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しかしもし,偶然というものが一切否定されたとしたらどうだろう

進まない.全く進まない.
学内用の紀要論文の原稿.
お盆休みをはさめば気分が変わって捗るかと思いきや,全く進まないのです.

ここまで苦労するなら,いっそ気合を入れて肉付けしなおし,外部雑誌に出してやろうかと思うようになりました.

約1週間前から着手.お盆前には書き終えておく予定だったのですが,いやこれがまた文献引用に手間どって難航しています.
まぁ,これまで専門としていたことと違う視点を組み込んでいるので,手間取るのは当然かな.そう反省している次第です.

内容はというと,スポーツのゲーム分析についての一考察.
本当に “一考察” なので,さっさと終わらせて本格的な研究を開始するべきかもしれないのですけど.

ちなみに,私の恩師は論文タイトルに散見される,この「一考察」という表現を嫌っていました.
「“一考察” ってのは研究論文につけるタイトルじゃない.一考察だけなら論文として出すな」
こんな視点もあるんですけどぉ~・・・,みたいな態度が気に入らないとのことでした.
うん,たしかにね.

で,今回わたしが書いている紀要論文はマジで “一考察” なので,「こんな視点もあるんですけどぉ~」な態度で出すつもりでして.
恩師が知ったら怒るだろうな.と思いつつ仕事として書いております.


授業をやってるんです,ゲーム分析の.だから.
今年から始まったので,この得体のしれない「ゲーム分析」に関する総論的な論文を学内紀要として書いとこうと.そんなわけです.

ちなみに,「ゲーム分析」っていうのは,スポーツの試合や練習,身体動作とかをビデオカメラや記録用紙なんかを使って記録し,それを分析しようというもの.
有名なのは元プロ野球監督の野村ID野球とか,ロンドンで銅メダルを獲得した日本女子バレーボ―ルの眞鍋監督によるIDバレーとか.

日本でゲーム分析にスポットライトがあたったのは,
(1) 2004年オリンピック・アテネ大会の野球・準決勝で,がっちりゲーム分析して日本対策を練ったオーストラリアに負けたこと.
(2) 2008年オリンピック・北京大会のソフトボールで日本代表のゲーム分析班がクローズアップされたこと.
というのが記憶に新しいでしょうか.

そんなことがあったもんだから,日本体育協会もスポーツ指導者資格の養成科目に「スポーツとIT」という科目を取り入れており,ITを駆使するスポーツ指導者を求めている,という状況なのです.

ということで,その養成科目のための授業を担当しています.

「こんなPCやカメラ使うと便利」 とか 「こんな分析の仕方がある」 とか 「ゲーム分析したらこんなに勝利に結びつきやすいのだ」 などという素人ウケする営業トークみたいなのは授業でやるとして.
「こんな視点もあるんですけどぉ~」ではあるんだけど,紀要とはいえアカデミックに行かないと.

あと,授業をやる上でも「ゲーム分析」を考えるベースになる哲学というか.
大学の授業ですからね.分かる学生にだけ解るような事であろうとも,スポーツのゲーム分析をする上でおさえておいてほしい考え方は刷り込みたいものです.
その哲学的な視点を論文にしているという次第です.

ちなみに,その “視点” なんですが,

ゲーム分析がスポーツを滅ぼす

というもの.どうですか?素敵でしょ.
最終的にはこのタイトルで本を出版してやろうかと企んでいます.ま,需要がないか.

あんまり詳しく書くわけにはいかないですから,ざざっとキーとなる事を挙げますね.

まず,スポーツというのは偶然を楽しむものです.
“分析しきれない活動” だからこそ,「スポーツ」として存在しえていると言えます.
言い換えると,参加者の能力だけではない偶然の力をも含んだ営みがスポーツなのです.
ここらへんの細かいところはヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』とか,ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』が古典なので,そちらをご覧ください.

偶然をコントロールして勝利しようと邁進するところにスポーツの楽しみがあり,例えその偶然によって敗北したとしても,それを受け入れる余地(遊び)を持つ活動がスポーツの本質なのかもしれません.

しかし,スポーツを過度に分析してしまい,偶然の余地がない活動にしてしまうとどうでしょうか.
こうすればほぼ確実に勝利できる.この動作ができれば勝利できる.といった法則性が科学的に解明できたとすると,それはすでにスポーツではありません.

誤解を恐れず簡単に表現すれば,勝利の方程式が完成した時,そのスポーツ種目はスポーツの場から退場しなければいけません.
ゲーム分析とかトレーニング科学(ドーピングも含めて)というのは,スポーツを破滅に導く科学と言えます.

今でこそスポーツという活動を分析しきれないので暢気にしていられますが,スポーツに科学のメスを入れるということは,さながら回復不可能な手術に手を出しているとも言えなくないのです.

先にも紹介したホイジンガは,著書『ホモ・ルーデンス』の中で,当時から “スポーツらしさ” の瓦解が始まっていることを喝破しています.今から70年前の文献です.

この記事のタイトルにもなっている,
しかしもし,偶然というものが一切否定されたとしたらどうだろう.どんな勝利やどんな失敗にも,偶然の働らく余地が一切なかったと考えられるとしたらどうだろう.そうしたら,あらゆる自由意志の逃げ場はなくなってしまう.偶然の存在しないところでは,意思は自分の体を支えて立っている支柱をなくしてしまう.三島由紀夫 『豊饒の海・春の雪』

原稿が進まないものだからと諦めて小説を読んでいたら,こんな文章に出会ってしまいました.
指している事象は異なりますが,スポーツにも同じことが言えます.

さらに原稿が進まないものだからと,昨日は『新桃太郎伝説』の話なんぞしていましたけども,そこで引用した記事のタイトル,
鏡は悟りの具ならず 迷いの具なり
というのもゲーム分析を語る上で有益な示唆を含んでいるのです.

そこの記事でも書いていますが,私はこの斎藤緑雨のアフォリズムを 「自らを客観視する,つまりビデオ分析などを多用することは良し悪しだよ」 と解釈しています.

ちなみに,この斎藤緑雨のアフォリズムには続きがありまして,

一たび見て悟らんも,二たび見,三たび見るに及びて,少しづつ,少しづつ,迷はされ行くなり

ということで,ゲーム分析に対する “特効薬” のような過剰な期待を戒める解釈ができる言葉も.
そして,極めつけは,

何人か鏡を把りて,魔ならざる者ある.魔を照すにあらず,造る也.即ち鏡は,瞥見す可きものなり,熟視す可きものにあらず

さながら 「ゲーム分析の作法」 を説いているかのようです.
これら上記のアフォリズムの解釈をゲーム分析風にすると,

ゲーム分析で解決しようとしてはいけない.むしろ混乱を生むことになる.
1回だけ見るだけではだめで,繰り返しフィードバックを続けなければ意味が無い.
でも気をつけた方がいい.ゲーム分析を盲信する選手が多い.
ゲーム分析とは解決策を出す物ではない,問題点を出す物なのだ.
つまり,ゲーム分析には少し手を出すだけにとどめて,どっぷり浸かってはいけないよ

てな感じですかね.

とまぁ,そんな風にしてゲーム分析に関する論文を書いております.
この手の論文を書くのは初めてなので,修行だと思いながらじっくり取り組みます.