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井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」

前回の記事では,「スーパーグローバル大学」という顔から火が出るほど恥ずかしい名称の企画を,実は文部科学省というお堅い役所が本気出して要求してきたんですよ,なんていう話にも触れました.

今回はその「グローバル」についてのお話です.

先日,大学院の後輩にあたる人とお会いした時,「スーパーグローバル大学」をネタに笑っていたら,その人が「最近はスーパーグローバルハイスクールっていうのがあるようですよ」って教えてくれました.

そうなんです.もはや「高等学校」などと言わないんですね.ハイスクールです.
「嘘だ」「そんなのネタに決まっている」という人は,以下の文部科学省の資料をどうぞ.
http://www.mext.go.jp/a_menu/kokusai/sgh/

でも,こうした「イタい」名称をつける癖が文部科学省には元々あるらしく,
そう言えば,「スーパーサイエンスハイスクール」なる企画もやっていました.
「んあアホな」「全力で笑いを取りにいってるだろ」という人は,以下の文部科学省の資料をどうぞ.
http://www.mext.go.jp/a_menu/jinzai/gakkou/1309941.htm

そんなわけで,“スーパー” じゃなくても “グローバル” がもてはやされる昨今,「グローバル化は不可避の潮流だ」と言わんばかりにグローバリズムがブームになっております.

無駄な前置きが長くなりましたが,今回の井戸端スポーツ会議のテーマである「グローバリズム」の話に入ります.

「スポーツにおけるグローバリズム」とか,「グローバリズムがスポーツに及ぼす影響」という論調の解説やニュースは多いものです(多くはないか・・).
概ね以下のような論調だと思います.
「スポーツの領域にもグローバリズムの波が押し寄せている.例えば,国境を越えて選手が活躍し,ネットワークの発達に伴いスポーツコンテンツや市場が地球規模で展開されている」
というやつです.あとは,
「スポーツがグローバル化することで,ルールに明記されることがない不文律のところで摩擦が起きている(我が国では柔道,剣道といった伝統文化にまつわる議論)」
だいたいこういう話です.

このように,スポーツとグローバリズムに関する話は,その多くがスポーツで起きている事象をグローバリズムの観点から説明しているものです.
でも,考えようによっては以下の様な論点もあるのです.

「グローバリズムとは,スポーツである」

以前,
人間はスポーツする存在である
でも取り上げたので,詳細はそちらを読んで頂ければと思いますが.
おさらいを兼ねて解説しておくと,要するにスポーツの本質というのは,
なにかしらのルールを作って,そのルールのなかでスコア(順位・得点)を獲得する
というものではないか,と考えられるわけでして.

さらにもう一つ,「スポーツ」と呼ばれうる活動としての重要な要素に「おもしろい」というものがあります.

この点は「スポーツ」が「遊び」と呼ばれる営みとの共通性として認識されているもので,「おもしろい」ことをやりたがることが,人間が人間であることの本質の一つであると考えられます.
人間の本質を「遊び」に見た第一人者であるヨハン・ホイジンガも,「遊び」が「遊び」であるためには,とにかく「おもしろい」ことが重要な要素であるとしています.

ところで,「なにかしらのルールを作って,そのルールのなかでスコア(順位・得点)を獲得する」ことを「おもしろい」と感じるためには条件があります.
それは,よりスポーツらしく言えば「ルールの統一」.普遍性の高い言い方にすれば「比較基準の統一」でしょうか.
人間というのは,ルールを統一して競争,もしくは比較しないと「おもしろい」状況だとはみなさないのです.
ですから,人間は相手と交渉をし,スコアを競うための統一ルールを作ろうとします.
スコアの獲得基準も厳密にしたがります.より精巧なタイマーや計測器を使いたがりますし,判定方法の客観性も可能な限り高めようとするのです.

そこまでする原動力はと言うと,ひとえに「お互いにルールを統一してスコアを競うことがおもしろい」からです.
なんてったって「スポーツ」は「おもしろい」ものなのです.「おもしろい」ことは皆に広がっていきます.
隣の人とのスポーツが,そのうち隣の集団,隣の地域,隣の国・・・,と広がっていきます.

これを延々と続けていくとどうなるか.
「統一されたルールによる平等な競争を地球規模でやろう」
という終着点に至るのは当然のことでしょう.

そしてこれって,まんま「グローバル・ビジネス」であり,具体的には「TPP」であり,そうした人間の本性に任せて自由に競争すればバランスがとれていくだろう,という「自由主義的な経済思想」なのであり,その延長線上に現れる考え方,すなわち「グローバリズム」であると考えられます.

ところで,「統一されたルールによる平等な競争」というのは,皆さんがよく知る「近代スポーツ」の特徴です.
(※なお,スポーツと近代スポーツの違いは重要なので,過去記事でおさらいしておいてください)
それを「地球規模でやろう」というのが,近代スポーツの祭典である「近代オリンピック」なのですから,経済に先駆けてグローバリズムを具現化しているのが近代スポーツであると言えるでしょう.

これについて,「(近代以前の)スポーツが,近代オリンピックによってグローバル化した」と説明されることが多いのですけど,そもそもグローバリズムの正体がスポーツであるという視点に立てば,近代スポーツがグローバル化しやすいのは当然なのです.
近代スポーツはスポーツの直系のようなものですから,オリンピックという舞台と装置が与えられたことにより,「スポーツらしさ」がいかんなく発揮されたと言えるのです.

このように,グローバリズムの性格をよくよく見てみると,スポーツそのものであることが窺えます.
つまり,グローバリズムというのは「おもしろい」という要素を原動力とした「スコア稼ぎ」として還元することができるのです.

そう言えば,グローバル・ビジネスを推進している現政府の産業競争力会議にメンバーである竹中平蔵氏は,著書や講演なんかで「私の原動力はワクワク感」だと述べているのだそうです.
実際,そんなことを言っている記事もありました.
http://toyokeizai.net/articles/-/27358
竹中氏の言っていることは,まさに経済をスポーツとして捉えているものです.
というか,これまで述べてきたように人間はその存在の本質的な部分でスポーツを求めているのであり,言い換えればグローバリズムを本来的に求めている可能性があり,そうすると竹中氏の言うことは至極当たり前であるわけですよ.

ですから,こうした人間の本質が現れるスポーツだからこそ,現代のスポーツの有り様を眺めてみれば,現代の人間の有り様が窺えるとも言えます.

ちなみに,スポーツ,とりわけ近代スポーツが抱えている問題点を上げてみると,見事にグローバリズムの問題点と一致します.
・過度な国際競争
・ドーピング(勝利至上主義,成果第一主義)
・スポーツに参加できる者とそうでない者との二極化(強者と弱者の格差)
・一部の大企業による一極支配
・伝統文化・慣習との摩擦
などなど.

さらに付け加えるとすれば,こうしたグローバリズムの問題点を改善するためのキーワードもまた「スポーツ」であり,「遊び」であることが考えられます.

遊びを廃することでスポーツは魅力的になっていきますが,遊びを完全に失ったスポーツはスポーツとしての魅力も失われている,という一見矛盾した言葉遊びにも似たことが言えるのです.
言い換えるならば,人間はことさら遊びを廃することで魅力的になろうとするのですが,遊びを完全に失った人間は人間としての魅力も失われているということです.

改めて文章にしてみれば,なんだ当たり前のことじゃないかと思うのですけど,このバランスを保つことが非常に難しく,ともすれば「スポーツ」であることを求めたがる人間や社会の性分を,いかに「遊び」をもってコントロールしていくのかが大事なのでしょう.

これについての詳細は別の機会があれば.


井戸端スポーツ会議
■ 井戸端スポーツ会議 part 1「プロ野球16球団構想から」
■ 井戸端スポーツ会議 part 2「スポーツ庁の必要性」
井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」
井戸端スポーツ会議 part 4「自転車は車道を走らないほうが安全だろう」

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