2015年3月26日木曜日

高校で得てほしいこと

前回は私の母校・黄柳野高校の宣伝のような文章でしたので,今回はそこで省略していた話をしたいと思います.
今月で高校を卒業する生徒,来月から大学生になる学生もいることでしょう.例えそうした皆さんであっても「高校で学ぶべきこと」を伝えておきたいのです.
つまりそれは「高校を出た者が頭の片隅に置いといてほしいこと」です.

前回の記事では,私の母校・黄柳野高校で学べることはこれだ,ということで以下のようにまとめました.
自分にとって都合の良い事は,必ずしも他者にとって都合の良い事ではない.ということを実生活を通してその身に刻むこと.そして,「ルール」や「権利」といった建前論を振りかざした生活では八方塞がりになっていく「実生活」の中において,それでも自分が自由になるにはどうすれば良いのか?
ですが,これは実のところ「学校」という場であればどんな学校でも学ぶべきことです.それは小学校であっても,中学,高校であっても同様です.
ただ,ここ最近の学校現場の話を聞いておりますと,上記のことが学びにくくなっているのではないか,そういう危惧があります.
※それだけに,現在の日本に黄柳野高校の存在価値は高いというのが前回の記事.

これをもうちょっと普遍的な形で言うと,学校ではある一定のルールのもとで勉強させ,自分達(生徒)に権利があることを謳いはします.しかし,こうしたルールや権利というのは必ずしも自分達にとってポジティブに機能するわけではなく,結局は他者との折り合いをつける中において用いる手段であり,道具なのだということを学ぶのが学校ということです.

「なぜ法律のとおりに事が進まないんだ」とか,「私には権利があるはずだ」という訴えをよく耳にしますが,そうしたことをあまり主張し過ぎる人のことをこの社会では何と呼ぶかというと,それは「ガキ」であり「子供」です.
これはルールや権利に価値が無いと言っているわけではありません.そうした画一的なモノの見方を改めさせることが,少なくともこの国の学校が成すべき仕事だと思うのです.こうしたガキや子供を大人にするのが学校の重要な使命の一つではないでしょうか.

“学力の向上” という知識の伝達も重要な学校の役割ではありますが,それは家庭教師や塾でも十分機能するでしょう.学校はそれだけのためにあるわけではない,つまりは,学校の存在価値は上記のようなことを学ばせるところにあると思うのです.

このような「世の中の不思議」に興味をもった学生は,いよいよ大学で学ぶべきなのです.
自然の脅威に興味を持ったなら自然科学を,社会の複雑さに興味を持ったのなら社会学を専攻することになります.
大学で効果的な勉強をしてもらうためには,物事は多面的で矛盾がたくさんあるものだ,という態度と姿勢であることが大事になってくるのです.

つまり,「学校では国民として必要十分な知識や技能を身につけるため,校則(拘束)がかかった状態で「常識的なモノ」を勉強してきてもらったが,実はそうした「常識的なモノ」というのは真理ではなく,常に疑ってかからなければいけないものであるため,今後はそれを疑うための「モノの考え方」,真理を探求するための「モノの考え方」を身につけてもらう」というのが大学教育なのです.
「教科書を信じるのが学校,教科書を疑うのが大学」と言ってもいいでしょう.

そうすると「だから大学は就職予備校になってはいけないのだ」とか,「教科書を信じたままエリートや知識人になることほど社会に害を成すことはない」という話をしたくなってしまいますが,今回はそれは省きます.本文末に関連記事を置いていますので,そちらをご参照ください.

前回の記事で引用した福田恆存 著『人間・この劇的なるもの』の文章を,もう一度以下に示します.学校教育を考える上で重要な示唆を含んでいるからです.
真の意味における自由とは,全体の中にあって,適切な位置を占める能力のことである.全体を否定する個性に自由はない.
多くの人は「自由」が好きです.最近(昔からだろうけど)の学校では自由を謳うことも多くなりました.
ですが,この自由は疑ってかからなければなりません.

そもそも “子供が思いつくような自由” など存在しないという態度でかからなければいけないように思います.それが学校の,そして教師の務めかもしれません.
そのことを教えるのは家庭では難しいかもしれないからです.自由を阻害する他者としての要素が強い教師であるからこそ,その役回りができるのかもしれません.

自由を阻害するのは教師だけではないでしょう.クラスの同級生,先輩・後輩,事務員などなど,そうした自由を阻害する他者を設定できる空間が学校なのです.
子供が様々な「他者」と関わる機会が減ってきていると言われる現在,学校が果たすべき役割は大きくなっていると言えるのではないでしょうか.

その役割とはつまり,誤解を恐れずに言えば「生徒の自由を阻害する」という役割です.
そして,教師に求められる技能とは「自由が阻害された中において,それでもその生徒が自由を得るための力」をトレーニングさせることではないかと思うのです.
それが福田の言う「適切な位置を占める能力」なのかもしれません.

以前,ある人(教員志望の人)が私に尋ねてきたことがあります.
「人は努力しても報われるわけではない.これを子供に教えることはダメなんでしょうか?」
重要なことだから教えるべきだと答えました.当然,どのように教えるのかという伝え方の問題になるでしょうが,これは決して悪い教育ではないと思います.
むしろ,人は努力すれば報われるということを本気で信じる人が大量発生することほど地獄な社会はありません.

さらに福田は言います(『人間の生き方,ものの考え方』より).
自分が何かをやりたいと思うとき,それを邪魔するもの,つまり壁は必ずあります.規則も壁であり,いわゆる交通道徳のようなものも壁であります.すべて壁ならざるはないのです.―中略― その時,私たちはいろいろな工夫をして壁の向うへ行こうという努力をする.それが一種の積極的な自由なのですが,今の人びとは,壁のない状態を作るのが自由だと考えているのではないでしょうか.
そのようなわけで,現在の教育機関,こと学校は自由になりましたが,かえって生徒の自由はなくなっているという危惧があります.
学校は,生徒に “自分が全体の中のどこに位置していて,どのように振る舞うことが適切なのか” ということを学ばせ,“そしてそれこそが実は自身の自由を得ることにつながるのだ” ということを,その時には自覚できないにしても,その身に刻ませることが大事なのではないかと思うのです.


関連記事
※今回の記事と少しくらいは関係しそうな話題を扱った過去記事の一覧です.お時間があればどうぞ.

大学教育についてはこちら↓

2015年3月23日月曜日

黄柳野高校で得られること,黄柳野高校が求める生徒

黄柳野高等学校というのは,愛知県新城市(旧鳳来町)にある私立高校です.
主に中学・高校において「問題を抱える生徒」を多数入学させることで一時期は知名度がありました(その認識は間違いだけど).
ですが最近は少子高齢の影響を受け,大抵の高校が少しくらいの「問題」を抱える生徒であれば入学させるようになっていることと,通信制や専修学校に通う道を選ぶことが増えたためその特殊性が薄れつつあるのが現状でしょうか.

先日,故あって教職員やかつての学友,その保護者の方々と会う機会がありましたので,そこで懐かしい話や黄柳野高校の今後の在り方などを語ってきた次第です.
今日はその黄柳野高等学校の存在意義についての話です.

これまでにも,本ブログの記事として取り扱ったことがあります.
喫煙ルーム(黄柳野高校のこと)
お便りにお答えしたもの

ここ数年は世間を騒がせるニュースが立て続けに発生したので「あぁ,あの高校かぁ」と思い出す人もいるかもしれません.
卒業生である私としては,「よくもまぁ内部の事情に配慮せず,しかも教育問題を合理的に考えてしまえるもんだなぁ」と,当時は怒りを覚えました(今は憐憫の情を覚えています).

ですが今日は私の不平不満を語るのではなく,問題を抱える生徒に携わる中学校・高校の先生や,その保護者の方々に向けた記事とします.
別にこの高校の宣伝をしたいわけじゃないんですが,黄柳野高校に代表される「問題を抱える生徒を受け入れる高校」を探している人にとっては,一つの参考になるのではないかと思うのです.

基本情報として,黄柳野高等学校ホームページは↓
http://www.tsugeno.ac.jp(黄柳野高等学校HP)
ウィキペディアは→:黄柳野高等学校

1)荒れているか?
上述した記事でも紹介していますが,「荒れた高校」かどうかを心配する人もいるかもしれません.特に送り出す保護者としては最重要チェックポイントでしょう.

全くもって問題が発生しないとは言いませんが,荒れてはいません.
何をもって荒れているかという話でもありますが,黄柳野を「荒れている」と言い出したら,日本全国の半数近い高校が荒れていると見做せるかもしれません.
皆さんが「優良」だと思っている高校にしたって,生徒事情を聞けば黄柳野なんてかわいいと思える話は山ほどあります.

全寮制の高校ですので「高校生活=日常生活」です.日常生活において問題が発生しない高校生などいませんよね.必然的に問題の絶対量は増えるのですから,そういう目で見てもらう必要があります.
と同時に,こうした「全寮制」という場において必然的に発生する問題に直面したとき,どのように対処するのかを学ぶのが黄柳野高等学校の価値の一つです.詳細は後述します.

2)寮生活は大変じゃないのか?
もちろん楽ではありません.
保護者の中には寮を学校から切り離されたサービス空間だと思っている人もいますが,それは期待しないでほしいものです.
前述したように,むしろ「寮生活」を通した問題解決能力を養うことが黄柳野の存在意義だと言っても良いでしょう.

ヤンキーみたいな生徒やオタクみたいな生徒もいますので,そんな彼ら/彼女らとどのように折り合いをつけていくかが共同生活においては重要な方略になってきます.
一般的な高校の寮であれば「ルールに従って生活すること」を求められますが,黄柳野の寮生活では「折り合いをつけて生活すること」が求められます.

酸いも甘いも噛み分け,成熟した大人の方であれば分かってくれると思いますが,人間というのはルールに従って生活することなどできません.
「ルールに従って生活させる」ことは管理者としては楽ですが,それは人間の生活ではないですし,そうした生き方に馴化することはつまり,「人間」ではなくなることを意味します.

こうした(教育)哲学の詳細は割愛しますが,とりあえず今日ここで言いたいのは,黄柳野高校に入学した生徒が学ぶ最も重要なことは,
自分にとって都合の良い事は,必ずしも他者にとって都合の良い事ではない.ということを実生活を通してその身に刻むこと.そして,「ルール」や「権利」といった建前論を振りかざした生活では八方塞がりになっていく「実生活」の中において,それでも自分が自由になるにはどうすれば良いのか?
ということなのです.

これは「寮生活を通して,共同生活をする力が身についた」とか,「身勝手は良くない」とか,「結局は自分の生活が第一」などというペラい話ではありません.
ここんとこ,卒業生やその保護者の方々にしか実感できないのが残念ですが,それだけに非常に重要な黄柳野の存在意義です.
※それを書籍で学びたいという人は,福田恆存 著『人間・この劇的なるもの』をオススメします.→本記事の末尾に参考となる引用文を置いています.

3)どういう生徒であれば「やっていけそう」なのか?
これが結構大事です.
問題を抱える生徒の教員,その保護者からすれば,黄柳野高校をはじめとする「問題を抱える生徒を受け入れる高校」を経済的・市場的に比較して「どれが最もコストパフォーマンスが高いか?」などと考えてしまいます.
しかし,こういう態度ではその生徒や子供に適切な教育ができるとは言えません.

少なくとも黄柳野高校での学びを充実したものにするためには,生徒側にもその準備が求められます.
準備と言っても学力とか体力といったものではありません.
どこの誰とも知らない同年代の人間と共同生活をしようと,とにかく3年間かけて自分を成長させてみせる
という意志が,ちょっとでもいいからあるかどうかです.

とりあえず入学しておけば,あとはオートマチックに伸びていく,なんていう夢物語は期待しないほうがいいでしょう.
というか,それを言い出したら難関高校・優良高校と言われているところだって,「ただなんとなく」入学したという生徒が,「そんな高校に行かなければ,もっと良い人生があっただろうに」という顛末になる話は枚挙にいとまがありません.
その高校と生徒の意志が同調しているかどうかが重要なのは,黄柳野も一緒です.

4)学力は高まるのか?
黄柳野高校の「勉強」へのスタンスは,大学教育のそれと同じようなものを感じます.
実際,私を含め大学に進学した卒業生の多くが同じ感想を持っています.
(だから大学の勉強スタイルに親和する人が多いように思う)

もったいぶった話し方になったかもしれませんが,つまりは「自分で勉強する」ことが重視されるので,自分から積極的に勉強しなければ学力は高まらないことになります.
黄柳野の平均的な学力偏差値が低いというのは嘘ではありません.

しかし,ここで言う「学力」というのは,いわゆる「テキストの内容」という意味です.
例えば,通信制の高校ではテキストの内容を(もしかすると一般的な高校生よりしっかりと)勉強することができるかもしれませんが,残念なことにその評判は芳しくないことはご案内の方も多いかと思います.

黄柳野の卒業生の保護者の方々が口を揃えて言うことに,「人と人とが向き合って,悩み合うなかに重要な学びがある.そうしたことが稀薄になる通信制ではダメだった」というものがあります.
もちろん,通信制の高校の方式を批判するつもりはありません.通信制には通信制の良さと活き方があるはずだからです.

ですが,はっきり言って日本で最も濃密な人間関係を構築してしまうことになる黄柳野高校と通信制を比較してどうこう言うのは不適切でしょう.「教室以外のところにも重要な学びがある」ということに賛同してもらえるなら,黄柳野高校で学ぶという選択はアリだと思いますよ.
ちょっと仰々しいかもしれませんが,黄柳野で習得させている学力とは「卒業後も学んでいこうとする姿勢や態度」であると言えます.期末や卒業時に計量化できる学力ではないのです.
※これについては大学教育にも同じこと言えるはずでして,それを記事にしたのが先日の,
大学教育の質が低下している?
です.そちらも参照ください.

5)食事
食事について心配する生徒や保護者は意外と多いものです.
東京周辺のメシの不味さに辟易している私ですが,
(詳細は■続・東京人と中国人はよく似ているを御覧ください)
そんな私でも食事に困ったことはありませんでした.

むしろ,この地域の味付けが私にとって第二の故郷の味になったと思います.今でもたまに名古屋や豊橋に降りた時には地元の味を出す店に入るようにしています.
先日,高校の先輩と池袋で飲んだ時なんかにも,店を「世界の山ちゃん」にするくらい,我々にとって尾張・三河の味は特別な味です.

6)特徴的な所在地と授業
その他に黄柳野ならではの特色をいくつか.
黄柳野高校はグーグルマップで見ていただければ分かるように,完全なる「山の中」にあります.
(近いうちに新東名高速道路の「新城インター」ができてアクセスは良くなる予定)
最寄りの大きめの街である新城駅周辺に行くことを,在校生は「下界に降りる」と言うくらいです.

そんなわけで,黄柳野では農業や林業に関する体験授業が豊富です.
実家が農業・林業である私にとっては目新しいものではありませんでしたが,多くの生徒には新鮮に映ることと思います.
当然,いやいや参加する生徒もたくさんいます.農業や林業は楽しいものではありませんからね.ですが,農業や林業といった仕事がどのようなものなのか,それをその身で体験しておくことは国民にとって重要なことだと思います.これも卒業後に活きてくる事の一つでしょう.

7)気になるようであれば・・・
この高校が気になるようであれば,まずは資料請求や見学に行くことをオススメします.
実際にその目で確かめ,教職員の方々と話してみることです.

(この私のブログ記事も含むのだろうが)ネット情報というのは物事の一側面しか映していないものです.
たまに黄柳野高校に関するネット情報を見ることがありますが,やはりその視点というのは高校教育というものを難関高校・優良高校を頂点とするヒエラルキーとして捉えているところが大きいのです.
ですから,そうした高校において「できている事」が,どれだけ比較対象校においては「できていないか」という観点で論じられます.
バカバカしいことです.(といって話し始めると長くなるので,今日は避けます)

この高校の教育方針と生徒の意志が調和するならば,チャレンジしてみる価値はあるでしょう.
途中でも述べましたが,この高校には「ここに通って成長するぞ」という意志がある生徒にとっては大きなポテンシャルがありますし,そういう生徒にこそ価値ある学校だと思うのです.


関連記事
※今回の記事と少しくらいは関係しそうな話題を扱った過去記事の一覧です.お時間があればどうぞ.
喫煙ルーム(黄柳野高校のこと)
お便りにお答えしたもの
子供のコミュニケーション能力は社会の鏡
学校教育対談
続・女性の成功
大学教育の質が低下している?


真の意味における自由とは,全体の中にあって,適切な位置を占める能力のことである.全体を否定する個性に自由はない.すでに在る全体を否定し,これを自分につごうのいいように組織しなおすことは,部分たる個人のよくなしうることではない.たとえ頭数をそろえようと,それは不可能なことだ.だが,今日,ひとびとは,それが容易であるかのごとき錯覚をいだいている.組織ということばが流行するゆえんである.
福田恆存『人間・この劇的なるもの』

2015年3月15日日曜日

井戸端スポーツ会議 part 15「ドーピングを求める大学,あと日本も」

本ブログの記事,「危ない大学シリーズ」でも少し触れていることですが,経営難に陥った大学というのは体育会系のクラブ活動に焦点を当てて学生募集を狙います.

つい最近まで「スポーツ」の名をつけた学部学科が流行っていました.その理由のほとんどが学生募集に有利だったからです.
「高校生活でスポーツに一生懸命取り組んだ生徒を優遇する.勉強に打ち込んだ生徒と同様,スポーツに打ち込んだ生徒には何かしらの魅力があるはずだ」
などという理由をつけて,
「しかも,体育・スポーツ系の学生は社会・企業からの評判も良い」
という出口(卒業時のスペックのこと)の強さもアピールしながら,スポーツ系の学部学科は増加の一途をたどりました.
最近は流行らなくなりましたけどね.

ですが,特に経営難の大学においてはスポーツ系の学部学科,乃至,(誤解を恐れずに言えば)クラブ活動をするために入学してもらう学生は,未だ重要な資金源としての価値を持っています.

業界用語でいう「スポーツの学生」は,きちんと育てれば大化けすることが多いのですが,残念なことに経営難の大学,なかでも「危ない大学」におきましては,アカデミックな水と肥料を使って育てようという気概が弱く,逆にビジネスライクで自己啓発的な指導で誤魔化そうとするため悲しい結果を招くことが多々あります.

私はかつて,「スポーツの学生」に “経営手段として” 頼ろうとする姿勢を強める大学に箴言したことがあります.
「むやみにスポーツの学生に頼ろうとするのは,大学にとってはドーピングみたいなものですよ」(立場上,箴言になってなかったと思いますけど)

もちろん反論されました.
「いやいや,(私)先生,そんなこと言ったら先生の仕事無くすようなもんですよ」
と言われましたが,こういう状態になっていたらその大学は末期です.

なぜスポーツの学生を入れることが大学にとって「ドーピング」なのか?
ドーピングというのは短期間や即時的に著しく体力や心理状態を向上させ,スポーツの競技力を高めようとするものであり,その副作用として健康への害があることはご存知かと思います.
短期的には恩恵があっても,長期的には有害であるもの.むやみに用いれば,その個体を崩壊させることになるものです.

これについて現在の少なくない大学は,学生数という体力を求めてスポーツの学生(に限らないが)というドーピングを飲みまくっている.そんな状態なのです.

スポーツの学生を募集すると,たしかに短期的には人が集まるので経営も安定します.
しかし,多くの場合「スポーツの学生」というのは学力が低く,入学時の勉強へのモチベーションも弱いことは周知のことと思います.
したがって,甘やかさず根気強く育てないと大学らしい勉強を一切しないものですから,大学で身に付けるべき力を何も修めずに卒業していくことが多くなってしまいます.

するとどうなるかというと,「あの大学の卒業生はレベルが低い」という世間からの評判ならまだしも,そうした卒業生が「就活には役立ったけど・・」という感想を持って終わる可能性が高くなるわけです.
就活のためであれば,わざわざ “その大学” に入学する必要はなかったことになります.他に就活に有利な大学は山ほどある,という認識のままで居ることになるのです.
つまり,その卒業生は大学で学ぶべき重要な事を学んでいないことにより,大学というものを「社会に出るためのブースター・ロケット」と見做したまま社会に出ていることになります.

結論を急ぎますと,そんなことをしている大学は結局,大学の評判として実は最重要である「卒業生からの評判」,および「卒業生の帰属意識」,抽象的に言えば「卒業生からの信頼」を失い続けることになってしまうのです.
卒業生に,「あの大学でなければ学び得なかった人生における重大な事を,私は享受できたんだ」という想いを持ってもらえなければ,その大学の価値というのは高まらないのです.

価値が高まらないのですから大学としての魅力も落ちていきます.魅力のない大学は入学希望者数も落ちていきます.
彼らが「お客様」と見做している高校生や保護者,そして在学生をターゲットにしたマーケティングをすればするほどに,こうした大学の価値や魅力は落ちていくのです.
学生募集として効率的な戦略だと思ってやっていることが,実は自分達の首を締めていることになっているわけですよ.

「いや,我々の大学は広報活動に力を入れて躍進したぞ」と言いたい大学もあるでしょう.特に有名大学にはそう言いたい担当者が多いかもしれません.
ですが,それは元々有名な大学同士の中での話です.別に広報活動をしようがしまいが,元々魅力があって確固たる入学希望者数を持っている大学というのは,たとえ広報活動に力を入れなかったとしても,翌年の定員割れを心配するようなことはありません.

現実を見てください.昨今の大学改革とか,それに伴う活発な広報戦略とやらを十数年に渡って行なってきた結果,どうなったでしょうか.
多くの人びとに「実は難関大学の◯大よりも,偏差値の低い◯大学の方が魅力的だったんだな」という思いを抱かせることがあったでしょうか?
ありません.
むしろ,こうしたビジネスライクな大学改革や,高校生と現役生の評判を重視する大学経営によってもたらされたのは,さらなる大学間格差です.

いい加減その事に気づいても良さそうなものですが,残念なことに教育問題を重大なこととして受け止める国民は少ないので,「競争原理」というオートマチックな淘汰システムの導入で事が済むと思って無視されています.
※この点についての細かい話は,過去記事である,
危ない大学に奉職してしまったとき「本気の高校訪問対策」
をご覧ください.

ここで問題にしたいのは,上記をまとめれば,
「優れた大学,魅力的な大学とは,“人が集まっているかどうか” である」という認識.
つまり,「数を揃えること」という非常に一元的で,市場原理的な判断基準による評価で論じられており,さらにやっかいなのは,それが大学の存在意義からして大間違いであるにもかかわらず,その基準で大学運営が展開されていることです.
ここで話を最初に戻すと,つまり,大学にとっての「体力」というのは学生数だ.そう考えて経営しているわけです.

しかし,一度ここでスポーツに目を向けて論じてみますと,人間というのは「体力」が優れるからといってパフォーマンスも優れるわけではない,という理論があります.
もちろん体力はないよりあったほうが良いわけで,無くても良いと言いたいわけではありません.
ですが,総合的なパフォーマンスというのは,「体力」を含むヒトのさまざまな能力を絶妙な加減やタイミングとしてコーディネートさせ生み出すものです.

これまでの体育・スポーツ科学では,スポーツ選手の競技力を高めるために「体力トレーニング」というのが流行っていましたが,最近ではこうした背景もあって “体力をトレーニングすることの意義” が問い直されています.
複雑な話なので端折ってしまいますが,ようするに,むやみやたらと計量・定量できる変数ばかり追い求めても,結局のところ,追い求めていたはずのパフォーマンスを高めることにはなっていない場合が非常に多い,ということです.

競技パフォーマンスの向上を目指してウエイトトレーニングに打ち込んでいた選手が,本来求めていた競技パフォーマンスをそっちのけにして,ひたすら筋肥大や筋力アップに勤しむようになってしまい,後になって「こんなに体つきが変わったのに,なぜ肝心の競技力が上がっていないんだ」と嘆く話はよくあります.
※サッカー日本代表を例にした過去記事がこちら↓
■ 井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」

これと同じ状況が今の大学で起こっているのではないか.しかも,少なくない大学ではドーピングにまで手を出しており,(ドーピングするだけならまだ許せるが)大学としてのパフォーマンスアップには打ち込んでいない.ということです.

このようなドーピングと身体にまつわることというのは,大学だけでなく昨今の日本にも同じことが言えるのではないかと思います.
似たような話がありますよね.
外国人労働者,移民問題です.

上述してきたことが,そっくりそのまま今の日本人の思考パターンになっている恐れがあります.
労働力を「数字」で計量・定量できるものと考え,今は労働者数が不足している.不足を補うために移民を入れる.仕方ないけど解決策はこれ以外にないでしょ?・・・ということですよね.
つまり,日本人の多くが「労働問題というのは数字を操作しさえすれば解決するものである.乃至,数字を操作することが解決策だ」と考えていることを示唆しているわけです.

ですが,労働力もスポーツの競技力と同様,何か単一の「数字」を高めたとしてもその最終的なパフォーマンスが高まるわけではありません.
技能,熟練度,人間関係,連帯感,精神衛生などなど,そういった諸々のものが絶妙な加減で最適化されることで生み出されるのが優れた労働力と言えるでしょう.

逆に,むやみやたらと人数だけ揃えたところで,労働パフォーマンスは高まらない.そう考えるのが自然ではないですか.
体格に恵まれない野球のバッターが,その短所を補うために機動力や小技で勝負するように,人口が少ないなら少ないなりに,その状況で最大限の国力を発揮するよう「国」という身体をコーディネートすることが本質的な改善策のはずです.

移民というドーピングは,一度飲んだら最後,ジワジワとその体を蝕んでいくことになるでしょう.そして,その後の日本がずっと引きずることになる後遺症を残す可能性が高いのです.

話が飛び飛びしましたが,ようは,「我々はどのように生きていきたいのか?」という問題をちゃんと考えながら論じなければいけないという,なんとも普通な話なのです.
大学の存在意義とは何か?
日本人にとっての労働とは何か?
そこをおさえれば,答えは自ずと出てくるはずなのですが.


関連記事
大学教育の在り方を示したヤスパースとオルテガの書籍を取り上げ紹介しています↓
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大学について2

井戸端スポーツ会議
■ 井戸端スポーツ会議 part 1「プロ野球16球団構想から」
■ 井戸端スポーツ会議 part 2「スポーツ庁の必要性」
■ 井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」
■ 井戸端スポーツ会議 part 4「自転車は車道を走らないほうが安全だろう」
井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」
井戸端スポーツ会議 part 6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」
井戸端スポーツ会議 part 7「ジュニア世代の育成」
井戸端スポーツ会議 part 8「スポーツ観戦のような政治観戦」
井戸端スポーツ会議 part 9「スポーツ分析のような選挙分析」
井戸端スポーツ会議 part 10「スポーツをすると勉強ができるようになる」
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は身体を通して理解する」
井戸端スポーツ会議 part 12「なぜ障害者スポーツへの関心が低いのか」
井戸端スポーツ会議 part 13「私が嫌いなら見なければいい」
井戸端スポーツ会議 part 14「スポーツと資本論」

2015年3月12日木曜日

続・東京人と中国人はよく似ている

タイトルは「続」ということにしておきましたが,中国人については触れないかもしれません.
前回の,
東京人と中国人はよく似ている
を書いてから後,例の先輩教員と本件について再度議論することがありましたので,そこで出た話題を追記をしておこうと思ったからです.
まあ,そんなに長く書きませんので暇だったら読んでいってください.

東京とその周辺(以降,「東京」とする)の食文化についてです.
きっとこれは地方出身者は首肯してくれるはず.

いきなり喧嘩をふっかけるようで悪いのですが,ぶっちゃけて言えば東京の食事は美味しくありません.やや不味いと言ってよいでしょう.
ところがその一方で,東京名物の一つに「行列のできる飲食店」というものがあります.
このような飲食店における行列現象と矛盾するのではないかと思われるかもしれませんが,私は以下のように捉えております.
「特定の飲食店に行列ができるほど,東京の平均的な飲食店は美味しくないからだ」
ということです.

「飲食店にとって激戦区である東京では,平均的な飲食店のレベルも高まるのでは?」
という意見もあるでしょうが,私が考えるに,東京は人口密度が高いため,そんなに味を良くしなくても客が入りやすいというアドバンテージがあると睨んでいます.
味が良くなくても客が入りやすい,固定客が多くなくてもある程度やっていける土壌があるということです.

さらに言うなら,これは東京の方々は激怒するかもしれませんが,少なくない東京人の舌のレベルが低い,ということが言えます(皆とは言っていませんよ).

こちらに移り住んで,「行列のできる飲食店」というものに興味があったので,ここ2年間にいくつか廻ってみました.
そこで食した感想は,率直に言って「・・・,ま,並ぶほどじゃないな」というものです.

たしかに他の店とは異なる味を出しています.とても新鮮な味わいです.
が,それ以上のものが見当たらないのです.

そこから以下のことが考えられます.
まず,東京には元来,それほど美味しい店がないことから,ちょっとでも味が良い店であればそこに集中する.この要因はかなり大きいと思う.

そこからさらに言うと,普段それほど美味しい物を食べているわけじゃないから少なくない東京人の舌のレベルは低い.

そのくせ東京には美味しい店が絶対量としては多いもんだから,「東京にはメシが旨い店が多い」という勘違いが生まれる.

東京には旨いメシを出す店が多いんだという認識のもと,そういう店を渡り歩いて評論している気になっている東京人には「私ってグルメじゃーん」という意識が芽生えてしまう.

ところが残念なことに彼らの舌のレベルは低いので,何が本当に旨いものなのか,その評価がかなりいい加減になってくる.

よって,そんなレベルの舌を持つ彼らが高評価をつける料理の判断基準は「他とは異なる新鮮で分かりやすい味付け」ということになってきてしまう.これは同時に,他とは異なる新鮮で分かりやすい味を「美味しいのだ」と認識する味覚に拍車がかかることを意味する.

そんなわけで,低レベルの舌を持つ客を相手にする飲食店がとる方略としては,「奇抜な味付け」ということになる.奇抜な味付けをしさえすれば,短期的には行列のできる店としての地位を獲得できる確率が高いからである.

そうは言っても,東京にもちゃんとした舌の持ち主は一定量いるわけで,奇抜な味付けでは長期にわたって評価を得るのは難しい.ゆえに行列ができていた店は,あっという間に普通の店になっていき,ややもすれば3年くらいで閉店する.

そんなことの繰り返しなのだが,ここで哀しいのは少なくない東京人が,「次々と新しく美味しい店が出てくるから,この東京ではハイレベルな飲食店じゃないと生き残れないのだ」などとトンチンカンな自慢めいた論評がまかり通っている.
ちょっと考えれば「不味い店のくせに出店数が多いからでしょ」と思うのだが,なぜかアクロバティックに評論する.

・・・という感じです.

もちろん,途中でも書きましたが東京には美味しい店はたくさんありますよ.
それをちゃんと評価して通うお客さんもたくさんいるでしょう.

ですが,東京にはそれに負けず劣らず「新鮮で分かりやすい味付け」を好む人が多数います.新しい刺激を求めている,ということでしょうか.
新鮮で分かりやすい味付けを好む方々というのは,同じ食事を繰り返し食べ続けることに慣れていないか,そういうスタイルを蔑視しているかもしれません.

そんなもんだから,毎日通っても飽きないお店というのが少ないんですよ,この地域には.
あったとしても,かなりお値段の張るお店だったりします.
お値段そこそこ,それでいて飽きのこない店というのは,私の日々の動線のなかには無いのが無念です.※やや遠回りすれば,あるにはあるんですけどね,1件だけ.丸亀製麺です.

例えば,私の地元でちょっと有名になったものに「鍋焼きラーメン」というものがあります.
はっきり言って,そんなに絶品料理というわけではありません.なんで有名になったのか分からなかったのですが,でも,毎日食べても飽きない美味しさがあります.
考えてみますに,全国的に有名(というか東京で有名)になったのは,東京人の舌には鍋焼きラーメンが新鮮な味わいに感じたからでしょう.

おそらくですが,東京人が美味しいと評価する飲食店・料理に共通することとして,「自分で味をコントロールしない」というものがある気がするんです.
ともすれば,「料理人が作ったオリジナルの味を変えるのは粋じゃない」とか,「自分で味を変えるのは邪道.それはその料理が不味い証拠」と考えているところがあるように思います.

一方で,「毎日食べても飽きない」というところに美味しさの価値をおいているのが地方の飲食店なのかもしれません.
そうなると,ベースとなる料理をもとに,それを客が好きなように味わえるような仕組みにすることが考えられます.
ご存知かと思いますが,上述した丸亀製麺(あれは香川のうどんの出し方)とか鍋焼きラーメンもそういう店ですし,その他,私が以前住んでいた東京以外の地域ではそういう料理を出す店が多かったように思います.
地方では客の分母となる人口が少ないので,固定客を作れなければ終了です.ゆえに,その客が何度も足を運びたくなる味付け,店構えにすることが戦略上重要になってきますから.

なんだかよく分からない味付けをして気を引くより,何度も足を運びたくなるような料理を出してもらいたいのですが,そもそも客の側に毎日食べても飽きない料理とか馴染みの店というものに価値を見出してもらわないと望めない話ですからね.

2015年3月7日土曜日

東京人と中国人はよく似ている

先日,タイトルにあるような話を関西在住の先輩教員とフェイスタイムでしておりました.「東京人って中国人みたいですよね」って.
私自身,2年前から関東に移り住んできて,当初から感じていたことです.
以後,盆正月の帰省後や地方出張から帰ってくる度,東京(品川)駅や羽田に降りる度にいつも感じていることです.「あぁ,ここは中国に似ているなぁ」って.

東京人と中国人はよく似ている.もっと言うなら,東京という地域と中国はよく似ている,と思うんです.
現在の風潮からして,こんなこと言うと東京の人達の心証が悪くなってはいけないので,「別に東京人だけじゃないんですよ」ということでもうちょっと広げて言いますと,少なくとも「大阪市内の人たちと東京人は,中国人とよく似ている」というところでしょうか.

雑談・談笑ではありましたが,我々としてはかなり確信ある話でして,しかも,
昨今,中国を不自然に蔑視する風潮が強いことと,「日本らしさ」を 不自然に前面に出そうとする風潮が強いと感じておりましたので,
それに一石を投じる意味でブログ記事にしてみようと思った次第です.
別に中国擁護や関東批判を目的としているわけじゃないです.

で,せっかくなのでこのテーマについて論じられた(比較的まじめな)書籍はないかなぁ〜,と思って探してみたんです.
なんと,ありました.
與那覇潤 著『中国化する日本』.もしかすると移民とか領土,思想の侵略が進んで・・・,などという類の本じゃないかと心配していたのですが,どうやら我々の談笑のテーマと同じ方向性を持ったものだったので参考文献としてオススメしておきます.
(我々の居酒屋談義とはレベルの違う,きっちりした内容の本です)

その中国についてですが,私は何度か研修や引率などで中国に滞在した経験があります.今になって思い出してみると,学生の頃から中国人研究者と話していたり,中国との共同研究なんかもやってたなぁって,けっこう中国・中国人との接点は多いものです.
つい2年前までは,東京よりも中国の空気を吸っていた時間が圧倒的に長かったのです(幸いなことに呼吸器は無事です).

そんなこんなで,関東に移り住んできたのですが,そこで感じたのがこの地域の「中国濃度の高さ」です.
いえ,中国人の数が多いってことじゃないですよ.街の空気,人々が作り出す空気が中国のそれと同じだったんです.

なもんで,今回フェイスタイムでこの話をした先輩教員とも,2年前から「僕,この地域には馴染めないですよ.まんま中国ですもん」などと話しておりました.

そんなこと言うと東京人から怒られそうです.
「我々が中国人と似ているなんて,そんなわけねーだろ!」って.
ましてや保守・右派の人達だったら,その逆鱗に触れるかもしれませんね.

でも,やっぱり中国に似ているんですよ,この地域は.皆様には自覚が無いかもしれませんが,地方出身の日本人からすれば,東京人も中国人も同じです.

では東京と中国の何がどう一緒なのか? 地方出身者の居酒屋談義から導かれる「東京=中国理論」は以下のとおりです.
その前に,與那覇氏は著書で「中国的なものとは何か?」 について五大特徴として示しております.非常に参考になるのでどうぞ.

1)権威と権力の一致
例えば,会社で言えば社長や会長は名前だけの権威的存在であって,実際に権力を持って組織を動かしているのは部長や現場の技師長だというのが日本的ですが,中国的には権威を持っている人が権力を握ります.

2)政治と道徳の一体化
清水に魚棲まず.組織のトップや政治家はいろいろとオープンに出来ない話を持っているものだと考えるのが日本的ですが,中国的には聖人が政治をしなければいけないと考えます.

3)地位の一貫性の上昇
能力ある優れた人物だからと言って社会的地位も高くあるべきだとは考えないのが日本的ですが,中国的には能力が高いということは人格も倫理観も高いはずで,それゆえ社会的地位も高く高所得者になるべきだと考えます.

4)市場ベースの秩序
自由競争なんかしたらギスギスした商売敵ができるだけだから,談合・護送船団方式でやっていこうと考えるのが日本的ですが,中国的には市場原理主義こそが全てと考えます.

5)人間関係のネットワーク化
同じ会社や組織の関係,同じ地域住民との関係を重視するのが日本的ですが,中国的にはその仕事をする上で会社や組織を超えた個人的なコネクションを重視します.

これってまんま「グローバリズム」の特徴じゃないかと思うかもしれませんが,はい,その通りです.んで,東京人にはグローバリスト,すなわち中国人的な人が多いのです.
「あぁ,やっぱり東京人は中国人だ」と膝を打つ思いです(その根拠は直感と嗅覚です).
※なぜグローバリズムの一片が中国的なのか? その詳細は與那覇氏の書籍を御覧ください.

何か単一の尺度で物事の是非や優劣を測ろうとする/測れると思っている人.それが中国人であり,東京人なのです.
おまけに,何か単一の尺度が優れていれば,その他全ても優れているだろうと見做す人,それが中国人であり,東京人なのです.
彼らは選択と集中が正義です.集中させるためには「選択」しなければいけないのですが,その選択という作業を人間に可能だと考えているのです.
さらには「集中させるのは最大の効率性が得られる東京だろう」ということで,最初から答えありきの話をしようとします.

例えば,東京人はこんなことを言います.「地方は政治家と住民がズブズブで,もっと言えば土建屋や農家とも癒着していて,裏でいろいろな談合がされているから,もっとコンプライアンスを重視したクリーンでスマートな政治をするべきだ」とか.
まさに中国人みたいな発想です.
これについては,「いやいや,中国の政治こそ談合や癒着が横行していて・・」などと反論するかもしれませんが,そういうことではありません.これは建前の話です.
「政治には談合や癒着が横行するべきではないのだぁ〜」ってことを目指そうとすること.それこそが中国的なのです.

他にも,「我々は日本人だ!」っていう自覚は地方の人より高いくせに,その実,日本的な生活を一切かなぐり捨てて生きていることも共通しています.
つまり,一見,日本人(中国人)としてのアイデンティティは高そうなのですが,実は日本(中国)らしい人々ではない.ということです.

日本らしい/中国らしい,というよりも,日本とか中国といったモノが無い.つまり,そこで生活をしている「ヒト」でしかない方々が多いということです.

もちろん,なんちゃって「日本的生活」を取り入れている人達は多いものです.が,残念ながらそうしたものは,我々地方出身者の目には,その血肉となって馴染んでいるものには見えないのです.
さながら,建前のキャンバスに仮想の絵具で描かれたものに映ります.
これは保守・右派の方々(なのかなぁって見える人)ほど顕著で,とても痛く映ります.

つまり,「我々って日本人じゃん.だからこういう生活がいいじゃん」みたいなものです.
でも,普通に考えて「日本人だからこういう生活」をするのではなくて,「なんの意図も計画もない日常が,外から見たら日本的な生活になっている」という状態が馴染んでいる生活と言えるでしょう.
ところがそうではないんです,この関東という地域では.
普通に生活をしようとすると,日本的な生活ができない.
そんな中にあって,日本人らしく生きることなどできましょうか.

さらに哀しく滑稽なのが,「日本的な生活」が広報・売り物にされていることです.むしろこれは,日本的な生活がビジネスになるほど,この地域は「日本」ではないことの証左です
例えば正月.この地域では,住んでいるところの近くにある神社や道端の地蔵様に初詣として手を合わせに行くことはありません.
地方の者の感覚からすれば,初詣というのは家の近くにある社に手を合わせにいくのが筋です.
ところが,ここには莫大な数の人が住んでいるはずなのに,街角の小さな社を参拝する住民は極少数です.

代わりに何をしているのかというと,大きな神社・お寺に大挙して押し寄せるんです.
ディズニーランドかアイドルのコンサートみたいですね.
私はなにも明治神宮や浅草寺に行くなと言っているわけじゃありません.あなたが住んでるアパートの横にある社にまず手を合わせろ.それが日本的生活だ.そう申し述べているのです.
要するに,この地域の住民の多くには土着・分散その上での複合・統合という感覚は少ないわけです.

地方出身者が東京で「日本」を見つけることは困難でしょう.見つけたと思っても,作られた「日本的」であることが多いのです.

最後に,匂いです.比喩でなく本当に嗅覚です.
ずっと住み続けている人は感じることが出来ないことなんですが,匂いが中国とそっくりです.
「いや,私は東京人だけど,中国に行ったら酷い匂いだと感じたぞ」
という方もおられましょう.
ですが,それは悪臭漂うアパートの住民が,別の悪臭漂うアパートの友人のところに行って「おい,この部屋,臭いよ」って言うのと一緒です.

駅・電車内をはじめとして,人通りの多い整備されていない場所の匂いは中国を思い出させます(大阪市内も同様です.だから東京と大阪市内は一緒なんです).

もちろん,東京には匂いが少なく整備された場所もありますね.でも,それは中国も一緒ですよ.
中国に足を運んだことのある人はご存知でしょうけど,それなりに整備された場所もたくさんあります.日本よりもきれいなところも結構あるんです.保守・右派な人達からすると中国を貶したくなる気持ちが高すぎて,「中国はどこに行っても汚い」という話が大きくなる傾向にあるかと思いますが,落ち着いて眺めれば東京とどっこいどっこいです.

同じ匂いを吸い続けて生きていれば,そこに住む人々のキャラクターにも同様の影響があるのではないか.その匂いに適応できるということは,両者は同じ特徴を持つに至るのではないか.匂いと住民の質には相関があるのではないか.我々はそんな仮説を立ててみました.


というわけで,もっと言いたいことはあるのですがここまでにします.久しぶりの記事更新ということもあって長くなってしまいました.

ここまでずっと東京や東京人を貶してきた感じですが,別にこの地域が嫌いなわけではありません.途中でも述べましたが,大阪市内も同じですから.
もしかすると,人口過密になるとそこは中国的になるんじゃないかとも思っています.

要するにこの記事で言いたかったことというのは,この地域が(少なくとも私にとって)住み良い土地になってほしいなぁー,っていう期待を込めた記事なんです.多くの地方出身者が似たような感触を持っていると推察しているんですけど,どうでしょうか.

それに,文化的にも政治的にも大きな影響力を持っている地域であることは確かですから,ぜひともその他の地方に悪影響を及ぼさないよう気をつけてほしいと願う次第です.