2017年1月29日日曜日

「学校」が誕生した理由

前回もそうだったのですが,過去記事の意図の反芻,咀嚼を試みました.
もう一つ書いておこうと思います.

だいぶ以前になります.こんな記事を載せました.
なぜ教育者に右翼・保守が少ないのか
そこからの引用がこちら↓
右翼・保守的な教育方針を掲げる人に典型なのが,「社会に出たら他者との競争になる」ということで「だから学校では競争させることを学ばなければいけない」などと言い出すことです.
まともな教育者なら背筋が凍りつくような発想・着想ですが,彼らはそれをおくびにも出さずに言い放ちます.当然,そんなバカが教育現場に立つことは避けられてしまいます.だから右翼・保守的な教育者が少ないのです.
(中略)
「大人のルールを学校や子供に適用させようとする」
右翼・保守的な教育方針を推進する人の,最も典型なのがこれです.
もともと,近代における学校とは大人社会のルール,大人の論理から子供を守るために誕生したと言っても過言ではありません
最近,学生と類似した話題がありまして,そういえば昔,こんな記事を書いたことがあったなと思い出させてくれました.
でも,私としては穏やかな気分ではありませんでした.

その学生が言うんです,「ところで学校って,どうして存在するんですかね?」ですって.
オイオイ,君は教育系の授業を受講してるんでしょ? バカ言ってんじゃないよ.

「学校の先生」を目指す者なら誰しもが知ってるはずのことです.
私も一応,「中学・高等学校教諭」の免許を持っているので大学の講義で勉強しましたよ,「学校が存在する理由」というものを.

ところがですね,いざネットなどで調べてみましても,この「学校が存在する理由」とか「学校が誕生した理由」が意外とメジャーなコンテンツじゃないんです.いやホントに.
まるで「諸説ある」なんて扱いになっているし,ウィキペディア日本語版でも内容が薄い薄い.ペラッペラです.
学校(wikipedia:2017年1月29日現在)
なお,ウィキペディア英語版も内容が豊富とは言えません.

「学校 存在理由」なんかでググってみたら,かなり悲しい検索結果を得られます.

もちろん,「学校」と言っても近現代における学校です.人類史における学校の誕生について話しているわけではありません.それであれば,たしかに難しい話.
でもね,こと “近現代” において学校が誕生し,それが存在する意義や理由というのは,教育についてまともに勉強した人なら常識的なことなんです.普通に講義で取り扱われますから.

学校誕生の事情を知らない人であれば,
「社会人になるための知識や態度を身につける」
というのを思いつくかと思います
文部科学省にもこうあります.
学校教育(文部科学省)
学校教育は、すべての国民に対して、その一生を通ずる人間形成の基礎として必要なものを共通に修得させるとともに、個人の特性の分化に応じて豊かな個性と社会性の発達を助長する、もっとも組織的・計画的な教育の制度であり、国民教育として普遍的な性格をもち、他の領域では期待できない教育条件と専門的な指導能力を必要とする教育を担当するものである。
ですが,これは学校が存在する本当の理由ではありません.
これはあくまで「学校教育」について説明しているのであり,表面的な理由であり,政治的・民主的に納得してもらうための理由なのです.
学校が存在する本質的な理由ではありません.

私も大学の講義で習い,今でも教育系領域では半ば常識的なものであるはずのものを書きますと,過去記事にも書きましたように,「大人社会のルール,大人の論理から子供を守るため」なんです.

産業革命に代表される近代・資本主義社会の始まりは,子供を経済的に優れた「労働者(小さな大人)」と見做し,これを搾取する力学が働きました.
効率よく資本を大きくしようとする人間の欲望は,より賃金が安い労働力を求めることを必然としますので,結果,そこでは子供の養育環境が劣悪なものとなったのです.
ここらへんの事情は,高校の世界史や社会なんかでも常識的なところですね.

つまり,残念なことに我々が生きる「近現代」という社会は,放っといたら子供ですらビジネス目的で搾取しようとする本性を持っているんです.

それではいけないということで生まれたのが近代における「福祉」の始まりであり,子供を一定期間そうした環境から隔離する法律が作られてゆき,それに伴い誰もが入学できる「学校」が誕生します.
それが現在の「学校」の存在理由であり,誕生した経緯です.

極端に言えば,私達が知っている学校というのは,「大人社会から子供を隔離するために存在する」のです.
逆に言えば,誰もが思いつく「社会人になるための知識や態度を身につける」というのは,そうした「大人たち」を納得させて,子供を学校に行かせる制度を作る上での建前でしかない.
そう捉えてもらえれば,学校にまつわる諸々の話が,スゥーッと腑に落ちてくれるのではないかと思います.
もっと言えば,この部分の認識において「(まともな)教育関係者」と「一般人」との間で大きな齟齬があるんじゃないかと思うんですよ.まぁ,当然かもしれません,建前があの建前なわけですから.

さてその上で.
「今の学校は社会から隔絶されているから云々」だとか,
「もっとビジネスの役に立つコンテンツを云々」だとか,
「教師は一般社会を知らねぇから云々」
といった批判や指摘が,どれだけトンチンカンなものか分かっていただけるかと思います.

最近の日本の総理大臣は「云々」をデンデンと読むそうですが,
安倍晋三首相「云々」を「でんでん」と誤読? 参院代表質問答弁で(ハンフィントンポスト)
そんな政権が教育改革とか,面白くない冗談です.

社会から隔絶もなにも,がんばって社会から隔絶させているのだから当たり前ですし,教師は一般社会を知っている必要はないし,むしろ “知っている” 奴に碌な教師はいない.

当然のことながら,これにはこんな反論もあるでしょう.
「今時,子供をビジネスのために搾取するなんてことは想像できないんだから,現代の学校は新たなステージに移行してはどうか?」と.
これはちょうど,自衛隊のことについて「今時,日本で戦争なんかあり得ないんだから,現実的な要望である『大災害救援隊』として編成すればいいのではないか」というのと似ています.

答えは「ダメ」です.
“それ” がどのような形で存在しているか,取り巻く事情や環境は多々あるでしょう.問題・課題をたくさん抱えている場合もある.
でも,“それ” が誕生するに至った理由,存在する理由を簡単に扱ってはいけません.

軍隊があくまで戦争と国防のために存在するのと同様,学校はあくまで「社会から子供を守る」ために存在しています.その必要性に迫られて誕生した存在です.

そして,私に言わせればこうした “社会的要望” に学校は絶対に屈してはいけないし,学校の存在意義を問う重大な圧力なのです.


参考文献として,一般的なテキストを紹介しておきます↓
  


2017年1月26日木曜日

「日本人」という居直り

これまでに,なかでも特に昨年後半部で書いてきた記事群を読み返してみて,それらで私が何を言いたかったのか反芻してみたところ,このタイトルのようなものになりました.
これは,昨今取り沙汰される「日本が今,右傾化している」とか,「外国人からの評価を扱ったネット記事がウケやすい」といった話に触発されて書いてきたものでもあります.

ようするに,「日本」とか「日本人」ということを過度に強調して取り扱われる話題が多い,それってちょっと気持ち悪いよね,ということについてです.
いや,別に日本人であることや日本のことをテーマにすることが「おかしい」ということではありません.
ちょっと簡単過ぎやしないか,おめでた過ぎやしないか,ということです.

もともとは「日本人という病」というタイトルにしようかと思っていましたが,すでに同名の書籍が出版されているようなので避けました.

なんだか整理できていない文章になるかもしれませんが,感覚的なところをここで述べてみたいと思います.

「自分自身が日本人であることについて」という話題があります.
ちょっと恥ずかしい感じのする話です.

かくいう私は,自分自身を「日本人」だと(真剣にシリアスな意味で)認識する機会は全くないし,そう思うつもりもありません.
ですから,「我々日本人は・・!」などと気合いの入った言動に遭遇すると違和感を覚えます.

これは「日本人」であることを嫌がっているわけでも,不満に思っているわけでもありません.気にしていない,ということです.
これは幸せなことだと思います.日本人であることを意識しなければいけない状況なんて,不幸な状況でしょう.

これはつまり,「わざわざ自分自身が日本人であることを意識したい人」というのは,幸せな生活を送っているわけではないのかもしれません.
常識的に考えてみてください.自分のことを「私は日本人だ」と念じなければならないなんて,ちょっと尋常ではないですよ.
どうしたんですか? まずはお茶でも飲んで落ち着いてください,って言ってあげたくなります.

私は自分のことを日本人であるとは思いたくありません.思わないようにしています.
これは,私が在日だとか反日だとか世界市民だとかって話ではありません.
「日本人たるもの,日本人だと思ったら負けだと思っている」
という話です.

え? 過去記事とどんな関係があるのかって?
これまでにこんな記事書いてきましたね.
鳥なき島の蝙蝠たち(1)古代四国人
じゃあ,どのラーメンが一番旨いのか?
新年への準備,お宮とか田の神とか

この手の記事ですが,何の意図もなく書いてきたわけではありません.私なりの「日本人観」を散りばめてきました.

つまりですね,私は日本よりも西国に愛着があるし,日本人である前に「四国人」であると思いたいし,四国人である前に「高知県民」でありたいし,高知県民のなかでも「波多国人」であるし,波多国の山間部が私の祖国になるんです.
これが私の国の姿です↓

自分自身が日本人であることを意識しようとするのは,すなわち,自分自身が日本人であることへの不信感からきています.
この「不信感」は,自分が日本人らしく振る舞えているかどうか? とか,今ここにある日本は「本当の日本」ではないのではないか? といった感覚から惹起されます.
そんな熱り立った言動が,「右」の人達からよく聞こえてきます.微笑ましいですね.

真なる日本人であるならば,そうした不信感を抱く必要はありません.
今そこにある生活が日本だからです.

こうした不信感に苛まれてしまったのが「ネトウヨ」であり,「東京人」なのです.
※なお,ここでいう「東京人」とは東京在住の人を指すのではなく・・以下略)

東京人は,自分自身を「日本人」であろうとします.
なぜなら,彼らは日本人ではない,もしくは日本人になりきれてないからです.
彼らは「日本人であること」についても,質より量を大事にします.目に見えるもの,測定可能なもの,他の人に問いかけ納得してもらえるものを信じるのです.
じゃあ,どれが一番良いのか?
日本人であることを捨て去り,日本人ではないことにより生きながらえてきた己への不安感から,再び日本人であることを渇望している人.それが「東京人」の本質です.

私は今関東に出てきていますが,まるで海外滞在感覚です.海外に行った時の感覚を,この東京でも味わえます.
だからこんな記事も書きました.自分で読み返しても勉強になります.
東京人と中国人はよく似ている

よく,沖縄県民が「我々は琉球人だ」という主張をした時,これに対し「日本人である認識が低いのでは?」という話が右翼系の人達からあがりますが,私からすれば琉球人だと思うほうが健全な日本人です.

あと,関西人が東京に出てもなかなか方言が抜けないのは,その方言に「日本」があるからです.別に自己主張したいわけでも,標準語を見下しているわけでもない.
関西人には「関西弁をしゃべらなくなったら負けだと思っている」というのがありますが,これは言い得て妙です.
関西人が関西弁をしゃべらなくなった時が,日本人が消滅する時です.

2017年1月22日日曜日

警察用のトレーニング

前回の話.
警察をお世話する
肝心なことを書かずに,しょうもない話で終わっていました.

警察学校で行われているトレーニングのバージョンアップを依頼された我々の研究室は,(話が話だけにアレコレ説明できませんが)それなりの仕事をさせてもらいました.

そんな中で,警察学校の校長先生や教官と一杯飲む機会がありました,という話を前回しましたよね.
そこで,「警察学校におけるトレーニング哲学」というのも聞いてみたんです.
そのための懇親会でしたし.

校内では恐ろしい形相で生徒の前に立っていた教官も,飲み会では朗らかな雰囲気で接してくれます.あの高圧的態度の『鬼教官』は,多分に作られたキャラクタであることが分かります.
トレーニング・プログラム作成のヒントになればといろいろ質問する私に,酔っ払いながらも丁寧に対応してくれたんです.

私「警察学校の『体力トレーニング』で,重要視しているのはどのようなことなんですか?」
教官「まず,一番大切なのは精神面を鍛えることです.私はそのようにしています」
私「精神面ですか.どういった精神面を鍛えているんですか?」
教官「警察官になろうとしている者達ですから.やはり警察官に必要な精神ですね」
私「どのような手段で鍛えているのでしょうか?」
教官「例えば持久走をするのですが,いろいろな条件をつけます.やはり警察ですから,グラウンドを何周・何秒で走れ,というわけではないんだと思います.やはり警察官ですから,例えば犯人を追いかけて捕まえたとしても,すぐに次の命令があって別の犯人を追いかけなければならないという状況もあるでしょう.そういう時,しんどいから休みながら追いかけようというのではダメです.やはり警察官ですから,そこで気力を振り絞って走り出す必要があるんです.ですから,例えば『ラスト1周全力で走れ!』と指示して走らせたあと,ゴールした思わせて『はい,あと10周走れ!』と,それが終わったら『はい,あと3周!』なんてことを指示するんです」
私「うわぁ,めちゃくちゃきつそうですね.でも,たしかに大事ですね.そういうのを『トレーニングの特異性の原則』とか『トレーニングのモデリング』って言ったりするですよ.理にかなっていますね」
教官「そうですか.理論的にも正しいのですね.あとは,やはり警察官ですから,運動着で走るなんてことは普通はありません.制服や重装備で走らせることもあるんです.例えば,荷物やシールド(透明の盾)を持たせて走らせたりします」
私「それもトレーニングの理論として適切だと思います.スポーツでも,用具を持たせた状態でのトレーニングが必要だったりしますから」
教官「あと,やはり警察官ですから,連帯責任ですね.自分の行ないがチームに影響するということを叩き込みます.班分けして取り組んでいるんですが,お互いを気にし合う状況を作っています」
私「そういうことを伝えるためにも,体力トレーニングの場は重要なのですね」
教官「そうですね.体力も大事ですが,精神面を鍛えるという部分が大きいように思います」

“やはり警察官ですから” っていうのが印象的な教官でした.
それに,別に私達が介入しなくてもいいんじゃないかと思ったのが正直なところです.

私「そもそも,警察官に求められる『体力』とはどのようなものですか? そういうトレーニングの狙いとか目標みたいなものってあるんでしょうか?」
この質問には学校長が答えてくれました.
校長「いろいろな要素があるのでしょうが,まずは逃走する犯人を追いかけて取り押さえるという体力です.今日,警察用の体力検定(JAPPAT)を見てもらったかと思いますが,あれもそうした体力を想定しています.走って捉えて組み伏せる,という体力です」
私「なるほど,だから全身持久力と筋持久力,それに敏捷性をテストする内容になっているのですね」

あと,学校長は『体力トレーニング』に関連してこんなことも話されていました.
校長「実は,こんな話があるんですよ.警察官を志望する人は,景気が良いときほど良い人材が入ってきて,不況の時ほど困った奴が入ってくる,っていうものです」
私「え? どいういうことですか?」
校長「景気が良いときは,別に公務員に,ましてや警察官になろうなんて人は少ないんです.ですから,そんな中でわざわざ警察官になろうとする人はよほど気合いの入った人が多い.その反対に,不況になると警察官にでもなって安定しようとする奴が現れます.それがまた,そんな奴だから頭はいいんですね,だから筆記ですぐにパスできちゃう.だけど,そういう奴は体力がないんですよ.皆が皆とは言いませんよ.だけど,そういうのが増えてくるという印象はありますね.そして今は不況ですよね」
私「あぁ,なんか分かる気がします.私達の業界にも同じことが言えるかもしれません」
校長「ですから,この体力トレーニングをなんとかしたいんです.ここに日本の警察官を変えるものがあるように思えるんです.時代が進んできて,警察官に求められるものも変わってきているとは思いますが,警察の仕事の基本はやっぱり体力です.体力を鍛えるということを大事にしたいんです」

そういうこともあって,この学校長は我々の研究室にお願いしたんだそうです.

ちなみに,当たり前ですがこの仕事で私達に『報酬』はありません.報酬を受け取ったらまずいので.
でも,いくらなんでも何もなしというわけにはいかないからということで,生徒たちが作った記念品「警察学校キーホルダー」を頂きました.
まだ机の引き出しに入っています.

2017年1月19日木曜日

警察をお世話する

警察のお世話になったことは少ないのですが,警察をお世話したことがあるというのは結構レアだと思います.
今回はそんな話をしてみます.

今から10年くらい前のことです.私が大学の助手をやっていた時,所属する研究室に警察学校から「体力トレーニング法」についての依頼がきたことがあるんです.
なんで私達みたいな研究室に警察の方々が体力トレーニングの相談をしにきたのか不思議でしたが,まあ,面白そうだからここは一つ引き受けてみようということに.
※この話は学会で発表もしたので機密事項じゃありません.

相談を受けているうち,話題がそれぞれの出身高校のことになりました.そしてなんと,相談を持ち込んできた警察官と我々の先生が同じ高校出身で,しかも年もかぶっており,なんとなくお互いを知っていたということが判明.
「あっ,あの時のお前か!」ということで,突然先輩風を吹かしだす先生.
「あっ,どうも先輩」と,突然下手に出始める警察官.
もの凄い偶然ですね.

さて,話は警察の方の相談です.
なんでも,新しく着任した学校長が体力トレーニングを重視したいということなんだそうです.だから,ここは一つ大学の力を借りようということになったんだそうです.
話を聞いてみますに,それまで学校で行われていた体力トレーニングは,教官各々が考えたプログラムを毎度試行錯誤しながらやっているとのこと.
あとは,自主トレとして生徒各自に任されているということでした.

いや,別にそれでもいいんじゃないの,と思ったのですけど,先方さんとしては,もう少し体力トレーニングをシステマティックにしたいとの要望です.つまり,「しごき」としてのトレーニングだけでなく,体力向上がしっかりと把握できるものにしたいのだそうです.

別に相手が「警察」だからというわけじゃないのですが,我々としても適当なことはできないと思い,まずは現在どんなトレーニングがされているのか下見をすることにしました.

いや,なかなか大変そうな感じでした.生徒さんが.
これ以上がんばらせる必要があるのかと言うほど.
とは言え,より効果的なトレーニング・システムを構築すれば,長期的には生徒のためにもなるわけですし,ここは一つ協力しようということになったわけです.

なお,警察にはJAPPAT(ジャパット)という専門の体力検定があります.
ネットでググれば色々出てきます.実際に見学させてもらいましたが,結構実践的な体力評価方法だと思います.かなりアナログチックですけど,全国的に普及させるためにはこういうのが良いんじゃないでしょうか.
ちょうど,自体重のみで行なう「サーキットトレーニング」みたいなテストです.

この体力検定の成績向上が大事だということなので,研究室としても「サーキットトレーニング」を提案した次第です.
体力トレーニングの原則の一つ「特異性の原則」からすれば,私としてはJAPPATをテストではなくトレーニングとしてやればいいんじゃないのかと思ったのですけど,そこは口出ししていません.助手ですから.

いえ,実は先生にもそれを進言したんですが,先生も「それだと,せっかく依頼してもらっているのに,なんだかパッとしない」ということだったので.

「日々のトレーニング状況を記入していくことで,現在のトレーニング効果や最適なトレーニング負荷が分かる」というエクセル関数を組んだファイルもプレゼントしました.
今ではスマホでもポピュラーな「トレーニング日誌アプリ」みたいなものです.我ながら,時代を先取りしていました.
そうは言いましても,専門アプリではなくエクセルシートですから,関数を組んだ私以外の人が扱うのが難しいわけで,半年くらいは利用方法について警察学校の方とメールのやり取りしていました.
あれから後どうなったか知りませんが,なんらかの形で発展してくれていればと思っています.

さてさて,警察学校を訪問・見学した後ですが,今後協力していくということもあって,学校長や教官数名を交えて,近くの繁華街で懇親会を開いてくれました.
※警察の方と一緒に飲むのって違反じゃないですよね?別に危ない取引してるわけじゃないし.

校内では強面だった教官の方も,居酒屋ではとても気さくに話してくれます.
30代半ばかなと思う女性教官もいたのですけど,この人がまた非常に美人でした.きっと生徒からも人気があったこと思います.ところが,飲むと途端にキャピキャピ女子になってしまいました.「まだ独身です」という理由が少し分かった気もします.きっと生徒たちはこのことを知らずに卒業しているはずです.

ところで,ここでもやっぱり私はこの質問をしています.
「皆さんのお仕事で,最もツラいことは何ですか?」

「やっぱり,◯◯(その地域を代表する繁華街)の駐在勤務でしょうね」
という一人のつぶやきに,一同,うなずいています.

「若い頃,そこで勤務していてこんな無線連絡が入ったんですよ.飲み屋の前で,巨漢の外国人が酔っ払って刃物を持って暴れているって.とりあえず駆けつけるじゃないですか.でも,そこからどうすればいいのか困るんですよ.まずは声をかけてみるでしょ.でも,外国人だし,全然通じてないなって分かるんです.私達,警察官じゃないですか.ここで私達が何もしないわけにはいかないから,まあ,行きますよね,取り押さえに.でも,めちゃくちゃ怖いですよ.もちろん応援を呼ぶんですけど,応援が来るまでに何かあったら大変だし,あれはツラいですね」
私「そういう時って,拳銃で威嚇できないんですか?」
「いやぁ,ちょっとそれは無理ですね.問題になるかもしれませんから.しかも,威嚇のために警告しようにも,外国人で言葉通じてないわけでしょ.やっぱり問題になります」
(今はだいぶ緩和されているようですが,ご存知のように,かつて警察官の銃発砲のハードルは非常に高かったことを覚えている人も多いでしょう)
私「そんな時,取り押さえに行くのって,やっぱり若いもん順なんですか?お前が行け,みたいな」
「いえ,そこは連携がありますから.役割分担で取り押さえますよ」

逆に,一番楽な勤務は,田舎の駐在勤務とのこと.
「パトロールして終わり,っていう日が続くんです.まあ,それが一番いいですね」

懇親会もお開きになろうかという時,まだ20代前半だった私に向かって学校長がこう言います.
「もしその気があるなら,我が社に就職するというのはどうですか?」って.

なんでも,警察の人達は自分たちの組織のことを「会社」として表現することがあるんだそうです.
会話の中で,自分たちが警察官であることをカムフラージュする意味があるんですって.
これは『踊る大捜査線』とかでも知られるようになったことでもあり,私もその時,あぁ,こういうふうに使うんだなと興味深く思いました.

実は,私の小さい頃の「将来の夢」が,警察官になることでした.
もう警察官を志望する気はないのですが,こういう形で貢献できたことは良い機会になったと思っています.

2017年1月18日水曜日

じゃあ,どれが一番良いのか?

さっき,知り合いの大学教員と電話をしていたんですけど,そこでブログ記事のネタの提案を受けました.
前回記事やこれまで扱ってきた「東京人」の特徴に関連して,
「あいつら,なんでも『一番』とか『ランキング』を気にするよね.それをネタにしてよ」
っていう提案だったんです.

続けてこう仰られます.
「東京人って,分かりやすい優劣をつけたがる傾向があるよね.『最高の◯◯は何か?』とか,『最も優れた◯◯は何か?』とか.つまり,『◯◯が◯◯という場合において最適なのは何か?』 っていう感じじゃないんだよ.なんでも単純に評価して考えたがる」

たしかにその通りです.それが『東京人』です.
※この手の記事で繰り返していますが,ここでいう『東京人』というのは「東京在住の人間」という意味ではありません.間違えて怒らないでください.東京人とは,東京みたいな場所に住むことによって発生する,都市型俗物人種のことです.
詳細はこちらをどうぞ↓
やっぱり東京を諦める
東京人と中国人はよく似ている

都市型俗物人種である東京人には様々な特徴がありますが,典型的なのが質よりも量を大事にする思考パターンです.
いやいや,質を大事しているよ,と言うその実,よくよく聞いてみると彼らの言う「質」とは「量」のことだったりします.

ようするに,何かしらの “物差し” で計測可能なもので,その “測定値” が優れていれば「質が高い」と見做すんですね.
例えば,長さ重さ軽さ明るさ速さ.あとは売り上げ数とか,アンケート調査結果とか,レビュー数とか,受賞回数とか.
でも,お分かりかと思いますが,これらは「質」ではなくて「量」です.

そして,こうした特性が表出しやすいのが,『一番』とか『ランキング』を気にするという特徴なのですけど・・.

でも,件の先生に私はこう答えました.
「いや,先生,実はですね,『一番』とか『ランキング』を気にするバカについては,もう既に記事で取り上げてるんですよ」
「え? そんなの取り上げたことあったっけ?」
「はい.ラーメンのことを書いた時です」

これです↓
じゃあ,どのラーメンが一番旨いのか?

ところで,私はどの授業でも必ずこの「東京人思考」を取り上げ,そこから解脱するよう訴えるようにしています.
そのものズバリに「東京人」という話はしませんが,学生には,
「どれが一番良いのか?」「万能なものはどれか?」
という姿勢で物事に向かうことを諌めることにしています.

大学とは,人間が東京人になってしまうことを防ぐための教育機関だとも言えます.
何が一番良いのか? という思考パターンから抜け出すためのトレーニングが,大学での学びです.

2017年1月16日月曜日

騙された? いえ,判断力の問題でしょ

ネットのニュースとか動画を見ていると,ここ数日で盛り上がっている話題がこちら.
小池百合子知事が民進党と候補者調整で協議へ(産経新聞2017.1.8)
東京都の小池百合子知事と民進党が夏の都議選に向けて、選挙協力の協議を始めることで合意していたことが8日、民進関係者への取材で分かった。小池氏は自身が設立した政治塾などから30~40人規模の擁立を目指しており、民進と候補者調整を進める。
「裏切られた!」などというネットのコメントもあり,どうやら衝撃的な話題として取り扱われているようです.
こんなネット記事もあります.
小池百合子都知事が民進党と2017都議選協力合意で完全終了のお知らせ(情報の境界)

小池百合子 = 愛国・保守的で,改革推進派で,躍動感のある本格的な政治家
という印象が多くの人にあったんだそうです.
それが民進党や公明党と組んだり,最近は改革もトーンダウンしているみたいで,なんだか騙された気がする,といったところでしょうか?

いまさら何を言うのか,といったところです.
小池都知事がこういう政治家であることなんて,遥か以前より分かっていたことです.
この人は典型的なスタンドプレーヤー,目立ちたがり屋の政治家です.保守色を出していたのも,それが昨今の流行だからです.
今日日,リベラル左翼な政治家は流行りません.
にもかかわらず,民進党や公明党と組むのは,自民党と対決姿勢を見せたほうが今の都民には受けるからでしょう.広告のためです.

だから舛添のままでいいって言ったのに.
「いや,舛添じゃダメだったから,辞めさせて選挙をしたんだ」ということなのかもしれませんが,もはや東京という場所がまともな人間が少ない地域なので,どんなに頑張っても無駄です.
まともな人間がいない地域に,まともな政治家が生まれるわけがない.自明の理です.

過去記事でも幾度となく書きましたが,東京はダメな地域です.救いようがありません.
話の前提として,これはしっかり認めた方がいい.

ですから今後問題となるのは,この堕落した地域で発生する禍々しい空気を,その他の地域に波及させない努力をすることです.
東京は既に手遅れです.病気にかかっているようなものです.だから病気ならないようにする手段を講じようとしてもダメです.

病気にかかっているのに,運動やトレーニングをして体力をつけようと死に急ぐ奴がいますよね.
トレーニングは病気になる前にすることです.病気にかかっているのに予防のため頑張るのは逆効果です.
病気の奴がトレーニングしても碌なことにはなりません.改革とか無駄を省くとか,都の職員を締め付けるといったことは,健康な状態でやることです.

東京の存在そのものが病気なのですから,東京にできるのは,その他の地域に迷惑をかけないようにすることくらいです.
マスクをしても風邪の予防にはなりませんが,風邪をひいた奴がマスクをすることで感染拡大を防ぐことができます.それと一緒です.
マスクに風邪を予防する効果はあるの?ないの?効果的な使い方とは?(耳鼻喉の健康情報局)

小池百合子は,病気にかかっているのにマスクもせず盛大にくしゃみを繰り返しています.
そのくしゃみをモロに受けて迷惑している地域もありました.
バレー横浜開催は困難に(毎日新聞)

病気にかかっているくせに,小池や都民は張り切ります.豊洲移転問題なんかが典型です.
大人しく移転すればいいのに,地方民としては,東京が一体何をしたいのか意味不明です.
そもそも,たかが一つの魚市場の移転を全国ニュースにする必要があるのか?
勝手にやってくれ,ってのが実際のところです.

あの東京です.どうせどこに建てたって汚染地域です.
地下水? 地下水なんかより,地上や流通路での汚染を気にすべきでしょう.優先順位や現実認識に欠けています.
今の築地だって,かなり化学物質や放射能汚染されているところではないですか.
築地市場(wikipedia)


じゃあ,東京をどうすればいいのか?
繰り返しますが,東京は手遅れです.もう諦めるしかありません.
何とかしようとすればするほど,どんどんダメになっていきます.
居ても立ってもいられない人は,デモとかしちゃいます.マイク持って怒鳴り散らす人も現れます.
私も都内に出た時たまに見ますが,なんとも厭世的な気分にさせられます.

実のところ,東京はターミナルケア(終末期医療)が求められているのではないかと思います.
もう手遅れなので,苦しまず,周りに迷惑をかけず,静かに最後を迎えるための方法を考えるべきではないでしょうか.

そういえば,ターミナル(東京駅)があるのも東京ですね.
こういうのって,ただの偶然ではないと思います.


どうしても「なんとかしたい」人は,この過去記事をどうぞ
鳥無き島の蝙蝠たち(4)空海

2017年1月15日日曜日

今年もセンター試験の感想

センター試験が終わりました.
定期的にセンター試験の記事は書いていますので,風物詩として今年も書いておこうと思います.
センター後日
センター試験とか入試におけるアレコレ
センター試験とか入試におけるアレコレ2016

毎年のことですが,今年は特に我々への戒厳令が強かったように思います.
センター試験をやる大学では,事前に説明会が開かれるんですけど,そこでセンター試験担当者からいつも以上に「SNSにセンター試験の秘密情報を書き込まないように」という話が繰り返されました.
きっと,大学入試センターから各大学のセンター試験担当者へのお達しがあったのではないかと察しているところです.

本学教員にそんなことをしている人はいませんが,どうやらたくさんの大学教員がTwitterとかFacebookに「試験中なう」「今リスニングだよ(・ω<)」みたいなことを書き込んだり,試験実施要項(試験の手順を書いた説明書のこと)やその他資料の画像アップしてたりするんだそうです.

けしからんですな.
私みたいに,大人しく書いてればいいのに.

さて,このセンター試験ですが,過去記事で私は「やめればいいのに」という表現があるので批判的だと思われるかもしれませんが,センター試験そのものに対して悪く思ってはおりません.
例えば,
センター試験の廃止について述べておく
とかでも述べているように,これを廃止して新しい制度のテストを考えるにしても,現行のセンター試験のノウハウは引き継ぐべきだと考えております.

というか,私が「やめればいいのに」と言っているのは,わけわからん不思議なテスト方法のことです(リスニングとか同時複数受験とか,受験者対応とか).

ついでに言うと,センター試験を廃止して新しく考えられている例のテスト方法ですが,いやちょっともう勘弁してくれって感じです.詳しくは上の記事で述べています.
ちなみに,センターに代わる新しい方式はこちら↓
新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について(文部科学省)

この仕事を始めて10年近くになりますが,センター試験の業務について,取り仕切る役割(入試本部)以外は一通りの業務をやらせてもらいました.
その上で,どの役割がどんな感じだったのか思い返してみますと..,

1)主任監督者
私のなかでは一番楽でした.
教室環境とか監督者数(規模)とかにもよるんでしょうけど,一般的な試験場においては主任監督者が一番楽な役割だと思われます.
てっきり「主任」という立場だからしんどそうに思えますが,実は一番仕事が少ないのが主任です.

主な仕事は「指示文章を読み上げる」こと.他にも書類作成などの事務的作業がありますが,たいしたものではありません.
むしろ,その他の監督者の方が ,ミスできない緊張感に苛まれる仕事は多いように思います.というのも,受験者対応とか配布資料の確認といったものには主任は手を付けないからです.

あと,これは逆説的ですが,主任監督者はアレコレ考えながら試験場にいるので,時間が立つのが苦ではありません.「やりがいのある仕事」とでもいいましょうか.そんな気がします.

気をつけなければいけないのは,自分以外の監督者が全て「初心者」で,やや小規模教室だった場合.
監督者A「私,監督するの初めてなんです.よろしくお願いします」
私「へぇ,そうなんですか,よろしくお願いします」
監督者B「あ,実は私もなんですよ」
私「えっ,あ,そうなんですか.へぇ」
なんて状況になると,とたんに緊張感が増します.
やれることは全部自分がやった方が安心できます.板書も欠席確認も,別冊配布も問題訂正の周知巡回も,主任がやるに限ります.


2)監督者
主任以外の監督者ですが,センター試験に慣れてしまえばこれ以上無い辛い仕事になります.
緊張感も「リスニング」以外は全く無いし,時が経つのをただひたすら感じるだけの2日間になります.
私も「時が消える」ことを経験した口です.
時が消えるのはマズいので,リスニング以外では試験場後方でストレッチ体操に興じます.


3)検問
寒いです.寒いんです.
今年担当された皆様.お疲れ様でした.
検問する大学の「門」がどのような状態なのかにもよりますが,たいてい極寒に曝されるのが検問業務です.

たしかに試験業務のような緊張感はないかもしれません.
しかし,ただひたすら寒さに耐える2日間は,「俺も監督業務をさせてくれ」と言いたくなるほど厳しいものとなります.
ただ,一緒にずっといる警備会社の人と仲良くなることはできます.

ところで,知らない珍しい仕事をしている人に出会ったら必ず聞くことがあります.
「あなたの仕事で,一番つらいものはなんですか?」
というもの.
以前,センター試験の業務中,これを警備会社の人に聞いてみたんですよ.そしたら,こんな回答が返ってきました.

道路の建設工事などでは警備員を置かなければいけない義務があるとかで,たとえそれが山奥・森の中であっても,一定距離ごとに警備員が配置されるんだそうです.
誰もいない,たまにサルとかシカが現れるところで,ひたすら時が経つのを感じるだけの1日.
誰もいない,けど,何かあったら対処しなければいけないので寝るわけにもスマホいじったり読書するわけにもいかず,用を足すのも森の中.

「あと,もう一つあります」っていうので聞いてみたら,「コミケって知ってますか?」とのこと.「知りません」って応えたら,こういう不思議なイベント↓だということを教えてくれました.

なんでも,いわゆるサブカルチャー系の「オタク」が山ほど押しかけるイベントとのことで,その会場警備が非常に興味深いんだそうです.
この警備員さん,初めてそこの警備をした時が,違う意味で一番つらい仕事だったとのこと.

警備中,リーダーから無線連絡があるそうです,「怪しい奴がいたら報告するように」と.
でも,そこはオタクだらけの会場です.そのまま解釈したら「怪しい奴しかいません」

さらには,ミニスカートなど露出の激しい女の子にカメラを向ける,だけならまだしも,そのスカートの中を撮るような怪しい男がいるから,「おいっ,君.何をしている!」って制止したら,そのカメラ男ではなく,ミニスカート履いている女の子から「ちょっと,邪魔しないでよ!」って怒られたんだそうです.

「え!?」ってテンパってると,周りにはその他無数のカメラ男がたむろ.
よく見ると女の子もちょっと変わった風貌.今思えばそれがいわゆる「コスプレ」ってやつだそうで,この会場では,コスプレしている女の子のエロい写真を撮るのが恒例なんだそうです.
こんなところです↓
【コミケ91】初日の「美人コスプレイヤー写真集」24連発! 会場に降臨した女神をとくと見よ!!

警備したいものがなんなのかよく分からない.つまり,自分たちの仕事は一体何なのか判断に迷うような仕事が一番つらいんだろうな,「センター試験も同じですね」などと検問所で笑い合っていたら,「静かにしてください」と他の事務員さんから怒られました.

2017年1月11日水曜日

井戸端スポーツ会議 part 40「いくつになっても現役」

今,こんなニュースが話題です.
マニー・ラミレス「感謝」独立L高知と契約合意(Yahoo!ニュース)
カズ、50歳Jリーガーへ 横浜FCと契約更新 誕生日2・26開幕戦(Yahoo!ニュース)
共通しているのは,
「かつてのスター選手が『現役』であることにこだわり,格下・低報酬のチームに所属してでもプレーすることを求めている」
ということです.

私の故郷・高知にマニー・ラミレスが来る.
「マニー・ラミレス 高知と契約」我が目を疑いましたが,どうやら本当のようです.

実のところ,「マニー・ラミレス」と言われても知らない人も多いことかと思います.
ラミレスというのは,メジャーリーグ史上屈指の野球選手です.
マニー・ラミレス(wikipedia)
メジャー通算成績:555本塁打,打率3割,OPS996(メジャー史上9位)というスーパースター.
もちろん44歳になる現在はパフォーマンスも衰えていますが,こういうスター選手が田舎の選手育成球団に所属することの意義は大きいはずです.

ラミレス選手は2013年には台湾球界,その後もメジャー傘下のマイナーリーグで現役を続けています.現役選手として契約してくれるところなら,どこへでも行くスタイルのようですね.これはこれで尊敬できます.

「老人は若者に道を譲れ」という意見もありますが,現役選手としてどこまで通用するのか挑戦するのもいいのではないでしょうか.本当に通用しないのなら契約できないのだし,生ける伝説が,衰えたとは言え身近にいることの恩恵は大きいように思います.

もう一つのニュースは三浦知良選手ですが,考えてみれば,日本サッカーもそうでした.
Jリーグ発足当初,なぜかサッカー界の至宝「ジーコ」が鹿島アントラーズに所属していたのを覚えている人も多いでしょう.
この時既に衰えていましたが,ジーコが日本サッカーに残してくれたものは大きかったですね.

意外と知らない人もいるかもしれませんが,実はジーコはサッカーが上手い親日家のオッサンではありません.
大学院時代の先輩にサッカーファンを自称する女性がいたのですけど,この人,ジーコがどういう存在なのか知らないでいました.
ジーコ(wikipedia)
ジーコが日本サッカーに及ぼした影響は計り知れません.
(昨今の様子を見ると,その貯金を食いつぶしてきた感がなくもないですけど)

いや,私はラミレス選手と三浦選手のニュースについて,「彼らの存在が日本スポーツ界のパフォーマンスアップに貢献してくれるのではないか」といった類の話をしたいのではありません.

こうしたプロスポーツ選手が,できる限り長く現役を続けることの価値です.
第一線で通用しなくなったら引退,競技としてのプレーをやめる.そうした選択をするスポーツ選手が多い中において,いつまでもプレーを続けることを選択してくれる人の価値についてです.
これは,「◯歳なのに,若い人に負けずこんなに活躍している」という点に着目したいわけでもありません.

そう言えば,ちょっと前に映画「ロッキー・ザ・ファイナル」の話をしましたね.
体育学的映画論「ロッキー・ザ・ファイナル」
その内容と近しいものがあります.

プレーするからには勝つことを目指すのがスポーツです.それがスポーツの楽しみであり,魅力でもあるのですから.
しかし,勝つこと自体に価値があるわけではないのもスポーツです.

身の丈にあった環境で,自分がやりたい事をやれるだけやる.
考えてみれば,ラミレス選手や三浦選手のスタイルは,ビジネスの論理と人間味ある生き方のバランスを見せてもらっているようにも思います.

自分の能力に見合った場所を選び,選んでもらい,そこで出来る限りのことをする.報酬以上のことをするわけでもなく,給料泥棒と言われるようなことをするのでもない.

「パフォーマンスが低下したのなら引退すべき」が幅を利かせる現在にあって,こうしたバランス感覚がこの人間社会に求められているのではないかとも感じるところです.

2017年1月9日月曜日

とある美人姉妹の仇討ち物語

実家の近くにあるお宮のお話をしました.
新年への準備,お宮とか田の神とか

このお宮には,こんな絵が飾られています.

もともとこのお宮.私の父が子供の頃(70年前)には保育所として利用されていたそうです.
「保育所」といっても,この田舎です.当時は保育所専用の建物を建てるわけではなく,雨露をしのげる既存の建物を利用するのが普通だったとのこと.

そんなお宮にあるのがこの絵です.アップで撮るとこんな感じ.

約120cm×60cmの木の板に描かれています.
かなり劣化していて見づらいので,レベルやコントラストなどをいじってみました.お手持ちのディスプレイの加減で,見やすい方をご覧ください.


中央に白い着物の女2人と,赤い着物の男1人,その周りをたくさんの人達が囲んでいるのがわかります.
中央左の女は右手に薙刀を,右の女は紐(実際は鎖鎌),男は刀を持った侍です.

もともと3枚1セットの絵だったそうです.しかし,父が子供の頃,この絵があまりにグロテスクなので子供が怖がって泣いてしまうことから,保母さんがお宮の隅に仕舞い込んでいたところ,気がついた時にはシロアリに食われていたそうです.かろうじて残ったのがこの1枚なんです.

左下の部分に作者や書かれた日付,誰に向けて書いたのか,といった情報がありました.
掠れて見えにくくなっていますが,文久元年(1861年)にこの地域の団体に向けて描かれたことが確認できます.
作者の名は確認できなくなっていますが,父曰く,狩野派の一人がこの地を訪ねてきた際に書いてもらった,と言い伝えられているそうです.
狩野派(wikipedia)

奇跡的に生き残った1枚なので,父が再度このお宮に飾ったとのこと.
今では,小学校の地域見学などで「力蔵の力石」やこの絵の説明をしているようですね.

ところでこの絵,いったい何を描いているのかというと,この地域に住んでいた「美人姉妹による仇討ち」です.実際に起きた事件を描いています.

絵の右上をご覧ください.白い雲のような吹き出しに青い着物の侍と,黒い着物の男がいます.これは,黒い着物の百姓の男が,侍に無礼討ちにあっていることを描いています.
過去に起きた出来事を,こうした吹き出し雲で現しているのが面白いですね.現代の漫画のようです.
そして,無礼討ちにあった百姓の子供が,この姉妹2人なのです.

その事件が起きた詳しい時代は分かりません.おそらくは江戸時代中期ではないかとされています.
事件の場所は,実は私の実家がある場所のすぐそばなんです.
こういうところ.今も田畑しかありません.

その「無礼討ち」ですが,百姓相手とは言え理由があまりにひどかったとのことで,姉妹は父親を殺された悔しさに耐えきれず,この地を治めていた役人に「仇討ち」を申請します.
ところが役人は「女2人が敵う相手ではないから,やめておきなさい」と断ります.

それでも諦めきれない姉妹は,しつこく懇願.
そこで役人はこんな提案をします.
「では,この侍を1年間逃げないように軟禁しておくから,2人はその間に武術に励んでおくように.それなら仇討ちを認めよう」

最近もネット記事にありましたが,江戸時代は「無礼討ち」とか「仇討ち」のルールがかなり厳格に決まっていました.
そして,役人や領主の裁量でいろいろな条件が課されていたようです.
無礼討ち(wikipedia)
仇討ち(wikipedia)

さて,そうと決まれば姉妹は仇討ちトレーニングを始めます.
女2人とはいえ,普通に戦ったのでは勝ち目がありません.この地域で道場を開いている武術師範に相談したところ,「薙刀と鎖鎌を使うのが良いだろう」というアドバイスを受け,その師範のもとで修行をすることになりました.
ちなみに,この武術師範も絵に掲載されています.中央右部・吹き出し雲のすぐ下にいる茶色い着物を着た男です.
なお,その右にいる赤い服の男が,決闘を見届けている役人ですね.

そんなわけで,姉は薙刀,妹は鎖鎌の稽古をすることにしました.
1年も修行していれば,いくら父の仇とは言え姉妹が「もう仇討ちはやめよう」と言い出すのではないかという算段が役人にもあったのかもしれません.
しかし,姉妹は仇討ちのため1年間の修行を積んだのです.

そして決闘の日を迎えます.
1年がかりで,しかも日取りが決まっている仇討ち,さらには美人姉妹による侍相手の決闘ですから,見物人が大勢つめかけたようですね.

開始早々,姉が侍に左肩を切られてしまいます.絵にも,姉が左肩が切られている描写があります.
手負いで逃げまわる姉を助けようと,妹は必至の思いで鎖鎌の鎌の方を投げつけます.普通,鎖鎌での戦法は分銅の方を投げますが,鎌は投げません.鎌を投げつけるのはアニメや時代劇だけです.
妹はそれだけテンパっていたのかもしれませんし,姉を助けるための,やぶれかぶれの一撃だったのかもしれません.

それでも運良く,鎌は男の襟元に引っかかりました.
怯んだ侍に対し,姉は切りかかります.それでも侍,これを切り払って体勢を整える.
その時,武術師範が妹に向かって大声で「今だ! 鎖を引っぱれ!」と言ったのです.
襟元にかかっていた鎌は,侍の首を掻っ切りました.

首を切られた侍は絶命.
ここに姉妹の仇討ちが成ったのです.

小さな農村で起こった華々しいこの話は,時代がくだっても伝えられていたようで,たまたまこの地を狩野派の絵師が通りかかったからということで,記念に描いて残したものと考えられます.

2017年1月2日月曜日

力蔵の力石 〜中世日本における体力測定評価〜

先日の記事で,私の実家の近くにあるお宮の新年準備を取り上げました.
新年への準備,お宮とか田の神とか

そこで,こんな写真をお見せしましたよね.

この写真の手前にあるこの「石」.
今回は,この石の話です.
実は,我々の研究領域であるスポーツ科学にとっても関連のある,結構興味深い話なんですよ.

この石は「力石」と呼ばれています.
以前の記事でも紹介したように,この力石をお宮の境内前に飾ろうと言いだしたのは私の父です.
それまではお宮の社の近くに放って置かれていたものですが,言い伝えのある面白い石なのだからと,この地域の住民とかけあって寄付金を集め,展示用の台石を用意しました.

その台石に書かれている内容を写すと,以下のようになります.
※読みやすく読点括弧を入れ,明らかな誤植は訂正しています.
当石は131kgで,江戸末期より明治にかけ「力じまん」と呼ばれ活躍した力蔵が63歳の時,当時60歳以上の者は仲歩に出してはならぬと言う部落の決議を不服として,天神橋下の川より境内まで担ぎ上げて見せ,部落の決議を取り消したという力石です.
江戸末期から明治ですから,幕末の時代を生きた人ということになります.

以下,解説を入れますね.

「仲歩」というのは,今で言う地区代表者のことです.町に出て各地区の意見を反映する役割を担っていたのだそうです.

60歳以上の者を代表者にしてはならないというルールは,還暦オーバーの爺さんが会議用の資料などの荷物を背負って町まで歩いていけないから,という説が有力.当時は今のように舗装道路があったわけではないですし,行先によってはかなり過酷な山道があるからです.
本来なら老練な知恵者を会議に送り出したいところでしょうが,そのような事情から安全性を考慮して「代表者にできるのは60歳まで」としていたのですよ.

ところが,ずっと地区代表者を勤めていた力蔵としては,このルールが自分には当てはまらないはずだと憤慨したわけです.
俺は荷物を担いで遠くの町まで行って,戻ってこられるんだと.

このお宮の前には川が流れていまして,力蔵はその川からこの大きな石を担いで登ってきたということです.
その石を「力蔵の力石」と名付けて,記念にこのお宮(の脇)に置いて現在に至るというわけです.

つまりこれは,重荷を背負って山道を登れることを証明するための「体力テスト」として機能した石なのです.
131kgの石を担いで川岸を登ってくる,っていうのは半端じゃない運動能力です.これができれば,地区の代表者として遠出することができると言えるでしょう.

現在の文部科学省や厚生労働省がやっている「体力テスト」にしても,評価していることは結局のところ「力石」と同じことです.体力年齢を評価したり,活動レベルを測ったりしているわけですからね.
新体力テスト(文部科学省)
「これができたら◯◯だ」というテストとしては,むしろ,この「力石」はかなり実践的で判断も明瞭な測定方法だと言えるでしょう.やや過酷な方法だけど.

以来,このお宮でお祭りなどのイベントをやる際には,若者の通過儀礼や力比べとしてこの力石を担ぐことがあったそうです.
担いで歩ける人はそうそういなかったそうですが.
その度,「力蔵の爺さんは63歳で担いで歩いたそうだ」という伝説が,この村人の間で語られるわけです.

これと似たような話は日本各地に,いえ,世界各地にありますよね.
こうした伝説を,いわゆる「体力測定評価」の歴史として見てみるのも興味深いものです.
むしろ,今の体力測定評価にしたって,あと何十年・何百年かすれば,「昔の人たちは,ボールを投げたり走り回ったり,ストレインゲージを握りしめたりして,その人がどれだけの運動能力があるか測ったらしいよ.面白いね」と言われるようになるのかもしれません.

2017年1月1日日曜日

2017年正月のDIY

自宅・庭からの初日の出.

新年,明けましておめでとうございます.
今年もよろしくお願いします.

そして,今年の初月の入りです.今年の正月は非常にきれいな三日月でしたね.
これも自宅・庭から撮りました.山に入る間際を収めたものです.

ところで,盆正月で実家に帰るたび,父と私達兄弟で一緒に作っているものがあります.
それがこれ↓

父は「あたご」と名付けている小屋です.手製のクジラの看板に「あたご」と書かれているのが分かります.
父にとっては山作業の拠点.そして老後の楽しみ,いわゆるDIYっていうやつです.
あと,もし自宅が地震などの災害で使用不能になってしまった時に,緊急避難場所として利用する計画もあるようです.
ちなみに,この小屋の名称である「あたご(愛宕)」ですが,防火・防災の神様のことを指します.海上自衛隊の新鋭護衛艦に「あたご級」というイージス艦がありますよね.それと由来は類似しているかと思います.

今回はこの小屋の居住性を高めるためのアップグレードを施すことにしました.

昨年は小屋の東側に板を張りました.以下,昨年の作業中の写真2つ.

でも,上の写真で分かるように,側面を板張りにしたものの,小屋の内部は開放的です.
なので今回は,ここを仕切って扉をつけようという計画です.

まずは基礎をつくります.
敷居としてレールを敷き,柱と鴨居をとりつけ,そこに引き戸を入れました.引き戸はお寺の廃材を再利用することによって,ありがたい雰囲気を取り入れました.
こんな感じになります↓

これに板を貼り付けていきます.

引き戸を閉めるとこうなります↓

ひとまず今回はここまで.
あとの細かい部分は,父がのんびりやっていくそうです.

ちなみに,内装はこんな感じです.


上の写真の奥に写っているように,ここには水道だけでなく,山からの「湧き水」を引いています.
水道が止まっても大丈夫なようにしているんです.

次は内部の壁を張り,天井にも不燃性の発泡スチロール材を貼り付ける予定とのこと.あくまでここは「あたご」なので,かっこよさよりも安全性と機能性を重視します.

今年のお盆に,さらなるアップグレードを予定しています.
「暖炉」の設置を計画中なんです.暖を取れる上に調理もできればいいなということで,目下,どういう暖炉がいいか思案にふけっています.

小屋の周りも徐々に庭園化が進み,父の20年来の楽しみが広がっているようです.

私もこれを受け継いで,この山と庭を発展させていきたいところです.

そう言えば,こういう感じで建物や敷地を発展させていくコンピューターゲームがあるかと思いますが,それよりよっぽど楽しいですね.
私も実家に帰る楽しみの一つになっています.