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井戸端スポーツ会議 part 8「スポーツ観戦のような政治観戦」

これまでにも,
「スポーツの在り方を分析してみたら,その時の社会が分析できる」
という視点を取り上げてきましたが,
人間はスポーツする存在である
井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」
今回はこの点について,もう少し具体的に井戸端会議をしてみたいと思います.

政治を見る(観戦する)目は,スポーツのそれと親和性が高いのではないか?という点です.

「そもそも,“政治を観戦する” という評し方に違和感がある」
というところかもしれません.
なぜこんな表現をするかというと,今回の問題提起が,
近現代のスポーツが「観戦」されるものとして高度に発達してきたことと,現代の政治の捉えられ方が無縁ではないのではないか?
というお話しだからです.

かつてのスポーツ(前近代スポーツ)の多くは,自分達自身がその競技や活動に取り組むものであり,参加しないにしてもその結果は自身の有り様とシンクロするものでした.
ここら辺の細かいことは■人間はスポーツする存在であるを読んでもらうとして,現代においてスポーツと呼ばれるものの多くが,かつては「祭り」とか「儀式」の要素を多分に含むものだったことと無関係ではないと考えられます.
「祭り」や「儀式」としてのスポーツは,貴族であれ庶民であれ,自分自身にとって重要な価値を持っていたわけです.

そのようなスポーツは,現代においては「観戦」という形で消費される存在になっているのです.当たり前のことですけど,こうしたスポーツを観戦と言う形で消費するのは限られた人々ではなく,多くの一般大衆です.
「スポーツの在り方を分析してみたら,その時の社会が分析できる」
という立場からしますと,スポーツを観戦という形で消費する人々の有り様が,政治を見つめる一般大衆の有り様と非常にシンクロしたものに見えるのです.

例えば,どこかのスポーツチーム(野球でもサッカーでもいい)が,リーグなどで無様な結果を残したとします.
そのチームのファンはどのような態度をとるでしょうか.
きっと,
「監督を変えろ!選手の年俸も下げてしまえ!そもそもオーナーの方針が気に入らない!」
などと言い出します.

感情剥き出しで,おおよそ上品とは言えない物言いですが,彼らファンの気持ちも分からないではないですし.いや,むしろファンの気持ちは大事にされて然りではないか,などと(マスコミをはじめとして)周囲も囃し立てるのかもしれませんね.

ですが,考えてみればこれは道理が通らないことです.

もしファンが本当にその「チームのことを考えている」のであれば,安易に「監督を変えろ」とか「選手の年俸を下げろ」とか「オーナーの方針が気に入らない」などとは言えないはずだからです.
まぁ「監督を変えろ」はまだしも,選手の年俸を下げたら優秀な選手は残らない(獲得もできない)ですし,オーナーが出資してくれているからこそのチームなんですから,頭ごなしに批判するのもおかしな話です.
彼らファンの主張は,応援しているはずのチームを明らかに弱くする方向に導いていることになります.

もしオーナーがファンの意見を聞き入れてしまったらどうでしょう.
そんなチームがチャンピオンフラッグを手にすることはできませんよね.

これと同じことが現代の政治にも見えます.
例えば政治家や公務員,官僚を叩く姿がその典型ではないでしょうか.
無様な政治を見せてしまったり,不況が続いたりすると,多くの一般大衆はこう言い出します.
「議員数を減らせ!公務員の給料を下げてしまえ!そもそもこの国の方針が気に入らない!」

たしかに感情的には分からないではないですし,程度の問題というところもあるでしょう.
ですが,こうした政治の有り様は,私には現代のスポーツを消費する一般大衆とダブって仕方ないのです.
※見方によっては,「社会の有り様がスポーツにも現れている」とも捉えられるでしょうが,私は “逆”,少なくとも相互関係にあると考えております.詳しくは■人間はスポーツする存在であるをどうぞ.
これはつまり,その国の政治の有り様は,国民がスポーツをどのように見ているのか?(マスコミがどう報じるか?)ということと相関するのではないかということなのです.

政治家や公務員を削減したり給料をカットすると,自分達の意見が吸い上げられなくなったり,優秀な人材が採用されなくなったりするわけですから,国家の運営をしていく上ではマイナスになることは自明のことです.
(繰り返しますが,“程度の問題” はあれど・・)政治家や官僚,公務員が何かしらの評価によって次々と異動・交代するような状態になったら,とてもじゃないですけど彼らからしたら「自身の生活」を優先するようになってしまうでしょうから,皮肉にも「国民の生活」は優先されなくなります.
自分自身の身に置き換えて考えれば分かることです.

ところが,国民の感情がそれよりも優先されてしまう,つまり「罰を与えたい」という気分が持ち上げられてしまう上に,それがあたかも正論かのように捉えられてしまう,そう報じられてしまう,というのが現代スポーツとそっくりなわけです.

本当のファンであれば,チームのためになることを考えます.なぜなら,贔屓のチームの成績は,そのファンにとっては単なる「消費物」や「レジャー」ではないからです.
優秀な選手が獲得できないのであれば,有志を募って獲得金の募金活動なんか始めちゃうかもしれませんよね.でもそれが熱心なファンというものです.

ですが,少なくとも現代スポーツにおいてそれは見られません.もちろん現代人の一人である私も,スポーツをそのように捉える態度や思想が根付いておりませんし.
現代の政治に見られる上記のような現象は,人々がスポーツを「自身とシンクロするもの」ではなく「観戦して消費する」ようになったことと無縁ではないのかもしれない,と考えてみることも面白いものです.


井戸端スポーツ会議
■ 井戸端スポーツ会議 part 1「プロ野球16球団構想から」
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■ 井戸端スポーツ会議 part 4「自転車は車道を走らないほうが安全だろう」
井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」
井戸端スポーツ会議 part 6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」
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