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井戸端スポーツ会議 part6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」
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哲学で考える:スポーツ,ニーチェ,ドラゴンボール
過去記事でもちょっとだけ触れていたことを少し詳しく云々してみたいと思います.
過去記事の内容がなければチンプンカンプンの記事になりますので,端折って説明しておきます.
ヨハン・ホイジンガが「ホモ・ルーデンス」で述べた,
「人間は遊ぶことで文化を発展させてきた.文化が発展していく原動力は「遊び」である」
という議論について,「スポーツ」の要素を抽出して話をしてみると,
「人間はスポーツすることでも文化を発展させてきた.そして近年はこの「文化のスポーツ化」が,良くも悪くも「文化を遊ぶ」こと以上に強まっている」
という議論ができるのではないか.
で,この「文化のスポーツ化」の喫緊の例としてグローバリゼーションがあり,
そもそもスポーツという活動の本質に「グローバリズム」がある
という話が,
そもそもスポーツという活動の本質に「グローバリズム」がある
という話が,
です.こちらもどうぞ.
ここで気になるであろう「遊びとスポーツの違い」ですが,実は専門家の方々の中でも猛烈に難しいテーマでして.
ではこのブログ,つまり私はどのように捉えているかというと,両者を厳密に区別しているわけでも区別できるものでもなく,
「スポーツ」は「遊び」という営みを構成する仕組みの一つ
と考えています.
「スポーツ」は「遊び」という営みを構成する仕組みの一つ
と考えています.
過去記事においても,スポーツとは
「なにかしらのルールを作って,そのルールのなかでスコア(順位・得点)を獲得する」
活動であると書きました.
「なにかしらのルールを作って,そのルールのなかでスコア(順位・得点)を獲得する」
活動であると書きました.
これはつまり,
スポーツとは遊びの中でもこうした「なにかしらのルールを作って,そのルールのなかでスコア(順位・得点)を獲得する」という要素を抽出した活動
だと捉えられるわけです.
スポーツとは遊びの中でもこうした「なにかしらのルールを作って,そのルールのなかでスコア(順位・得点)を獲得する」という要素を抽出した活動
だと捉えられるわけです.
故にスポーツは,
「遊びでやってんじゃないんだよ!」
言いつつ,冷静にそれを眺めてみたら極めて「遊び」にしか見えないという矛盾を抱えた営みになっています.
「遊びでやってんじゃないんだよ!」
言いつつ,冷静にそれを眺めてみたら極めて「遊び」にしか見えないという矛盾を抱えた営みになっています.
長い前置きでしたが,ここから記事タイトルの話に入ります.
スポーツはニーチェの「超人思想」がシンプルに現れたもの
「遊びでやってんじゃないんだよ!」
と言いつつ遊びにしか見えないもので,
ただひたすら強くなろう,
相手(過去の自分)より上を目指そう,
技や身体を究極まで高めようという活動.
それがスポーツです.
と言いつつ遊びにしか見えないもので,
ただひたすら強くなろう,
相手(過去の自分)より上を目指そう,
技や身体を究極まで高めようという活動.
それがスポーツです.
遊びでやってないはずなのに,
「お金のため」
「有名になりたいから」
「権力が欲しいから」
といった発言は厳に慎まれます.
スポーツはお金や名声のためにやっているものではないことが求められるからです.
たしかに,現実問題としてお金や名声を得ている場合もありますが,これはメジャースポーツやビジネスとして成り立つスポーツ競技においてのみ言えることです.
多くの場合,自分の生活や経済状態を犠牲にしてでも,アスリートは自身の能力の限界に向けて邁進しています.
そうした生活に不安を抱くアスリートもいましょうが,それでも納得してやっている.
そういう人の方が圧倒的に多いのです.
「力」をストイックに,且つ,貪欲に求めながらも,本人たちは至って楽しんでいる活動.
それがスポーツなのです.
「お金のため」
「有名になりたいから」
「権力が欲しいから」
といった発言は厳に慎まれます.
スポーツはお金や名声のためにやっているものではないことが求められるからです.
たしかに,現実問題としてお金や名声を得ている場合もありますが,これはメジャースポーツやビジネスとして成り立つスポーツ競技においてのみ言えることです.
多くの場合,自分の生活や経済状態を犠牲にしてでも,アスリートは自身の能力の限界に向けて邁進しています.
そうした生活に不安を抱くアスリートもいましょうが,それでも納得してやっている.
そういう人の方が圧倒的に多いのです.
「力」をストイックに,且つ,貪欲に求めながらも,本人たちは至って楽しんでいる活動.
それがスポーツなのです.
こうした姿は,マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で述べた,
「禁欲的だとされるプロテスタントが,なぜ金儲けに走るのか」
という論点を,これをさらに逆さまにして「スポーツ」の観点からも説明できるのではないかという野心も出てきます.
「禁欲的だとされるプロテスタントが,なぜ金儲けに走るのか」
という論点を,これをさらに逆さまにして「スポーツ」の観点からも説明できるのではないかという野心も出てきます.
スポーツとは「統一ルール下におけるスコアの獲得」でしたね.
つまり資本主義とは,獲得すべきスコア(金)に正当性が見出されたことによって,彼らは至って禁欲的に「スポーツ」をやっていると言えなくないだろうか?ということです.
つまり資本主義とは,獲得すべきスコア(金)に正当性が見出されたことによって,彼らは至って禁欲的に「スポーツ」をやっていると言えなくないだろうか?ということです.
そして,ニーチェの「超人思想」.
それは,人間本来が持つ根源的な欲望は,
「力への意思」
だという考え方です.
それは,人間本来が持つ根源的な欲望は,
「力への意思」
だという考え方です.
ただひたすら強くなりたい,究極を得たいという「力」への素直な欲望が,人間の本質だとニーチェは説きました.
すなわち,
スポーツとは,人間の本質である「力を得たいとする素直な欲望」を叶える活動
と言えます.
すなわち,
スポーツとは,人間の本質である「力を得たいとする素直な欲望」を叶える活動
と言えます.
超サイヤ人はニーチェ「超人思想」で説明がつく
さらにもう一つ,こうした姿で連想するのが漫画・アニメの『ドラゴンボール』の主人公たちです.
※ドラゴンボールの詳細やあらすじは割愛します.国民的漫画だと思いますので.
彼らにとっては,「力」こそが全て.
相手よりも上を目指そう.
過去の自分よりも上を目指そう.
技や身体を究極まで高めよう.
という意思が作品の随所に散りばめられています.
相手よりも上を目指そう.
過去の自分よりも上を目指そう.
技や身体を究極まで高めよう.
という意思が作品の随所に散りばめられています.
そうした「力」への貪欲な姿が描かれる一方で,彼らは戦いを楽しんでいます.
地球滅亡の危機や,残虐非道な敵であったとしても,
「フェアな戦いじゃないとダメだ」
と言い出します.
「えぇ!こんな場面でそんなこと言うの?」
という描写がたくさんありますよね.
地球滅亡の危機や,残虐非道な敵であったとしても,
「フェアな戦いじゃないとダメだ」
と言い出します.
「えぇ!こんな場面でそんなこと言うの?」
という描写がたくさんありますよね.
まさにスポーツの精神を濃縮したような光景が『ドラゴンボール』では展開されるのです.
さらに,彼らは当初は敵同士であっても仲間になっていきます.
例えどんなに極悪非道なキャラであっても,しかもその性格や素養が失われていなくとも仲間になっていくのです.
「おめぇ,悪ぃ奴だけど強ぇな」と言って「また一緒に戦おうぜ」という流れになっていきます.
これってスポーツでよく見る光景ですよね.
ただし,仲間になっていく条件が一つあり,それは「
フェアプレーができる者かどうか?」
です.
例えどんなに極悪非道なキャラであっても,しかもその性格や素養が失われていなくとも仲間になっていくのです.
「おめぇ,悪ぃ奴だけど強ぇな」と言って「また一緒に戦おうぜ」という流れになっていきます.
これってスポーツでよく見る光景ですよね.
ただし,仲間になっていく条件が一つあり,それは「
フェアプレーができる者かどうか?」
です.
物語の進行上「善」とか「悪」とか言い出しますが,つまりは「フェアプレー」できるキャラは仲間になっていき,そうでない者は仲間にはならない.
生死をかけた暴力的な戦闘や,「正義」から外れた理不尽な選択を主人公がとることもあるのですが,その主人公側に一貫して流れる思想は
「飽くなき力の追求と,フェアプレーによる戦い」
なのです.
生死をかけた暴力的な戦闘や,「正義」から外れた理不尽な選択を主人公がとることもあるのですが,その主人公側に一貫して流れる思想は
「飽くなき力の追求と,フェアプレーによる戦い」
なのです.
「飽くなき力の追求と,フェアプレーによる戦い」という思想が受け入れられるのであれば,人種や民族の壁を乗り越えられる.
これもまさに「スポーツ」ですよね.
古代オリンピックや近代オリンピックを始めとして,
世界各国にあるスポーツ系イベントに通じるスポーツの精神です.
これもまさに「スポーツ」ですよね.
古代オリンピックや近代オリンピックを始めとして,
世界各国にあるスポーツ系イベントに通じるスポーツの精神です.
『ドラゴンボール』で描かれているのは,こうした人間が「スポーツ」を尊ぶ側面を抽出した姿ではないでしょうか.
ところが,ハリウッド版『ドラゴンボール』では,こうしたドラゴンボールらしさが全くと言っていいほど考慮されていません.
※そもそも私がこの記事を書こうと思ったのは,先日このハリウッド版『ドラゴンボール』を見る機会があって,その出来の悪さに驚愕したことに起因します.
ハリウッド版『ドラゴンボール』でも,主人公の孫悟空が登場します.
オリジナルの孫悟空と同様,どこか抜けていてバカっぽいところは一緒です.
ところが,ハリウッド版孫悟空は本当にただのバカなのです.
明らかにオリジナル孫悟空の「バカさ」を履き違えています.
ところが,ハリウッド版孫悟空は本当にただのバカなのです.
明らかにオリジナル孫悟空の「バカさ」を履き違えています.
ただひたすら力を追い求めようという「スポーツ」らしさは無く,ハリウッド版の彼が力を欲しがった理由は「女にモテたいから」でした.
なんという卑しい理由でしょう.
これがアメリカ人の考える,
「強いやつ = 女にもてる = 理想的な人間の在り方」
ということです.
なんという卑しい理由でしょう.
これがアメリカ人の考える,
「強いやつ = 女にもてる = 理想的な人間の在り方」
ということです.
さらにハリウッド版の主人公たちは,ただひたすら,
「悪」だとされるピッコロ大魔王を倒すという「正義」を貫きます.
なんという勧善懲悪でしょう.
「悪」だとされるピッコロ大魔王を倒すという「正義」を貫きます.
なんという勧善懲悪でしょう.
これは私が知っている『ドラゴンボール』ではありません.
たしかに,オリジナルの孫悟空は一見バカです.
でも,彼やベジータといった「サイヤ人」に投影されているのは,ただひたすら力を求め続けるアスリートの姿のはずなんです.
でも,彼やベジータといった「サイヤ人」に投影されているのは,ただひたすら力を求め続けるアスリートの姿のはずなんです.
悪を倒すためとか,正義とは何かといったことではなく,
とにかく力を求めて生活していくこと,
それ自体に価値があるという生き方です.
とにかく力を求めて生活していくこと,
それ自体に価値があるという生き方です.
そうして彼らは「超サイヤ人」へと覚醒していくわけですが.
超サイヤ人ならぬ「超人」を目指したという意味において,さらには「スポーツ」との類似点が指摘できるのが,ニーチェの「超人思想」ではないでしょうか.
もちろん,ニーチェは髪や体が金色に光りだすまで力を求めよと言ったわけではありません.
「力を求める意思を自覚し,それから目をそむけない」
という生き方をすべきだと説いたのです.
という生き方をすべきだと説いたのです.
もし我々が「超チキュ―人」を目指すとしても,なにも10倍の重力下で修行したり,ハンマーを持ってサルを追いかける必要はありません.
ニーチェが説いたのは,絶え間ない自己研鑚.
ひたすら究極を目指して身体を鍛える.
勉強をする.
料理の腕を上げる等々.
ニーチェは,
「将来に向けた打算的な人生計画」
を否定します.
それよりも,今この時を大事にすること.
自分が大事だと思っていることを徹底して取り組むこと.
今日が人生最後の日だと思ったら,何をするか考える.
それが「超人思想」です.
ひたすら究極を目指して身体を鍛える.
勉強をする.
料理の腕を上げる等々.
ニーチェは,
「将来に向けた打算的な人生計画」
を否定します.
それよりも,今この時を大事にすること.
自分が大事だと思っていることを徹底して取り組むこと.
今日が人生最後の日だと思ったら,何をするか考える.
それが「超人思想」です.
「超人」であれば,たとえ正義や道徳といった価値観が崩壊してしまったとしても,
たとえ,
「神が死んだ」
としても,自分自身で生きる価値を見出だせるはずだ.
それがルサンチマンに陥らず,前を向いて生きていくことが出来る人間なのだというのです.
たとえ,
「神が死んだ」
としても,自分自身で生きる価値を見出だせるはずだ.
それがルサンチマンに陥らず,前を向いて生きていくことが出来る人間なのだというのです.
これってようするに,毎日鏡の前で「なぜベストを尽くさないのか」って問いかけて生きましょう,ってことでしょうか.
言うは易く行うは難しですね.
言うは易く行うは難しですね.
そういう意味では,ニーチェが
「神が死んだ(信じられなくなった)世界に,超人が現れる」と予言したことと,
鳥山明先生が『ドラゴンボール』において,サイヤ人が最終的に「超サイヤ人ゴッド」になったのは意味深長と言えます.
ニーチェの超人思想についてはこちらが参考になります
お時間があればこちら
井戸端スポーツ会議
■ 井戸端スポーツ会議 part 1「プロ野球16球団構想から」
■ 井戸端スポーツ会議 part 2「スポーツ庁の必要性」
■ 井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」
■ 井戸端スポーツ会議 part 4「自転車は車道を走らないほうが安全だろう」
■井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」
過去のスポーツ記事
■人間はスポーツする存在である
■「負けたのに『楽しかった』」はダメでしょうけど.けどね.
■簡易版・負けたのに楽しかったはダメでしょうけど.けどね
■浅田選手への森元首相の発言
■いい人達なんだそうです
■スポーツによって災害に強靭な町をつくれる
■スポーツで土建国家を復活できる
■スポーツは健康になるためのツールではない
■しかしもし,偶然というものが一切否定されたとしたらどうだろう
■エクササイズからスポーツへ
■コンクリートからスポーツへ
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