーンだけでもいいので視聴してみてください.
そのほとんどが,ロボット同士の戦いなのに肉弾戦で決着をつけようとしています.
作者のメッセージがどのようなものかは様々でしょうが,人型のモノによるぶつかり合いは作者の意図が表現しやすいという点はあるはずです.
難しそうなことを考えてきましたが,「体育」という教育が存在する価値の一つに,上述してきたようなことがエッセンスのように混ざっている可能性があります.
「身体を通した教育」という,分かりそうで分からない,場合によってはスポ根・スパルタ教育じみた話に受け取られかねないものですが,「身体を通した教育」すなわち「体育」の意義とは,そこにこそあるような気がするのです.
人間とはなんだろうか?
それを問い学ぶ.分からせないにしても埋め込ませる機能が体育教育にあるのではないかと思います.
「人間は身体を通して理解する」について,ガンダムで考えてみました
■人間は身体を通して理解する「ファーストガンダム編」
■人間は身体を通して理解する「Zガンダム編」
■人間は身体を通して理解する「ガンダムW編」
障害者スポーツについても考えてみました
■井戸端スポーツ会議 part 12「なぜ障害者スポーツへの関心が低いのか」
という話が出ることがあるんですけど・・,
大学に限らず,そもそも学校教育に『体育』がなぜ存在するのか?存在する価値はあるのか?という点を考えない教育者はけっこう多いものです.
そんな話を直接的に愚痴っても,ブログを読んでくださっている皆さんは面白くないと思いますので,別の観点から話をしてみます.
人間は身体を媒介して物事を認識する
という,ちょっと仰々しいお話です.
難しそうなことに思えますが,逆に言えば「人間は自分の身体を通したものしか認識できない」ということです.
でも実はこれ,デカルトが思惟の末に見つけ出した,あの「我思う.故に我あり」(心身二元論)に対する反論でもあり,けっこう重要な人間論でもあります.
と同時に,スポーツ科学や体育学を考える上でも重要なテーマでもあるのです.
ここらへんのことについては,アントニオ・ダマシオ 著『デカルトの誤り』が詳しいので,そちらをどうぞ.
一方の心身二元論の立場をSFタッチで考えてもらうには,士郎正宗 作『攻殻機動隊』とか,そのアニメ映画である押井守 監督『攻殻機動隊』を見てもらえればと思います.あと,ハリウッド映画の『マトリックス』も,そういうことを下敷き的なテーマとして描かれています.
「我思う.故に我あり」ではなく,「我がある.故に我思う」というところでしょうか.そしてその「我」の存在は「身体」を抜きに「我」とはならない.
どこまでも心と身体は分離不可能なものと考えられるのです.
ダマシオ氏が述べるところの,人間は「思う」に先立って,まずは「見る」「聞く」「触る」「味わう」といった『身体の感覚』があり,それに対して人間は「思っている」のです.
さらに言うと,この『身体の感覚』というのは,自分の身体ならではの感覚として認識されているのですから,『自分の身体ならではの感覚』として形成されていきます.
例えば,「私の足に何かが触れた」とすれば,それは私の「足」という空間的位置と形状のものに「何か」が触れたことを意味します.
つまり,私が「足に何かが触れた」と感じることというのは,私という身体固有の感覚として何かを感じている,ということを意味するわけです.
もっと言うと,人間の心とは,このような人間の形をしたものに宿っていると言えなくもない.そういうことです.
私たちは,このような(自分の)身体があるから自分として成り立っていられるわけで,この身体から離れてしまうと,もはやそこでは,今,私が私として認識している私(人間)はなくなってしまうということでしょうね.
このようにして考えていきますと,人間が物事を理解するプロセスについてもう一つのテーマが浮かんできます.
それはつまり,
人間は身体というモノを依代として物事を理解しようとする
ということです.
ハリウッド映画によくある,
「あれだけ銃弾をバラ撒いて,ドッカンドッカン爆破しまくっていたのに,結局最後は肉弾戦で決着がつく」
というアクション映画の鉄板的な流れは,人間が身体を通して物事を理解しようとするところを,エンターテイメントとして掬いあげているからではないかと考えられます.
つまり,「悪党をぶっ潰すカタルシス」を味わうためには,心理・精神的なものを描写するよりも,身体的な理解を促す描写を採る方が大衆娯楽作品としてはヒットしやすいわけです.
より典型的なのがSFロボットアニメなどでしょう.
むしろ,SF作品においては身体,もとい「人型」のモノが,作品のメッセージを増幅させるための「依代」として描かれています.
古くは『フランケンシュタイン』の「怪物」や「『われはロボット』の「ロボット」,日本では『鉄腕アトム』や『機動戦士ガンダム』のような作品です.
こうした作品では,人型のロボットが登場人(?)物や主役のように描かれていますが,そもそも彼らはなぜ「人型」として描かれるに至ったのか.というところが興味深いところなのです.
これにはさまざまな要因が複合的に折り重なっているのでしょうが,その一つに上述した
「人間は身体というモノを依代として物事を理解しようとする」
があるのではないでしょうか.
こういうことです.
「人間は身体を媒介して物事を認識している」とすれば,人間は「人型」のモノを通すことで,そこで起こっていることを理解しやすくなる.
これはつまり「人型」の登場人物や象徴をある種の「依代」とすることで,そこに作者が作品で訴えたいことがより伝わりやすいのです.これを逆に言えば,作者が訴えたいことを伝えるための手段として「人型」のモノを象徴としたくなる.ということです.
例えば機動戦士ガンダムなんかを,各シリーズの最後のシーンだけでもいいので視聴してみてください.
そのほとんどが,ロボット同士の戦いなのに肉弾戦で決着をつけようとしています.
作者のメッセージがどのようなものかは様々でしょうが,人型のモノによるぶつかり合いは作者の意図が表現しやすいという点はあるはずです.
難しそうなことを考えてきましたが,「体育」という教育が存在する価値の一つに,上述してきたようなことがエッセンスのように混ざっている可能性があります.
「身体を通した教育」という,分かりそうで分からない,場合によってはスポ根・スパルタ教育じみた話に受け取られかねないものですが,「身体を通した教育」すなわち「体育」の意義とは,そこにこそあるような気がするのです.
人間とはなんだろうか?
それを問い学ぶ.分からせないにしても埋め込ませる機能が体育教育にあるのではないかと思います.
「人間は身体を通して理解する」について,ガンダムで考えてみました
■人間は身体を通して理解する「ファーストガンダム編」
■人間は身体を通して理解する「Zガンダム編」
■人間は身体を通して理解する「ガンダムW編」
障害者スポーツについても考えてみました
■井戸端スポーツ会議 part 12「なぜ障害者スポーツへの関心が低いのか」
- リンクを取得
- ×
- メール
- 他のアプリ