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井戸端スポーツ会議 part 9「スポーツ分析のような選挙分析」
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今回の記事は,
■井戸端スポーツ会議 part 8「スポーツ観戦のような政治観戦」
とか,
■人間はスポーツする存在である
を合わせて読んでもらえると良いかと思います.
今回もスポーツの視点で政治現象を解釈してみたいと思います.
先般,衆議院が解散し,街で選挙カーが走り回る日々が始まりました.
こうなるとニュースやブログ等でも取り上げられるようになるのが,
「◯◯党は議席をどれだけとれるのか?」
という話です.
“より厳密なルール下でスコア獲得を競う”
それだけでも近代スポーツらしさ満載の話ではありますが,ここで取り上げたいのは,そんなスコア獲得競争 “そのもの” を外から興味深く眺める(言うなれば,楽しむ)ことが,あたかも価値の高い興味のように扱われていることです.
端的に言えば,「票を読む」ということですけど.
これって,ふと我に返ってみますと,こう言ってはなんですけど非常に卑しく醜い思考です.
「票を読む」,・・これを選挙に出る人達が言うならまだわかります.
票を読めなければ選挙に出ることによるコストパフォーマンス(これも卑しく醜いけど)が分からないということになりますから,現実的なところでは仕方がないということもあるのでしょう.
ですが,投票する側・報道する側が「票を読めた」「票を読んだ」として何があるのでしょうか?
票を読むことによって投票対象が変わったり,報道姿勢が変わったりするのでしょうか?
こういうのは,まさしく選挙という政治をスポーツ観戦と同じものとして捉えているとしか思えません.
近代政治は近代スポーツの影響を受けているというのが私の持論ですから,これこそ政治のスポーツ化が如実に現れている典型だと思われます.
スポーツという活動の本質的姿の一つに,真善美を徹底的に追求する姿勢があります.
※これについての詳細は■井戸端スポーツ会議 part6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」を御覧ください.
人々がスポーツや優れたスポーツ選手に向けている眼差しとは,こうした「何か(真善美)」を損得勘定なしに徹底的に追求するという姿勢ではないかと思うのです.
近代スポーツでもこの姿勢が残ってはいるのですが,これに加えてスポーツはより大衆化,エンターテイメント化してきていると考えられます.
近現代においてスポーツがダメになってきているとは言いません.ですが,こうした大衆化とエンターテイメント化の弊害が至る所で出てきており,政治もまた同じ道をなぞっているとも言えるのではないかと思うのです.
「票を読む」というのは,まさに政治をスポーツ的なエンターテイメントとして楽しんでいることの象徴です.
もちろん,票を読んでいる本人は至ってマジメな活動だと認識自覚しているのでしょうが,それはスポーツ的な目線で見れば,プロ野球のリーグ中,
「今年のペナントレースの順位はどうなりますかねぇ?」
なんていう質問に
「ハイ!私の予想はコレ(・ω<)」
などとワイドショーで語っている引退選手や野球好きタレントと変わらないものです.
えーっと,ちょっと何が言いたいのか難しかったかと思いますが,刺激の強い言い方をすればつまり「お前がそこでペナントレース結果を予想したところで,これから繰り広げられる各チームの戦果には影響しないだろ」というところです.
ついでに言えば,「それを一般の皆様が受け取ったとして,それで何がどうなるというのでしょうか?」という感じ.
もっと言えば,「へぇー,それで1つの情報コンテンツとして成り立つんだぁ〜」ってことです.
どのような野球をすれば得点力が上がるのか?どういうピッチングをすれば防御力が高まるのか?という話ならまだしも,順位予想や優勝予想をするだけなら「だから何?」感が止まらない,ってことです.
スポーツの楽しみ方は人それぞれですし,その認識は違っていて当然なのでしょうが,スポーツに人々が魅了される理由というのは,各選手,各チームが繰り広げる強く美しいプレーによる勝負だという点は一致しているところでしょう.
一方で,スポーツを「観戦する」という楽しみ方がここまで発展してきたのは,近代スポーツの特徴の一つです.
勝った負けたも大事ではありますが,そこで繰り広げられている流れの中でのアナログなプレーに,強さや美しさを観るのがスポーツの醍醐味と魅力です.
球速を1km/hでも上げる,ジャンプ力を1cmでも高める,重量を1kgでも多く持ち上げる,狙った所に1mmでも近づける.そうしたプレーをどのように鍛錬するか?実現するか?というところに,スポーツ本来の魅力があるはずなのです.
ところが近現代スポーツでは,結果を生み出すはずの「プレー」をすっ飛ばした予想や統計学的な予測によって「戦績(競争結果)」を分析しようとしたがります.
強く美しいプレーとは何か?それこそがペナントレース結果予想よりも重要なはずなのですが,近現代スポーツにおいてはそうではなくなってきているのが現実です.
選挙や政治にしてもそうで,問題になるのは各政党や政治家が「この国をどうしようとしているのか?」という点であるはずなのです.
ところが,どこが・誰がどれだけ票を獲得できるのか?という話で盛り上がり,「票を読む」ことや「政局」が政策議論と同等,場合によってはそれ以上に重要なテーマだと認識されるこの社会は,政治のスポーツ化が色濃く反映されていると見做せるのではないでしょうか.
つまり,スポーツにおいて「プレー」ではなく「戦績」を重要視するようになってきた現代人は,選挙においても「プレー」ではなく「戦績」に興味を移し始めているのではないかと解釈できるわけです.
■井戸端スポーツ会議 part 8「スポーツ観戦のような政治観戦」
とか,
■人間はスポーツする存在である
を合わせて読んでもらえると良いかと思います.
今回もスポーツの視点で政治現象を解釈してみたいと思います.
先般,衆議院が解散し,街で選挙カーが走り回る日々が始まりました.
こうなるとニュースやブログ等でも取り上げられるようになるのが,
「◯◯党は議席をどれだけとれるのか?」
という話です.
“より厳密なルール下でスコア獲得を競う”
それだけでも近代スポーツらしさ満載の話ではありますが,ここで取り上げたいのは,そんなスコア獲得競争 “そのもの” を外から興味深く眺める(言うなれば,楽しむ)ことが,あたかも価値の高い興味のように扱われていることです.
端的に言えば,「票を読む」ということですけど.
これって,ふと我に返ってみますと,こう言ってはなんですけど非常に卑しく醜い思考です.
「票を読む」,・・これを選挙に出る人達が言うならまだわかります.
票を読めなければ選挙に出ることによるコストパフォーマンス(これも卑しく醜いけど)が分からないということになりますから,現実的なところでは仕方がないということもあるのでしょう.
ですが,投票する側・報道する側が「票を読めた」「票を読んだ」として何があるのでしょうか?
票を読むことによって投票対象が変わったり,報道姿勢が変わったりするのでしょうか?
こういうのは,まさしく選挙という政治をスポーツ観戦と同じものとして捉えているとしか思えません.
近代政治は近代スポーツの影響を受けているというのが私の持論ですから,これこそ政治のスポーツ化が如実に現れている典型だと思われます.
スポーツという活動の本質的姿の一つに,真善美を徹底的に追求する姿勢があります.
※これについての詳細は■井戸端スポーツ会議 part6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」を御覧ください.
人々がスポーツや優れたスポーツ選手に向けている眼差しとは,こうした「何か(真善美)」を損得勘定なしに徹底的に追求するという姿勢ではないかと思うのです.
近代スポーツでもこの姿勢が残ってはいるのですが,これに加えてスポーツはより大衆化,エンターテイメント化してきていると考えられます.
近現代においてスポーツがダメになってきているとは言いません.ですが,こうした大衆化とエンターテイメント化の弊害が至る所で出てきており,政治もまた同じ道をなぞっているとも言えるのではないかと思うのです.
「票を読む」というのは,まさに政治をスポーツ的なエンターテイメントとして楽しんでいることの象徴です.
もちろん,票を読んでいる本人は至ってマジメな活動だと認識自覚しているのでしょうが,それはスポーツ的な目線で見れば,プロ野球のリーグ中,
「今年のペナントレースの順位はどうなりますかねぇ?」
なんていう質問に
「ハイ!私の予想はコレ(・ω<)」
などとワイドショーで語っている引退選手や野球好きタレントと変わらないものです.
えーっと,ちょっと何が言いたいのか難しかったかと思いますが,刺激の強い言い方をすればつまり「お前がそこでペナントレース結果を予想したところで,これから繰り広げられる各チームの戦果には影響しないだろ」というところです.
ついでに言えば,「それを一般の皆様が受け取ったとして,それで何がどうなるというのでしょうか?」という感じ.
もっと言えば,「へぇー,それで1つの情報コンテンツとして成り立つんだぁ〜」ってことです.
どのような野球をすれば得点力が上がるのか?どういうピッチングをすれば防御力が高まるのか?という話ならまだしも,順位予想や優勝予想をするだけなら「だから何?」感が止まらない,ってことです.
スポーツの楽しみ方は人それぞれですし,その認識は違っていて当然なのでしょうが,スポーツに人々が魅了される理由というのは,各選手,各チームが繰り広げる強く美しいプレーによる勝負だという点は一致しているところでしょう.
一方で,スポーツを「観戦する」という楽しみ方がここまで発展してきたのは,近代スポーツの特徴の一つです.
勝った負けたも大事ではありますが,そこで繰り広げられている流れの中でのアナログなプレーに,強さや美しさを観るのがスポーツの醍醐味と魅力です.
球速を1km/hでも上げる,ジャンプ力を1cmでも高める,重量を1kgでも多く持ち上げる,狙った所に1mmでも近づける.そうしたプレーをどのように鍛錬するか?実現するか?というところに,スポーツ本来の魅力があるはずなのです.
ところが近現代スポーツでは,結果を生み出すはずの「プレー」をすっ飛ばした予想や統計学的な予測によって「戦績(競争結果)」を分析しようとしたがります.
強く美しいプレーとは何か?それこそがペナントレース結果予想よりも重要なはずなのですが,近現代スポーツにおいてはそうではなくなってきているのが現実です.
選挙や政治にしてもそうで,問題になるのは各政党や政治家が「この国をどうしようとしているのか?」という点であるはずなのです.
ところが,どこが・誰がどれだけ票を獲得できるのか?という話で盛り上がり,「票を読む」ことや「政局」が政策議論と同等,場合によってはそれ以上に重要なテーマだと認識されるこの社会は,政治のスポーツ化が色濃く反映されていると見做せるのではないでしょうか.
つまり,スポーツにおいて「プレー」ではなく「戦績」を重要視するようになってきた現代人は,選挙においても「プレー」ではなく「戦績」に興味を移し始めているのではないかと解釈できるわけです.
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