2014年9月8日月曜日

井戸端スポーツ会議 part6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」

男子テニスの錦織選手がUSオープンの決勝戦まで駒を進めたというニュースが入ってきました.
しかも現世界ランクNo1のジョコビッチを破っての決勝進出.これも凄い.
決勝の相手はチリッチ選手とのこと.ぜひとも好勝負を期待したいものです.

ということで,というわけでもないのですが,今回は井戸端スポーツ会議といきましょう.

過去記事でもちょっとだけ触れていたことを少し詳しく云々してみたいと思います.
過去記事の内容がなければチンプンカンプンの記事になりますので,端折って説明しておきます.
ヨハン・ホイジンガが「ホモ・ルーデンス」で述べた,
「人間は遊ぶことで文化を発展させてきた.文化が発展していく原動力は「遊び」である」
という議論について,「スポーツ」の要素を抽出して話をしてみると,
「人間はスポーツすることでも文化を発展させてきた.そして近年はこの「文化のスポーツ化」が,良くも悪くも「文化を遊ぶ」こと以上に強まっている」
という議論ができるのではないか.
で,この「文化のスポーツ化」の喫緊の例としてグローバリゼーションがあり,そもそもスポーツという活動の本質に「グローバリズム」があるという話が,
です.こちらもどうぞ.

ここで気になるであろう「遊びとスポーツの違い」ですが,実は専門家の方々の中でも猛烈に難しいテーマでして.
ではこのブログ,つまり私はどのように捉えているかというと,両者を厳密に区別しているわけでも区別できるものでもなく,「スポーツ」は「遊び」という営みを構成する仕組みの一つと考えています.
過去記事においても,スポーツとは「なにかしらのルールを作って,そのルールのなかでスコア(順位・得点)を獲得する」活動であると書きました.
これはつまり,スポーツとは遊びの中でもこうした「なにかしらのルールを作って,そのルールのなかでスコア(順位・得点)を獲得する」という要素を抽出した活動だと捉えられるわけです.

故にスポーツは,「遊びでやってんじゃないんだよ!」言いつつ,冷静にそれを眺めてみたら極めて「遊び」にしか見えないという矛盾を抱えた営みになっています.

長い前置きでしたが,ここから記事タイトルの話に入ります.

「遊びでやってんじゃないんだよ!」と言いつつ遊びにしか見えないもので,ただひたすら強くなろう,相手(過去の自分)より上を目指そう,技や身体を究極まで高めようという活動.それがスポーツです.
遊びでやってないはずなのに,「お金のため」「有名になりたいから」「権力が欲しいから」といった発言は厳に慎まれます.スポーツはお金や名声のためにやっているものではないことが求められるからです.
たしかに,現実問題としてお金や名声を得ている場合もありますが,これはメジャースポーツやビジネスとして成り立つスポーツ競技においてのみ言えることです.
多くの場合,自分の生活や経済状態を犠牲にしてでも,アスリートは自身の能力の限界に向けて邁進しています.そうした生活に不安を抱くアスリートもいましょうが,それでも納得してやっている.そういう人の方が圧倒的に多いのです.
「力」をストイックに,且つ,貪欲に求めながらも,本人たちは至って楽しんでいる活動.それがスポーツなのです.

こうした姿は,マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で述べた,「禁欲的だとされるプロテスタントが,なぜ金儲けに走るのか」という論点を,これをさらに逆さまにして「スポーツ」の観点からも説明できるのではないかという野心も出てきます.
スポーツとは「統一ルール下におけるスコアの獲得」でしたね.つまり資本主義とは,獲得すべきスコア(金)に正当性が見出されたことによって,彼らは至って禁欲的に「スポーツ」をやっていると言えなくないだろうか?ということです.

さらにもう一つ,こうした姿で連想するのが漫画・アニメの『ドラゴンボール』の主人公たちです.
※ドラゴンボールの詳細やあらすじは割愛します.国民的漫画だと思いますので.
彼らにとっては,「力」こそが全て.相手よりも上を目指そう.過去の自分よりも上を目指そう.技や身体を究極まで高めよう.という意思が作品の随所に散りばめられています.
そうした「力」への貪欲な姿が描かれる一方で,彼らは戦いを楽しんでいます.地球滅亡の危機や,残虐非道な敵であったとしても「フェアな戦いじゃないとダメだ」と言い出します.「えぇ!こんな場面でそんなこと言うの?」という描写がたくさんありますよね.
まさにスポーツの精神を濃縮したような光景が『ドラゴンボール』では展開されるのです.

さらに,彼らは当初は敵同士であっても仲間になっていきます.例えどんなに極悪非道なキャラであっても,しかもその素養が失われていなくとも仲間になっていくのです.「おめぇ,悪ぃ奴だけど強ぇな」と言って「また一緒に戦おうぜ」という流れになっていきます.これってスポーツでよく見る光景ですよね.
ただし,仲間になっていく条件が一つあり,それは「フェアプレーができる者かどうか?」です.
物語の進行上「善」とか「悪」とか言い出しますが,つまりは「フェアプレー」できるキャラは仲間になっていき,そうでない者は仲間にはならない.生死をかけた暴力的な戦闘や,「正義」から外れた理不尽な選択を主人公がとることもあるのですが,その主人公側に一貫して流れる思想は「飽くなき力の追求と,フェアプレーによる戦い」なのです.
「飽くなき力の追求と,フェアプレーによる戦い」という思想が受け入れられるのであれば,人種や民族の壁を乗り越えられる.これもまさに「スポーツ」ですよね.

『ドラゴンボール』で描かれているのは,こうした人間が「スポーツ」を尊ぶ側面を抽出した姿ではないでしょうか.

ところが,ハリウッド版『ドラゴンボール』では,こうしたドラゴンボールらしさが全くと言っていいほど考慮されていません.
※そもそも私がこの記事を書こうと思ったのは,先日このハリウッド版『ドラゴンボール』を見る機会があって,その出来の悪さに驚愕したことに起因します.

ハリウッド版『ドラゴンボール』でも,主人公の孫悟空が登場します.
オリジナルの孫悟空と同様,どこか抜けていてバカっぽいところは一緒です.ところが,ハリウッド版孫悟空は本当にただのバカなのです.明らかにオリジナル孫悟空の「バカさ」を履き違えています.
ただひたすら力を追い求めようという「スポーツ」らしさは無く,ハリウッド版の彼が力を欲しがった理由は「女にモテたいから」でした.なんという卑しい理由でしょう.
さらにハリウッド版の主人公たちは,ただひたすら「悪」だとされるピッコロ大魔王を倒すという「正義」を貫きます.なんという勧善懲悪でしょう.
これは私が知っている『ドラゴンボール』ではありません.

たしかに,オリジナルの孫悟空は一見バカです.でも,彼やベジータといった「サイヤ人」に投影されているのは,ただひたすら力を求め続けるアスリートの姿のはずなんです.
悪を倒すためとか,正義とは何かといったことではなく,とにかく力を求めて生活していくこと,それ自体に価値があるという生き方です.
そうして彼らは「超サイヤ人」へと覚醒していくわけですが.

超サイヤ人ならぬ「超人」を目指したという意味において,さらには「スポーツ」との類似点が指摘できるのが,ニーチェの「超人思想」ではないでしょうか.
ニーチェは人間の本質の中にある「スポーツ」を尊ぶ精神を,別の形で汲みとったのではないかと思えるフシがあります.

ニーチェの「超人思想」.それは,人間本来が持つ根源的な欲望は「力への意思」だという考え方です.
ただひたすら強くなりたい,究極を得たいという「力」への素直な欲望が,人間の本質だとニーチェは説きました.
もちろん,ニーチェは髪や体が金色に光りだすまで力を求めよと言ったわけではありません.
「力を求める意思を自覚し,それから目をそむけない」という生き方をすべきだと説いたのです.

もし我々が「超チキュ―人」を目指すとしても,なにも10倍の重力下で修行したり,ハンマーを持ってサルを追いかけなくても構わないそうです.
ニーチェが説いたのは,絶え間ない自己研鑚です.ひたすら究極を目指して身体を鍛える.勉強をする.料理の腕を上げる等々.そういうことです.
それとは逆に,「弱くたっていいじゃないか,どうせ俺なんか・・」という着想になって手を抜いてはいけない.そういうことです.

「超人」であれば,たとえ正義や道徳といった価値観が崩壊してしまったとしても,たとえ「神が死んだ」としても,自分自身で生きる価値を見出だせるはずだ.それがルサンチマンに陥らず,前を向いて生きていくことが出来る人間なのだというのです.
これってようするに,毎日鏡の前で「なぜベストを尽くさないのか」って問いかけて生きましょう,ってことでしょうか.言うは易く行うは難しですね.

『ドラゴンボール』の孫悟空も,相手が悪でこちらが善だから戦っているわけではありませんでした.「魔」という字の入った道着を着た仲間がいるくらいですから.彼にとっては「力」を追い求めることが全てであり,そうした中にあって正義や道徳といったものは勝手についてくるものになっています.

スポーツとは,人間が純粋に「力」を求める本質が現れた活動と言えるのではないでしょうか.そこに「政治性」を入れたがらず,逆に「道徳性」を求めたがる理由も見出だせるかもしれませんが,それはまた別の機会に.

スポーツ指導者の方々におきましては,ニーチェの「超人思想」を引き合いに出して選手指導をしてみるのも面白いのかもしれませんね.


ニーチェの超人思想についてはこちらが参考になります


お時間があればこちら
 


井戸端スポーツ会議
■ 井戸端スポーツ会議 part 1「プロ野球16球団構想から」
■ 井戸端スポーツ会議 part 2「スポーツ庁の必要性」
■ 井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」
■ 井戸端スポーツ会議 part 4「自転車は車道を走らないほうが安全だろう」
井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」

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