2014年12月16日火曜日

人間は『身体』を通して理解する「Zガンダム編」

前回の,
人間は『身体』を通して理解する「ファーストガンダム編」
の続きです.
これについてより基本的なことについては,
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」
を御覧ください.

今回は前回記事である「ファーストガンダム編」の続きとして,ガンダムシリーズとしての続編でもある「Zガンダム」を引き合いにしてみましょう.

今回の話では,前々回の井戸端スポーツ会議の方で取り上げた,
人間は「思う」に先立って,まずは「見る」「聞く」「触る」「味わう」といった『身体の感覚』があり,それに対して人間は「思っている」
つまり,
「我思う.故に我あり」という,デカルトが提唱したあの有名な命題では不十分であり,「我がある.故に我思う」というのが,人間を理解するためにはより適切であろう
ということを思い出して貰う必要があります.

このことについて,今回も機動戦士ガンダムシリーズ,その二作目である「Zガンダム」のストーリーにおける最終話から解釈してみよう,ということです.

ネタバレにもなりますが,Zガンダムの最終話を思い出してみて(視聴してみて)ください.
主人公であるカミーユ・ビダンは,宿敵パプテマス・シロッコが駆るロボット兵器「ジ・オ」との決戦において,自身の駆る「人型ロボット」の「Zガンダム」ではなく,その変型形態である飛行機型での突進攻撃をしています.
それによってジ・オとシロッコを倒して決着が着くわけですが,ここにおいてSFロボット作品として違和感があるのは,
ロボット作品,それも人型ロボットのエンターテイメント作品なのに,なぜ最後のシーンが人型ロボットによる華々しい大立ち回りではなく,飛行機形態による突進なのか?
というところではないでしょうか.

SFロボット作品において人型のロボットが登場する理由の1つが,「人間は人型のものを通すことで作品の解釈がしやすくなる.作者の意図が伝わりやすくなる」ということだったと思いますが,これに照らしてみると『Zガンダム』のラストシーンはどう解釈できるのでしょうか?

実は,『Zガンダム』のラストシーンこそが「人間は身体を通して理解する」ということを,逆説的に示している例の1つであると私はみています.上記の『身体の感覚』というところにつなげて考えることができるのです.

前々回の繰り返しになりますが,その点についてもう一度おさらいしておきます.

「私」の存在は「身体」を抜きに「私」とはならず,どこまでも心と身体は分離不可能なものと考えられます.
自分の身体があるから自分として成り立っていられるわけで,この身体から離れてしまうと,もはやそこでは,今,私が私として認識している私(人間)はなくなってしまうということでした.

すなわち,「私」という存在は,私という身体固有の感覚として存在しているということを意味するわけでして.つまり,人間の心とはこのような「人の形」をしたものに宿っていると言えなくもない.さらに言うなら,この私の身体だからこそ私が存在してていると捉えることもできるということです.

その上で,機動戦士Zガンダムの話に戻りましょう.
カミーユとシロッコの決戦の最終局面でどのようなやり取りが成されていたか.それはこのようなものでした.
カミーユ「俺の体をみんなに貸すぞ!」
・・中略・・
シロッコ「Zが・・,どうしたんだ.私の知らない兵器が内蔵されているのか?」
カミーユ「分かるまい.戦争を遊びにしているシロッコには,この俺の体を通して出る力が」
シロッコ「体を通して出る力・・.そんなものがモビルスーツを倒せるものか!」
取り巻き「カミーユは,その力を表現してくれるマシーンに乗っている」「Zガンダムにね」
ということで飛行機形態で突進するわけですが.
カミーユが突進するにあたって,過去に戦死した人々が幽霊のように取り巻くシーンが象徴的に描かれます.その彼女ら/彼らの思念をまとめ,それをシロッコにぶつけようというものです.
だからこそ「俺の体をみんなに貸すぞ」なのでしょうが,つまりこの時,複数の人々の思念の「依代」としてZガンダムは機能し,そしてZガンダムはその思念の集合体として突進しているのです.

そもそも,特に機動戦士ガンダムのような作品においては,ロボット兵器・モビルスーツというのは,パイロットの意志や想いを表現する「依代」として描かれていると考えることができます.
この場合,パイロット一人の「意志」であれば.人型で表現するほうが適切です.モビルスーツの一挙手一投足というのは,パイロットである人物の意志を表現しているものだからです.

ところが,『Zガンダム』におけるラストシーンでは,Zガンダムは主人公カミーユだけの意志を表現する存在ではありません.過去に戦死した人々の思念が合成された状態が作り出されているわけです.
その時カミーユは,「分かるまい.戦争を遊びにしているシロッコには,この俺の体を通して出る力が」と言っていますが,その「力」というのはカミーユ一人のものではないのです.

とするならば,その時のカミーユは,カミーユであってカミーユではない存在なのです
つまり,それまでのカミーユを表現していた「人型のZガンダム」では表現しきれない存在に,その時のカミーユはなっている,と考えることができます.

カミーユであってカミーユではない者がパイロットとして搭乗している.だからあの時,Zガンダムは「カミーユを表現する人型のZガンダム」ではなく,思念の集合体である飛行機形態にならざるを得なかった(飛行機形態として表現せざるを得なかった),ということなのです.

様々な人の思念を合成した時,それはパーソナルな形,「人の形」ではなくなってしまう.ということを暗示するものとして『Zガンダム』のラストシーンは興味深いものなのです.

参考記事
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」

ガンダムWでも考えてみました
ガンダムW編

ファーストガンダムでも考えています
ファーストガンダム編