2009年1月11日日曜日

障害者スポーツを考える

もしマンモスが復活して動物園にいたら観にいきますか?

実際,氷漬けのマンモスから精子を取り出し,現存するゾウのメスの卵子と交配させ,そこから産まれたハーフのメスの卵子からクウォーターを産ませ・・・,と続けていけば,完全なマンモスは無理にしてもマンモスに極めて近い種ができるのです.

それが動物園にいるのです.観に行きませんか?パンダやライオン,普通のゾウを遥かに凌ぐ人気が出ると思っているのですが,今日それを同僚と話していたらあまり芳しくない意見を頂きました.絶滅している種を蘇らせることに違和感がある様子.
その後もこのような話をしていたら,議論はヒートアップ.深い哲学的な生物・生命科学の話に発展していき,以下のような話題になっていきました.

義手・義足の方が生身の手足よりも性能が良くなったら(近い将来必ずそうなるでしょう),障害者スポーツの方がダイナミックでエキサイティングなプレーができるようになります.
別に今の障害者スポーツがエキサイティングではないと言っているわけではないのですが,障害者スポーツの人気がどうしても健常者スポーツの人気を超えられないのは,なんだかんだで “健常者が発揮するプレー” の魅力を超えられないからです.
自ら課したルールの中で運動能力の優劣を決するという模擬決闘としての色を呈するスポーツの魅力は,健常な身体と知能を持つパーフェクトなヒト(Homo sapiens)から繰り出されるプレー,動作,テクニックに対し,人(Human)が無意識にエンターテイメント性を見出していることだと思います.それは(障害者には失礼ですが)“欠けている”身体から生み出されるプレーが超えられない壁だとも思うのです.

しかし,その壁を超える能力を人工的に手に入れられる時代が来たとしたらどうでしょう.「義手・義足」から発せられるプレーと「生身の身体」から発せられるプレーはやはり違うという価値観はそこにあるのでしょうか?

※)もし “ある” とすれば,私はそのような時代になっても “障害者を「障害者」として見る価値観それ自体は変わっていない” のだなと、むしろ残念に思うのですが,今回の話とはちょっとズレますので別の機会に.

「義手・義足」といっても,科学・工学が発展した先の未来の義手義足です.今,私達がイメージするような義手義足ではないのかもしれません.限りなく “本物” に近い見た目と質感かもしれません.ちょうど士郎正宗 作『Ghost in the shell』のような.その作品と同じように、健常な人でも生身を捨て,義手義足に取替える時代が来ないとは言えません.そして障害者スポーツには現在のモータースポーツのように義手義足のスペックを制限するなど,規格化が導入されることになるでしょう.

その時,人のスポーツに関する価値観がガラリと変わるのではないでしょうか.私は,「スポーツ」という営みこそ人類らしさ証明の一つであると思っています.それは,言うなれば必然的に生まれる “サイボーグ” の存在によって大きく変わります.

義手義足だけではありません.ドーピングにしてもそうです.ドーピングが禁止されている理由として,「フェアプレーに反する」ことはもちろんのこと,「使用した者の健康を害する」「社会悪になる(選手のマネをして薬物乱用が広まるなど)」ということが挙げられます.
「フェアプレーに反する」ということについては素直に納得できるのですが,他の2つについては将来的にはクリアできてしまう可能性があります.お金はかかるがパフォーマンスを向上させ,それでいて健康を害さず,むしろ使うことを社会的に容認するような物質.そんなものが出来てしまった時代に,その物質の使用を「フェアプレーに反する」と考える価値観があるのでしょうか.

そうした時,体育・スポーツ学という分野の哲学や身体観に,大きなパラダイムシフトを起こすことになるのではないでしょうか.